「あ、ああ」三沢塾の外の路上で、騎士鎧に身を包んだローマ正教の使徒たちがその光景を呆然と見つめていた。遥かローマの地から聖呪を届け、下したはずの神罰。その神の威光がビルから立ち上り、天へと戻っていく。それが一体どこまで戻るのか、騎士達はどうしようもなく理解していた。がしゃんと、誰かが膝から崩れ落ち、金属の擦れ合う音を響かせた。「そん、な――」ありえない。三三三三人もの敬虔なローマ正教徒を集め練り上げた聖呪に、たったひとりの錬金術師の力が勝るなどということは。一体それがどれほどの天使の力<テレズマ>を内包した一撃なのか、それを見積もれば明らかだ。およそ、一人の人間が立ち向かえるような量ではないはずなのだ。だがそのごく常識的な判断が、まるで目の前の現実とかみ合わない。光が騎士達の前から、否、学園都市から消えた。これは、「巻き戻し」なのだ。ローマの中心、バチカンで祈りを捧げる修道士達を基点としてこの学園都市へと向けられた天使の力は、そっくりそのまま、再びバチカンへ戻ることになる。そして志向性を失くした天使の力は、その役目を終えるためにバックファイアとして修道士の体に跳ね返ることだろう。……祈りを捧げた修道士たちの末路がいかなるものか、彼らの集う聖堂がどのような惨劇に見舞われるのか、想像に難くなかった。絶望に崩れ落ちる騎士達のすぐ傍で、インデックスとステイルもまた、呆然とその出来事を見つめていた。宗派が違うとはいえ、目の前で起こったそれは、十字教が敗北する瞬間だと言っても過言ではない。十字教最大宗派の最大威力を誇る一撃がこともなげに跳ね返されたのだから。とはいえ、騎士達とは二人の態度は異なっていた。絶望に、思考を全て投げ捨てることはしない。それは『必要悪の教会<ネセサリウス>』と名づけられた一派に属する者としての、ある種の『慣れ』だった。その職業柄、彼らは常に、意外性と相対している。教えの矛盾を突く技や、異教、邪教の業を振舞うものに対し、思考停止するのは敗北とイコールだ。だから、ありえないはずの出来事に会いながら、心の片隅でその異常の異常さの量を見積もる。「コレは、つまりアウレオルス・イザードがあの想像上の生き物を手に入れたと、そういうことかい?」「ううん。これは、魔力の多さで実現できる術式じゃない。だからステイルの思ってることとは、違うかも」「……どれくらい状況を正確に把握してる?」「ステイルも分かってるよね? これは、技法としては完成しているけど、詠唱時間が非現実的だから、誰にも為せないはずの術式」「――――黄金練成<アルス=マグナ>」「そう」重くステイルが呟く。インデックスは、視線を建物から逸らさずに、ステイルに相槌を打った。「絶対に為せないはずの術式を、彼はどうやって発動させたと?」黄金練成<アルス=マグナ>。それは万物の理を見通すことを目的とする錬金術師の、前人未到にして究極の到達点。端的に言えば、頭の中に描いた出来事を、現実にそのまま具現化させる術式だった。それを行使するための方法論、すなわち詠唱呪文は確立している。問題は、術式を発動させるのに必要な詠唱時間を概算すると、軽く数百年はかかり、一人の人間がそれを成し遂げるのは不可能だということだった。「はっきりとは分からないけど、たぶん先生が吸血鬼を捕まえたのは今日か、最近の事のはず。だから、これは別の方法で成し遂げたんだと思う」「方法は分かるのかい?」「……あそこは、学生が集まる施設なんだよね?」「そうだね。それで?」「一人で詠唱すれば数百年掛かる呪文も、二人で頑張れば時間はその半分、十人で頑張れば数十年で終わる。そうやって、沢山の人を利用すれば、詠唱時間は短く出来る」「安直なアイデアだね。