まだ午前の早い時刻、当麻はとある病院の中を、足早に突き進んでいた。通り過ぎる病室の一つ一つのネームプレートを確認しながら、目的の場所を探していく。ほどなく『婚后光子』と書かれたそれを発見し、当麻はスライド式の扉に手を掛け、息を整えた。コンコンと扉をノックする。二度ほどやり直しても、返事は無かった。「……光子」そっと中に声をかける。返事がなかったので扉を少し開け、中を覗き込んだ。部屋の中に動くものはなく、ただベッドが少し膨らんでいた。「入るぞー」小声でそう囁き、当麻は体を部屋に滑り込ませた。光子の個室に忍び込むのに、気まずい思いはないでもない。外で会うことはあっても、二人っきりになった経験が、あの観覧車くらいしかないのだった。キスだってまだだ。背徳感めいたものを覚えながらベッドに近づくと、光子はシーツを首までしっかりかぶって、寝息を立てていた。「寝てるのか」行儀がよすぎるくらいまっすぐに体を伸ばし、光子は目をつむっている。その穏やかな表情を見て、改めて当麻はホッと息をついた。ベッドサイドにあった椅子を手繰り寄せて、寝顔の見える位置に座り込む。光子が暴漢に襲われて病院に運ばれたという話を聞かされたのは、数日前のことだった。デートを終えた後、その日の晩に光子から一切の連絡が来ないことをいぶかしんでいた当麻だったが、次の日になって、警備員(アンチスキル)から連絡が来て、ようやく昨日の出来事を知ったのだった。曰く、自分と別れた後、学舎の園の中で何者かの襲撃にあいスタンガンで意識を奪われた、と。それ以上にどのような傷を負わされたのか、当麻は気が気ではなかった。すぐに見舞いに行くと言ったが禁じられ、数日間の面会謝絶を言い渡された。犯人は女性らしいということだったし、命に別状もなく、また身体への暴行などはなかったから最悪の事態は免れたのかもしれないけれど、それでも会えない時間は当麻の焦燥を募らせていた。「……良かった」首から下は見えないが、光子のきれいな髪と整った顔立ちにいささかの傷もない。昨日光子自身に電話で聞いた話でももう何ともないという話だったから、大丈夫なのだろう。ようやく昨日になって光子の携帯電話が手元に戻ってきて、当麻と連絡が取れたのだった。「起こすのも悪いかな」朝ご飯は食べたとナースに聞いたから、これは二度寝なのだろうか。そういうことはしないんじゃないかと勝手に思っていたから、なんだかおかしかった。起きるまで、待っていよう。そう当麻は決めて、光子の顔をじっと見つめた。大好きな彼女の顔は、見飽きる気がしなかった。……ベッドサイドの当麻が眠りだしたのを半目で確認して、婚后光子はそっと体を起こした。「もう、ずっと見るなんてずるいですわ」顔から火が出そうだった。光子としては、当麻がお見舞いの品を片づけたりしている間に目を覚ましたことにしたかったのに、予想に反してずっと見つめられてしまったから、起きるタイミングがなかったのだった。当麻に見せたのは、本当の寝顔というわけではなかった。あまりにも会うのが久々だし、着ているのは人任せで買ったパジャマだし、気恥ずかしかったのだ。だからつい、ノックされた瞬間に寝たふりをしてしまったのだった。とはいえ、当麻が起きて出ていくまで寝たふりをつづけることはできないだろう。どれくらい時間がかかるかわからないし、それに寝てばかりでは無駄な心配をかけるかもしれない。なにせ、自分はすでに完全に回復しているのだ。上半身を起こし、手元にあった扇子を開く。当麻はどこにももたれかからず、椅子に座りながらうなだれる様に深く俯いて、かすかに舟を漕いでいる。光子は扇子でそよそよとした風を送り、当麻の頭にあてた。扇子を返すときに流れが剥離し、乱流にならないよう気をつける。手首のスナップには、光子が遊びの中で培った空力使い特有のこだわりがあった。弱い風は層流と呼ばれる、整った流れを持っている。そして風が強くなると流れに乱れ、渦が生じ乱流となる。