「エリス!!!」垣根は強引に破られた形跡のある校長室の扉から、躊躇いなくその中に進入した。無警戒な訳ではない。ただ、自分の身を案じるための時間は、エリスを助けるための時間の浪費だと考えていただけだった。まず初めに目に入ったのは、緑色の髪の西洋人。年恰好は垣根とそう変わらないが、その紳士的な服装と顔の裏に、狂気めいたものが感じられる。垣根は、その男こそがエリスを傷つけようとしている敵なのだと、直感的に理解した。「エリスをどうした」「案ずることはない。さほど手荒くはない手で、先ほど眠ってもらったところだ」アウレオルスが垣根の真横を指差した。視線が相手から外れるのは好ましくなかったが、エリスの安否を確認したい欲求には抗えなかった。エリスは膝を僅かに曲げたくらいの姿勢で、立っているというか、吊るされていた。十字架に掛けられたどこぞの宗教の神の子のように、手を広げている。腕全体と手首、そして胴や腰、足に、銀色の糸の束が幾筋にも分かれ、絡まっていた。出来損ないの繭みたいなそれに、エリスは囚われている。うっすらと開いた目は、意識を保っている証拠のように見えるのに、その目の焦点はどこにもあっていない。それはまるで、蜘蛛に掴まり捕食される寸前の状態の蝶の様で。銀の糸もエリスの金の髪も、あらゆるものが美しい部分で構成されたはずのそのオブジェが、垣根にはおぞましく見えた。「放せ」「靦然。私とて目的があってこれを為したのだ。おいそれと願いを聞くことはできん」互いに相手が誰なのかと問うようなことはなかった。相容れない関係であることを、その雰囲気で察したから。そしてどちらも饒舌さなどとは縁遠い人間だ。視線の交錯は、ほんの一瞬だった。アウレオルスが鍼を首に突き刺し、引き抜く。僅かに空白の時間を置いてから、垣根に手をむけながら告げる。「少年よ。君に恨みはないし君に落ち度もないが、君の願いは聞き届けられない。故に死――」「てめーが死ね」垣根がアウレオルスの通告に言葉を重ねながら、殺意を物質に変換する。キュァア! という悲鳴を空気があげ、突如として虚空に乳白色の三角錐が出現した。この世のどんな物質とも異なる、アウレオルスの埒外の物質。細長く尖った錐上のそれは、回転をかけながらアウレオルスに迫る。「鎗突を防げ。円盾を彼我の間に――!」後手に回ってしまったことに囚われぬよう、アウレオルス目の前の事実のみに集中する。奇妙な事実に、アウレオルスは驚嘆を禁じえなかった。錬金術として、この黄金練成<アルス・マグナ>は容易にはたどり着けぬ高みにある。惜しくはなかったが、黄金練成の代償にアウレオルスが捨てたものは山ほどとあるのだ。その魔術が成しえる神秘と、目の前の少年、学園都市でも高位の能力者らしい彼の成している奇跡、それらのなんと似ていることか。垣根の錐が、アウレオルスの盾に突き刺さる。瞬間。パキィィィンと軽い音を立てて、両者はひび割れ、砕け散った。まるでその存在同士が、矛盾することを証明するように。「――ハ。テメェがこのビルを牛耳ってんのか」未元物質を用いて攻撃を繰り出す垣根に対し、物質の操作で立ち向かうアウレオルスの姿を見て、その緑髪の男こそがこのビルの異常な現象を司っているのだと垣根は理解する。そして手を緩めることなく、四つ五つと、垣根は眼前に球状の未元物質を作る。それは今アウレオルスに向けた錐の「種」だった。この錐は、垣根にとって一番作るのが簡単で、大量に用意できる攻撃だった。それでいて、充分な威力を誇る。質量はどんな能力にとっても弱点になりやすい。充分な重みを持ったこの錐を防ぐのはどんな能力者にとっても負担となる。そして物量もまたシンプルな強さを持っている。一本の錐を回避するのは能力の種類によっては容易いが、数に物を言わせるとすぐにそれも頭打ちになる。だが目の前の男は、これまで垣根が相対してきたどの能力者とも、決定的に違う手でその錐に相対していた。すなわち、たいして大きくもない盾を「創製」して防ぐ、というやり方だ。足元の土で壁を作っただとか、そういうことではない。無から物質を呼び出すという対処法を、男は取ったのだ。その意味で、この目の前の魔術師とやらは他のどんな超能力者より自分に似ていた。「先の手順を複製! 