「ええいクソッ、こんなときに部隊の出し渋りなんて、それじゃあたしらは何のためにあるじゃんよ!!」警備員<アンチスキル>部隊が運用するトラックの中で、黄泉川がガンと壁を叩いた。周囲の同僚達が何事かと振り向く。きっと上に、圧力が掛かっているのだろう。テレスティーナ・木原・ライフラインが体晶を使ってやろうとしている何か。それは随分と、学園都市のお偉方に気に入られているらしかった。「高速道路の封鎖許可まで出すとはな……親玉はどんだけ上なんだか」「あの、黄泉川先生。先行している学生というのは……」「常盤台の高レベル能力者を中心に10名弱、だそうじゃんよ」今、黄泉川が上層部から受け取った命令は、先進状況救助隊を襲撃しようとする学生を止めて来い、というものだった。馬鹿馬鹿しいにも程がある。なぜあの子たちが動いたのか。どれだけMARがいかがわしいのか、調べればすぐ分かることなのに。制圧対象とされた学生達の名前を聞いて、黄泉川はやっぱりなとしか思わなかった。春上の元にたびたび訪れていた初春たち、そして光子や当麻にインデックス。自分の見知った学生達だった。ため息を一つついて、黄泉川は自分の苛立ちを整理した。警備員になって数年。時折起こるこうした出来事に直面するたび、常に悩んできた。不良の起こす瑣末な事件になら、警備員は完璧に対応できる。悪さをしたその子達自身とも向き合える。だけど、こうして時折学園都市の暗部とでも言うべき事件が起こると、むしろ自分達警備員はその暗部の体のいい手先として、使われていることがあるのだ。今回だってそうだ。排除すべき相手を守り、守るべき相手を排除する、そんな仕事を任される。体晶に、子供達が食われそうになっていて警備員がそれを見過ごすなんて、絶対にあってはいけないのに。子供達を非行から救い上げ、どうしようもない暴力から守り抜くのが、自分達の仕事なのに。――せめて、やれることを。黄泉川はそれを言い訳と分かっていながら、自分にそう言い聞かせるほかなかった。「さて、我々の任務はMARに協力して子供たちを止めることですか?」隣に座っていた同僚が、黄泉川に問いかけた。薄く、ニヤリと笑った顔。黄泉川の考えていることを、分かっている顔だった。「あのバカ連中にはお仕置きは必要じゃんよ。学生が荒事になんて、首を突っ込むべきじゃないからな」「それは、そうですね」「でも、それは後でできる。あたしらが一番にすべきことは、先進状況救助隊が、体晶を使った実験をしようとしているって噂の事実確認からだ」「それがもし事実だったなら?」黄泉川が顔をキッと挙げて、虚空を睨みつけた。「先進状況救助隊の実験阻止を最優先に動く」「まあ、この装備じゃ高速道路に展開した数部隊を止めるので精一杯ですけどね」黄泉川が動かせたのは自分の所属する支部の隊員と、そして懇意にしている数支部の隊員だけ。テレスティーナからより後方にいる以上、あちらが実験を始めるのに間に合わない可能性が高い。この一件で、最も先を走り最も攻撃的なのは、警備員である黄泉川たちではなく、学生達だった。良くないことだ。実験の阻止に失敗し、助けに行った彼女達も心と体に癒えない傷を負う、そんな最悪のシナリオも充分ありえるのだ。光子や当麻に電話をかけて止まれと言ったところで、絶対に止まらないだろう。……学生を先鋒にするなんて最低の大人だと思いながら、黄泉川は結局それを受け入れ、行動するしかなかった。光に透かすと赤く輝くその結晶。手のひらにおさまるくらいのガラス製の円筒に入ったそれを、テレスティーナは優しげな瞳で眺める。15年位前から、それは彼女の宝物だった。大好きな祖父で、敬愛する研究者である木原幻生その人が、テレスティーナに残してくれたものだから。――――お前は学園都市の、夢になるのだよ。テレスティーナの脳から体晶を抽出・精製するその直前に、祖父が残してくれた言葉がそれだった。嬉しかった。大好きな祖父の力になれることが。学園都市の追い求めるものへと、なれることが。……結果は、失敗だった。テレスティーナが植物状態から1年近くかけてようやく目を覚ましたとき、そこにはもう祖父はいなかった。遺されたのは、自分から取り出した体晶。何度か祖父に会おうとしたが、祖父の秘書なのか、誰とも分からない人々に多忙を理由に無理だと言われた。