友達二人が、瀕死で崩れ落ちている。それをインデックスはただ見つめていた。思考を回転させるという思考が、インデックスから消えていた。「嘘、だよね……」「全くだね。死んでもいいなんて覚悟は、いつだって嘘っぱちさ」「――っ!」傍らに、ステイルが立っていた。瓦礫の中から拾ったらしい廃材を杖代わりにして。その表情は全くいつもどおりの、誰かの死に対してさえ無感動な、そんな顔だった。「ステイル……」「僕らは、誰だい?」すがるようにかけたインデックスの言葉に被せる様に、ステイルは問いかけた。淡々としたステイルの目線に、インデックスの揺らぐ視線が交差する。その目の、そして投げかけられた言葉の意味するところを、インデックスは悟った。数瞬を置いて、瞳から揺らぎを消し、震える感情の色を消していく。「私たちは魔術師」「そう」「この場に奇跡を呼ぶために、私たちはそれを手にした」「そういうことさ。インデックス。振るおう。君は知識を。僕は力を」インデックスを、そんな風に立ち直らせることは、きっと上条当麻と婚后光子には出来なかっただろう。死に日常的に触れているステイルだから、それは出来たのだ。パートナーではなくとも、きっと居場所はある。ステイルはそう信じ、インデックスの力になるために、隣に立つ。「ステイル! エリスの喉を焼いて」「……分かった」「お、おい――!」「黙って! 吸血鬼はそんなくらいでは死なない! それよりも毒を絶つほうが先!」「止めろ――」「私を信じて!!!」混乱する垣根を、インデックスは叱り飛ばす。そして魔女狩りの王がエリスの喉に手を添えるその間に、姫神に手を添える。「あいさ! 私がわかる?!」応えはない。無理もないだろう。血流が止まれば、人間は速やかに意識を消失させる。インデックスは崩れた姿勢で転がる姫神を、そっと仰向けにする。ナイフを引き抜いてしまわないように気をつけながら、握る手を、丁寧に引き剥がした。「……あいさは、ステイルなら助けられるよね」「君の助力があればね。まあ、魔力が尽きかけてて危ないけれど」「ナイフで傷ついた心臓さえ復元できれば、あとはきっと」この町の病院なら何とかしてくれるだろう。姫神については、それでいい。だけど、エリスは。「エリスは?!」「……さっきみたいに復元はしないよ」「っ!」見るも無残な、有様だった。あちこち服は焼け焦げ、手足にも酷い黒ずみが目立つ。それでも五体満足なエリスだったが、今、最後につけられた喉元は、元の肌色に戻らなかった。顎から鎖骨にかけてが無残に黒こげている。周囲の皮膚も赤く爛れ、引き攣れていた。だけど、それでもまだマシだ。伝承通りなら、もう灰に還ってしまってもおかしくないのだから。「体の崩壊は?」「ないね。今のところ」インデックスはエリスの手を取り、指先から丁寧に触れていく。まるで死んだみたいに冷たくて、それが怖かった。『吸血殺し』は即効性だ。飲んだらすぐ死ぬはずなのだから、少なくともその最悪の段階よりは手前にいるのだろう。とはいえ、エリスに意識を取り戻す兆候はない。インデックスは、破れかけの服を裂いて、エリスの胸に耳を当てる。どんなに耳を済ませても、そこに心臓の音はなかった。「インデックス?」「心臓が止まってる」「――おい」垣根が顔をこわばらせた。だってそれは、誰が聞いても最悪の言葉にしか聞こえない。だがインデックスはむしろそれに意味を見出していた。「吸血鬼を吸血鬼たらしめるのは、心臓なんだよ。それが止まってる」「何が言いたいんだ」「私たちがするべきなのは、心臓の復元。本来不死身の吸血鬼は、心臓さえ健在ならあとは四肢が千切れたって治るんだよ」「インデックス。次はどう動く」「ステイルはあいさを助けて」「いいのかい?」その確認には、特別な意味が込められていた。インデックスの指示の通りに動く魔術師は、ステイルしかいない。それを姫神秋沙に割り振るということは、エリスを助けるための力は別に用意しなければならないということだ。つまり、インデックスのその指示は、姫神をエリスより優先するような、そんな言葉に近い。