部屋の窓辺で、朝日をいっぱいに浴びる。んーっと声をだしながら大きく伸びをして、佐天は一回目の決戦の日を迎えた。一回目、つまりシステムスキャンが今日だった。ここでレベルが上がらなければ、常盤台の受験資格は無いに等しい。とはいえ師匠の光子は太鼓判を押してくれているし、多分大丈夫だろう。本戦である常盤台の編入試験が正念場だが、まあまだ数日ある。暑くなったのでさっさと窓際から離れ、台所に向かった。寝起きの気分は悪くなかった。思ったよりもリラックスして眠れたのも大きい。出発までゆうに一時間半はある。何度か行った場所だから、道に不安もない。「これで調子に乗って優雅な朝ごはん作ると後で焦るかなー」日曜日だとかなら、ベーコンと目玉焼きとサラダ、そしてドリップコーヒーくらいを用意して、とても中学生の朝とは思えないような優雅な朝食だって食べたりする佐天だが、さすがに今日はそうもいくまい。結局はいつもどおりのトーストを用意した。「あ、初春もう起きてるんだ」携帯を確認すると、数分前に初春からメールが来ていた。返事をしなかったらきっと心配して起こしに来るだろうから、さっさと電話をしてしまう。「――もしもし」「おっはよー初春。頭のお花は元気してる?」「おはようございます、ってどんな挨拶ですか……。もう、こんな日でも佐天さんは元気なんですね」「あはは。でもちょっと緊張でハイになってるところはあるかも」「佐天さん、何時ぐらいに出発ですか?」「え? あと1時間ちょっとしたらかな」「わかりました。あの、そのときお見送りに行っていいですか?」「もっちろん! 初春はそのまま春上さんのところでしょ?」「はい」「あたしのぶんのお見舞いもよろしくね」「もちろんです! 春上さんと枝先さんと一緒にお祈りしてますから。それじゃ、そろそろ切りますね。佐天さん、また後で」「うん、また後で」出発前に余計な時間を取らせないためだろう、初春はさっと電話を切った。朝から初春に励ましてもらって、佐天は鼻歌交じりに朝食を済ませた。来ていく服は制服だ。中に着込むものも昨日のうちから全部用意してあるから、あとは袖を通すだけ。パジャマを脱ごうとして、佐天は手を止めた。そしてじっと手のひらを見つめる。トラブルなく、ごく自然に手のひらで渦が巻いた。一応それにホッとため息をつく。そして洗面所の扉を少しだけ開けて、隙間に渦を固定した。「2分あれば充分か」夏場の洗面所というのは、恐ろしい湿度と温度を誇る場所だ。鏡の前で身だしなみを整える女子にとって、その環境は最悪といっていい。普段なら髪を梳かすくらいだから面倒くさがって何もしないが、今日は晴れ舞台だ。鏡の前で時間をとっても汗をかかずに済むよう、人力エアコンで熱を取る気だった。威力を増した佐天の渦は、2分あれば洗面所をキンキンに冷やせる。なにせ設定温度10℃の風が扇風機の強モードくらいで吹き荒れるのだ。テレビの音声を聞くでもなしに聞きながら着替えを済ませ、心地よくひんやりと冷えた洗面所で丁寧に髪を梳き、お気に入りの髪留めできちんと留めた。寝癖だとか、あるいは肌荒れなんかはないかとひとしきり鏡を見てから、歯を磨いて準備を済ませた。鞄にはシステムスキャンの案内と筆箱が入っている。別にそれ以外に必要なものはなかった。余った時間を少しだけぼうっと過ごして、気負いなく、佐天は家を出た。「おはようございます、佐天さん」「おはよ。今日も初春は可愛いね」「もしかしてまだ昨日の、引っ張ってるんですか」階下へ降りると、日陰で初春が待っていた。ちょっと呆れ顔なのは、自分が褒めたからだろう。佐天としては、ポロっともれた本音なのだが。「男の人とお付き合いを考えようにも、常盤台って女子校ですよね?」「あのー初春。別にあたしはそんなつもりじゃなかったんだけどね。でも、別に常盤台でも彼氏さんは作れるでしょ。婚后さんは、そうなんだし」昨日、ここまで二人を送ってくれた当麻の顔を思い出す。