テレスティーナはそれをむしろ、当然だと思った。思い通りの結果が出たなら、自分はまだ祖父の隣にいることだろう。だが、現実はそうではなかった。テレスティーナから作った体晶では、駄目だったのだ。だからきっと、祖父は自分の手元に体晶を遺してくれたのだ。自力で高みに登ってきなさい、と。きっと祖父はそうメッセージを、この体晶に込めてくれたものだと思っている。テレスティーナは自分と体晶が等しくゴミとなったからまとめて捨てられたのだという、その事実に達したことは一度も無かった。『体晶を使って生み出した暴走能力者がレベル6に至ることはない』という樹形図の設計者<ツリーダイアグラム>の結論を、テレスティーナは知らなかった。ひとしきり宝物を眺めて心を落ち着けたところで、身につけたパワードスーツからザッと無線の入った音がした。「イエローマーブルよりマーブルリーダー。現着しました。これより搬入を開始します」テレスティーナは最速で現地入りし、すでに実験のスタンバイを整えてある。今の連絡は、枝先を初めとした13人の暴走能力者と、テレスティーナに成り代わって学園都市の夢になる春上衿衣が、ここ、第二十三学区の木原幻生の施設研究所へと到着したことの連絡だった。ここまでは予定通り。問題は、こちらを追っている木山春生と常盤台の学生、そしてオマケの数名だ。そちらは高速道路に展開した部隊が、足止めをすることになっていた。「パープルマーブル。そっちの首尾はどうだ?」「こ、こちらパープルマーブル。警備員<アンチスキル>がこちらに疑いをかけてきて、その、交戦中です!」「あぁん?」戸惑いと焦りにしどろもどろとなった部下の言葉を、テレスティーナはいぶかしむ。たしか首尾としては、警備員はこちらの行動を最低でも黙認はしてくれるはずだ。無線の向こうにも聞こえるよう、チッ、とテレスティーナは舌打ちした。そういえば、警備員には黄泉川という名の、面倒くさそうな女がいた。この件の警備員側の取り纏め役なのだし、体晶という言葉にも心当たりがあるようだった。おそらくは、あの女の働きなのだろう。面倒なことをしてくれる。「警備員なんてどうせ殺傷装備も持ち合わせてない雑魚だろうが。三分で殺れ」「は? やれ、って。警備員を敵に回すなんてそんな無茶な」「テメェは私と警備員とどっちを敵に回したいんだ? 言われたことはさっさとやれ!」「りょ、了解――」返事を聞くより先にスイッチを切る。全く、困ったことを言ってくれる。パープルマーブル隊が機能しないとなると、ここまで連中が素通りでやってくることになる。「ドイツもコイツも無能ばっかりかよ。ったく。レベル6にたどり着く人間以外、全部どれもこれもゴミなんだ。踏みにじるのに躊躇なんざしてどうする。 イエローマーブル隊! 指示が無くても手順は分かるな?! 私はアレで出る」「了解しました」どやされたパープルマーブル隊を意識してのことだろう、実験の準備をするイエローマーブル隊は小気味の言い返事をした。テレスティーナはパワードスーツのバイザーを下ろし、きちんと武装をする。そしてそれを着たまま、パワードスーツより二回り大きなその機体に、目をやった。無骨な足腰、そしてニッパー状の両手。パワードスーツの上から着る仕様の、建築・工作用機械だった。ブルーカラーの労働力が慢性的に不足する一方でエネルギーとテクノロジーが余っているこの街では、建設にはこうした機体が借り出されることがよくある。祖父、木原幻生はこの研究所の建設・メンテナンスのためにという名目で用意したのだろうが、この機体には建築と工作に必要な高出力以外に、俊敏さまで備えた整備と改造が施されている。木原幻生も単に、工作機械としてコレを導入したのではないことは明白だった。「邪魔な羽虫はさっさと潰しておかないとな。プチっとよぉ」テレスティーナは上機嫌に、大きな機体のコックピットを目指した。十年来の夢が、今、叶うのだ。「お爺様。私が、学園都市の夢を叶えて見せますから……!」人知れず、テレスティーナは純真な少女のように、そう一人呟いた。無人の高速道路を、木山の駆る青いスポーツカーが疾走する。MARが高速道路を勝手に封鎖してくれたのは幸いだった。おかげで開いていた差を、かなり詰められた。「あと10分くらいで高速の出口ですね。