休日の昼下がり。同じ寮に住む同級生たちが、ベッドの中で午睡を楽しんだり、あるいは町中へと遊山に出かける中、当麻はまさに後者に加わろうとしているところだった。といっても今日の相手は、よく一緒に遊ぶ相手、青髪とピアスが特徴的な友人や隣に住む金髪グラサンの同級生ではなかった。まだクラスの連中に話してはいないが、少し前から当麻には恋人がいる。今日はその彼女、光子の予定に合わせて午後からのデートなのだった。「あれ、上条当麻ー。今から出かけるのかー?」玄関の鍵を閉めて階下へ向かおうとしたところで背中に声がかけられた。当麻よりいくらか幼い女の子の声で、当麻には聞き覚えがあった。「なんだ舞夏。今日は来てたのか」声をかけたのは隣の家に住むクラスメイト、土御門元春の妹だった。この二人は仲のいい兄妹で、妹が足しげく通い妻をしている光景を見かける。「んー。定期的に掃除に来ないと大変なことになるからなー。兄貴の部屋は」「家政婦養成の専門学校生が来るとか恵まれすぎだよな」「今度そっちの部屋もお掃除してあげようか、お兄ちゃん?」この暑い真夏の昼に長袖のメイド服を着こなす少女は、屈託のない笑顔でそう当麻に告げた。当麻はそれに苦笑いを返し、手を振って歩き出す。「頼むって言っても土御門に結局は妨害されるからな。ま、自分のことはなんとかするって。それじゃあな」「ふーん。……またなー」当麻のそんな態度に含むものを感じながら、舞夏は部屋に戻った。室内では、もう午後になろうというのに部屋の主である彼女の兄がベッドの上でだらだらしていた。「カミやんはお出かけか」「そうみたいだなー。なあ、兄貴ー」「ん? なんだにゃー」「上条当麻に最近変わったことはなかったか?」「変わったこと? いや、別に思い浮かばないけど」「そっか」「どうかしたのか?」土御門が寝ころんだまま舞夏を見上げた。なんでもないというように舞夏は少し笑って、台所へと足を向けた。「なんとなく、上条当麻にも春でも来たのかなーと思っただけ」「……カミやんに関しては心当たりがありすぎて逆にわからないにゃー」女ほどは鋭くないということか、あるいは周囲から「義妹と言いながら一線を越えているらしい」と噂される相手が傍にいるからか、土御門はそれ以上突っ込むことなく、再び午睡に戻っていった。町へと足を延ばし、光子との待ち合わせ場所へと向かう。今日のデートの場所は、光子と二人で廻り、ペットショップを紹介したあのショッピングモールだった。金銭的に余裕があるなら毎回遊園地だって構わないが、さすがにそういうわけにはいかない。デートの一番の目的は光子と会うことだ。手をつないで喋れる場所なら、別にどこだって構わないのだ。とはいえ、安上がりデートをしていても、予算的には圧迫されているのは事実。「やっぱこうなってくるとバイトでも考えるべきか……」そう呟いてみるものの、学業のほうも補習漬けで、しかもいろんな面倒事に巻き込まれて出席日数も不足がちなのを考えると、バイトは難しいだろう。そんな自分の境遇に溜息をついて、大通りへ抜ける石畳の坂道を見上げた。「……ん?」視線の先では、妙齢の女性があちこちへと視線をキョロキョロとめぐらせながら、何かを探しているようだった。ファッション性に乏しいごく普通のスカートスーツと、これまた飾り気のないブラウスで細い体を包んでいる。横顔を眺めると、徹夜続きのような濃いめの隈があった。学園都市の大人は子供の数に合わせ、必然的に教師か研究者かその兼任を仕事とする者が多いが、見た感じ、この人は研究者なのだろう、という気がした。ルート上にいるその女性へと当麻が近づくと、成り行きでばっちりと目があった。「あの」「ん? ああ、邪魔だったかい? 失礼」思わず、当麻は声をかけてしまった。困っている人を放っておけないなんて言うと偽善臭いが、町中でトラブルに見舞われ途方に暮れる体験は他人事でもない、というか日常茶飯だし、当麻は基本的に人の好い性格なのだった。「何かお困りですか?」「この辺りのパーキングに車を停めたはずなんだが、場所がわからなくなってしまってね」微笑んでいるようにも見えなくもない、けだるい表情でその女性はそう呟いた。視線の先には、人口密度の高い第七学区の駅前なら、どこにもでありそうなパーキングがあった。このあたりは当麻にとっては庭みたいなものだから、他のパーキングの位置もわかる。ただ、線路をまたいで向こうのパーキングなんて歩いていけば15分はかかる。さすがにそれに付き添うだけの余裕は、デート前の当麻にはなかった。「あのパーキングじゃないんですか?」「ああ。一台一台確かめたんだが、見つからなくてね。なんとなくここではない気はしたんだが」ぼんやりとそう答える相手を見て、厄介なタイプにあたったなー、と当麻は思った。学園都市には結構な割合でいるのだ。研究以外に興味がなくて、生活を送るにもいろいろ支障をきたすようなタイプの大人が。そういう人間が研究だけをやっている分にはいいのだが、能力開発の現場、すなわち学校でも『研究』をやる教師がたまにいて、学生はそういう大人への対応を否応なしに学ばされる。この目の前の女性は典型的な、自分の研究しか見えないタイプなのだろう。「え-と……目印とか何か、覚えてないんですか?」「目印、か。確か目の前に横断歩道があったな」「横断歩道じゃあんまり目印とは……」その女性――木山春生という名を当麻は知る由もない――の要領を得ない返事に、思わず空を仰いでしまった。これは手伝っていると、とてもじゃないが待ち合わせの時間に間に合わない。デートを理由に見捨てるのも気が引けるけど、光子に電話して謝るのもなんだかなあ、とどっちにするかと悩んだところで、不意に坂の上から声を掛けられた。「アンタ……!」「ん? おお! ビリビリ中学生」見上げると、見覚えのある少女がそこにいた。当麻にとっては印象的な出会いをした女の子だった。