「あれが、三沢塾なんだね」「ああ」インデックスは背の高いビルを見上げ、傍らのステイルに呟いた。視界に入り始めた三沢塾は、どうというほどもない普通の建物だ。12階建てのビル4棟からなる施設でそれぞれのビルから中空に陸橋がかかっている辺りは、一応は学園都市の中でも変わっている方なのだが、魔術師二人組にはいかんせん何もかもが奇妙に見えるので、二人とも特に気にしなかった。「準備は大丈夫かい? ま、君に聞く必要はないだろうけど」「うん」インデックスは短く答える。もとより武器を手にすることも、何らかの儀式の準備を必要とすることもない。彼女の最大にして唯一の武器はその知識だった。尤も今回は、できればそれも振りかざしたくはない。相手が、自分の知った人だから。とてもお世話になった人だから。沢山笑顔を向けた覚えがある。先生は、喜怒哀楽をあまり表さない人だったが、それでも自分と一緒にいることを歓迎してくれた気がする。折を見て幾度となく自分のもとを訪れてくれたあの好意を、ありがたいと思う気持ちは今でも本当だ。……嬉しいと、心の底から思えるインデックスはもう亡いけれど。「全く、異常は見当たらないね」そのステイルの言い回しを、インデックスは正直には捉えない。その意図するところを、瞬時にインデックスは察していた。「そうでもないよ」「君は何か、気づいたかい」「ステイルは自分で魔術を大量に練っている人だから気づかないんだよ思う。あそこからは、少しも魔力が漏れてこないんだよ。まるで、枯れてるみたいに。なんていうのかな。死んだ魔塔……うん、遠くから判断するのは不確かだけど、外敵から身を守るための結界でなく、内に入り込んだ敵を逃がさないための殺界、かな。モデルケースはエジプトのピラミッド――クフカ王の墓かな」「……そんなものを作ってまで逃したくないその敵とやらは、果たして僕らか、それとも」それ以上はステイルも語らなかった。言うまでもなく、気づいていることだから。それだけ、アウレオルス・イザードが本気であることに。「……小細工は無用だ。さっさと正面からお邪魔しよう」「うん」ステイルに気取られぬよう、決然とした表情をしているその裏で、インデックスは決意を固めきれずにいた。甘い、と自分でも思う。たとえ仲間でもそれが必要なことなら焼き払うことを命令されるのが、自分のいた場所だ。それをインデックスは、自分で選択したはずなのに。「ん?」ステイルはふと傍らのインデックスから、振動音がするのに気がついた。「電話、鳴っているよ」「えっ? あ、ちょ、ちょっと待ってて」「ああ。突入前に、気づいてよかったよ」ニコリと胡散臭く笑ってステイルが嫌味を言う。たしか、こういう時には自分は怒った顔を見せたはずだ。だから、もう、と一言言って軽く睨むと、ステイルがふっと笑った。きっと正解だったのだろう。そして、電話の相手は、当麻だった。その名前を見てインデックスは緊張を覚える。上条当麻は今、自分の面倒を見てくれている人だから。かつてステイルが、そしてその前には先生がそうであったように。「もしもし」「お、インデックス。ちゃんと出れたか」「……とうま。どうして第一声がそういう私を信用してない言葉なのかな」「だってお前機械関係については信用できねーじゃん。物覚えいいのに」「それとこれとは直接関係ないかも! で、どうしたの」「ん。何時に帰ってくるのか聞こうと思ってな。」「あ」そういえば、ちゃんと報告していなかった。光子や当麻と別行動を始めたときには、こんな展開になるとは予想していなかったのだ。正直に言うと、これからのことはインデックスにも全く読めなかった。アウレオルスという個人と、自分とステイルの交戦だから、規模としては小さい。長引いたって明日じゅうには終わるだろうが、今日の夕食までの一時間やそこらで片付くとは思えない。「ごめん。