降りてからはすぐです」「そうか。その10分というのは、あちらの邪魔が一切入らない場合の数字だな?」「はい」初春が言ったのは単純に距離を時速で割っただけの数字だった。木山が気にしているその通りに、おそらくは妨害があることだろう。「急ぎだし、時間通りの進行でいきましょう」「だね」茶化して言った佐天の言葉に、美琴が同意する。カタカタとキーボードに数値を打ち込んだり映像を複数再生したりと忙しない初春が、よしっ、と呟いて顔を上げた。初春なりの、解析結果が纏まったらしい。「向こうは、高速出口の手前にある、別の線とのインターチェンジで待ち構えているみたいです。そこを塞げばこちらに逃げ道ないですから」「バリケードはあるの?」「金属の格子で作ったバリケードはありません。さっきと違って、この車は脇道のほうじゃなくて本線を走りますから」先ほどバリケードで塞がれたのは、別の線へと乗り換えるための一車線の道だ。確かに、三車線ある本線を丸ごと封鎖は出来ないだろう。「じゃあ、この広い道をどうにかして塞いでるってことかな」「二台のトラックを横にして道をかなり塞いでますね」初春のディスプレイには、一車線ぶんくらいの隙間を残してトラックが道を塞ぎ、残った隙間にもパワードスーツが展開している光景が映し出されていた。それを見て、美琴は木山に問う。「パワードスーツが塞いでる隙間なら、抜けられる?」「可能だ。こちらの時速を見れば向こうは回避するだろう。でなければ死ぬ」「無人機で塞いでたら?」「その場合は君達の援護がいるな」「私が超電磁砲<レールガン>で隙間をこじ開けるか、佐天さんに飛ばしてもらうか、二択ね」佐天はその発言を受けて、すぐさま軌道の演算に入る。パワードスーツの高さは2.5メートル近くだ。それを飛び越えるのは先ほどより大変だが、可能だろう。「御坂さん」「何?」「銃弾、止められますか?」「金属なら、逸らせるわね。この車にむけて飛んでくるヤツ程度なら防ぎきれる」「じゃあ御坂さんの仕事はそれですね」「ま、そうなるわね。一番の懸念はあっちからの銃撃だし」「銃弾、というが。レベル5の君はある意味で人質みたいなものだろう。おいそれと君を死なせるような判断をするだろうか」確かに、レベル5は学園都市の顔であり、金のなる木だ。そうそう簡単に死なせられはしない。だからその木山の考察を、つい昨日までの美琴なら真剣に受け止めて考えもしただろう。だが、あの忌まわしい計画の、名前を知ってしまったら。「テレスティーナは別にレベル5に執着なんてしないわよ。今から、それ以上の高みを、アイツは目指す気でいるんだから」「それ以上……?」美琴の言っていることを理解できないのか、ぼんやりと佐天が復唱した。レベル5は、学園都市がこの数年でようやくたどりついた高みだ。レベル4までの能力者とは一線を画す、天賦の才の持ち主。それより上なんて、それは。「佐天さん」「は、はい」「さっきみたいに乗り越えられる?」「私なら大丈夫です。御坂さん。アレくらいのことなら、あと10回はいけますから」「10回ね。それだけあれば充分でしょ。……佐天さん、レベル3はあるね」「そうですね。自分でも、自覚はあります」「うん。頼りにしてる」美琴が佐天に、ニッと笑いかけた。その笑みが、美琴の隣に立てたことが、嬉しい。佐天は、自分の実力を謙遜しなかった。さっきだって、窮地を脱する力があることを証明できたから。「御坂さんは防御に専念してください!」「わかった。初春さん、あとどれくらい?」「ちょうどですね。もうすぐ、見えてくると思います」美琴と佐天は、シートベルトを外した。急ブレーキでも踏もうものなら、きっと大変なことになるだろう。だがそういう危険に目を瞑り、二人は、来る一瞬に備える。運転手の木山が声を上げた。目視で、敵方を捉えたらしい。「見えたな。あれか……」「はい。最後の追撃部隊ですね」「トラックの数がおかしくないか?」「えっ?」初春は、慌ててディスプレイの情報と目の前の光景を照合する。監視カメラからの映像は一分くらいはタイムラグがあるのだろう。どうやら一台、つい今しがた増えたらしい。「MARじゃない……?」「そのようですわね。あれは警備員のロゴですわ」どういう状況なのかと白井はいぶかしんだ。敵なのか、それとも味方なのか、それが問題だ。