「シェリー……」目を瞑って、エリスはゴーレムから顔を背けた。シェリーは、離れ離れになった親友の名を冠した、言わば友達代わりの存在だ。エリスは時折、小さなシェリーを誰かに見られぬようこっそりと召還し、声をかけて慰みを得ていた。自らの思考することはないゴーレムは、当然、エリスを裏切ったことなどない。だけど今は、別だった。召還された目的どおりに、シェリーは動く。「エリス!」「帝督君。私から離れて」「あん?」直後。シェリーはエリスを潰しかねないような勢いで、自らの拳をエリスを覆う未元物質へと突き立てた。材質はそこらにあるただのコンクリートで、未元物質よりずっと脆い。だが大質量を充分な高度から落とす威力は、未元物質の強度を上回る。ガシャァァァァ! と構造物が崩れる音を轟かせながら、瓦礫と土ぼこりがその場にいる人間から視界を奪った。だが、見えずとも分かる。垣根はエリスの拘束が外れてしまったことを確信していた。「エリス! 聞こえてるなら返事しろ!」「……出ちゃった」「そうか。抱きしめてて欲しいならすぐにやってやる」「だめだよ」そんなことをされたら、きっとエリスは垣根を欲してしまう。単に血を欲するだけじゃすまない。絶対に、垣根を自分の「伴侶」にしてしまう。生き場のない、吸血鬼に変えて。「インデックス! 姫神秋沙を連れて逃げろ」「ステイル?!」「君の能力が活躍する場はない!」シェリーというゴーレムは、つくりは馬鹿みたいに単純だ。ただ単に流し込まれた魔力量が莫大で、それが脅威なのだが。そういうのと戦うのに必要なのは、禁書目録という知識ではない。単に物量だ。だから姫神秋沙を逃がすのに、ステイルを充てるのはミスマッチと言える。そうしたことを、ステイルとインデックスは目線を交わすだけで理解しあう。「分かった。……先生」成金趣味とは言え、あれほど綺麗に整っていた室内が、今は見る影もない。土埃が積もり所々が裂けたソファに腰掛け、アウレオルスは穴のあいた天井から星空を見上げていた。インデックスの呼びかけには答えてくれなかった。もう、説得したり、関わっている暇はない。振り切るようにインデックスは背を向けて、恐怖のせいか顔を青ざめさせた姫神に駆け寄り、手を引いた。「……あいさ。逃げよう」地べたにへたり込んでいた姫神は僅かに頷いて、ふらふらと頼りげなく立ち上がる。だが問題はここからだ。下へ降りるための階段は、エリスとシェリーの向こう側にある。「彼女を食い止める。逃げ出す隙は見逃さないのでくれよ。――垣根帝督、だったね。名前は」「テメェに名前を呼ばれたくはねえな」「あの吸血鬼を死なせずに止めたい。利害は一致しているだろう?」「そっちが俺の邪魔をしなければいいだけの話だ」「君一人で止める気かい」「誰に聞いてるんだ?」傍らに立つステイルを一瞥もせず、垣根は手を振るう。エリスじゃなくて土くれの塊のほうなら、容赦する必要はない。垣根は脳裏で演算を行い、直径一メートル、長さが五メートルに達するような長い錐を作り出す。そして五本、六本とゴーレムの体にぶち込む。ステイルは魔女狩りの王を召還し、その光景を手を出さずに見守った。ステイルが後ろに控える意味は二つある。一つは垣根帝督と共にエリスを止めるため。そしてもう一つは、エリスを助けるために垣根が姫神秋沙を殺そうとしたならば、それを止めるためだった。「エリス。悪いが、お前じゃ俺を押しのけて先には進めねぇよ」「……そう、だったらいいな」瓦礫の向こうには、未元物質で出来た巨大な六角柱。その中にエリスは埋め込まれていた。ただの人間の女の子なら絶対に脱出なんて出来ない。