「綯足さん、お疲れ」「あ、佐天さんも、お疲れー」安全のためにプールサイドから速やかに立ち去るようにと常盤台の先生に促され、来た道を戻る途中で、佐天は少し前を歩いていた綯足に声をかけた。もとより昼は一緒に摂る約束だった。「午前はどうだった?」「まあ、悪くは無かったかな。えっと、佐天さんは?」少し聞きづらそうに綯足が返した。そりゃまあ、レベル4がレベル2にそういう話を振る時には、どうしても気遣ってしまうのだろう。「いやー、なかなか厳しいね。ちょっと慣れてないテストが多くて」「そうだったんだ。やっぱり常盤台に来るとテストって変わるものなのかな? 水流系のテストは普通すぎるくらい普通だったけど」「気流系のテストも普通だったんだと思うよ。皆そんな顔してたし。あたしにとっては慣れてないのが多かったってだけでさ」「そうなんだ」そう言いながら綯足が佐天の制服を眺めた。たぶん、それで学校の品定めをしているのだろう。柵川中学の制服は、学園都市の外で言うところの、普通の公立中学の制服みたいなものだ。デザインに奇抜なものは無い。学区内に見分けの着かない制服の学校が五つはあるだろう。一方綯足の制服は、どこか質が良いと言うか、目立たない制服でいながら品がいいのだ。そういうところにも、掛かっているお金というか、能力のレベルの差が反映されるのだった。「学食、行ってみる? あたしはご飯用意してないからそのつもりなんだけど」「私も用意はないから、そのつもり。せっかくだし常盤台ライフを楽しんでいかないとね」「あはは」言いたいことは分からないでもない。光景を説明すれば、初春あたりは羨ましがるだろう。「せっかく一時間半も休みがあるんだし、ゆっくりしたいよね。ほら、ああいう感じに言葉遣いも変えて、『綯足さん、お昼はなににされますの?』なんて言っちゃってさ」佐天が目配せで示した先では、常盤台の生徒が、食堂の場所などを丁寧な声で何度も紹介していた。その口調も常盤台らしいというか、いかにもな感じだった。「やっぱりお淑やかな人が多いのかな。肩が凝るから、そういうの苦手なんだけど」苦笑しながら綯足が返事をすると、佐天が不意に、目線の先の常盤台の学生に声をかけた。「……そのへんどうなんですか、白井さん」「なにが言いたいんですの? 佐天さん」呼応したのは、すぐ目の前で受験生の誘導を受け持っていた白井だった。校内でこういう仕事に借り出されるのは第一に風紀委員だから、そこに白井がいても、おかしいことなんてなにもない。知り合いにあったからか、ジトっとした素の表情を一瞬浮かべて、白井は佐天に抗議した。「え? 佐天さん?」「びっくりさせちゃったね。あたし、こちらの白井さんと友達なんだ」「へぇー。……あの、こんにちは」「ごきげんよう。昼からもテスト、頑張ってくださいませ。それで、今からどちらへ?」営業スマイルも半分入っているのだろう。綯足に友好的な笑みを浮かべ、白井はそう問いかけた。「あたし達は学食です。こないだ食べ損ねたパフェに手を出そうかなって。白井さんは?」「私は見てのとおりお仕事ですわ。受験者の皆さんが試験を再開してから、交代でゆっくり頂きますからお構いなく」「あ、そうなんだ。それじゃあ、また今度、ですね」「そうですわね」白井とそう微笑を交わし、佐天と綯足は邪魔にならないよう、再び学食まで足を動かした。勝手が分かるほどではないが、ここは佐天にとって知らない場所ではない。人の列をたどりながら、間違わずにさっさと学食にたどり着く。「さっきの人って、知り合いなの?」「うん。白井さんっていって、あたしたちと同じ一年の人」「そうなんだ。その、常盤台の人と知り合いなんだね」驚いたというニュアンスを込めて綯足がそうこぼした。無理もない。既に常盤台に入学できるだけの実力者と未だレベル2の佐天が接点を持っているというのは、それなりに珍しいことだろう。