数は十、すべての刺突を迎撃せよ」襲い掛かる錐に立ち向かうよう、古代ヨーロッパの面影を残す円状の盾がアウレオルスの前にいくつも浮かぶ。同心円をいくつも重ねたデザインで、その意匠には円形に作られた古代都市の町並みが模されている。そうして町を守る外壁と同等の守りが付与された強靭な盾を、垣根の未元物質は相打ちという形であっけなく破壊していく。――この能力と黄金練成は、噛み合いすぎるな。アウレオルスは迎撃の方法を選び間違えたことを理解した。超能力とは自然の法則を利用し、捻じ曲げるものだと漠然と思っていた。だから魔術的な盾を作り、それで防御を行うことは最も理に適っていると思っていた。だが、この相対した少年の能力は違う。断じてアレは自然の一部ではない。故に魔術の盾と彼の錐は明確に対立し、相克する。「――床及び側壁より石壁を構築。それを以って盾と為せ」瞬間、床が泥のように流動し、垣根とアウレオルスの間に立ちふさがる壁になって屹立した。ゴリッという音と共に未元物質の錐はその壁を貫通するが、そこで勢いを失い、アウレオルスには届かない。「千日手を回避するのは良いが、有限の材料に頼るとどこかで詰むぞ?」それは何度も垣根がやった詰め将棋だ。例えば石や大地を操る能力者は確かに垣根の錐を防ぐ壁を作れる。だが一度はそれで防げても、際限なく降り注ぐ未元物質の攻撃を、どこかで防ぎきれなくなる。壁に加工できる材料なんてのは、周りに無限にあるわけではないからだ。ついでに言えば、垣根の攻撃方法はこんな単調なものに留まるわけもない。だがアウレオルスは垣根の忠告に答えなかった。答える暇がないからだ。黄金練成に、厳密には言葉による命令は必要ない。アウレオルスが脳裏で望めば、それだけであらゆる出来事が具象する。だが言語化という過程を挟まずに術式を発動させると、どうしても不安定な結果が生まれるのだった。それは黄金練成という術式の問題ではなく、言語というものを使わないと思考ができない、人間という生き物の限界だ。「石壁を複製。数は5枚」追い詰めているつもりの垣根の予想に逆らい、アウレオルスはこの膠着を問題視していなかった。能力者というのは、一人で何種類もの力を身につけることは出来ないらしい。壁向こうの少年の能力はこの未知の物質を生み出し、操ることだろう。であれば、おそらく他人の精神に干渉するような真似は出来まい。それが、勝機だ。垣根の錐が、工事現場さながらの音を立てて用意した壁を破壊していく。土埃が舞い、瓦礫が足元に積もっていく。それを気にせずアウレオルスはさらに命令を紡ぐ。「石壁を複製。数は10」「後がなくなって来たぞ」垣根はじわじわと責めていく。アウレオルスを弄ぶためではない。相手を防戦一方にすることが確実に勝つための手段として最良なだけだ。その証拠に、材料が枯渇してきて部屋のあちこちで床が抜けはじめた。「後一手か、二手か」この先の展開を垣根は冷淡に教えてやる。焦りがミスを生めばそれだけ儲けになるからだ。「石壁を複製。数は10」アウレオルスもまた、その詰めにチェックメイトまで付き合う気だった。この石壁を破られれば、アウレオルスは自分の周囲から材料を失う。自分の足で離れたところまで逃げ、垣根に相対することになる。勿論先手は向こうに取られるはずだから、恐らくは防御が間に合わず、自分はそこで詰む。――ガリガリガリ! と掘削機のような音を立てて、最後の壁が崩壊した。僅かな隙間を通して、垣根とアウレオルスは視線を交わした。どちらの目にも、大きな感情の起伏はない。互いに、互いを殺すことをもう心に決めていたから。「終わりだな」確認するように垣根は呟く。ポケットに突っ込んでいた手を出すこともなく、淡々と、アウレオルスの命を奪うための錐の種を空に浮かべた。あと数秒後には、アウレオルスは致命傷を追う。だがアウレオルスはそれを恐怖などしていなかった。なぜならば、それこそが勝機だから。眼前で余裕をもって見下ろすこの少年には、あらゆる物理的な干渉が届かない。モノのぶつけ合いではアウレオルスは垣根に届かない。手続きに時間の掛かる黄金練成よりも、未元物質を発現させるほうが早いからだ。だが、逆に物質を扱うことに囚われた少年には、防げないものがある。勝利を確信しているのは、垣根ではなくアウレオルスだった。呼吸を整え、改めて垣根を睨みつける。