その乱流とならない限界ギリギリの最大風速を狙い、整った流れの中に無粋な渦を生じさせぬよう丁寧に扇子を動かすのが、誰に言うでもない彼女の嗜みの一つだった。バサバサではなくそよそよ。優雅に揺れる当麻の黒髪が受けているのは、普通の人類が実現しうる最高速度のそよ風だ。思ったよりも幼く見える当麻の寝顔を眺めながら、光子は当麻のために涼をとる。そうやって尽くせるのが嬉しくて、光子は黙って手を動かし続けた。「……ふふ」寝たふりの最中だったから顔を見られなかったのが残念だけれど、「良かった」とつぶやいた当麻の声が、本当に安心したという感じだったのが嬉しかった。想われているのがわかる、というのはとても幸せなことだ。家族に溺愛されてきた光子にとって、大事にされるということはむしろ空気に近い当然のことだったが、想い人の訪れはそれとはまったく別だった。来てくれないかもしれない、心配されていないかもしれない、そんな不安と表裏一体の来て欲しいという願望。それが実現したときの喜びと安堵は、今まで光子が感じたことのない感情の揺れ幅だった。もちろん、当麻がひどく心配した理由は、暴漢に襲われた恋人が一週間近くも面会謝絶になったという事実のせいだろう。率直に受け止めればそれは光子が大怪我をしたというような意味に取れそうだが、事実は異なる。光子を襲った犯人は、中学生の女の子だったらしい。その彼女がスタンガンまで使ってやりたかったことは、光子の身体への影響という意味では、なんでもないことだった。目を覚ますと、何の恨みか、学園謹製の消えにくいマジックペンで光子の眉毛は太く太くなぞられていた。彼女自身にとっては何か深い意味でもあったのかもしれないが、光子には到底理解しがたい所業だ。あらゆる溶剤を突っぱねるそのインクのせいで、新陳代謝によりインクの染みた皮膚が更新されるまでの一週間、光子はとても人前に顔を晒せる状態ではなかったのだった。年頃の女子学生にとって、ゲジゲジまゆげを晒しながら生活を送るなんて、とても耐えられることじゃない。そう我が侭をいった結果が、この数日間だった。そして今日、ようやく光子に会えた当麻はほっと一息つけたというわけだ。その後うたた寝を始めたところで、今度は光子のほうが幸せを噛み締めているのだが。――明日は退院だから、当麻さんとお買い物に行きましょう。この間行ったセブンスミストはカジュアルな服が色々揃っていたから、当麻さんに夏物を見てもらいたいし。そう考えを巡らせながら扇子を畳み、光子はそっと当麻の髪に触れた。尖った髪の先の、ツンツンとした感触。整髪料……ワックスというものを使っているのだろう。地毛もごわごわした感じで、自身の髪とはまったく異なっていた。肩よりすこし長く伸ばした髪を、光子は自慢にしている。髪の艶の良さや手触りの滑らかさが保たれていると、自分の髪がとても好ましく思えるのだ。その基準でいえばもちろん当麻の髪は落第だが、同じ基準で比べる気にはならなかった。石鹸でゴシゴシ洗ったような艶のない粗い質感で、どことなく安っぽい香りのする整髪料をつけた髪だというのに、愛着すら感じる。当麻の髪の感触は面白く、つい、ツンツンと何度もつついてしまう。人差し指で弄んだ後、手のひら全体でその尖った感触を楽しんだ。「当麻さん……ふふ」つい寝顔がもっと見たくなって、体を傾けて当麻の顔に自分の顔を近づける。それがきっかけになったのか、不意に、んぁと間の抜けた声をだして当麻が目を開いた。「あっ」「あ……婚、光子」変えたばかりの呼び名を間違えそうになって、はっと当麻は覚醒したらしかった。「当麻さん、おはようございます」「あ、ああ。起きたんだな。悪い、こっちが寝ちまった。寝顔見たら、穏やかそうだったからほっとしたし」「ごめんなさい。私こそ、今日当麻さんがいらっしゃるって聞いていましたのに」「気にしなくていいさ。それより、大丈夫だったか?」「はい」光子は短くそう返事をした。「心配、してくださったの?」「当たり前だろ。