多分あのあと、もう一度黄泉川家に戻って光子とイチャイチャしたのだろう。「――佐天さん」改まった声で、初春が佐天を呼んだ。見れば背筋もきちんと伸ばしていた。「初春」「応援してます! バッチリレベル3、取ってきてください」「うん! それじゃ、行ってきます」「はい、行ってらっしゃい」病院への道と、常盤台への道は交わらない。佐天は初春に背を向けて歩き出した。だけど、それは別れを意味するようなものには、感じられなかった。学校が同じになるとは限らないけれど、きっといつか、初春も自分と並ぶ日が来るような、そんな気がするから。いつもと変わらない道を歩き、常盤台を目指す。暑さだけはどうにもならず、額の汗をタオルで拭った。そして道すがらに、見知った公園を横切ったときだった。不意に、声をかけられた。「ルイコー。今から常盤台だって?」「あ、アケミ。おはよう」「おはよ」公園の日陰に、クラスメイトが立っていた。会いたいなら部屋を訪れたほうが確実だろうに。だけど、この場所を選んだアケミの気持ちが、分かってしまう。ここは、アケミや仲のいいクラスメイトを誘って、佐天が幻想御手<レベルアッパー>を使った場所だった。あの日の喜びを、苦い思い出と一緒に今でも覚えている。自分は彼女たちに負い目を作った側だ。幸いにして、誰も目を覚まさないようなことはなかったけれど。「調子どう?」「バッチリ」「そか。よかったな」アケミの、少しよそよそしい笑顔。昨日までは普段通り、ただの友達だったのに。もちろん理由はわかっているのだ。幻想御手<レベルアッパー>なんてものを使ったせいで、意識を喪失して病院に収容され、以降は先生や周囲の人間にもおかしな目で見られることだってあった。そんな代償のかわりに得たのは、一時の夢。あの日一日限りの、ちっぽけな能力だけだった。唯一、佐天を除いては。「ちょっとルイコの渦、見せてよ」「え?」アケミたちの前では、一度も誇示したことはなかった。そもそも、レベル0と1の集まりの柵川中学で、能力を実演する機会はほとんどない。だからアケミのお願いの意図が分からなくて、佐天は戸惑った。「……わかった」ふう、と呼吸を整えて、軽く手をかざした。佐天はもう駆け出しの能力者ではない。息をするように、あっさりと渦は集まり、手のひらの中で安定した。「出来たけど、見えないよね」「そっか。空力使いの能力って、見えないんだよね」「見せるのには向いてないね」苦笑いして、渦を木立の中に投げ込んだ。バン! という空気が膨張する音が聞こえ、大量の木の葉が舞い、枝で休んでいた鳥だちが一斉に飛び去った。その様子をアケミは驚いた顔で見つめ、何かを諦めるように笑った。「アンタはすごいわ、ルイコ」「……」アケミが立ち上がり、口ごもった佐天のもとに近寄った。そのまま、軽く抱きしめられる。「そんな顔しないでよ。ルイコだって自分がそんなキャラじゃないってわかってるでしょ」「……アケミはキャラにあってるね」「そ。このグループの姉御は私だかんね」いつも明るく振舞うくせに、割と小心者で、気にしすぎなタイプの佐天を分かっていて、きっとアケミはここにいてくれたのだ。だってこんな早朝に、こんな公園にいる理由なんてそれしかない。「ありがとね、アケミ」「ばか。水臭いって」「うん。じゃあ今度マコちんとむーちゃんに内緒でパフェおごったげる」「やった! マジで!? ルイコ、ちゃんと約束は守ってもらうからね。忘れないでよね」「忘れないって。あたし、義理堅い方だし」「うん。それは疑ってない。それじゃ頑張ってきなよ」「ありがと」「常盤台の制服着たルイコに、パフェおごってもらうの楽しみにしてるかんね。それじゃー私帰るわ。こんなとこにいたら溶けちゃうし」「うん。それじゃまたね、アケミ」さばさばと、普通に街で会った時と同じように。そんな風に別れてくれたアケミの優しさが、嬉しかった。昨日電話をしてくれたマコちんとむーちゃんの優しさも、ちゃんと佐天の胸に残っている。