ちょっと、遅くなるかも」「ちょっとって、どれくらいだ?」「えっと、いつもあいほが帰ってくるくらい……とか」「はい? お前、その年でそんな夜遊びって、しかもステイルと」「え?」「……もうちょっと早く帰ってこい。つかステイルに替われ」「な、なんで?」「どういうつもりか知らないが年頃の男女が夜の十時を過ぎて夜遊びとか上条さんは許しませんのことよ!」「とうまがどの口で言うかな! もう、もうちょっと早く帰るようにするから、とうまはちゃんと家で待ってて! みつこを泣かせちゃダメなんだからね!」あたりまえだろ、となぜかやや狼狽えたような声でいう当麻の声を聴きながら、インデックスは強引に電話を切った。あまり長く話すと、自分が危険なことをしようとしているのを気取られそうだったから。「全く。上条当麻が関わると何もかもが滅茶苦茶になる」必要悪の協会の人間が日常的に感じている、チリチリとした危機感。そういうものが吹き飛んでしまった。ステイルは間をもたせるようにタバコに火をつけた。「上手く誤魔化せたんだろうね?」「……たぶん、大丈夫だと思う」「なら結構。さっさと済ませてしまおう。もうすぐそこだ」一口吸って、ステイルは煙を吐き出す。真新しいそれを、ステイルは道端に投げ捨てた。それでステイルも、インデックスも日常と決別した。そこから先は、何年か前までは日常だった、彼らの非日常だった。「当麻さん。それで、結局インデックスは?」「んー、歯切れ悪い返事だったな」そろそろ夕ご飯の用意をしませんと、なんて言いながら、当麻と光子はまだソファに腰掛けたままだった。昼間の一件でずいぶん疲れたのもあって、べったりくっついたまま優雅に昼寝を決め込んでしまったからだった。そのおかげか、すこぶる光子の機嫌がいい。やはり久しぶりに、たっぷりをスキンシップを取ったおかげだと思う。インデックスには悪いが、二人っきりというのもよかったのだろう。「アイツも意外と夜遊び好きなのかね」「も、っていうのはどういうことですの? 当麻さんに似て、ということかしら」「ステイルも、って言いたかったんだよ。ってか、なんで俺のことだと思うんだよ」「だって」それ以上は言わなかった。昼寝前にも一度詰ったので、あまり蒸し返すと当麻が起こるかもしれないと思ったから。……まあ、乙女心は空模様と同じなので、当麻が迂闊なことをいえば、蒸し返したくなるかもしれないが。「インデックスの分の夕飯はどうしますの?」「まあステイルと食べちまうかもしれないけど、一応作っとこう。どうせ黄泉川先生の分も作る予定なんだし」「そうですわね」「あとまあ、あんまり遅くなるようなら、悪いけど迎えに行くわ」「当麻さん、私も」「女の子に夜道は危ないからって迎えに行くのに、光子を連れていってどうするんだよ」ふっと笑う当麻に、ちょっと光子はムッとした。口にしたりはしないが、腕一本の当麻よりも能力者の光子の方が安全かもしれない。それになにより、そういうきっかけで外出しては、適当な女の子と仲良くなって帰ってくるに決まっているのだ。「……拗ねても、ダメだからな」「あっ」上条が、なだめるように光子を抱き寄せた。もとからくっつきあっていたが、さらに密着する。衣擦れの音が胸元から聞こえた。姿勢のせいか、当麻に胸を押し当てるような状態だからだ。それにちょっとドキドキしつつ、光子は抗わなかった。「もう。誤魔化さないで」「誤魔化すって、なんだよ」「知りません。あっ、ん――」目覚めのキス、というにはインデックスに電話をしたあとだったが、くちづけを交わす。触れ合う時間は長めだけれど、舌を絡めたりはしない軽いもの。「ねえ、当麻さん」「ん?」「お夕飯、主菜は私が作りますから」「ん。ほかのは手伝うよ」「はい。一緒にって、嬉しい」「頃合になったら、インデックスを迎えに行くわ」「ええ。お願いします」嬉しそうに笑う光子に、当麻はもう一度キスをして、抱き寄せた。