不意に、ピリリと白井の携帯がコールを訴えた。繋ぎっぱなしの上条を保留にしてそちらに出る。「はい」「白井か? 警備員の黄泉川だ」「黄泉川先生?」「そっちからあたしらの車両が見えてるじゃんよ?」「え、ええ」「手短に済ます。これは警備員として言ってはいけないことだけど。……頼む。あの子たちを、助けてやってくれ。目の前の連中はコッチで何とかするじゃんよ」苦渋がにじみ出たような、そんな声だった。学生に危険分子排除の尖兵をさせるなんて、確かに警備員の理念の間逆だろう。でも、レベル5の能力者を擁するこちらのほうが、確かに駒として上だった。「一人の教師である黄泉川先生が、学生をそうやって案じてくださることを嬉しく思います。背中は預けますから、どうぞこちらを信頼してくださいまし」「ああ、頼む」白井はそれだけで、会話を打ち切った。もう、パワードスーツの部隊まで200メートルくらいだったから。「木山先生、車、右に寄せてください」「右? それはいいが、どうする気だ?」三車線ある高速道路の両端を、トラックが塞いでいる。そしてトラック同士の間にあいた隙間を、パワードスーツの部隊が固まって塞いでいる状態だった。トラックよりはパワードスーツのところのほうが背は低いのだし、そこを狙うものと木山は思っていた。佐天の答えはシンプルだった「対向車線側にはみ出します」「佐天さん!? あっちは封鎖されてませんから、対向車と正面衝突しかねませんよ?!」「大丈夫。べつに、対向車線を走るわけじゃないから。ちょっと説明してる時間ない! 木山先生、言う通りにしてくれますか?」「壁に向かって走るというのは中々精神的に負担のかかる行為なんだがね」フウ、と木山が呼吸を整えて、正面を睨みつけた。「速度は?」「さっきと同じで」「わかった」多くを木山は問わなかった。ただ、アクセルをクラッチみたいにガンと踏みつけて、中央分離帯に向かって車を加速させた。パワードスーツを着た男が、焦った表情で黄泉川に怒鳴りつける。「だからあの車を止めるのが任務だと言っているだろう!」「学生の乗った車を銃撃するような真似を任務にする部隊は学園都市にはない!」黄泉川は自分の言が嘘だということを知っている。そんな非道な部隊くらい、きっと学園都市には山ほどある。「学生だとはいうが、能力でバリケードを越えてくるテロリストだぞ!? こちらの安全を考えてくれ」「お前等の何処に大義名分があるって言うんだ! さっさとテレスティーナ・木原の計画について聴取を始めるぞ!」「勝手に所長を呼び出してやってくれ! こっちは仕事があるんだ!」「おい! パワードスーツを動かすな! そっちがその気なら、こちらも動くしかないじゃんよ!」「いいからやれ! 所長にどやされたいのか!」リーダー格の男が、黄泉川から視線を外し、部下のほうに振り返って指示を出した。封鎖した高速を走ってくる青いスポーツカーは、もうすぐそこに迫っている。あれを止めねばここにいる全員、すなわちマーブルパープル隊はテレスティーナに殺されかねない。町の公権力よりも、自分達のボスの非道さのほうが恐ろしいことを隊員達は理解していた。躊躇の感じられる動きだったが、それでも5機のパワードスーツは、銃を持ち上げるのを止めなかった。それを見て黄泉川は、さあっと瞳に怒りを走らせる。学園の名を冠するこの都市に、こんな出来事があってはならない。子供達が夢を叶え幸せになるための町なのに、それを弄ぶような人間は、いてはいけないのだ。「パワードスーツの連中を制圧する! 子供達に怪我なんてさせちゃいけない!」「了解」黄泉川の後ろに控えていた警備員達もまた、黄泉川と意志を同じくしていた。町を巡回する美観・治安維持用ロボットを先行させて盾にしつつ、警備員のメンバーはパワードスーツが狙う美琴たちとの射線の間に、自分達の体を割り込ませた。「あっちは子供に銃を向けてるんだ! 遠慮なんて要らないじゃんよ!」「当然です!」パワードスーツに乗った隊員たちがスポーツカーに照準を合わせようと、警備員を振り切るよう鬱陶しげに動く。だが局地戦で細かな動きでマーカーを振り切るのに、パワードスーツは不都合だった。慣性の法則を捻じ曲げる力は、超能力者にしかない。パワードスーツを着るということは、慣性を増やし、鈍重になるということだ。