「白井さんって風紀委員でさ、あたしのクラスメイトとよく一緒に行動してるから」「そういうことかぁ」常盤台の制服とその倍くらいの他校の制服が彩りよく混じった食堂へと、トレイを持って入り進む。そのトレイも佐天の学校にあるような安っぽい樹脂製とは違うので、本当にここは住んでる世界が違うという感じがする。小洒落たランチプレートを二人で注文し、宣言通り佐天は横にパフェを載せて席に着く。「白井さんとここに来たことがあるの?」「え?」「さっき、そのパフェを以前に食べそびれたような話をしてたから」「ああ、えっと」サラダをつつくフォークを止めて、少し佐天は話すのをためらった。白井とはまた別の、常盤台の知り合いの話をしないといけないから。あたしにはこんなに常盤台の友達がいるんだぞ、なんて自慢に取られるのも面白くない。「白井さん以外にも知り合いがいてさ、同じ空力使いの人なんだけど。その人に案内してもらったんだ」「佐天さん、常盤台の知り合い結構いるんだね」「うん。ひょんな縁がありまして。それもあって、無茶かもしれないけど、ここ受けようって思ったんだ」綯足と比べれば、ずいぶんハードルは高いだろう。そういうニュアンスを込めて綯足に苦笑いを見せたのだが。「キツイかも、みたいなこと佐天さん言ってたけど、そうでもないんじゃない?」「え?」「あの飛び込み台に登ったの、15人くらいいる内の4、5人だけだよね」綯足が見たのはあの試験だけだ。そして、その成績だけならきっと、佐天は上位三分の一に入る。気流系の能力者があれをどう評価するのか知らないが、佐天はあの中でもトップといっていいくらい、危なげなかった。まあ、飛翔の試験で佐天がやったのは「跳躍」だったけれど。「あのテストは悪くなかったかも知んないけど、はじめの二つは散々だったからなあ。それに、レベルが上がったって3だからね。今日あたしが目指すべきは、スタートラインに立つことなんだよね」「あれできるんなら大丈夫でしょ」綯足はそう一蹴し、冷たいじゃがいものスープを口にした。「佐天さんは、高密度の空気を操る能力者なのかな」「うん。空気の渦を操る能力、ってとこかな。綯足さんのも、不思議な能力だったね」「あ、やっぱり見てたんだ」「そりゃ同じ場所にいたからね」先程の光景を思い出す。水面歩行というのは、水流の「制御」の試験だろう。みんな慎重そうな動きで歩いていた。その中で、綯足は全く違って、足取りが普通すぎた。まるでコンクリートの上を歩いているみたいに。「どんな能力か、わかった?」「あたしにはさっぱり。でも隣の人が、レオロジー制御の能力じゃないかって呟いてた」「ま、わかる人にはすぐわかるよね」首をすくめて、綯足は肯定した。システムスキャンを受けるということは、自分の能力の紹介をするようなものだ。「レオロジー制御って、よくわかんないんだけど、水流使いになるのかな?」「んー、正確にいえば気体は操れない流体使い、かな」佐天は首をかしげた。流体とは、気体と液体、すなわち流れる性質を持った二つの相の総称だ。そのうち気体を扱えないのなら、それはまさしく水流使いだと思うのだが。「ごめん、よくわかんない」「佐天さん、もしかしてレオロジーって科目勉強したことない?」「うん」「そっかー。……こんなこと言って悪いんだけど、たぶん、あとの本試験で苦労すると思うよ、それ」「げげ」苦笑いで綯足が告げた言葉に、思わず佐天は顔をしかめた。座学もどんどん面白くなる今日このごろだが、尽きることのない学問の深みに、やや食傷気味でもあった。手でパンをちぎりながら、綯足は思案した。どう説明したものか。「佐天さんに問題です」「えっ? はい」「スライムって作ったことある?」「あるある。小学生のときやった」「なら話は早いね。あれは流体だと思う? それとも固体?」その質問に、佐天は窮した。スライムは水みたいに際限なく広がったりしない。だけど、力を加えたらすぐに形を変える。「スライムは……ゲル!」「いや、えっと。そのゲルが固体か流体かって話をしてるんだけど」「どっちでもありどっちもでないっ!」