朝。ジジジジ、と家の外で騒ぎ始めたセミの声が引っかかり、インデックスの意識が緩やかに眠りの淵から引き上げられていく。「ん……」場所は当然のごとく黄泉川家の一室、光子の部屋だった。ぼんやりした眼で時計を眺めると、目覚ましの鳴る七時までにはもう少し時間がある。隣に敷いた布団で、光子はまだ寝息を立てていた。「もう暑いんだよ……」これまた黄泉川家のしきたりで、クーラーは既に切れている。外が明るい時はエアコンはつけない決まりなのだった。薄暗い部屋の片隅にあるガラスケースでは、とぐろを巻いたニシキヘビの「エカテリーナちゃん」が静かにたたずんでいる。昨日はラットを二匹も平らげたので、きっとおなかが一杯だろう。さすがに襲ってくる不安を覚えることはないが、まだ光子のように可愛いと思える心境にはなかった。「どうしようかな」中途半端に目が覚めてしまった。今から起きたところですることは別にない。ただ寝なおすと、目覚ましが鳴るタイミングで寝覚めが悪くなるような気もする。ひとしきり考えて、インデックスはとりあえず光子の布団にもぐりこむことにした。「みつこ」「んん……インデックス?」「えへへ」「今何時ですの?」「もうすぐ七時だよ」「まだ七時前ですのね? もう、時間までは寝かせて……」光子の声が可愛かった。インデックスの前では大抵お姉さんぶっているのだが、こういうタイミングでは甘いところを見せてくれる。……まあ、インデックスの眼前であっても、当麻とイチャつく時にはベタベタに甘えた態度を取っているのだが。インデックスの頭を光子が抱え込んだ。ちょっと息苦しくてむせそうになる。なんというか、反則的なくらい自分との間にはスタイル差があった。「んー、みつこー」「おやすみ、インデックス」そう言いながらも、光子はインデックスの髪を丁寧に撫でてくれた。「流石に暑いわねー……」「そうだね」光子の声がいつもより間延びしている。眠いせいで隙を見せる光子を見てつい、インデックスは立場を逆転させてみたくなった。布団の中で体をゆすり、位置をずらす。そしてさっきと反対に、光子の頭が自分の胸元に納まるようにして、光子を抱きしめてみた。「どうかな」「ふふ。悪くありませんわね。インデックスお姉さま?」「あは」抱きしめられながら、インデックスの華奢さを光子は実感する。普段自分をこうやって抱きとめてくれるのは当麻だ。その胸と比べると、薄くて、そして柔らかい印象だった。当麻も自分を抱きしめて、同じようなことを思っているのだろうか。「あー、みつこ。とうまの感触と比べたでしょ?」「えっ? そ、そんなことは……」「みつこはわかりやすいから」「もう」インデックスが髪を撫で始めた。手つきがなんとなく、当麻のそれに似ている気がする。真似ているのだろうか。……そういえばインデックスだって当麻に抱きしめられたり、髪を撫でてもらったりしていたなと思い出して、ちょっとチクリとなる光子だった。そして、そうやって当麻のことを二人で思い出していたせいだろうか。「……あれ、二人とももう起きてるのか?」「えっ?!」「あ、とうま。おはよ」扉越しに、想い人の声がした。昨日の記憶を漁ってみると、そういえば当麻はこの家に泊まっていったのだった。光子が無理矢理病院を出た日、つまりはテレスティーナ率いる先進状況救助隊と一戦やらかしてから数日、最近はお泊まりが結構多いのだった。勿論光子との間に特別な出来事はない。ただ、最近は物騒なことが続いたからだろう、黄泉川の帰りが遅くなった日はそのまま泊まって行けと言われることが多いのだった。光子と当麻も首を突っ込んでいた一件に加え、その日の夜にはインデックスの周りでもうひと騒動あったらしいのだ。そちらも一応は丸く収まったらしく、この数日曇った顔を見せていたインデックスもようやく心が前を向いてきた。「とうま、何してるの?」声に警戒感を含ませ、インデックスが当麻に尋ねる。「おいおい、何って朝飯の準備だよ。つーかインデックスさんはいったい何をご心配で?」「とうまが私と光子の寝起きを覗こうとしてないかって疑ってるんだよ」「……光子はともかく、なんでお前の寝顔見なきゃいけないんだ。よだれ垂れてるぞ」「垂れてないもん! って言うか、ドア越しに見えるわけないんだよ!」「あの、当麻さん」少々バツの悪い想いで、光子は当麻に声をかける。「おはよう、光子」「ええ、おはようございます。その、ごめんなさい」「え?」「朝の準備をさせてしまって」「いいって。まだ目覚まし鳴る前だろ? 俺も起きちまったから勝手にやってるだけだしさ」黄泉川家の朝は基本的に和食だ。パンにするとコストがかさんで大変になるほど食べる住人が約一名いるせいだった。漬物や海苔、納豆などの手の掛からないおかずと大量のご飯、あとは切り身の魚を適当に焼いて、味噌汁を作る程度だ。準備はもう大体済んでいる。「で、とうま。いつまで私達の部屋の前にいるの? なんかとうまがそこにいると、急に扉が外れて倒れそうなんだよ」「上条さんの能力はそういう超常現象を起こす力はありません。つーかその心配はなんだよ」「なんだよ、って真顔で聞けるとうまがわからないよ……」冗談みたいなタイミングで当麻に際どいところを見られた経験は、インデックスにも光子にもあるのだついでに言えば、この家にはもう一人女性がいる。こちらは犠牲者と言うか、なんと言うか。「上条? お前もう起きてるのか?」「あ、先生おはようございます……って! 先生、前、前!」「あー悪い。忘れてた」黄泉川が自室から廊下に顔を出し、上条に声をかけたらしかった。