バタン! と勢いよく扉が開くのを、アウレオルスは感慨もなく見つめる。当然だ。この三沢塾という建物の中で起こったあらゆることを、彼は把握しているのだから。息を切らせ、協力関係にある姫神が駆け込んでくることも、事前に気付いていることだった。「……安全な場所は。どこ?」「扉を閉めろ。この部屋にいれば、何処でも安全だ」「そう」4つのビルからなる三沢塾学園都市支部の、北棟の最上階、そこにある校長室という名の煌びやかな一室に、姫神は駆け込んでいた。その部屋は実質的にアウレオルスの居室であり、魔城と貸した三沢塾の、まさに本丸だった。だが、部屋の広さや装飾の華美さはアウレオルスの趣味によるものではない。アウレオルスは実用性からこの場所を選んだだけで、内装の悪趣味さは、単に前の支配者たる校長の趣味を反映しているだけ。アウレオルスの醸し出す空気は、そうしたものに一切頓着しない虚無さだった。姫神は、しつらえのいいソファに腰掛け、荒い息を整える。つい今走ったのは、黒塗りのリムジンを出て建物の正面にあるエレベータに乗り込むまでと、このフロアに着いてからの僅かな距離だけだ。こんなもの、健全な女子高生の姫神秋沙にとってはどうというほどの距離ではない。息が切れて、心臓がバクバクとあわただしく拍動しているのは、単に疲労のせいではなかった。理由は、怖かったから。安全の保証されないその場所に、1秒でもいたくなかったから。「ご苦労だった。後は私の仕事だ」労う言葉にほんの少しのいたわりも込めずに、無機質にアウレオルスがそう言った。なんとか、この安全な結界の中まで逃げ込めた。ここなら、大丈夫だ。――――ここまで逃げ込めたなら、自分があの子を殺すことは、ない。姫神は自分の心配など欠片もしていなかった。自分の能力は、絶対なのだ。例外などない。吸血鬼は、何をどうやっても、自分に危害を加えるようなことは出来ない。そして、何をどうやっても、自分に相対した吸血鬼が死ぬことも、絶対なのだ。どれほどその吸血鬼が善良であっても、ヒトの群れの中で穏やかに暮らせる個体であっても。恐怖に笑う膝を、姫神は手のひらを当ててグッと握りつぶすように力を込めた。「アウレオルス=イザード」「何だ」「約束は。覚えている?」自分の中の弱い気持ちを押し殺して、無表情に、姫神は問いかけた。それは何度か繰り返した、確認事項。アウレオルスは冗談を返さない男だ。まさかこの段に至って、それを崩すこともないだろう。あっさりと、アウレオルスは首肯した。「ああ。ここに呼び込んだ吸血鬼を、殺すことはしない。私は私の目的を果たすために、説得または生け捕りを行うことになる。説得は私の一存で叶うものではないが、最悪でも生かしたまま捕らえるに留めることは保証しよう」「そう」それが、アウレオルスとの約束。姫神は、吸血鬼を殺す自動機械みたいな自分をどうにかしたくて、ここにいるのだ。もう、誰も死なせたくないから。かつて京都の寒村で自分を可愛がってくれた村の皆を虐殺した姫神秋沙の、誓いだった。「あの子の。彼氏が追ってくるかも」「それは、人間か?」「うん」姫神が、なにもかもをブチ壊しにしてしまうほんの数分前まで、吸血鬼の少女は、幸せなひと時を満喫していたのだ。年頃の女の子らしい、なんてことはない、普通の幸せを。吸血鬼なんて、ファンタジーの世界にしか出てこないような響きを持った種族でありながら、実際の吸血鬼は皆、普通の世界でありふれた幸せを手にする人々だった。それをまた、姫神は壊してしてしまったことを、後悔する。どうして幸福というのはもっと強固で壊れぬものでないのだろう。薄氷の上でしか営めないものを幸福と呼ぶのは、一度も踏み割らなかった人間の牧歌的な思想にしか思えなかった。きっと、事実を知れば、何度か言葉を交わしたこともあるあの彼氏はきっと姫神を恨むだろう。姫神を殺そうとするかも知れない。