作るのは時間が掛かるが、食べるのはあっという間。それが料理というものだ。見慣れた大食いシスターに加えて、遊びに来た二人も中々の健啖っぷりだった。普通に食べてもらえるくらいには好評だったことに男子高校生としてほっと胸をなでおろしつつ、当麻は空になった炊飯器と鍋を見下ろした。「ごちそうさまでした。当麻さん、洗いものは私がしますから、どうぞおくつろぎになって」「あの、なんだったらあたし達で」「そうですよ。何から何までしてもらって、その、申し訳ないですし……」「いいって」そう申し訳なさそうに言う二人を見て、いい子だな、と当麻は心の中で呟く。言っても詮のないことだが、一番食べた誰かさんは、満足げにぽんぽんとお腹を叩いているのだった。こっちを見てすらいない。「光子。さっき聞き忘れたけど、やりたいことがあってここに皆で集まったんだろ? やっぱりあんまり遅くなってからこの子達を帰すのはよくないし、すぐやったほうがいいんじゃないか?」「そうですわね。流石に日が落ちきるまでには終わらないでしょうけれど……」早めの晩御飯だったから、外はまだギリギリ、夕日が顔を覗かせている。中学生の帰宅時間としては、もうそろそろいい時間だった。「じゃあ、初春さん。ちょっと試してみましょうか」「あ、はいっ」緊張した面持ちで、初春は背筋を正した。カレーということもあってちょっと食べ過ぎたことを、いまさらながらに後悔する。光子は何をするのだろうかと探してみたら、当麻に「いいから」と言われ、髪を撫でて貰っているところだった。たぶん、食事の後片付けを当麻にさせたくなくて言い募ったのに、優しくあしらわれてしまったのだろう。なんというか、お世話になる先輩なのに、可愛らしい。そして羨ましい。なにも当麻が特別好きなわけではないが、あんな風に彼氏に撫でられるシチュエーションなんて憧れに決まってる。「ごめんなさい初春さん。それで、これが話をしていた超省エネ計算機、というものなんですけれど」光子が手に差し出した端末を、佐天と初春は見つめた。当麻は奥の台所で洗い物を、インデックスはソファで時々こちらを見つつ、テレビにかじりついていた。「原理を先に説明したほうが良いでしょうね。初春さん、よく聞いて下さいな。分からないことがあればすぐ聞いて」「はい!」「超伝導材料くらいは分かるわね?」「それくらいは。電気抵抗がゼロの伝導体のことですよね? 車輪が浮いてるバイクとかに使われてる……」「そうですわ」普通の導電性の物質、例えば銅線のようなものは必ず電気抵抗を持っており、電気を通すと発熱し、エネルギーのロスが起こる。だがある温度を境として、それより低温では電気抵抗がゼロになる物質というのがある。それが超電導物質だ。抵抗がゼロというのはまさに夢のような性質だが、ネックとなるのは温度で、たいていの物質はマイナス200度以下の超低温でしかこの性質を示さない。学園都市の外の世界では未だ、液体窒素で冷やさないと超伝導状態にならない材料しか存在しないが、この街では既に、室温で超伝導となる物質が存在しているのだった。その応用例の一つが超伝導リニアバイクと言うヤツで、なんとバイクの車輪がシャフトと物理的に接触しておらず、磁気で車輪がホールドされているという代物だった。「とにかく端末からの発熱を減らしたい、という一心で作成された端末だそうですわ。単純に電気が通るだけの部分は全部超伝導材料で構築して、演算に必要な半導体も論理反転に必要な仕事を極限まで減らしたそうですわ。私はどちらかと言うとエンジニア寄りな嗜好を持っていますからつい面白くて話を聞いたんですけれど、値段を聞けばこれが酔狂の産物だということが良く分かりました」誰も求めていないレベルにまで無駄を削った、超高性能コンピュータ。それも計算が速いとか軽いとかではなく、エネルギーのロスが少ない方向の改良だ。はっきり言って、学園都市製の普通のパソコンでもエネルギーロスなんてあってないようなレベルなので、この努力は「売る努力」としては全く無駄と言い切っていい。「製作チームの自慢、というか自己満足は、理論限界とほぼ同程度のオーダーまで発熱が減っていることだそうですの」「理論限界、ですか?」「ええ。計算機は計算をすれば必ず、ある一定以上の発熱を伴います。能力を使わない限り、この理論上の下限を下回ることは出来ません。……まあ厳密に言うとそんなことはありませんけれど、良くある古典的な例については事実です。ここまではよろしい?」「えっと、その理論上の下限っていうのがどうしてあるか、よくわからないんですけど……すみません」「謝らなくていいんですのよ、初春さん」光子が労わるようにそう微笑む。だって、パソコンが熱を出すなんて、当たり前のことだ。熱のロスを減らし続けてもどこかで限界が来るなんて聞かされても、現実のパソコンはその限界よりもずっと多くの熱をロスしているのだから、あんまり現実味のない話なのだ。「結局はマクスウェルの悪魔の話なんですけれど、具体例で説明したほうが早いわね。初春さん、ちょっとその端末でプログラムを組んでくださる?」「はい。どんなのですか?」「別に何でもいいんですけれど……そうね。メモリの端から順に、数字の1、2、3と値を書き込んでいくプログラムを組んでくださいな」「え?」それはつまり、ただの数字の羅列でメモリを埋めてしまうだけのゴミみたいなプログラムだ。「そして最後に、確認のインターフェイスを出してから、メモリを全部解放する様に組んで頂戴。初春さんなら簡単ですわよね?」「はあ……それはもちろん、すぐに出来ますけど」困惑顔で、初春はさっさとプログラムを組む。どうってことのない繰り返し文が一つと、最後にメモリ解放の指示を出すだけの、ほんの20行のプログラム。実行して0.001秒もあればプログラムは手続きを全て終えるだろう。流れるような手つきで初春はコードを打ち込む。そちらの作業も、15秒くらいしかかからなかった。「できました」「え、もう? なんていうか、初春のそういうスキルはほんとに別格だよね」「まったくですわね」光子とて、こんな初歩的なプログラムくらいなら問題なく書ける。ただそのための時間は、たぶん3分くらいかかるだろう。「それで、これで何がわかるんですか?」「今から説明しますわ。