ビリビリ、と呼ばれたのが不満なのだろう。声をかけた時点で険のある態度だったのだが、さらに表情が尖ったものになった。「ビリビリじゃない! 御坂美琴! 毎度毎度逃げられてるけど、今日という今日は決着つけてやるんだから!」夜の繁華街で不良に囲まれているところを助けようとした、というなんともドラマティックな出会いが彼女と知り合ったきっかけなのだが、当麻にとって印象的なのはそれが理由ではなかった。その一件で不良の恨みを買ったところを今の彼女である光子に助けられた、というその後の展開が、美琴との出会いを当麻にとって特別たらしめている理由だった。失敗に終わった、というか要らぬおせっかいだったとはいえ、せっかく助けようとしてやったのにその後も美琴は街でこちらを見かける度に突っかかってくる。結果的に役に立たなかったとはいえ、曲がりなりにも好意で不良からかばおうとした側に「決着を付けてやる」とは、一体どういう心境なのか。とはいえ、この場では気安く物を頼める相手がいるのは行幸だ。「ってことは、お前今暇なんだな?」「時間ならたっっっぷりあるわ」腰に手を当てて美琴がそう宣言した。はっきりと断言してくれて正直当麻はホッとした。それならあまり気に病むことなく、美琴に自分の代理を頼める。「じゃあ、この人の駐車場探すの、手伝ってくれないか?」「は?」やる気に満ちています、と言わんばかりの態度のまま、美琴が疑問顔で硬直した。「車を止めた駐車場がどこだかわからなくなってしまってね」助かるよ、と言わんばかりの態度で研究者らしき女性が肩をすくめた。露骨にホッとした顔の当麻も、その隣の女性も、どちらもすっかり美琴が手助けしてくれることを既定事実のように扱っていた。「え、ちょっと、なんで!」美琴としては抗議の声を上げずに入られなかった。暇だとは言ってない。だって今日こそは目の前のバカに引導を渡してやらねばならないのだから。全く、いつもコイツはこうだ。私のことを子供だとでも思ってるのか単に舐めているのか、ちっとも相手にしないで。「俺、行かなきゃならないトコがあってさ。お前暇だからいいだろ?」「いいだろじゃねーっつの! また適当にあしらおうたってそうはいかないわよ。毎回のらりくらり適当なことばっか言って、今日という今日はホントに許さないんだから!」「適当ってなんだよ。別にそっちと勝負とかする意味ないだろ?」「だからその態度がムカツクって言ってんの!」当事者の自分をそっちのけで喧嘩し出した学生二人を眺め、研究者の女性――木山春生(きやまはるみ)――はため息をついた。学生二人のじゃれ合いを鬱陶しがったわけではない。小学校教諭であったこともあるから、この程度の口喧嘩には慣れっこだ。不快なのは、背中に張り付いたブラウスの感触の方だった。もう20分は炎天下を歩き続けている。「いやー、それにしても暑いな」少しでも涼を摂れるようにと、木山はごく合理的な考えに基づき、ブラウスのボタンに手をかけた。「あーだからもう、私の言うとおりに……って、え?」美琴はその瞬間、当麻への怒りを全て失い、木山の振る舞いに思考をフリーズさせた。首元まできちんと留められていたボタンを、上から順に一つ一つ外していく。それどころか、木山はブラウスの袖から自らの腕を引き抜き、脱いだブラウスを腕にかけてため息をついた。肌の色とあまり見分けのつかないベージュ色の、ごくごくありふれたデザインのブラジャーが、美琴の視界に飛び込んでくる。言うまでもなく、そこは第七学区の、なんの変哲もない道の往来の真ん中なのに、だ。「ぅおわっ!」一瞬遅れて当麻も気づいたらしかった。叫ぶ当麻は当然その木山のブラ一枚の上半身をモロに視界に収めているのだが、それに気づいても木山は文句一つ言わず、怪訝な目で学生二人を見るだけだった。思わず、率直な疑問が美琴の口をついて出る。ついさっきまでファミレスで佐天たちと盛り上がっていた、ある「都市伝説」の話を思い出す。「な……何をしている……んですか?」木山の痴態は、まさしく『脱ぎ女』そのものだった。曰く、うつろな目をしていて、何の脈絡もなく、突然ブラウスを脱ぎだすという。「炎天下の中、ずいぶん歩いたからね。汗びっしょりだ」人心地ついた、と言わんばかりの清々しい顔で、木山は空を見上げた。日焼けを知らない白い肌を見せて何気ない態度を取るその様子は、きっと自分の部屋でならおかしなことはなかっただろう。それくらい自然な、脱ぎっぷりだった。「なによ、この人?!」「お、俺もさっき知り合ったばっかりだし」つい常識にすがりたくて、美琴は助けを求めるように当麻を見た。残念ながら、あちらも同じ感想ではあったらしい。「ちょ、ちょっとそんな格好まずいですよ!」「うん? どうしてだい」「どうしてって。ここ外ですよ、外!」愕然とした当麻の声を、気が遠くなるような思いで美琴は聞いた。齢二十歳を超えて、なぜ屋外で、このような格好になることがおかしいと感じられないのか。まるで常識が通じない。「私の起伏に乏しい体を見て何かを感じる人間などいないだろう。それに下着まで脱いだわけでもない」そんな理由で木山の中では十分に合理化がなされるらしかった。自己申告通り、木山の体はグラマラスとは言えないだろう。まだ気恥ずかしくて聞けていないが、当麻の彼女は中学生にして既にすごいスタイルだ。その光子と比べれば、たぶん、木山は起伏に乏しかった。だがだからといって木山の肢体に無関心でいられるかというと、決してそんなことにはならないのが男の性というものだ。野暮ったい色とデザインのブラに包まれた小ぶりの胸は、当麻の視線を引きつけてやまなかった。そうは言っても、もちろんジロジロと眺めるわけにもいかないし、衆目に晒しっぱなしでいいはずもない。「と、とにかく! シャツを着てください!」当麻は視線を木山に合わせないように顔を横に背け、木山の手からブラウスをひったくって広げ、正面から胸を隠すように覆い被せた。