一言、垣根自身の体に「死ね」という命令を与えるために。錐の種が、部屋中にばら撒かれた。恐らくは全方位から無秩序にアウレオルスを刺し貫く予定なのだろう。ピンポン玉くらいの種から、突き立つように、錐が伸び始めた。それにあわせ、アウレオルスは厳かに呟く。「少年よ、死――」その、一瞬だった。「――先生!!!!」随分と見通しの良くなった階下に、純白の布地と金縁の刺繍のされた服を着た少女を、アウレオルスは見た。その少女の叫び声を聞いた。瞬間、アウレオルスが脳裏で封印していた感情が沸騰した。紡ぐはずの言葉の残りが、霧散してしまっていた。そして。幾条もの錐が、ほとんど音も立てずにアウレオルスの体を串刺しにした。時は少し遡る。ステイルは大きく息をつきながら、最上階に向かって階段を駆け上がる。「ハァハァ、エレベータ位は動かしておいて欲しかったんだけどね」敵の胃の中にいる以上は、エレベータだろうが階段だろうが危険度なんぞ変わらない。エレベータがあれば本当にそれに乗ってやるくらいのことはしたかもしれないが、そもそも動いていないのなら自分の足で進むしかない。「ステ、イル。あとどれくらい、なの?」「あそこを上れば終わりだよ」先導するステイルに連れられ、インデックスはアウレオルスに肉薄するところまで来ていた。不安は、ずっと心の中を這い回っている。いつだったか、確かに自分は言ったのだ。先生のことを忘れたくないよ、と。その自分の願いは、半分だけ叶った。アウレオルスを先生と呼んでいたことを、あの日の思い出を、確かに持っている。だけど、その思い出に対する実感だけは、インデックスはもう二度と得られない。先生の望んだインデックスは、もういない。それはどれほどの裏切りだろう。恐らくは、自分を助けるためにこんなことまでしてくれた先生に対する、最悪の仕打ちだろう。恨まれるくらいのことは覚悟していた。せめて、先生がこれ以上誰かの敵にならないよう全力で止める、インデックスにできるのはそれくらいだった。「インデックス」「どうしたの?」「あれを」最上階の、一つ下の階。その廊下をステイルは指差した。そこには夥しい数の人が倒れ、血で廊下が彩られている。「っ! これ……」「フン。どうやら、アウレオルスは随分好かれているようだね」「え?」「これだけ人形が壊されてるって事は、すでに僕ら以外に侵入者がいて、ここまで来たって事だ」イギリス清教と、ローマ正教と、そしてもう一つはどこの勢力か。無意識にタバコを探して胸の辺りを探るステイルに、インデックスがきつい目を向けた。「ステイル。この人たちは人形じゃない」「知ってるよ」「この人たちは、人形じゃないんだよ」「……だから? 助けたいのかい? 僕らの知らない誰かは、雑魚を殺さない程度の良心はあるらしいね。まあ、僕の魔力がすっからかんになるまで回復魔術を使えば、助けられるかもしれないね」「……私は」「君がどうしてもと頼むなら、考えてもいい。だが回復すれば彼らはまた襲ってくるだろう。下の階の連中みたいにね。そうすればアウレオルスを目前にして僕も君も死ぬだろうけど、それが君の望みかい?」ステイルは、朝から学園都市で戦っている。光子と一緒に学園都市の機械を相手にしたのだ。そして今さっきは、この下の階で襲ってくる学生たちを退けた。その時にだって、たくさんの学生を傷つけてここまできたのだ。インデックスは、ステイルにそうやって罪を押し付けてここまで来た。ステイルはそれに文句一つ言わない。こうやって意味もなくなじる様な事をしたインデックスに対しても、怒りを微塵にも見せない。「ごめんね、ステイル」「謝られる理由がないんだけどね。僕は、そして君も、必要悪の教会の人間だろう? 綺麗に誰かを救う生き方をするために、僕はここにいるわけじゃない」汚れることには慣れている。だが、人形と茶化した言い方をしていながら、本心まではその軽薄な考えに染まりきっていなかった。「もう一つ上にあがろう。アウレオルスさえ止めてしまえば、彼らをどうにかすることだって出来るんだ」「うん。そうだね」インデックスに背中を見せて呟くステイルに、インデックスは短く返事をし、立ち上がった。そして、何気なくアウレオルスがいるはずの上に向かって、天井を眺めた、その時だった。ぬるり、と。