どうせわからないし、あてずっぽうだ。というか、答えなんてあるのだろうか。そう思っていたら、綯足が我が意を得たりという顔で頷いた。「佐天さん、最後ので正解だよ。固体を固くて動かないものだと思えば、ゲルは流体になる。自然と流れ出すものを流体だとするなら、ゲルは固体ともとれるけど。私はそういうものの制御も出来るってこと。水だけじゃなくてね」「へぇー!」「佐天さんや普通の水流使いはニュートン流体が専門で、その流動を細かく制御できるでしょ? 私は流れの制御はそうでもないけど、非ニュートン流体、例えばダイラタント流体とかチキソトロピック流体でも、ニュートン流体と同じように扱える。だから、プールの水に、ゴムみたいな弾力を与えるくらいのことは簡単」「なるほど、そうやって水の上を歩いたんだ」「そういうこと」食べ終えて綺麗になったプレートの上にスプーンを置きながら、綯足は頷いた。素直に佐天が感心してくれるので、つい、喋りすぎてしまった。もちろん今の説明程度で、自分の能力の全貌を見透かされることはないだろうけれど。目の前の佐天が既にパフェに手を付けているのを見ながら、綯足は紅茶に口をつけた。綯足と別れ、再びグラウンドに立つ。試験再開までもうすぐだから、ほぼ全員の気流操作系の能力者が集合していた。共通テストの最後のは、威力試験というらしい。やっぱり名前のとおりの試験なのだろうか。良くはわからないが、なんとなく、佐天はストレッチをして体をほぐした。「腕力試験じゃないっての」小馬鹿にするような声がまた、聞こえた。だけど賛同するような笑いだとかは、あまり起こらない。佐天を笑えるのは、その実力があって、かつ、嫌味な連中だけだ。どうやらそういうのは多くないらしかった。「渦投げるのに、肩作っとかないといけないんだ」「は? だっさ」気まぐれに佐天は相手をしてやった。それが余裕の表れだったか、虚勢だったかは、佐天自身にもわからないところがあった。だがそのおかげで言い返した相手の顔がわかった。意地の悪い顔をしていて、佐天はすぐに嫌いになった。……特に髪型や背格好が、アケミに似ていたから。友だちとちょっと似てるのが、なおさら不愉快だ。例えば佐天が、あんなきっかけじゃなくて、ジリジリとレベルを上げていたら、目の前の少女のような心の持ち主になっていただろうか。佐天は、その可能性を否定できなかった。自分は、そういうところで弱い心を持っている人間だ。「ええと、皆さん揃っていますね?」試験官の先生が来たらしかった。振り向くと、午前中の先生じゃなくて、佐天の面接をしてくれた先生だった。部屋で見た姿と違い、軽装に着替えて帽子をかぶっていた。言ってしまっては悪いが、やっぱりそういう装いをすると年齢が分かる。「それでは、午後の試験を始めます。試験内容の説明は端折りたいんだけれど、よろしい?」「あ、あの」「どうかしたの、佐天さん?」「あたしこの試験受けたことなくて……」「そうなの? ……あら、貴女、レベル0から1へのレベルアップしたあと、一回もシステムスキャンを受けてないのね」ざわり、と周囲の生徒たちを取り巻く空気が音を立てた。学生なら、学期ごとに一回は受けるのがシステムスキャンというものだ。それを、レベル1に上がったあと、一度も受けていないというのは。学生たちは、どういうケースなのか思案を巡らす。それは、目の前のおかしな能力の少女が、まさか一学期に満たない短期間で、レベルを0から2まで上げ、それどころかレベル3に手を届かせようとしているとは考えられないからだった。「じゃあ説明しましょうか。と言っても、威力試験は『なんでもあり』の試験だからね。今から図るのは、皆さんの能力の規模です。エネルギー的にでも、体積的にでも構いません。希望者がいれば時間的な規模でも測ります」とにかく、強く大きい能力を発動させてみろ、ということだ。ついでに言えば、一瞬でなくずっと続くほうがなおいい。