ありふれた夕方の雑踏の中を、インデックスは早足で歩く。記憶を振り返れば、それは慣れ親しんだペースだった。長身のステイルと神裂にとっては遅めで、インデックスには早め。仲良くみんなの中間を取った早さを、インデックスの体は覚えていた。そしてもちろん、隣を歩くステイルがそれを忘れるわけもない……はずなのだが。どうも、一挙手一投足に流麗さがないというか、ありていに言って緊張していた。「ようやく、落ち着いたね」「うん」体の動きは言葉と裏腹なのだが、ステイルはそうインデックスに切り出した。二度と、ないだろうと諦めていた。こんな風にインデックスと一緒に歩くことなんて。だからこそ、ぎくしゃくするものがあるのだ。例えば全てを忘れてしまう直前に、自分はこの子になんと約束したんだったかとか、そういうことを考えるとステイルは歳相応の緊張を強いられてしまうのだった。こんな醜態、インデックスと二人きりでもない限り絶対にさらすことのないものだ。「で、昼からまるで無関係な仕事をこなしたあの一件については、結局、円満に解決したってことで、いいのかな?」「うん。みんな、最悪の事態は避けられたみたいだから」「そうかい」無難な質問を、ステイルはこなしていく。婚后光子に高速道路のど真ん中に放り出され共闘させられたせいで、事の顛末はあまり知らされていないのだ。とりあえずステイルが打倒した側がわかりやすい非道であったのが有難かった。どちらが正義かわからないような、そういう判断の難しい案件だったら手を出すのは余計に躊躇われただろう。そういう意味で、一般人に危害を加える結社の類を妥当するのが生業のステイルにとってはいつもの仕事に近いといえた。だが同時に、学園都市という名のこの町に、改めてステイルは空恐ろしいものを感じてもいた。この事件を打開した立役者だとか言われていた、長髪の黒髪の女の子と、トラックに同乗したあの御坂とかいう女の子を思い出す。どちらも、ただの素人だった。心構えという一面で見ればステイルからすれば甘いにもほどがある。聞けば普段は女子中学生だとか。少なくとも『必要悪の教会<ネセサリウス>』という団体に所属するステイルとはまるで立ち居地が違う。だというのに、そんな女の子ですら、ステイルが危機と感じるような敵を相手に大立ち回りを演じ、そして自分たちの望む未来を手繰り寄せられる。この町の子供たちが何気なく手にし、日々開発している能力。それがいかに強大で危険か、外部の人間だからこそステイルは思い知らされていた。この町では、何気なくすれ違う学生の中に、ステイルが脅威と感じるような人間がいくらでも存在している。そんな日が来ないことを祈るばかりだが、この町が中心となってまとまった科学サイドと魔術サイドがぶつかることがあるなら、この町は確実に脅威となる。ステイルは沈み込みかけた意識を引き上げ、インデックスに再び問いかける。「彼女は……エリスって言ったっけ、あの後、どうしたんだい?」それも気になることだった。こちらは困ったことに学園都市で知り合った同業者だからだ。土御門には連絡を済ませ、問題があれば対処が行われるだろうが、少なくとも今日は、ステイルがあの少女に関わっている暇はない。すぐにでも片づけるべき別の案件を抱えているからだ。「……ごめんね。ちゃんと聞いてなかったから、私もよく知らない」「そうかい」二人を取り巻く景色は、歩みを進めるたびに変わっていっている。駅前の繁華街を歩いているので人通りは多い。今は飲み屋街の赤提灯が並ぶ通りを抜けて、ラブホテルの並ぶ一角を抜けている。ステイルはなんとなくそのことに落ち着かない気持ちでいるのだが、インデックスの横顔があまりわたわたとしていないので、平静を装っていた。そのホテル街も抜けて、再び駅のホームにほど近い場所へと戻ってくる。雑踏にまぎれて話をして、誰かに注目されるのを避けているのだった。インデックスがステイルのほうを振り返って、わずかに首をかしげた。「ねえ、それで話って何かな?」「え?」インデックスの態度に、ステイルは戸惑っていた。素っ気無いような、そんな風に感じるのだ。大体真面目な話を始めれば、旧交を温めるような優しい気持ちになどなれないのが『必要悪の教会<ネセサリウス>』だ。それをインデックスも分かっているだろうに、こうさっさと本題に入ろうとするのは寂しい気持ちにならなくもない。……ステイルはそんな自分の心を戒める。素っ気無いなんてのは、久々にこんな機会を得て動転している自分が勝手にインデックスにかけた色眼鏡だ。インデックスは真面目な子だ。学園都市にステイルがわざわざ潜入するほどの事件があると知ったなら、それについてもっと詳しくなろうとするのはおかしくなんてないはずだ。ステイルは短くなったタバコを新しいものに替えながら、気持ちのスイッチを入れ替える。そして、言葉を選びながら説明を始めた。「察しているとは思うけど。僕は君と旧交を暖めに来たわけじゃなくて、ある任務を帯びてここにいる」「……どんな?」「とある場所に、女の子が監禁されている。その子を助け出すってのが僕の仕事なんだ」インデックスはそのステイルの言葉を聞いて考えを巡らせる。科学の町でステイルが事件に首を突っ込むというのだから、それは間違いなく魔術絡みなのだろう。「敵は誰?」「ちょっと回りくどいけど、事情を追って説明するよ」端的に言う、ということをステイルは避けたかった。決してインデックスにとっても無関係の事件ではないから。順を追って説明することで、インデックスに感じさせる負担を減らしたかった。「三沢塾って、さすがに君も知らないかな」「うん。聞いたことはないんだよ」「日本で最大手の進学塾さ。日本は大学に入学するための試験がかなり難しいらしい。まあ科挙に始まる東洋の普遍的な現象だね。より高難度な試験を課す大学ほどステータスのある大学なんだ。