もう授かってしまった力なのだから、伸ばせるだけ、伸ばしていこう。それは、アケミ達を見捨てることとは意味が違うんだ。少しだけ軽くなった足取りで、佐天は決戦の舞台へと、再び足を向けた。常磐台の校門付近で、光子は扇子をパタパタとやりながら、気休め程度の涼をとる。そろそろシステムスキャンの受験生が集まってくる頃だろう。学内の生徒向けには夏休み開けに開催されることもあって、今日集まる受験生は大半が学外の生徒だった。もちろん全員女だ。そもそも学舎の園の中にある常盤台には、女子しかアクセスできない。「では婚后さん、私たちは学舎の園の入口に待機しますから」「ええ、よろしくお願いしますわね、湾内さん、泡浮さん」二人を微笑みながら見送り、光子はこっそりため息をついた。学生寮から出て暮らしているせいか、はたまた事件に巻き込まれて慎み深いとは言えない生活を送っているからか、光子は常盤台の生徒の中でも、どうやら目を付けられているほうだ。それを帳消しにさせようとでも言うかのごとく、光子はこういう雑用を押し付けられたのだった。本来は、こんなもの全て風紀委員の仕事だろうに。「全く、あなたがたの怠慢ではありませんの?」シュン、と特有の音をかすかに立てて近くに出現した生徒に、光子は嫌味をぶつける。暑さもあいまってか、その相手、白井黒子は露骨に嫌な顔をした。「学外の生徒の誘導なんて、指折り数えられる数しかいない我々風紀委員<ジャッジメント>だけでは人手が足りるわけありませんでしょう?」「そうかしら。人数だって百人もいませんのに」電撃使い<エレクトロマスター>や空力使い<エアロハンド>、発火能力者<パイロキネシスト>などのよくある能力を持った学生が、だいたいひとつの能力につき10人ずつ位やってくる。学舎の園から中の道のりなんてそう間違えようもないし、案内係なんて二人もいれば足りるだろう。学校内に入ってからの試験に関わる部分は当然常盤台の先生たちが担当するわけだから、学生の手なんて必要とされている部分はたかが知れていると思うのだが。「風紀委員の実態を知らない人の典型的な勘違いですわね。勝手の知らない場所で人がどれほど無茶をやらかすのか、風紀委員のトラブル対処マニュアルでもお見せしたいくらいですわね」うんざりしたようにため息をついて、白井がその場所を後にする、「ここから外はお任せしますわ。何かあれば、連絡をくださいまし」「ええ。つつがなく誘導を済ませられるようにしますわ」光子も、そしてもちろん白井もやらなければいけないことを蔑ろにはできない性格だった。だから仕事の部分だけはきっちりと意思の疎通を図り、すり合わせておいた。時間通りに学舎の園の門をくぐり、佐天は常盤台の校門前へとたどり着いた。目の前には、見知った顔。自分のためではなくて、受験者全員の応対を担当しているのは知っているけれど、それでも知り合いがいるのは嬉しかった。「おはようございます、婚后さん」「ごきげんよう、佐天さん。昨日は良く眠れまして?」「はい。自分でもびっくりですけど、バッチリでした」おや、と思いながら佐天は答えを返した。少し、光子の言葉に含みがあるように感じたからだ。――上条さんに迷惑かからないようにと思ってすぐメールしたんだけどな。光子の機嫌がわずかにナナメというか、そういう陰りを感じさせていた。もちろん佐天以外にはわからないだろうし、佐天だってどうこう思うほどではない。まあたぶん、帰ってから当麻と喧嘩でもしたのだろう。「上条さん、光子が待ってるから、なんて言って昨日はすぐ帰っちゃいましたよ」「……そう、ですの」「え?」いつもみたいに惚気けてもらったら機嫌も直るかなー、位のつもりで言ったのだが、逆効果らしかった。「どうかしたんですか、昨日」「別に、大したことではありませんけれど」「上条さん、帰ってこなかったとか?」「いえ、もちろん戻ってはこられましたけど、ずいぶん遅くて……」語尾を濁して光子が地面を見つめた。