切れのあるその表情を思い出して、姫神はそう思った。それほど深い知り合いではないが、好きな人には一途で、他人には冷淡なタイプに見えた。「気をつけたほうが。いいと思う」「何に?」「彼氏に。たぶん。学園都市の第二位だから」会話の断片や、噂で流れてくる風貌と本人の顔の比較から、姫神は捕らえようとしている吸血鬼の女の子の恋人が、垣根帝督であることにほぼ確信を持っていた。「レベル5の超能力者は。人という括りに分類すべきじゃないって言われる力の持ち主ばかり。警戒は。しておいたほうがいい」もう、きっとあの子は自分を追ってこの建物に入る頃だろう。後には、引けないのだ。ならばせめて失敗はしないよう、アウレオルスに忠告する。だが、返事は素っ気無いものだった。「ふむ、もちろん、全ての敵対者に対し必要な準備をしよう。だがこの建物は超能力者であっても、一足飛びに走破できるものではない。私とて、常人の括りからは逸脱した存在であると、自負している。私を破ることは、世に二十を越えぬと言われる聖人であっても、易々とは叶えさせん」「そう」姫神は、アウレオルスを信じることしか出来ない。懇願の込められた姫神の視線を一顧だにせず、アウレオルスは傍らのデスクに手を置いた。そして残るもう一方の手で懐から長い鍼を取り出し、痕がいくつも残る首筋へと、すっと突き刺した。自らの術に対する自負を、そうやって捨てる。機械へと成り代わる。目的に達するには、自我すら余計だった。「決然。では侵入者の迎撃と、吸血鬼との対話ないし捕獲を始めよう」誰にともなく、アウレオルスがそう宣言した。花柄をあしらった薄手のワンピースを着た少女が、三沢塾の扉をくぐる。やや、場違いな雰囲気はあった。勉強をするために施設に赴くにしては、装いが晴れやか過ぎる。スカートは長めだし首の露出も少ない清楚な装いではあったが、それは確実にデートのためだとか、そういう目的にふさわしいような、控えめな女の子の勝負服だった。さらさらとブロンドを揺らすその女の子に、きっと、周りの誰もが注目するだろう。学習塾という場所に対する、服装だとか、勉強道具一つ持っていないことだとかのミスマッチさもその理由になるし、なにより、そのモデルみたいな可愛らしさと、その奥にある不思議な妖艶さは男女区別なく惹き付ける力がある。だけど。誰一人として、彼女に注視する人間はそこにはいなかった。路傍の石にでも、もうちょっと人は視線を向けるものだろう。その完璧に少女を蚊帳の外に置く態度は、不自然と断言して差し支えないものだった。だが、それを少女は一向に不思議がらなかった。理由は簡単。周囲の学生なんて、彼女にとってもまた、路傍の石と変わりないものだから。「上、かなぁ」おっとりした声で、エリスはそう呟く。率直に言って彼女は困惑していた。とても芳しい、椿の香りをたどってここに来たのだ。このエントランスに入るまでは、確かにここまでその匂いが連続していた。だが、なんだか霧散したみたいに、このエントランスで香りが急にぼんやりとして、そして、何処に続くのかがはっきりしなかった。この匂いをたどれないなんて、そんなこと自分に限ってあるはずがないのに。「……あれ?」ふとエリスは、傍らから漂う麝香(ムスク)のような甘く粉っぽい香りに気付いた。悪くない香りだ。ただ、生涯であれ以上はないというほど芳しい香りをした、あの椿の香りに酔いしれた後だから、どうしても陳腐な印象が拭えない。彼女は匂いに誘われる自分を、戒めた。だって素晴らしい正餐の直前に、コンビニで買えるスナックをつまむ趣味はないから。そしてエリスと対面したその香りの持ち主は、愕然とした顔でエリスを見つめていた。誰もがエリスに注目しない世界で、ただ一人だけ。「き、貴様、は……そんな、まさか、嘘だ」その男は、エレベータ横の壁際に立てかけられた騎士鎧の中で息も絶え絶えにそう呟いていた。