木山がスポーツカーのアクセルを踏み、美琴たちの乗ったトラックとすれ違おうとしたその時だった。白井は窓の外に、とんでもない無茶をやる美琴の姿を見た。「お姉さま?!」「えっ?」「ちょっと、み、御坂さん?!」戸惑う佐天と初春をよそに、白井は窓を開け、身を乗り出す。呼吸が苦しいのか顔をしかめた美琴が、加速中のスポーツカーに追随していた。もちろん足で走ってのことなどではない。糸で繋いだタコのように、スポーツカーの斜め上に浮いているのだ。糸の正体は、美琴の生み出した磁力だった。「くっ、お姉さま! 無茶にも程があります!」白井は窓を前回にして、ほぼ半身を乗り出す。佐天は驚いて、白井の下半身に抱きついて支えた。「手を! もっと伸ばしてくださいまし!」無言、というか返事する余裕のない美琴に手を伸ばす。レベル5の面目躍如というか、力任せすぎる出力でスポーツカーとの距離を詰め、そして白井の伸ばした手に自らの手を重ねようとする。だが美琴の体を時速数十キロの乱流が上下左右に振るせいで、なかなか繋ぐことが出来ない。「ああもう!」相対速度がこれだけ近ければ問題ない。白井はそう判断して、シュン、と車内から姿を消した。そして美琴の隣に現れ、首根っこにしがみついた。「お姉さまっ」「黒子?!」「戻りますわ!」高速で走る車からのテレポート、そして空気抵抗で減速する前に帰還。それを一瞬で済ませ、黒子と美琴は後部座席に返り咲いた。どさっと背もたれにぶつかって、ほんの少しの減速分の運動量を補充する。「いたっ!」「ちょ、ちょっと白井さん。危ないですよ!」「何を仰いますの佐天さん。レベル4の空間転移能力者として、この程度は当然可能なことですわ」フッと白井はそう不敵に笑って、そして美琴へのスキンシップを再開した。「もう! お姉さまったら昨日の夜からどちらにお出かけしていましたの? 黒子はそれはそれは心配しましたのよ」「……ごめんね、黒子」「え? あ、はい。分かっていただければ……」素直な美琴の態度に、白井は面食らってしまった。「あの、それで何をしてらっっしゃいましたの?」「ちょっと、ね。この件の調べ物をしに木原幻生の研究所に忍び込んだんだけど、空振りでさ」美琴はそれ以上を語るつもりは無かった。そしてポケットの軽さに気づいて、美琴は携帯を忘れてきたことに気がついた。「携帯はあっちに置いてきちゃったか」「ああ、そういえば上条さんにお渡ししたままですわね。お姉さまの携帯とまだ、繋がってますけれど」「じゃそのままでいいわ。あのバカに、後で延滞料金つきで返しに持ってきなさいって言っといて」「はあ。あのバカさんに、ですのね?」「え?」「上条さんにそうお伝えしますわ」「うん。……?」何に白井が引っかかったのか、美琴は分からなかったらしい。迂闊なことだと思う。白井は、美琴のその不用意な一言で理解したのだった。美琴がこれまで何度も何度も呟いてきた「あのバカ」が一体誰なのかを。言われてみれば、なるほどという気はしないでもない。レベル0の癖にこんな厄介ごとに首を突っ込んで、無茶をやっているなんて、当麻は確かにバカそのものだろう。話した限り、いい人なのも分かる。そう悪い男性ではなさそうだ。でも、だから。上条当麻が少なくとも一ヶ月くらい前からは、婚后光子の彼氏であったというのは、美琴にとって可哀想な事実だった。電話の向こうに、光子と当麻が揃っていることは知っている。きっと美琴も、もう当麻には恋人がいることを知っているのだろう。そう思うと、不憫だった。勿論実際に美琴と当麻の間に特別な関係が進展していたなら、自分は猛烈に反対するのだろうが。「何? 黒子」「なんでもありませんわ。それで初春、この車なら追いつけますの?」「追いつくのは無理です。距離が離れすぎてますから。でも、行き先は分かりますから問題はそこじゃありません」いぶかしむ美琴をあしらいつつ白井が投げかけた質問に、前方の景色と手元の端末の映像とに忙しく視線を往復させながら、初春はそう返事する。問題は、追いつけないことではなくて、むしろ。「木山先生、春上さんたちを乗せるのにトラックって何台必要ですか」「二台もあれば事足りる」「……白井さん。追いかけてるトラックは、四台です。ちなみにさっきのトラックには、一台あたり三機のパワードスーツが積まれてました」「つまり、六機にいずれ襲撃される、と初春は言いたいんですのね」「はい」しばしの沈黙が、車内にエンジン音を響かせる。美琴がその懸念を、ハン、と鼻で笑った。「上等。邪魔するなら、退場してもらうだけね」「ですわね。で、あちらとの接触はどこになりそうですの?」「あっちがどう動くかによります。すぐにじゃないと思いますけど、正確なことはわかりません」「じゃあ皆でしっかり周りに注意してろってことだよね」「はい。