内心怒ってるんだろうなぁ、と感じさせる口ぶりだった。促すと、ちらほらと事情を語ってくれた。当麻が男友達の片付けを手伝わされたらしい。試験の当日に、校門前でする会話じゃないななんて思いながら、短い愚痴を佐天は聞き届けた。「婚后さんは心配しすぎですって」「まあ、そうなのは分かってはいますけれど」「こういうのってお付き合いしてると見えないかもしれなせんけど、上条さん、相当婚后さんのこと好きだと思いますよ」「そうかしら」「うちのお母さんもお父さんによく怒ってましたし、カップルって喧嘩するものじゃないですか」「……まあ、うちの両親でもそういうところはありましたわね」気軽に笑い飛ばす佐天を見て、だんだん気が楽になってくる光子だった。言われてみれば、そのとおりだ。遅れたのは怒っていいと思うけれど、心配するほどのことではないだろう。重たい嫉妬や心配で束縛するほうが、よっぽど当麻に嫌われそうだ。「ごめんなさい、佐天さん。こんなところで変な話をしてしまって」「つい昨日まで助けてくれたんですから、そのお礼です。それじゃあたし、そろそろ行きますね」「そうですわね。まだ時間に余裕はありますけれど、それがよろしいわ」すこし、光子のほほえみが柔らかくなったようだった。それに安堵して、佐天は教室を目指す。「佐天さん」後ろから、名前を呼ばれた。「どうしました、婚后さん?」「楽しんでらっしゃい」にっこりと、いつものおっとりとした笑顔で光子が微笑んだ。ニッと、自分も笑みを返す。「はい、楽しくやってきます」初春、マコちん、そして光子。そうした人々に、優しく送り出してもらった。とても幸せなことだと思う。半ば不正に、能力を伸ばし出した自分にとっては。気負わないようにと思いながらも、そうした応援を背負って試験に挑もうと、佐天は心に決めていた。今までとは違う特別な意味で、佐天は常盤台の敷地に足を踏み入れた。それが、佐天涙子の長い一日の、始まりだった。受験者がちょうど収まるくらいの大講義室に案内されると、しばらくして一日の簡単な流れの説明が始まった。普段と大して変わるわけでもない手続きの説明だが、常盤台にいるせいか、受験者みんなが真剣だった。「――ということで、今から口頭面接をして、その後、実技に移ります。実技の合間にお昼を挟みますから、昼食の用意が無い方は、学食を利用してくださいね」佐天は少し落ち着かない自分を自覚しながら、当たりを見渡す。何度かほかの学生と視線がぶつかって気まずくなった。目が合うということは、他のみんなもそわそわしているのかもしれない。佐天が座っているのは教壇から扇形に広がった座席の一つ、壁に近いところだ。名前を言うと座席を指定されたから、もしかしたらすぐ周りにいるのが、同じ系統の能力者なのだろうか。すぐ隣の学生と目が合うと、軽く笑って会釈をしてくれた。あわてて佐天も返す。「それでは、アナウンスはこれで終わりです。各自、案内があるまではここで待機していてください」担当らしき40代くらいの女性がそう言ってマイクを切った。同時に、名前を呼ばれた数人が出ていった。おそらくは、面接のためだろう。この面接というのは、レベルアップの合否を決めるためのものではなくて、今日一日、どんな試験をしていくかの相談に近い。佐天なら『空力使い』だから、きっとそれに沿った試験になる。だがもちろん、佐天の能力の他の誰とも違う側面を図るために、特別なプログラムが組まれるかもしれない。そういうところを詰めるのが、この面接だった。「それではまず、列の先頭の方からどうぞ」名前を呼ばれた数人が立ち上がり、講義室から出ていった。佐天の番まで、もう少し時間が掛かりそうだった。手持ち無沙汰な時間ができて、さあどうしようかと軽いため息をつく。また、隣の子と目があった。「待ち時間、長いと嫌ですね」おずおずと、間を埋めるように佐天に話しかけてきた。座っているからわかりにくいが、背は佐天とそう変わらないだろう。