だがその目は、光子の方を見てなかった。さっきのインデックスの電話を、反芻する。なにか、引っかかりを感じていた。「死にたくなければ退避しろ。我々とて無為な殺戮は好まん」インデックスとステイルの通行を阻むように、中世の騎士鎧に身を包んだ男がそう通告する。ローマ正教一三騎士団の一人、『ランスロット』のビットリオ=カゼラと名乗ったその男は、まるで自分たちの怨敵に出会ったかのように、最新の注意を払って二人を警戒していた。「……人払いは、君たちのものだったか」「いかにも。無駄に被害を広げることもないと判断したのである」「何をする気なのか、尋ねれば教えてもらえるのかな?」騎士に負けず、ステイルもあからさまにならない程度に腰を落とし、戦闘に備える。インデックスは定位置たるステイルの後ろに控え、周囲の分析を試みていた。「中には突入しないんだね」「……」「外からの攻撃であの建物をどうにかするには、たったの十三人じゃ心許ないんだよ。むしろ、ここには何かを引きつけるための信号」「それはつまり、援軍がいると?」「……グレゴリオの聖歌でも、届ける気なの?」インデックスが警戒を緩めない目で『ランスロット』を見つめた。ステイルという明らかな脅威の後ろにいた脆弱そうな少女を、騎士はその一言で脅威と看做した。「聞きしに勝る聡明ぶりだな。破邪顕正のためとはいえ、汚れた蔵書で脳を埋めた魔導図書館というのは」「インデックス。それって」「何人の聖呪を重ねる気か知らないけど、バチカンから直接神罰を下す気みたいだね」『ランスロット』が後ろを振り返り準備の進捗を確認した。インデックスの見立てでは、もう完成までいくばくもない。「あの錬金術師を我々は甘くは見ていない。これをもって吸血鬼の殲滅が叶うかはわからないが、少なくともあの男だけは確実に葬らねば、これからの世界にどれほどの禍根を残すか想像すらできん」「……今、なんて言った?」それはとても聞き流せない情報だった。アウレオルス・イザードの殺害にとどまらず、吸血鬼の殲滅を目標としているなどというのは。それはつまり、この建物の中に吸血鬼が既におり、アウレオルスが捕獲しているということにほかならない。恐れていた事態が怒ったいるらしいと、ステイルは悟った。「悠長におしゃべりに付き合う暇は尽きたようだ。貴様らにも、聖地バチカンに集められし三三三三人の修道士の聖呪が神罰を下す瞬間を見届けさせてやろう」「待て! そんな人数で作った大魔術、この建物を完全に壊す気か?!」その数字を聞き、ステイルは驚きに顔をしかめる。ほとんど最大級の攻撃といってよかった。地球の裏側の、まるで主の威光が届かぬこの日本にでも、それは災厄と呼べるだけの破壊をもたらすだろう。詰め寄ろうとしたステイルの影で、白いシルクと金刺繍のフードが翻った。「――先生!」「なっ?! インデックス!」振り返って愕然となる。インデックスが、まさに神罰を受けんとするその巨塔へと駆けていた。チラリと見えたその表情は、必死だった。「愚か者が! 自らの生をないがしろにするなど、神の僕たる我ら修道士のすることか! ――勝手に死んで地獄に落ちるがいい!」そんな罵声を背中に受けながら、インデックスは三沢塾の建物へと走り込む。アウレオルスを、死なせたくなかった。お世話になった人だから。笑顔をくれた人だから。呼びかけたところでどうにかなるものではないかもしれない。だが、それでも。のろのろと開く自動扉に体をぶつけながら、インデックスは三沢塾の中に滑り込む。「先生!」ホールでその名を叫ぶ。周囲の学生が、重なる不審人物の闖入に顔をしかめる。その日常の中で、インデックスはもはや避けようのない非日常からアウレオルスを逃がすために、必死でその姿を探した。何処にいるのかと、駆けて探しに行こうとしたところをステイルに抱きとめられる。「馬鹿か君は! 君まで死ぬ気か!?」