木山先生は運転に集中してください」「ああ、分かっている」美琴が自分に手足を絡めた白井を強引にはがし、窓側に座る。空間転移能力者<テレポーター>の白井は何かがあっても自力で逃げられるし、こちらから手を出す際にも窓際にいる必要がない。美琴が、反対の窓側にいる佐天を見つめた。「御坂さん?」「何度かチラッと見ただけだけど。佐天さん、もう充分に戦力になるよね」「えっ?」そう言われるのが嬉しくて、佐天は思わず胸を高鳴らせた。レベルなんて勿論関係なくお付き合いしているが、美琴は、誰もが憧れるレベル5の人だから。「無理はしなくていい、ってか出来ないだろうけど。ノーマークの能力者がいるって、それだけで脅威だから」美琴も、そして風紀委員の白井もある意味有名人だ。その二人についてはあちらも警戒しているだろう。そこに空力使い<エアロハンド>が紛れ込むことは、決してマイナスではない。断片的に見た佐天の能力者としてのセンス、そして光子から伝え聞くそのポテンシャルの高さ。レベル3相当なら、少なくともかく乱には充分使える。「私、頑張ります!」佐天がそう宣言した直後だった。初春と木山が見つめる前方、高速道路が別の路線へ分岐するポイントで。「バリケード!?」「MARのマークが入っている! 封鎖でこちらの足止めか!」「御坂さん! あれ壊せますか?」ギヤに手を当てて木山が前方を睨む横で、初春が振り返って美琴に訪ねる。「止まらないと無理。コインのレールガンじゃ、あれは壊せない」「時間が、惜しいのに……」目前、あと200メートルに迫るバリケードは、赤い三角コーナーとプラスチックの棒で出来たような粗末なものではない。鋼鉄製の骨子が格子状に組まれ、トラックでも止められそうな頑丈なヤツだった。恐らくは鉄製であろうそれには美琴の磁力なら通じるから、至近距離に近づけばどうとでもなる。だが、ポケットの中のコインをどんなに加速したってどうこうできる質量ではなかった。バックミラー越しに首を振る美琴を見て、木山が悪態をついてブレーキに足を伸ばした。それを。「待って!」佐天が止めた。バリケードの張られたジャンクションまで、もう100メートルしかない。「あれ越えよう!」「佐天さん?! 私と黒子じゃ無理よ!」白井のテレポートはこの車を動かすだけの力はない。だからそれは美琴たちレベル4以上の二人には無理なこと。反射的に美琴はそう返したが、佐天の発した言葉は他力を願う響きではなかった。「大丈夫です! 私が飛ばします!」「佐天さん?!」初春が驚いた目で佐天を見つめる。「木山先生! スピード上げて! 時速150以上!」「……いけるのか?」「はい。無茶じゃありません。私の能力なら、できます」「わかった。君を信じよう」木山は納得するための時間を尽くすことを、脇に放り投げた。佐天がさっきの白井みたいに、初春のいる助手席に割り込んで、そして窓を開けて半身を乗り出す。「初春、支えててね! お尻触ってもいいから」「さ、佐天さん! こんな時に何言ってるんですか!!」「こんな時だからだよっ! ――――いくよっ!!」佐天は、突き出した左手に、ありったけの意識を集中する。この車が、スポーツカーでよかった。鈍重なトラックや風の流れに無頓着なファミリーカーなら、こんなマネは出来なかった。車高が低くて、車体と道路の隙間から空気が漏れにくいのがいい。美琴が車内から佐天の能力を見つめた。もちろん空力使いではない美琴に佐天のしていることは目に見えない。だが、その威力の大きさはすぐ実感することになった。ふっと、佐天が呼吸を止める。そして瞬時に能力は発動した。――空気の軋む音がやけに硬質で、ガツッという響きに近かった。「なっ?!」バリケードの直前で、木山は慌ててハンドルにカウンターを当てた。佐天のいる助手席側に、車が急に曲がっていったからだ。原理は野球の球が曲がるのと同じ。急激に佐天が気流を集めたことで気圧が下がり、車体の左右に生じた気圧差を埋めるように、車が引きずられたのだった。問題は、佐天の手のひらの、たった数センチの渦が車を動かすだけの出力を誇っていることだった。「先生! 絶対ブレーキ踏まないで!」「失敗すれば死ぬのは君だぞ!」バリケードは格子状だからしなやかだ。恐らく、車内の四人はぶつかっても生き残れる。だが半身を乗り出した佐天はどう足掻いても無理だった。そんな状況でも、佐天は一向に不安を抱いていなかった。だって、コレは、自分ならできることだから。賭けだとか、そんなのじゃない。渦流の紡ぎ手たる自分が、こんなことを出来るのは、ごく当たり前のことだ。「佐天さん……!」バリケードが迫る。もう、ブレーキを踏んだって衝突を回避は出来ない。初春が祈るように佐天の名前を呟く。「はああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」佐天が車のボンネットに、いや、その少し先に向かって、手のひらの上の何かを投げつける仕草をした。――直後。ブワッという鈍い音がして、木山のスポーツカーの鼻先が、バリケードの少し上まで持ち上がった。「きゃっ!」「佐天さん! 車! 落ちちゃう!」フロントウインドウ越しに見る外の世界がぐるんと移り変わって、綺麗な青空になる。タイヤが転がり摩擦から解放されて、ファァン!と甲高い音を立てて空回りする。そして幅跳びをする選手のように、スポーツカーは絶妙な高さでバリケードを越えた。そして車内で誰かが悲鳴を上げたそのとおりに、高さ1メートル50センチまで持ち上がった車が、上がった分だけ落ちはじめた。その時には、佐天はすでに次の渦を、手元に用意している。数は四つ。着地のほうが、佐天は不安だった。――――渦の同時生成はもうできる。けど、問題はその四つを独立に制御すること!乱暴に持ち上げ、そして突風にさらされたスポーツカーは、四つのタイヤを綺麗に地面に向けてはいない。真っ直ぐ落ちれば佐天の後ろの助手席側後輪が一番に落ちて衝撃を受けることになる。それでは、車が駄目になる。中の自分達だってきっと怪我をしてしまう。無事に目的地まで走ってもらうために、タイヤは同時に落とさないといけない。それはつまり、タイヤの下にクッションとして置く渦を、独立に操らないといけないということだ。佐天は目を凝らしタイヤと地面の位置を測る。そして五感で検知できない風の流れを読み取る。もうそれは、意識すらしなくても出来る。得られた情報を総動員して、いつ、どんな出力で渦を解放すべきか、決定する。佐天の演算能力は、実用レベルとされる水域に充分に達していた。「ふっ!」身を乗り出す。まずは左後輪。そこに置いた渦を、佐天は歯を食いしばって維持する。トンを越える重量の車重に耐えながら渦を保つのは、酷くコントロールを要求されることだった。そして、その間に残ったタイヤの下に三つの渦を配る。真っ先に落ちてきた左後輪の対角にある右前輪の渦だけ出力を落とす。多分、これで上手く行くはずだ。この出来なら、細工は流々、なんて言ってもいいだろう。「後は仕上げをご覧あれってね!」ぱちん、と佐天は心の中でトリガーを引いて、威力を丁寧に振り分けた渦を四つ、同時に破裂させた。衝撃は、まとめて一つ。スポーツカーは車体の傾きを直しながら、四つのタイヤで見事に接地を果たした。とはいえ高みから落ちた分の運動エネルギーを相殺するには、車のサスペンションに大きく頼ることになる。車が、グワングワンと揺れた。「わっ! これ、大丈夫!?」「オフロードを走ればこれくらいは優しい部類になる。大丈夫だ。やるじゃないか」「へへ。私、役に立てましたよね」「やりますわね、佐天さん」車内に戻ってバサバサになった髪を直す佐天を、初春は横目に見つめる。ちょっと置いていかれて悔しい感じはするけれど、眩しい笑顔が、格好よかった。佐天の努力を労うように笑みを浮かべ、すぐさま初春はディスプレイに目を落とした。自分の戦う場所は、ここだ。まだすべきことが終わったわけじゃない。遭遇するかもしれないパワードスーツの部隊との接触に備え、情報を集めることが必要だった。ステイルと光子が九機のパワードスーツの元へとたどり着くのと、あちらがスタンバイを済ませたのはほぼ同時だった。「早く準備をなさって」「人使いの荒いことだ。分かっているよ」ステイルは光子が文句を言うより先にすでに手を動かしていた。ルーンを刻んだカードが、意志を持ったように周囲の壁という壁に張り付いていく。パワードスーツの一団は、六機が高機動パッケージを装備し、残り三機がこちらの相手をする腹積もりらしい。もちろん光子は、一機たりとて逃がすつもりはない。「いつでもどうぞ」「ご苦労様ですわ」光子はステイルを労うと、まるで無警戒に、パワードスーツに近づいた。ここからさっさと立ち去り、当麻や美琴たちに迫ろうとしているほうの一機だった。そのパワードスーツは光子の行動の意図を読めなかったのだろう、警告すべきか、無視すべきか、戸惑いをその動きに反映させた。その間に光子は機体の足元にまで迫り、太もも辺りをコンコンと叩いて中の人間に声をかけた。「常盤台中学二年、婚后光子と申します。春上衿衣さんを誘拐した件についてお伺いしたいのですけれど?」慇懃に、光子は笑いかけてやる。当麻の目の前ではこんな底意地の悪い顔をしたことはないが、今は別だ。返答が、スピーカー越しの声で帰ってきた。「誘拐とは何のことだ? 我々は彼女を看ている救助隊の者だが」「その救助隊が一体どうして高速道路の往来でそんな物騒なものをお出しになっているの?」