それも、ジャージの前を留め忘れて、とんでもないサイズの胸を仕舞うブラを覗かせた状態で。基本的に上条を男として見ていないので、色々とガードのゆるい黄泉川だった。あまりに回数が多いせいで耐性が出来たのか、はたまた眠いのか、光子の気炎は大して上がらなかった。きっと心の帳簿に、メモはしておいたのだろうけれど。「今日は朝も急ぎだから、さっさと朝飯食べるじゃんよ。お前らは急がなくてもいいけど。悪いな」「あ、もう準備できてますから並べます」「サンキュ。お前がいると助かる、上条」その会話が光子もインデックスも面白くない。なんだか黄泉川の見せる素っ気無い感謝と上条の甲斐甲斐しさからは、働いている夫婦の朝、という雰囲気がにじみ出ていた。もちろん黄泉川が夫で当麻が妻の方だが。「じゃ、二人とももう朝ご飯にしちまっていいか?」「はい。構いませんわ」流石にもう、眠気は飛んでいた。仕事をしようと待ち構えていた目覚まし時計をオフにして、光子はうんと伸びをした。「さ、着替えましょうか」「うん」「髪は……大丈夫そうですわね。軽く梳くだけで済みそう」二人とも髪の長いほうだから、酷いときは本当に酷い。幸い今日は湿度が低いのか、跳ねた髪は見当たらなかった。布団を畳み、その上に服を広げる。光子はいつもの常盤台の制服、インデックスもいつもの修道服だ。横に並んで、プツプツとパジャマのボタンを外す。ズボンも脱いで、二人とも下着姿になった。光子はシルクの、水色の上下だった。インデックスは綿の可愛らしいヤツだ。ブラにも、ワイヤーは入っていない。インデックスの下着はそもそも上下でセットになっていないので組み合わせは毎日変わっている。光子はというと、上下で不ぞろいなのを着ているのは見たことがなかった。以前共に暮らしていた神裂火織はそもそも上半身にブラを着けていない人だったので、光子が普通なのかどうかは分からなかった。黄泉川はジャージ同様、下着も同じものをまとめ買いしている人なので組み替えているかはわからないし。「……むー」「インデックス?」「ちょっと汗かいちゃった」寝汗で、ブラの感触が少し気持ち悪い。綺麗に乾いている服を上から着たくなかった。「なら替えればいいですわ。夏はすぐに乾きますし」「そうだね」光子のやつのようにカップはなく、チューブ状をしているブラを押し上げ首から引き抜く。軽く畳んで布団に投げ置き、インデックスは新しいブラに腕を通した。「開けていい?」「ええ、大丈夫ですわ」二人とも着替え終わったのを確認して、インデックスは部屋から出た。廊下のほうが、部屋よりはひんやりしていた。「お、出てきたか」いつもどおりの服装の当麻が、黄泉川のお茶碗と味噌汁を持ってこちらを見ていた。自分達の分はその後に控えているのだろう。光子は何も言わずに手伝った。インデックスが何も言わずに食卓に座ったのは、これも役割分担と言えばいいだろうか。「婚后、お前今日は何をするんだ?」「今日は佐天さん達と一緒に春上さんのお見舞いに行って、そのまま勉強会ですわね。佐天さんの編入試験日までもう日がありませんし。それに、当麻さんはいませんから」「……あー、その、すみません」当麻が縮こまるようにして謝った。今日は、あの小さくて可愛らしい担任に呼び出しを喰らって、補習なのだ。こないだ見たときに光子は絶句してしまった。まさか、自分より見た目が幼いだなんて。しかも頬を赤らめて「上条ちゃんは入学してすぐからいろいろありましたからねえ」なんていわれた日には、いくら担任という立場だから上条の恋愛対象ではないと分かっていても、色々と面白くない光子であった。「上条。彼女が出来ても、いや出来たからにはこれまで以上に真面目に頑張るじゃんよ」「あー……。はい。真面目に通います」「たぶん盆の頃には丸々休みが取れるだろうさ。うちら先生側だって休みたいしな」上条から受け取った白米を素早く平らげて、黄泉川はそう言った。「悪い。あたしはもう行く。上条、見送ってくれなくていいぞ」「え? あ、はい」したほうがいいのかなと思って、新婚妻よろしく朝いるときは毎日見送りをしている上条だった。今日はいいと言われたので箸を置かず、健啖なインデックスを眺めた。炊いたご飯の量から逆算して、あと三杯は余裕で渡してやれるだろう。「じゃ、行って来る」「はい。後のことはやっときます」「行ってらっしゃいませ」「行ってらっしゃい、あいほ」変則的ながら、穏やかな家族の朝がそうやって過ぎていく。がちゃりと扉が閉まる音を背中に聞きながら、上条は対面に座る光子に問いかけた。「佐天ってさ」「はい」「常盤台、受かりそうなのか?」佐天が常盤台を受ける話はかなりの頻度で光子が口にするから、気になっているのだった。隣でインデックスが黙々とテレビを見ながらご飯を食べているせいか、なんだかすごく夫婦らしい会話な気がする。「かなり、見込みはあると思いますわ。常盤台の受験資格はレベル3以上で佐天さんはまだ届いていませんけれど、明日のシステムスキャンで、レベル3に上がるでしょうね。これはほとんど確実ですわ」「それ、かなりすごいよな。だって確か俺達が付き合い始めた頃にはまだ、レベル0だっただろ?」「ええ。事実上、一ヶ月に満たない時間でレベル0からここまで来ましたから」「天才ってヤツか?」「レベル3で天才と呼ぶかという問題はありますけれど、このペースで4まで伸びたら天才クラスですわね。レベル5まで行ったら正真正銘の天才ですけれど」「そうなれば、光子越えか」「あら、私だって伸びしろはまだまだありますわよ」澄まして、当麻にそう言い返す。