錬金術師なら誰でも考え付きそうなアイデアだろう」「うん。だけどこれも結局難しいから、今まで実現化したことはなかったんだよ」コンピュータでもそうだが、並列演算というのは、一つの脳を用いて術式を行使するのとはわけが違う。一人ならばそもそも存在しない、「お互いの同期を取る」という仕事が新たに増えるため、それに忙殺されてしまうのだ。数百年分の詠唱を人数分に分けて、ただ漫然と同時に始めさせて並べたところで呪文の形は成さない。分割した場合の詠い方をまずアレンジし、その上で、詠唱の重なりが適当となるよう誰かが指揮者として詠唱者を統括しなければならない。感情という名の揺らぎを常にもつ人間に、その指揮者を勤めるのはほとんど不可能に近かった。だからこれまで誰も、この安直なプランを実行し、成し遂げたものはいなかったのだが。「あそこにいる学生を使って同時に呪文を詠唱させたんだったら、その中心にいる先生は……」もう、人として笑い、怒り、あるいは悲しみに暮れるといった人間らしい行いを、行えるはずはない。人の身にして、人の身に余る大魔術を行使する代償としては安いだろう。魔術師であれば、目的を果たす代償が自らの感情でいいのなら、喜んで差し出す輩はごまんといる。「フン。心を失って機械に成り下がるのは、錬金術師としては本望な気もするけどね」錬金術師はそれを目指す生き物だ。だから、ステイルの言う通り先生は、後悔なんてしていないかもしれない。いや、本望なのだと思うほうが当然なのだ。だがインデックスは、それを受け止められなかった。錬金術師として、アウレオルスの名を告ぐ高名な一族の末裔として、先生が本懐を遂げているのかもしれないのに。インデックスの記憶にある先生の、その素朴な笑顔は、このあまりにも良く出来た練成の塔とは、似つかわしくなかった。「……ステイル」「何だい?」「先生に、私の声が届くか、分からない」「だから?」「私のことも、分からないかもしれない。それに、ステイルのことも。だから安全とは限らないよ」「元よりそんなイージーな見込みなんて持って来ちゃいないけどね」死地に向かう気で、ステイルは来ている。いつものことだった。いつもと違うのは、何があっても絶対に傍らに立つインデックスを、傷つけさせないという覚悟。それはむしろ、ステイルを鼓舞するものだった。そのために戦えることは、幸せだ。「そろそろ修復も止む。入ろうか」「うん」ステイルは、近くで依然としてへたりこむ騎士達に最後の一瞥を送った。戦意を喪失し、誰も三沢塾へと向かわないのを見届けてから、彼らのことは二度と振り返らなかった。彼らに背を向け、魔塔へと進める歩みを止めることなく、十字を切った。目の前の塔の中で一人失われたパルツィバルという騎士と、沢山のバチカンにいる十字教徒のために。垣根の前で、優しく可愛らしい少女の、大切な思い人であるエリスが、声を張り上げる。「あ……あ、あ、ああああアアアァァァァァァァァァァァァァ!!!!」「エリ、ス?」それはおよそ言語とは呼びがたい叫び。直前に一瞬の愕然とした表情を見せたが、それすらももう消えた。今エリスの顔に浮かぶのは、獰猛な、乾きを覚えた獣の表情。垣根はエリスに伸ばした手を硬直させた。普段はおっとりとした恋人の、あまりの豹変を前にして、それは仕方のないことだったのかもしれない。だが、その躊躇は。「くっ! エリス!」落下する垣根と、不思議な力によって落下を阻まれたエリスの間を、ほんの少しだけ引き離した。手の届く距離から、ほんの少し遠い距離へ。その差は距離にして小さく、意味にして大きい。「俺を見ろ! エリス! エリス!」「アァァァァァアアアア!!!!」