いきなり警備員(アンチスキル)から電話がかかってきて、知り合いの女性が襲われたから事情を聴きたい、だぜ。それで詳しく聞いたら、光子が入院してて、しかもお見舞いもダメな面会謝絶って。頭が真っ白になった」「……ごめんなさい」「いや、謝ることはないんだけどさ。光子だって、被害者なんだから」「でも、誰にもお会いしたくないって言ったのは、病気のせいじゃありませんもの。実際、親しいお友達にだけは必要なものを持ってきてもらったりでお会いしていますし」「結局、大丈夫なんだよな、体のほうは」「ええ。心配ありませんわ」「良かった。本当に」当麻がそう言って、光子の手を両手で包み込んで、自分の額に押し当てた。長い気の抜けたような溜息をついて、わずかに疲れを見せた顔で優しく笑う。そんな当麻の態度に申し訳なさを感じる半面、嬉しく思う自分を光子は否定できなかった。「こんなことを言ってはいけないんでしょうけれど。当麻さんに心配してもらえて、嬉しい」「嬉しいからって二度とやって欲しくないことだけどな」「私だってご免ですわ」苦笑しながら空いた手をさらに当麻の両手に重ねる。ベッドとベッドサイドという変則的な位置取りではあるけれど、二人っきりで、しかも近い距離にいられることが嬉しかった。「たしか、今日退院だったよな?」「はい。事件の犯人も捕まったそうですし、これで不安なく街を歩けますから」お見舞いを受け付けたその日に退院というのも気が早いが、いろいろな事情で強引に引き延ばしていた入院なので仕方ない。「解決したのか?」「警備員の方にそう聞きましたわ。詳しいことは知りませんけれど」常盤台の学生に恨みのある女生徒による犯行だったとのことだった。もとより学舎の園の中での犯行だから容疑者は絞りやすいし、その絞った中に犯人がいたとかであっさり補導に至ったようだ。襲われた人間として詳しい話を聞きたくもあるが、警備員はそんな口の軽いことはしてくれないだろう。「無事解決ってんならそれは一安心だな。それでさ、どうしようかと悩んだんだけど、お見舞いはやめておいたんだ。入院中に必要なものって考えても、すぐに退院だし」「どうぞお気遣いなく。当麻さんが来てくださるだけで嬉しいですわ」社交辞令などではなく、本心からの思いだった。申し訳なさそうに髪をかく当麻の、その表情を見られるだけでとても元気づけられる。「代わりにさ、快気祝いのほうがいいかなって」「えっ?」「光子が行けるタイミングでデートに行って、そこで何かプレゼントさせてくれよ。それとも俺が選んで買って行って、渡したほうがいいか?」「そ、そんなの。気になさらなくっていいんですのよ? 大した怪我ではありませんでしたから……」「光子こそ気にしなくていいって。俺が、光子に何かをあげたいんだ。それで喜んでもらえたら、俺も嬉しいし」どうしよう、と光子は思案した。買ってもらえるという提案は、ものすごくうれしい。当麻に何かをもらえるなら絶対に欲しい。嬉しい。だけど、そうやって好意に甘えるのは、図々しくはないだろうか。「……図々しいって思われたら、嫌ですけれど」「ん?」「当麻さんに、夏物を一緒に見てほしくって」「服ってこと?」「はい。デートに着る服が、もう少し欲しいな、なんて思っていて、その」「じゃあそれ、見に行こう」「ごめんなさい、わがままを言って」怒られたり、嫌われたら嫌だなと思いながら、光子は当麻の表情を窺った。自然とうなだれたような姿勢から当麻を見つめることになる。そんな、光子の上目遣いのしぐさに当麻はドキッとした。甘えてくる女の子の典型的なしぐさなのだろうけれど、その破壊力を身をもって知ったのは初めてだった。「謝らなくていいって。それより、もっと聞きたい言葉は別にあるんだけどな」「あっ……」当麻の言わんとすることに、すぐに光子も気づいたらしかった。「次のデート、退院のお祝いって大義名分つけるからさ、何か、光子に贈らせてくれ」「嬉しい。当麻さん、ありがとうございます」形式ばった口調で告げた当麻に、光子は言うべきお礼を返した。