銀の繭に絡めとられた、金髪のあどけない少女。純朴そうな、悪性とは縁のなさそうな顔を見せるはずのその少女が、体が覚える渇きを余すところなく表情に乗せて叫ぶ。「あ、ァ――――アァァァァァァァァ!!!」そこに邪悪さを見出すのは、欲望に忠実であることを嫌うニンゲンという種族の性だろうか。エリスが見せたその表情は単に獣じみているだけであって、きっと悪意なんてものはない。「エ、リス――」呆然と、垣根はエリスを見つめる。そして弾かれたように垣根はエリスに歩み寄った。「エリス! 俺の声が聞こえるか?! エリス」銀の繭に手をかけ、エリスの頬に触れて垣根は叫ぶ。だがエリスは、確実に視界に垣根を収めているのに、垣根を見ていなかった。この場、この瞬間においてエリスという吸血鬼を埋め尽くしているのは、ただ、たまらないほどに芳しい、椿の香り。辺りに漂うそれは、これまでにないほど濃密だった。嗅覚が他の五感すらも刺激して、エリスを恍惚とさせる。垣根は繭を払いのけ、あるいは引き千切ろうと手をかける。だが、魔術的に強化されたその糸は垣根の力ではどうにも出来なかった。「アウレオルス。彼女が、そうなのか」「ああ。そちらの事情は先ほど耳にした。『吸血殺し(ディープブラッド)』の保護だったな」「そうだ。君には僕を邪魔立てする理由はあるかい?」「返答は否だ。どのような軌跡の果てにかは知らないが、私の目的は既に叶っているようだからな」アウレオルスは、傍らにいるインデックスに微笑みかけた。三年前、あの日分かれたときよりもずっと大きくなった。子供から少女へと羽ばたくその片鱗を見せるに過ぎなかったあの頃と比べ、ずっと、女らしさをその表情に纏わせていた。自分は変わらぬ微笑をインデックスに向けられただろうか。微笑みなんて、ずっと前に強張らせたままだから思い出せなかった。たぶん、上手くは行っていないのだろう。こちらを見つめ返すインデックスの表情は、以前のように大輪を咲かせてはくれなかった。「インデックス」「……先生?」「久しいな。三年という時間は無常に流れていったというのに、振り返れば、随分と長かった」「あの……ごめんなさい」「何故謝る?」「忘れて……ごめん、なさい」「お前から思い出を奪ったのは、紛れもない私だ。謝る道理がない。それに」アウレオルスは、自然と頬を緩めた。そうしてしまう自分を、止める術がない。「私とお前の、止まっていた時はまた動き出したのだ」アウレオルスはそう告げながら、エリスと垣根を見据えた。あの二人を片付ければ、あの穏やかに幸せだった日々がまた、始められるのだ。そんなアウレオルスの顔を、ステイルは色のない顔で見つめた。インデックスは、何も言えずに俯いた。「インデックス。今一度問う。あのエリスと言う少女はお前の友なのか」「……そうだよ。エリスは、友達だから」「では、死なせたくはないのだな?」「えっ?」「手短に言おう。『吸血殺し』はあの奥にいる」アウレオルスが指を差したのは、壊れた壁の向こう側。この広い校長室の隣にある、校長の私室らしかった。良く見ると、そこには地面に座り込んだ、長い髪の少女。震える体を抱きしめ、鈍く光るナイフを手にしている。その少女もまた、インデックスにとって他人ではなかった。「あいさ!」「テメェは……」垣根もまた、姫神に気付いたらしかった。ただその恐怖に歪む表情を見て、垣根は姫神を敵と認識すべきなのか、エリスと同じ境遇と見るべきなのか、迷った。「銀の繭よ、その数を倍加せよ。吸血鬼の少女を霊的に完全に拘束せよ」「なっ?!」垣根は、自らの失態にそれでようやく気付いた。言葉の上で、少なくとも赤毛の神父とインデックスという少女はエリスに手を出さないと言った。だがこの緑髪の青年は? 一言も、エリスにこれ以上手出しをしないとは言っていない。すっと、心を凍てつかせる。