初春さん、このメモリに蓄えられたデータは一体いくらでしょうか?」「えっと……メモリいっぱいいっぱいの数字なので、1テラバイトらしいです」このサイズの端末なら、普通くらいのメモリ容量だろう。むしろ小さいくらいだろうか。「1テラバイトということは……1兆ビット強ですわね。室温を27度、つまり300ケルビンとすると、このメモリに蓄えられた情報をエネルギーに換算すると一体何ジュールになるでしょう? 初春さん、計算式はご存知?」「こないだ言われて、勉強したんで大丈夫です。だいたい25ナノジュールくらいです」「……ええと、たぶん正解ですわね。さて初春さん、もう一度聞きますわ。このプログラムの演算に必要な最低限の発熱量って、どんな値だと思います?」ニコリと笑って光子が問いかけた。これほどにエネルギーと情報の話をしてからの質問だ。その意図は、もちろん初春にも簡単に察せるものだった。ただ、そのあまりにあっけない事実に呆れた以外は。「え? もしかして、このエネルギーが下限値ですか?」「ええ、そうですわよ」メモリに情報を書き込み、それを解放し、忘れる。そのために必要な最低限のエネルギーは、メモリから失われた情報量そのものだ。「なんていうか、ほとんどゼロみたいな熱量ですよね」「そうですわね。たかだか1テラバイト程度の情報量では、現実世界に影響はほとんどないということですわね」1グラムの水の温度を1度上げるのに、大体4ジュール必要なのだ。25ナノジュールというエネルギーはその1億分の1くらいの小ささでしかない。「さて初春さん。本題に入りましょう。準備はよろしい?」「はい」初春が、改めて背を伸ばし、表情を引き締めた。その態度に満足げに微笑んで、光子は言葉を続ける。「コントロールに難ありの初春さんの能力で、こんな微小な発熱を感知することは可能?」「無理です」「そうね。ということはつまり、『定温保存』を発動させながらこのプログラムを実行し熱を生むことは、きっと可能なはずですわね?」「そう、なりますね」初春が検知できるより小さな熱の発生を、初春は止める術がない。「では、それを実際に試してみましょうか」「え?」気負いなくそう告げた光子に、初春は困惑を返すほかなかった。『定温保存』を使ったって、きっとプログラムは走る。そして熱を出す。だけど、その熱は馬鹿馬鹿しいくらいに小さくて、自分には感知できない。だから結局、『定温保存』を使っていてもいなくても、同じ結果が出るだけだろう。そのはずなのに。「えっと、これを持ったままで能力を発動して、演算させてみればいいってことですよね?」「そのとおりですわ。簡単でしょう?」「はい。なんだか簡単すぎて、逆に変な感じがして」「そうかしら? 物理の実験なんて、シンプルなほどいいものだと思いますけれど」初春は、手にしたその端末に目を落とす。普通の端末よりいくらか重たくて、大きい。だがそんなに風変わりなものにも見えないのだ。だから、自分がいつもと違って、特別なことが出来るなんて思わない。……そんな期待を持ってしまえば、裏切られたときの落胆が、怖い。「初春」「佐天さん」励ますでもなく、佐天がこちらを見て微笑んでいた。笑みの中には、自分を応援していてくれるような、そんな色があるように思う。気を利かせてくれたのだろうか、あるいは見たい番組が終わっただけかもしれないが、インデックスがテレビを消した。たぶんそれに気付いてだと思うけれど、台所の当麻が水道のコックを閉じて、皿洗いを中断した。初春の集中を削ぐものをそうやって減らしてくれたのだろう。そんな、周りの変化に気付いてにわかに心が緊張しだす。「初春さん」「はい」「この導き方は、初春さんの本来の能力ともしかしたら違っているかもしれないし、もしかしたらピッタリかもしれません。開発官でもない私の思いつきですから、間違いはあるかもしれません。けれど」光子が言葉を切った。そして、噛んで含めるように、初春に最後の説明を聞かせる。「この端末は、情報処理と物理現象、それらが厳密には分けられなくなるようなシステムですわ。自分が一体何を操り、変容させる能力者なのか、自分だけの現実を良く見据えて、このシステムを『定温保存』して御覧なさい」その言葉に、初春はコクリと一つ、頷いた。光子のくれたヒントを、自分に染み込ませるように。そして手にした端末に意識を集中させた。プログラムはもう最後の一ステップまでは終わっていて、あとは、「メモリ消去?」と書かれたメッセージボックスにYESのコマンドを返せば、それでメモリは解放される状態になっている。0と1が書き込まれた半導体はその情報を忘却し、それはすなわち、エントロピーの増加と、発熱という物理的な変化を世界にもたらす。それは別に、特別な出来事ではない。この現象は、見方によれば、電気を通して機械に仕事をさせたから熱が出るという、それだけのことなのだ。それをわざわざ、エントロピーだと情報だのと難しい言葉を使って、再解釈しているに過ぎない。だけど、それは徒に難解な言葉を振り回しているわけではないのだと、「世界の見方」をどのように選ぶかはとても大事なことなのだと、薄々初春は悟り始めていた。多くの人と同じように、普通なやり方で世界を捉えることは、別に大事でもなんでもない。能力者を能力者たらしめるのは、他の誰とも違う自分だけのヴィジョン、「世界の見つめ方」なのだ。「……」よし、と心の中で呟いて、初春は『定温保存』を発動した。見た目に、何も変化はない。佐天以上に地味なのが自分の能力なのだ。そして地味だからという理由以外にだって、自分の能力が嫌いな理由ならいくらでもある。その一番が、その二つ名に反する、能力の不完全さだった。『定温保存』の境界面、そこで初春はエネルギーの出入りをコントロールしている。だけど、その制御は大雑把で、本当は中身を『定温』に『保存』することなんて、できやしない。感じ取れるより小さいレベルで少しずつ熱は漏れ出していく。それが低能力者、初春飾利の限界だった。光子は、集中し始めた初春から視線を外し、台所のほうをそっと見た。洗いものを中断した当麻が、そっとこちらを見守っていた。その気遣いに、そっと目で礼を言う。帰ってきたのは、優しげな想い人の微笑だった。