「言わなくてもそちらが知っているだろう。すまないが、話をする暇はない」「そう。強引に突破するというなら、お友達の皆さんを守るために、私達はあなた方を制圧します。正義がどちらにあるか、ちゃんと理解なさっていますわね?」「ああ。若さゆえの過ちというのは誰にでもある。幸い君の歳ならまだ前科もつかないだろう。後で社会の常識をきちんと学ぶといい」ステイルは先ほどから、このやり取りに興味がないのかそっぽを向いてタバコを吸っている。それが決して油断を意味しないことを、光子は分かっていた。流れてきたタバコの臭いが鬱陶しくて、軽く扇子で払った。……良くない傾向だ、と思う。ステイルといると、なんだか悪役<ヒール>めいた笑顔を浮かべたくなってくるのだった。あくまで楚々と、自分らしい仕草や身のこなしを徹底しながら、光子は瞳の中にだけ侮蔑を込めて呟く。「暴走能力者を利用して体晶の投与実験を行おうとするあなた方が、常識を語りますの? 本当、社会になじめないクズほど、臆面もなく開き直りますのね」クズ、という表現を光子は生まれてはじめて使った。自分の中の攻撃的な側面が、それでカチンとスイッチが入ったように動き始めたのが分かる。つい一ヶ月前までは純粋培養のお嬢様で荒事なんてまったく経験が無かった。だが、当麻と二人でインデックスを助けるために危険に身をさらし、そして今、戦うためのメンタリティというものを光子は身につけつつあった。暴力を振るうことは良くない、という金科玉条を抱いてきたこれまでの光子には考えられない変化だった。「……君は物知りだね。さて、我々は患者の安全を守るため、君達を排除する。抵抗しなければこちらも酷いことはしないよ」「それなりに面白い冗談だ。君の同僚が僕らの前で、秘密を知った人間は元の世界には帰さないって言った後だから尚更ね」ステイルがフィルター前まで吸いきったタバコを地面に捨てた。それが、合図になった。ギュアッ、とアクチュエーターの音を鳴らしながら、パワードスーツが光子に腕を伸ばす。今光子と話をしていたのとは別の、ここで光子たちの相手をする気の一台だ。「ステイルさん!」その相手を、光子はしない。一言ステイルの名を叫ぶと、光子の替わりに魔女狩りの王<イノケンティウス>がパワードスーツと力比べをする格好になった。「なっ!? クソ、貴様は発火能力者<パイロキネシスト>か」「さあ、それはどうだろうね」ステイルがそう嘯く。その隣で高機動パッケージを積んだチームが動き出した。「かなり遅れをとっているんだ。追いつけるうちにさっさと行くぞ」「させませんわ!」「退け。怪我をしたくないならな」「別にあなた方の進路に身をさらしたりなんてしませんわよ?」声色に嘲笑の響きを込め、光子はトントンと靴のつま先で地面を叩き、ローファの履き心地を確かめた。そして最後にもう一度、ステイルと視線を交わした。「ステイルさん、では、はじめましょうか」「手短にやろう」そんな短い一言を交わして、光子は扇子をぱたんと閉じた。そして先ほど迂闊にも光子に接触を許したパワードスーツに仕込んだ、風の噴出点を開放する。――――ゴウァッッッ!!!「うわっ! な、なんだ?! お、おおおおぉぉぉ!!」高機動パッケージを積んだ六機の先頭にいたパワードスーツが、突然自分の太ももから噴出した突風に、体の制御を失った。尻餅をつくようになすすべなく後ろにこけて、同僚を巻き込む。そして被害を拡大させながら、機体が使い物にならなくなるまで地面を転がった。一瞬の出来事ではなく、数秒間に渡って断続的に相手の体から自由を奪うのが光子の能力のいやらしいところだ。その隣で魔女狩りの王と取っ組み合いをしていた一機が装甲を溶かす熱量に怯えながら毒づいた。「クソッ、いい加減に離れろ!」「別に構わないよ。とりあえず離せ、魔女狩りの王」ステイルが新しいタバコを胸元から取り出しながら、鷹揚に応じた。突如として、魔女狩りの王はそのパワードスーツの前から消え去る。「何?!」驚いた声を出しながらも、目の前の恐怖が去ったことに、一瞬パワードスーツの仲の男は安堵を覚えた。だがその油断が、まさに余計。魔女狩りの王が突如として男の後ろに現れ、機体に抱きついた。ビービーと計器がエラーをがなりたて、男は一瞬にして混乱の渦に落ちていく。「ヒッ?! ああっ?! 嫌だ! 火が、火が! 誰か離してくれ! 背中に火が!」「脱出用の仕組みがあるんだろう? 別に君が死んでも僕は……ああ、今回は死なないでいてくれたほうがありがたいのか。おい、頑張って助かりなよ」いかなる存在であっても、学園都市の人間を殺すのは魔術師ステイルにとっては剣呑だ。インデックスを傷つけると明言した相手だから、ステイルの本心としては容赦の必要を感じない。