で、その難しい試験に合格するために、日本の高校生は高校以外に学習塾というやつに通ってさらに勉強をする。その学習塾で一番大きいのが三沢塾なんだそうだ。その支部が、学園都市にもある」「それで、魔術とどう関係があるの?」「日本が珍妙な国だといっても、この街ほどじゃない。日本に広く展開している三沢塾そのものは、何の変哲もない教育機関なんだけどね。学園都市の方式だとかを取り込むためにここに作った支部が、いつしか思想的に先鋭化して、科学宗教と化した」そこまで聞いて、インデックスはあらましの予想が十分ついた。新興宗教とはどれでも多くはそうだが、現状に対する強い不満を抱えているがゆえに、そして信徒を多く獲得する必要があるがゆえに、過激な行為に手を染める傾向がある。三沢塾の学園都市支部とやらも、恐らくそうなのだろう。「その顔を見ると予想がついてるらしいね。彼らは象徴として、自らの手に希少価値のある能力者を欲したんだ」「それで間違って、魔術師でも捕まえちゃったの?」イギリス清教の信徒だったとか、そういうことだろうか。必要悪の教会の人間だとは思いたくないが。そのインデックスの質問にステイルは首を横に振った。「いいや。その程度なら話はまだ簡単なんだけどね。三沢塾が監禁した女の子の保持する能力は、とてもじゃないが魔術師にとっても無視できる代物じゃなかった」「どんなの?」「『吸血殺し<ディープブラッド>』さ」「えっ?!」その単語に、インデックスも聞き覚えがあった。存在するのかもはっきりしない、ある生き物。いや、見た人がいるという記録がないだけで、痕跡だけなら人類は何度も目にしているのだ。西洋から遠く離れたここ日本とて例外ではない。10年ほど前に、京都のとある寒村で観測されている。ソレは、生物というカテゴリに当てはめるべきかもはっきりしない。なにせ、文献に言われる通りであれば、およそ生物としての限界だとか枠組みを超越した生き物だからだ。名を、吸血鬼という。そして『吸血殺し<ディープブラッド>』は、その吸血鬼を集め、殲滅する異能を指す言葉だ。なぜ発現するのかもはっきりせず、またその効果も実証された例などないはずなのに、あるとされている異能。不確かなことが多いが、伝承を全面的に信じれば、三沢塾は吸血鬼を捕獲する下地を構築した状態にあるらしい。それも、恐らくは本人達はまるでそのことを理解しないままに。「この情報が魔術サイドに流れた時点でいろいろと問題になっていたんだけどね、吸血殺しそのものは生来の異能、つまりは超能力の一種に属する。だから案件としては完全に科学寄りで、僕らの手出しする余地はなかったんだけど、つい最近、事態はかなり変化したんだ」「……」インデックスは静かにステイルの言葉の続きを待つ。夕日は刻一刻と傾き、一日を終えようとしている。夜は魔術師の時間だった。そして、吸血鬼の時間でもある。「顛末を言ってしまうと、三沢塾は乗っ取られた」「え?」「思想としても不確かで、ついでに言えばただの学習塾上がりだ。魔術師に襲われればひとたまりもないよ」「それが、私たちの敵なんだね?」「……」ステイルは答えに窮した。敵と、インデックスの前で断定したくなかった。「所属はどこなの?」「今はフリー、のはずだ。術者としての系統は、チューリッヒ学派の錬金術師、だね」ドキリ、とした。インデックスは、知り合いにチューリッヒ学派の錬金術師がいるから。とてもお世話になった人だ。ステイルと神裂とともにインデックスが行動するようになる、一年前に。ステイルの顔を見上げる。その、何かを悟ったような、そしてインデックスを気遣うような顔が、気になった。「その魔術師は昔、ローマ正教に所属していた。もっと言えば、足しげく『必要悪の教会』に足を運んでいたよ。……君は、すべてを思い出しているんだろう? もうそれが誰か、言わなくてもわかっているだろうと思う」ステイルが名前をはっきりと告げなかったのは優しさというより、その存在を認めたくないが故の躊躇いだった。そばを徘徊する清掃ロボに、ステイルは吸殻を投げつける。灰皿を携帯するよう警告するその声を無視して、ステイルはインデックスのリアクションを待った。「……先生、なの?」ステイルはその響きに、ドキリとした。考えてみれば当然だ。相手は自分と同じ、かつてインデックスの傍にいた人間なのだから。吸血殺しを監禁した錬金術師、アウレオルス・イザードは、まぎれもなくインデックスの『先生』だったのだから。だが、それでもステイルにとってその気安い先生という呼称は気持ちをざわめかせるものだった。自分の知らないインデックスを目の当たりにするのは、決して心地よいものではない。それは、本気で、心の底からインデックスを救いたい、幸せにしたいと思った男に共通の、ある種の感情だった。すがるようなインデックスの視線に、ステイルは冷淡な答えを返す。「ああ。吸血殺しを監禁し、吸血鬼を手に入れようとしている魔術師。現在あらゆる魔術結社から狙われるその人間こそ、君のかつての師であるアウレオルス・イザードさ」「どうして、先生がそんなこと……」するはずがない。インデックスの知るアウレオルスは、そういうやり方を好む人ではなかったと思う。もちろん魔術師だから、自らが魂に刻んだもっとも大切な目的のためなら何をやってもおかしいことはない。だが、人類の歴史上、まともに御したこともないような吸血鬼の力なんて、いったいどう使う気なのか。そうしてまで叶えたいことなんて、一体なんだろう。「インデックス」ステイルが、静かに呼びかけた。その瞳を、じっと見つめ返す。「君と知り合った二年目、そして君を追いかけ続けた三年目、僕らは何を胸に抱いて、行動をしていたんだと思う?」「……あ」今だから、インデックスはわかる。常にインデックスを追い続けた二人を、憎悪すらしていた。それほど執拗に二人がインデックスを追った理由。