隣でそういう仕草に気付いて、羨ましいなあと佐天は心の中でため息をつくのだった。とはいえ今は初春が頑張っているのだ。そう思いなおし、佐天はすぐに視線を初春に戻す。「……どうしたの?」「な、なんでもないです」初春の顔に困惑のようなものがにじみ出ているのに、佐天は気付いた。理由は突然にスランプに陥ったためだった。これまで使えたはずの、あのちっぽけな能力すら発動しない。理由はたぶん、分かっている。いつも自分がやっていることと似ているようで違うことをやろうとしたから。例えばバスルームで体を洗うとき、普段は意識なんかしなくてもできているのに、いつもとは違う手順で洗おうと意識した瞬間、元の洗う手順すら分からなくなって、混乱してしまった感じに似ている。体なら適当に洗ったって構わないけれど、能力はもっとデリケートだ。「初春さんが今手にしているのは、演算機です。そうですわね?」「……え?」光子が、気がつけば斜め後ろくらいに立っていた。戸惑いを隠せずにいると、そっと背中に手を触れられた。しばしの沈黙。それは光子の逡巡だった。自分は初春の能力になんて責任を持てない。彼女の「自分だけの現実」をいたずらに歪め、かき回すだけかもしれない。初春という素直な子の女の子に、害しかもたらさない可能性だってある。だが、光子はそういった懸念に、そっと目を瞑った。それは正しい態度ではないと、もちろん分かっている。初春の開発官、きっとその人は大量のレベル0と1を抱える柵川中学の先生だろう。忙しいであろうその人に掛け合い、自分の考えを伝え、時間をかけて初春を導くことこそが、きっと王道だ。だけど光子は、それを待てなかった。能力が花開く「その時」というのがある。今この機を保留することがいいとは、限らないのだ。だから。善意で、悪魔の言葉を、光子は初春に囁いた。「貴女が手にしているそれは、『物理』ではありません」「どういう、ことですか」「その計算機からは演算以外の余計な熱なんてほとんど出ません。だから、初春さん、貴女はその端末の中にあるものは、唯の情報だと思えばいいんですのよ。貴女なら、その端末が、一体どんな処理をしているかなんて、全てわかるでしょう?」無茶苦茶だ、と初春は思った。だって、自分が握っているのは間違いなく物理的な「もの」だ。絶縁体、半導体、超電導体、それらで出来ていて、電子が流れている、間違いなく「機械」なのだ。情報処理をしているからといって、自分の『定温保存』とそれは、関係ない。そのはずなのだ。その苦悩を感じ取って、光子もまた、苦しい思いだった。佐天の能力なら、もっと見通せたのに。佐天の「自分だけの現実」がいかにオリジナルであろうと、共感できないまでに、かけ離れてはいなかったのに。初春の底を、光子は見通せない。ゴールはあっちだなんて指し示しておきながら、自分は初春の手を引いて暗闇に飛び込むことは出来ない。「初春さんがYESのコマンドを返せば、メモリは解放されます。私たちはメモリの中身を今は既に知っていますが、それが、失われますのよ。情報の喪失。そしてそれは放熱という形で、世界のエントロピーを増大させます。それで、よろしいの?」よろしいも何も、それはごく自然なことじゃないかと、初春は思った。それが自然現象なのだから。光子が自分にどうさせたいのかが、分からない。心の中に、さざなみのように苛立ちが広がっていく。何も出来ない自分に、あるいは自分の行き先をうまく照らし出してくれない光子に。そして、隣で見つめる佐天への嫉妬や劣等感もあった。同じように導いてもらっているのに、自分は何も出来ないような気がする。佐天のように才能がないからだろうか。光子との相性が悪いからだろうか。「初春」「大丈夫です」硬い声で心配してくれた佐天に声を返す。その自分の返事に、初春はドキリとした。あまりに余裕のないその響きに。ふう、と息をつく。焦ったって何も手に入らない。分かりきったことだった。まず一つ、押さえておかなければならないのは、光子のアドバイスには限界があると言うことだ。佐天のように、手取り足取りは教えてもらえない。当然だ。光子の能力は『空力使い』なのだから。だから、先を見通すのは、自分でやらないといけないことだ。自分で、「自分だけの現実」とはどんなものなのか、そのシステムの全体像を理解しないといけない。「……直交座標系<カーテシアン>で世界を捉えなきゃいけない理由なんて、ないんですよね」「え? ええ。それはそうですわね」唐突な呟きに、光子は戸惑った。初春の言っていることはあまりに基本的すぎた。物体の位置を把握するのに、直交する三つのベクトルを用いる必要はない。X軸とY軸が直角にならないような座標系で捉えたって構わない。他にも円筒座標系や球座標系でもいいし、そもそもそういう現実の空間をフーリエ変換した座標系で捉えたっていい。それらは、演算の些細なテクニックでしかないのだから。だから、初春の言い出したことの意図が、分からない。「世界を、多角的に捉え、機構を推測する――」初春は、そう口にした。別に誰かに言って聞かせたかったからではない。よくよく考えれば、それは自分の「得意技」なのだ。『守護神<ゲートキーパー>』と、学園都市のハッカーに囁かれるまでに達しているその情報処理技術の根幹にある、初春の技能。なんらかのシステムを花に見立て、さまざまな角度から捉え直し、その全体像を把握する方法論。その技術を磨いてきた相手は、誰かの創ったハッキングプログラムだとか、そういうものばかりだった。今、初春はそれを『世界』に適用する。――――見通せ、見通せ、見通せ!あらゆる角度から、『世界』を見つめなおす。子供の頃から、自分の五感を使って培ってきた世界観。世界には光があり、音があり、匂いがあり、そしてどうしようもなく、「もの」で出来ている。そんな現実観を一度、初春は捨てる。五感なんて信じない。だから空間座標だとか、そんなものは本当にはないと決め付ける。それは計算上の都合だ。質量があるなんてのも、光があるなんてのも、全部嘘だ。なぜそんな不確かなものを、自分は信じる?目がなければ、耳や鼻や、皮膚がなければ感じ取りさえ出来ないものが「ある」なんて。本当の本当にあると信じられるものは、自分の『理性』だけ、それだけなんだ。初春は、目を瞑った。