その仕草は心のどこかが大変に残念がるような、善意に基づいた行為だった。だが客観的に見ると、当麻が妙齢の木山のブラウスを往来の真ん中で脱がせたように見えなくもない。見計らったようなタイミングで、離れたところからきゃあっと言う声が上がった。その悲鳴はあっという間に視線を集め、今まではこちらに気付きもせず遠くを歩き去っていた人間までもが、ブラウスを持った当麻に注目する。そして状況を説明する間もなく、女の人が襲われてる?! あの男の人が脱がせたの? という声があたりから聞こえてきた。「ち、ちがうって……」当麻は咄嗟にそう呟くが、もはやその否定が逆に当麻が加害者であるという勘違いを助長しかねない空気だった。美琴も、あまりの急展開にどう口を挟んでいいのか、アイデアが浮かばなかった。「服を着ろと言うが……まだ脱いだばかりだ。木陰でしばらく休めば汗も引くだろう。ちょっと待ってくれないか」「いや、ですから!」木山が自身の下着姿を晒すことに全く頓着せず首をかしげているうちに、どんどんと当麻を非難する視線が増えていく。女同士の自己防衛意識が働いているのだろうか、こちらの事情を聞くことすらなく、女子生徒達が通報を意識して携帯を手に取り出した。もうひと揉めあれば確実に自分は性犯罪者になる、と当麻は確信せざるを得なかった。「ご……」「ちょ、ちょっとアンタ」「誤解だああああっ!!!」美琴はなんとかフォローをと考えて手を伸ばす。もちろんその手が何か助けになるわけではないが。それを頼ってのことだろうか。当麻がブラウスを強引に美琴に預け、その場から走って逃げだした。「あ、ちょっと!!」当麻の逃避は決して美琴から離れるためではなく、もう変質者と呼んでやりたくなるような木山の振る舞いのせいだが、それでも逃がしたことには違いなかった。美琴は思わず当麻を追いかけようと駆け出して、間もなく木山に止められた。「君。それを持っていかれるのは、困るんだが」「へっ?」手には当麻から渡された、木山のブラウス。それを手に走り去ろうとする自分は、一体どういう目で見られるだろうか。それに気づいて美琴は頬に血が登るのがわかった。「と、とにかく服を着てください! 見られてます、見られてますから!」周囲からの誤解が解ける頃には、当麻はもう、見えなくなっていた。缶ジュースを手に、美琴は木山と一緒に、自販機前の無料カフェテラスに腰を落ち着ける。街路樹の傍にあるそこはちょうど日光が遮られていて、風通しもあるから涼しかった。既にかなり歩いて疲労した木山の提案で、しばしの休憩を取っているのだった。「済まないね、付き合わせて」「いえ」「研究のことばかり考えながら、珍しく繁華街に車を停めたのが仇になったようだ。こういう場所はどこも同じに見えてしまってね」「研究って……学者さんなんですか?」学園都市ではこういう強調の仕方をする場合、教職に就かない専門の研究者であることが多い。それを肯定するように木山は軽く頷いた。「大脳生理学、主にAIM拡散力場の研究をしているんだ」「能力者が無自覚に周囲に発散している微弱な力のこと、でしたっけ」「もう習っているんだな」「ええ。一年の時に」An Involuntary Movoment、すなわち無自覚な動きと名を冠されたこの力場は、人間の五感では感じ取れない、能力に由来する特殊な力場のことだ。機械を使わないと測定できないし、そもそも使い道自体が見つかっていないので、研究者はいざしらず、能力開発を受ける側の学生にとってはあまり注目されない存在だった。「私はその力を応用する研究をしているんだ」「応用、ですか?」「性質としては電磁場よりは重力場に近くてね、対称性粒子の作用がないから集団になるほど増幅される」「遮蔽効果がないってことですか」「そうだ。さすがは常盤台の学生さん、と言ったところかな」感心したように木山がそう呟いた。美琴は校則通り制服を着ているから、美琴のいる中学がどこかなんてすぐに分かることだ。「能力は実に様々なバリエーションを持ったもので、すべての能力を体型的に説明づけるような理論なんてものは未だその雛形さえ見えない。だが不思議なことに、どんな能力者のAIM拡散力場であっても、互いにそれを打ち消し合う作用は見つかっていないんだ。静電場を考えると、私の体の中の電子と君の体の中の電子は互いに強い反発力を持っているけれど、君の体の中の陽子と私の体の中の電子の引力がそれにちょうど釣り合って、私たちの体の間には見かけ上、静電気力は働いていないように見える。そういう力場のキャンセルがAIM拡散力場にはないんだよ。重力をキャンセルする反重力がこの銀河系には存在せず、ゆえに月が地球の周りを回り、太陽系が出来、それらが銀河という途方もなく大きな集団構造を作るようにね。今後も今と同様に学園都市が膨らみ能力者が増加すれば、AIM拡散力場はどんどん強くなり、その利用価値は高まるだろう。問題はいかにして自然現象または人間の精神に干渉できるよう指向性を持たせるかの部分だがね」「はあ……」木山は能力者の多分に漏れず、自分の専門については饒舌らしかった。いかに学園都市第三位の能力者である美琴と言えど、発電系能力以外の知識ではその道の専門家には勝てない。ちょっとたじろいで、トピックを変えなければと美琴は焦った。「あの……それじゃ能力についてもお詳しいんですか?」「何か知りたいことでも?」木山は言外に肯定の意を含ませて、美琴に尋ね返した。個別の能力の開発に関しては対して知識も技術もない。だが、能力の多様性についてはそれなりに知識があった。美琴のほうで気になっているのは、『脱ぎ女』と同様、今朝話題になった都市伝説のひとつだった。「その……どんな能力でも効かない能力、なんてあるんでしょうか?」そう尋ねながら、頭に浮かべるのはさっきのあのツンツン頭のことだ。