――――自分を、助けたいが故だった。世界に20人くらいしかいないはずの聖人である神裂が泣きじゃくっていた。そしてステイルが最後に真剣な表情でかけてくれた言葉、インデックスはそれを思い出す。『――――安心して眠ると良い。たとえ君は全てを忘れてしまうとしても、僕は何一つ忘れずに君のために生きて死ぬ』どれほど、重い言葉だろう。どれほど、自分を案じてくれた言葉だろう。そして、そのステイルの残像すら脳裏から消えないうちに、インデックスはまた別のシーンを思い返す。アウレオルスが、眠り際の自分にかけてくれた言葉を。その時の表情を。……ステイルの表情と重なったというのは、どちらにもきっと失礼なことだろう。とても思いつめて、本気で言った言葉だったのがよくわかる。「嘘、だよね……」「そうなら、笑い話なんだけどね」「先生は、私を」それ以上先が言葉にならない。だが言いたいことはステイルには伝わっていた。「おそらくは、ね。記憶を失ったままのはずの君を助けるために、アウレオルスは吸血鬼という禁断の果実に手を出そうとしているんだ。いや、最悪の場合、彼はもう手にしているのかもしれない」それはこの一件をアレイスターから聞いて、ずっと懸念していることだった。アウレオルス・イザードは錬金術師だ。通常の魔術師とは異なり、あまり攻撃的な技能を有していないはずなのだ。もちろん、格闘家のような強靭な肉体を有しているわけでもない。そんな男が、『吸血殺し』を匿えるということは、ステイルの知らない何らかの術式をもって、その少女を御しているということだろう。吸血鬼を捕まえる気なら、そうした術式をむしろ持っていないほうがおかしい。そう考えれば、最悪の可能性として、既にアウレオルスが『吸血殺し』にとどまらず、吸血鬼そのものを捉えている可能性すらあるのだ。「……」「インデックス」思わず足を止めたインデックスに、そっとステイルが声をかける。「彼を止めるのに、力を貸してほしい。遅れれば、恐らく学園都市に侵入した他の魔術結社との間で吸血殺しの取り合いが始まるだろう。吸血鬼がそこにいれば、吸血鬼を認めない教会勢力によって、アウレオルスや吸血鬼、『吸血殺し』のすべての関係者の抹殺も試みられるだろう。君がいなければ、僕一人でそれを止めるだけの余裕はない。アウレオルスの生死を気にすることはできずに、『吸血殺し』の少女を助けるだけで精一杯だろう。まあ、君に助けてもらってもなお、それが限界かもしれないけどね」他意なく、ステイルはアウレオルスに対しては冷淡だった。魔術師が願いをかなえるために行った事のツケを一緒に払う気はない。「ステイル。お願い、先生の所に、私も連れて行って!」インデックスの返答は、すぐだった。その答えに、ステイルは二律背反の思いを抱える。全てを思い出したインデックスに、ステイルは事実を話さざるを得なかった。そして打ち明けてしまえば付いてくるのも予想できたことだ。こうすることで、死者の数を減らせる可能性は上がる。そしてきっと、インデックスのためにも、これが良かったのだろうと思う。だが、インデックスを危険に晒すのは、間違いなかった。だから、ステイルとしては、ためらいがないわけではなかった。だが結局、内心の苦悩を、ステイルはインデックスに見せなかった。「こちらとしても手間が省けて助かるよ。幸い、吸血鬼がいるという情報があるわけじゃない。すぐ行動に移れば、アウレオルスを説得をしてあっという間に解決できるかもしれないね」「……だと、いいね」「油断でなければ、希望は持っているべきだよ。ところで一応君の保護者になっている、あの二人には知らせるのかい?」「あ……」夜遊びは厳禁だと釘を刺されたところだった。説明をすれば、二人は絶対に駆けつけてくれるだろう。だけど、必要以上に心配をかけそうだった。そして、自分の過去にまつわる話に、二人を触れさせるのが怖かった。二人は、今のインデックスの居場所だったから。「とうまとみつこは、関わらなくてもいい人だから」「そうだね。特に婚后光子は超能力者だ。昼間はあちらに巻き込まれたが、本来僕らは交わるべきじゃない」「うん。そうだよね」「まあ、楽観的な見通しを建てるなら君の説得がメインになるから、助けは必要ない。大所帯も面倒だし、今回は僕らでやろう」「うん。ステイル、なんとか先生を、止めなくちゃ」「……ああ、そうだね」ステイルが、足を駅のほうに向けた。今すぐに、その三沢塾へと向かう気なのだろう。インデックスとて準備は整っている。ステイルのすぐ後ろを追った。「そうそう。吸血殺しの担い手について、きちんと話していなかったね」ステイルがシャッと一枚の紙を胸から取り出し、インデックスに広げて見せた。「えっ?!」驚きに、インデックスが目を見開く。そこに描かれていたのは、知った顔だった。腰まである黒髪に薄い表情の女の子。姫神秋沙だった。歩き慣れた第七学区の雑沓を、垣根は颯爽と通り抜ける。機嫌はかなり良かった。エリスから会いたいと連絡があったから。今、垣根のいる場所は割と治安の悪い通りだ。その道を、ショートカットになるからとまったく臆さず進んでいく。女の子が歩けばいろいろと面倒事の起こりそうな場所だが、垣根は女の子でもないし、そもそも銃による遠方からの狙撃ですらも危害を加えるのが難しい人間だ。誰一人垣根に近づく人間はいなかった。そんなわけで、足取りも軽く革靴をカツカツ言わせていた垣根だったが、ふと視界の隅に、女の子を見つけてチッと舌を鳴らした。「あの馬鹿女、またかよ。阿呆なのか?」ここはコスプレで歩くような通りではない。何の趣味かは知らないが巫女服で一人歩きなんぞ、ある意味スキルアウトの連中にケンカを売っているようにも見える。襲ってみろ、と言わんばかりの不用心さだ。いつぞやのようにバックには黒服の連中が山ほど控えているのかもしれない。放ってもいいだろうとは、思う。