その意図をうかがう周囲の人間を、忘却する。そこに人間なんていない。自分と同じ『心』を持った存在なんていない。そこにあるのは全て、物理現象だ。ニンゲンと自分が定義した、物理現象。否。物理現象という言葉もまた、ある一つの世界観に縛られた言葉だ。世界に本当に「ある」のは、きっと情報という言葉が最もそれらしいであろう、何かだ。――――そう思った瞬間、初春は「情報」という言葉が嫌いになった。そんな陳腐な言葉で、この実感は括れない。あまりにその言葉は使い古され、さまざまな意味を獲得し、手垢が付きすぎている。違うのに。この世界の根源にあるのは、それじゃないのに。もどかしい思いをしながら、言葉に出来ない何かを、初春は手繰り寄せられたような、わずかな手ごたえを感じていた。もう一度、手にした計算端末に目を落とす。さっきまでとは、それは別物のような気がした。物が変わったわけじゃない。初春の見方が、変わっただけだろう。メモリを構成する半導体の結晶格子にトラップされた、電子の揺らぎを感じる。そしてバンドギャップ上にディラックコーンを形成した質量ゼロの電子が、超伝導回路上を流れる音を感じる。あたかも、風に揺れ、地から命の源を吸い上げる花のように。そのヴィジョンは、単に計算機のシステムを植物という生態系のシステムに見立てたという、そんな陳腐なものではなかった。世界そのものを、たぶん自分は花になぞらえて捉えているのだろう。初春はそう感じていた。もちろん、全知でも全能でもない自分が、完全に世界を掌握などできはしない。だけど、それでも良かった。自分が新たに作った「世界の見方」を、初春は好ましく思っていた。「……行きます」「え?」「初春?」ぽかんとする二人の声を聞いて、初春は口の端で笑った。きっとこの結果を見れば、佐天はもっとぽかんとするだろう。――タン、とYESのコマンドを返す。1秒と掛からず、端末はその指示を実行する。すなわち、メモリにあった情報の忘却、世界へとエントロピーを吐き出すその命令を。「……できました」「あの、初春?」顔を上げると、さっぱり分からない顔をした佐天と目が合った。何が起こったのかを知ろうと、端末を覗き込んでくる。初春は心の中で笑いがこみ上げるのを抑え難く感じていた。佐天があの時、美琴の超電磁砲を喰って笑った理由がわかる気がした。「……プログラムは正常に実行されました、ってあるけど」「確かに実行はしていましたよ」「え? あの、初春。それに婚后さんも。あたし、何が起こったのか全然わかんないんですけど」「私も、結果の説明を聞くまではなんとも……」「ちょっと待っててください」初春は、新しくプログラムを書き、それを実行する。中身はさっき以上に簡単だった。今、メモリに格納されている値を、そのまま画面に吐き出すだけ。それを実行して、佐天に見せた。「……えと、これ消したはずのデータだよね?」「はい。プログラムはこのデータの消去を実行しました」「でも、消えてない?」「はい。私がこの『情報』を『保存』しましたから」気負わず、初春はあっさり言った。自信に満ちた笑みを浮かべた顔だった。それは、本来極めて重い価値を持っている言葉のはずだった。だって、初春飾利の能力は『定温保存』のはずなのだから。「ということは、初春さん」「……正解は分からないですよ」「え?」「こういうやり方でも、私は能力を発動できちゃいました。それだけです」「熱や温度の保存では、ありませんでしたのね?」「違います。だって、言ったじゃないですか。私には、25ナノジュールなんていう極小の熱を、保存できるような精度はないって」その熱量では、この端末の温度を0.000000000001℃、10ピコケルビンくらいしか上げられないのだ。初春の感知限界はたぶん0.1℃もない。というかこんな微小な温度変化を探れる温度計なんてそうそうない。極低温環境の制御装置だとか、そういうところにしかないだろう。「ですから精度って意味じゃちょっとすごかったのかも知れないです。けど、逆に規模で言うとレベル1も怪しいですよね、これ」だって、スプーン曲げなんかよりもずっとずっと地味な能力だった。鯛焼きの温度を保つよりも、くだらない能力だった。それを嘆くべきかはわからないけれど、事実として、そのことを初春は認識していた。「そうですわね。まあ、こういう形でレベルダウンするということはほとんどありませんから、レベル0に逆戻りはありませんわ。それで、初春さん」「はい」「今までの貴女の能力と、今発動したこの能力、別物というわけではないんでしょうけれど、結局、どちらがお好き?」その質問に答えるのを、初春は躊躇った。その隙に、佐天が初春の背中から抱きついた。「さ、佐天さん?」「うーいはる」咄嗟にスカートの心配をしたのだが、両手で自分を抱きしめているのだから、捲られる心配はない。「あたしは自分の能力が発動した瞬間、これしかないって思った」「え?」「直感って、たぶん大事だよ」初春が悩んでいることに、佐天は気付いたのだろう。手に入れてすぐの、真新しい演算方法。ほとんど新しい能力と呼んでもいいくらいに変容してしまったそれを、認めていいのか、自信がなかったのだ。だけど。「もう一度聞きますわね。本質そのものを捉えなおした、新方式の能力。初春さんは、これのことをどう思いますの」その質問に、初春は意を決して答える。「嬉しかったです。私の能力はこれなんじゃないかって、思えました。前から比べてさらにちっぽけで、大したことなかったんですけど」「そっか。なら初春。それがきっと、初春の能力なんだよ」佐天の言葉を聞いて、かちんと何かが嵌ったような感覚を、初春は覚えた。半信半疑だった何かを、初春が受け入れた音だったのかもしれない。情報量の保存。それを物理に反映した結果としての、定温保存。初春の心は、それが本当なのだと、納得し始めていた。「じゃあ能力名も変えちゃう? 『定温保存<サーマルハンド>』じゃ不正確ってことになるんだよね?」「しばらくはそれでいいですよ、佐天さん」「えー、なんで?」「今私が出来るのは、たぶんそれくらいがせいぜいですから。もっと伸びたら、また考えます」すぐさま変えるほどに自信がないと言うのも、理由の一つだった。今の自分の実感は、気の迷いかもしれない。