怒るほどに冷える心に逆らわず、垣根は再び錐を細く長く、尖らせる。「その判断は焦燥だ。それはその少女を守るための策だ」「口を閉じろよ。もう一度喋れない人形にしてやる」「やめて! 話を聞いて! それでエリスは傷ついたりはしてないから!」「じゃあなぜ」「エリスを、止めなきゃいけないの!」垣根はちらりとエリスを振り返る。もう、顔から上以外は完全に銀の鋼糸に覆われていた。インデックスは垣根に何かを言わせるタイミングを与えず、さらに言葉を繋ぐ。「貴方は知らないかもしれないけど、エリスは……普通の人間じゃないみたいなの。学園都市の超能力者に言っても信じてもらえないかもしれないけど、エリスは、吸血鬼だから」「……で?」「今、エリスは暴走しそうな危ない状態なの。だからお願い、私の言うことを信じて、従って。エリスを呼び戻すには、きっと貴方の声が必要だから」「……」垣根は黙って後ろを振り返った。そしてうつろな目をしたエリスを見つめる。そっと頬に手を添える。暖かく柔らかいその質感は、人間以外の何かだとは信じられない。そしてそのインデックスと垣根の対話の裏で、エリスと垣根から距離をとりながら、ステイルが姫神に近づいていた。「大丈夫かい」「……あの子は」「今、何とかしているところだ」とりあえず、こちらには怪我一つなさそうだった。少なくともアウレオルスは丁重に扱ってはいたのだろう。酷く怯えているのは、十年前にも、吸血鬼に変わり果てた村人を丸ごと葬り去ったからだろうか。ステイルはそう思案しながら、魔女狩りの王を召還するためのルーンを姫神の周囲にも刻んでいく。「エリスは、元に戻るんだろうな?」「それは……」二人からは死角になるところで、垣根はインデックスとアウレオルスを睨みつけていた。元に戻らないといわれたら、最低でもアウレオルスは殺す気だった。だって何の落ち度もないエリスは、絶対に元通りの生活を手にしなければいけないのだから。それが為されることこそ、正義だろう。エリスに寄り添うようにしながら、垣根は戸惑いを顔に浮かべるインデックスを見つめる。その表情が意味するのは何か。アウレオルスの無表情が意味するのは、何か。「っ! 避けて!!!!」インデックスが不意に、驚愕に目を見開いて垣根に声をかけた。意味が分からず、垣根は僅かに重心を落とすくらいしか出来なかった。だが、インデックスが視線を向けているのは自分ではなくその後ろだと気付いた瞬間、垣根は弾けるように身を投げ打った。愛する人、エリスから距離をとるように。「――つっ!」肩口に鋭い痛みが走る。反射的に触れると血がゆるゆると流れ出す感触がした。振り返ると、食べようとしていたお菓子を目の前で取り上げられた子供のように、残念そうな顔をしたエリスがいた。ただ、その口元は淑やかそうにものを食べる普段と違って大きく開かれていて、鋭利そうな犬歯が覗いているのが生々しかった。「エリス……?」「エリスに近づいちゃ駄目! エリスは、今――」きっと、『吸血殺し』に影響されているのだろう。でなければ、友達のインデックスがいる前で、恋人の垣根帝督に、牙を剥いたりなんてしない。「先生! 黄金練成でエリスを止められないの?」「既に試した。単なる空腹なら欺けるが、あの状態はそんなものではない」『吸血殺し』という能力で、強制的に狂わされているのだ。あまりに限定的な効力しか持たないその能力は、吸血鬼という対象に対しては、黄金練成よりもはるかに強力だった。その言葉を聞きながら、垣根はただ、エリスを見つめる。残念そうな、ぼんやりとした目がだんだんと澄んでいくのが分かった。僅かなりとも理性を取り戻そうとしているのかもしれないと、垣根は、そしてインデックス達もそう期待するほかなかった。「エリス……」「帝督、君」「エリス! 俺が分かるのか?!」