「……何かを創る魔術師じゃないステイルには、吸血鬼は手に負えないんだよ」「フン。ルーン使いは万能であるべきなんだけどね」誰かを殺したり、何かを壊したりするために、ステイルは魔術を磨いてきた。だからステイルにとっては、普通の人間が負った致命傷を治癒するのだって充分に大変なことだ。ステイルは魔女狩りの王をかき消した。もう、今日は再び召還することは出来ないだろう。そのリスクを頭の片隅に追いやりながら、ステイルは倒れた姫神の傍に、膝を付いた。「ねえ」「……なんだ」「エリスの体のこと、どれくらい聞いたことがある?」インデックスはボロボロだったエリスの下着を毟り取るように取り去って、その胸元をはだけさせる。そして何かを探るように指を左胸あたりに滑らせた。ほとんど鳩尾に近いその辺りで、手を止める。「エリスの心臓は、普通じゃない物質で出来てる」「――! 詳しく話して!」「何とかなるのか?!」「何とかするために知りたいの!」垣根は、その少女を信用していいか分からなかった。だって当然だ。たかが中学生か小学生にしか見えない少女の、何を信じろというのだ。だが、その真摯な瞳に睨まれて、垣根は喋るほかの選択肢を失った。だって、すがれるものはもう目の前の、インデックスなんて変な名前をつけられた少女しかいないのだから。「第五架空元素」「えっ?」「エーテル、宇宙の構成物質、アリストレテスが見出した」いつだったか、エリスが明かしてくれた話。荒唐無稽で、とてもじゃないけれど、全て記憶なんて出来なかった。だけど断片的な言葉なら思い出せる。「それで分かるか?」「……」「なあ」「分かるよ。そっか。そういうものを体に備えた人を、吸血鬼って言うんだね」禁書目録、と名づけられた彼女をして、それははじめて手に入れた知識だった。感心するようなその響きに、垣根は苛立ちを募らせる。「どうやればエリスは助かる?」「……第五架空元素って呼ばれてる『それ』を作れれば、エリスの心臓の修復は出来ると思う」「じゃあ」「でも」絶望に、打ちひしがれてしまいそうになるのを必死に押さえて、インデックスは考える。「その完全な作り方は、分からない」「……」魔道図書館と呼ばれたインデックスにとっても、それは不可能なことだった。過去の叡智を、インデックスは蓄えている。だが、誰一人としてそれを作り上げた人間がいないのであれば。新しいものを創造するための特別な力や才能は、インデックスには備わっていなかった。「練成する方法なら、文献があるの。だけど、必要な材料が手に入らない。純粋な『世界の力』の塊を、誰も作れないの」「世界の力?」「魔力だとか、地脈に流れるものだとか、そんなのだよ。だけど世界にあるものは全て色付けされちゃってる。どれだけ精製しても、今まで純粋な『世界の力』を手にした人はいないの!」魔力だとか、天使力<テレズマ>だとか、そんな名前が付いているものはもう色づいた後の力だ。インデックスはエリスの手を再び取り、自分の手で包んだ。それは全く無駄な行為だった。その手の冷たさで、更なる絶望感を覚えただけ。「……きっと、完全なものは得られないけど。それでも時間を稼ぐことは出来るかも」ほんの少し、ステイルに手伝ってもらって魔力を練り上げられれば、後のことはインデックスにも出来る。だがそれはあまりに拙い策だった。無色の魔力の精製は、これまで高名な錬金術師達が生涯をかけて練り上げ、失敗してきたものだ。それを急場でこしらえたって、きっと満足いくものは得られるはずがない。そうしたインデックスの心を見透かしたのだろう。垣根が苛立ちを見せた。「友達が死ぬかもってときにお前は実験でもする気かよ!」「私だってしたくない! だけど、他に手立てなんてない。吸血鬼なんて特別な生き物を助けることは、そんなに簡単な訳がないんだよ」下唇を、血の味がするくらい噛み締める。惨めだ。こんな時に、誰かを救える知の宝庫であるために、インデックスは禁書目録<インデックス>であるはずなのに。焦りで空回りを繰り返しながら、救いの手を必死に捜す。助けたい。こんなにも無残な姿で床に転がる友人を、もう一度、笑って太陽の下に立てるように戻してやりたい。