エリスの手がわななく。何かを渇望するその仕草は、垣根のいる階下ではなく、上を狙っていた。視線も、もう交わらない。エリスは、はるか上を見つめているから。垣根は虚空を掻くように、手を振りかざした。周囲の足場は自分と同じ加速度で落ちている。踏み締められるものはない。だが、無策に手で空を掻いているわけではなかった。垣根には、ただの人間には持ち得ない、特別な物質を想像する能力がある。海を泳ぐ哺乳類のひれの如く、突き出すように垣根は両足を蹴りだした。空気にはそれで人間を持ち上げられるような抵抗などあるはずもないのに、垣根の体が重力に逆らい、上へと登りだす。垣根が得た上昇方向の加速度は、未元物質の噴射によって得たものだった。地球を脱するスペースシャトルは、下に向けて噴射する大量の燃焼ガスから受ける反作用で空へと向かう。それと同じ機構で垣根は空を飛んでいた。万物の元を操る垣根にとって、できないことというのは少ない。だが、不得手はある。今、エリスのもとへと向かおうとしているその応用、「飛翔」がその一つだった。「クソッ、邪魔だ!」天へと落ちていく逆巻きの瓦礫。それを縫うように避けながら、垣根は未元物質を噴射する。空力使いでもない能力者である垣根がこれだけの飛翔を行うのは十分に賞賛されるべき応用だが、それでも鳥のように優雅に、合理的に飛ぶことは能わない。急を要する今は、それはただもどかしいだけだった。エリスとの距離が、離れていく。「エリス! 行くな!」視界が、閉じていく。コンクリートの断裂が姿を消し、秩序を取り戻していく。垣根の目の前に、なんでもないごく普通の塾の廊下が、天上が、形を取り戻していく。あっという間にエリスの姿が見えなくなった。同時に、どこの階かもよくわからないが、垣根は三沢塾内部のどこかに降り立った。「チッ、なんなんだ、あれは……!」訳もなく、壁を殴りつける。ぞわりと不安が這い上がる。エリスのあの様子は、尋常ではなかった。何かを渇望するような悲鳴。それも、およそ獣じみた。薬物中毒だとか、そういう尋常なる異常の範疇に、あの様子は当てはまらない。薬や病害で人が醜悪に成り下がることはあっても、人を辞めるようなことは、人には出来ない。あの叫びは、人並みの心を捨てていない人間に、人であることを辞めさせるような響き。……垣根は、理解していた。エリスに対して悪意を向けた誰かが、ここにはいるということを。一瞬、毒気が抜けたかのように腕を弛緩させ、見えない上階を見上げた。「……無事に生きては帰さねえ」どこかそれは他人事のような呟きだった。ポツンとこぼれたその言葉には、裏腹に持て余すほどの静かな敵意が満ちていた。垣根の元をエリスが離れたのは彼女の本意ではなく、そして、誰かがエリスを、傷つけようとしている。戸惑いや不安、そういった垣根の中でただ渦巻いていた感情が、流れ込む先を見つけて志向性を帯びていく。それは初めてのことだったから、酷く緩慢な変化しかもたらさない。……自分以外の人を傷つけられて、こんな風に怒りを感じたことなんて、なかったから。「これを、どうやって成した?」壁に触れる。何処から何処まで、普通のコンクリート壁だ。大崩壊の爪痕など、微塵もない。垣根は手を振り上げ、壁をはたくように振り下ろした。ガツッと硬質の音を立てて、コンクリートの破片が飛び散る。それは金属より硬く重い未元物質を作れる垣根にとっては、どうということのない行為と結果だった。――もし、それが三沢塾という異界でなかったならば。時間を空けることなく、それらは復元を始めた。呼吸を整え、アウレオルスは吸血鬼がこの場にたどり着くその瞬間を、じっと待っていた。