「うん……」「良かった。エリス、エリス……!」名前を呼ぶと、微笑んでくれた。それが嬉しくて、垣根は何度も名前を呼ぶ。「良く分からないけど、ちょっとお前の様子がおかしかったからそんな窮屈なことになってるんだ。大丈夫そうならすぐ取り払わせる。体は、なんともないのか?」「うん。……あの人たちも、私を傷つける意図はなかったみたいだから」「そうなのか」「あのね、帝督君」「エリス?」その、エリスの穏やかさは何を意味していたのだろうか。垣根は他意なく、単に疲労でもしているのだろうと思っていた。だけど、違うのだ。例えば大事なテストの日に寝坊して、ひとしきり愕然とした思いを味わった後の、あの諦念のような、そういうものがエリスを支配していた。ただ一言、エリスは垣根に伝えるために、口を開いた。「――――ごめんね」静まり返るその部屋で、その言葉は誰の耳にもしっかりと届いた。垣根も、他の皆も、言葉の意味を図りかねていた。だって、静かに生きていただけのところを誘拐された立場であるエリスが、謝る理由なんて何処にもない。例外はただ一人。その言葉に息を呑み手にしたナイフを心臓に向けてそっとあてがった、姫神秋沙だけだった。「……こんなことには。ならないはずだった」「なんだって?」隣のステイルが、その仕草を見てギョッとなる。何故、姫神が自害を試みているのか。「……お願い。あの子を止めて。私が邪魔なら。私は死ぬから」それは前から覚悟を済ませたことだ。これ以上誰かを死に追いやるなら、その前に自分が死ぬと。エリスと言う少女がつぶやいたその謝罪の言葉の意味を、姫神はよく理解していた。だって、それは10年前に耳にして、それからもうずっと脳裏にこびりついて離れない言葉だから。「もうあの子は。自分の意志では止まれないから」その影で、エリスが銀の糸を力任せに引き千切る音がした。「エリス? 一体どういう――」「ごめんね、帝督君」「謝られても意味がわかんねぇよ!」エリスを前に、垣根は声をかける以外の行動ができなかった。バツン、と金属の糸を無理矢理引き千切る歪な音を、エリスの細い指が立てる。声が諦めを混ぜた静かな響きをしているのと矛盾した、暴力的な音だった。その指の動きは、ただ単に助かろうとして敵から逃げようとする行動とは、違って見える。エリスの声や表情と動きの間にある齟齬が、本来ならば何を差し置いてもエリスを助けるはずの垣根を、動けなくさせていた。「……止めて」「あん?」「私を止めて」「いや、え? 何でだよ?」困惑で必死さが空回りする。なぜか乾いた笑みがこぼれる。そんな垣根を前に、エリスは変わらず淡く微笑む。「言う通りにしてあげて。お願い」「……理由を言え」目を伏せ、震えながら嘆願する姫神に垣根は言い返す。「私の香りに中てられて。その子はもう吸血衝動を抑えられないの。さっきまでは理性まで持っていかれてたけど。もう違う。それより悪化して堕ち着くところまで行ってしまったから」姫神は、もう何人となく吸血鬼を滅ぼしてきた。何度となく、吸血鬼が自分という毒に堕ちていく様を見てきた。香りを嗅いですぐは、その衝動に引きずられて獣同然になる。そして、やがては理性が回復し、本能的な行動との間にある矛盾のせいで、酷く精神状態が不安定になる。これが第二段階だ。だけどそれを乗り越えた最後には。冷静さと理性を残しながら、体は明確に姫神を狙うようになるのだ。そしてこの段階に至った吸血鬼は皆、同じ言葉を残してきた。――ごめんね、と。吸血鬼になった元人間たちも、分かっているのだ。それがいけないことなのだと。吸血という行為を、普通の人間は一度だってやったりしないのだから。なのに、求められずにはいられない。それを止められない。だから、怯える姫神に謝罪の言葉を口にするのだ。抗えずにごめんなさい、怖がらせてごめんなさい、と。