というか普段の垣根なら確実に無視だ。だが、もう一度、舌打ちをする。自分に向けて。「善行なんぞいくら積んでもエリスのご利益は変わらねぇけどな」垣根は足を向ける。不良に絡まれ、腕をつかまれている姫神のほうへ。そんなことをしたって別にエリスに報告する気もないし、何も変わらないのだが。だがもし無視を決め込んで、それをエリスに教えたら、きっとエリスは自分を咎めるだろう。そういう、エリスの良しとしない在り方はなんとなく避けておこうと思うのだ。垣根はため息をつきつつ、不良たちに声をかけた。「おい、散れ」「あ? なんだ、彼氏さん登場か?」「ちげーよ、こんな馬鹿女の連れ添いなんぞ御免だ」「随分と。酷い言いようだね」「好き好んでこんなところを歩くお前を馬鹿女と言って何がおかしいんだ」「用がある。だからここにいるだけ」「……まあいい。とりあえずお前はここから出てまともな道に戻れ」「なぁおい、随分仕切っちゃってくれるけどよぉ、お前、なんでそんなに偉そうなの? 背後から角材でカチ割られたい?」「悪くないな、それぐらいの悪辣な手で攻めて来たほうがいいぞ。やりたいなら」「……この通りでそんな台詞を吐くやつがいるなんてな。テメェ、顔は覚えたよ」「お前より偉い奴はとっくに覚えてるよ。ほら、隣のやつの蒼白な顔見てからもう一回考え直せ。で散れ」言葉を吐くのも面倒くさい。雑魚の始末なんて、どんなものであっても面倒の一言しかない。一番威勢のよかった不良が仲間の耳打ちを聞いて、同様にまずいという顔をした。「……クソ、あんた趣味悪いぜ。隅っこで生きてる奴を蹂躙するのが趣味かよ」「だったらもっと煽ってるよ。近道に通っただけだ。今度からはそっちが避けるんだな、災害みたいなものだと思って」姫神を残して、不良たちが路地のさらに奥の通りへと立ち去って行った。恨めしそうな視線をくれてやった奴もいたが、それには取り合わない。姫神のほうを見ると、礼を言うでもなく、じっと垣根を見つめていた。「彼女さんに会いに行くの?」「な」「この前。シスターの女の子に会ってもう一人の男の子と君の話を聞いたから」「……聞いてどうすんだよ」「別に。学園都市第二位でも。人並みの恋愛するんだね」「学園都市第二位でも、人並みの人間なもんでね」そういって垣根は目線を外し、会話を打ち切った。「もういいだろ、それじゃあな。用事が何かは知らないが、精々頑張れよ」「うん。言われなくても。私はすることをするだけ」垣根はもう姫神のほうを見ることはせず、その場を立ち去った。その背中に、ありがとうと声がかけられる。礼を言われるほどのことをした覚えはなかったので、返事はしなかった。そのまま路地裏を脱し、駅前に出る。待ち合わせの時間まで少し待っていると、やがて遠くからエリスが現れた。よそ行きな感じのする、かわいらしい服装だった。それを見ただけでにやけそうな自分を戒める。「お待たせ、帝督君」「ん、今日も可愛いな、エリス」「あは。嬉しいんだけど、出会い頭にそのストレートな褒め言葉は顔が火照っちゃうね」「そうか?」「今日も帝督君がカッコよすぎて、ドキドキしてる」「べ、別にそういう仕返しはいらねーんだよ」「ほら帝督君も照れた」くすくすとエリスが口元に手を当てて笑う。柔らかいブロンドが風に揺れた。首元に汗で張り付いた数本の髪が、夏らしい色っぽさを感じさせた。「今言ったこと、嘘じゃないからね?」「俺も、嘘じゃなくて本気で言った」一呼吸分、二人で見つめあう。そしてどちらからともなく、軽く手をつないだ。「エリス、どこに行きたい?」「えっと、ごめん。急だったから、私もあんまり考えてないんだ」「そうか。場所、どうする? この辺りは遊ぶところは多いけど、教会の近くまで戻るか?」垣根の家がここから近いし、MARの病院からエリスの住む教会への戻り道の途中だからと、二人は第七学区のとある駅前で落ち合っているのだった。ちょっと、怖い気持ちもある。あの異常な匂いに心を乱されたのは、第七学区でやっていた夏祭りでのことだったから。ここにいたら、また遭ってしまうかもしれない。あの香りの持ち主に。……きっと、大丈夫だよね。こないだと同じ川沿いは避けて、人の多いところも避ければ。「ここでいいよ、帝督君。そのほうが長く遊べるし」「そうか。まあ、とりあえずここにいても仕方ないし、歩こうぜ」「うん」「さっきまで、何してたんだ?」「あ、えっと……。それ、ちゃんと説明しなくちゃね」「んじゃ、お茶でもするか?」「うん。えっと、公園でもいいかな? 人に聞かれるとよくない話だから」「いいぜ」人込みを、垣根とエリスは手をつないで歩きぬける。猥雑な駅前の空間を通り抜け、近くの公園に足を運ぶ。暑い季節のことでつないだ手があっという間に汗ばんできたが、どちらも手を放そうとはしなかった。垣根は視界の隅に、また見知った顔を見つけた。先ほど姫神との話でも出た修道服の少女、インデックスだ。遠目でもわかる真っ白な服を今日も来ているらしい。そして目立つ理由がもう一つ。妙にお似合いな、身長が二メートル近い、ガラの悪そうな赤髪の神父と一緒に歩いているからだ。「エリス、教会にもうじき通うっていうお前の友達、あれも彼氏持ちか?」「え? あ、インデックスだ。あの子もここに来たんだね。えっと、隣の人はステイルさんって言って、まあ、あの人がインデックスを好きなのは確定だね。ただ、インデックスのほうはそういうのにあんまり興味を持ってない感じなんだよね。あの子が一番好きなの、たぶん上条君だと思うよ」「アイツは確か、別の女がいるんだろ?」「うん。だからインデックスの好きは婚后さんって彼女がいることと矛盾しないような好きってこと。こういったら怒られるだろうけど、まだちょっとそういう事には幼いんだろうね」二人は駅のほうへと向かっていく。恐らくは別の場所が目的地なのだろう。上条たちと待ち合わせでもしているのだろうか。