だが、ビシリと、その結晶にヒビの入る音が断続的に聞こえていた。エリスが、人間並みの膂力しか持ち合わせていないというのはあまりに楽観的だった。――バキィィィィィィィン!!!未元物質が、音を立てて割れ爆ぜる。それは今この時点の垣根が作れる、一番硬い物質だった。「――エリス、ちょっと馬鹿力すぎるぜ」「……」「エリス?」「そう、だね」軽口を返してくれなかったエリスに、不審なものを感じる。その表情は、どこか感情に乏しかった。嫌な予感に、垣根は心を締め付けられる。エリスの心さえもが、壊れていっているのではないかと。「シェリー」ゴーレムに呼びかけながら、おっとりとした足取りでエリスはこちらに近づいてくる。垣根はもう一度、エリスを足止めするために、未元物質を生成する。だがエリスに狙いをつけようとしたところで、視界が遮られた。傍らで、白い錐にぶち抜かれていたゴーレムが、瓦礫へと戻っていく。そしてそれと釣りあうように、新たなゴーレムがエリスとの間に構築されつつあった。「再召喚か」「チャンスだ! そこの二人さっさと逃げろ!」インデックスは垣根の叫びに従い、姫神の手を引く。崩れたゴーレムがいたその場所から、瓦礫を伝って階下へ向かう気だった。「降りちゃえば階段もあるから!」「うん」二人とも運動をするには不向きな服で、足場の悪い崖を下る。その後ろでは、再び垣根が出来かけのゴーレムを未元物質で貫く音がした。「エリス! 悪いがコイツはもう活躍できねーよ。そういう暇はやらない」「……」垣根はそう言って、再びエリスを未元物質に閉じ込めようとした。足元から、白い結晶がエリスを取り込みながら成長していく。だが二度目は、大人しくそれを待つことはしなかった。「アアアァァァァ!」自分の靴すら引き千切りながら、エリスは足を振るって未元物質を破壊する。そして周囲の瓦礫に向かって、腕を振るう。どれもこれもが原始的な行いだった。「――! くそっ!」「チッ!」瓦礫が、そして崩壊した未元物質の破片が、垣根とステイルに襲い掛かった。垣根は未元物質で、ステイルは魔女狩りの王を盾にしてそれぞれ防ぐ。「こちらを先に潰す気になったみたいだね」「テメェも働けよ」「そのつもりさ。だが、分かっているだろうね?」「あ?」「吸血鬼は手足を焼かれたくらいじゃビクともしない。だから僕は、それくらいは平気でやる」「……テメェ」「激昂する前に君こそ覚悟を決めるんだね。説得が無理で、単なる拘束も無理なんだろう? 殺さない程度に自由を奪う以外に、いい選択肢があるなら提示することだ」「……」苦々しい顔で、垣根はステイルを睨みつける。代案はない。でも、だからといって恋人の体に、怪我をさせるなんて。――その逡巡が、余計だった。「っ! 来ているぞ!」「何?」バキバキと、エリスが垣根の作った盾を引き裂いて、すぐ目の前に現れた。「魔女狩りの王<イノケンティウス!>」「シェリー!」そのエリスを止めようと、炎の塊が襲い掛かる。だがその動きは、地面から突如生えた泥の腕につかまれ、目的を果たせない。「帝督君、逃げて――」言葉と裏腹に、エリスの拳が垣根に迫る。「エリ、ス」垣根は、先手なら取れた。未元物質でエリスの体を貫けばよかった。だけどそんな凶刃を振るう手を、垣根は持ち合わせていない。一番大好きで、一番守りたい人に、垣根はそんなことをできなかった。ざくんと、エリスの爪が垣根の肩口から腹の方へと走った。「つ、ああぁぁっ!」「帝督君……ごめんなさい、ああ……」強引に引き裂いた傷口から、鮮血が溢れる。傷は深刻なほどには深くない。だが立ち上る血の香りは、エリスの体をさらに高揚させる。「ごめんなさい、ごめんなさい」謝りながら、エリスが真横に手を振るう。