「ぶつける対象が欲しいって人が例年多いから、あちらのグラウンドの隅に土嚢(どのう)を積んであります。まあ、試験はあちらでやりましょうか。それと土嚢以外の対象が必要であれば自己申告するように案内してありましたけれど、今回は誰も申請しなかったようね。それで間違いはありませんね?」そういえば、佐天のシステムスキャンの申し込みは柵川中学から届いているはずだが、その時にそんなことをちらっと言っていた気がする。先生の問いかけに、誰も異議を唱え無かった。「よかった、今回は手間が少なく済みそう。三月の編入試験は大変だったのよ。覚えている子もいるかしら。合格した受験生だったんだけれど、長距離輸送用のコンテナに土嚢を五トンほど詰めたのを用意してくれって言い出したのよね。それを空に向けて打ち上げて砲撃にするなんて言うもんだから、仕方なく二三学区まで出張して、わざわざあの子のためだけに試験をやったのよね。まあ、あれが空を飛んだのを見るとちょっと景気のいい気分になったけれど」……佐天は、苦笑いをしながら髪を軽く掻いた。誰のことかなんて言うまでもない。というか、そんなことをやったら、そりゃあ『トンデモ発射場』なんて呼ばれたっておかしくないだろう。そのあだ名が、光子を嫌う人間が付けたわけじゃなくて、光子の行いを見た人間が自然と付けたものであろうことを、佐天は悟った。「愚痴はこのへんにしておいて。この試験をやるたびに私は上から、常盤台にふさわしくないなんて小言をいただくんですけれど、それでもこれは非常に重要な試験だと思っています。繊細な制御を教えることは後でも出来ますが、結局のところ、能力の伸びを決めるのはパワーです。それを私に見せつけてください」面接のときから思っていたけれど、このおばあちゃんは、なかなかに破天荒だ。おそらく編入試験をこれまでに受けて、落ちてきた生徒も中にはいるのだろう。そういった生徒からも人気の高い先生らしかった。佐天も、なんだかやる気をもらってしまった。自分で出せる自己ベストを更新してやろう、と心に決める。「それじゃ、はじめましょうか」その一言で、最後の共通試験が、始まった。他の系統の能力者たちが、何事かという顔をしながら遠巻きにこちらを見つめている。そりゃそうだろう。グラウンドの端近くで、壁の方に体を向けて、近所迷惑な試験をしているのだ。さっきから「どごーん」だの「ばーん」だのと、騒音をこの一角はまき散らしている。「はぁっ!!」カマイタチ使いの少女が、持てる最大威力、最大の数で土嚢に切り掛かる。疾走する高密度の振動空気が化学繊維の袋を引きちぎり、中身の土をぶちまける。1メートルくらいうずたかく積まれた土嚢の壁には、ざっくりと爪痕が残った。それを見届け、隣では別の少女が体の脇に太い筒を抱くような格好で腕を広げ、風を流した。それなりに高密度に束ねられた風がゴウゴウと音を立てながら土嚢にぶち当たる。あおりを受けて、積まれた土嚢の、上のほうの数個が転がり落ちた。次に控えた少女が、風で作った槍を握り占め、土嚢に突き刺した。ザクリとそれは突き刺さったあと、何かを引きちぎるような耳障りな音を立てながら、厚みも同じく1メートルくらいあるその土嚢の山を突き破った。それを見ながら、壮年の試験官は測定値を記録していく。と同時に、風の流れ等を映像としてまとめておく。この試験は、評価が複雑だ。圧力損失の大きさだとか、指定位置からのずれだとか、そういうシンプルなデータでの評価ではない。まず重要なのは、操れる空気の量と速度だ。それが無くては威力は上がらない。だがそれだけでは測れないのが、風の威力だ。物体を物体にぶつける力学的な現象と違い、空力学においては、かならずエネルギーのロスがそこにはある。空気は物体にぶつかれば、自らの形を変えほかのところに逃げてしまう。それを許さず、如何に力を伝えきるか。風そのものの威力と、物体への伝達効率、それらをあらゆる測定データから評価するのが、この試験の趣旨だった。