こんなにも愛してくれる恋人がいて、きっと、幸せな毎日をエリスは送っていたはずなのだ。それを取り戻したい。また、一緒に、なんてことはない日常を過ごしたかった。「お前の力じゃ助けられないのか?!」「助けたいよ! だけど!」「俺は!? 俺じゃ力になれないのか?」「無理に決まってる! 魔術と超能力は相容れない! あなたの学んだ知識はアリストテレスの理論<テオリア>も実践<プラクシス>とも関係ない。そこから発展した錬金の体系とも関係ない! ヘルメスもパラケルススもあなたの知識には出てこないでしょ?!」「だったら教えろ!」「教えたって、どうしようもないんだよ!」焦りをインデックスにぶつけてくる垣根が煩わしかった。だって、どんな優れた超能力者か知らないが、魔術を使えない人間に魔術の講釈をして何になると言うのだ。後ろでは、ステイルがインデックスの指示に応えるための準備をほとんど終えている。姫神にだって時間を割かないと、助からないのだ。どうしていいか分からないまま、エリスにすがっているわけにはいかない。「なん、で。エリスがこんな目に逢うんだ! コイツは平穏しか望んでない、普通の女なのに」その、切実な垣根の目が苦しい。滅び行くエリスを見つめるのが苦しい。そしてその二人を放り出して姫神を助けるほうに意識を割かないといけないと、冷静に頭の片隅で考えている自分が憎らしい。こんな、救われない状況にでも答えを見出すために、自分という人間は、『禁書目録<インデックス>』を背負ったのに。「わたし、は――」「窮まっているようだな」冷淡な命の取捨選択を、垣根に告げようとしたその時だった。魔術の準備に追われるステイルと、打ちひしがれたインデックスと垣根の傍らで、アウレオルス・イザードが皆を見下ろしていた。「先生……」「何をしに来た」さあっと、垣根の目に殺意が立ち上る。エリスにとっては、こんな状況を作り出した全ての現況。悪魔そのものだ。ステイルは、アウレオルスの心境を判っているような顔をして、すぐに自分の仕事に戻った。インデックスだけは、どうしていいか分からず、ただ見上げるしかなかった。恨みを言い募りに来たのか、この状況を笑いに来たのか。あるいは、ただの希望的観測かもしれないが、自分達を助けに来てくれたのか。「何をしに来たというほどの事も無い。ここは私の城だ」「なら消えろ」舌打ちをして、垣根が視線を外した。つまらない問答をする時間が惜しい。係わり合いになどなりたくもない。だが、インデックスは、そのアウレオルスの目に先ほどのような濁りが見えないような気がしていた。「助けて、くれるの?」「それはできんよ。……こんなものを練成できるなら、私は吸血鬼などそもそも必要なかった」それは真実だった。魔術師の未だ届かぬ高み、第五架空元素。こんな物質が手に入れられるならアウレオルスはこれを使った神秘でも探したことだろう。『黄金練成』と『吸血殺し』で吸血鬼を誘い込むなんて方法より、よっぽど確実だ。「じゃあ、どうして」先生は、ここに来たのだろう。本当にただの冷やかしだと言うのだろうか。インデックスの目をじっと見つめ返してから、アウレオルスは目を閉じた。三年前を思い出す。あの日、インデックスに必ず救ってやると誓ったその日のことを。なぜ、こんなにも茨で覆われた道をアウレオルスは歩んだのか。「その少女を、救いたいのか」既にインデックスに尋ねたことのある質問を、アウレオルスは繰り返した。「――うん」「なぜだ」「友達だから」答えはいたってシンプルだった。そして、そう真っ直ぐに答えるインデックスの声は、あの日の呟きと、同じ響きだった。「忘れたくないよ」と、インデックスは言った。アウレオルスという人を想った言葉だった。いつだって、このインデックスという少女は、誰かのために真剣に生きている。その心があまりに尊くて、自分は、インデックスを救うと誓ったのではなかったか。アウレオルスは、傍らでこちらを睨み、いつでも殺せる準備をした垣根を見つめた。「学園都市の能力者よ」「――――あ?」