声はかすれくぐもってエリスには届かない。ただ、その麝香の臭いのきつさに顔をしかめるだけだった。おそらく、ここから先はエレベータに乗るべきだろう。自然と匂いの元に近づくことになるが、仕方ない。それにしても、とエリスはため息をつく。芳しい匂いの香水でも、一瓶丸ごと地面にぶちまければ、こんなに醜悪になるのか。脳裏で反芻する椿の匂いが麝香の匂いに染まってしまう前に、そこを立ち去りたかった。エレベータのスイッチに手を触れさせると、カチンとボタンが動いて、適当な階にあるエレベータを呼び出した。ちょっと、首をかしげる。今、スイッチは自分が押し込むより前に、勝手に動いた気がしたから。もちろんどうでもいいことだ。匂いの元から少々距離をとって、エレベータが降りてくるのを待つ。「知らせ――ないと、抹殺対象に、コレが、接触する前に」騎士鎧が、何かをつぶやいた。だけど意味の分からない独り言だから、エリスは意に介さなかった。騎士は、もう長くないその命の残り火を、消えないように必死に使って、指先を動かす。自分の所属する一団へと連絡を送るためだ。万が一のためにと持たされた道具だったが、まさか、その万が一が起こって使うことになるとは。あってはならない事態が起こっていることを、伝えることになるとは。その合図が指し示す内容はいたってシンプルだった。目の前の、この楚々とした少女が、ヒトではなく、伝承の中に語り継がれるある生き物であるということだけ。「どうして、いま、いるのだ。吸血鬼が――」見積もりが甘かったのかも、知れない。吸血鬼なぞ、探して見つかるものではない。むしろ偶然にしか、会うことは叶わない。吸血殺しを所有したとしても、博打のアタリが0.001パーセントから0.01パーセントに変わる程度のものだと、思っていたのに。ここで吸血鬼を待つあの男もまた、偶然に掛けるだけの魔術師だと思っていたのに――「行くな、止まれ――――」か細い声で、右腕に『Parcifal』というコードネームを刻まれたその男が、無駄と知りつつ静止を促す。チン、と軽い音を立ててエントランスにたどり着いたエレベータに、エリスは乗り込んだ。一度も振り返らなかった。騎士凱の中で、男は自分の無力を呪う。何も出来ず、吸血鬼を錬金術師の元に、近づけてしまうことを。眼前で吸血鬼の少女をなすすべなく見送って、男は無力感と死の絶望感にがっくりと首をうなだれた。「おい! ブロンドの女の子が通らなかったか!?」「え?」おそらく、黒服の連中から遅れること10分程度。三沢塾の正面入り口、そのすぐそばで談笑する学生たちに、垣根は強引に割って入った。エリスのことを問いただしても、誰しも見せるのは困惑の顔だった。本当に、何も知らなさそうな態度をとっているように見えた。そんなはずはないのだ。だって黒塗りの車が、この建物の正面に停まっていたのだから。そんな目立つことがあったからには、誰一人として騒ぎの雰囲気を感じていないなんて、ありえないのに。「クソッ!」正面ゲートの自動扉が開くのを待たず、強引に体を滑り込ませる。ウインドウ越しに唖然とする学生たちの表情にいら立ちが募る。そんなにも、日常を見せつけたいのか。異常なんてここにはなかったのだと、自分が見当違いの所を探しているのかと焦りを覚えている垣根に知らしめたいのか。そんな、はずはない。状況証拠が整然とここを指示していたはずだ。エリスと入れ違いで姫神が現れた。そして彼女の取り巻きである三沢塾の黒服が、人目をはばかるように茂みの中に隠された状態で失神していた。エリスは買ったジュースをそのまま地面に置いて、どこかへ消えた。これだけの事実があれば、誰だって三沢塾を疑うだろう。怪しんで、何らおかしくない。ただ、垣根にははっきりとした事実が必要なだけだった。「……ん?」ゲートをくぐった瞬間、わずかにクラリとなるような感覚を覚えた。