少し癖がついた黒髪が枝先をゆるくカールさせながら、頬の当たりまで伸びている。胸の感じは初春並みで、焦げ茶の四角縁の眼鏡が、理知的な印象を与える。「そうですね。でも、普段と違う学校で受けるスキャンだから、面接長いかもですよね」初対面の相手だし、年もわからないから佐天も敬語で返す。「あの、学年、おいくつなんですか?」「あたしは一年です。あ、名前は佐天です。お名前聞いてもいいですか?」名前を聞こうと思って、その前に名前を名乗る。おそらくは学年の方が理由で、ほっとしたのだろう。少し顔が緩んだ。「私も一年です。おんなじなんですね。私は綯足(なふたり)って言います。よろしくお願いします」「こちらこそ。あの、綯足さんって、空力使い<エアロハンド>か風力使い<エアロシューター>とかだったりしますか?」「えっ? いえ、違いますけれど……」綯足が眼鏡の奥の瞳を困惑に揺らした。同時に、佐天は予想が外れてちょっと恥ずかしくなる。もしかして、学年別で分けたんだっただろうか。「ごめんなさい、変なこと聞いちゃって。学生の並びが、能力ごとなのかなって思ったんですけど」「ああ、そういうこと。佐天さんは、気流系の能力者なん……ですか?」「えっと、うん。空力使い、かな」同学年だし、敬語は変だなと思って、佐天は苦笑混じりに綯足にほほえみかけた。意図をすぐ察したようで、いくらかリラックスした口調で返してくれた。「たぶん、佐天さんの予想は正しいと思う。私も流体系の能力ではあるから」「そうなんだ。じゃあ、水流系の能力者なの?」「うん、だいたいそうかな」おおっぴらに話したくないのか、綯足は曖昧に肯定した。別に直接対決することはないが、ここにいる学生たちは基本的に、この夏の編入試験を受けて常盤台を目指す学生ばかりだ。自分の能力のことをあけすけに喋るのは、あまり得策ではないだろう。「それにしても、人多いね。今日受けない人も本番の編入試験にはくるんだろうし、狭き門だよね」つい、当たり障りのない会話に話を持っていってしまう。だが佐天のそういう心境を綯足も分かっているらしかった。「これ受けないで常盤台を受験する人、ほとんど居ないみたいだよ」「え? そうなの?」「うん。十分受かる実力の人は四月から入学してる訳だし、ここにいるのは、能力が伸びてギリギリ常盤台に受かるかもって人たちだから。ってことは、選んでもらうためには自分の将来性をちゃんと見てもらわないといけない。審査の回数が少ない人のことってよくわからないから、受かる人はちゃんとシステムスキャンもここで受けてるんだって」「へえーっ、そうなんだ」そういうことを深く考えずに、単にレベル上げのために佐天はここに来ていたので、そういう受験テクというか、合格率を上げるための努力というものがあることに少し驚いていた。「だからまあ、上がる見込みはないんだけど、私も受けに来たんだよね」苦笑して、綯足は髪を軽く手で弄んだ。上がる見込みが無くても常盤台を受けるということは、レベル3以上なのは確実だ。「綯足さんって、レベルいくつなの?」「え? んと、4だけど」「4って」そりゃ上がるわけない、と佐天は心の中で突っ込んだ。上がったら見事『第八位』の出来上がりだ。そんな能力者が、常盤台に入らずこんな時期にくすぶってるなんてありえない。「佐天さんは?」「あたしは綯足さんと逆だねー。崖っぷちの2ですよ」「ってことは、今日レベルアップ確実?」「それはわかんないけど、上がらなかったらそこで試合終了だね」レベル2のままでは常盤台の受験資格自体がそもそもなくなってしまうのだ。だからタイミング的にはまさに崖っぷち。だが、レベル3なら余裕だと光子も言っていたし、実際その実感はあった。「嫌な風に受け取らないで欲しいんだけど、お互い、頑張ろうね」「だね。ポカだけはやらかさないように気をつけないとね。綯足さんも頑張って」「うん」頷きあったところで、ちょうど面接のタイミングがやってきたらしかった。