「例えば、だ。能力者であるお前が、その吸血鬼を助けるために魔術などというものを使えば、最悪死ぬ」「だから? 諦めろとでも言うのか」その目には、アウレオルスへの紛れもない憎しみがある。だけど、その奥には想い人である吸血鬼の少女を助けたいという、強い意志がある。その目は、きっとあの日自分がインデックスに向けたものと、同じであるはずだ。「アウレオルス・イザード」顔だけをアウレオルスに向けて、ステイルが短く呟いた。ステイルには全て分かっていた。彼もまた同じ立場だったのだ。――――救いを求める人に、手を差し伸べる人でありたい。そうあろうとするインデックスに寄り添う自分達もまた、そう願わずにはいられなくなるのだ。「突っ立っていないで、さっさと救いの手を差し伸べろ」ステイルはそれだけ言って、インデックスを呼んだ。「さあ、姫神秋沙の心臓の構築、手伝ってもらうよ」ステイルの声にインデックスはすぐには応えず、アウレオルスを一瞥した。「先生」「――君の力はそちらに貸すといい。私の作り上げた結末だ。せめて失敗したら、そこの男に命くらいはくれてやる」「……ありがとう」その礼を、アウレオルスはほんの少しだけの淡い笑みで受け取った。そして、もう余命いくばくもない吸血鬼の少女と、傍らの能力者に目を向ける。「この世にない物質を創生する能力、それが貴様の能力だろう」「ああ」「喜べ。この少女を救えるのは、貴様くらいだ」「……」「当然、分の悪い賭けに勝った上での話だがな」「賭け? 自分の意志でどうにかできるものを賭けとは呼ばねぇよ」垣根はエリスの手に触れる。指先からもう肘を越えた先まで血の気を失い、真っ白だった。崩れ落ちてしまうのではないかと思わせる危うさ、つまり死がエリスに目に見えて迫っていた。「今から、無色の『世界の力』に最も近いものを作ってやる」それは、恐らく世界で最も純粋なものだろう。アウレオルスには、その自信がある。その自信を持っても尚、吸血鬼を救うには届かない自覚もまた、持ち合わせているのだが。「……で?」「出来上がったものは純度の足りない、使い物にならないものだ。貴様はそれと同じものを、自身の能力で作れ」「模倣か。……どう、コピーをしろってんだ。見た目、質感でいいのか」「逆だ。本質さえ真似てあれば、形質なぞ瑣末に過ぎん」アウレオルスの指示には矛盾があった。本質的に同じ物を作ることを、模倣するとは言わない。そしてその言葉にはひどく深遠な問いかけが含まれていたことに、二人は気付かなかった。超能力が生み出す『未元物質<ダークマター>』と、魔術の極みにある『第五架空元素<エーテル>』は、一体何が違うのか、ということに。「……その『世界の力』ってのは何で出来てるんだよ」「科学を基盤に据えた貴様には絶対に理解できまい。大地を流れる竜脈、人体を流れる生命力、そう呼ばれるようなものだ」「俺には作れないと、そう言いたいのか?」「この学園都市の、能力者の常識では作れないだけだ」「謎かけやってる時間はねぇよ!」苛立ちを垣根はぶつける。だが、錬金における教えとは基本的には回りくどく、暗喩に富んでいる。それは本質的な理解を促すために、そして初学者に安易な実践と失敗を起こさせないために必要なものだ。垣根の言葉を受けて、アウレオルスはそうした気遣いを取り払う。今教えている相手は弟子ではない。この場、この瞬間に奇跡を求める人間だ。たとえ大きな代償があるとしても。「……物を創るという行いは、錬金に通じる。お前も複雑な物の創造を行うときには、ある種の『式』を用いるのだろう。錬金から化学が派生してからも、その根にある基本思想は引き継がれているのだからな」「……ああ」「ではその大元に、お前が入れたことのない物質を代入しろ。――所定の手続きに従い竜脈を濾過。ここに魔力を顕現せよ」アウレオルスはそれだけ告げて、虚空に手をかざした。そして一瞬後。フゥゥン、という静かな音と共に、ぼんやりと光る毬のようなものが浮かび上がった。「これが私に創れる最も純度の高い魔力だ。とはいえ、私が私から創った以上、私の色が付いている」「――――なん、だよ。