「何だ……?」初めは匂いかと思った。視覚的には何も歪みはないし、靴裏から伝わる感触も普通のリノリウムのものだったから。だけど鼻を利かせてみても、あるのはどこにでもありそうな街や学校の匂い。瞬間的に感じた違和感を、垣根はうまく把握できなかった。「ちょっと君! 何か用かい?」強い口調で、スーツを着た教師らしい男がこちらに近づいてきた。それで自問を中断する。後ろに追随するガードマンも、いたって普通のガードマンらしい服装だった。チッ、と垣根は舌打ちをする。どちらもあの黒服の、画一的で無機質な印象からは遠かったからだ。今は問題の核心に近づけそうな分、黒服のような物騒な輩のほうが嬉しかったのだが。「なんだか大きな声が聞こえたけど、どうかしたかい」教師が垣根を値踏みする。それを垣根は鼻で笑ってやった。科学に溺れた連中が、まさか自分の顔を知らないなんて。おそらくは勉強道具ひとつ手に持たないことを理由に、不良のレッテルでも張ってくれたのだろう。こういう態度は順位のせいで下手に出られるよりはマシだが、いずれにせよ今は構っている暇はない。「なんでもねえよ」「あ、待ちなさい!」垣根は教師に取り合わず、さっとエレベータを目指す。追及されないうちに体を滑り込ませ、入口エレベータで行ける最上階の5階を押した。チン、とエレベータがアラームを鳴らして、扉を開いた。扉の上のインジケータには5階と記されている。別にエリスが望んだわけではないが、なぜか他の階を指定しようとしてもボタンが反応しなかったのだ。「あ……この階、食堂があるんだ」悪くない香りが、廊下に漏れ漂っている。エリスはまた空腹を刺激されて、ちょっと苛立ちを感じた。先程から、ずっと鼻を利かせているのに一向に捕まらない、あの匂い。「誰か、邪魔してるのかなあ……」換気扇や脱臭剤程度でどうにかなるようなものじゃない。エリスからそれを遠ざけるには、かなりの意図的な工夫が必要だと思う。そういう直感を、エリスは覚えている。いらだちまぎれに自分の髪を弄んでから、軽く整えた。「あの、巫女服を着た黒髪の女の人、来ませんでした?」そばを通り抜ける学生に問いただしてみる。だが、返事は一向にない。どころかエリスの方を一瞥すらしなかった。「……ここの人、なんでこんなに他人に興味ないのかな」聞えよがしに言ったつもりだったが、またも返事はなかった。はあっとエリスはため息をついた。いい加減、焦れてきたのだった。食堂になら山ほど人もいて、話も聞けるかもしれない。そう思って、エリスは食堂の扉に手をかけた。「あれ?」ぐっと力を込めて引いているのに、一向に扉が動かない。鍵がしまっているとか、そういう風でもなく、ただ、ガタつきもなくびくともしなかった。「もう!」この建物に入ってから、なんだかうまくいかないことが多い。あと少しで、あの甘美な香りに包まれて陶然となるはずだったのに。それが、どうしてうまくいかないのか。どうせ周りの学生は、また無視を決め込むことだろう。もう一度、力いっぱい扉を揺らす。だがそれでも、扉は開かなかった。「ここ、入口だよね?」さすがに女の子として、力いっぱい扉と格闘するのは恥ずかしい。いくら非力とはいえ、こうも強情な扉というのはどうなんだろうと思いながら、エリスは扉から離れた。別段、この中に執着があるというほどでもないのだ。「でも、行く宛、ないんだよね。ほんと、どうしてわからなくなっちゃったんだろ」エリスが今いる世界は、いわば「コインの裏」と言うべき世界だった。塾生たちのいる「表」の世界とは、世界を共有していながら、裏にいるエリスの方から表に干渉することができない。だから扉は、文字通り、びくともしないのだった。弱く引いても、強く押しても、活性化したエリスの体が、人の膂力を軽く越えた力をかけても、微動だにしない。だから、エリスは気付かなかった。