「佐天さんこそ、そろそろ自分の能力名とか考えたらどうなんですか?」「え? いや、あたしは『空力使い』で充分だと思うんだけど」「でも普通の『空力使い』とは随分違いますよね? ほら、たまに婚后さんが言う『爆縮渦流<インプロージョン・ボルテクス>』とかどうですか? かっこいいじゃないですか」「ちょ、ちょっと止めてよ。まだレベル2なのにそんな名前つけたら恥ずかしいじゃん! って言うか、婚后さんは自分の能力に名前とかつけないんですか?」「100気圧越えの空気爆弾を作れる人が謙遜しなくても良いと思いますけれどね。私も考えたことがないといえば嘘になりますけれど、もう少し、考えてからにしようかなって思っていますの」トンデモ発射場なんていう不名誉な二つ名を払拭しようと考えたこともあったのだが、悔しいことに的を射た表現でもあるのだ。光子は、集めた気体をぶっ放すだけではない、幅の広さを身につけてからちゃんと名前を考えたいと思っているのだった。「ね、初春」「なんですか? 佐天さん」「どんな風に、初春の中で変わったの?」「え?」「能力の質を変えるってすごいことじゃんか。そういうの、どうやってやったんだろうって」「べ、別にそんな大した変化があったわけじゃ……」「そんなことないよ。それと、結構真剣に、知りたいんだ」疲れてソファに座り込んだ初春を佐天は案じてくれているようだったが、目は確かに真剣だった。能力の開発は難しい。時に自分の能力の伸びが袋小路に迷い込んだとき、一旦バックしてからやり直すのは、とても心に負担が掛かることだ。それをやってのけた初春に、佐天は聞いてみたかったのだ。どうやって、それを成したのか。いずれ自分が行き詰ったときのために。その気持ちが伝わったのだろうか、初春は、一度も佐天に、いや、誰にも語ったことのなかったことを、教えてくれた。「花に見立てる、っていうことを。やり直したんです」「え?」「私の一番得意なことです。プログラムだとか、システムだとか。そういうものを花に見立てるんです。外界から活動の源を集めてくる根っこ、全体を支える幹や茎、そして集大成としての花。そういうシステムが持っている細かな役割を植物の機能になぞらえて把握して、全体像を理解していくんです。私の一番の得意技なんですけど、能力とは今まであまり噛みあってこなくて。だからさっき、もう一度、この世界を花になぞらえて、把握しようとしてみたんです。まあ、完璧には程遠かったですけど」初春はあまり自分の能力のことを他人に話すのが好きではなかった。底が知れる不安もあるし、あるいは陳腐だと思われるかもしれないからだ。だけど、周囲の反応はそんな感じじゃなかった。「すごい! 初春なにそれ、すっごくかっこいいじゃん!」「え?」原点に戻る、か。確かに有効そうだ。ベタベタなのかもしれないけど、それは王道だからベタなのだ。自分にとっての回帰点はどこだろう。それは佐天にはまだよく分からない。確固たる物は自分にはない気もした。それにカッコイイ点は、もう一つ。「生花をあしらったカチューシャってのがさ、名前にも、自分の原点にもかけてあるってのがすっごいかっこいいじゃん!」似合いすぎていると思う。管理は大変だろうに、枯らしたり元気ない花を飾ってあるのなんて、見た事がない。それだけきっと、その髪飾りが自分というものを表しているのだと、自負しているのだろう。「なんのことですか?」「えっ?」「えっ?」褒められた初春を含め、その場にいる誰もが首をかしげた。「それじゃ、失礼します。今日は有難うございました」「そんなに何度もお礼をするなんて無粋ですわ。それじゃあまた、何かありましたらお教えくださいな、初春さん」「はい」「佐天さんも、明日の朝に寝坊だけはされませんように」「えっ? アハハ、やだなあ、しませんよ」ちょっと痛いところを突かれた様な佐天の顔を見て、苦笑交じりに光子はため息をつく。まあ、光子も朝にそう強いほうではないので、気をつけなければならないのだが。「上条さんも、インデックスも、夜にお邪魔してすみません」「いいって。なんか光子がお姉さんぶってるトコみれて楽しかったし」「もう! 当麻さん!」「今度はゆっくりしていってね、るいこ、かざり。あと、当麻に襲われちゃだめだからね」「だーかーらお前は、洒落にならねーんだよその台詞は」「だって私は本当に心配してるんだもん」「しなくていい! つか、光子以外の子に手を出すわけないだろ」夜の帰り道は物騒というほどのことはないが、万が一ということはある。ちゃんと二人の寮の近くまでは、女の子だけで歩かせないほうがいい。そういう判断で、当麻が二人を送ることになっていた。内心、家に残されるインデックスと光子にはちょっと面白くないところはあるのだった。「その言葉が本当だったらどれだけよろしかったことか……」「ちょ、光子まで。俺のこと疑うのかよ」「だって。当麻さんったら何度も何度も。……まあ、裏切られるなんて心配を、しているわけではありませんから。お願いですから当麻さん。あとお二人も。アクシデントにはお気をつけて」「えっと、はい。あの、別に二人でも帰れますよ? 場所も分かりますから」「この時間に女子中学生だけで返すのはアウト。ビリビリくらいに実力があるんならまあ、別かもしれないけど。……いてっ!」二の腕を光子につねられた。責めるようにインデックスにも睨まれていた。たぶんインデックスは、事情を知らずに光子が怒っているからという理由で怒っている。「そういうアクシデントにも絶対に遭わないで」「別に御坂のヤツに会うわけないだろ。常盤台の寮と全然場所違うし」「どうして知っていますの?」「どうしてって。前に光子が住んでる場所が気になって……」「私はそちらの寮には住んでおりませんでした!」「いや、そんなの調べる前にはわかんねえって」別にもう美琴に含むところはないが、それでも妬き餅を焼くなと言われても無理なのが光子だった。「ほ、ほら。遅くなっちゃ良くないし、さっさと行ってくる。ごめんな、二人とも」「いえいえ。なんか婚后さんの痴話喧嘩を見るのってちょっと楽しくなってきましたし」「佐天さん! もう、からかわないで」「ごめんなさい。それじゃ婚后さん、また明日」「ええ。頑張ってね、佐天さん」一瞬だけ、師弟の顔で、言葉を交わす。