内心に湧き上がっているはずの期待をあえて横から眺め、心を揺らさず、万が一の抜かりもないように。ひたりひたりと、というにはあまりに暴力的で直線的な進攻だが、金髪の吸血鬼の少女は今もアウレオルスに近づきつつあった。「む……?」不意に何かの違和感を、アウレオルスは嗅ぎ取った。建物内あちこち歩き回る、自らの支配下においた学生たちの動きを意識の外に追いやる。そうして建物の中の「動くもの」の中から侵入者を探し出す。そうした異物の筆頭はあの吸血鬼の少女だが、その動向は把握済みだ。基本的には階段などの人間用の通路を使っているが、障害となる扉などを破るのに躊躇はなかった。取り繕うことを辞めて、欲求に忠実となったが故の無表情を、顔に浮かべている。だが、アウレオルスの意識に止まったのはそちらのほうではなかった。インデックスが現れる可能性のある、建物入り口付近からでもない。場所はどうということはない、ビルの5階辺りの、何もない区画。「ビルの復元が行われている……?」あるべきカタチを常に保てと、自動修復するよう設定したばかりだ。それは地上にいるであろうローマ正教の尖兵への対策のつもりだったのだが。「疑念。超能力者があの破壊を生き残ったか」破壊前にはそこに、姫神が指摘した高位の能力者がいたことは事実である。その死は確認していない。意識をめぐらし気配をたどれば、確かにその男が、健在でいるらしかった。「あの程度の破壊ならば。脅威と数え上げることもない」壁など何度壊してくれても構わない。というか、破壊という行為だけならいくら好きにやってくれてもいいのだ。この異界の支配者たるアウレオルスにとっては、それは瑣末なことでしかない。だからアウレオルスはこれ以上の注意を払う気もなく、垣根帝督という存在を、無視しようとした。「……? なん、だ?」魔術師アウレオルスには、超能力者を正しく見積もる目がない。その過小評価を動揺という形で、アウレオルスは支払うことになる。地味な色の壁を背に、垣根はふっと呼吸を、一息ついた。焦りをほぐすように丁寧に呼吸を整える。行動を、垣根は急がなかった。焦ることはむしろ目的を果たすまでにいたずらに時間をかけることになりかねない。先ほど壊したはずの壁にもう一度触れる。そこには破壊に伴った亀裂や粉塵化などは一切もう見られない。今起こった現象は、時間を逆流させたといっていいような完全なる復元だった。――ガツッと硬質の音を立てて、コンクリートの破片が飛び散る。垣根は同じ事を、もう一度繰り返した。破片は物理に従い、飛び散って床に広がろうとする。だがそれよりも前に、これまた先ほどと同じように修復を始めた。もう、三沢塾という異界はその異形を隠したりはしなかった。そして垣根も、それを理解し観察することの意味を感じていた。思考をめぐらせる。どのような超能力なら、コレを成せるか。――答えは、ない。そのような能力など、到底有り得ない。応用性の広さと規模の点で、この建物の支配者がレベル5以上の演算力を持っていることになるのは確実だ。だがこんな能力者は7人の中にはいない。思考をよぎるのは、魔術という言葉。エリスに教えられても、頭のどこかで垣根はその概念を受け入れられなかった。今この状況に陥っても、未だ魔術を受け止めることは、垣根には難しい。だけど、それでも結論はシンプルだった。受け入れなくとも、この塔で起こっていることを見透かすことは、不可能じゃない。その方法論は、能力者を相手にするのとさほど変わらない。――人は完全なカオスを扱うことは出来ないのだ。無秩序を成すのに、どこかで秩序、法則、ルール、そう言うものを必要とする生き物だ。