自分の体が、人らしく生きてきた今までを捨てて、より強靭な生命として、活動を始めていることに。「破壊も厭わず、『吸血殺し』を探しまわるものかと思ったが」静謐さの支配する校長室で、アウレオルスが目を閉じたままそう呟いた。姫神は突然のその呟きの意味を、汲み取れなかった。それも当然だ。ここには、別段ディスプレイがあって、映像で吸血鬼のあの少女を監視しているわけではない。アウレオルスが自らの作り出した結界の中を、五感とは別の何かで感じ取っただけだった。「あの子は。どうしているの?」「『吸血殺し』の匂いを見失い、手近なところから歩き回っている、というところか。魔術を行使して探索をする気配は今のところない」「そう」もとよりアクシデントが起こった程度で心を乱すことはないアウレオルスだが、それにしても、呆気ないと評さざるを得ない吸血鬼の振る舞いだった。これでは、人と何ら変わらない。アウレオルスの言いたいことを汲み取ったのだろうか、姫神が咎めるように言葉を重ねた。「言ったでしょ。吸血鬼と言っても。私たちと何も変わらない心の持ち主。だから。人が周りにいるところでむやみに力を振り回したりしない」「であれば、我々の目的も容易く叶えられる。あらゆる可能性への警戒を怠る気はないが、この現状は歓迎しよう」アウレオルスは微動だにしない。懐に忍ばせた鍼を使う必要もなかった。「あの子は今。どんな風?」「その質問からは、どのような返答を望んでいるのかを推し量れん。明快な回答を得たいなら明快な質問をすることだ」「誰かの血を。吸おうとは?」「していない」「私を探すために何かを破壊したことは?」「ない」「そう。……だったら。まだ戻れるのかな。話し合う余地は。あるんだね」「可能な限り、まず対話から、というのがお前との取引条件だ。この流れであれば、その条件を飲めるだろう」今も記憶に残っている。自分が死なせた、村の人たち。ヒトにあらざる生き物となった彼らが心の底から化け物にでもなるのなら、あの時、まだしも姫神は救われただろう。だが、吸血鬼に「成る」というのは、そういう豹変を意味しないのだ。彼らの精神は、人としての心や倫理観を完全には崩さないまま、ゆるやかに、連続に変化をするのだ。空腹時には食欲を満たす行動が優先されるように、睡眠欲が強いときは居眠りをしてしまうように、行動を決める欲求のひとつに、吸血衝動が加わるだけ。ただ、それは三食満ち足りた人間の食欲のように、我慢のできるようなものではない。「どうやって。話をするの」それは、アウレオルスにとっても最大の難関だった。吸血衝動に犯された吸血鬼に、握手を求めるような友好的な態度は通じるのか。それともある程度の物理的、または精神的な拘束を課した上で交渉に望むべきなのか。彼女の機嫌を損ねて、敵対されればどれほどの困難に直面するのか、想像がつかない。「今少し、対象の行動原則を測りたい。答えは、それを待って見極めることにしよう」アウレオルスは指一つ動かさず、心の中で、エリスの対面する扉に、開けと命じた。食堂には、たくさんの学生がいる。コインの裏表、別の世界にいるエリスは学生たちに干渉は出来ないが、その状況でどのような手に出るか、例えば手荒な手段を厭うかどうか、調べるつもりだった。「あれ、開いた……」誰かが開けたのかなと思案したが、エリスの目の前で、食堂の扉は自動扉みたいに開いたようだった。まあ、なんにせよ目的が果たされたのでエリスとしてはどうでもいい。真っ白な4人がけのテーブルが20ほどと、一人用のカウンターが壁際に並ぶ、小さめの食堂。夕食時だからだろう、テーブルは全て埋まっていた。ところどころ置かれた観葉植物は、おそらく教室よりはまだしもこの部屋の空気を和らげているのだろうが、それでも堅苦しいというか、勉強至上主義的な、そういう「塾」らしさの抜けきらない部屋だった。