レベルアップを疑わない顔の師と、気負いを見せない顔の弟子。そういう緊張感のあるやり取りが、佐天には嬉しかった。二人の愛の巣、もとい黄泉川家の玄関をくぐり、佐天と初春、そして当麻は熱気の篭もる夏の夜へと歩き出した。見送りが見えなくなるところでもう一度、インデックスと光子に手を振り、三人はマンションの建物から外に出る。「あちーな」「ですねー。ところであの、上条さん」「ん?」佐天は、光子の恋人に素朴な質問をぶつける。「またこの家に戻ってくるようなこと、さっき言ってましたよね」「ですよね」初春も横で相槌を打った。どうやら、相当気になっているらしかった。「ああ、そうだけど。それがどうかしたか?」「それってやっぱり、お泊りなんですか?」「もも、もしかして、黄泉川先生が残業で午前様とか、下手したら徹夜して帰ってこないとか」「……あー」興味津々な二人の、その視線の理由を当麻はようやく理解した。つまり、二人は当麻が光子と一緒の家に、黄泉川抜きで泊まるのかどうかが気になっているのだった。「惚気でわるいけどさ」「はい」「このまま俺が自分の家に戻ったら、光子が不安になるだろ。俺がそのまま佐天さんと初春さんと一緒にどっか行っちゃったことになるわけだから」「え?」「いやもちろん、バカな話なのは分かってるけど。でも光子を不安にさせたくないから、一回光子のところに帰るんだ。それだけだよ。黄泉川先生は帰ってこなかったことは今のところないし、そうならたぶん俺の携帯にメール来るから」二人に見せるように携帯をチェックすると、黄泉川からそろそろ帰る旨の連絡が入っていた。「えっと、もし帰らなかったら、婚后さんが、上条さんがあたし達と遊んでるかもって不安になるってことですか?」「そ。もちろんそこまで光子が疑い深いわけじゃないし、光子が悪いんじゃないけどさ。でも彼氏なら、出来る限りは疑わせるような、しんどくなるようなことはさせたくないし」つまり当麻は、そういう些細なことのために、わざわざまた黄泉川家に戻るらしい。「いいなぁ」「へ?」そう漏らした初春と、同意するように頷く佐天に当麻は戸惑った。「あたしも上条さんみたいな彼氏さん、欲しいなって思い始めました!」「え? お、おう。頑張れ、佐天さん」だってそんな風に自分を大切にしてくれる人がいるって、羨ましい。……まあ、当てがこれっぽっちもないのが問題だが。「これはまたちゃんと、お二人の馴れ初めを聞いて勉強しないといけませんね」「やめてくれ……。光子、そういうの隠せるタイプじゃないの知ってるだろ」「だから聞くんじゃないですかー」「やめてくれって。こりゃ次に佐天さんと会うのは怖いな」苦笑いの当麻と、ニヤニヤ笑いの佐天の視線が交錯した。「初春さん、疲れてるか?」「えっ? いえ、大丈夫です。ちょっと考え込んじゃってただけで」「そっか、ならいいんだけど。やっぱ能力が伸びた瞬間ってそうなっちまうのかね」その言葉で思い出す。たしか上条当麻のレベルは、ゼロだ。ただ。「上条さんの能力のこと、たまに婚后さんが不思議なことを言うんですけど」「ん?」「あの、嫌なこと言ったらすみません」「いや、いいよ。というか大体どういうことかは分かるし」別に気にするほどのことでもない。だから、当麻は佐天に続きを促した。「上条さんはレベル0なのに、そんなはずはない能力を持ってるって」「どうなんだろうな? 生まれてこの方、変な右手とずっと付き合ってるだけだ」「生まれて……? え?」「上条さんって、もしかして『原石』なんですか?!」驚いた顔で、初春がそう尋ねた。「初春、原石って何?」「ネットの深いところを見てると時々見つかる単語です。生まれながらにして、超能力を持っている人のことみたいです」「そういや光子もそういう呼び名があるって言ってたっけ」きっと姫神秋沙も、その一人なのだろう。今更ながらに自分と姫神が似ていることに当麻は気付いた。「たぶん、俺はその原石ってヤツなんだろうな」「そうなんですか?」「学園都市の測定機器は、小さい頃からずーっと俺のレベルを0って判定してる。ただまあ、俺の右手、結構変わり者でさ」気負いなく上条はそんな話をする。別に、誰にも隠したことはない。クラスメイトならだいたい知っている話だ。「佐天さん。ためしに渦、作ってみてくれよ」「え? はい」キュッと音がして、佐天の手のひらに空気が集まった。「初春さん、俺の後ろに回ってくれ」「はい」「で、佐天さんはその渦、こっちに投げてくれ」「え? でもこれ、当たったら結構痛いくらいの威力になってますよ?」「大丈夫。当たらないから」「あの、当たらないって……」「投げてみたら分かるって」自信があると言うか、まったく気負わない風の上条の態度を見て、佐天は決心する。まあ、当たったところで大怪我はしないだろうし。そう思いながら、佐天は当麻の体の数十センチ前に向けて、渦を放り投げた。当然それを解放すれば爆発し、当麻に尻餅くらいはつかせるだろう。そう思って、心の中でカチリとトリガーを引く。それに合わせたのだろうか、ごく自然に当麻が右手を突き出した。――瞬間、三人の周囲に暴風が吹き荒れる。バン、と急激な密度差に空気が軋む音がする。だというのに。「……えっ?」声を上げたのは、佐天だった。そしてその戸惑いの声で、初春も異常に気付く。上条の背で遮られているからとはいえ、余りにも自分に風が吹いて来なかった。「なんで、あれ?」砂埃で、視覚的に確認する。佐天の渦は同心円状に砂埃を巻き上げているのに、当麻のいる辺りから後ろには、それがまったく届いていなかった。まるで、当麻が爆風を打ち消してしまったかのように。「一体どうやって……」「こういう『異能』を無力化するのが、俺の右手なんだよ」ニギニギと右手を動かして当麻は佐天に見せた。誰がどう見ても、何の変哲もない右手だった。「え、え、それってもしかして」「上条さん! あの、先月の中ごろ、セブンスミストっていう洋服屋さんに行きませんでしたか?!」佐天が聞こうとしたのは「どんな能力も打ち消す能力を持つ男」の都市伝説の話だったのだが、初春に遮られてしまった。「セブンスミスト? 行った覚えはあるな」「そこで事件に巻き込まれませんでしたか?」「ああ、そういえば」ふと思い出した些細な事件、といった風に上条が相槌を打つ。