ごくシンプルな時間発展の微分方程式、例えば流体力学の方程式がカオティックな乱流を生み出すように、この不可解な、超能力では到底記述の出来そうにない現象にも必ず法則はある。そして、だからこそ、突きくずせるポイントがある。「ブチ抜け」垣根はポケットに手を突っ込んだまま、上階にを睨みつけてそう呟いた。直後、グワッッシャァァァァァ!!!!!! とコンクリートをすり潰すような、奇妙な音が壁から起こった。そしてまるで水滴が壁から染み出るかのように、金属光沢を持った鈍い朱色の物体が天井から浮き出した。壁を構成するコンクリートと同じ空間座標に、垣根は未元物質を出現させたのだった。「テメェがどんな敵なのかもまともに知らねーがな、物質(モノ)の取り合いで俺に勝てるとは思うなよ」未だ顔さえ見えぬ敵に、垣根は冷酷な顔で告げた。侵される。理路を整然と並べ、完美を体現したはずの錬金の塔が。黄金練成(アルス・マグナ)によって作られたこの場所は、アウレオルス・イザードが砂埃の一粒に至るまで支配した場所だ。なのに。「戻れ」その言葉に、従わぬ場所がある。元の形を失いぐしゃりと変形した、ある一角。アウレオルスが戻れと言ったのだから、そこは元に戻るはずなのだ。「……戻れ」二度言葉を繰り返す、その時点でおかしいのだ。黄金練成は完全であるが故に黄金なのだ。僅かな判例でもあれば、それは卑金に成り下がる。「何を成した、能力者……!」苛立ちが、言葉に篭もる。自らの手からまだ零れ落ちていない、その変形した場所の周辺に意識を集中し、事態を把握するための情報を集める。「これは、水銀、いや銅か……? 否、貴金ではない」金属光沢を持ち、鈍い朱色といえば銅だ。だが錬金術師たる自分が、まさか貴金属の目利きで間違いを犯すなどありえない。これは、断じて金属ではない。アウレオルスが知る、地球上に存在する金属のどれとも性質が異なる。超能力によって物性を歪められたのだという仮定を否定することは出来ないが、アウレオルスは直感で、相対している能力者が、そんなチャチな小細工で挑んでいるのではないことを理解していた。アウレオルスが見ている「それ」はもっと、錬金術という魔術を根底から覆すような、恐ろしい能力の片鱗に違いなかった。「――く。まさか、虚数物質の類だとでも言うのか」錬金の理の、埒外に存在する物質。自乗で負になる数のように、自然の摂理に逆らった空想上にしかありえないはずの物質。成る程、超能力というのは自然を超える能力のことだ。そんなものがあっても、無理はないのかもしれない。そして。それがアウレオルスの知の埒外にあるモノであるならば。「解さぬ物を操れる道理は錬金には無い」錬金術師としてのプライドなどというものでアウレオルスは動いているわけではない。黄金練成の完成など、自分の本当の願いから見ればただの道具に過ぎない。ただそれでも、錬金、その中興の祖パラケルススの末裔たる彼にとって、その一言はまごうことなき敗北宣言だった。もう何度目か、右手に持った鍼をアウレオルスは首筋に打ち込んだ。「敢然。而して立ち向かうべきは、能力者ではなく――」アウレオルスはそこで言葉を切った。しつらえのいい校長室の入り口の扉がギッと軋む音を立てた。程なくして、それはバギンという木製の扉の壊れる悲鳴が聞こえた。その奥から音も無く現れたのは、薄い微笑を口の端に浮かべた、金髪の清楚な少女。その瞳は本能に根ざした欲求にあまりに忠実すぎて、澄んでいた。「歓迎しよう。吸血鬼の少女よ」値踏みを擦るように見つめてくるエリスに、アウレオルスは作り笑いを浮かべた。この少女を奪還するつもりであろうあの少年がたどり着くまで、時間をとるつもりは無かった。「クソ、進まねぇ」舌打ちをして、焦りを歪めた唇に浮かべる。