土嚢に刻まれた試験結果を記録しながら、試験官の女性は思案する。目の前で能力を発動したこの三人の中には、レベル4の生徒もいた。だがそれほど自分の気を引くほどの結果ではなかった。あくまで自分はシステムスキャンの監督であり、編入試験の採点には関与していないので権限はないのだが、心の中で、目の前の三人には不合格を出した。常盤台は、充分な人材を入学試験で既に採っている。編入で受け入れたいのは平凡な能力者ではない。目の前の生徒たちは平均的な常盤台の空力使いと比べてそう悪いことはないが、それくらいの学生は、必要ない。常盤台が追加で欲しいと思えるだけの人材が欲しい。そして自分の目の前でその力を見せつけ、納得させて欲しい。半年前の突飛な人材を思い出しながら、そう思案する。編入後も周囲になじむのにやや苦労があったり、今も学外からの通学となったりと問題児なところがあるのは否めないのだが、婚后光子を合格させた時の、ああいう納得感を試験官の女性は欲しているのだった。手元の紙面に眼を落とすと、次の受験者はその光子の弟子だった。「さて、次は佐天涙子さん、貴女ね」「はい」緊張した面持ちの佐天を見て、微笑んだ。彼女は何をしてくれるだろう。光子と同じような突飛な準備は用意してこなかった。まあ、今はレベル2なのだから、それも当然といえば当然なのだが。「準備はいい?」「大丈夫です」「そう。じゃあ、始めて頂戴」「わかりました」そう言って、佐天は気持ちを整えに掛かる。そこにもう一言だけ、他の学生より多く言葉を貰った。「頑張りなさい」「あ、ありがとうございます」微笑みに、佐天も微笑んでそう返す。婚后さんの知り合いだから気にかけてもらってるのかな、なんてことを考えながら、佐天は呼吸を整えた。時刻は昼を過ぎ、一日の温度が最も高くなるころに差し掛かっている。それは佐天にとっては好都合。温度差というエネルギーがあちこちに眠っているから。土嚢の周りは他の人のテストのせいでもう空気が混ざりきっているが、問題なかった。これまでの受験者たちよりも、20メートルくらい土嚢から離れる。佐天はうだるような日差しを浴びながら、大きく息を吸い込んだ。夏の乾いた土埃の臭い。かすかに香る、遠い食堂の臭い。あちこちから聞こえてくる、システムスキャン中の生徒たちの声。騒音。落ち着いた集中が広い世界観を与えてくれる感覚を、佐天は覚えていた。こんな穏やかな精神状態を保てるのはきっと、あの高速道路の上で稼いだ貯金のおかげだった。あの時は、自分が伸びているだとか、そんなことを振り返る暇なんてなかった。全てが終わったあとで、あれが自分の成長の瞬間だったのだと、思い出すことしかできなかった。でもそのおかげで、今がある。今から披露するのは、誰かの都合にあわせて、歪に歪められた条件で出す次善の結果じゃない。自らの意思が、結果の最後の最後までを操り尽くすのだ。自分は万全だ。緊張の糸を残したまま、佐天の世界は適度に緩み、広がる。グラウンドの上で陽炎が笑う。ゆらゆらと揺らぐ空気の中に、いくつものほつれを見出した。それは、渦の種。一つ一つを心の中で数え上げると、世界は、自然と佐天の意思を『記録』した。生まれては消える運命の渦が、定めに抗い、蓄積されていく。数は、きっかり30個。今から始まる試験の中で、佐天はそれを弾の上限とした。再現なく渦を補給するのは不可能ではないが、やったところで待っているのは劣化だ。それよりも、今手元に用意したものだけを、育て、操りこなすことに決めた。「それじゃ、いきます」土嚢を見つめたまま、佐天はそう宣言した。始まりは、至極あっさりとしたものだった。その声に、試験官は不思議と期待感を誘われた。周りの学生達も、気負わないその声に、何かがおかしいと感じていた。グラウンド上に存在するすべての空気を背負って引っ張るように、佐天が腕をぐいっと前に突き出した。――――直後。背面に広がる空の上で、雲が醜く引き攣れた。「え――?」