それに、超能力者でないこの男達はどのように扱っても揉み消すのも無理ではない。だが各所に要らぬ貸しを作るのが面倒で、ステイルは情けをかけてやった。「クソ、おそらく連中はレベル4だ! アレを起動しろ!」「ステイルさん!」「分かっているよ」連中がキャパシティダウンを起動させようとしているのは、すぐに分かった。ステイルとてパワードスーツを相手に九対一は御免蒙りたいので、光子の指示に従う。キャパシティダウンは見た目はただの大型スピーカーだ。ハッチを開きっぱなしなので、それを積んでいるトラックは一目瞭然だった。魔女狩りの王は、ルーンで決めた領域の中なら顕現する場所を好きに決められる。パワードスーツ部隊の誰かがキャパシティダウンを鳴らすより先に、ステイルは魔女狩りの王をそのスピーカーに触れさせた。何も全てを破壊する必要なんてない。スピーカーの中心にある磁石に触れるだけでいい。それも溶かす必要すらない。磁性を失うキュリー温度以上に引き上げてやれば、それで事足りる。腕を広げた魔女狩りの王が、大型スピーカーで出来た壁に取りすがるように、体全体で触れた。それだけで、キャパシティダウンはその効力を完全に失った。「!? 音が! 鳴りません!」隊員の一人が叫ぶ。すかさず取り乱した隊員とは別の隊員が、ステイルに銃口を向けて檄を飛ばす。「あの赤髪が無防備だ!」「させませんわよ」光子はパワードスーツの連中の注意が自分から逸れたのを利用して、トンと地面を蹴って飛躍した。目の高さより上にあるものを人は中々認識しないものだ。上空2.5メートルを滑空し、光子はタンタンと二機の頭部を足で踏みつける。優雅なステップだったが、その足取りはスケートリンクの上の踊り子よりずっと速い。「馬鹿が! あのメスガキに触られるな!」「えっ?!」光子の能力発動のトリガーが接触であることに、隊員の一人が気づいた。だが察しの鈍かった二人はコレでリタイアだった。バシュゥゥゥゥッッッッ!!銃もその他装備も満足にあったのに、二機はそれを活用することなく、メチャクチャな縦回転をしながら吹き飛ぶ。「えええああああっっ?!」「なんだ?! おい、うわあああああ!!」特にカーブもない、ストレートな高速道路だから壁の高さも強度も無かった。二機はぐしゃんと透明のプラスチック壁に衝突し、それを壊しながら高架の下に落ちていった。学園都市の安全機構なら、アレでも死なない位のことはやってのけるだろう。だがマトモな受身は取れない。戦闘機動は取れなくなるだろうことにも、光子は確信があった。――――あと、五機。後ろを振り返ると、一般人が車を乗り捨て、走って逃げていた。焦ってUターンをしようとした車のせいで、車は身動きできない状況だった。だが混乱するのも無理はない。20メートル先でこんな大立ち回りを去れれば誰だって身の危険を感じるだろう。「余所見をするな!」ステイルのその叫びで光子はハッとなる。目の前には、ようやく反撃の体制を整えたパワードスーツが、こちらに銃口を向けていた。ステイルがいつの間にか光子の隣を駆けていた。目指す先は、誰かの乗り捨てた大型ワゴン。「バリケードを!」「分かりました!」魔女狩りの王が仕事を追えてステイルや光子とパワードスーツの間に顕現する。狙いを定めた敵からの射線をそれで塞ぎ、得られた一瞬で光子はワゴンの扉に触れて横に倒した。そして防壁の役目が済んですぐさま、魔女狩りの王を敵に襲い掛からせる。銃は照準を固定して使う武器だ。つまり、鈍重な魔女狩りの王にも狙わせやすい。光子たちを、あるいは魔女狩りの王そのものを狙う銃をひと握りで無力化し、戸惑うパワードスーツの背後を取って抱擁する。コレで四機。足の速いのはこのうち三機だった。形勢が決して良くないことを悟っているのだろう。仕事をこなすためにも、さっさと脱利しようという意図が見て取れた。「おい! 逃げられるぞ」「大丈夫ですわ。人を積んだ装置が出せる加速度なんて高が知れていますもの」射線とワゴンの間から、身を低くしつつ光子は人のいなくなった乗用車の間に走りこんだ。無人の車が並ぶそこは、光子にとっての弾頭置き場みたいなものだ。お決まりのデザインの軽トラックに、黒いセダン、赤のワンボックスカー。何処にでもある普通の車にトントントン、と手のひらを押し当てていく。エンジンが掛かっているかどうかなんて関係ない。ついでに言えば重さもほとんど関係ない。光子が集積した気体がゴウッと噴出し、車は本来の前方などお構いなしに、適当な方向と角度を向いてパワードスーツに飛び掛った。「え? ……うわぁ!!」リアルな3D映画みたいに、パワードスーツを着た隊員たちの目の前に乗用車が文字通り飛んでくる。高機動パッケージの加速よりもそれは速かった。当然だ。