「でも!」「クッ、文句は聞かないよ! もう時間はないんだ。逃げるぞ!」ひょいと抱きかかえるようにインデックスを持ち上げ、ステイルは一目散に建物の外を目指した。外では最終段階に入った大魔術を唱える声が響いている。「ヨハネ黙示録第八章第七節より抜粋――――」辺りにいた騎士が一斉に腰に差した大剣を掲げる。またたく間に、それらが淡い赤色に、輝き始めた。「――――第一の御使、その手に持つ滅びの管楽器の音をここに再現せよ!」「クッ、間に合え――!」空を覆う雲から、清浄な色の光が突如として三沢塾に降り注いだ。その聖らかな光景も一瞬だった。光が、雷のような轟音とともに、降り注ぐ槍、神罰へと姿を変えた。――――ガリガリガリガリバリバリバリバリ!!!!!!!自然の雷が空気という名の絶縁を破壊していく様さながらに、その閃光は空から地上へと鋭く落ち、真上から三沢塾を狙い打った。カロリーメイトにフォークでもつきたてたように、三沢塾という名のビルが、バラバラと崩れ地へとそのコンクリートと鉄を降らせていく。生きた心地などしないような思いで、ステイルは崩れていくビルから躍り出た。抱きかかえたインデックスが、もはや間に合わないであろうことを無視して、必死に叫んでいた。「先生! お願い、逃げて!!!」5階のエレベータホール。エリスは急に明るくなった窓に、戸惑いを覚えた。「えっ? 何、これ……」エリスはつい垣根の方を振り返ってその顔を見た。だが、視線が絡み合うことはない。周囲を染める閃光が何らかの異常を示しているのは間違いないが、それよりも垣根と擦れ違い続けることが寂しかった。「帝督君……っ!?」ガンッッ!と、ビルごと金槌で叩いたような音と揺れが、エリスを襲った。文句を呟く間もなく、轟音とともに床や壁が崩壊した。「きゃあっ……!」視界がまず光で奪われた。足元は、重力を失い地に足の着いた感覚が消失する。床ごと、エリスは崩落していた。床が重みを返さないその感触は、飛行する手立てを知らないエリスに混乱をもたらすものだ。エリスがただの人なら。あるいはただの人に擬態し続けたかつてのエリスなら、おそらくこの瞬間になす術なく、この状況に振り回されてしまっただろう。だが。「シェリー!」鋭くその名を呼んで、エリスは虚空にオイルパステルを走らせた。自らを守るゴーレムを召還するために。とはいえ、この建造物は誰かに支配されている。だがその支配の方法論を、エリスはなんとなく感じ取っていた。これはは、よくある因果関係への干渉ではない。扉に手をかけ力を込めるという原因と、扉が開くという結果の関係を切断するような術式ではない。おそらくは、物質そのものの支配。その扉には他に持ち主がいるから、エリスには自由に出来ないのだ。それはつまり、シェリーを召喚するにはこの建物の構成物質の支配権を、誰かから強引に奪い取らなければならないことを意味している。だがこの建物をまるごと支配できる魔術師など、自分とは比較するのもおこがましいほどの高位にあるのは間違いない。エリスが仕掛ける支配権の横取りなど、プロにアマチュアが真剣勝負を挑むようなもののはずだ。なのに、自分が競り負けることを、エリスは心配しなかった。「おいで。そして私を守りなさい!」瞬間。自分を取り巻いていた粉塵や、自分を潰すように飛んできた瓦礫が、意志を持ってエリスの傍らに集い始めた。エリスは自身がその瞬間に魔法陣に流し込んだ魔力が、魔術構成の稚拙さと全く対照にヒトの上限を超えすさまじい量であることを自覚していなかった。どこから生み出しているのかも分からないまま、どこまでも尽きることのない魔力を再現なく流し込む。そしてエリスはこれまでに作り上げた中で最大となる、巨大なゴーレム、シェリーを形作った。その巨体を傘にして、降り注ぐ神罰から身を隠す。この防御策は完璧ではないかもしれないけれど、きっと二人くらいなら守り通せる。