だが言うほどにはこだわっていなかった。危機感を感じないことはないが、レベルが全てではない。超能力を使いたいと願ってこの街に来たのであって、能力のレベル争いをしたくて来たわけではない。教師達が競争を煽っているところもあり、学園都市では忘れられがちなことだった。「盆休みの予定、そろそろ立てないとな」「えっ? ええ、そうですわね」その一言で、光子はドキリとなった。いつかは口約束だけで終わっていたが、当麻やインデックスと一緒に、学園都市の外で遊ぼうなんて話をしていた。そしてついでに、当麻の両親に会う話も。「光子ってその辺の話、もう親としたのか?」「はい。少なくとも二日は実家に帰って、家族で集まる予定ですわ。当麻さんは?」「何にも決めてない。そろそろ電話でもするかなって感じ」「もう……」だって、その電話で話す内容は、とっても重要だというのに。目でそう訴えると、当麻は分かってくれたらしかった。「今日の夜にでも、連絡入れる」「……はい」「その時に、まあなんだ。彼女と一緒に遊ぶかもって話は、しておくから」「はい。その、変なことは仰らないで下さいね?」「変なことって?」「私が当麻さんの前で失敗した話だとか、そういうの」「なんでそんな話するんだよ。しないって」「ならいいんですけれど」笑う当麻に内心でほっとしながら、光子は味噌汁の椀を口元に運ぶ。やっぱり、初めて両親に紹介される時には、見栄を張りたいものだ。「ふー、ごちそうさま」「早いな、インデックス」会話にいそしんでいた二人を差し置いて、倍は食べたインデックスのほうが先に食事を終えてしまった。麦茶もあっという間に飲み干して、さっさとテレビにかじりついた。「……本当、家族の団欒みたい」「光子?」インデックスを眺めていた光子が、手に持った椀をそっと置いて笑った。「今日もなるべく、早く帰ってくるから」「はい。夜に、また」そんな幸せな約束を取り付けて、当麻と光子は微笑みあった。コンコン、と軽快に扉をノックする音が聞こえる。部屋で本を読んでいた春上は顔を上げ、扉の向こうの相手に返事をした。「どうぞなの」「こんにちは、春上さん」「あ、初春さん」ぴょっこりと、花飾りが扉から見えた。当然のことながらそれに続いて初春の顔が見える。その後ろには佐天もいた。ついでに久々に光子の姿もあった。どうやら三人で見舞いに来てくれたらしい。光子と会うのは、あの大事件があった前日に初春と一緒に即席レッスンを受けて以来だった。「春上さん元気してるー?」「私は大丈夫なの。もうほとんどなんともなくて、今週中には退院できるって」「そうなんだ! よかったねぇ。枝先さんは?」「絆理ちゃんも、そろそろ立ってリハビリしようってお医者さんが言ってたの」「快復に向かっているようで何よりですわね」佐天と共に、満足げに光子は頷いた。それでこそ自分も体を張った甲斐があるというものだ。高速道路上にステイルと二人で残り、並み居る敵をちぎっては投げ、ちぎっては投げの大活躍をした光子だった。まあ、あんまり詳しいことは誰にも言っていないのだった。というか一番聞いて欲しい相手の当麻に詳しい話をしても喜ばれない気はするし、ちょっとモヤモヤしたままなのだ。今度泡浮と湾内の二人にでも聞いてもらおうか。そんなことを考えている光子の隣で初春が着替えを春上に渡し、枝先にも挨拶をしていた。まだ呼吸を助けるマスクをしたまま寝たきりの枝先が、微笑を返した。随分と良くなったので短い時間なら起き上がって会話もできるらしいが、失った体力の回復には時間がかかるし、長時間の会話はまだ結構な疲労になるらしい。とはいえ、ほんの数日前と比べても、肌の艶や張りが増し骨ばっていた四肢に柔らかさが出てきたように思う。「佐天さん」「ん?」「昨日初春さんが、佐天さんは忙しいからあんまり来れないかもって言ってたけど、大丈夫なの?」「平気平気! 友達のお見舞いに来る暇くらいあるよ」「来週には常盤台を受ける、って人の言うことじゃない気もしますけど」「んー、でも。こういうことを後回しにして勉強するって、なんかちょっとやだな」「しかも明日はシステムスキャンを受けるんですよね?」「うん。でもそっちは今から勉強するようなものじゃないし」実技のほうは最近は最低限しかやっていない。光子に聞くと、システムスキャンの時にいつもどおりの実力が出せればレベル3に充分届いているから、別にそれでいいのだそうだ。「今日も授業、するの?」「ええ。佐天さんには筆記試験の勉強をやってもらいませんと」「これでも理数はなんとかなってきたんですけど、常盤台って国語、英語に社会、あと能力の概論みたいなのもいるんですよね」「ほら、やっぱり大変そうじゃないですか」今佐天と初春、そして春上のいる柵川中学は、若干名の能力者を囲いつつも結局は外の学校とそこまで大きくは変わらない。そんな学校の普通の生徒でしかない佐天が、常盤台の学生になるのに求められる知識を受験を決意してからの一週間で何とかしようというのだから、想像を絶するような努力が佐天には必要とされている気がするのだが。「常盤台は校風として幅広い知識を求めるところはありますけれど、結局は能力次第ですわ。佐天さんが実技できちんと力を発揮できれば、合格も夢ではありませんわ。勝率は六割はある、と踏んでいますわよ」「すごいの」呆ける春上の隣で、小さく枝先も頷いていた。「それで、何の勉強を教えてもらうつもりだったんですか?」「能力の概論の予定だよ。