これ」分からない。今までもどうやって為したのか、さっぱり説明の付かない「現象」ならば見てきた。あらゆる他人の超能力はそういうものだし、能力でなくとも、崩壊するビルがムービーの巻き戻しのように復元する様を、今日この目に見てきた。だが、何から出来ているのかが全くわからない「物質」を見たのは、初めてだった。「これを、練成式の反応物として代入しろ」「――っ!」「やらなければその少女が死ぬ」そんな無茶は、低レベルな能力者のする行為だ。自分の能力を理解せず、振り回す数式を把握せず、ただ、値の入る函(はこ)に値を放り込むだけ。レベルが上がるほどに、その行為は恐ろしくなる。どれほど危険か分かるが故に。だが、垣根はその愚行を躊躇いはしなかった。アウレオルスの挑発を糧に、ためらいを見せる理性を吹っ切った。「……時間は有限なのだろう。急げ」「黙れ」感じていたはずの焦りから、瞬間的に垣根は解放された。ただ目の前の、その不思議な白色の光に吸い込まれる。触れずとも静かな温かみを感じる。生命の躍動感とでも言うべき、力強さの塊。それを、垣根は何かの言葉で表現することが出来なかった。垣根の学んだ科学にそれを指す言葉はなかった。だというのに、何故だろう。こんなにもこの光の存在感には『説得力』がありすぎる。科学が認めないものだというのに、何故に、こうもリアリティがあるのか。「――練成式とやらを、説明しろ」「いいだろう」垣根は続きを促す。練成式なんて名前は垣根は使ったこともないが、きっとそれは化学反応式の前身となった何かだろう。アウレオルスが、手元の羊皮紙に恐ろしいスピードで書き連ねていく。絵のような、文字のような、時に数式のような何かを。それが魔術書と呼ばれるものの断片だとは、垣根は気付かない。「基本的な概念はこうだ。地、水、火、風。四大元素よりなるこの大地から、純粋な風を用いてこの魔力塊を高みへと昇華させる。そして純粋な炎を用いて、結晶へと転華させる。第五架空元素は天体を成す物質だ。故にこの星に囚われた地と水の属性からは分離されなければならない」そして続けて、アウレオルスがその魔術式の意味を説明していく。文字ではなく絵で描かれた式の意味や、見慣れない文字の読み方、定義を錬金の言葉で説明する。それはアウレオルスにだからこそ、垣根に伝えることが出来る。古代、アリストテレスの知恵を中世に再結実させ、近代、そして現代の化学の礎を築いた希代の錬金術師、パラケルスス。その末裔であるアウレオルス・イザードだからこそ、『科学と地続きの魔術知識』を伝えられるのだ。垣根は、その荒唐無稽な魔術式を全て呑み込んで、脳裏に化学式をでっち上げる。そして初めての函に、強引に数値を叩き込んだ。その、瞬間。――――ブシュッ、という音と共に垣根の眉間から血が噴き出した。「が、ぁっ?!」ハンマーで殴られたような痛みと共に、混乱が垣根の意識を襲う。――何が起こった? 誰かに攻撃を喰らったのか?!だが、最も信用のならないアウレオルスでさえ、ただ静かにこちらを見ているだけだ。「能力者が魔術を使う代償だ。無理なら今諦めろ。中途半端にリタイヤすれば、お前もあの少女も死に至る」「――!」アウレオルスの視線に誘導され、エリスの体を見つめる。もうその体は、肩の近くまでと、太ももの半分くらいまでが蝋のように真っ白だった。四肢のあちこちが、垣根の血を浴びていた。その血が皮膚の中へと、しみこんでいく。あたかも砂に吸い込まれる水の如く。それは普通の肉体にはありえない現象だ。日常のエリスの肌だって、そんなことは起こさなかっただろう。「え――?」「触れるな。何処まで灰化したか分からないが、貴様は少女の形を崩してしまいたいのか」ドキリと、その言葉に心臓を鷲づかみにされる。見ればエリスの指先からは、少しずつ何かがサラサラと吹き流れていっていた。それはエリスが喪われていくことの象徴だった。既に死の淵にあるエリスが、越えてはいけない川を渡ろうとする証左。「させ、ねえよ!」させない。エリスを死なせることだけは、絶対に。