まるで泥のようにコンクリートの天井が波打ち、――ガリガリガリ! と掘削機のような音を立てて、天井が崩壊した。「なっ?! 上は交戦中か!」ステイルが慌ててインデックスに駆け寄る。頭にでもぶつかれば無事ではすまない大きさの瓦礫が穴から降り注ぐ。土埃が部屋を埋め尽くし、視界を奪っていく。その中に、インデックスは懐かしい姿を見た。きっちりとしたスーツに身を包み、緑の髪をオールバックにした、長身の青年。記憶にあるその姿よりいくらか凛々しくなったアウレオルス・イザードが、階上にいた。インデックスは、叫ばずにはいられなかった。止めるためにここに来たのだから。私はもう大丈夫と、もう私のために何かをしてくれなくても良いと、そう言いに来たのだから。「――先生!!!!」息苦しいほど埃の舞うその場所から、ありったけの声で、インデックスはアウレオルスに呼びかける。誰かを睨みつけていたアウレオルスの視線が、抗いがたい誘惑にひきつけられるように、インデックスのほうを向いた。よかった、とインデックスは思った。だって、これだけの時を経て尚、先生は、自分の声に応えてくれたから。――――次の瞬間。乳白色の錐が何条も、アウレオルスの体を貫いた。「え……?」「ご、ぼ―――」見上げるインデックスの目の前で、何か言葉を紡ぐようにアウレオルスが唇を動かした。こぼれたのは、血の塊。胴や手足に何本も錐が突き刺さっているのだから当然だ。人がそのように殺害されかけているのを、インデックスは見たことがない。例えて言うなら、毛糸の編み針で小ぶりの人形を串刺しにし、地面に縫いとめたようだった。ゆるゆるとその乳白色の錐が血で染まっていくのが、生々しかった。「せん、せ――先生!」くぐった修羅場の数がそうさせたのか、インデックスが呆けたのはほんの一瞬だけだった。死の淵に引きずりこまれそうなアウレオルスを繋ぎとめるように、大きく呼びかける。「クッ。上にまだ誰かいるんだぞ」ステイルは苦々しい顔で、アウレオルスに近づこうとするインデックスを抱きとめた。その長身で彼女を覆い、姿の見えぬ敵の射線上に自らの体を置いた。見上げる先では、百舌の早贄の如く四肢を貫かれたアウレオルスが、震える手で何かを握り締めていた。恐らくは、東洋医学に用いられる、鍼灸用の鍼。アウレオルスはそれを、ほとんど自由の効かない腕で持ち上げ、首にあてがう。体を縫いとめられるというのは酷く面倒なことだった。受けた傷は死に至るに充分だろうが、しかし即死には届かない。あの少年がすぐに止めを刺しにくれば、恐らくは助かるまい。だがそんなことは、今のアウレオルスにはどうでも良かった。死ぬかもしれない、なんて可能性を考えたりなどしなかった。紛れもなく、階下に見えるは捜し求めた少女。その彼女が、他の誰でもない自分を案じ、先生と呼んでくれたのだ。「――ボ、は、ハハは」一体何年ぶりだろう。こんな風に朗らかな笑いが自分の口からこぼれるのは。なぜ、インデックスが自分のことを思い出してくれたのか。それは確かに重要な問題なのだろうが、傷を追ったアウレオルスはそれを考えなかった。何を代償にしても、成し遂げたかった奇跡。もう一度あの少女に名前を呼んでもらいたいというその願いが、期せずして叶ってしまった。もしかしたら、黄金練成は不要だったのかもしれない。だけど、その徒労には爽快感さえある。このどうしようもない状況を、なんとしてもひっくり返したいと思う気持ちが胸に湧き上がる。もしインデックスがここに現れなければ、それは執念と呼ばれるものだっただろう。だがそれよりももっと峻烈な、希望という名の感情が今はアウレオルスを満たしていた。そんなアウレオルスを見下ろすように、垣根が傍に歩み寄る。「下か。……誰だ、そこにいるのは」「それは僕らが聞きたいところだけどね」垣根は、いつでもアウレオルスを殺せるタイミングにいながら、決定的な一撃を加えぬまま下を見つめていた。売られた喧嘩は倍返しを基本にしてきたから、誰かを死なせたことはあるのかもしれない。半身不随までは自覚がある。だが、明確に垣根は誰かを殺害したことはない。別に、誰かを殺さないといけない局面になど出くわしたこともないのだから。必要なら焼死体をダース単位で作るくらいのことはやってきたステイルに比べて、それは甘い考えだった。「ん?」