初めて会った時に見せられてから、ずっと気になっていた。アイツの能力は、まさにそんな都市伝説そのもののように思えたから。「能力といってもいろいろあるが、文字通りあらゆる能力が効かないのかね?」「その、例えば高レベルの電撃を受けてもなんともなかったり、とか」「電撃か……。例えばその相手が自分より相当高レベルの発電系能力者なら、それも可能なのではないかな?」一般論としてはその答えはイエスだ。レベル1や2くらいの相手なら、美琴は相手が作ろうとしている電磁場ごと全部上書きして、キャンセルできる。だが、美琴に対してそれができる発電系能力者はいないはずだ。それに、当麻はそういう感じの能者力だとは思えなかった。「そういう同種の能力でキャンセルするのとは、別な感じがするんですけど」「ふむ……。同種で上位ではないというなら、能力としてより高位である、という可能性はあるかもしれないな」「えっと、どういう意味ですか?」どう説明するかわずかに木山が思案顔を見せた。「察するに君は発電系能力者<エレクトロマスター>だと思うが、この系統の能力者は、静電気力と磁力の両方を使えるのが一般だろう?」「え、ええ。まあどっちかしか使えない人も結構いるみたいですけど」美琴はどちらにも、不得手はなかった。というか、それらの力は統一されたひとつのものだという感覚が美琴にはある。「より正確に能力名を定義するなら、静電気力だけを操れる能力者こそをエレクトロマスターと呼び、磁力だけならマグネトロマスター、両方を使える能力者をマグネエレクトロマスターとでも名付けるべきだな」「はあ」話が見えず、美琴は生返事を返した。それに取り合うでもなく、木山は手にしたスープカレーの飲料缶をぐびりとやった。「電場しか扱えないエレクトロマスターにとって、マグネエレクトロマスターはより高度な理論をベースにした能力と言えるだろう? そしてこの両者が戦った場合、エレクトロマスターが電場を操ることしかできないのに対し、マグネエレクトロマスターは磁場を使って間接的に電場に干渉することも出来る。より世界の本質に迫った理論に基づく分、使える能力は相手の理解の及ばないような多様さ、奥深さを備えているはずだ。もちろん同レベルの能力者で比べないと無意味だがね」「簡単に言っちゃうと、クーロンの法則とオームの法則を改変するレベルの能力者より、マクスウェルの電磁気学をベースにした能力者の方がすごい、ってことですよね」「誤解を含まないでもないが、大胆に簡略化するとそういう説明になる。そして、こう言えば、君のような静電気力と磁力の両方を統一して扱う発電系能力者<エレクトロマスター>より、より高位な能力者が存在しうることに気づくかい?」「さらに別の力まで統一した理論をベースにするってことですか?」打てば響くように言うことを理解する美琴に、木山は愉快げに答えを返す。「そう。この学園都市の発電系能力者<エレクトロマスター>はマクスウェルの電磁気学、つまり電場と磁場の統一理論をその理論的背景にもつ能力者だ。ならば、この電磁場と『弱い相互作用』までを統一したワインバーグ=サラムの電弱統一理論をベースにした能力者なら、君のような発電系能力者の理解を越える方法で能力のキャンセルをする方法を知っているかもしれない」「でも……電磁気学以上に未完成な部分の多い理論でしょう? それに、電磁力は人間が観測できますけど、『弱い相互作用』なんて、人間の周囲で関係してるの、ベータ崩壊くらいじゃないですか」「つまり電荷を持たない中性子から荷電粒子である陽子と電子を生み出せるということだろう? エレクトロマスターにはできない真似だ。他にも、今も君の体を素通りしているニュートリノにも干渉できるな」木山は可能性の話をしているだけで、それが事実だと言っているわけではないのだろう。改めて、あのツンツン頭がそういう能力の持ち主か、と考えてみる。正解という気がこれっぽっちもしなかった。「まあ、君の提起した『どんな能力も効かない能力』を字義通り受け取るなら、電弱統一理論ベースでは不十分だろうな」この世に存在する『力』は、静電気力と磁力、重力、そして素粒子オーダーの距離でしか働かない『弱い相互作用』と『強い相互作用』の五種類だ。電磁力を統一して四種類と数えることもある。普段全く気にすることのない残り二種類の力の名前は、冠詞というものの存在しない日本語では、ひどくマヌケな響きだが、もう固有名詞化しているので仕方ない。百年前に静電気力と磁力は統一理論で説明されるようになり、学園都市ができるかどうかという時代、美琴の父親たちが幼かった位の時代に電磁力と『弱い相互作用』は統一された。『強い力』もその範疇に含めた大統一理論は美琴の生きる今この時代にほぼ完成されつつあり、すべての力をひとつの理論で説明する、すなわち『万物の理論』は、あとは重力を統一すれば完成、というところまで来ている。ただその壮大な目標は、学園都市というまったく新しい領域、超能力という科学を生み出した街をもってしても、未だ達成されていない。せいぜいが、不完全な理論をつなぎ合わせて、11次元空間を利用したテレポートが実用化されている程度だった。それとて自分自身をたかだか数百メートル転移させられるだけでレベル4などという大層なレベルがつくほどに、テレポートはまだ未完成な領域にある。「どんな能力も効かない能力があるとしたら、完全な『万物の理論』をベースとしたものである、ってことですか?」「ただの推論だよ。希望的観測といってもいい。もっとも、私の個人的な想像ではなく、それなりの数の研究者が考えていることだと思うがね。要は、レベル6へと至るひとつのアプローチは『万物の理論』を足がかりとすることだ、と考えている研究者は多いということさ」「はあ……」「内情は知らないが、学園都市の第一位や二位だって、そういう感じがしないかい?」