自動修復の壁というのは厄介だった。大規模な爆発を起こすことも垣根の能力なら可能だが、修復されるのならあまり意味はない。未元物質を壁材に混ぜ込んでやればどうやら相手のコントロールからは外れるらしいが、これは進行速度の観点からすると大した成果は上がらなかった。効果的に使えば、階段のために遠回りするよりいくらかマシ、という程度だ。そして先に進んでいるつもりだが、エリスの行き先にも確証を得ているわけではない。あてずっぽうみたいなものだ。だから下手をすれば最上階近くになってから、また先ほどと同じようなかくれんぼをやる必要があるかもしれないのだ。時間のなさが容赦なくかきたてる焦燥を、垣根は必死に押し殺す。「……何だよ」不意に、随分と久々に塾生とすれ違った。そういえば崩壊後は初めてだ。別に見た目におかしなところなんてない。ただ垣根をジッと見つめているだけだ。だが垣根は、その瞳になにか、感化できぬものを感じ取っていた。何せ、つい今しがた、廊下をぶち抜いて階下から飛び出してきた男を見つめるにしては、驚きがなさ過ぎた。黒髪のおさげに丸眼鏡の、まるでこんな異様な場所からは縁遠いような凡庸な顔の少女。その異様さに僅かに意識をと時間を割いた垣根が、再び自らの行動に移ろうとしたその一瞬に、少女が何かを呟いた。「罪を罰するは炎。炎を司るは煉獄。煉獄は罪人を焼くために作られし、神が認める唯一の暴力――――」垣根はその言葉の意味を汲み取れない。だが言葉以外の別の感覚で、垣根はその言葉がもたらす結果を理解していた。少女の眉間の辺りに、ピンポン球くらいの青白い球体が火を灯す。「テメェが黒幕、ってことはないか――」おそらくその予想は正しいだろう。だからこんな雑魚相手に時間なんて潰したくはない。だが、攻撃されれば、迎撃せざるを得なかった。「寝てろ」野太い柱を生成し、垣根は少女の腹を突いてやった。ごほ、と息や胃の中身を逆流させるような音を立てて少女はぐしゃりと崩れ落ちる。同時に飛んできた火球を、空いているほうの手で振り払う。――パキン、と子気味良い音が手のひらから響いた。「……未元物質を割った?」異様な感触だった。未元物質とて物質の一種であり、作り方によっては酸に侵されもするし、壊れることも風化することもある。だが今、振り払う手にあわせて作った未元物質が割れた瞬間のあっけない感触は、そうした変化とは違う。まるで能力を打ち消されるような感覚。というか、相手の打ち放った火球とそもそも存在自体が相容れなかったかのような、不自然な反応だった。この少女は何者だろうか。そう探る目を垣根が向けると、少女は吐瀉物を床に撒き散らし、汚れた口を隠すことなく垣根を見つめていた。意志の見えない顔だった。そしてまた、垣根に分からない呪文を、紡ぎ続ける。少女がもたらすのは取るに足らない脅威だ。だから垣根はもう捨て置こうと、そう思ったのだが。ばじっ、と。少女の頬が、まるで皮膚の裏に仕掛けた爆竹でも爆発させたように吹っ飛んだ。「暴力は……死の肯定。肯、て―――は、認識。に―――ん、し―――」自らの傷を少女は意に介さず、さらに言葉を続ける。指や、鼻や、服の内側で続けざまに爆発は生じ、少女は少女としての形を壊していく。それは、火球を作り出した代償なのだろう。自分の体の崩壊と引き換えに、ちっぽけな火球が再び宙に浮いた。「何度やっても、結果を変えるほどの威力じゃねえよ」言い聞かせるように垣根はこぼす。それは思いやりに近かった。だがその慰めを聞き届ける相手はいなかった。たとえ耳が弾け飛んでいなくとも、少女に聞く意志はなかった。垣根は十数秒のそのロスを歯噛みしながら、階段の先を見つめた。