「あなたは……」照明がいくつか機能を失ったせい見えにくかったが、インデックスは、自分達を見下ろしているその青年が、決して知らない相手ではないことに気がついた。完全記憶能力などというものに頼らなくとも、忘れることはなかっただろう。「エリスの、彼氏さん……」「テメェは上条の所のガキか。随分とブッ飛んだ衣装だとは思ってたが、お前もこういう連中の一味か」「貴方が先生と戦ったの?」そう問うインデックスの瞳は揺れていた。この状況は、双方に混乱をもたらしていた。垣根にとっては、エリスを苦しめる敵とエリスの友人が知り合いらしいということであり、インデックスにとっては先生を傷つけた敵が、親友の想い人だった。敵対すべきなのか、あるいは、何かの間違いなのだと確認をするべきなのか。「悪いが口を挟ませてもらう。君は、どういう目的でここにいる? なぜその男を攻撃した?」「……」「僕らはその男と知り合いだが、味方じゃない。その男がやろうとした凶行を止めに来ただけさ」「……で?」ステイルの呼びかけに、垣根は多くを答えなかった。ベラベラと喋れば不利になる可能性だってある。「僕らはここに囚われているであろう、ある少女を保護し、その男を捕まえることが目的だ。それさえ邪魔をしないのなら、僕らは君に干渉しない。君がここにいる理由を教えてくれ」「コイツを生かして捕まえるのか、それとも死体の回収か。それと女をテメェらが連れ去りたい理由は何だ」「その男の生死は、僕はどちらでもいいけどね。それと少女の保護であって誘拐じゃない」「――ハ」ステイルは、正直に誠実に、意図を伝えているつもりだった。囚われの少女である姫神秋沙を保護し吸血鬼から遠ざけるのが目的なのだから。垣根帝督は、裏の透けた言い分を鼻で笑うしかなかった。囚われの少女であるエリスがどんな女の子かなんて、自分が一番知っているのだから。――――事実はかくしてすれ違い、互いへの無理解が敵意へと変わっていく。「お願い。先生から離れて」インデックスは、そう言わずにはいられなかった。いつしか、先生の体から流れた血が天井から滴り、ぴちゃりとインデックスのいるフロアを汚していた。今すぐに助けなければ、長くは持たないことは明らかだ。だが、そのインデックスの懇願に垣根は一層、不信感を募らせた。何故この少女はエリスに近づいた? その理由が、コレだとしたら?「どうしてエリスを苦しめる奴と、お前が知り合いなんだ」「えっ……?」とぼけたインデックスを見て、垣根はそれ以上を、問うのを辞めた。「コイツは危険だ。悪いが生きてもらっちゃ困る」「待って! お願い!」垣根がアウレオルスを見下ろした。もう、呼びかけるインデックスには答えない。僅かな時間のうちに、垣根の目が据わっていくのを、ステイルは感じていた。それは殺しに慣れていない人間が覚悟をする瞬間。自分にも覚えのある逡巡だった。垣根がその余分な時間を取っている間に、ステイルもまた、自分に問いかけていた。きっと自分一人なら、アウレオルスを見殺しにしただろう。これだけの魔術を成すのに、アウレオルスが手を汚したことは間違いないのだ。そんな錬金術師をステイルは救う理由がない。仮に、傍にインデックスがいなければ。見殺しにすれば、インデックスは悲しむだろう。誰がその死を呼んだのか、間違いなく彼女は自分を責めるだろう。自分は何のために、生きて死ぬと誓ったのだったか。「じゃあな、死――」「魔女狩りの王<イノケンティウス>!!!」不本意だった。本当に不本意だった。こんな錬金術師は、死んでしまえばいいと本心で思っている。ステイルの魔力が生み出す炎塊の巨人、魔女狩りの王が垣根とアウレオルスの間に出現した。「――それがテメェの答えか」垣根の生み出した白色の錐が魔女狩りの王を貫く。キィィンという澄んだ音と共に、超能力で出来た物質と魔術の炎がぶつかり合った。その、およそ加熱だとか燃焼だとかで生まれる音とはまったく違う響きに、ステイルは困惑する。超能力を使って飛ばされた植木鉢くらいなら受け止めたことがあるが、超能力そのものとぶつかったのは、これがはじめてだった。「僕は君と話をしたいだけだ。君が矛を収めてくれないなら君を無力化して話をする必要がある」「この状況で交わす言葉なんてねえよ」ステイルはインデックスを抱え、積み重なった瓦礫とむき出しの鉄筋をたどって垣根とアウレオルスの立つ階へと上がった。