「あの! ちょっと聞きたいことがあるんですけど」定食や麺類、あるいはパスタなどを食べながら、テストの点数や問題の解き方を話しあう学生たちに向けて、エリスは大きめの声で呼びかけた。だが返事は一向にない。完全に、エリスは空気のように意識されない存在だった。「ちょっと、いいですか?」食事を終えたところだろう。トレイを返して退室しようとする少女たちに歩み寄り、その肩に手をかけて呼び止めようとした。「あっ!」その手を、圧倒的な力で振りほどかれた。崩れかけた体勢を、たたらを踏んで元に戻す。ふりほどく素振りがあったわけじゃなくて、まるで機械みたいに、エリスの手から力を受けても頑なにその動きを変えなかったように見えた。「なんか、変」気のせいかとも思ってきたが、どうやらそうではなく、物理に反した何らかの異常がこの空間を取り巻いているらしいと、エリスは悟りつつあった。「能力……? っていうより、魔術」超能力には、能力者が現象を観測しなければならないという制約がある。必ずしもそばに能力者がいる必要はないが、能力は「設置する」という行為に向かない。むしろ箱庭を作ってそこを支配する方式は、魔術が得意とするものだった。「上の方……かな」それは直感的に得た結論だった。椿の香りは依然としてエリスの鼻をくすぐらないが、少なくとも結界の起点らしきものは、上のフロアにあるのが感じ取れる。おそらくは、匂いの元もそちらな気がした。―――アウレオルスは、そのエリスの様子を見て吸血鬼たる彼女の危険度を推し量る。「存外に、攻撃的な側面を見せないものだな」「言ったでしょ。吸血鬼って名前が付いても。心は人と変わらない」「では、心性が変わらないならば、あちらの精神への干渉は可能か?」「……知らない。でも。心の作りが人と同じなのは確か」「そうか」アウレオルスは逡巡する。エリスは既に三沢塾の中にいるから、彼女が人ならば、その意識を乗っ取ることは容易かった。人と同じメンタルを持つ、人以外の生物。それにアウレオルスの術式が通じるかは不明だった。「あの子を追いかけて来た人は?」姫神は、もう一つの懸念事項を口にする。たった一人でいながら、姫神とアウレオルスの野望を完全に叩き潰しかねない大勢力。いっそ彼がナイトさながらにあの少女を救い出してくれるのなら、姫神はそれでも構わなかった。アウレオルスとおそらくは垣根であろうあの青年とが拮抗して、全てを台無しにしてしまうよりは、ずっと。「アレがこの建物に入って後に新たに入ってきた学生十余名の居場所はすべて把握している。アレは位相のずれた世界に進ませたが故に、侵入者がアレを見つけることは叶わん。おそらくは問題にはなるまい。だが、私には能力者の位階を判断することはできん。姿と成りを説明しろ」「身長は180センチはある。茶色がかった髪。ワックスとかで固めたりはしていない。服はさっきと同じなら。すこしフォーマルな感じのジャケットと革靴」「……ふむ」三沢塾の建物は、アウレオルスの意のままに支配できる世界だ。それは学生の心であっても例外ではない。いわば木偶人形のように、アウレオルスは学生たちを操れる。だが、例えばトイレを借りに来ただけの人間だとか、そういう立ち寄っただけの人間まで取り込むのは、逆に管理の都合上損でもある。学生を取り込む条件として、入塾の契約書へのサインをトリガーにしていた。今、建物の中にいながらアウレオルスの管理下にない人間の中で、姫神が口にした特徴をもった者を探す。「五階か」「それって……」「アレと、なかなか近い場所にいるものだな」「大丈夫なの?」「無論。言ったはずだ。同じ場所でありながら、アレがいるのは隔絶された世界だ」予想以上に、吸血鬼の少女が攻撃的な面を見せないのが好都合だった。錬金術師という存在にとって、想定内の出来事ばかりが起きる状況というのは、およそ失敗とは無関係でいられることを意味している。