なんにせよ垣根はたいして興味もないので、視界から二人が消えると同時に二人のことは忘れ去った。「じゃあ、この公園でとりあえずイチャイチャするか」「うん。帝督君が、優しくしてくれるなら、私は全部任せるから」「お、おう」「ふふ。デレた帝督君ってすっごく可愛いよ」「からかうなよ」エリスが腕をぎゅっと絡めた。そんなには大きくないが、やっぱり柔らかい胸の感触が腕に当たるとドキドキした。指摘するとパッと離れてしまうかもしれないので、垣根は黙ってその感触を楽しむ。そしてあたりを見回し、人通りの少ない場所にあるベンチを見つけた。「あそこでどうだ?」「うん。二人で座ろっか」目の前が雑木林で、見た目にも悪いベンチだった。だが内緒話をするのには悪くない。ついでに睦みあうのにも。そこを垣根は手で払い、葉っぱを払い落とす。ゴミがないのを確認してから、エリスに腰掛けさせた。「ありがとう、帝督君」「エ、エリス」ギュッと、抱きつかれた。なんだか積極的なエリスの態度に垣根は戸惑った。勿論嬉しい。だが、かつてこれほどエリスが垣根に積極的に抱きついてくれたことはなかった。「どうしたんだよ? 今日、なんか」「……うん。私も自覚ある。上条君が悪いんだよね」またあの野郎か、と垣根はいら立ちを覚えた。誰であれ彼女の口から出てくる男の名前なんて気に入らないものだ。それを慰めるように、垣根の胸にエリスが髪を触れさせる。「別れ際に婚后さんと、おもいっきりイチャイチャしてるの。目に毒っていうくらい。あれで自分たちは自重してるつもりなんだからいい迷惑だよね。たぶん、今もどこかでベタベタしてるんじゃないかな」「……」「それにやっぱり、中てられちゃったんだよね。私も帝督君に、優しくしてほしいなって」「してやるさ、いくらでも」「うん」垣根はエリスの肩に腕を回す。そこそこゆとりのあるベンチのど真ん中で、二人はぴったりくっつきあった。「そういうことする前に、今日の話、しちゃうね」「え?」「あのね、インデックスと遊ぶはずだったってことしか、帝督君には言ってないと思うんだけど、あれから、結構危ないこととか、あったんだ」「危ないこと?」初耳だった。エリスはいろいろと問題を抱える身だ。厄介ごとからは遠ざかっているべきだし、気になる話だった。「何があったんだ?」「私も、完全に話を把握してるわけじゃないんだけど……」そう言いながら、エリスはかいつまんで出来事について垣根に話す。学園都市の各地で起こっていた、局地的地震について。それを引き起こしていた暴走能力者の子供たちについて。そして体晶のことに触れると、垣根が表情を鋭くして、エリスの話を注意深く聞いた。「それで、MARの所長だったテレスティーナは、体晶を使ってレベル6の能力者を作る、絶対能力進化<レベル6シフト>っていうプロジェクトに加担していたみたい」「……」「あの、帝督君?」「エリス。しばらく、その一件で会った奴からは離れたほうがいい」「えっ?」問い直すと、垣根の顔がいつになく真剣だった。「そのプロジェクトはマジでヤバい。学園都市の本丸だ。多岐にわたったでかいプロジェクトの、恐らくは末端に触れただけだろうが、もうそれ以上は関わらないほうがいい」「詳しいこと、知ってるの?」「誘われたことがあるんだよ。俺もな」「えっ?」「第二候補<スペアプラン>なんてふざけた名前を教えてくれたおかげで蹴ってやったがな。学園都市第一位の人間を主軸に、今も動き続けているはずだ。学園都市の悲願をかなえるための、一番重要な計画だ。それは」レベル5など、単なる通過点でしかない。それは何度も開発官から言われ続けてきたことだ。現状に垣根は満足したことなどないが、それでもレベル4と5の間に横たわる深い溝よりもさらに幅広いものが、自分の前には広がっているはずなのだ。それを越える具体的なプランを垣根は持ち合わせていなかった。「そんなに、危ないものなの?」エリスは確かに外道な実験の一部を垣間見たが、自分自身も実験動物であった過去を振り返るに、それと一線を画するような外道さではなかったと感じていた。「漏れ聞く話じゃあ、一万単位で人間を使い潰したって話を聞くがな」「一万って。それ、ホントなら学園都市の学生の間でもっと大きな騒ぎになるんじゃ」「やり方ってのは、いろいろあるんだよ。エリスが会った実験体だって、置き去り<チャイルドエラー>を利用して問題を露呈させないようにしてたわけだろ?」「それは、そうだけど……」「まあ、もう絶対にかかわるな。俺も連中とは接触もしないようにする。平穏な暮らしを続けられるのが一番だろ?」「うん。帝督君がいて、静かにあの教会で暮らせれば、私はそれで十分だから」それはエリスの本心だった。あそこが、自分の居場所なのだ。いずれ老いない自分があの場所にいられなくなるまで、ずっとエリスはそこで暮らしたかった。そして垣根は、そんなエリスの平穏を、守ってやりたかった。「今日も、教会の門をくぐるまでちゃんと送るよ。外出するときは、よっぽどのことがない限り、しばらくは俺と一緒の時にしてくれ」「んー、そういうのは私一人じゃ決められないよ。教会の都合だってあるし。でも帝督君が、もっと来てくれるなら」「そうするよ。エリスは、絶対に守るから」「うん。じゃあ、守られます。私も帝督君に飽きられないようにしなきゃね」「馬鹿野郎。飽きるわけ、ないだろ」「そうだといいな。上条君と婚后さんも、なんだか初々しい感じだったし、ああいうのがいいな」それを聞いて、垣根がむっとした顔になった。それに気づいてフォローをする。「もう、上条君の名前を出すと、すぐに焼き餅焼くんだから。私、上条君に特別な気持ちとか、そういうの全然ないよ? 婚后さんの幸せそうな所を見て、私も、カッコいい誰かと幸せになりたいなあって」「そのカッコいい奴ってのが誰か、見当もつかないな」「もう、帝督君って自信家なのに、こういうところは控えめだね」「能力なら客観的評価がいくらでもある。