エリスは周囲を見渡した。「帝督君、帝督君は?!」シェリーのせいで視界は限られている。また、そうでなくても強烈な光と当たりを舞う粉塵で視界は無いに等しかった。だから叫んだ。精一杯、垣根に届くように。今まで届かなかったことなんて忘れて。「帝督君っっ!!!!!」「クソッ! 一体なんだ!?」閃光と破壊に包まれた世界で、それでも垣根は理性を一切揺らがすことなく、状況を把握する。それはこれだけの環境でありながらなお、垣根にとっては危機的状況ではないから。毒づきながら、能力を展開する。自分の知識の中にいくつも蓄えてある『未元物質』のレシピ。その中から一つを選択した。垣根の操る『未元物質』そのものは、ただひとつの『素粒子』だ。垣根はそれしか創れない。だがそれで十分だった。垣根の創る『未元物質』は数段階の階層構造を経ていくつかの原子に化け、分子を構成し、さらにその分子がメゾ・マクロな物理構造を形成していく。その結果として、万や億に届くバリエーションを垣根にもたらす。素粒子、すなわちあらゆる物質の最も基礎的な構成要素、レゴのブロック。それが自然界の物質と根本的に異なっているが故に、垣根の作った物質はあらゆる意味で現実の物質とは存在が異なっていた。垣根の能力名である『未元物質』は、ある一種類の素粒子の名前であると同時に、人の目に見えるスケールにまで構築された、多彩な物性を示す材料の総称でもあった。「……ビルが崩壊か。クソ、エリスはどこだ」垣根は透明な球体に包まれていた。薄手でいながらコンクリートなどよりもはるかに硬いという性質を持つ『未元物質』で出来ている。自分の安全は確保出来たが、そんなことは当たり前だ。問題は、エリスの行方。「エリス!」外に向けて、声を響かせる。だがその崩壊の轟音は、垣根の声をかき消すに十分すぎた。能力を使い、あらゆる方法でエリスを探しながら、それでも叫ぶという原始的な手段を取りたい衝動を垣根は抑えきれなかった。「エリィィィィィィス!!!!!」垣根が、腹の底からその名を叫んだ。――――それは、インデックスがアウレオルスに届けと叫んだその呼び声と、エリスが垣根を求め響かせた呼び声と、全く同時だった。その崩壊の、ほんの少し前。姫神の見守る中、アウレオルスがすっと目を開き顔を上げた。手にした鍼を弄ぶ。そうしたやや突然の動きは、何かがあったと気づかせるのに充分だった。「何か。あったの?」「どうやらローマ正教は事の他、この一件を重要視していたらしい。在職中にここまで目をかけてもらった覚えはないが」それは余裕の表れか。アウレオルスが珍しく皮肉をこぼした。「おそらく、この建物が崩壊する」「えっ?」「それなりの数の修道士を集めて滅びの喇叭<ラッパ>を再現すれば、街一つでも容易い」「止められないの?」「止める術はない。錬金術師の職掌に外界へ働きかける力は無い」「……落ち着いているってことは。対策はあるんでしょ」「当然。内界たるここに、私の意に従わぬものなどない」窓の外が真昼みたいに明るくなったのに、姫神は気づいた。その横で、アウレオルスがすっと鍼を首筋から引き抜いた。それは、精神を整え、予定調和を守るための儀式。ヒトという不完全な存在にすぎない自分が、十全、完璧を要請される大魔術を使うために必要なことだ。精神が、引き締まるのを感じる。常に揺らぐことを本質とする人間のそれが、たった一つの目的のために収斂する。たゆたう水面を凍らせるように。それは人間らしさを手放したことと同義だった。後悔はない。必要なものを手にするために、自分はこの塔を作り上げたのだから。僅かに深呼吸をする。これから来る破壊を『巻き戻す』のは簡単だった。そう願えばいいだけだから。――――だが。「先生! お願い、逃げて!!!」「な、に?」不意に、そんな声が、聞こえた。見知った声だった。