ガチィィィン、と金属質な音を立てて、垣根のこめかみを掌打が打ち抜いた。くるりと90度傾く世界を、垣根はただ見つめるしかなかった。「あ、が……」腕だけ召還されたシェリーから魔女狩りの王を奪還し、ステイルはエリスに襲い掛かる。「くっ!」ステイルは手に炎の剣を携え、エリスに襲い掛かった。エリスの背後から、魔女狩りの王にも狙わせている。振り下ろされる炎剣を、エリスは何も対策を講じずただ手のひらで受け止めた。ジィィィィッ、と肉の焼ける音と、そして匂いがする。ステイルにとっては、慣れた音と匂いだった。それは人を焼き殺した時と同じ、酷く不快な匂い。「やめ、ろ――!」地べたに這いつくばった垣根が、誰にも届かないかすれた声で叫ぶ。四肢の自由を奪うために、魔女狩りの王がエリスの両足を鷲づかみにした。垣根はそれを見つめることしか出来なかった。「ギィアァァァァァァァ!!」「エリス!」エリスが、人ならざる声を上げる。同時に、ステイルは炎剣を振りぬいた。「エリス、エリス……!」「こんな程度で吸血鬼はどうにかならないさ。これで大丈夫だから困るんだけどね。おい、能力は使えるのか? ならこのままこの子を拘束するんだ!」「何を……!?」「ゴーレムを呼ぶための指先と自分で動くための足を壊した状態で動きを封じれば、逃げ出せないはずだ!」そう言って、ステイルは倒れこんだエリスの左手を踏み潰す。炭化した右手のほうは大丈夫だろう。「早く! 僕の魔術じゃ吸血鬼を押さえ込めるものは作れない! それともジリ貧覚悟で延々とこの子を焼かせたいのか?!」垣根はその言葉に答えて、未元物質を作り出す。再びエリスをその結晶の中に閉じ込めるために。そして、もう一条。「クッ! おい――」「当ててねぇだろ」ステイルはすんでのところで垣根の錐を避けた。それが必要なことだからと言われたって、垣根は、エリスを傷つける男を許す気にはなれない。「僕に当たる暇があるならさっさとこの子を封じるんだ」「やってるだろ」にらみ合う二人の足元で、エリスがその手を這わせる。ステイルはその手の動きの意味を、すぐに理解した。「ァ、ァ――――」「早く封印しろ! チッ!」「やめろ!!」ステイルが、ゴーレムを召還しようとするエリスの腕を踏み砕こうと、足を上げる。それを垣根は錐で制した。見ているだけなんて、出来なかった。「馬鹿か君は!」「テメェこそエリスに恨みでも――」それ以上を垣根は言えなかった。エリスがシェリーを呼び出したからだった。そしてシェリーは、体を形作るのもそこそこに、その巨大な拳を真下に振り下ろした。「何を……おい! やめろォォォォォ!」ゴーレムは、未元物質に包まれきっていないエリスに、直接その拳を突きたてた。――――グシャアァァァァッッ瞬間。いい加減に限界を迎えてたフロアの床全てが、崩落した。「エリス! ……エリス!」崩れ落ちる瓦礫の中、垣根は視線を散らしてエリスを探す。だが負った傷のせいで、肝心の体に力が入らない。未元物質の行使も、自分自身を落下から守るので精一杯だった。「――いた。さすが化け物、と言っておこうか」「何ッ?」「もう五体満足らしい。これじゃすぐに……まずい!」焼け焦げて短くなったスカートを履き、瓦礫の中を裸足で歩く少女。体中がすすけているけれど、足取りに不安定なところはない。向かう先には、足に怪我を負ったらしい姫神と、賢明にそれを支えようとするインデックスがいた。この崩壊に巻き込まれたのだろう。女二人の足取りだからか、思ったほどは逃げてくれていなかった。「クソッ!!」ステイルは魔女狩りの王を再び顕現させる。