姫神の母親ですら、そうだった。「――戻せよ」「……」「エリスを戻せ」垣根は、ただ憎憎しげな目で、姫神を見つめ返した。黙って、姫神はそれを受け止める。憎しみを向けられるのは姫神にとって喜びですらあった。無実の人に死刑を下すより、誰かに断罪されるほうがはるかに幸せだ。だけれど、姫神は正直な、たった一つの答えを垣根に返す。「――――そんな方法は。今まで誰も知らない」「ハ。どうせテメェが知らねえだろうが」垣根は、そんな絶望を信じない。エリスに向かって、できる限りに優しげな顔を作って、声をかける。「止めて欲しいなら、とりあえずは止めてやる。心配するな。学園都市第二位ってのは、エリスみたいな普通のヤツじゃ太刀打ちできないんだよ」エリスが、笑みを深くした。だがそれは希望を見出した笑みには、見えなかった。「帝督君。大好きだよ」「俺もだ」未元物質で壁を補修する。物量ならお手の物なのだ。エリスを、千切れかけの繭ごとさらに外から未元物質で覆っていく。その高度はダイアモンドを超える。これだけの厚みと質量のものを破壊するのに必要な応力は、ダイナマイトの爆発力を軽く凌駕するだろう。チンピラにでもこんなことをやってやったなら、きっとすぐに絶望して、負け犬の目を見せるだろう。だが今は違う。焦燥と無力感が苛むのは、垣根の心のほうだった。「もし、私があの人を襲いそうになったら――」誰に聞いたわけでもない。だが、エリスはもう理解していた。こんなに自分を惹き付ける血が、普通の血の筈がない。今まで血液を貰ってきたどんな人とも、あまりに違うその香り。きっと、それは猛毒なのだと思う。自分にとって良いものではない。恐らくは死をもたらすような、何かなのだろう。だがそう分かっていてなお、それを求めることをやめられない。「帝督君」「やめろ」ぞくりと悪寒を感じて、垣根はそう言い返した。「私は帝督君に、死なせて欲しい」「訳のわかんねえ事を言うなエリス!」「これでも心だけは、化け物じゃないつもりなんだよ。――でも、あの人を、食べたら、私は」「させねえよ。現にお前は身動きできてねぇだろうが!」「……」そうだ。何も悲観することはない。膠着状態なら、現に垣根は簡単に作れている。この時間を使って、エリスを苛むこの問題を解決すればいい。例えば、その元凶をこの世から取り除いてしまったりして。姫神は、垣根がこちらを再び見つめたのに気がついた。さっきより温度の下がった、冷たい目線。恐れはなかった。だって、垣根の考えていることは、自分自身が考えていることと一緒。最悪、自分が死ねば問題は解決する。もうとっくに心に決めた最後の選択枝だった。「先生……」インデックスは懇願の目をアウレオルスに向ける。吸血鬼を呼び寄せたのは、そもそもはアウレオルスだ。だったら、この事態にも打開策を持っているかもしれない。そうあって欲しい「エリスと、あいさを助けて」「……」「先生!」「『吸血殺し』を死なせない策なら講じよう。だが、吸血鬼を救うというのは私の手には負えん。まず止めることができん」「だったら、ステイルとあの人にも手伝ってもらって!」ステイルはフンと言ってそっぽを向いた。態度と裏腹に、イエスを意味する返事だった。垣根も、こちらが信用できるのかと見透かすような目だったけれど、敵対することはなかった。ここにいる皆が、手を合わせれば。何とかなるかもしれない。そうあって欲しい。「助けて、その先はどうする?」「え?」「イギリス清教に属する修道士なら吸血鬼はむしろ滅ぼして自然。その少女を今死なせなかったとして、次はどうなる?」「それは……」「そしてインデックスよ。助かったあの少女をどうするのだ。匿うことも出来まい。この街にいても、外にいてもな」吸血鬼なんていう、とびきりに希少でしかも危険な生き物を、一体何処に連れて行けばいいのか。