垣根の、こちらを見る目が冷酷さを帯びていく。ステイルは不審者から敵へと格上げされたのだろう。魔女狩りの王を見て眉一つ動かさないその男に、ステイルは危険を感じざるをえなかった。それが虚勢なのかそれとも本当に魔女狩りの王を意に介さないのか、その違いは分かっているつもりだ。……学園都市の、ただの学生のはずなのに。目の前の男はたぶん後者だった。「邪魔だ!」垣根が腕を横に薙ぐ。それだけで魔女狩りの王を貫く白い錐が倍に増えた。あまりに突き刺された場所が多くて、魔女狩りの王は形を保てなくなり、霧散した。「ハン、随分と弱えな」「火に定まった形を求めないほうがいい」「っ!」術者であるステイルを狙おうとした垣根に、ステイルは淡々と言葉を返す。ステイルと垣根を結ぶ直線、そこから僅かにずれた位置に魔女狩りの王を再び顕現させた。それくらいのことは、いくらでも出来るのだ。魔女狩りの王が、垣根に抱擁を捧げるべく、肉薄する。パチパチと何かの爆ぜるような音を立てながら、その炎塊は垣根の命を脅かしに掛かった。だが。「純度は気にするクチか?」自分の身長を越える炎の塊が至近距離にあれば、人間は本能的な恐怖に襲われるのが普通だ。なのに、垣根は体を動かさない。そして垣根の見上げた天井と、そして足元から再び未元物質の錐が鋭く突き立った。――――ジュアァァァァッッ!!色が、これまでの錐とは違っていた。これまでより濃い、金属光沢のあるねずみ色だった。ステイルが咄嗟に理解したのはその程度だ。だが顕著な違いがあることに、すぐに気づかされた。魔女狩りの王に突き刺さったその錐は、受け渡された熱によって、どろりと融解を始めた。そして、突き刺していたはずの魔女狩りの王の胴体と、溶け合っていく。魔女狩りの王と未元物質の境目が失われていく。「何っ?!」それは、初めて体験した出来事だった。魔女狩りの王が、ステイルの制御に対して極端に鈍くなった。自然界のものなら、それが土であれ金属であれ、魔女狩りの王に取り込んでも問題にならない。だが、今までだって銃弾なんていくつも受け止めてきた魔女狩りの王が、得体の知れない物質に毒されていた。「――ク!」体内に練り混ぜられた未元物質という毒を、掻き出すように魔女狩りの王が体を手で抉る。ぐちゃりと地面に打ち捨てられたその泥は魔女狩りの炎のように消えることなく、緩やかに冷え固まりながらそこに残った。身の自由を取り戻した魔女狩りの王は、再び垣根をさがすように、ぐるりと当たりを見渡した。「トロくせぇ」つまらなさそうな顔でつぶやき、垣根が手を振った。危険すぎるはずのその炎塊を一瞥さえしない。垣根の視線は殺すべき相手、つまりアウレオルスに向けられている。血を流すその錬金術師の隣に寄り添うインデックスを、垣根がどうするつもりなのかはわからなかった。垣根が何かを言おうとインデックスを見据えた瞬間。不意に掻き消えた魔女狩りの王が、元の場所から離れた虚空に現出し垣根に襲いかかる。「邪魔だって言ってるだろ!」声に応じて、未元物質の錐が虚空に鋭く聳え立つ。だが貫いたのはまたしても虚空だけだった。魔女狩りの王が居場所を転移するのに、特に回数制限なんてない。垣根は外した相手を仕留めるために、さらに手を振るった。「僕の手元にあるのがそれだけだとは思わないことだね」魔女狩りの王を睨む垣根の背後から、ステイルが垣根に襲いかかった。手にした炎剣も、垣根を殺すには十分すぎる武器だ。それをステイルはためらわずに降りおろす。躊躇などしては、この敵は容易に攻撃をかいくぐりステイルを殺すだろう。全力で向かう他に、方法はなかった。「―ーハ。手数が増えた程度で俺に勝てると思っているのか。おめでたい頭だな。時間をいたずらに消費するな、どうせお前は死ぬ。だがエリスに手を出さずに逃げ帰るなら、追いはしない」「……エリス?」襲いかかる錐が魔女狩りの王を貫く。そして垣根を燃やすはずのステイルの剣は、何かに阻まれた。それは真っ白な、湾曲したプレートだった。デザインからしてそれは盾だったが、現代の警察が持つような機能性一点張りの、無骨な作りだ。ステイルの炎剣は燃え散ることなく、その縦に拮抗する。大柄なステイルの体重が乗った一撃は、垣根とて全身に力を込めて耐えるほかない。