だが構築した結界の中に生み出す魔術である魔女狩りの王は、この崩壊する建物の中ではそろそろ出現させるのも難しくなっていた。「おい……止めてくれ!」「それは見送って彼女の死を見届けろということかい?」垣根の言葉に取り合わず、ステイルは次善の策を目指す。「魔女狩りの王! その子に取り付くんだ!」間に合ってくれ、とステイルは瓦礫を走り降りる。自分とて、魔女狩りの王には劣っても戦力にはなる。だが。フロアをぶち抜き姿勢を崩していたゴーレムが立ち上がる。そして、ステイルに向けて容赦なく、腕を振り払った。「しまっ――――」魔女狩りの王で時間を稼ぎ、回避することは出来たかもしれない。だけどそれではエリスを逃がしてしまう。だからステイルは呼び戻さなかった。そしてスイングの射程外に逃げ込むため、一人身を投げ出した。「ゴハァッッッ!」ゴーレムの人間よりも太い手が、ステイルの背中を掠めた。バットで殴られたように、重たい衝撃が体を走り抜ける。肺からは息が搾り出され、ステイルは一瞬気が遠くなった。「だ、め……だ」意識だけは、必死に繋ぎとめようとする。それを失っては魔女狩りの王が消えてしまうからだ。だがその努力も、むなしく終わる。ゴーレム・シェリーが、ステイルと傍らにいた垣根を弾き飛ばすように、もう一度腕を振るった。熱を帯びて体重を支えられなくなった片足を引きずりながら、姫神は階下を目指して少しずつ、進んでいた。後ろで、何かが壊れること、誰かが傷つく音が何度も聞こえた。それを振り返らず、一歩でも、せめて遠ざかろうと進んだ。「あ――」支えてくれていたインデックスが、息を呑む音がした。ついでに後ろで響いていた争う音が、しなくなった。「急ごう。あの子が。追いかけて来る前に」「……」それがある種の現実逃避であると、インデックスは分かっていた。きっと姫神も気付いてはいるのだろう。だけど、認められなかったのだ。「――追いついちゃった、ね」もう、エリスという名の吸血鬼が、すぐ傍にまでやってきてしまっていることを。「エリス……」「ごめんね」「謝らないでよ」「うん。謝らないで済ませたかった」そう言いながら、エリスは後ろに目線をやった。その向こうでは、不自然な姿勢で崩れ落ちた垣根とステイルと、静かに仁王立ちするゴーレムの姿があった。血でどす黒く赤汚れた垣根の服が、痛ましい。「ステイル!」「うん……おねがい、助けてあげて。私が壊しちゃった、あの人と帝督君を」エリスが瞳から、一粒涙をこぼした。だけどその体は姫神を庇うインデックスの前に立ち、威圧するように迫っていた。「そこを退いて、インデックス」「出来ないよ。そんなことをしたら、エリスが」「……うん。きっと、死ぬんだね?」「分かってるなら」「分かってても止められないの」それが、『吸血殺し』の毒の、最もおぞましいところだった。インデックスを退けるためだろうか。エリスが腕を、振り上げた。その瞬間、後ろから声をかけられた。「ありがとう。守ろうとしてくれて」「あいさ?」「その子を殺すくらいなら。私は自分を殺す」「えっ……?」姫神が、ずっと手にしていた短刀を、逆手に持っていた。右手でぎゅっと柄を握り締め、左手を添え、切っ先は左胸、つまり心臓に向けられていた。「あいさ――? 駄目!」咄嗟に、インデックスは姫神を止めようと体を捻った。だがエリスに向けた背に、容赦のない手での打ち払いが襲った。「あっ! ……ぐ、ぅ」がつんと鈍い音を立てて、インデックスは成すすべなく弾き飛ばされる。エリスの膂力は、女らしいレベルをはるかに超えて、インデックスを1メートル以上は跳ね飛ばしていた。そしてそのまま姫神に手を掛け、顔を肉薄させた。