その脳に詰まった沢山の禁書以外に何も力となるものを持たないインデックスには、何も出来ない。だけど。「あの人やステイル、それにみつこやとうまだっている。みんなと一緒ならきっと何とかなる!」「……」「今、ここで二人を助けないとその先はないんだよ! だからお願い、先生」真摯ではあったけれど、その請願にはどこか、インデックスの甘えがあった。そうしたインデックスの願いを、一緒にいた頃のアウレオルスは微笑んで引き受けてくれたから。だから心のどこかで、怒られることはあっても、断られないだろうと思っていた。「――ミツコ、トウマとは誰だ」「えっ?」瞬間、インデックスは答えを失った。ジトリと、背の低いインデックスを見下ろすその視線が重たくなった。その名をアウレオルスは聞き流せなかった。アウレオルスはインデックスを救うために、黄金練成を完成させ、吸血殺しを匿い、吸血鬼を呼び込んだ。不幸を背負ったその少女が救われればいいと、そう思って代償を払いながらここまで来た。そのつもりだった。だが、それは少し違う。インデックスが救われるだけではなくて、再び自分の下へと戻ってきてくれること、そこまでがアウレオルスの願いだった。それをアウレオルスは、自分でははっきりとは自覚していなかった。処理の出来ない苛立ちを視線に載せて、インデックスを見つめる。それにすぐに答えるべきだったのに、インデックスは答えに窮していた。不用意に出した、光子と当麻の名。それは裏切りの証だったから。アウレオルスという人が自分を助けようと三年と言う時間を費やし、たくさんのものを失いながらここまでやってくれたのに、自分はもう、助かっているのだ。そしてあろうことか、あれほど仲睦まじく一年を過ごしたというのに、アウレオルスという人は今、過去の自分が愛した人という、それだけの人でしかないのだ。旧い恩人、それ以上の人としては、看做せないのだ。こんなに薄情なことは、ないだろう。「インデックス。お前という人間の性質上、常に『管理者』が隣に付いているだろう。――今、お前にパートナーはいるのか」一歩、アウレオルスはインデックスに踏み込んだ。「あ……」「お前は、私のことを思い出してくれたのだろう? 短くも、思い出深いあの日々を」その一年は、アウレオルスの未来を書き換えた、あまりに意味のありすぎた一年だった。インデックスにとっても、きっとそうだろう。だってあれほどアウレオルスと過ごす時間を喜び、それがなくなることを悲しみ、忘れたくないと、言ってくれたのだから。それを思い出したのなら、また、インデックスは笑いかけてくれる。そうでなくては、あの日々は、嘘になってしまう。「インデックス」「――っ!」アウレオルスが、優しくインデックスの頭を撫でようとした。記憶に何度も出てくる、それは懐かしい行い。過去の自分はその不器用な手つきが、大好きだった。少しも忘れることなく、自分の記憶の中にその事実はしまわれている。だけど。――インデックスは、半歩、足を後ずさりさせた。僅かにアウレオルスの手は、インデックスに届かない。「……何故、拒む」「私は……」「やめておくんだね、先々代の管理人」ステイルが、姫神の傍からアウレオルスに笑いかけた。シニカルな笑みだった。きっとその笑みは、ステイル自身にも向けられていた。「その子は全てを思い出したんだ。これまでの全てをね。つまり、君だけじゃないんだよ。彼女と忘れがたい一年を過ごし、そしてその記憶を封じてきたのは」「――何が言いたい」「君にとってあの一年が替えの効かない重みを持った一年だって事は、想像は付くさ。だけどこの子にとっては、そんなことはないんだよ。一年に一回繰り返した、恒例行事さ」インデックスは、そう笑って言うステイルのほうを向くことが出来なかった。薄々、感づかれていたのだろう。