その場にいるすべての空力使い・風力使いが、空を見上げた。だってその高さに、レベル2の能力者なんかが届くはずがないのだ。雲は、気流操作系の能力者にとっての、ひとつの憧れ。そこに能力が届くというのが、レベルの高さの、何よりわかりやすい指標だからだ。その雲に、空から槍を突き刺したみたいに孔がいくつも開いた。その穴から雲がこぼれる。地面に向かって落ちていく。槍の正体は、竜巻だった。それは熱い地表と冷めた上空の温度差を埋めるために生まれたものだ。渦巻くダウンバーストが地面に向かって螺旋を描いて落ちていく。空が吸い寄せられ、地が吸い上げられる。その流れの中心にあるのは。佐天の渦。遠慮知らずに、貪欲に、その渦は空気を飲み込んだ。際限なく渦の中に風が巻き込まれ、押しつぶされる。それを見ながら、周囲の学生達は佐天が今まで本気を出していなかったことを理解した。ダクトに風を通すにも、50キロに満たない自分の体を持ち上げるのにも、このレベル2の少女は本気を出す必要がなかったのだ。渦は、すぐに試験官の目にも見えるようになった。屈折率を変化させ、渦の向こうの景色が歪んだからだ。そんな風に景色をゆがめる風というのは、多くの能力者を見てきた試験官にもはじめてのものだった。ニヤリとした笑みが広がるのを試験官は抑えられなかった。こういう、こちらの思惑を超えるものを見るのが、学園都市の醍醐味だ。対照的に、周囲の学生達は呆然と佐天を見つめることしか出来なかった。「ふっ」そんな渦の一つを手のひらの上で作り上げ、佐天は土嚢に向かって投げつけた。狙ったのは、土嚢と土嚢の間にある隙間。――――バァァァァンン!!!!!空気そのものが風船みたいに破れる音を立てて、振動を学校中にまき散らす。周囲の学生もビリビリと自分達の服や、髪や、皮膚が震えるのに耐えながら、その光景を見つめる。それはあまりに圧縮されすぎた空気が、開放の瞬間に音速を超えた証拠だ。その威力を保証するように、積み上げられた土嚢が空へと舞い上がり、いくつも虚空を突き進む。「危ないっ!」誰かが鋭く叫んだ。30キロはくだらない土嚢が、自転車より速いスピードで佐天に向かって飛んでくる。その心配を佐天は笑った。これをやったのが、誰だと思っているんだろう。土嚢は、偶然に飛んできたんじゃなくて飛ばされてきたのだ。だから心配なんていらないのに。それともまさか、この一撃で自分のテストが終わりだとでも思ったのだろうか。空を見れば一目瞭然だろう。まだ、これと同じものがあと29個もあることなんて。口の端で佐天は笑う。楽しくて仕方なかった。佐天は頭を軽く降った。それだけで向かってくる突風が佐天の髪を束ね、背中に流した。空のてっぺんに向けて指を突き上げ、渦に心を通わせる。それらは全て、もう外に向けて弾ける準備を整えきっていた。準備は、これでばっちりできた。満足げに佐天はそう判断した。そして、タクトを振るう指揮者のように、ついと腕を降り下ろした。「い――っっっけぇぇぇっ!」29個の、渦という名の鉄槌が降り下ろされる。一つ一つの渦の向かう先には、ぴったり対応する数だけの土嚢が、まさに落下しようとしている。手始めは目の前に迫ったひとつ。打ち返すバッターのつもりで、佐天は渦をそれにぶつけた。凝縮された時間の中で、佐天は渦がブチブチと化学繊維を捻り破くのを見た。そして裂け目はあっという間に土嚢全体に広がり、土をまとめるという役目を果たせなくなる。そこにぎゅうぎゅうに押し固められていた空気がぶつかり、そして、弾けた。同じことが、あちこちで起こった。あらかじめ演算しておいたとおりに飛んでいく土嚢に渦が追いすがり、接触する。――――バァァァァンン!! バァァァァンン!! バァァァァンン!!フィナーレに向けて盛り上がった花火のように、とめどなく爆発音が響きわたった。破裂音ひとつにつき、土嚢に詰め込まれていた土と砂が空にひとつの花を咲かせる。色彩は花火と比べれば地味で汚いけれど。