「――ごめんなさい」「っ! やめて。その言葉は。聞きたくないよ」「貴女を傷つけて、ごめんなさい」「傷つけてるのは。いつも私のほう」だから、死のうと思ったのだ。吸血鬼よりもずっと化け物みたいな、おぞましい自分が死ぬべきだと思ったのだ。「あなたこそ。謝らなくていい」姫神は巫女服の胸元に切っ先をねじ込む。後は一呼吸、突き入れるだけだった。エリスは、濃密過ぎてクラクラするほどの椿の香りがする姫神の胸元に、唇を触れさせた。「やめろエリス……!」「クッ、間に合え。――顕現しろ、魔女狩りの王<イノケンティウス>!」ほんの数秒、気を失っている間に消えたそれをステイルは再び呼び出す。垣根はもう、止める手段を持っていなかった。「お願い止めてエリス! あいさも、死なないで! 駄目!!!!」そう叫んで、傍で見つめていたインデックスはぎゅっと目を瞑り、顔を背けた。救いの手はなかったんだなと、エリスはむしろ穏やかな気持ちでそう思った。ただひたすら、この目の前の女性に申し訳ない。こんな化け物のおかしな衝動につき合わされて。そして垣根には、もう謝ろうとは思わなかった。感じるのは優越感。きっと、この先垣根を愛するほかのどんな女性よりも、自分は垣根帝督という人の心に自分を刻めたと思う。大好きな人を、自分みたいな不自然な生き物につき合わせるのは、引け目を感じていた。だけどもうそんなことはないのだ。死んだら、死んだ者勝ちだ。あ、の形にエリスは口を開く。そっと頚動脈の位置に鋭い犬歯をあてがう。後は、押し込むだけだった。ナイフの切っ先のちくりとした痛みを正しい部分に感じて、姫神は薄く笑った。吸血鬼の少女が肉薄している。薄い笑みの中に、隠しきれない悦びが混ざるのを、おぞましい思いをして見つめる。姫神に噛み付く前に、誰もが謝罪を口にする。それでいて、最後の最後には、この、本能のままの笑みを見せるのだ。これまではそれを、見つめることしか出来なかった。灰になって、姫神の前に積もっていくさまを見つめることしか出来なかった。だけど今は違う。自殺マニュアル、他殺マニュアル、そんなものを見開き、勉強して、たった一突きで自分の心臓を止められるようになったのだ。それは、姫神の復讐だった。こんな能力、いや呪いが自分の体に宿ったのは一体誰が願ったからか。それが誰かは知らないけれど、今ここで自分が死ぬことで、この理不尽な運命に、抗える。遠くでアウレオルスが無表情に見つめていた。赤髪の神父が、悔恨に表情を歪ませた。傷つけられた垣根帝督が、声にならない声で精一杯、吸血鬼の女の子を呼んでいる。そして、ほんの少しの間だけ友達だったインデックスが、傍らでこちらを見つめている。短い時間の中でそれらに微笑みを返し、姫神は、グッと、渾身の力を腕に込めた。「――――駄目えええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!!!!!!」インデックスは、叫ばずにはいられなかった。届かない。自分のありとあらゆる知識と能力が、ほんの一メートル先の二人に、届かない。間際の一瞬に、ぴくりと姫神の体がこわばった。沈み込む切っ先が、ほんの僅かだけためらいを見せた。ただ、止まることはない。ざくりと、二つの傷が、姫神の体についた。頚動脈まで突きたてられた、牙の跡と。心臓にまで突きたてられた、ナイフの痕が。「あ――」軽い声を姫神が上げた。死へと向かい速やかに機能停止を始めた体が、精一杯に発した驚きの声だった。ごくりと、エリスの喉元が鳴ったのを、姫神は聞き逃さなかった。だってそれは、とても深刻な意味を持っているから。