試験勉強にもなるし、能力の改善に役立つかもしれないしでお得だから」「科学というのはそれぞれ分野が違うようでいて、ひょんなところでつながりが出来たりしますものね」そう言いながら手を動かす初春を眺めていると、看病に必要なことはもう済んでしまったらしかった。毎日来ているから、手馴れているし、することも少ない。光子は手に提げたクッキーの折り詰めを傍らの机に置いた。「あの」「はい? ああ、クッキーを広げたほうがよろしい?」「えっと、食べたいけど、そうじゃないの」「はあ」違うと言いながら物欲しそうな目をする春上のために、光子は袋をてきぱきと開ける。持参した見舞いの品を自分で開けるのはちょっと変な気分になるが、春上にインデックスを重ねるとなんだか納得してしまうのだった。ただ、これとは別に春上には言いたいことが有るらしい。「婚后さんの授業、また聞きたいの」「え?」「ここで出来るんだったら、私にも教えて欲しいの」「ええまあ、そういった内容の話があれば披露しますけれど……」光子も、そして部屋の皆も戸惑いを感じているようだった。だって春上が、こんなに能力のことについて積極的になるなんて。「私、もっと能力を伸ばしたいの。今は受信専門で、絆理ちゃんの声を聞くことしか出来ないから」春上衿衣は変わり種の精神感応能力者だ。他のテレパスの『声』を聞くことに特化している。枝先の声を聞き取ることにかけてはレベル4相当の受信感度だし、それはそれですごいことだ。だが、自分からが意志を発せないのを残念に思っていた。いつも聞くばかりの受身。それは自分からは何も出来ない自分らしさを象徴するような能力だ。春上はそれを、変えたかった。今度は自分が、枝先に声を届けられるようになりたい。光子はその真摯な目を見て、とても好ましく思う。佐天のときのように助けてやりたいとは思う。「お手伝いできることがあればやりたいんですけれど、その、精神感応は私の専門外ですから……」「空力使いですもんね、私たち」「物理系と精神系の壁ですね」能力者を区分けする概念は色々とあるが、一番根深いのがこれだ。カリキュラムも全く違うし、互いに互いの能力の本質を理解しあうのはほとんど不可能なペアといっていい。流石に光子も、春上の指導は不可能だった。「婚后さん」「はい?」「ちょっと質問なんですけど」「お聞きしますわ。佐天さん」ちょっと決まりの悪そうな顔で、佐天が光子を見ていた。これは知っとかないとまずいかなあ、という苦笑いだった。「物理系と精神系って、何が違うんですかね?」「と言いますと?」「私たち、物理世界に干渉する能力者って、能力の背後にある理論が分かりやすいと思うんですよね。結局は未来って言う不確定なものが潜在的に持っている、低確率にしか起き得ない『奇跡』を手繰り寄せてる訳じゃないですか。でも精神系の能力って、一体なんなんだろうって。そもそも物理じゃ精神とか心って呼ばれるものが出てこないし」その質問に、光子がぽんと手を叩いた。「春上さんは説明できますの?」「え? その、よくわからないの」精神感応は物理的な変数を使った演算をあまりやらない。というか、数式として取り扱うのが難しいのだ。だから物理系の能力者が良く口にする、ハイゼンベルグの不確定性原理に基づいてどうのという議論がいまいちピンと来ない。その答えに光子が頷く。ちょうど良いトピックだろう。この話は常盤台を受けるレベルなら必修だろうし。「ではこの辺りの話を、かいつまんで紹介しますわね。結論を先に言うと、観測問題に対する解釈の違いが、カギですわ」「観測問題……ね、初春これって常識だったりする?」こっそりと佐天が耳打ちをした。それに対し、初春は黙って首を振った。「有名なシュレーディンガーの猫の話も観測問題の一種ですわ。箱に閉じ込められた猫の生死は見てみるまでわからない。だけど開けて見れば、生きているか死んでいるか、どちらかの結果が手に入る。このとき『見る』という行為が結果に関わる重要な出来事ですけれど、何故観測という行為が物理学の主役になるのは何故なのか、まだまだ詰めきれていませんの」「そんなので、理論として使えるんですか?」「物理の理論なんて突き詰めれば突き詰めるほど謎が湧いてくるものですわ。それで、この問題への答え、つまり解釈は色々提案されていて、物理系の能力者は、ほとんどの人が標準解釈、たまに多世界解釈を支持しています。一方、厳密な意味での精神感応能力者が頼る解釈は多精神解釈と呼ばれていますわ。これが、精神系と物理系の能力者を分けている根本的な要因です」いきなり難解な言葉を口にした光子に、枝先と春上が置いていかれそうになり、初春が習ったことはなかったかと頭を捻り、佐天が面白げにふんふんと頷いていた。「まず初めに言っておきますけれど、ここでいうテレパスというのは、感じでは精神感応と書くほうの能力です。念話、つまり遠くの人間と単なる発声以外の方法でコミュニケーションを行う能力とは少し違います。分類が難しいせいで学園都市内でも混乱が見られますけれど、この違いは把握していますの?」この問いには春上もこくんと頷いていた。それはまあ、自分が「厳密な」ほうのテレパスだし、専門だから当然だろう。むしろ佐天のほうが自信なさげだった。初春がそういえば、という顔をして天井を見上げた。「念話のほうだと、風紀委員の人に空気の性質を制御して、遠くの人間と会話できる能力者がいると聞いたことがあります」「いい例ですわね、初春さん。その方は念話能力をお持ちですけれど、精神感応と呼ぶには演算が物理寄りですわね。