「佐天涙子さん、綯足映花(なふたりえいか)さん、面接会場に移動してください」「はい」「わかりました」短時間で醸成された少しの連帯感を目配せで再確認しながら、二人は別々の部屋へと移動した。目の前にあるごく普通の引き戸を、佐天はノックする。何気なく配置されたそれは、一枚板の木材を切り出したものだ。普通の学校にありがちな合板などではない。ノックに答えて軽やかな音を引き戸が鳴らし、中にいる人がどうぞ、と返事をした。「失礼します」知らない人を相手に面接を受けるなんて、人生でも数えるほどにしか経験がない。それなりに緊張して、体が変に強ばっているのを自覚しながら、佐天は面接室に入室した。眼前に座っているのは、いかにも補佐らしき若い女性と、面接の相手であろう壮年の女性だった。振り返ってもう一度目礼すると、友好的なほほ笑みを浮かべて、二人は佐天に会釈をした。「こんにちは。お名前をフルネームで伺ってよろしいかしら?」「あ、はい。佐天涙子です」「学校は?」「柵川中学の一年です」「はい。よろしくね、佐天さん」「こちらこそ、その、よろしくお願いします、」柵川中学の先生たちより、ずっと理知的な印象がある先生だった。ブラウスにスーツというフォーマルなスタイルだからというのもあるだろうが、学園都市で五指に入る名門で教鞭を振るっている女性の、自信に裏付けられた微笑みに気圧されているのも否めない。「あなたが佐天さんね」「え?」「婚后さんからちょくちょく話を聞いていたわよ」目の前の女性は、名前を告げると同時に自らが婚后光子の開発官でもあることを告げた。だから緊張することはない、と冗談を交えながら佐天に話しかけてくれた。残念ながら佐天はあまりうまく返せなかったけれど。「大まかな話はもう聞いてあるわ。普通の空力使いとは駆動方式が違うのよね」「はい。流れを小さな空間に分割して、それぞれのセルの流れを解く方式じゃなくて、流れを仮想粒子の集団とみなして、粒子の運動を解く方式です」「いわゆる格子気体法の亜種なのかしら。どっちかって言うとDPD(散逸粒子動力学法)に近い?」「格子気体法に近いです。格子ボルツマン法を元に理論を組んでるので。もしかしたらDPDの方が合ってるのかも、とは思うんですけど」「あら、じゃあどうして格子気体法寄りなの? ……ああ、もしかして」散逸粒子動力学法(Dissipative Particle Dynamics, DPD)は本当に流体を離散化して粒子集団として解く方法だが、格子気体法の流れを組む手法は、セルオートマトンに様々な制約を課すことで、流動という物理現象を再現できるように無理やり形を整えていくような方法だ。佐天のように直感的な操作を好むタイプには、DPDの方が向いているかもしれないという思いはあった。そちらに手を付けていない理由は、面接官の思い至ったそのとおりだろう。「最初にこういう方法があるって教えてくれたお師匠様が統計屋さんだったんですよね」「婚后さんは完全にそちらよりだものね」光子はマクロに流体を操るのではなく、ミクロに、分子に本来とは違う性質を付与することで、統計的な性質を間接的にコントロールする変り種の能力者だ。直感的な操作で能力をコントロールするのが下手な反面、能力の「見た目」に左右されない変幻自在さを持っている。佐天とは、空力使いとして正統派ではないという意味では共通しているが、能力の本質的なところでは、やはり異なった面があるのだった。「じゃあ、佐天さん。婚后さんから一通り聞いてはいるんだけど、あなたの言葉であなたの能力のことを聞きたいの。説明してくれるかしら?」「わかりました」共通の知人がいるおかげか、短い会話で佐天はいくらかリラックス出来た。そして聞かれるだろうと思って用意してきた答えを、佐天はよどみなく口にした。『空気の粒』を操ることが出発点。この粒はある一点へと収束する指向性を持ちながら、同時に揺動することで球状の渦を形成する。