もう何年も直接は耳にしていないはずなのに、それは聞こえた瞬間に誰の声なのかをアウレオルスに悟らせるのに充分だった。「インデックス……!?」その名を、アウレオルスは呟いてしまった。歓喜という感情を伴っているのが、この瞬間には余計だった。この三沢塾というビルで起こるあらゆる出来事を、アウレオルスは意のままに操れる。それは裏を返せば、アウレオルスの意志が揺らげば、このビルもまた「揺らぐ」ということだ。歓喜はすなわち、混乱だ。先生と呼ばれることを何度夢見たことか。だが、それは自分の手を下さねば成し得ないことのはずだ。あの少女は、記憶を失うことでしか、生き続けられないのだから。なぜ、その久しく聞くことのなかった呼び名を、自分は耳にした?「アウレオルス!」そう、ごく僅かの間に呆然としていたアウレオルスを後ろから姫神が叱咤した。その声に現実に引き戻される。そしてすぐに気づいた。この崩壊を巻き戻さねば、インデックスの命が失われかねないことに。事情はわからない。だがそれは最優先事項だ。引き抜いたばかりの鍼を、もう一度首に突き刺す。対して効果を感じる時間すら取れないままに、厳かにつぶやいた。「――――元に戻れ」それで、全てがもどるはずだった。時間を逆向きに進ませるように。少なくともアウレオルスは、それを実行できる程度には平静を取り戻している自信があった。ふう、とほっと一息をつき、改めてこの塔を再び支配し、元の姿を取り戻させる。……自信を持つ、あるいは安心するという行為が、自らが感情を揺らしていることと表裏一体なことに、アウレオルスは気づかなかった。そして何より、アウレオルスは、その獅子身中に虫<バグ>を飼っていることに気づいていなかった。アウレオルスをはるかに凌駕する魔力で建物を侵食する吸血鬼と、『未元物質』をばら撒いて建物を汚染する学園都市第二位の能力者という、抱えるにはあまりに大きすぎる虫が、身中に巣食っていることには。「帝督君っっ!!!!!」「エリィィィィィィス!!!!!」その声は、二人の思いが通じたように、互いに届けられた。それは互いにとって希望そのものだった。「あっ……!」「エリス! エリス!」喜びが心を占め、互いが互いを探し求め、己の能力を行使する。互いに互いの位置を把握できるような能力者ではない。探索に関する能力と魔術は持ち合わせていない。だが、それを補って余りあるほど、互いを見つけたいという気持ちがあった。垣根は糸状の未元物質を周囲に張り巡らせ、エリスの位置を探る。垣根は気づいていなかったが、崩壊前にはすぐ目と鼻の先にいたのだ。ほどなくして、垣根は伸ばした糸の一つがエリスにたどり着いたことを確認した。エリスもその糸の意味にすぐ気づき、シェリーを動かして必死に垣根に近づく。そして、二人は崩壊する瓦礫の中、互いの姿が見えるところまで肉薄した。だが、依然として落下は続いている。垣根はすぐさま声をかけた。「帝督君!」「エリス、大丈夫か!」「うん! 帝督君、来てくれたんだ……!」「ごめん! お前を、見失っちまった」「大丈夫。私ちょっと用事があってこっちに来ちゃったんだけど」「……そうか。怪我してないか?」「うん。これくらいじゃなんともないよ」「話はあとだ。とりあえずこっちに来い!」「うん!」用事とはなんだろうか。そこに不可解なしこりを覚えながらも、垣根はエリスの変わらぬ姿にほっとした。そして届かない手のかわりに未元物質を伸ばす。エリスの身に何があったのか、きちんと理解しなければならないことはまだあるが、とりあえず、これでエリスの安全は確保できる。そう、垣根が思った瞬間だった。突如、あらゆる瓦礫が落下をやめた。「なっ?!」「えっ? ……帝督君!」気づけばエリスも浮かんでいた。超能力、なのだろうか。周囲の物理法則が完膚なきまでに破綻していた。エリスの後ろでシェリーが再び瓦礫に戻った。