光子の能力によって実現できる最大速度は分子の平均速度そのもの、音速の1.3倍程度なのだ。パワードスーツといえども受け止められないだけの運動量を持った鉄塊が、装甲越しに隊員たちの体に衝突する。三機のうち二機が乗用車に跳ねられ、下敷きになった。残り一台も光子が進路を車で障害物だらけにしたせいで立ち往生した。「あっけないものですわね。この程度ですの?」「そういうのは勝ってからにするんだね……上だ!」「えっ?!」気がつくと、静かにパリパリパリと空気をはためかせる音がしていた。水平なプロペラを回転させて飛ぶ機体、軍用ヘリだ。光子はその音に気づいていなかった。ヘリが、こんなに静かにこちらに肉薄するとは思っていなかったのだ。「まずい! 早くアレを打ち落とすんだ!」「ええ!」光子は手ごろな弾を探して動こうとし、突然ステイルに腕をつかまれた。動こうとした先が、蜂の巣にされる。高機動パッケージを搭載した最後の一機と、本来光子たちを足止めするはずだった最後の一機、その二機のパワードスーツの援護射撃だった。ヘリとあわせて三方向から銃を向けられるのは不利だ。今いる、往来のど真ん中はまずい。「あちらに!」光子がステイルの腕を掴んで走り出した。無策に見えるその背中に一瞬ステイルは怯む。どう見ても、ガラ開きの背中を敵にさらすからだ。だが、感じた恐怖をかみ殺して光子の後を追う。ステイルは光子を信じた。きっと案があってのことだろうと、そう自分に言い聞かせる。すぐさま向きを整えたヘリがこちらに照準を合わせた。地上の二機もそれに習う。引き金が引かれるまでタイムラグは無かった。ザリザリリリリリリリッッッッガガガガガガガガガガガガッッッッ断続的な発砲音がステイルの後ろで鳴り響いた。緊張に背中がこわばる。だが、同時に聞こえた鋼鉄とアスファルトの奏でる不愉快な擦過音のせいか、ステイルに直撃は無かった。状況を知りたくて、後ろを振り向いた。「うわっ!」「何を驚いていますの! このトラックは私が制御しています!」ステイルのすぐ後ろを、横倒しになったMARのトラックが追いかけてきていた。轢かれるのかと心臓が不安を訴えたが、どうもスピードはこちらにあわせているらしい。これが光子のひらめきだった。逃げる先に弾除けがないから、弾除けを併走させればいい。数トンの質量を平気で操る人間の、まさに暴力的な発想だった。ドン、とステイルと光子は高速道路の壁にぶつかって体を止めた。追随したトラックがちょうど、二人の目の前で止まる。隙間は2メートルなかった。「このトラック以外の砲弾は取りにいけませんわね……」「これを空に飛ばせるかい?」「可能は可能です。でも、重力に逆らう方向には動きが遅いですから、避けられますわね」「つまり君に対空兵器はないと」「ええ。……ヘリが、問題ですわね」ヘリが二人の真上を取るために動き始めている。もう数秒しか安息の時間はない。じっくりと考えて策を練る暇は、なかった。すぐさまステイルが、光子に次の動きを提示した。「ヘリは僕が引き受ける」「えっ?! ……わかりました。では私が地上を」深くは聞かない。ステイルが出来ると言うなら、出来るというその言葉を信じるだけだ。光子は引き寄せたトラックにもう一度触れた。気体が集積していく。いつぞやの当麻とインデックスを飛ばしたときとは違う。ただ飛ばすだけだから、能力に衰えはない。このトラックを飛ばせば、地上のパワードスーツのうち一機は無力化できる。だが共倒れを危惧して離れている二機を、同時に落とすことは出来ない。こちらに銃を向け今か今かと待ち構えるもう一機を、光子は生身で倒すしかなかった。「合図で動こう。スリー、トゥ」「ワン、ふっ!」最後のワンカウントを光子に奪われ、ステイルはフンと笑った。辺りに撒かずに手元に残したカードを三枚、くしゃりと右手で潰す。「世界を構築する五大元素の一つ、偉大なる始まりの炎よ それは生命を育む恵みの光にして、邪悪を罰する裁きの光なり それは穏やかな幸福を満たすと同時、冷たき闇を滅する凍える不幸なり」自分に、あるいは世界に言い聞かせるように、ステイルは決まりの言葉を口にする。だが、ここからは違う。「その名は炎、その役は鉄槌 限りなき願いをもって、災厄の緒元をなぎ払わん魔女狩りの王は、ステイルが決めた世界でしか動くことが出来ない。だから例えば、空を飛びまわる相手を落とすことは出来なかった。かつて煮え湯を飲ませてくれた敵は不思議と今自分の隣にいるのだが、ステイルは足りないものを足りぬままに放置することは、しなかった。――――魔女狩りの王にして淫蕩と私欲の教皇、インノケンティウス八世。かの教皇がその生涯に残した、ヨーロッパ全土に激しく広がる魔女狩りの端緒となった回勅。ステイルがその名を冠した、それは。