「う、そ」姫神は一瞬、自分が躊躇したことに気がついた。そんなはずはなかった。一体何度、死ぬことの意味を考えてきた?それが怖い事だなんて疾うに分かっていて、だけど躊躇を死ないようにと、何度も何度も、死の間際の心のありようを考えてきた。死ぬ覚悟なんて、出来ているはずだった。少なくとも直前まで、それは完璧だったはずだ。なのに。「ア、ァ、ァ」薄れ逝く意識の中で、姫神はエリスの声を聞いた。吸血鬼という生き物が、吸血殺しで滅びていくときの、断末魔。それがどんな理由で発せられるのかは分からない。自分の血の味は、果たして美味いのか、不味いのか。だけどこの声をエリスが発しているということは、つまり。――ほんの一瞬、躊躇したその隙に、自分はまた、吸血鬼を殺してしまったということだ。「あぁ……」どうしようもなく、愚か者だ。これ以上誰も死なせたくないなんて思うのなら、どうしてもっと前に死んでおかなかった?こんなにも周囲の人を巻き込んで、傷つけさせて、挙句の果てには公言どおりに死ぬことすら出来ないなんて。結局自分は、死ぬのが怖いから、ここまで死を先延ばしにしてきたのだ。そんな自分が、死にたいと思った瞬間に、思い通りに死ねるわけなんてない。それだけのことだった。「ご――め、……」最後まで、謝罪の言葉は口に出来なかった。急激にブラックアウトしていく視界の中、姫神秋沙は、駆け寄るインデックスの姿を見ながら意識を亡くした。「エリィィィィィス!!!!」そんな叫び声をエリスが聞き届けたのは、姫神の体から、自分の体を引き離した瞬間だった。ごくんと、自分の喉が姫神の血を嚥下したその瞬間、欲求を満たしたエリスの本能は体の自由をエリスに返していた。「ていとく、く――」「?! エリス!」だが、自由になったはずの体が、またすぐに言うことを聞かなくなる。理由はさっきより分かりやすかった。だって手足がしびれてきて、冷たくなる感じがするのだから。幸い、目はすぐにやられたりはしないみたいだった。視界の遠くで、自由にならない体を引きずって、垣根が近づいてきているのが見えた。こふ、こふとエリスは咳き込む。その口元から、どろりと血が吐き出た。胃から食道にかけてがあまりに熱くて涙が出た。それでようやく、エリスは悟った。自分が、もうすぐ死ぬのだと。「……や、だ。嫌」一瞬、自分の口から出た言葉を、エリスは自分で信じられなかった。だけど呟いてはじめて、実感が湧いて出てきたらしい。これで、自分の人生が終わりなんて。もうどこかで遊ぶことも、誰かとおしゃべりすることもないなんて。そして、垣根と一緒に過ごす未来がないなんて。手足の冷たさが、その未来のなさに、オーバーラップしていく。周りを傷つけてごめんなさいと、謝ったはずの自分の気持ちがあっという間に嘘に変わっていく。生きたい。死にたくない。助かりたい。その利己的な思いに、エリスは囚われていく。自分は化け物だから、死んでも仕方ないだなんて、嘘っぱちだ。心の奥底ではそんなことを微塵にも思っていやしない。自分は、化け物になったって、人並みの幸せがほしいのだ。垣根に愛されたいのだ。尽くして欲しいのだ。そう理解して、あまりに自分が醜いことに気付いて、それでも尚、エリスは自分が死ぬことだけが怖かった。「エリス……エリス!」垣根が、あと少しというところまでエリスに詰め寄った。そこにむけて、精一杯にエリスも手を伸ばした。いずれ手は届くだろう。だけど、エリスの意識は、それに間に合わなかった。「エリス! しっかりしろ!」垣根の目の前で、エリスは体を弛緩させ、だらりと床に崩れ落ちた。もう、垣根の声も、姿も、エリスの心には届かなかった。