「え?」たった二人しかいない、自分より高位の能力者。詳細は知らないが、その能力については少しくらいは聞き及んだことがある。「あらゆる場のベクトルに干渉する『一方通行<アクセラレータ>』は、重力場だろうが電場だろうが、場の種類を選ばない点で万物の理論と関連しているとも言える。そして第二位は質量を操る能力者だ。『万物の理論』を困難たらしめているのは、質量と重力という相対性理論と密接に関わる概念を、量子力学に根ざす素粒子物理に統合することの難しさだからね。質量というものを最も理解する能力者、という点で彼も『万物の理論』を志向していると言える。結論としては、君の言う『どんな能力も効かない能力』に一番近いのは『一方通行』の能力だろう」それが木山の見解だった。『一方通行<アクセラレータ>』と呼ばれる学園都市第一位の人間の顔も本名も、美琴は知らない。だからあのツンツン頭がそうであるという可能性を否定する材料はないのだが、どうも、ピンとこなかった。何をどう考えても、アイツはそんな大層な能力者じゃない。アイツの能力は、もっと単純で、もっと得体がしれない何かのような気がした。そんな能力、あるはずがないとも同時に思うにも関わらず。「話が長くなってすまなかったね。ところで、君は誰かそういう能力者に心当たりでもいたのかい?」「え?」「なに、君の態度が、特定の誰かのことを聞きたかったように感じられたのでね」そんなコメントを受けて、慌てて美琴は頭の中にいるアイツを思考の隅へと追いやった。「いえっ! あの、ただの都市伝説の話です。都市伝説」「都市伝説か……。懐かしい響きだね。最近の学生さんでもそういう話をするのか」そう歳をとっているわけでもないが、木山はまるでおばさんを自任するかのように、そう独りごちた。休憩を挟み、美琴は木山を引き連れ、駅前に点在する駐車場を巡った。割と街に出るのが好きな美琴にとって、そこは自分の活動圏内だった。駐車場の場所くらいはだいたい把握している。二つほど巡ったところで、どうやらアタリらしい場所にたどり着いた。「トラックの影で見えないが、おそらくあそこだろうと思う。済まないね、付き合わせてしまって」「いいんですよ。乗りかかった船ってヤツです」「そうだ、彼にも礼を言っておいてくれ」「彼?」「君に会う前にいたあの男子生徒だよ」「ああ、アイツにですか。まあいいですけど」美琴は当麻の携帯番号も、それどころか名前だってまともに知らないのだが、また探し出して会うつもりだったのであっさり頷いた。「君もそうだが、いい子だったな」「おせっかいなだけですよ」まったく、と美琴はため息をついた。「別に頼んでもないし必要でもなかったのに、こっちの厄介事に首突っ込んできたり。その後もなんだかんだで毎回毎回いいようにあしらわれるし。そういのが上手いっていうか、ムカツクっていうか」出会ったその日の夜と、当麻を見つけて追いかけた数夜を思い返して、美琴は毒づいた。電撃によるスタンを狙うような攻撃まで美琴に繰り出させておいて、平気で逃げ切るのだ、あのツンツン頭は。全然こちらを恐れもしないし、実際いくら能力を使ってもそれが通じたためしがない。学園都市第三位のプライドを傷つけておいて、そんなことに全く頓着せず飄々としている。絶対にごめんなさいと言わせないと、美琴の気が済まないのだった。そんな風に内心で苛立ちを募らせている――と本人は思っている――美琴の顔には、ほほえみが浮かんでいて。納得したように木山は頷いた。言葉と裏腹な感情を推し量ることなど木山には不得手中の不得手だが、美琴のそれはわかりやすかった。「好きなんだな」「――――は?」端的な、短い木山の感想に、美琴は思考を完全に停止させた。ついでに足も止まる。「ど、どこを聞いたらそんなことになるってのよ! 私は全然そんな」本気で美琴は戸惑っていた。だって、そんなことを言われる理由がまったくわからない。だが美琴の混乱をよそに、木山は記憶の海の中から、美琴を表す言葉を思い出そうとしていた。「君はあれだろう。一昔前に流行ったとかいう、ツン……ツンデル? ツンドラ? ああ、ツンデ……」かあっと頬に血が登るのを美琴は感じ取っていた。それは相手に対する単なる怒りとは明らかに違う感情なのに、それが何なのかをきちんと理解しないままに、ただ声を荒らげた。「ありえねーから!」ドン、と美琴は地面へと踵を強く叩きつける。感情の高ぶりがごく自然に電界への干渉を促し、軽い放電が起こった。「おや、私の見かけ違いだったかな」「そうです! だって、そんなんじゃないし!」「まあ、あまり気にしないでくれ。人を見る目があるとは、お世辞にも言えたものじゃないからね。私は」木山が肩をすくめ、そう美琴に言い放った。それ以上木山に言い募る言葉が多い浮かばなくて、不機嫌そうに美琴は黙り込んだ。木山が数百メートル先に自分の車を見出すまで、かけられた言葉が美琴の頭の中でグルグルと回り続けていた。だって、本当にそんなんじゃないのだ。別にアイツのことなんて気になっていないし、変な気持ちとかを持っているわけじゃない。単に気に入らないだけなのだ。だから、なんとか見つけ出してとっちめてやりたいだけで。「ああ、あった。ありがとう、君のおかげで無事に見つかったよ」あれだ、と木山が指を指す。その先には青いスポーツカーが止まっていた。。当麻に押し付けられた仕事は、これで終わりになりそうだった。まったくなんの用事があってコッチに面倒ごとを押し付けたのか、と文句を言ってやりたい気分になりながら、美琴は礼を言う木山に返事を返した。当麻の汗ばむ腕をぎゅっと自分の腕に絡め、光子は上機嫌で街を歩く。彼氏が隣にいるだけで、嬉しくて仕方がないのだった。「まだ結構汗かいてるだろ」「大丈夫ですわ。別に、気になりませんもの」指定の時間ギリギリに走って間に合わせた当麻は、デート前としてはいくらか残念な位に汗をかいている。