他にも、御坂さんあたりなら携帯電話の電磁波をコピーすることで脳からダイレクトに携帯へとメールを送信するくらいのことはやってのけそうですわね。こういう風に、能力としては物理的ですけれど、それを応用することで会話以外の意志の疎通方法を持っている人が念話能力者の中にはいます。そして、これとは全く別に、物質世界には何の影響も及ぼさずに、他者と心を通わせられる能力者がいます。佐天さんも常盤台に来るのなら、当然覚えてらっしゃるでしょう? その、純粋な意味での精神感応能力者の頂点を」「えっと、御坂さんのほかにもう一人いるレベル5、学園都市第五位の能力者さんですよね」「ええ。その方を筆頭に、枝先さんや春上さんも、念話が可能な能力者ですが、物理に頼らない点で特別視されています。まだ制御と能力開発の方法が確立しているとは言いがたく、そして他の系統の能力者と根本的に異なっていると言う点で」そこまで言って、光子はクッキーを一つ手にとった。何とはなしに春上に渡してみる。戸惑いながらも礼を言って、春上は袋を開けクッキーにかじりついた。光子はそれをクスリと笑い、もう一つ手に取った袋を佐天に投げた。「えっ?! わ、とっ。あの、婚后さん?」「ナイスキャッチ、佐天さん。どうして受け止められましたの?」「はい?」そりゃ不意打ちとはいえ、飛んでくる所を見ていたのだ。飛ぶ先に手を出せば、そこに収まるのは当たり前のことだ。変な顔の佐天をひとしきり楽しんで、光子は先を続ける。「私たちの世界は、予測可能なことで溢れています。今のクッキーの軌道がそうですわ。どんな風にクッキーが飛んでくるか、その未来が予測可能だからこそ佐天さんはあらかじめ手を出しクッキーを受け止められた。同様に、あらゆる球技は放たれた球の軌道がおおよそ予測できるからこそスポーツとして成り立ちます。勿論サッカーの曲がる弾道のように、開発を受けていない方の演算能力では予想しきれないために、予測不可能性がゲームを面白くすることもありますけれど。なんにせよ、計算ができれば未来はきちんと予測できる、というのがマクロな世界の常識です。でもこれは厳密には成り立たないことを、当然皆さん習っていますわよね? 初春さん?」「はい。ハイゼンベルグの不確定性原理により、未来は一つに定まらないんですよね」「そういうことですわ」この時点で、春上がついていけない顔になった。枝先もそうなのだろう、声を出さずに会話した二人が、苦笑していた。「ニュートンの運動方程式、というのがあります。物理の基礎の基礎ですわね。これは投げられたボールが今この時点でどんな位置と運動のベクトルをもっているかが分かれば、それを元に少し先のベクトルが計算できる、という式になっています。言うなれば、現在の情報から唯一つの確定した未来を予測できる式です。私たち人間のスケールでは、この式はほぼ完全に正しいと言ってよろしいわ」だから、飛びながら曲がっていくボールでも、回転速度や空気との摩擦が分かれば軌道が予測できる。でも、と一言置いて光子は扇子を弄ぶ。「ミクロな世界では、これは成り立たないことが知られています。20世紀になって、ニュートンの運動方程式は、もっと正確な別の方程式、シュレーディンガーの波動方程式の近似式でしかないことが分かりました。佐天さん、これはどんな式でしょう?」「位相空間上の確率密度分布が、波動方程式の解の二乗により求まるんですよね」「……ええ。かなり正確なお答えなんですけれど、この場ではちょっと不親切ですわね」説明に必要なのは、時に正確性よりもわかりやすい表現だ。概論として初学者の理解を促す意味では、佐天の答えには足りないところがある。でも、ほんの一ヶ月前の佐天なら、きっと春上よりもこうした知識に興味を持っていなかったに違いない。それを考え、光子は心の中で佐天のその変化を喜んだ。佐天はたぶん、能力を使うときに波動方程式を演算したりはしていないだろう。だからきっと、この辺のことは自分で頑張って勉強したのだ。「ニュートンの運動方程式は完全な決定論、つまり未来が唯一つに決まると考えていたのに対し、より正確なシュレーディンガーの波動方程式からは、起こりうる未来の『確率表』しか手に入りません。外の世界での天気予報みたいなものですわ。学園都市じゃ的中率が高すぎますから例として不適切ですけれど、あれって、降水確率が80パーセント、なんて言い方をしましたでしょう? あっ……。ごめんなさい」「いいの」光子は、そこまで言ってすべき気遣いを出来なかったことを恥じた。枝先と春上は、置き去り<チャイルドエラー>だ。外の世界を二人は知らない。「もっと教えて欲しいの、婚后さん」「……ええ。では、続けますわね。雨は降るか降らないか一つの未来しか起こらないのに、天気予報は80パーセント、なんて言い方で二つの可能性を提示する。波動方程式の解も同じ。この先に起こる出来事の選択肢を挙げて、それぞれ起こる可能性をパーセントで提示するのですわ」ここで光子は一息ついた。思ったよりもまだ回りはついてきてくれているらしい。ありがたいことだ。本番は、ここからなのだし。「さて、話のお膳立てがようやく済みましたわね。精神系と物理系をわける量子力学の解釈、その話に入りましょう。前日の夜に見た天気予報が、降水確率80パーセントだったとします。でも実際にその日に自分が見た結果は雨という結果でした。この場合、予想の段階では80パーセントだったものが、ある意味で100パーセントになったと言うか、結果が一つに収束していますわね? 