そして巻きを強く、取り込んだ空気を多くすることで渦の持つエネルギーは増大し、開放した時の破壊力を増す。最後に、熱を集める性質もありエアコン替わりにも使える便利な能力だ、と少し笑いを取りに行って、佐天は説明を終えた。「ご苦労さま。よく纏まっていましたね」「ありがとうございます」「これも婚后さんの教育方針かしら」「あ、はい。よく説明してみるようにって、言われるんです」「うぬぼれじゃなければ、それは私の指導方針を踏襲しているのね。だからだとは思うけれど、佐天さんの能力はとっても好みだわ。私は編入試験のほうには関与していないから言ってしまうと、合格してくれれば是非あなたの能力開発に関わらせて欲しいわね」「えっと、頑張りますとしか言えないんですけど、そんな風に言ってもらえて嬉しいです」その話を聞いて、失礼ながらに、佐天はまるで「おばあちゃん」と話をしているような気分になった。普段面倒を見てくれている師匠の、そのまたお師匠様に当たる人なのだ。この人は。年齢でも祖母に近いから、尚更そう感じるのかもしれなかった。面接官の女性はコメントを手元の紙に書き込んでから、再び顔を上げて佐天を見た。「佐天さん、今日のこととは直接関係ないんだけれど、一つ聞かせて欲しいことがあるの」「はい。なんでも聞いてください」すっと、面接官の女性の顔が真剣になった。年齢相応の柔和さを消して、研究者の顔で佐天を見つめた。「あなたにとっての能力のゴールはどんなもの?」「え?」「レベル5になったら、あるいはそれより先の高みにたどり着いたら、どんな能力者になりたいの? ここで聞きたいのは『みんなから尊敬される能力者になりたい』なんて答えじゃなくて、どんな演算で、どんな物理現象を起こせる能力者になりたいのかが知りたいってこと。佐天さん、どうかしら? 具体的なビジョンは持っているのかしら?」そのストレートな質問を、佐天はうまく打ち返せなかった。光子にも似たような質問は何度か受けていたけれど、やっぱり、答えを自分の中で固められないのだ。「こうなりたい、って明確な姿はなかなか見つからないんですけど」「それで構わないわ。聞かせて頂戴な」「大雑把な演算モデルは、基本的に今のから変えたくないんですよね。シンプルだし、あたしに合ってる気がするし」「なるほど」「でもそうすると、あんまり能力に変化がつかないんですよね。今はもっと制御できる領域を大きくしたくて、空気をどのように認識するか、って部分をもっと大切にしたいんですけど」「……ふむ」能力者は何も多彩である必要はない。だが、応用力の低さは光子ともども、悩みの種ではあるのだった。美琴のような例を見るにつけ、根本から能力を組み立て直して汎用性を身に付けたほうがいいのかと考えてしまうのだった。とはいえそんなアドバイスを貰えばとんでもない苦労をするから、望んではいないのだが。「佐天さん。質問があるんだけれど」「あ、はい」「佐天さんの渦って、もっと圧縮したらどうなるの?」「え?」「そこまで想定してない?」「……モデルとしては、そうです。あたしの演算の中には、あくまで普通の空気の演算しか想定されてません」「その言い方だと、例外を経験したことがあるみたいね?」それは、一度っきりの経験だった。まだ記憶は鮮明に残っている。とある研究施設の地下深く、大切な友達の能力を模倣して放たれた一撃。音速の八倍で進み、身に余る摩擦熱を獲得したプロジェクタイル。「小さい金属片が気化した蒸気を渦にしたことがあります」「金属蒸気? ……そうか、あなたの能力だと熱量を失うことなく取り込めるから、そんなものでも渦に出来るのね。それにしてもそんなもの、どこで用意したの? 失礼だけどあなたのレベルじゃ中々用意してもらえないと思うんだけれど」低レベルの能力者に危険な実験をさせることはまずない。そのための施設自体が、そもそも常盤台のような有力校にしかないのだ。