もう息は整っているが、汗が引くまでにはまだかかりそうだった。「婚后は出てくるとき何も言われなかったか?」「言われるって、誰にですの?」「湾内さんと泡浮さん、だろ? よく相談に乗ってもらってるの」「……そんなに、お名前を覚えるくらいお話したかしら」ちょっと面白くない。名前を出したのは光子なのだが、別に当麻に覚えてもらいたいとは思っていなかったのに。「結構何度も名前聞いてる気がするけどな」当麻がそう言って光子を笑った。そんな反応に誘われて、光子は唇を軽く尖らせて当麻の腕を軽く叩いた。拗ねてみせるけれど、内心では嬉しいのだった。このやりとりは当麻が甘えさせてくれているということの証だから。「上条さんは誰かに話したりしませんの?」「……いや、まだ。男同士でそういう話すると自慢にしかならないしさ」女性同士でもそうなのかもしれないが、プライドの絡む微妙な問題なのだ。彼女のいるいないは男としての優劣みたいなものがついてしまうし、付き合ってすぐに分かれるようなことがあったらむしろ名を落とすことになる。誰かに言うにしても、それはちゃんと光子との関係が落ち着いてからのつもりだった。とはいえ、そういう上条の事情は光子の知るところではない。光子は少し不満そうな顔をした。「そうですの」「恥ずかしいだろ? 付き合ってすぐに、俺彼女できたんだぜなんて話をするのはさ」「それはそうですけれど」光子とて湾内と泡浮に話したのは、当麻と付き合う前から相談をしていたからだ。それ以外の相手に、お付き合いする相手ができましたなんて自分から言いふらすようなことはしていない。女の噂はあっという間に広がるものだから、いずれは光子に相手がいることも、周知の事実になるのだろうけれど。「いつか、ちゃんと紹介するって」「どなたに?」「よく遊んでる友達にさ。言っとくけどどっちも男な。よくつるんでるのが二人いて、片方は部屋も隣だしな」「……ふふ」ころころと表情を変えて、今度は嬉しそうに光子は笑った。「どうした?」「ちょっと想像していましたの。上条さんとお付き合いさせていただいております婚后と申します、って言ったらいいのかしら」「なんか恥ずかしいな」「はい。でも、そういうことって、嬉しくなります」上目遣いで当麻をのぞき込んだ後、光子は先程にも増して、当麻にべったりとくっついてきた。それが可愛くて、つい当麻も微笑んでしまう。「どんどん、可愛くなってる」「えっ?」「初めて会った時より、婚后は100倍は可愛くなった」「本当ですの?」「ああ」「嬉しい」褒められたのがたまらなく幸せだった。当麻に可愛いと言われるだけで、舞い上がりそうなくらい、心が満たされる。「でも、もしそんなふうに思ってくださるんだとしたら、それは上条さんのおかげですわ」「そうか?」ゆっくりと深く、光子が頷いた。「大したことはないって仰るかもしれませんけれど、上条さんにかけていた言葉で、色々なことがいい方向に回っていきましたもの」「婚后はもとから優しい女の子だったと思うよ」そうやって褒めてくれる当麻ににっこりと笑い返しながら、光子は首を横に振る。「そう言ってくださるのは嬉しいですけれど、きっとそんなことはありませんでしたわ」「そうかな」「そうなんです。上条さんが、私を変えてくださったから」光子の態度は、尊敬と感謝をただ当麻に向けているという感じだったけれど、当麻としては苦笑を感じないでもない。男のせいで女が変わる、というのは普通のことかもしれないが、まさか自分が当事者になるとは。「その言い方だと、俺がまるで婚后を自分好みの女の子にしたみたいだな」「光源氏の物語みたいに、かしら」くすりと笑って、そんな風に光子は茶化した。光子は読んだことがあるのだろうか、と当麻は気になった。もちろん自分にはない。「格好いいロリコンの話だっけ」「そんな言い方をすると身も蓋もありませんわ」光子が苦笑した。「ストーリーを見れば、完全に女性向けの娯楽小説そのものですけれどね」国を統べる帝の子として生まれ、類い稀なる才覚と容姿に恵まれながらも、母方の家の権力が足りないばかりに臣籍へと降下させられた光る君。それが主人公の物語だ。そしてたくさんいた彼の恋人のうち、最も近しく、最も愛された女性が紫上だ。「作者の紫式部は、同じ色を名前に持つ紫上に、自分を重ねたんですわ。光る君に幼いころから見初められて、やがて妻になるまで一番愛された人ですもの。誰だって女なら、格好のいい殿方に、導いてもらいたいんですわ」「光子も?」嬉しそうに光子はコクリとうなずいた。「私にとってはそれが、当麻さんだったんですわ」恥ずかしげもなくそう言う光子に、当麻は居心地が悪いくらいだった。どう考えても自分は、稀代の天才だとか美男子だとかでは、断じてない。身分だって、知る限りはごく普通の庶民の親から生まれたのだから特別なことはないだろう。光源氏と自分を比べるなんて、冗談にすらならない。「どう考えても光源氏なんてガラじゃないけどな、俺。それにあの話、たしか主人公は浮気しまくりだったんじゃないか」英雄色を好むというが、そういうところも自分とは断じて違う、と当麻は言いたかった。「光る君は初め、正妻として葵の君という女性を娶っていましたし、事実上の正妻と言えるくらいの寵愛を受けてからも、のちには幼い女三宮が正式な正妻の座について、紫上は立場を奪われるんでしたわね。他にも六条御息所、空蝉、夕顔、末摘花、朧月夜、花散里、明石の御方……」「ひでーな。俺は絶対そんなことにならないな」確信を込めて当麻はそう宣言した。間違っても凡人の自分にそんな色めいた展開は舞い込んでくるはずがない。「上条さんには、そんな方、いらっしゃいませんわよね?」確認を取るように光子がそう言った。ゆらっと、背後に剣呑な空気が立ち上ったような気がした。