アウレオルスは胸元の鍼を弄びながらも、使うことはしなかった。事の推移を自らの制御下に置けることを疑っていなかった。「エリス!」叫ぶ垣根のほうを、何事かと食堂にいる学生たちが振り向いた。荒々しく人の流れをかき分けて、垣根は食堂内にいる人間を確認していく。居合わせたのは当然のごとく日本人ばかり。エリスのあの、綺麗なブロンドは影もなかった。「チッ」雑な調べ方なのを、垣根は自覚していた。一つ一つの部屋を入念に調べていれば、それだけで丸一日はかかる。三沢塾は大手だけあって、それなりに中は広かった。だから、めぼしい大部屋を回るくらいしかできない。食堂をのぞき込んだ理由も公算あってのことでなく、広い部屋だからという理由だけだった。「おい、金髪の女の子がここに来なかったか?」「え、い、いや、知りませんけど」一人で食事をとっていた男子学生が、垣根の攻撃的な態度に明らかに怯えながら返事をする。周りの誰の表情を見ても、困惑ばかりだった。すっとぼけているのかと、詰問したい気持ちを垣根は抑えた。おそらく、時間の無駄だ。もう一度当たりを見渡す。どこにも争っただとか、何かを急いで隠したような痕跡はない。「あれだけ堂々と正面から入ったのに、気配も無しか」裏口でも使っているのであれば納得も出来るのだが、一般学生がたむろする正面ゲートに堂々と車を止めて出入りしているのに、学生の中にそれを不審に思う人間が皆無なのが、気になるところだった。この建物にいる学生の精神を能力で書き換えるとなると、そんな大規模な操作はせいぜい学園都市で一人しかできない。「……違う、気がするな」建物に入った瞬間に感じたかすかな違和感を、垣根はずっと引きずっていた。精神操作に関しては垣根は門外漢で、相性は悪い部類に入る。だから、相手が精神操作の最高位であるなら、垣根が何かを感じ取るなんていうのは考えにくい。むしろもっと、物質に根ざした、何かがおかしいような気がしていた。だがその違和感を言葉に変えることが垣根には出来ない。字幕もなしに外国の映画を見たような、わかるようで分からないもどかしさ。「チッ。頭を冷やせ、馬鹿が」垣根は、いつになくコントロールがきかず苛立っていく自分の心を罵った。頭を使うというのは、もっと冷徹な作業だ。沸いた頭で妙案など思いつくはずもない。「……上を、目指すか」関係者以外は立入禁止の区画に、足を踏み入れたほうが話は早いだろう。後々面倒なことになるかもしれないが、そんなことは今は全く考える気にならなかった。がしゃんと乱暴に食堂の扉を開けて、垣根は呆然とする学生たちの目の前から姿を消した。「エリス!」「えっ?!」突然の声に、エリスは思いっきりびっくりして、振り返った。呼ばれた名前はもちろん自分のものだったし、その声にも覚えがあった。「帝督君……?」エリスが感じたのは戸惑いと不安だった。だって、公衆の面前で、いきなり名前を大声で呼ばれたら、何か自分がいけないことをしてしまったのだろうか、怒られるのだろうかと思ってしまうものだ。困惑しながらも垣根に返事をしたのだが、その垣根は、一度だってエリスに目線を合わせてくれなかった。そして、エリスのすぐそばをすり抜けて、気弱そうな男子学生に詰め寄った。「おい、金髪の女の子がここに来なかったか?」垣根に尋ねられた学生は、ひどく動揺してぼそぼそと返答をしていた。そりゃそうだろう。自分の彼氏さんだから怖いと思わないが、垣根は目付きがきついし、身長の高さもあって威圧感が結構あるのだ。それにしても、一体何の冗談だろう。目の前にエリスがいるのを露骨に無視して、誰かもわからない人に、自分のことを尋ねるなんて。それに、恥ずかしかった。あんな奇行のせいで、部屋中の誰しもが垣根に注目している。「ちょっと、帝督君! どうして私のこと無視するの?」その呼びかけにも、一向に垣根は応えない。完全に無視を決め込んでいるようだった。