とてもそんな言葉では済まされない、風紀委員<ジャッジメント>の中では大事件だったはずなのだが。「私と小さい女の子と、御坂さんを助けてくれたのって」「あー、あれ初春さんだったのか。そういや風紀委員なんだもんな」「やっぱり……!」今、当麻は不自然なくらいに自分の周りから超常現象を消し去ってしまった。その光景は、あの時に見た爆破後の痕跡と良く似ていた。セブンスミストで遭遇した、『量子変速<シンクロトロン>』の能力者による爆破テロ事件。やがて幻想御手<レベルアッパー>事件の一端であることが分かり、ここから事態は急展開したのだった。爆破跡を見た白井が「あれはお姉さまがやったのとは違う気がしますの」と呟いていたが、その理由がこれで説明が付いた。「あの時は、有難うございました」「いや、別に右手突き出しただけだしな。別にいいって」「でもおかげでみんな怪我しなかったわけですし」「御坂のヤツが何とかしてたんじゃないかって気もするけどな。まあ誰が助けたとかは別にいいだろ。ああいう荒事にいつも立ち向かってる風紀委員の初春さんのほうがすごいって」「私はおつとめですから」「それでもすごいって。流石はあたしの初春だけあるね」「あたしの、って。どういう意味ですか佐天さん」茶化した佐天にため息を一つついて、初春は笑った。コトン、とやや荒い音を立てて、光子はマグカップをテーブルに置く。「当麻さん、もう帰り路についたかしら」「……五分に一回そういうことを言っても、まだまだなんだよ、みつこ」「べ、別にそれくらい分かっていますけれど」「それにとうまはなんだかんだ言って、ちゃんとみつこのこと大事にしてるし、すぐに帰ってくるよ」「勿論信じてはいますわよ」ただ、信じている思いとは別に、どうしても気になってしまうのが彼女というものなのだ。「今日の話、ちゃんとは分からなかったけど、超能力の開発の話をしてたんだよね?」「ええ、そうですわ」「かざりって変わった能力を持っている人なの?」「……ええ。たぶん」「そうなんだ」「興味がありましたの?」光子の能力に、インデックスが特に興味を示したことはなかったと思う。無関心というわけではないのだが、込み入った話はどうせ分からないからと、突っ込んできたことはないのだった。なのに、どういう風の吹き回しだろうか。「えっと、なんだか、世界とか、自分自身を花に例えるような話をしてたと思うんだけど」「ええ。初春さんはシステム、何か機能を持った集まりを植物、特に花に見立てるのが得意だそうですわ」それが能力とは無関係な、初春の得意技らしかった。無関係だったのはもしかしたら昨日までかもしれないが。「その概念は、どこか魔術みたいな感じがするんだよ」「え?」「世界樹とか生命の樹って、聞いたことない? 北欧には世界を貫く世界樹ユグドラシルの神話があるし、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を貫く旧約聖書には生命の樹、セフィロトがでてくるんだよ。セフィロトの樹は特にカバラ数秘術と絡めて、人としての位階を上げていくための神秘を構築してるし」そんな風にカバラを現代の知恵を用いて再解釈し昇華させたのは、『黄金の夜明け団』という魔術結社であり、20世紀最大にして最悪、そして災厄の魔術師、アレイスター・クロウリーがかつてそこに所属していた。……という話を脳裏に浮かべたが、どうせ光子は知らないだろうから、インデックスは口にしなかった。「……宗教の時間に、その樹の名前は聞いたことがあるような気がしますわね」国際的に活躍できる人であれという精神から、常盤台では宗教学もカリキュラムに入れられている。あまり興味はないけれど、耳に入れた覚えくらいは光子はあった。「でも、初春さんお得意のモデリング技術は、別に魔術というわけではありませんでしょう?」「それは当然そうだよ。だって、魔術と超能力は、同時に身につけることはできないんだもん。でも」そこでインデックスは、言葉を区切った。改めて、自分の脳裏にある、10万3000冊の知の宝庫に問いかけるように。「私も知らないんだよ。超能力と魔術、その本当の意味での境目が、どこにあるかなんて」ある科学者曰く。物質は神が創り賜うたが、界面は悪魔が作ったものである。境目というのはどんなものにでも、「あるのにない」ものなのだった。明かりで照らされた自分達の寮を背にして、初春と佐天は頭を下げる。「送ってもらっちゃってすみませんでした」「ありがとうございました」「いいって。それじゃ、またいつか」「はい。拗ねてる婚后さんに何をしたか、また明日聞いておきますね」「やめてくれよ」いたずらっぽく言う佐天に、当麻は苦笑しつつ踵を返す。それを見送って、二人は軽く息をついた。別に緊張する相手ではないけれど、やっぱり高校生の男の人と一緒というのは、気を使うところもある。「上条さんって、いい人だね」「そうですね。優しかったですし、婚后さんが好きになる理由も分かった気がします」同級生と比べて、格段に大人っぽいし、余裕がある。それに、もうひとつ、すごくかっこいいところを佐天は見つけていた。佐天の渦を完全に無効化してしまうような、そういう滅茶苦茶な能力の持ち主なのに、それを誇るようなところがなかった。それはまるで自分の一部だと言わんばかりだった。無能力者と低能力者の集まりだからか、やっぱり柵川中学の学生には、大した能力でもないのにそれを鼻にかけたような学生が結構いる。そうした嫌な同級生達とは、当麻はまるで違っていた。かっこいい、と思う。佐天の心にあるのは、そんな当麻と一緒にいたいというよりは、そんな風に自分もなりたいという、憧れに近かった。「……まだ数が足りないかな」「え?」「渦を作った数が、さ」一日に、せいぜい100個くらい。それをまだ一ヶ月くらいしか作っていない。だから、自分が作った渦なんてせいぜい数千個だろう。まだまだだ。食事、つまり自分が箸を使った回数だって、もう一万回は越えているのだ。それにすら及ばないようじゃ、息をするように能力を振るうなんて、到底できやしない。佐天はそう自戒しながら、流れるように、渦を作ってみた。初めの頃には真剣に頑張ってようやく作れたような規模の渦を、軽い一息で。