おしとやかで優しい光子のイメージとはちょっと違うので、きっと当麻の気のせいだろう。「当たり前だろ」「信じて、いますから」その言い方は、信じているという事実の表明というよりは、信じさせてくださいねという要請に近かった。柔らかい語気の裏にある強い何かにたじろぎながら、当麻は頷いた。「ところで上条さん。さっきまでは何をなさっていましたの? あの、責めるんじゃありませんけれど、いつもは余裕をもって待ち合わせ場所に来て下さるのに、今日は時間ぎりぎりに走っていらっしゃったから」「ああ、ちょっと道に迷った人に会っちゃってさ。解決はしなかったけど、知り合いが来たからそいつに任せてきた」「知り合い?」「そういやビリビリのヤツ、常盤台だよな。もしかして婚后と知り合いかも……って」詳しいことを尋ねようとして、思わず当麻は口ごもった。恨みがましい目で光子が見つめていたからだ。「……常盤台に、お知り合いがいらっしゃるんですの?」「え? ああ、そうだけど」「私より、親しかったりして」「そんなことないって。……婚后にしか、言ったことないんだぞ。好きだから付き合ってくださいって」「本当ですの?」「嘘なんて言ってない」「……ごめんなさい」疑いを向け続けるのをやめて、光子が項垂れて謝った。「こんな、嫉妬深いのなんて、良くないですわよね」「妬いたのか」「だって」自分と同じ、常盤台の女子生徒。年齢でも差はないし、能力や学力でも光子と大きな差はないだろう。自分は、その子よりも当麻に愛されるにふさわしい人間だろうか。その質問に自信をもってイエスと言えないから、不安になるのだ。「婚后は、特別な女の子だよ」「ごめんなさい。いつも、上条さんはそうおっしゃってくださるのに」落ち込む光子が可愛くて、当麻は思わず微笑んだ。頃合を見計らっていたけれど、今はちょうどいいタイミングなのかもしれない。「あのさ、せっかく付き合ってるんだしさ、いい加減、呼び方を変えたいなって思ってるんだけど」「えっ?」人目を今だけ気にせずに、当麻は光子の髪に触れた。「光子、って呼んでもいいか?」「――――っ! あの、私も、上条さんじゃなくて」切ない顔をして、光子が当麻を見上げる。期待と喜びが綯交ぜになった、もう一度光子に恋をしそうになる顔だった。「当麻って、呼んでくれよ」「……当麻、さん」「さんもナシでいいけど」「ううん。当麻さんって、お呼びしたいの」「俺は呼び捨てでいいのか?」「呼び捨てにしてくださったほうが、嬉しいです。私は当麻さんのものなんだなって、そう思えますから」思わず足を止めて、二人はじっと見つめ合った。「光子」「当麻さん」名前を呼ぶだけで、嬉しい。それは特別な関係であることの証だから。このままずっと見つめ合って、もっと仲を深めたいと願う二人だったが、いかんせん場所が悪かった。邪魔だと言わんばかりに、通行人が当麻の肘にカバンをぶつけて通り過ぎていく。「ここじゃ迷惑か」「……そうですわね」不満顔で光子が同意した。二人でゆっくり落ち着ける場所なんて、そうそうない。「個室でゆっくりお話できるような場所、カフェなんてないのかしら」「んー、少なくとも俺は行ったことない。大人向けだろ、そういう所って」個室でカフェというのは普通なのだろうか、当麻には判断し難かった。それに、二人きりになれる場所の代表的な場所にひとつ、当麻は心当たりがある。「部屋に入るまでがちょっと気になるけど、うちにくれば二人っきりにはなれるな」「えっ?」「光子は女子中の寮だから俺が入ることなんて絶対に無理だろうけど、俺の部屋なら結構なんとかなるんだ。彼女連れ込んでる奴って結構いるし」規則としては、確か男子の部屋に女子を連れ込むのは御法度だった気がする。高校生にもなれば間違いを起こす確率がずっと上がるからだ。だが、不良ではないにせよ学園都市の落ちこぼれの集まる学校だからか、管理は行き届いていないのが実情だった。そんな当麻の提案を聞いて、光子はすこしぼうっとして空を見上げた。「光子?」「あの……当麻さんのお部屋は、キッチンはありますの? 常盤台は個室にそういうものがありませんの」「うちはワンルームだからな。狭っ苦しいけどキッチンは付いてる。それを聞くのってさ、もしかして」ゆっくりと光子が頷いた。思い出していることは、二人とも同じだろう。まだ付き合うより前。冗談から出た話で、いつか光子が当麻の家に来てご飯を作る、なんてことを言っていたはずだ。「二人っきりのおうちで、当麻さんのために、ご飯を作る」「……してくれるのか?」「あの。笑わないでくださいましね。そんなに、上手なわけじゃなりませんの」「そんなの俺だって一緒だって」「きっと当麻さんより、もっと」「いいよ。光子が作ってくれたものならなんでも」優しくそういうと、ちょっと光子は拗ねた顔をした。美味しくなくてもいい、期待はしない、と言われているようでそれはそれで面白くないのだ。「せ、せっかくお伺いするんでしたら、それまでには少しは練習しますもの」「……幸せだ」「え?」「こういう優しい子に、彼女になってほしかったからさ」「……っ!!」満面の笑みで、光子は当麻の腕にしがみついた。「いつか、誘ってください。精一杯練習しますから」「ん」幸せすぎるのは、光子だって同じだった。撫でてくれる当麻の手の感触に、光子はそっと目を細めた。その後、目的地だったペットショップへ寄って簡単な買い物をし、何気ないファストフード店で、完全下校時刻ギリギリまでずっと喋っていた。デートとしては低予算で、大したイベントもない逢瀬だったけれど、当麻にとっても光子にとっても、幸せな時間だった。だからなおさら、別れの瞬間がさびしくなる。「それじゃ、ここまでだな」「ええ。いつも遠回りをさせてしまってごめんなさい」「いいんだって。大した面倒でもないし、光子と長くいたいから」「ふふ」夕暮れ前の、学舎の園の入り口。