量子力学の言葉で言えば、未確定だった未来が、『観測によって一つに収束した』と言えるわけです。そしてここに、量子力学が未だ明らかにできていない、重大な問題があります。佐天さん、それが何かしら?」「え、えっ?」今度の質問には、佐天は答えられなかった。波動方程式の演算も練習としてやったことがあるが、こんなところで疑問を覚えたことは佐天にはなかった。「あの、すみません。問題ってなんですか?」「波動方程式を『使う』人間にとっては問題になりませんのよ。むしろその式のさらに奥に本質が隠れていないかと探求する人間にとって、興味があることなのですわ。雨の降る確率、曇りか晴れになる確率。そういうものが与えられていたのに、観測によってその中からただ一つが選ばれる。――どうして、たった一つの未来が選ばれますの? 選ばれなかった残りの可能性は、どうなりましたの?」「……えっと」問いかけに、佐天はうまく答えを返せなかった。だって未来は一つだろう。自分がまさか二つに分かれるわけにも行くまい。「この疑問に対する答えは、量子力学の枠組みでは説明できません。まあ、未解明ということですわ。だから量子力学の『解釈』なんて名前が付けられています。では、ここからは能力と絡めて解釈の話をしましょうか。まずは大半の物理系能力者、私や佐天さんや、たぶん初春さんもそうですわね。このケースから話をしましょう。私たちは、標準解釈、またはコペンハーゲン解釈と呼ばれる立場に基づき、演算を行っています。この立場は、先ほどの質問に対しては無頓着な立場と言えるかもしれませんわね。佐天さんもそうではなくて?」「あ、はい。だって、未来が二つに分かれるって、パラレルワールドかって話ですよね。そういうことがあっても少なくとも今ここにいるあたしは、どっちかの世界にしかいないんだし」「ふふ。歴史を見事に遡るご回答でしたわ。パラレルワールドなんて概念を佐天さんが持っているのは、コペンハーゲン解釈の問題点を指摘するために生まれた多世界解釈という解釈が、やがて小説や映画にとりこまれていったせいですから」「言われてみれば、そうですよね」佐天は自分自身でパラレルワールドなんてものを想像できる人間ではない。そういう概念は、たぶん、子供のころに見た未来のネコ型ロボットの映画で知った気がする。「宝くじのたとえ話をしましょうか。当たれば配当は大きいけれど、ほとんどの人はハズレしか引かない、そういうくじってあるでしょう?」「年末ジャンボとかですか?」「ごめんなさい。その名前は存じ上げませんわね」「たぶんその設定で大丈夫です。一等が当たるの、日本人の中から毎年一人か二人とかですから」初春がそうフォローをした。話をこんなところで折られるのもつまらない。光子はそれに頷き返す。「なら、そのジャンボとか言いますのを考えてくださいな。くじを買っても普通の人は、たいていハズレを引く。配当金が当たる人は一握りの人だけ。それが宝くじ。くじで一等や二等が当たる確率がとても低く、まず自分はそのような幸運に巡り会えないということを、私たちはくじを買う前から理解しています、つまり、当たるかどうか、未来はわからないけど、どんな未来が手元にやってきそうかは分かっている。さてここで、当たりのときの配当をお金ではなくて現実世界で起こる『奇跡』に置き換えてみましょうか。我々は常に、この宝くじを引き続けています。さきほど佐天さんにクッキーを投げたものそうですわ。奇跡が起これば、あのクッキーは突然テレポートしたり、発火したり、変形したりしたかもしれません、だけどそんなことはまず起こり得ない。だから佐天さんはクッキーが常識通りの動きをする可能性に賭け、それを引き当てた。くじで言えば残念賞ですわね。それは奇跡と呼ぶに値しない結果でしたから」「はあ」生返事を佐天は返す。だって、周りの人たちの行動一つ一つに奇跡を期待するなんて、疲れるだろうし。「奇跡と呼ばれるような、手繰り寄せるのが困難な未来は普通は引当てられません。ですが何らかの方法で、その引き当てるのが難しい未来を見つけ、自分の意志で掴み取れる人間がいます。それが、学園都市で開発を受けた能力者という人々です。先程のくじの例えで言えば、当たりくじの番号を自分に都合よく操作できるような、そういう不正行為を行える人になりますわね」自分たちを、不正をする人間かのように言う光子にちょっと釈然としない思いを抱きながら、佐天は耳を傾ける。「静かに空気の流れるこの病室の未来には、常識では考えるのも馬鹿らしいくらいの低確率で、空気の中に渦が生まれる可能性が内包されています。ほとんどの人はそんな未来に出会いませんが、例えば空力使いと呼ばれる人は、その可能性を自ら手繰り寄せられます」目で指示されたので、佐天は渦を手のひらに作る。饅頭くらいのサイズのを、かなり高圧にしてやった。屈折率を変えて渦を可視化するためだ。「こんなふうに、ですわね。これをコペンハーゲン解釈に基づく普通の能力者の解釈で説明すると、未確定だった未来を、起きる可能性が限りなくゼロに近かった方向へと収束させた、とでも言うことになりますでしょうか」「ってことは、超能力が引き起こせる現象っていうのは、そういう可能性が未来の可能性の中に含まれてないと起きないってことですか?」初春は気になった点を光子に訪ねた。佐天の渦や自分の低温保存くらいならまだしも、レベル4以上の能力なんて、それこそ想像もできないような破天荒な未来をたぐり寄せてくるものだ。そんな可能性が、そうそう簡単に『未来の可能性』の中に含まれているものだろうか。