佐天の振る舞いに気付いた初春は、同意するように微笑んだ。――だが、ふと、戸惑いにその笑みが崩れる。何かが、見えた気がした。「佐天さん」「どしたの?」「その渦、あんまり強くないですよね?」「え? そりゃ適当に作っただけだし……」気圧も2気圧とか、その程度だろう。特筆するようなことは何もない。だが、じっと初春がそれを見つめていた。初春の視線の先を手繰ってみると、たぶん、そこには渦の中心があった。初春には、空気の渦なんてものは、目に見えないはずなのに。「……あの、佐天さん。ちょっとそれ、貸してくれませんか?」「それ……ってこの渦? え?」「失敗したらすみません。でも、お願いです、すぐ渡して欲しいんです」「べ、別にそれはいいけど……」期待とも、予感とも付かない何かが、初春を急きたてる。見えるはずのない渦が、そこにあるのが分かる気がする。別に、空気の流れが見えているわけじゃない。分子の動きが分かるわけじゃない。だけど、そこには渦があるのが、分かるような気がするのだ。さざなみのような小さな変化を絶えず繰り返すカオスの海。初春の周りにある空気はそういうものだ。だけど佐天の手のひらの上には、明らかにそれとは違う何かが感じられる。佐天の意思というアトラクタに惹きつけられ、空気はある特有の運動のモードを持っているような、そんな感じがする。「はい、初春」「どうも」ぐるぐる巻く風の気配を、手の皮膚が伝える。もう知っていたことだけれど、それはやっぱり渦だった。初春は自分の心が直接に感じ取った気配を、五感で再認識した。だが、佐天から初春の手に渡る一瞬で渦は乱れ、大きく精度を落とす。ただそれでも渦はその巻きを捨ててはいなかった。そっと、初春は両手で包み込むようそれを手にする。一瞬後に、何が起きるだろう。示し合わせたわけでもなく、二人ともが同じ予想を共有していた。すなわち、直後に二人の目の前で起こった、結果それそのものを。「解けない……」佐天の手を離れた渦は、速やかにその密度が周りと同じになるまで、暴発して広がるものなのだ。だけど渦は、その自然な帰結に至らなかった。終わりを感じさせず、渦は初春の手の中でぐるぐると回り続けていた。「初春。これって――」「やっぱり、そうなんですよ」「え?」「私が保存してるの、温度だけじゃないんです」あっさりと、初春はそう告げた。事実を、佐天にと言うよりも、初春自身に言い聞かせているような感じがした。その結果は、さっき黄泉川家でやった実験の成果よりも、ずっと大きな意味があった。『定温保存』なんて名前を、明らかな間違いにするくらいの、能力の拡大。「自分だけの現実」の拡大だった。渦が遺失されれば、渦という風の特異点が持つ情報が損ねられ、世界のエントロピー増加を招いてしまう。自分はたぶん、それを禁じているのだ。だから渦は、消えない。「それが初春の、本質なんだね」「そうですね」自身の能力の深いところにまで手を触れられた初春を見て、佐天は感動にも似た何かを感じ、呟かずに入られなかった。それはたぶん、自分がそれを成し遂げたときの気持ちを、思い出したからに他ならなかった。初春は初春で、佐天には短い答えしか返さなかった。答えるのが億劫だったからだ。やがて渦をコントロールできなくなってしまう数分後まで、初春はただじっと、自らが『保存』した渦を眺め続けていた。*********************************************************************************************************あとがき初春のやった計算を一応詳しく書いておきます。ボルツマン定数 k = 1.38e-23 (1.38の10の-23乗)温度 T = 300 [K (ケルビン)]として、1ビットの情報が持つエネルギーEはE = kT ln2と書けます。メモリ容量が1テラバイト = 8,796,093,022,208(=約8兆8千万)ビットなので、これをEに掛けてやる事で、25ナノジュールという値が出てきます。『パウリの排他律』で著名なパウリ曰くGod made solids, but surfaces were the work of the Devil"固体は神の創りし物だが、界面は悪魔の産物である"だそうです。本編でこれを引用しています。ディラックコーンの下りは特に説明せずに話に出しましたが、これについてちょっと解説します。 21世紀に入り、革新的な超伝導物質があまり報告されなくなっていましたが、2008年、東京工業大学の細野教授らが鉄系超電導物質と呼ばれる、鉄を含んだ超電導物質を作った事でまったく新たなメカニズムに拠る超電導物質が誕生し、物理学の世界では大ニュースとなりました。古典的な超電導物質が超伝導性を示すメカニズムは、1972年にノーベル賞の対象となったBCS理論により「とりあえず」説明が付いていましたが、鉄系ではまるでこれでは説明が付きませんでした。そこで、なぜ、鉄系で超伝導が現れるのか、その理由を説明できるメカニズムの解明・提唱が望まれていました。 2010年、東北大学原子分子材料科学高等研究機構の高橋隆教授らの研究グループにより、鉄系超電導物質中において、「ディラックコーン」と呼ばれる質量がゼロの特異な電子状態が実現していることが確認され、これが超伝導性を示す原因であると示唆されました。本作中でのデイラックコーンの下りは、この研究成果をミーハーな気持ちで拾い上げて書かれています。どちらの成果もNatureやPhysical Review Lettersという超有名科学雑誌に載るような成果です。もし鉄系の超電導物質がブレイクスルーとなって、作中に出したような、室温で超伝導性を示す物質が作られるようなことがあったなら、細野教授はノーベル賞をとってもなんら不思議ではないでしょうね。ちなみに、こうした理系ネタを拾ってくるために、私は月に一回くらい、理化学研究所と科学技術振興機構のウェブサイトにあるプレスリリースにアクセスして読んでいます。学術振興会も時々見ますね。「なるほど、わからん」という内容がほとんどですが、キーワードをここで仕入れておくと、たまに別のところで知識を仕入れる機会があったりするので、役に立ちます。