だけど、エリスに好かれるかどうかはそういうのじゃ測れないだろ」「そうだね。でも、私は結構単純だから、普通に優しくしてくれたら、好きになっちゃうよ」「俺以外でもか?」「もう。そんなんじゃないよ。帝督君は、特別……」ちょっと満足げな顔を垣根がした。そしてそっとエリスは抱き寄せられる。背中から垣根のほうに倒れこみ、支えてもらう。垣根の首に腕を回すと、顔と顔が至近距離になった。「俺は、エリスにとってカッコいい男になれてるのか」「うん。帝督君が彼氏さんなんて、夢みたいだもん」「好きだ、エリス」「うん。ね、キスしよ……」ねだるように、エリスが垣根を見上げた。邪魔な髪を指で優しく払いのけ、エリスの唇をあらわにする。震えたりはさすがにしないが、それでもたどたどしい自分の手つきにいら立ちながら、垣根はキスの準備を整えた。「エリス」「帝督君……」名前を呼ばれるのが嬉しい。他でもない自分が求められているのだという気がするから。「ん……」唇を押し当てる。夕方とはいえ夏の公園だから、二人とも汗ばんだ感じの唇だった。しっとりとしたその感触に、しばしの間神経を集中する。隠すようにそっとついたエリスの吐息がかわいらしかった。垣根のほうは、我慢しすぎると余計にエリスに気を使わせそうだったので、ちょっと乱暴目に息をつく。そして一度、離した。「ふう……」「息、そんなに無理しなくていいぞ」「えっ? もう、帝督君! 恥ずかしいんだから、隠してることを指摘するのは減点だよ?」「でも、無理しないほうがいい」「それは、そうかもだけど」「これから息継ぎなしじゃ苦しいキスするからな」「え? あっ……!」エリスがびっくりするくらいにギュッと体を抱きしめて、垣根はもっとディープなキスに取り掛かった。ここに来る前から、今日はそこまで行けたらいいなと思っていたのだった。雰囲気も悪くないし、エリスは受け入れてくれる気がした。「エリス」「帝督、君……ん」ちゅ、と音を立てながら、垣根はエリスの唇に自分の唇を合わせ、そして強引にその間に舌をねじ込んだ。どうしていいかわからないエリスの戸惑いが、その唇の動きに表れていた。こちらも引くべきなのかもよくわからず、そうやってエリスの唇を蹂躙することをやめない。するとやがて、おずおずとエリスが歯の間を開き、垣根の舌が自分の口の中に侵入していくことを許した。その隙間に、垣根は躊躇わず舌を差し込む。はぁ、と悩ましい吐息が出ていくのと入れ違いに、垣根はエリスの舌に舌を触れさせた。「んっ」エリスの舌と、舌が絡み合う。大面積にねっとりとからみつくものかと思いきや、案外と舌と舌というのは触れ合わないものらしい。垣根が抱いた感想は、そんなものだった。「エリス。もっと」「え……? どうしたらいいの?」「舌、出してくれ」「う、うん」そうリクエストすると、素直なエリスは垣根の求めに従ってくれた。ニチニチと、舌と舌が音を立て始める。途端に、そのキスが性的な意味を帯びた、とても親密なものに豹変した。「ん、ん、ああ……」エリスが頬を染めて陶然とした声を出した。それが可愛くて、夢中になる。垣根の首に回した手から力が抜けて、エリスの体が弛緩する。それをしっかり抱きとめると、エリスは嬉しそうな顔をした。「帝督君は、ぶっきらぼうだけど優しいね」「誰にも言うなよ」「どうして?」「ガラじゃねえんだ。本当にな」「うん。大好きな帝督君を独占したいから、そうするね」「エリスもその可愛いところ、俺以外に見せるなよ」「見せないよ。っていうか、帝督君以外にこんなに甘えられないもん」「エリス」「私、帝督君にこうやって可愛がってもらえるだけの価値のある人じゃないかもだけど、本当に、こうしている時間は幸せで、すっごく楽しいんだ」「そういう卑下はやめろよ」「うん。でも、ただの卑下じゃなくて、いろいろ事情のあることだから」それでも、嫌だった。惚れた女に、ほんの一欠けらでも負い目を負わせることなんて。「エリス。そういうつまらない事は、忘れさせてやる」「うん。帝督君といると、嫌なことなんて全然思い出さないよ」「今思い出してるだろ?」「もう。そういう揚げ足取りは却下です」「悪い」「帝督君、大好き」もう一度、エリスの口を吸い上げる。結構ディープキスというのは体力を使うのか、あるいはくっつきすぎているせいなのか、二人とも随分汗をかいていた。もちろんそんなことは気にならないけれど。「エリス、今日は、どこまでしていい?」「どこ、って」正直すぎるその質問に、エリスは視線を虚空にやった。「帝督君の、好きにして……」「いいんだな?」「……知らない。あっ!」垣根がエリスの二の腕を抱いていた手を、肩に滑らせた。その腕がどこに近づいているのかを、エリスは察した。だが、だめだとは言わなかった。「エリス」「帝督君……」いよいよと、垣根が覚悟を決め、エリスがその時をそっと待ったその時。タッタッと軽快なスポーツシューズの音が聞こえた。「えっ?!」ババッと二人で瞬時に元の姿勢に戻る。誰かはわからないが、後ろを誰かが走り抜けていった。夕方の公園だ。ジョギングする人がいたって、おかしいことはない。「い、行ったかな……?」「ああ」「びっくりしたぁ……」はー、と息をついてエリスが姿勢を崩す。人の視線のある中でやれるほど、二人とも肝は据わっていなかった。放心した垣根がエリスを見つめると、視線が合った。そしてさあっと、エリスの顔が羞恥に染まった。「わ、て、帝督君。今私、すっごい顔してたよね」「え?」「み、見ちゃ駄目。今はナシで」「突然どうしたんだよ、エリス」「恥ずかしいの!」「恥ずかしいって、さっきまでキスしてたってのに」そういうことではないのだ。だって。胸を触られるかも、というその時に、エリスは陶然とした顔をしていた。