自分が、かつての自分と同じようにステイルに好意を向けていないことに。「それで良いじゃないかアウレオルス。僕らは、あの子の幸せだけを願って、そのために生きた。願いはちゃんと叶っただろう? あの子は過去を思い出した。もう一年に一度のリセットはしなくて良い。僕らの夢は、既にハッピーエンドに到達しているんだよ」「それで貴様が、これから先のインデックスの所有者というわけか」そう確認するアウレオルスに、ステイルは笑いかけた。同病相哀れむ、そういう意味だった。「違うよ。あの子を助けたのは別人で、だからあの子のパートナーは僕らじゃない。共に酒でも酌み交わそう。彼女にとっての『その他大勢』に成り下がったことを祝おう。あの子がそんな沢山の知り合いを作って忘れないでいられるなんて、なんて幸せなことだろうってさ!」ステイルは、それを言わずにはいられなかった。振られた男のみっともない言い分を、笑い飛ばさずにはいられなかった。インデックスと、そして同じ境遇のアウレオルスの前で言ったのは、ステイルが少しだけこぼした、恨みと妬みと、悔しさだった。「ステイル……」「エリスを、救うんだろう。姫神秋沙を連れて逃げるんだ。吸血鬼を狂わせる元凶を遠ざけた後なら、解決の手立てだって見えるかもしれない。アウレオルスと話し合うのは後でも出来るだろう」「……」インデックスは、恐る恐る、アウレオルスを見上げた。恨まれても仕方ないと思う。だけど、恨まれているという事実を確認するのは、怖かった。「そうか。お前は、お前なりに幸せを見出したのだな」「先生……」アウレオルスはインデックスに微笑みかけた。だけどそれは優しげな、あのときの笑顔ではなくて。歪な笑いだった。インデックスのために笑い方を忘れた男の、泣き笑いのような、引きつった笑顔。「は、はは……はははははははははは!」こんな風に馬鹿笑いをしたのは、一体何年ぶりだろうか。そんなことも思い出せないくらい、この三年間、インデックスのために生きてきた。それが可笑しい。笑う以外のどんな方法で、今の気持ちを表せるだろうか。「先生……!」「吸血鬼を救うのだろう? 頑張るといい。邪魔などせんよ。私は、お前の敵ではないのだから」もう、何もしたくない。努力が無為に終わった今この瞬間に、さらに努力なんてしたくない。「お前は勝手に救われたのだろう、インデックス。ならばその吸血鬼も勝手に助けてやれば良いだろう。私はもう、何も知らん。はは。どうでもいい」懐にしまっていた鍼をアウレオルスは地面に投げ捨てた。くつくつと笑いながら、どかりとソファに腰掛ける。そして一振り、手を振った。「銀の繭よ、消えろ」アウレオルスは、もう何もしない。吸血鬼を押し留めたりしない。吸血鬼を生かしては、ただでさえあちこちの魔術結社に睨まれている自分が、さらに追われる身になる。死んでくれるならそれが一番いいのだ。ついでに『吸血殺し』も自害する気だろうし、ちょうど良い。そんな風に心の中で呟きながら、アウレオルスはエリスを眺める。「――あの野郎、クソッ、エリス!」「ああ……」悲しい顔を、エリスがした。エリスの体と、外から覆う未元物質の間にあった銀糸が掻き消えたことで、束縛が瞬間的に緩んだ。その隙を、エリスの体は逃さない。「帝督君、逃げて」「エリス?!」「シェリーが、帝督君を傷つけちゃう……」エリスの指が三沢塾の壁を走る。それは正規の手続きではなかったが、それをものともせず、魔術が発動する。魔術師が使う魔力が水道の蛇口を捻るようなものだとするなら、吸血鬼という存在が個として振舞う魔力は、ダムから放水された水のようなものだ。あらゆる不都合を洗い流して、暴虐的に、それは成立する。――――メキメキメキメキィィッッ、と。コンクリートを破壊する音を立て、このフロアを滅茶苦茶に壊しながら、巨大なゴーレムがビルの最上階に現れた。