それは、まるで他の学生たちと同じようで。「もしかして……帝督君、私に気づいてない?」「あれだけ堂々と正面から入ったのに、気配も無しか」なにか毒づくような言葉を吐きながら、垣根が再びエリスの隣に立って当たりを見渡す。だけどその視界の中に、明らかにエリスは映っていなかった。「やっぱりここ、何か変だよね」エリスはそれを、ようやく確信していた。だって、垣根が自分をこんな形で無視するなんて、ないと思うから。「なんで帝督君は、こんなところに来たのかな?」呼び掛けるように声に出しながらも、返事はあまり期待していなかった。案の定、垣根は少しもこちらを振り返らない。エリスは用事があってここに来たわけだが、垣根はこんなところに用はないだろう。学園都市で、二番目に勉強のできる人だ。こんな塾なんて、来る必要がない。「……あれ?」そういえば、さっきまで、垣根と二人っきりだったのに。別れて自分が一人だけ、ここに来たのはどうしてだったっけか。理由はもちろん分かっている。だって、ここにはアレがあるから。だけど。何か。おかしい。「私、なんて言って帝督君と別行動したんだったっけ」あのキスは、恥ずかしいくらい甘かった。誰かに見られるかもしれない場所だったからドキドキしたけど、自分の目の前で優しく微笑んでくれる垣根の表情に、エリスも陶然となったはずだった。そんな空気を打ち破るなんて、結構乱暴というか、自分勝手な真似のはずだ。「ああ、そうだ」途中で恥ずかしくなって、ジュースを買いに逃げたんだった。そして、そこで。あのたまらない香りの持ち主に、ようやく出会えたんだった。脳裏に黒髪の少女を思い出すと同時に、胸が切なくなる。そりゃあ、仕方ない。垣根にはこれからも会えるけど、あの香りにはもう会えないかもしれない。見つけた以上は、優先してしまうのは仕方ない。「帝督君には、吸わせてもらったあとで謝ればいいよね……?」なんだかんだで、垣根は自分には優しい。だから、血を吸ったあとで、垣根にあってきちんと事情を話せば。「あ……」何を、話すことになる?「え、でも。仕方ないよね?」エリスの呟きが、虚空に向かって溶けていく。何度確かめても、計算間違いが残っているような違和感。それをエリスは感じていた。それは、気づいてはいけないことのような。どこか後ろめたい出来事のような。でも、仕方ないのだ。だって、あんな香りをかげば、そりゃあ、誰だってそちらを優先してしまうだろう。「ねえ、帝督君」呼びかけずには、居られなかった。振り向いて微笑んでもらえれば、自分の心の平穏を守れる気がしたから。だけど垣根はやはりエリスのことなんて見てくれなくて。「……上を、目指すか」キッと踵を返して、エリスのそばを離れていった。誰一人エリスに気づかない世界に、エリスは取り残された。垣根にすがれなければ、エリスが頼りに出来るのは、もう一つのあの香りだけだった。静かな校長室のソファに腰掛け、姫神はアウレオルスの変化を探る。目に映るのは、わずかな変化すらも見せない、機械のようなその姿だけ。「あの子は。どうなったの?」雰囲気を一切変化させないアウレオルスに対しては、問いかけるしか、外のことを探る術がなかった。姫神のことを振り返りもせず、ただ、アウレオルスは答えを口にする。「予測どおりの結果を得たのみだ。アレが知己と邂逅することは回避した。これまでの様子を観察する限り、対話も可能だろう。あとはアレをしかるべき場所へと案内するのみだ」「そう」ほっと、姫神はため息をついた。最悪の事態だけは、避けられそうだった。このまま、あの子とアウレオルスが取引をうまく交わせればそれでいい。まだ、あの子は引き返せる。自分という猛毒から離れれば、きっと元通りの暮らしを送れる。そして自分は、命を絶たなくとも、誰の命も奪わない平穏を得られることだろう。少しだけ、頬が緩むのを、姫神は止められなかった。