そうして、言葉にしてから、後になってさらに喜びが湧き上がってきた。「どんなものが欲しい?」「えっと……ごめんなさい、すぐには考えがまとまらなくて。ただカジュアルなものが欲しいと思っていましたから、そういうものを」「じゃあ、そういうのがある店に行くか。知ってるところだと、駅前にセブンスミストって店があってさ、あそこは結構大きいんだけど」「知っています。こないだお友達と行きましたの」「そっか。んー、女性服の売ってる場所は詳しくないから、あそこしか出てこないんだけど」「場所はそれで構いませんわ。ひととおりなんでも揃っていますし」話しているうちに、今日これからの検査や退院手続き、帰宅といった面倒なことが頭から消えて行って、楽しい想像で一杯になった。「ふふ、すごく楽しみですわ」そういって目を閉じ、光子が溜息をついた。カーテンによって薄められた陽光で浮かび上がる光子の優しい微笑みを見て、当麻はつい、光子を抱き寄せたい衝動に駆られる。まだぎゅっと抱きしめたことはない。いつだって人前でしか会えなかったせいだ。ほんの数日とはいえ、会えない日々がそうした欲求を強めていた。「今日はまだ、時間あるのか?」「ええと、午前中に検査だそうですから、その」「そっか」時計を見ると、診察開始の時刻までもうあまり残っていないらしかった。「せっかく来ていただいたのに、あまり時間が取れなくってごめんなさい」「気にするなって。一日でも早く会いたいからって、無理に押し掛けたようなもんだし」さすがに退院すぐの光子は、その足で当麻と会おうにも学舎の園の外に出る許可が下りない。今日会うなら、見舞いというチャンスしかなかった。「あのさ」「はい」光子とつないだ手をそっと離し、光子の髪を触ってから、その肩に手を置いた。「光子、好きだよ」「私も。当麻さんが来てくれて、すごく嬉しかった」「良かった。光子」何かを尋ねかけてから、口をつぐむ。光子が首をかしげて疑問を伝えてきた。今から自分がしようとしていることに、当麻は許可を求めようとしてやめたのだった。何も言わずにするほうが、喜んでもらえる気がしたから。「あっ」肩においた手に力を込め、ゆっくりと当麻は光子を抱き寄せた。同時に自分も椅子を最大限に光子に近づける。嫌がる素振りを光子は見せなかった。わずかに見せた不安顔は、行為へのというよりは、うまくできるかわからないという自信のなさだろうか。ほどなくして、二人の距離はゼロになる。接触の感触に少し遅れて、光子の体温がじわりと肌に届いた。「ああ……」光子が溜息をついて、沈み込むように、さらに当麻にしなだれかかる。そうやって、恋人に体重を預けられることに、当麻は感動を覚えていた。「光子、可愛いよ」「嬉しい。あの、支えていただいて、お辛くありません?」「大丈夫。それより光子こそ、その体勢しんどくないか?」「全然気になりません」首を振って、光子が顔をうずめた。「当麻さんの心臓の音、聞こえます」「俺は光子の、聞こえないけど」「それはそうですわ」光子が当麻の冗談をクスリと笑う。光子が当麻の体の内に収まっている以上、構造的にありえない。「でも俺も聞いてみたいけどな、光子の」「どうしてですの?」目で笑いながら、当麻に問いかけた。だって赤ちゃんみたいだ。自分で言っておいてなんだが、心音が聞こえるくらいの近距離なのは嬉しいけれど、心音そのものがどうかというとそこまで思い入れはない。もっと当麻に甘えた気分で、眠たい時なら別かもしれないけれど。からかわれた仕返しだろうか、そんな光子の素朴な疑問に、当麻は意地の悪い表情を返した。「逆の状態って、どうなってるかイメージしたか?」「え? 当麻さんが私の胸の……あっ!」さあっと、光子の頬に朱がさした。逆バージョンというのは、つまり当麻が光子の胸に顔をくっつけるということだ。からかわれたと悟って、光子は口をとがらせる。「当麻さんのエッチ」「なんで?」「だって……そうじゃありませんの」「わかんねえなー。