内心を思い返せばわかるが、たぶん自分は嬉しそうな顔をしていた。なんというか、それじゃ自分がそういう性的なことを受け入れたみたいで、恥ずかしい。駄目なのだ。垣根がエッチで自分にそういうことをするのは駄目ではないが、自分がそうしてほしいと思ったというのはアウトなのだ。「て、帝督君。のど乾かない? 私お茶かジュース買ってくるから!」「エリス? ちょっと落ち着けって」「ちょっとクールダウンなの! すぐ帰ってくるから、帝督君はここで待ってて!」「あ、おい!」エリスは腰を浮かせた垣根の肩を抱いてベンチに座らせ、小走りにそこを離れた。なんだか一人残されるのは落ち着かなかった。ちょっと、やりすぎたかと反省する。胸ってのはサイズによってはコンプレックスの塊だし、エリスにもいろいろあるのかもしれない。煙草でもあれば吸えば恰好もつく間だろうが、あいにく垣根に喫煙の習慣はなかった。仕方がないので、ぼうっとエリスの帰りを待つ。ただ、思い返してもこの傍に自販機はなかった。帰ってくるまでに、往復で五分以上はかかりそうだ。何の面白みもない雑木林を眺め、垣根は嘆息した。そしてふと後ろに人の気配を感じたと同時に、不意に、後ろから声をかけられた。「彼女と。何かあったの?」「あん?」振り向くとそこには、先ほど助けた巫女服の少女。恰好が悪くて、垣根は睨みつけながら舌打ちをした。「テメェ、見てたのかよ。趣味が悪いな」「大丈夫。今ここについたところで。あなたの彼女の顔もほとんど見てないくらいだったから。直前に何をしていたのかは。憶測しかできない」「邪推なんざいらねえよ。忘れてさっさとどっかへいけ」「そうだね。ここにいて。彼女さんを困らせるのは悪いし」「つうか、人通りの少ないところを徘徊するのはいい加減にしろよ。助ける義理もないし、これからお前がひどい目にあったって俺の知ったところじゃないがな」「じゃあどうして忠告してくれるの?」表情を一つとして変えず、無表情に近い姫神がわずかに首を傾けてそう尋ねた。垣根は足元の小石を蹴っ飛ばす。「たとえば、自分の女になら絶対にしてほしくないようなことをしてるんだよ、テメェは。お前なんぞどうでもいいが、それでも関わった知り合いにその程度のことを忠告するのはそんなに変か」姫神は髪を揺らしながら、首を横に振った。「ありがとう。意外と。いい人なんだね。でも忠告には従えない」「そうか」「理由があるから。こういうことをしているの。探し物なんだけれどね」「そーかい。見つけるまで頑張ってくれ。幸せの青い鳥<ブルーバード>は案外近場にいるらしいぞ」姫神は垣根に背を向け、歩みを再開した。空気に紛れるように、そっとつぶやく。垣根に聞かせる気はなかった。「吸血鬼<ブルーブラッド>は。なかなか見つからないんだけどね」案の定もはや姫神から興味を失っていた垣根はそのつぶやきを耳に入れなかった。ガシャコン、と軽快な音を立てる自販機の前で、エリスはようやく早鐘を打つ心臓が落ち着いてきたことにほっとしていた。「あのまま、しちゃってもよかったかな」嫌だとはこれっぽっちも思わなかった。垣根は優しい手つきだったし、エリスの不安をよく察して、リードしてくれていた。さすがにホテルや垣根の自室にお持ち帰りされるのは困るが、あれくらいなら許してもよかったと思う。「落ち着けるところが、いいなぁ」それが本音だった。やっぱり公園だとか、そういうところは誰かが来る不安が付きまとう。もっと二人っきりの所で落ち着いて睦みあいたかった。インデックスが愚痴った話によると、光子と当麻は半同棲状態らしい。何ともうらやましいことだ。自販機から二本のジュースを拾い上げ、エリスは抱くように持った。冷えすぎていて握るには冷たい。「あんまり待たせたら悪いよね」早足で、垣根の所へとエリスは戻る。その道すがら、垣根のいたほうから一人の女性が歩いてきていたたぶん、垣根と同い年くらいだろう。長い髪の毛が綺麗で、うらやましい。もしかしたら垣根の横を通って、その時に垣根が黒髪に見とれたかもしれないと思うと、ちょっと嫉妬を覚えた。とはいえ無関係な人なので、とくに話す気もなかった。急ぐこちらを気にしてか、わずかに道を譲ってくれたので、会釈をした。――――カランカランと、手に持ったはずの缶ジュースが地面に落ちた音がした。幸せが、手からこぼれた音だった。「え?」気づくと手の中にはさっき買ったジュースがない。いつ落としたのか、まるで気づかなかった。――へこんでたらやだな。帝督君に渡す時に恥ずかしい。そんなことを考えながら、早く拾わなきゃと腰をかがめようとする。いや、したはずだった。だというのに体はいつまでたっても行動を起こさない。ずっと自分のすぐそばに視線をやったまま微動だにしない。――困ったな。巫女服着ててこの人も変だと思うけど、絶対私のことも変って思われてる。事実、目の前の女性は驚きに目を見張り、一歩二歩と、あとじさりを続けていた。まるでこちらが、危険な何かのように。――それにしても、綺麗な人だよね。額に掛かるようまっすぐ切りそろえられた前髪も、服装や顔つきによっては野暮ったいだけなのに目の前の女性がやると綺麗だった。長い黒髪は、肩までしかないブロンドのエリスにはあこがれの対象だ。垣根は日本人だし、黒髪好きならエリスとしては困る。ブロンドは尻軽な印象のある髪の色なので、自分でもちょっと好きになれないところがあるのだ。それにこの人の香水がまた、悔しいくらいにその服や顔立ちに似合っているのだ。柑橘系のポップな感じじゃ似合わない。この人の香りはまさに、椿だと思う。匂い立つような甘い椿の香りに、惹きこまれそうになる。香水ひとつで印象が変わるなんてのはずるい話だと思うが、本当にこの人はきれいで。――まるで、食べてしまいたいくらい。何かがかみ合わない。自分がおかしなことを考えているのか、それとも正常なのか、よくわからなかった。