垣根は、依然として自分の行為に不審を抱く自分を黙殺した。能力、あるいは魔術かもしれない、自分が行使しようとする何かをさらに推し進める。ガンガンと頭痛と言う形で脳が訴える危険を、垣根は省みない。「オ、オ、オ、オ――――」魔力と呼ばれるものを未元物質の一種として作ったつもりでいながら、同時に、自身の体力を削っているようなおかしな印象がある。それがまぎれもなく魔術を行使するということだった。勿論垣根はそれを知る由もない。練られた魔力を、精製の段階へと送り込む。大気素(アーエール)で昇華し、燃素(フロギストン)で燃やしていく。科学がとっくに捨てたはずの、架空の物質を未元物質で代用し、プロセスを踏んでいく。――ボン、という濁った音と共に垣根の体のあちこちが弾ける。血が失われていく。だけど、そんなことはどうでもいい。エリスを、喪わないで済むのなら。「はじめて、惚れた女なんだ」誰にでもない。自分に言い聞かせるように、垣根は呟いた。「コイツ以上に大事なものが、俺にはないんだ」高位の能力者にありがちな、小さい頃からの孤独感。垣根を苛むそれは学園都市においては陳腐なものかもしれない。だけど、それは真実の言葉だった。「だから――――」少量では意味がない。ありったけの魔力を精製し、垣根は自分の創ったことのない物質を、創製する。第五架空元素、エーテルと呼ばれる何かを。そして叫ぶ。痛みや迷いに縛られないように。「おおおおおおおおおおオォォォォォォォォ!!!!!!!」垣根やアウレオルスの身長よりも高くに浮いた光に、あてがうように手をかざす。ビキビキと体中が軋むのが分かる。見開きすぎた眼が、はじけそうなくらい痛みを訴える。垣根には予感があった。ぼんやりと実体のない光が、結実するであろうことが。それはかつてない機能を持つ物質だろう。人類、いや、学園都市が未だたどり着かない世界の真実の断片。かつてエーテルと言う名で想起された、神秘の物質。その誕生の予感に、場違いに垣根の心が高揚する。だがその時、不意に垣根は気付いた。金より高貴なその結晶に、この世界のあらゆる卑しい物質は、触れることを許されない。この世に産み落とされれば、たちまち穢されてしまう。エリスの心臓へと収まるより前に。それでは、意味がない。「――成るか」アウレオルスが、垣根と同様にどこか期待を感じているような顔で呟いた。まるで馬鹿な発言だ。だって、このままでは第五架空元素は劣化してしまう。それに気付いていないのだろうか。ふつふつと光が揺らめき始めた。ある一つの形へと、収束を始める。もう、止めることは出来ない。だが裸のままの第五架空元素を顕現させることは許されない。だから。――――ばさりと、何かが羽ばたく音が、した。「えっ……?」インデックスが、それ以上の言葉を失った。ステイルとアウレオルスも、それぞれが、その光景に思考を停止させていた。「お、お、お、ああああああぁぁぁぁぁぁ!! 具現化しろォォォォォォォ!!!!!」叫ぶ垣根以外に、誰一人として、第五架空元素の誕生を見届けることが出来なかった。垣根の背中から突如として生えた一対の羽根が、その光を覆っていたが故に。「嘘……」「天(あめ)の、御遣い――?」垣根が意図したのは、未元物質で第五架空元素を多いこの世界から隔離すること、それだけだった。なぜ自分が羽根を生やすという方法でそれを成したのか、分からない。分かる気もない。それよりも大切なことは他にあるから。「エリス、今、助けてやる」超然とした笑みを浮かべ、垣根が倒れたエリスの左胸に触れた。布一つ隔てない裸の乳房を埃を払うように軽く手で撫で、そっと、何かを包んだ羽根をその上に近づけた。「――」アウレオルスや、ステイルやインデックスでさえ手を止め息を呑み、その光景に釘付けになる。超能力と呼ぶにはあまりに宗教的で、神秘的なその営み。垣根は羽で優しくエリスの胸に触れる。それだけで鋭利な刃物で切ったかのように、羽根がエリスの胸の中に沈み込む。エリスの血で朱に染まる羽を、インデックスたちはただ美しいと、そう思うことしか出来なかった。「もう、大丈夫だ。また笑ってくれ。