だがその姿勢からでも、垣根の未元物質は攻撃を可能とする。「クッ!」縫いとめられた魔女狩りの王を再び動かしながら、ステイルは追撃の錐を体を捻って回避する。ステイルと垣根、二人は生身の人間であり、身体的な強さは同格だった。各々の持つ攻撃力に対して、その体は脆弱すぎるということだ。魔女狩りの王とタッグを組むステイルに、垣根は手数の多さと多彩さで応戦する。いずれそのバランスは崩れるのかもしれないが、互いの手の内を知り尽くす前においては、ステイルと垣根の戦いは拮抗状態にあった。「――先生! 先生!」垣根たちが戦うその傍で、インデックスはアウレオルスの震える腕に、手を添えていた。インデックス自身の手もそれにより血で濡れていくが、そんなことは気にしない。体が示す明確な死の兆しに反し、アウレオルスの心が死んでいないことを、インデックスは分かっていた。血に濡れた細い銀の鍼が、平時よりもずっと大きくその先端を揺らがせながら、アウレオルス自身の首筋に突きつけられつつある。それが打開策なのだろう。そして、この状況を覆したいという強い意志が、アウレオルスの瞳に乗っていた。先端が狙い定めた先へと向かうように、インデックスは手を添える。「イ――クス」肺から空気がこぼれるせいで、アウレオルスの声は声にならない。だけど、自分の名前を呼びかけてくれていたと、わかる。その必死さに応えるように、インデックスはアウレオルスの為そうとしていることの意味を、探り当てる。――首筋に鍼の跡がある。これで心を……消して、るんだ。東洋医術についてもインデックスは心得がある。それは先生と一緒に学んだものだ。アウレオルスの突こうとしている経絡は、鎮静効果のあるものだ。だがこんなやり方では、心を落ち着かせるなんてレベルじゃなくて、感情の起伏をねじ伏せてしまう。そんな強引な術だった。何度もやれば、人らしい喜怒哀楽など、失われてしまうだろう。これはきっと、黄金練成という、不可能とされる術式の代償。「……」反射的にごめんなさいと言いかけて、インデックスはそれを口にできなかった。それはどういう意味を持った謝罪だろうか。口にするのにどんな資格が必要な謝罪だろうか。インデックスに、アウレオルスが優しく微笑んだ。その鍼を突き刺せば、インデックスに会えた喜びすらも押さえつけ、機械に成り下がる。それをアウレオルスは分かっていた。今はそれでいい。とりあえず目の前で白い錐を振るうその男を始末して、ステイルを説得すれば、全てが解決するのだから。再び、あの無垢な笑顔を向けてくれるインデックスと、共に歩んでいけるのだから。「行くね、先生」コクリとアウレオルスは頷き返す。その弱々しい反応をインデックスは読み取って、手に力を込めた。鍼が、ずぶりと首筋に突き刺さっていく。ひと呼吸おいて、脳に広がり始めた穏やかな快感と、冷徹になる心を自覚しながら、アウレオルスは命じた。「治れ」ぎゅるりと、機械で何かを巻き取るような音がしたのを、インデックスは聞いた。手のひらから、ゆっくりと先生の血が逃げ始める。地に落ち、這い、アウレオルスの体へと近づいていく。そして土ぼこりと交じり合い、どす黒く汚れたはずの血も鮮やかさを取り戻していく。そうして今まで伝い落ちた錐を血が這い上がり、その体へと戻っていった。その遅さに、アウレオルスは少し苛立つ。体に錐が突き刺さった状況からの復帰は思ったより大変だった。錐が、現実に存在する物質だったら一瞬で済んだだろう。思考をクリアにするために、もう少し、血液が必要だった。「何だ?」体中を貫かれたまま、ジリジリとアウレオルスが動いたのに垣根は気付いた。その不自然な動きに一瞬視線を奪われる。「超能力でもこれくらいできるだろう?」戦いの最中に、その驚きは大きな隙を生む。ステイルはそれを逃さなかった。自身は垣根に側面から炎剣を振るって襲い掛かりながら、魔女狩りの王に正面から突撃させる。その瞬間、自分の置かれた位置関係を理解し、垣根は戦慄した。相対している敵との関係にではない。自分が今背にしている未元物質の錐の束、先ほど緑髪の男を殺すためにつきたてたそれらの奥に、銀色の糸で出来た繭があることに、気がついたのだった。つまり、エリスの包まれた銀の繭に、禍々しい姿をしたマグマらしき塊が向かっていた。「チイッ!」