付き合ってるなら、彼女を抱きしめるのと逆に、彼女に抱きしめてもらうのだってアリだと思うけど。それが駄目なことなのか?」からかうようにそう言いながら、当麻はちょっとあやういものも感じていた。だって、光子の体は、とても二学年下の女の子と思えないくらい、成熟している。今だって当麻の体に押し当てられたたわわなその感触は、ちょっと意識を集中させるとヤバい感じなのだ。「当麻さんとそういうことをするのが嫌だなんて、言っていませんわ」「そうなのか?」「ええ。当麻さんが変なことを仰ってからかうのが悪いだけで……」「じゃあしてもらおうかな」「えっ?」素直な光子は、誘導が楽だった。つい意地悪をしてしまうのはそのせいだろうか。「で、でもっ。心の準備が」胸の話でからかってからそんなことを要求するなんて、当麻はひどいと思う。抗議を含んだ表情で当麻を見上げると、優しく笑い返されてしまった。「光子は本当に可愛いな」「こんなタイミングで言われても喜べませんわ。せっかくこうしてるのに、当麻さんたら私をからかって」「拗ねるなって」「知りません」光子がそう言って俯いた。もちろん本気で怒っているわけじゃないのはわかっているが。抱きしめたまま髪を撫でる。流れて頬にかかった光子の髪はいつもと変わらず、ほつれひとつなかった。「光子」「……」返事はなく、ぐいと光子はもたれかかった体をより強く預けることで答えを返した。「顔、見せてくれよ」「嫌ですわ。きっとまた、からかわれますもの」「しないって」「本当に?」「ほんとにしないよ。光子に嫌われたくないし」「嫌いになったりは、しませんけれど」わずかに笑って、光子が当麻を見上げた。「光子は、綺麗だよな」「もう、おからかいにならないでって言ったばかりなのに」「本心からそう思ってるんだって。光子は、めちゃくちゃ可愛いよ」「……あ」当麻と、視線が重なり合う。今までで一番近い距離だ。息遣いがダイレクトに聞こえるほどの接近。だから、二人とも、相手が息をのんだことがすぐに分かった。「とうま、さん」「光子」「っ!」真剣味を帯びた呼びかけに、光子は何も言えなくなった。二人きりの個室に、沈黙が響き渡る。目線を外すことができない数秒が、光子には何倍にも長く感じられた。「光子……」当麻の瞳が、強く当麻の気持ちを物語っている。その意思に抗おうとしない自分がいるのを、光子は自覚していた。唇を、誰かに捧げたことはない。そして、今この瞬間がそうなのだとは考えていなかったけれど、いつかは当麻に貰ってほしいと、そう思っていたのは紛れもなく事実だった。心臓が、苦しいくらいに鼓動を早める。当麻が、何かを言おうとした。その時だった。パタパタと、ナースのサンダルが足早な音を立てて近づいてくるのが聞こえた。ぱっと寄りかかっていた体をベッドに引き戻す。光子が慌てて着ていたパジャマの襟を直したり、髪を手櫛で直したりするのを情けなく見守りながら、当麻はがっかりした気分でいっぱいだった。もちろんそれは、光子も同じだったけれど。ほどなくサンダルの足音がやみ、コンコンというノックの音が部屋に響いた。「どうぞ」「おはよう。婚后さん、そろそろ検査の……って、あら。お邪魔してごめんなさいね」「べ、別にお邪魔なんて」「そう? でも、彼氏さんと二人っきりなんだし、若いあなたたちなら普通よ。けど、時間切れね。検査が始まるから、そろそろ準備をしてくださいね。そのまま退院だから、服はもう外出用のにして、荷物もまとめておいてね。あとで預かるから」「わかりましたわ」数日もここで過ごしたからだろう、もうそれなりに親しくなったらしかった。よろしくねと一言残してさっさと出て行ったナースに、光子が恨めしい視線を送っていた。「あの、当麻さん」「わかってるって。ちょっと、もったいないことしたけど」「ええ……あの」「急ぐ必要ないもんな」「え?」当麻が再び身を寄せて、光子をもう一度抱きしめた。「今後、二人っきりになったら、光子にキスする」「……はい」「嫌じゃない?」