光子がその質問に頷いた。「有り得ないなんてことは、有り得ない」「えっ?」「物理の大原則ですわ。原則的にはどんな奇跡だって、起こりうる可能性があるものですわよ。もちろんそれをたぐり寄せられる特別な『目』をもった人、つまり能力者がいれば、ですけれど」佐天は、空気に渦を作るような奇跡ならば、観測することが出来る。だから空力使いなのだ。そしてそれ以外の奇跡を観測することは出来ない。「ちなみに、奇跡の規模が大きいほど、常識から外れているほど、その奇跡の起き難さが上がります。ボルツマン統計、あるいはフェルミ・ディラック統計がその基礎付けになりますわね。そういったより不自然な現実を観測する優れた感覚を持った人間が、高レベルな能力者なのだということですわ」佐天はこの間まで、手のひらに小さな渦が生まれる未来までしか感じ取ることが出来なかった。だけど今は、もっともっと異常な、例えば手のひらの上に100気圧に及ぶ高密度な渦が生まれる未来を手繰り寄せられる。光子の言葉を、佐天は実感として理解していた。「……解釈の話に戻しましょうか。私や佐天さんは、超能力を起こすということを、あまねく可能性の広がる未来というものの予想図の中から、望ましいたった一つの可能性を現実へと『収束』させることと捉えています。ですがこの解釈に異説を唱えた人がいます。エヴェレットという名の方ですが、彼はこう考えました。未来は一つに『収縮』なんてしていない。ただ『世界が分岐した』のだ、と。観測により未確定なイベントが確定していく毎に、世界は分岐し、互いの関連性を失っていく。そういう解釈を、多世界解釈と呼んでいます。この解釈では、世界がいくつかに分岐する前には、互いの世界が重なり合っているように取り扱えて便利なところがあるので、量子効果が強く影響する能力の持ち主がよく使うそうです。有名どころではやはり第四位でしょうね。詳しくは知りませんけれど」学園都市第四位の能力者は、電子の粒子性と波動性、あるいは不確定性の制御に関わる能力だと言われている。レベル5の能力者と言うのは、誰も彼も、世界の本質に深く根ざした能力を持っている。劣等感ゆえに言い訳かも知れないけれど、空力使いにレベル5がいない理由を、能力としての底が浅いせいだと思ってしまうことが光子にはあった。「さて、それじゃようやくここまで来ましたから、多精神解釈の話までしてしまいましょうか」春上が再び、興味を持ったらしかった。「多世界解釈が出来たのは、標準解釈がひとつの問題、つまり未来が一つに『収縮』する理由が説明できない問題を抱えていたからでしたの。この問題については、多世界一応の答えを与えることが出来ました。ですが多世界解釈にも、不完全な部分があります。というかあらゆる解釈が全て不完全だからこそ、理論ではなく解釈という名前が付くんですけれど。多世界解釈の問題点は、観測が世界の分岐を促すところです。人間の意識が現象を観測することで世界がいくつにも分岐していくなんて、誇大妄想みたいだとは思いませんこと? 観測という行為が物理学で重要視されるようになって、意識とは何か、心とは何かという問いかけが、哲学ではなくて物理の問題になったんですの。そこで生まれたのが、多精神解釈です。分岐するのは世界ではなくて、人間の心のほうだと考えたのですわ」佐天は、首をかしげた。心が分岐すると言われても。佐天の心は能力を使ったって多重人格にはならないし、そもそも、心の問題とは言うけれど確かに目の前の世界は佐天の能力で変容する。「軽い例えで話をしましょうか。佐天さん、今日の初春さんの下着の色はご存知?」「え?」「へ、え? えっえっ?」初春は、信じられないことを聞いた気がした。だってあの、常盤台のお嬢様であるところの光子の口から、自分の下着の話が出るなんて。「いやー、今日は確認できてないんですよ。ちゃんと履いてる?」「ななな何言ってるんですか急に! 履いてます! っていうか婚后さん、なんでそんなことを?!」「いえ、御坂さんと白井さんから、お二人はそうやってスキンシップをすると聞いておりましたので……」「佐天さんの一方的な意地悪です!」「意地悪って、酷いよ初春!」「酷いのは佐天さんです! その渦、絶対に使っちゃだめですからね!」「え?」初春が佐天のほうを睨みつけながら、手のひらに目をやった。さっきまでは屈折率のゆがみが映る佐天の手のひらの形を曲げていたというのに、今はそれがない。くっきりと、何の変哲もない佐天の手のひらが見えていた。――次の瞬間。ぶわっ、という音と共に初春のスカートが持ち上がった。……だって、そういえば今日は確認してなかったな、なんて佐天は思ってしまったから。「佐天さん」「おー、今日は黄色かぁ。なんかいつものより高そう」「佐天さん、言うことはそれだけですか」「あ、ごめんごめん。ちゃんと良く似合ってて、可愛いよ」「もう……」なんだか脱力して、初春は怒る気にもなれなかった。今回は周囲に女性しかいないし。苦笑した光子が、話を続ける。「佐天さん。初春さんの下着の色は?」「黄色でした」「これで誰も観測していなかった初春さんの下着の色が、一つに収束しましたわね。多世界解釈で言えば、これは初春さんの下着が黄色の世界と水色の世界に分岐した、といった感じに表現できます。多精神解釈だと、佐天さんの心が、『初春の下着は黄色だ』と思った部分と『初春の下着は水色だ』と思った部分に分裂した、と表現されます」「えっと。この場合世界は分岐しないんですか?」