まるでエリスの手を離れ、再び誰かの手に戻ったように。その一方で、まるで救いの対象から外れた罪人のように、垣根は落下していく。理由は単純。未元物質と、それに包まれた垣根はアウレオルスの制御の埒外だった。再び、二人の間に埋めがたい距離ができる。そして時計のネジを逆巻きにするように、瓦礫は瓦礫となる前の整然としたビルの形を目指して、再び動き始めた。ただひとり、垣根を除いて。「帝督君!」「俺は大丈夫だ! エリス、今そっちに行くから待ってろ!」未元物質で風を創出し、垣根は反動で飛び上がる。瓦礫の動きは落ちるときよりはいくらか緩慢で、また軌道の予測も十分に可能なレベルだった。隙間を塗って、垣根はエリスが居るはずの場所へ、向かっていく。エリスはちらつく垣根の影を見ながら、再び自分のもとに垣根が来てくれる瞬間を待った。危ないことをなるべくして欲しくない。良くはわからないが、この現象はエリスを傷つけないよう動いている節があった。だから、自分の近くにいれば、垣根はきっと安全だと思う。「帝督君、こっち!」エリスは叫ぶ。声で垣根を誘導する。垣根の影がやがて大きくなって、もうじき手が届く、その瞬間だった。「エリス、手を伸ばせ!」「うん!」もうちょっとで、垣根がここに届く。大好きな垣根が、手を握ってくれる。その希望を胸に、エリスは必死に声を張り上げた。なのに。――あの香りが、エリスをくすぐった。とろけるような甘さの、椿の匂い。それは垣根の香りや、あるいは与えてくれた思い出や優しさよりも、ずっとどろりと重たくて、甘美で。「あ……」エリスはその香りがどこから立っているのか、理解してしまった。もっと上の階、それもこのビルではなく崩壊しなかった別の棟。距離だとかを考えれば、そんなことはわかるはずがないのに、エリスには分かってしまった。そして分かってしまえば、もう抗えない。「あぁ……」垣根の姿がチラリと見えた。それが、エリスの心にヒビを入れた。自分の心は、明白に垣根よりもその椿の香りを欲していた。切望していた。あの巫女装束に身を包んだ少女の、その血を。垣根の身を案じるだとか垣根に心配をかけさせないだとか、そしてもっと大切な、垣根が好きだという気持ちよりも、あの少女の血を吸いたいという気持ちの方が、何百倍も強い。それに、気づいてしまった。「私、なんで」愕然となる。理性が整合性を求めてガンガンと頭の中で警鐘を鳴らす。そこにもう一度、椿の香りがかすめた。誰かの悪意を疑わずに居られない、不自然さだった。だけどエリスの意識はもう、そんな事に気付けるような余裕はなくなっていて。「あ……あ、あ、ああああアアアァァァァァァァァァァァァァ!!!!」獣じみた、衝動に忠実な叫び声を、あげた。「どうして! アウレオルス!」「慙愧。……予定調和が狂ったことを、素直に認めよう。この状況においてこれは避けられぬ次善の選択肢だった」「そんなこと。だってこれじゃ。あの子は」姫神は、いつになく強い視線でアウレオルスを睨みつける。咄嗟にアウレオルスがしたことが、許せなかった。勿論直接見えたわけではない。ただ姫神は、吸血鬼の少女がこの遠い場所まで響かせたその声で、全てを察していた。アウレオルスが、何らかの事情で再び姫神の香りをあの少女に嗅がせ、理性を剥奪したことを。それは、不可逆な変化なのだ。姫神の香りに犯されれば犯されるほど、戻れなくなる。人らしさを失い、吸血鬼としての本能に従わざるを得なくなる。あの少女は、一体どこまで堕ちてしまっただろう。再び、幸せを取り戻せるところで止まっているだろうか。それを自分は、無力に願うことしかできない。「アウレオルス・イザード」「なんだ」「次は。ないから」「……」「お願い。信じさせて。次にあなたが同じことをやれば。私は自分で命を絶つ」ここに来る前からもう覚悟は決めてあるのだ。誰かを殺すことになるなら、その前に、ナイフで胸を突いて死ぬと。