そういえば、さっき自分は何かを拾わなきゃと思ったはずなのに。もうどうでもよくなっていた。だって拾うにはこの人から視線を外さなきゃいけない。――ああ、どうしよう。随分この人、離れちゃったな。そろそろ追いかけないと、逃げられちゃう。エリスは今はいている靴が割としっかりしたものなことをありがたく思った。これなら全力で走っても脱げたりしない。のどが渇きを訴える。もちろんジュースで癒えるほうの渇きじゃない。だがエリスの脳裏ではもうそれらの区別はつかなかった。吸血衝動と食欲を分けて考えるほうが、異常なのだ。エリスは、そういう生き物なのだから。――なんか変な人たちが出てきた。邪魔だな。別にこの人たちは美味しくないのに。いつしか巫女服の少女はエリスから随分と距離を取っていた。そしてエリスの視界から巫女服の少女を隠すように、黒服の男達がぞろぞろと現れる。だがエリスは居場所を見失うことはない。こんなにかぐわしい椿の香を残してくれるのに、見失えというほうが無理だ。黒服の人間がエリスの肩をつかんだ。だがそれをエリスは意に介さない。アリが靴にたかったのを気にする人間がどこにいる? どうしても邪魔なら払いのけるだけのことだ。――早くあの人でのどを潤して戻らないと。じゃないと。そこで、エリスはハッとなった。「私、今」そうだ、自分は今、垣根とデートをしている。これからも幸せでいようと、ずっと一緒にいようと言ったところだ。ちょっとアクシデントがあってエリスが席を外したが、垣根は今もあのベンチでエリスを待っている。だから、落としたジュースを拾ってすぐに垣根のもとに走らないといけないのだ。それを、すっぱりと忘れていたことに、エリスは気が付いた。「やだ、そんな」しなきゃいけないことは、頭で理解している。だけど。足が、手が、巫女服の少女を追うために、機能していく。細胞の一つ一つが活性化したように、体中に力がみなぎっていく。こんな経験、一度としてなかった。だって吸血鬼である自分を認めたことのないエリスは、生物として強靭なその力を十全に発揮したことなどないから。「てい、とくく――」名前を呼ぼうと、した時だった。ラフレシアみたいに濃密で醜悪な、かぐわしい椿の香がエリスの鼻腔をくすぐる。それだけで、もうだめだった。「あ――」エリスの心の中の何かが、ぼとりと首を落とした椿の花みたいに、散った。垣根はそろそろエリスが出かけてから十分が経つのを、イライラとしながらベンチで耐えていた。時計でその十分が過ぎたのを確認すると、さっと腰を上げた。「エリスのやつ、電話にくらいは出ろよな」自販機を探してエリスが走って行った方向へと垣根も進む。人っ子一人いない、夕方の公園の光景がそこには広がっている。人がいないのは違和感を覚えないでもないが、垣根はそれ以上は考えなかった。「ん?」道の真ん中に、缶ジュースが転がっている。別に、それくらい気に留めるようなことではないはずだが、随分と缶が汗をかいていてまだ冷たいらしいこと、そしてその銘柄が自分とエリスの二人が好きな組み合わせであること、その二つを看過することはできなかった。「開けてもない缶を、棄てるってどんな馬鹿だよ……」冗談を飛ばしたのは、自分を落ち着かせるためだった。嫌な汗が、ジワリと背中を伝う。離れるな、といったのは誰だった? ほかでもない垣根自身だ。「エリス! いるか?!」声を上げて、エリスを探す。だが返事は静寂しかなかった。影一つ、動く気配がなかった。「おいおい、冗談じゃねえよ」声が、震えた。最悪の予想が脳裏を駆け巡る。杞憂ならそれでいい。後で笑えばいい。垣根はあたりを見渡す。何か、僅かでもいいからヒントがほしい。そう念じていると、視界の隅、植木の隙間に黒い何かが見えた。近づいて、それを引きずり出す。気絶した黒服の男だった。胸元の襟章を見る。「……」三沢塾の、姫神を守る黒服が、どういうわけか気絶し、そしてそれを隠ぺいするように茂みに隠されている。「クソッ、おい起きろ! 全部話せ!」垣根は数発ほど容赦のないビンタを張って、黒服の覚醒を促す。だが起きる気配のない黒服にすぐ業を煮やし、公園の一番近い出口に走った。「エリス……!」どこにもいない、大切な女の子の名前。呼びかける先さえ分からないまま、垣根は茫然と呟いた。全力で走った後の荒い息を、必死に整える。吸血鬼の身体能力は姫神の比ではない。だから全力で走った。公園を抜けた先に用意された、黒塗りの車。姫神はそれに乗り込み、道路交通法を無視して走るその車で、アウレオルスの居城、三沢塾を目指していた。姫神は携帯を取り出し、慣れた手つきである番号をプッシュした。携帯電話の通話機能とは違うメカニズムで、それはどこかと繋がる。彼女が共闘する、錬金術師のところへ。「どうした?」誰何すらない、端的な質問。自分とアウレオルスの間にあるのは、そういう関係だった。だから自分も、一言だけ返す。それで通じるのは間違いなかった。「会えたよ」アウレオルスはすぐに返事をしない。その邂逅を噛みしめるような、一瞬の間があった。「そうか。それでは、速やかにこちらへ誘導を」あらゆる準備を整えた希代の錬金術師は、万感の思いを込めてそう呟いた。******************************************************************************************************あとがき吸血鬼であるエリスにとっての姫神の血の香りについて「ラフレシアみたいな椿の香」と表現してきましたが、これはOrbitの『顔のない月』という伝奇小説風のヴィジュアルノベルゲーにおいて用いられていた椿に着想を得ています。原作では吸血鬼の血の香りとは全く関係ありませんが、五感に訴える美しさを持ちながら、そこに絡め取る様な淫靡さや恐ろしさを象徴させた手法を真似ているつもりです。