叱ってくれ。お前がいれば、俺の世界はそれだけで花が咲いたみたいに、綺麗になるんだ」優しげに、垣根が微笑んだ。そして羽根を、すっ、と引き抜いた。胸に開いた真っ赤な切り口へ、金よりも高貴な金色をした正八面対の何かが滑り落ちていくのが、一瞬だけ見えた。「あ……」「なん、て」「綺麗な」この世界のありとあらゆるものより、それは美しく見えた。それを巡って血なまぐさい争いが起こっても理解できるほどに。「……帰って来いよ、エリス」そう、垣根が呟いた。それが引き金だったかのように、エリスの体が復活を始めた。ぽっかりと開いた胸の傷が、たちまちに閉じていく。灰化しかけていた四肢に、血の色が戻り始める。赤みが差していく。垣根が真っ黒に焼け焦げていたはずの喉元に手を触れると、焦げた炭の下から瑞々しい肌が現れた。エリスが、壊れてしまう前の姿を取り戻していく。「はは、良かった。良かった……!!」泣きそうな声で、垣根が素直な喜びを漏らす。だって、こんなに嬉しいことはない。好きな人が、ちゃんと戻ってきてくれる。そのために、自分の能力を振るうことが出来る。「……見事」アウレオルスが一言、そう賞賛した。「そちらも障りはないな」「当然だ。救われるべき人を救うのが僕らの仕事だからね」ステイルは誰より早く我に返り、姫神を助けるための術式を発動させていた。こちらも、恐らくは問題なく助けられるだろう。「エリス、エリス……! はは」繰り返し、垣根は想い人の名前を呼ぶ。目は覚まさずとも、穏やかに寝ているかのような息遣いをエリスが取り戻したのを見れば、それで充分だった。その垣根から背を向け、アウレオルスは呟いた。「貴様は、錬金術を越える高みの、その片鱗を手にした。それは賞賛すべきことだ。だが代償は安くはあるまい。ツケはきっちりと支払うのだな。――それと、お前は心臓という器官の求める『完全性』に苦しむだろう。永く現世で寄り添いたいのであれば、さらに先へと手を伸ばすことだ」「あ……?」水を差すようなアウレオルスの言葉に、垣根は不愉快そうな顔を見せた。発した言葉の意味を、垣根はこの場で全て理解することは出来なかった。ただ、留めることすら出来ずフェードアウトしていく意識の中、近づいていく床だけが垣根の目に映った。「……先生?」どしゃりと崩れ落ちた垣根を一瞥すらせず、アウレオルスは静かに歩き出した。インデックスの声に、一度だけ足を止めた。「今のお前に私は必要ないのだろう」「っ……!」「ではな」その背中に、インデックスは何も言うことが出来なかった。裏切り者の自分に何かを言う資格なんてあるだろうか。……本当は、それでも言い募るべきなのかもしれない。行かないで、と。だが、インデックスはその言葉を告げる事はできなかった。「……息災に、過ごせ」「先生は、どうするの?」「さあ。誰かに追わせる生活になるやも知れんが、それでもいい。私は私のなすべきことをするだけだ。 ――Honos628、我が名誉は世界のために。私はそう生きると、その名に誓って決めたのだからな」「先生。私……」背を向けるアウレオルスに、インデックスは小さく頭を下げた。「今まで、ありがとうございました」「そんな言葉を聞きたくて、こんなことをやってきたわけではない」「――っ」「謝罪など、無意味だ」ふっと、アウレオルスが笑ったらしかった。「もう会わないことを祈っているよ」「私たちはそうあるべきだろうな」ステイルのその餞別の言葉に、むしろアウレオルスは面白そうに返事をした。そしてもう二度と、インデックスたちを振り返ることはしなかった。「インデックス」「……」「君を救うことに失敗した馬鹿に、追い討ちをかけるようなことを言うのは野暮さ」「馬鹿なんて、言っちゃ駄目だよ」「馬鹿さ。あいつは、そして僕は、やり方を間違えていたんだ。それだけさ」多くを、ステイルは語らなかった。そして傍らに倒れた姫神の額に手をやった。姫神からも、既に死の兆しは消えていた。「ほら、祝おうじゃないか。死なせたくない人を、君は死なせずに済んだんだろう?」そのステイルの言葉に、インデックスは微笑を返した。