佐天は、本当ではないけれど、嘘とは言い切れない答えを口にする。「あたし、御坂さんと友達なんです。それで、あたしに向けて撃ったんじゃないんですけど、御坂さんが超電磁砲<レールガン>を使ったのを、横から」「御坂さんのアレを受け止めたの?!」「……はい。そう言って、嘘にはならないと思います」「そう。それは、面白いわね」挑戦的な笑みを浮かべ、佐天を見つめる。そんなふうに期待を持って見られたことがないせいか、恥ずかしくて居心地が悪いくらいだった。「要は、あなたはプラズマ位なら制御できるってことね」「短時間のことだったし、そこまでは言い切れないですけど」「まあ今日は試すのは無理だけれど、是非見てみたいわ。さて、それで質問の続きだけれど、例えばあなたの渦の規模を、質量とエネルギーの両方の意味で大きくしていった時の話に戻すけれど、とりあえずプラズマにはなりうると。それじゃ、その先は?」「え? 先、ですか?」分子の電離までは、佐天は体験していた。だから想像できる。だけど、その先って、一体何だろう?「次はやっぱり、核融合でしょ?」面接官の女性は、気負うことなくそれを口にした。「はい?」「もちろんずいぶんハードルが高いから、口にするのはためらわれるかもしれないけれど。あなたの能力の将来に、これは有り得そう? それともなさそう?」「えっと、勉強不足ですみません。空気を圧縮したら核融合が起きるってことですか?」「空気というか、軽い原子同士の衝突によって重い原子ができる核融合ってプロセスによって、この宇宙は出来上がった訳でしょう? 創世<ビッグバン>後と同じ高密度・高エネルギーを再現してやれば、酸素や窒素からもうちょっと重たい原子も出来るんじゃないかって、単純な思いつきなんだけれど」「はあ……」それに必要な温度と圧力はどれほどのものか。多分、自分の今いる領域よりも文字通り桁がいくつか違うだろう。「もう一つ気になったのはブラックホール生成かしら。ナノサイズのブラックホールを作って、ホーキング放射を制御できれば、あらゆる質量を直接エネルギーに変換する超高効率エネルギー炉になれるわね。汎用性で楽に太陽を超えるわよ。水素しか食えない天体より上ね」自分の思いつきを面白気に語るのを見て、佐天は取り残された思いだった。良くはわからないけれど、そんなのできっこない。プラズマですら、自分では作れなくて、誰かにエネルギーを入力してもらわないといけないのに。「佐天さん。今みたいな応用、もちろんすぐには手に入れられないし、考えるだけ無駄かもしれないわ。でもどこにたどり着きたいのか、行き先をある程度考えておかないと、能力を伸ばすときにも苦労するわ」「はい」それは、光子にも言われたことだったたとえば、ブラックホールというのは自分の能力の極限だろう。そういう意味では憧れないわけでもない。「ホーキング放射ってのは、よく知らないんですけど」「まあ細かいことは今は知らなくていいわね。ブラックホールは、質量から見ると、一度入ったら逃げ出せない罠みたいなものだけど、実は『蒸発』してるの。質量をエネルギーに変換して、逃がしているのよ。これがホーキング放射。小さなブラックホールだと質量を吸い込む速度とエネルギーを逃がす速度が同じオーダーになってくるから、 上手くコントロールすれば、質量をエネルギーに変換できるって訳。こんなの学園都市でも実現していないけれど、もしできたら人類は無限のエネルギーを手にすることになる。基礎研究くらいはどこかでやってるだろうから、そこに加わればあなたは第一人者になれるかもね」要は、空気を集め、とんでもないレベルにまで圧縮すると、集めた空気がそのままエネルギーに化けるということだ。原子爆弾が示すとおりに、少量の質量でもとてつもないエネルギーに変換される。それを考えれば、確かに面白い応用ではあるのだろう。「まあ、地球をパチンコ玉位に圧縮できるような能力が必要なんだけど」……結論から言って、無理そうだった。