あとはもう、能力で建物を壊すような真似をせずともこの階段を上りきれば、最上階にたどり着くはずだった。――その階段から、低い呟きを幾重にも重ねた、呪いの声のようなものが聞こえた。「操られたのは一人、ってわけじゃねえか」その様に、垣根は怖気を走らせた。傍らの少女や、階上の学生達を哀れんだからではなかった。この壊れ行く少年少女達に、エリスを重ねたから。――――だが、垣根は。ぐしゃり、と。少女の額に浮いた火球を、少女の顔面ごと蹴り潰す。未元物質でコーティングした靴は、パキンという音と共にそのコーティングを壊しただけで、後は特に変化はなかった。垣根帝督は、エリスを救うためにここに来た。他の誰も彼もを救えるような、博愛主義の持ち主ではない。それでいいと、垣根は思っていた。自分は英雄ではないのだから。「悪いが、歯向かうなら手荒く退ける」雨の様に降り注ぐ火球を見て尚冷静に、垣根はそう告げた。「さて、少女よ。私の名は、アウレオルス・イザード。錬金術師の端くれだ」「……」アウレオルスは、目の前の少女を「測る」。吸血鬼というのは、どれほど人から乖離した生き物だろうか。元が人間で、協力者の少女に言わせれば人間と何も変わるところがないという。ならば、話し合いも可能だろう。……つい先日までは、そういう予測の元に動いていた。「ここに君を呼んだ理由を単刀直入に話そう。君に協力してもらいたいことがある」「……」「ある少女を救うために、君達、カインの末裔の知恵、あるいは術を教えてもらいたい」「……」「君達は人間と同じ容れ物に、無限の命と、そして無限の記憶を蓄えている。どうやって、それを成しているのか、それを聞かせて欲しい」「……」金髪の少女、エリスがぼんやりとアウレオルスを見つめた。この部屋にある他のもの、たとえば高給そうなソファだとか机だとかよりも、喋る人間のアウレオルスのほうがまだしも注目を惹き付ける存在だ。だが、エリスの関心はその程度だった。もとより話の中身など、エリスには届いていなかった。「当然。やはり、あれだけの吸血殺しの匂いに触れては、もはや理性は残っていないか」「……どこなのかな?」独りごちるエリス。確かに、匂いはここから漏れていたはずなのに。その匂いの元、根本、それ自体がここにはなかった。目の前のニンゲンからは普通の匂いしかしない。違うのだ。あの、たまらなく芳しい椿の香りを身に纏った、巫女服の少女とは。「こっちかな」部屋には、扉が二つある。それらの部屋も調べてみれば、見つかるかもしれない。緑髪の長身の男性、アウレオルスを無視して、エリスは隣の部屋へ続くドアのノブに手をかけた。「悪いが、君を死なせるわけにはいかないのでな。吸血殺しとの接触は禁じさせてもらう」「開かないか。もう、邪魔なドアが多すぎるよ、この建物」グッと、エリスはドアノブを握り締め、強引に力を込める。その細腕からは想像も出来ない膂力で、ドアに軋みをかけた。「開かんよ。ただの物理的な封鎖ではないからな」「おかしいなぁ。もう!」――ギギギギギギギギギ!!!!!と、黄金練成が課した「絶対に開かれるな」という言葉と、それにエリスの魔力が抗う音がした。「吸血鬼に単純な方法で打ち勝つのは、黄金練成といえど不可能か。――――音速で這う水銀の弦にて敵を拘束せよ。数は1000」「えっ?」ぎゅるりと、水のような銀のような、不思議なストリングがエリスを絡め取った。不意打ちというか、まったく眼中になかった相手だったから、エリスは対応できなかった。「最大速度で魔力を吸引せよ」「あ……」ごくん、と。自分の中の魔力が誰かに飲み込まれる音を、エリスは聞いた。まるで誰かの胃の腑の中にいるような、生暖かい胎動。自分を吸っているのは、きっと、この建物そのものだ。