身分証明書によるチェックを必要とする、男子禁制の領域へのゲート前で、二人は最後の言葉を交わす。同じことをしている学生は周りにもちらほらいて、別の男子と視線が合うと互いに気恥ずかしかった。相手のいないらしい女学生もいて、ちょっと恨めしそうな顔をしながら横をすり抜けていく。「これ、俺たちが付き合ってるってバレバレだよな」「隠したいんですの?」「そんなことはないけどさ」光子は気恥ずかしくないのだろうか。「いつかは皆に知られることですし、当麻さんみたいな素敵な彼氏がいるのは、自慢ですもの」「み、光子。声大きいって」周りにいる男子に聞こえるのは、御免こうむりたかった。「ほら、もうそろそろ門限だろ。中に入らないと」「……ええ、そうですわね」学舎の園を外から隔離する門はちょうど駅の改札みたいになっていて、おとがめなしにここを通れる時間は、もうあと数分程度だった。門限超過が重なると外出不許可になるから、絶対にくぐらないといけない。そしてもちろん、当麻はその先へはいけない。「……寂しい。当麻さんと離れるの、嫌」「俺もだよ。ほら、またすぐにメールするから」「もう。私だけがわがままを言っているみたい」「二人で文句を言ってても、どうしようもないだろ? ほら、光子」「あ……」人前だから、抱きしめられたりはしない。当麻は優しく髪を撫でてくれた。その手を自分の頬へと導いて、光子はぬくもりを確かめた。「それじゃあ、当麻さん。今日も楽しかったですわ」「俺も。次に会う日も、すぐに決めような」「はい」互いに微笑みあい、しばしの別れを名残惜しんでから、光子はゲートをくぐった。振り返ると、当麻が手を振ってくれる。それに手を振りかえしてから、光子は自分の寮へと歩みを進めた。離れてすぐは寂しさに胸がきゅっとなるけれど、だからと言ってずっと当麻との逢瀬だけを楽しめるわけではない。見知った道を歩くにつれ、だんだんと心は日常を取り戻していった。常盤台の学生寮まで、もう路地を幾つか曲がったところ。ゲートの門限とは別の、寮のほうの門限に間に合うか少し時間が怪しくなって、光子は時間短縮になる裏道を歩いていた。立ち寄れる商店がないため、人通りが少ないその道だが、ショートカットのおかげで何とか間に合いそうだった。西洋風の街並みを模して造られた学舎の園の路地は、その多くが車がギリギリすれ違える程度の狭い路地に、三階建てくらいの石造りの建物がひしめいているせいで、夕方になると地面に日の光が届かず、急に薄暗くなる。男性を排除しかなり安全な場所とはいえ、長居はしたくない雰囲気があった。カツカツと、歩みを進めるうちに、光子はふと違和感を覚えた。かすかに、足音が自分以外にもう一つ聞こえたのだ。この道は常盤台の寮くらいしか目的地がないし、常盤台の学生はもう他にいなかったことを確認している。「……?」光子が歩みを止めると、足音は一つも聞こえなくなった。後ろを振り返っても、誰もいない。気のせいだったかしらと思い直し、再び歩き出す。今後は踵が立てる音が控えめになるよう、少し慎重になった。カツカツと、石畳に再び光子の足音が響く。だがそこに、やはり常盤台指定のローファーとは違う、誰かの足音が混ざっていた。「――どなた?」毅然とした声で、光子は誰もいない路地の先へと声をかけた。反応はなかった。「私を、常盤台中学の婚后光子と知っての狼藉ですの?」不審な人物がいるなら、放置することはできない。警戒を込めて自分の来た道を睨みつけながら後ろへ二三歩下がる。突如、何もないはずの道端で、光子は何かに――否、誰かにぶつかった。「……っ!」慌てて振り返る。けれど、そこには依然として人影は見えなくて。「なん……ですの?」そうやって、ひとり呟いたその瞬間だった。背後から髪と、首筋に何かが押し付けられる感触。振り払うだとか、そんなことを考えるよりも先に、衝撃が光子を襲った。「あ、――っ!」他人事のように、自分の体が軽い悲鳴を上げた。そして何が起こったのか、それを理解するより先に、意識が暗転していった。スタンガンによる攻撃を受けたのだと理解するだけの時間は、光子にはなかった。「……」どさりと崩れ落ちた光子を、スタンガンと大きなマジックペンを手にした少女が見下ろす。この常盤台の女が恋人と別れこの道にたどり着くまで、つけ狙った甲斐があった。倒れこんだ光子の体を押し、あおむけにして流麗な顔のパーツを確認する。すこし歪んだ喜びを口の端に浮かべて、少女は光子の髪を掻きあげた。手にしたマジックペンのキャップを開ける。そして少女は、無慈悲にその先を光子の眉に押し付けた。そうして光子は、常盤台の女学生を襲った一連の事件、後に美琴や風紀委員である白井、初春、そしてその友人の佐天らによって解決されたその一件の、最初の被害者となった。*********************************************************あとがきアニメ版超電磁砲第三・四話の焼き直しのストーリーでした。当麻と美琴の絡みについては大筋でアニメ通りになるよう書きました。あえて大きな改変を行わなかったのは、当麻に恋人がいるというバックグラウンドの部分が変化することで、このストーリーの意味が全く逆になる事を強調したかったからです。原作じゃあこの話は、主人公の美琴が気になるアイツとすれ違うっていうニヤニヤ回だったんですけどね……。また、源氏物語を引き合いには出しましたが、だからと言って紫の上(に例えた光子)より前に当麻が別のヒロインを正妻にする展開なぞ考えておりませんし、後からやってきた若いヒロインに正妻の座を奪われたり、あまつさえそのヒロインがステ……別の男の猛烈なアタックにほだされて浮気→不義の子を身ごもる→事実を知りつつ当麻が自分の子として養育する、なんて展開にはなりませんので、どうぞご心配なく。……しかし源氏物語のストーリーをパクるとドロドロの恋愛物語になるなあ。