それをもちろん出力で補ってはいるが、細かなストップアンドゴーにおいては、生身にパワードスーツは叶わない。警備員達は、盾を用意しているとはいえ生身だ。パワードスーツから発砲されれば無事ではすまない。だが、隊員達はその選択肢を選べなかった。警備員は、警備員を傷つけた相手を、決して許さない。傷つけたのがチンピラ学生なら話は別になる。だが、学生に仇(あだ)なし、そして警備員にも仇なした相手には容赦がない。上からの指示で今はこの目の前の数人以外は押さえつけられているが、この数人に手を出せば、あっという間に自分達を追い詰める猟犬は100倍に膨れ上がるだろう。それを隊員たちが恐れているのを知っているから、警備員達は自分の身を、果敢にさらしているのだった。「クソッ……近いぞ! 抜けさせるな!」「やらせるか!」スポーツカーは、もう視界の中で充分な大きさを主張している。ここに到達するまで、もう数秒だ。黄泉川は目の前のパワードスーツに、非殺傷用の銃弾を躊躇わず発砲しながら、僅かに振り返ってその車の動きを見た。「くっ、邪魔するな!」「お前らこそ子供に銃なんてむけるんじゃない!」「ガキは使い潰すもんだろうが! それが学園都市だ!」「そんなこと、あたしが許さない!」ギャリっと、タイヤが歪みながらアスファルトを蹴りつける音が聞こえた。突然直進していたスポーツカーが、中央分離帯に向けて進行方向を曲げた音だった。「なっ?!」黄泉川は一瞬、それに絶望する。タイヤが銃で狙われ、パンクしたのだと思ったからだ。このスピードでその事故は、あまりに致命的だ。パワードスーツなど何の関係もなく、それは搭乗者を死に至らせる。バカにしたように、ハンとパワードスーツに乗った男が笑った。――――だがそれは、ただの勘違い。スポーツカーから、髪の長い女の子が、上半身を出した。黄泉川はその姿を見て、駄目だ、と叫んだ。突然の出来事に、おかしな行動をとったのだろうか。駄目だ、あんなことをしては、助かるものも助からない。そんな黄泉川の心配をよそに、その少女、佐天涙子は目を細めて真っ直ぐ前を見詰めていた。呼吸すらままならない風速に耐えながら、佐天が手を虚空にかざした。黄泉川も、そして隊員も、判っているようで判らないことがある。超能力者とは、つまり自分達とは違う、パーソナルなリアリティに生きる人間なのだ。同じ世界を共有しながら、それを見るためにかけた眼鏡が全く違うのだ。空力使い<エアロハンド>の佐天が生きる世界においては、佐天の行動は奇異なものでもなんでもない。――――ガッ、と空気の軋む音がした。「なっ?! そんな、空力使いだと?!」隊員が驚きながら、そう叫んだ。無理もない。黄泉川だって知らなかった。あそこに、あんな高位の空力使いがいるなんて。そうか、アレが婚后の教え子か、と場違いに黄泉川は感心した。スポーツカーが、その巨体をものともせず、跳躍した。「対向車線に出る気か!?」黄泉川は思わず叫んだ。MARが封鎖したのは、こちらの車線だけ。スポーツカーが向かう先には、沢山の対向車。だが黄泉川の視界の先で、佐天が地面に向けて何かを放った手を、再び振りかざした。空気を吸い込み、集めるように。掃除機なんかよりずっと暴力的に。見えない壁を佐天が掴んだみたいに、スポーツカーの軌道が、直線ではなくなった。その軌跡はブーメラン。中央分離帯という仕切りを斜めに飛び越え、MARのトラックという障害物を回避して、そして再び空中で方向を歪めながら、そのスポーツカーは元の車道上へと、その進行方向を戻した。「なん……だと? クソッ、抜けられた! 追え!」「無茶言わないで下さいよ! コッチには高機動パッケージはないんです!」「それでもやれよ! 所長に殺されたいのか?!」黄泉川の前で隊員たちが失敗に歯噛みしていた。スポーツカーは、速度を一度も緩めなかった。一秒で40メートルを走破するその速度によって、あっという間に銃の射程外へと逃げたのだった。「……やるじゃん」自分の心配が杞憂だったのを、黄泉川は軽く笑った。「すまん。学生を前に出すなんて、駄目な警備員だ」聞こえないのを判っていて、黄泉川はスポーツカーに乗った子供達に、そう謝った。せめて、自分はここの後始末をきっちりつけないと。混乱する隊員達に銃を向け、黄泉川は自分が次にすべきことを、為し始めた。