「『魔女に与える鉄槌<マレウス・マレフィカールム>』!!」ステイルの傍に侍っていた魔女狩りの王<イノケンティウス>がその形を溶かし消え去る。それと同時に、重質の真っ黒い油が棒のように延び、ハンマーを形作った。これまで近距離の兵装として扱ってきた炎剣とは、比較にならぬ攻撃力。その鉄槌の発動条件も、威力も、ステイルの切り札である魔女狩りの王と同等だった。「はあああぁぁぁぁぁ!」ステイルはヘリを見据え、『鉄槌』を真上へなぎ払った。魔女狩りの王と同質の素材からなるその槌は、柄を湾曲させながらしなやかに伸び、ヘリに襲い掛かった。ヘリが照準を合わせ、引き金を引くのより僅かに速く、それはヘリの窓ガラスに届いた。「火あぶりでどうこうなるかよ! ハッ!」ヘリの中で、隊員が見下しながら笑う。高速回転するプロペラが健在だし、いかな高温の炎といえど、この一瞬の接触で学園都市の兵器が壊れるわけがない。……そう思っていた。「な、なんだ?!」「魔女狩りを象徴するこの炎が、そんな淡白なわけないだろう? もっと粘着質だよ」サッと消え去る炎かと思いきや、そんなことはない。ジクジクとその炎は勢いを保っていた。気がつくと、皮膚が熱い。ガラス越しにこれほどの輻射熱を伝える温度は、無警戒で済ませられるものではない。「ヤベェ! お、おいこれ消せないのか?! 消化装備とかないのかよ?!」並ぶボタンを一つ一つ目で追いながら、隊員は必死に打開策を探す。救急隊でありながら、火災現場になど行った事もないし、そんなことを考えたこともなかった。だから、あるはずの装備を探せない。戸惑う隊員を下から眺めて、ステイルは『魔女に与える鉄槌』を肩に構えなおした。タバコをその火で付けようとして、あっという間に先が炭化してしまって渋い顔をした。「もう一発、いくかい?」ステイルが『鉄槌』を振り上げるのと、ヘリの乗組員がヘリを脱出するのは同時だった。ステイルの動きの裏で、光子は飛ばしたトラックでパワードスーツを一機落とすのと同時に、もう一機に迫っていた。射線をステイルから外すために、一旦折れ曲がった経路を光子は走った。「く、寄るな! 死ね!」救助隊員にあるまじきことを口走りながら、男は光子に照準を合わせようとする。この時点で、光子は一つ賭けに勝っていた。もしパワードスーツの男が冷静さを失わず、そしてステイルを狙ったなら、それを阻害するために足元のコンクリートか手元のコインで相手の銃を狙わなければならなかった。打ってからも照準の微調整が出来るのが光子の能力だが、細かい演算が必要で、自分のほうが足を止めてしまう。その心配無しに走れるのは、とりあえずは僥倖だった。だが賭けに勝ったから安全というわけではない。むしろ、自身の身をさらすという意味ではこちらのほうが危ない。光子は自分に真っ直ぐ銃口が向いたところで、ダンと足を慣らして飛び上がり、能力を限界まで使ってブーストをかけた。目標は、相手の少し上。肩口にでも手が触れられれば良かった。――――ガガガガガッッッ!パワードスーツが引き金を引いた。当麻が見ていたらきっと卒倒するだろう。ほとんど水平になった光子の体の下、1メートルくらいのところを銃弾が交錯した。「はああぁぁぁぁっ!」――タンッ!光子の反撃は、始まりはいつも静かだ。能力の性質上、かならずチャージを必要とするのがその理由。銃を持つ右腕の付け根、肩当ての部分に光子は手を触れさせて、そのままパワードスーツの後ろへと飛び去る。慎重に着地を済ませ、光子は自分の足で安全圏へと走った。光子の体にはもう気体のチャージがないからだ。本番は、この数秒間だった。自分の体も、相手の体も、吹き飛ばすにはあと3秒はチャージが必要なのだ。もし、吹き飛ばすならば。学園都市で武力を振り回す人間の常識として、敵に能力者がいれば必ず能力の概要と発動条件を探るというのがある。パワードスーツの男とて、それくらいはわきまえている。光子がチャージを必要とする能力なのはもう把握している。だから、男は悠長に構えたりなどしなかった。「逃げるな! 死にな!」男が振り向いて、光子に照準を合わせに掛かった。あと2秒のチャージタイムは、余裕で光子を殺すだろう。それを理解した男の動きの端々には、勝者の余裕、いや油断があった。それを光子は不敵に笑う。もう逃げも隠れも時間的に不可能だった。腰と肩の関節をぐるりとやって、銃口が光子の方にあと少しで向くという、その瞬間。――――バギン!パワードスーツの間接が、音を立てて壊れた。鈍重な装甲を生身の筋力では支えきれず、男はそのまま銃を腕ごとだらりと下げた。「な、なんだ?」「膨潤崩裂<ソルヴォディスラプション>、とでも申しましょうか」悠然と残りの距離を走り、光子は銃弾の届かぬ車の傍へと逃げ込んだ。そして講釈をしてやる。