魔女狩りの王に向けるはずだった錐をステイルに向けて突き出し、垣根は身を翻した。読みどおりそれで炎塊の拳は軌道を逸らし、繭からは射線を外して垣根を追いかけた。勿論、それは危険な動きだった。無理な体勢からの回避は、その動きの幅が小さい。垣根は余裕を持って逃げ切るための足を遺していなかった。そして、魔女狩りの王の殴打は、掠めただけでもダメージは免れない。ジッ、と小さな音を立てて垣根の右上腕が、その熱気と接触した。「――――づ、あぁぁぁ!!」激痛に、声を漏らさずに居られなかった。痛みという情報で沸騰する脳を蹴っ飛ばして、体を確認する。幸い指まできちんと動く。腕が失われたわけじゃない。だが左手で触ったそこには、真っ黒に炭化して何かがパラパラ崩れる感触があった。それが、ジャケットの燃えかすだけであって欲しいと願う。後ろを一瞥すると、エリスの眠るそこは無事だった。だが、それにホッとする気持ちは湧かなかった。膨れ上がるのは、ただ、殺意。「エリスは、別に壊れててもいいわけか!」「一体何を。……それにその名は」荒れ果てた戦場で、ステイルは錐の聳え立つ一角の向こうに人が、否、吸血鬼が眠っていることに気付いていなかった。「待て。話を聞いてくれ」「今更命乞いはいらねえよ」「違う!」攻撃の手を緩めたステイルに、垣根は容赦なく錐を突きつけていく。「クッ! 話を聞けといっているだろう!」「ならテメェの四肢を串刺しにしてから聞いてやる!」「僕らが探している少女は別人だ!」「あぁ?!」だけどその声は届けるには少し、遅すぎた。止まることなく真横に伸びた、特大の未元物質の錐。それが魔女狩りの王とその後ろの壁までを、滅茶苦茶に破壊した。「僕らが探しているのは、異能の少女、姫神秋沙だ」「じゃあエリスは」「……僕も面識がある。悪いが、彼女は無関係だよ」そうであれば、事態はハッピーエンドをここで迎えたのかもしれない。ステイルは、まさか日中に共闘すらしたあのエリスが吸血鬼だなんて、考え付かなかった。垣根帝督は、まさか夕方にすれ違ったあの少女の名前をここで聞くとは、思ってもみなかった。だから、二人は油断していた。「……よかった、見つけたよ」ステイルが顔を上げて呟く。垣根がたった今壊した壁の向こうに、姫神がいた。だが絶望にまみれた姫神の表情の意味に、二人は気付かなかった。「まず……い」「先生?」「一メートル後方へ転移。すぐさま治癒を完遂させよ」ようやく血液をかき集め、複雑な命令を下せるほどになった。だが既に、会わせてはいけない二人を、会わせてしまっていた。アウレオルスは、貫かれた体を少し離れた位置へテレポートする。インデックスがそれに気付いた時には、もう傷が癒えていた。「先生!」「インデックス。あの吸血鬼の少女は、お前の友なのか?」「えっ……?」アウレオルスが指し示した先に、エリスが繭に囚われていた。だが、アウレオルスの言葉の意味は、良く分からないままだった。だって、エリスは友達だ。だから吸血鬼だなんてわけがない。論理を無視して、インデックスの脳裏に浮かんだのはそういう思いだった。「何を言ってるの?」「知らなかったのか。エリスと言うらしいが、あの少女は吸血鬼だ」「えっ……?」じわじわと、その現実が心にしみこんでくる。ぼんやりとエリスの傍の壁に開いた大穴を長めると、そこにはもう一人の知り合いの姿があった。エリスと姫神の姿を、同時に視界に納められることの意味に、インデックスは咄嗟に気付けなかった。カタカタと手が震える。ナイフを握り締めた手にいくら力を込めても、その震えが収まらない。「どうして……」姫神は、不意に光の差した壁の向こうを、絶望を持って見つめる。面識のない赤髪の神父と、垣根が対峙している。離れたところではインデックスと、アウレオルスが寄り添っている。でもそんなのは今は重要じゃない。だってその場には、あのエリスという少女がいるはずなのだ。ぎゅっと、体を縮こめる。全くの無駄だ。自分の体から広がる吸血殺しという名の香りは、確実に吸血鬼の少女に届いてしまう。こんな至近距離で、なんの遮りもなくなってしまったら、もうどうしようもない。「あ、ァ――――アァァァァァァァァ!!!」姫神は、自分に見えない死角でエリスあげた叫び声を、聞いた。耳にナイフを突き立ててしまいたいくらい、それはどうしようもなく、恐ろしい現実だった。