あの少女の幸せを奪ってまでは、自分を生きながらえさせたりはしないと。姫神は自らの不利を理解している。自分の生死など、もはやアウレオルスの興味の範囲外だろう。吸血鬼の少女を呼び出すことが、姫神の仕事。その報酬は吸血鬼から無事にアウレオルスが目的を果たした後に得られる。だが、今ここで姫神を殺したとして、アウレオルスに不都合はない。二人の契約は最初から姫神に不利だった。巫女服の袖に隠れた拳が、詰めが食い込むほどにぎゅっと握りこまれていた。無力な自分が、悔しい。「――――約束を違えるつもりはない。私の願いを叶えるのに、これ以上吸血殺しの力を借りることもあるまい。 アレはこちらを認識した。じきにこちらに向かってくるだろう。そちらの扉から隣の部屋に行け。お前を目の前において、交渉はできん」「……わかった」姫神の強い視線を無感動に受け流しつつ、アウレオルスは視線を僅かにだけ交錯させた。くるりと踵を返し、姫神が隣の部屋へと立ち退いた。不自然に丁寧な姫神の仕草は、爆発しそうな苛立ちの裏返しだった。それを見送ってからアウレオルスは独り、虚空に向かってつぶやく。「……インデックス。今、お前を助けよう」姫神のことは、それでもう脳裏から消えた。かわりに先程のインデックスの声を思い出す。珍しくアウレオルスは、つい数秒前の自分の記憶に自信が持てなかった。あるはずがないのだ。自分のことを、あの少女が思い出すことなど。あれが自分の願望が生み出した幻聴でなく、自分が救うまでもなくインデックスが記憶を取り戻しているという可能性を、アウレオルスは考えるのをやめた。希望的観測にしたがって全てを失うのは愚か者のすることだ。吸血鬼を捕獲し、取るべき手を取れるようになってから、インデックスについては改めて問いただせばいい。それは、アウレオルスのたったひとつの悲願なのだ。だから、失敗するわけにはいかなかった。吸血鬼の少女、エリスを迎えるためにアウレオルスは呼吸を整え、鍼を首に刺した。****************************************************************************************************************あとがき未元物質<ダークマター>は、原作においてその詳細が明かされていません。自然界にある物質とは別な物質とされていますが、一体どの「階層」から彼はコントロールできるのでしょうか。可能性としては、大別して以下の3種くらいが考えられると思います。1、素粒子レベル2、原子レベル3、分子・その配列構造レベルどういう違いがあるかというと、1、本当に何でもアリ。物質と反物質を作って対消滅による爆発で地球を消滅させることも可能だし、ゲージ粒子(光子、重力子等とそれらの超対称性粒子)のコントロールによりあらゆる力を制御したりできる。作れる物質の種類も無限に近い。2、100強発見されている元素に、新たな一種類を加える程度。力を媒介するゲージ粒子は扱えず、また人間の目に見える大きな「もの」を作るとなると、その種類は可能性1の場合に比べ限定的。3、素粒子や原子を意識するレベルより取り扱いがもっとマクロ。よって未元物質とは目に見えるレベルでただ一種類の物質である。本作では、1に近いけれど不完全、という立場を取りたいと思います。レベル6に二番目に近い能力者であることを考えると、やばり2や3の能力設定では不満だと思うからです。現状のていとくんは、ゲージ粒子は扱えないけれど、「もの」を構成する粒子、すなわちフェルミオンについてはかなり自由に制御できると考えたいと思います。反物質は生成できると自分でも思っているものの、ミリグラム以下の制御が不可能で、自分を巻き込んだ大爆発を必ず誘発してしまうがために反物質合成は自重している、と私は設定しています。