「はぁっ?」「あらゆる材料には微細なヒビがある。その隙間に滑り込んだ流体は、その隙間を押し広げるように力を加えますの。その応力って、条件によっては1000気圧に届きますのよ? 金属材料でも、これには抗えません」何も、固体の表面に空気を集めてぶっ放すことだけが光子の得意技なのではないのだ。表面に集めた空気は容易に超臨界流体となり、液体の表面張力と空気の拡散速度を持った流体として、ほんの少しの亀裂や、あるいは亀裂でなくても金属材料の結晶粒界に滑り込み、それを拡張し、材料の剛性を著しく損ねさせることが出来る。古代中国では、岩の亀裂に水で濡らした布と大豆を押し込み、その膨潤応力で岩を割っていた。こと狭い穴を押し広げる力に限っては、ダイナマイトと威力は同等なのだ。膨潤応力を受けて亀裂を拡大し脆化した関節は、ほんの少し操縦者が振り回しただけで破断させる。これが、目の前の男の身に起こったことだった。「本当、トンデモ発射場なんて不本意なあだ名は、止めていただきたいんですけれど。貴方に言っても詮のない愚痴でしたわね」光子は足元から砕けたコンクリート塊を拾い上げた。制御を失った手から反対の手で銃を回収するのに苦労するパワードスーツに向かって、それを飛ばす。ガシャン! と集中的に健在だった左肩にぶつかり、パワードスーツは攻撃能力を失った。中の男も戦意を消失させたらしかった。ふう、と光子はため息をついた。「そっちも済んだかい」「ええ。で、この方に運転してもらえばよろしい?」「そうだね。とりあえず機械の中から出てもらおうか」光子に合流したステイルが、病院でやったのと同じく、半壊のパワードスーツの中にいる隊員に暗示をかけた。今から追いかけたのでは、先行した二台に追いつくことはないだろう。「当麻さん、インデックス。それに御坂さん達も。……無事でいてくださいませ」日が傾いて、夕暮れの雰囲気を出し始めた空を仰いで、光子はそう呟いた。****************************************************************************************************************あとがき(2011/ 07/ 10 Sun)光子の使った技の名称を『膨潤崩裂<ソルヴォディスラプション>』と改めました。元の『膨潤応力<ソルベイション・フォース>』は学術用語そのまんまで、しばらく経ってからあんまり良くないなと思ったもので。 尚、膨潤応力が関係した現象は色々ありますが、卑近な例では粘土と水の関係があります。乾いた粘土はサラサラとしたきめの細かい砂粒であり、二酸化珪素からなる二次元のレイヤーが積層した構造をしています。このレイヤーとレイヤーの間には水を蓄える力があり、乾いた粘土を水に接触させると、層間に水を吸着しつつ粘土は膨潤します。そして水を「つなぎ」にして砂粒同士は凝集し、皆さんが粘土といわれて思い浮かべる、捏ねて土器を作ったりできるような性質を示すようになります。粘土は物凄く値段が安いのでその遮水性や応力緩衝性の高さから工業的にも色々と利用されており、上手な利用のためには膨潤挙動の理解が重要です。卑近な例といえば長風呂で手がふやけるのも膨潤現象ですね。 この他にも、二酸化炭素固定化技術の一つとして期待される、地中泥炭層への二酸化炭素封入が膨潤現象と関係しています。二酸化炭素と泥炭はものすごく分子間力が強いので、膨潤応力によって泥炭が変形します。そのせいで二酸化炭素を泥炭層へどれくらいの速度でどんな量を突っ込めるのかの予測が難しくなります。また、大型液晶ディスプレイの「光学的むら」が問題となっていますが、その原因が有機薄膜が空気中の水分を吸湿して膨潤するからだ、という報告もあるようです。 膨潤現象はその解析が非常に困難です。以降、専門外の人にはさっぱりわからん話をしますと、膨潤現象を取り扱うためには、特殊なアンサンブルと自由エネルギーを定義する必要があります。ヘルムホルツの自由エネルギーであれば、分子数N・体積V・温度T一定のアンサンブルの平衡状態を記述できますし、ギブズエネルギーなら体積を圧力Pに変え、NPT一定のアンサンブルの平衡状態を記述できます。ところが膨潤現象を起こす系は、膨潤する側のホストの分子数Nhは一定ですが、入り込んでくるゲスト分子については個数でなく化学ポテンシャルμを指定する必要があるため、NhμPT一定というどう扱ったらいいのかわからんようなアンサンブルになります。そのため良く知られたヘルムホルツやギブズの自由エネルギーではうまく系の平衡を記述できません。現象としても複雑なため、膨潤現象の物理化学的、熱力学的な解析はあんまり進んでいません。