「分岐しません。というか、佐天さんが世界だと考えているようなものがそもそもありません」「はい?」「佐天さんが世界だと考えているもの、つまり初春さんの下着が黄色の世界だとか水色の世界だとかっていうのものは、佐天さんの心の外には存在しない、と考えるのが多精神解釈です。あるのはそれらが全て溶け合ったスープのようなものだけ。その一部を適当に掬い取って味見するごとに、佐天さんの感想が分岐するだけですわ」「へー……」そろそろ、佐天もついていけなくなりつつあった。逆にこの話だけは、春上がなんとなく分かると言う顔をしていた。少し喉の渇きを覚えながら、光子は締めくくりに入る。「さて、じゃあおさらいをしましょうか。私や佐天さんのような標準解釈に頼る人にとって能力を発現するということは、無数にある未来の可能性の中から、普通には絶対に起こらないような低い確率の未来を選んでひとつに『収束』させ、それを現実に起こすことです。そして多世界解釈に頼る人、例えば学園都市第四位などにとって能力を振るうということは、自分が今いる世界とは極めて関連の低い別の並行世界へと今の世界を接続することです。そして多精神解釈に頼る人、例えば春上さんや枝先さんのような精神感応能力者にとっての能力行使とは、異なる現実を認識した自我を今ここにある自我と入れ替えるということです」初春の下着が黄色だと認識した佐天の心を、初春の下着が水色だと認識した佐天の心と入れ替える。そういうことだ。枝先は、「絆理ちゃんの声を聞いた」と思わない春上の心を、「絆理ちゃんの声を聞いた」と思う春上の心で置き換える。そうすることで、春上に自分の意識を伝えているのだった。「これらの能力は全て、たった一つの量子力学という学問に沿って説明することが出来ます。だから全く違う精神系の能力も、私たちの能力と地続きではありますのよ」魔術などという、まるで説明の付かない奇跡とは違って。……その言葉は流石に光子は口にしなかった。ぱん、と扇子を畳んで光子は微笑んだ。これで講義は終了と言う合図だった。「どう? 佐天さん」「え? いやー、すみません。理解するうえで取っ掛かりになる知識で、すごくためにはなるんですけど、流石に理解できたかというと……」「まあ、そんなものでしょうね。こういうのは結局は自分で良く考えてみないと身につきませんから、どこかで決心して、きちんと独学なさることですわね」「はい」隣で春上も、コクコクと頷いていた。「あの、ところで婚后さん」「はい?」「さっきの初春のパンツの色の例えで、水色が出てきたのってなんでなんですか?」「べ、別に深い意味はありませんわ」光子は後ろ手でスカートの裾を押さえながらそう言い返した。今日自分の履いている下着の色、というだけのことだった。「さて、授業はこれくらいでよろしい? 一応、今日はこの後少しだけ佐天さんの実技を見る予定ですの。明日はシステムスキャンですし」「あ、確か私たちの学校じゃなくて、別のところでやるんですよね?」「うん。柵川中じゃ、もう設備的に無理だからって」柵川中学にはレベル2までしかいない。料理用のグラム秤で人間の体重を測ることが出来ないように、佐天の能力を測るには設備があまりに小さすぎるのだ。だから、ちゃんと強能力者以上の能力を測れる場所に測定を依頼し、測定を行うことになったのだった。「何処に決まったんですか?」「常盤台だよ」「えっ?」「先生がさ、常盤台の寮監と知り合いらしくて。常盤台を受験する学生の測定だったら、むしろ喜んで引き受けるって」転校試験の受験者の能力を吟味する機会が増えるので、メリットが常盤台側にもあるのだった。「じゃ佐天さん、明日は常盤台に行くんですか?」「うん。婚后さんが案内もやってくれるって言うし、百人力だよね」「私は佐天さんだけの案内ではありませんわよ。測定参加者みなさんの、ですわ。たぶん明日は佐天さんのライバルもいらっしゃるでしょうね」そう焚きつけて、光子は佐天の顔を見る。「比べても仕方ないって、婚后さんがよく言ってるじゃないですか。あたしそんなに賢くないし、やれることを、やるだけですって」そう告げる佐天の顔は、自然体でありながら自信を感じさせるものだった。****************************************************************************************************************あとがき量子力学の観測問題に関する解釈については、以下の参考文献で勉強しました。あまりググっても手に入らない多精神解釈についてもよく載っているので、けっこうお勧めです。基本的に数式は出てきませんから、量子力学の概念的なものにさらっと触れたい人もどうぞ。『量子力学の哲学 非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』森田邦久 著講談社現代新書(2011)観測とは何か、あるいは心とは何か、といった哲学的な問題に関しては、高校生の頃に倫理の先生が推薦していた以下の本で勉強しました。高校生で充分理解できる平易な文章でありながら、結構深い内容だと思います。これをきっかけにニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』やカントの『永遠平和のために』を読んだりと、色々影響を受けた本でした。カンペキに高二病ですねw『哲学の謎』野矢茂樹 著講談社現代新書(1996)