気持ち悪いはずなのに、不思議と、眠たくなる。「吸血鬼はこれで死ぬことはない。後で血が必要なら、いくらでも階下から調達しよう。しばらく窮屈を強いるが、我慢願おう。禁書目録はもう私の傍まで来ている。時ほどなくして、私は私の願いを全うし、君にも可能な限りのことをする」あっけない、幕切れだった。いや、そもそも吸血鬼を、人を殺戮するための狡知に長けた生き物だと思うほうが間違いなのかもしれない。長閑に生きてきた少女にしてみれば、むしろ悪意に満ちた生き物は人間のほうだ。見下ろすアウレオルスの前で、エリスはすうっと瞳を閉じ、うなだれた。アウレオルスはさらにその体を丁寧に水銀の糸で巻いた。ふう、と一息つく。間に合ってよかった。アウレオルスは自分が乱戦に弱いことを自覚している。命令を細かく設定しなければならない黄金練成という能力は、一対多の戦闘には向いていないのだ。だから、吸血鬼をさっさと眠らせてしまえたのはまさに行幸だと言えた。「エリス!!!」この、得体の知れない物質を扱う少年を、次に相手しなければならないことを考えに入れたならば。暗がりで、姫神秋沙はジッと息を潜める。呼吸をするのも恐ろしかった。扉一枚向こうに、あの子がいるから。出来ることなら心音も止めてしまいたいくらいだった。吸血鬼なら、自分の居場所をそれくらいの物音で見つけ出すのも、無理じゃない気がする。――ビクリと、姫神の体が震えた。ガチャガチャ、ギギギギと扉を乱暴にこじ開ける音がするから。それがアウレオルスの所作でないのは確実だ。部屋の隅の、死角になったところでぎゅっと丸くなりながら、姫神はただ願う。音にならぬ声で、唇だけで祈る。「アウレオルス。お願い……。うまく」無限に長い時間を、ガタガタと震えながら過ごす。祈るしか出来ない。惨めな自分を呪いたくなる。いや、呪い続けて生きてきたのだから、それは今に始まったことではないけれど。「静かになった……?」事が上手く行っていれば、アウレオルスは一言告げてくれるだろう。期待と疑念が心の中で渦巻く。一秒、二秒と時間を心の中で数える。アウレオルスの声は、姫神に掛からなかった。外からの返事は、アウレオルスの声ではなかった。「エリス!!!」「この声。垣根……帝督」姫神は走り出したい衝動に駆られた。アウレオルスが、垣根を説得できるはずはない。自分だってできるかは怪しいが、それでもアウレオルスよりはずっと望みがある。何も、自分達はあの子を傷つけるつもりなどないのだ。ほんの少し協力してくれたら、あとはむしろあの子のためになんでもする覚悟がある。だから、私達は、争うべき相手ではないはずなのに。「……なんで。私は」姫神は、垣根と交渉することはできない。だってその部屋には、エリスも傍らに存在しているから。傍らに置いた短剣を、姫神は握り締めた。それはお守りだった。いつでも、必要とあれば自害が出来るようにと、持った剣。これ以上あの子のような境遇の吸血鬼を死なせたりなんてしない。もう一度、姫神は誓いを呟きにする。「もう一度誰かを殺すくらいなら。私はその前に命を絶つ」その短剣の重みは姫神の手に良くなじんでいた。ここ数日は毎日手入れをし、丁寧に研ぎ澄ませた剣だ。細く長く、姫神のあばらの間からきちんと差し込めて、間違いなく心臓に到達する。どの骨と骨の間を通せばいいのか、その時の手の角度はどんな風がいいか、そんなことはもうちゃんと考えてある。真っ暗な部屋で、ドクリドクリと波打つ自分の心音にすがりながら、じっと姫神はその時を待った。誰かを殺す恐怖に怯えた毎日を、終えるその時を。その結果に自分の死か生か、どちらがくっついてくるかは、分からなかったけれど。