「そんなわけ、ありません」正直に言うと、そうやって相手に体を許す行為は、結婚をしてからだと教えられてきた。別にそれが間違っているとまでは思わないが、キスくらい、光子だってしたかった。当麻に愛されたかった。「じゃあ、約束な。今日のところは、帰るよ」「はい。当麻さん、来てくださって、ありがとうございました」「光子の元気な顔が見れて俺もうれしかった。それじゃ」「はい」そう言って、当麻は立ち上がり、光子の部屋を後にした。去り際に交わした視線に後ろ髪をひかれながら、当麻は出口へと向かう。「さて、どこ行くか」休日の午前に、今日すべき重要な用事が終わってしまった。光子自身はもう回復したみたいだし、別に遊びに行こうが何をしようが、もう咎めるものはないのだが。スケジュールをあれこれ考えていると、後ろから声がかかった。「ん? 上条か。こんなところで何やってるじゃんよ」「黄泉川先生?」振り向くと、光子が霞むくらいのナイスバディを野暮ったいジャージに包んだ女性がそこにいた。当麻の学校で体育を受け持つ教諭だ。名前は黄泉川愛穂(よみかわあいほ)。恋愛対象としてみるにはいささか年上すぎるとはいえ、容姿は間違いなく美女の部類に入る。生徒からの人気も高く、また当麻自身も決して嫌いな相手ではないのだが、どっちかというと声をかけられると背筋を正してしまうような相手だった。なにせ黄泉川は警備員(アンチスキル)だ。能力という厄介なものを身に着けた学園都市の学生の素行を取り締まる、実動部隊のお姉さんなのである。最近は忙しいらしく、自分でクラスを持つことなく当麻のクラスの副担任を勤めているのだった。「怪我でもしたのか?」「あ、俺はなんともないです。知り合いが入院してるんで、その見舞いです」「うちの生徒か? 具合は?」「別の学校の生徒です。もう体調も良くて、今日退院です」「そうか。ま、元気ならよかったじゃんよ」そう呟いて、黄泉川は当麻の相手からは興味を失ったらしかった。心の中で当麻はほっと一息つく。まさか副担任に彼女を紹介、なんてのは勘弁してほしい。なにも付き合っている相手がいるというだけで怒られることはないろうが、小言を言われるのは確実だった。「先生はなんで病院に?」「ちょっと面倒な事件があってね。ここには顔も知識も広い優秀な医者がいるから、その人に相談にきたんだ」「じゃ警備員(アンチスキル)の仕事ですか。大変ですね」「好きでやってるんだ。文句はないじゃんよ」ニッと笑って黄泉川はそう返した。嫌な顔一つ見せず、週末まで働くその仕事っぷりには一般市民としては頭が下がる思いだった。「ところで上条」「はい?」「お前、レベルアッパーって知ってるか?」何気ない口調で、黄泉川はそんなことを当麻に尋ねた。思い当たる節はないので、首をかしげるしかない「なんですか、それ」「レベルを上げる薬、だそうだ」大真面目にそう告げる黄泉川に向かって、露骨にため息をつく。あまりにありがちで、ばかばかしい話だからだ。「違法な開発薬かスキルアウトの連中の興奮剤か、どうせそんなのでしょう。つーか、俺がそういうの知ってると思いました?」「……すまん。そういう意図じゃなかった。ちょっと最近問題になっててな」一般学生を不良扱いした形になったので、態度を改めて黄泉川が謝ってくれた。だが謝られるとそれはそれで居心地が悪い当麻だった。こちらから吹っかけたことはないが、当麻は暴力沙汰に巻き込まれたこともそれなりにある。「上条、お前はそういうのには手を出さなそうだって、見てわかってるけど。一応教師だからな。釘は刺しとくじゃんよ」「やりませんよ」光子という恋人を得てこんなにも人生を満喫しているというのに、どうしてそんな馬鹿なものに手を出すものか。そう心の中で一蹴したので、当麻は黄泉川が『レベルアッパー』なるものを単なるクスリにとどまらないものを感じていることに気が付かなかった。「それじゃあたしはもう行くよ。また週明けにな、上条」「はい。お疲れ様です」手を振って挨拶をした黄泉川に会釈を返し、当麻は病院を後にした。