なにせ、はじけたのは全部土くれだ。20秒に満たない短時間の中で、学舎の園という優雅な世界を完全に台無しにしながら、1トンもの質量を佐天は弄んだ。「……ふう」全てが終わったあとのグラウンドは、寒々とするほどに無音だった。誰一人として、声を上げることが出来ない。呼吸すらもし辛い緊張感が在った。視界が晴れると改めて、その結果の異常性が目に飛び込んでくる。ほんのついさっきまで、地面には黄土色の土と積まれた白い土嚢があったはずなのだが、今そこにあるのは、焦げ茶色をした土と元のグラウンドの土の、まだら模様だった。そして打ち捨てられたレジ袋みたいに、中身を失った土嚢の化学繊維が地面に点在している。「――28、29。壊した土嚢は29であってるかしら?」「はい」「そう。50個くらい置いたんだけど、もうこれでなくなってしまったわね」見ていたものの硬直を破るように、試験官が声を出した。佐天の前の10人が使った結果として、だいたい20個の土嚢が消費されていた。それらは部分的に破れたり、あるいは地面にぽつんと落ちたりしている。そして残りが、ご覧の有様というわけだ。「コントロール力のアピールもなかなか気が利いてて、面白いじゃない」面白がるような声で、試験官の先生が佐天を褒めた。佐天がまき散らした土は全て、学生や先生に掛からないように吹き飛ばされていた。仮に失敗したって、周りには風を操れる能力者ばかりだからよけてくれるだろう、という打算もあったので、心置きなく佐天は土嚢の中身をぶちまけたのだった。放心するような生徒の多い中、試験官が厳かに進行を告げた。「準備をしますので、次の人の試験まで10分ほど休憩とします。木陰に入ってくれて構わないけれど、あちこち歩いたりはしないでくださいね」それが佐天にとっての、共通試験の終わりの合図だった。そしてもう誰も、振り返った佐天に見下すような笑みを向ける学生はいなかった。パタンとロッカーの扉を閉め、当たりを見回す。「忘れ物は……大丈夫かな」渦の圧力測定、集めた空気の量の測定、定常状態の維持時間の測定。まるでいつかの光子がしてくれたような試験を経て、佐天は今、全ての試験を終えたところだった。あとは、はじめの教室に戻って休憩しながら、結果を待つだけ。直ぐに帰って結果を後日聞いてもいいらしいが、やっぱり今ここで知りたいのが学生の本音だ。周りには四、五人、佐天と同じタイミングで個別試験を終えた生徒たちが着替えをしていた。午前にここを訪れた時と違い、もう、佐天を笑う声は聞こえなかった。その理由を佐天はちゃんと理解していた。自分が、実力で黙らせたのだ。能力の規模が全てじゃないだろうけれど、それを評価する試験で、佐天はかなりの高得点を叩き出したはずだ。それを気持ちよく思っている自分を、否定できない。優劣に一喜一憂するのは格好のいいことじゃないかもしれないけれど、誰にも文句なんて言わせない結果だった。廊下に出ると、ちょうど、教室に向かっている綯足の背中が見えた。「綯足さん」「あ、佐天さん」「お疲れ」「佐天さんもお疲れ様。テストのとき、すごい音だったね」「え? あー」思い返して、そりゃあ学校中に響き渡っただろうなあ、と佐天は今更に迷惑だったかと反省した。「あれ、誰がやったの?」「え?」その聞き方からして、佐天がやったと言う可能性を、綯足はまったく考えてないようだった。可愛らしく、きょとんと首をかしげた。「えと、近所迷惑の主は、あたしです」「えっ……?」「いやー、なんとしてもレベルは上がって欲しいしさ、ちょっと無茶やっちゃった」「一体何をしたの?」「えっとほら、こうやって作れる渦をとにかく何個も何個もぶつけてみたの」手のひらに渦を巻いて、綯足の肌の近くに持っていった。風を感じて、綯足は考え込んだ顔をした。「あんな音、すぐには出ないよね。っていうか、音速といい勝負の風速が出ないとあんな音しないはずだし」たかだか台風程度の風速では、空気が震えたりはしない。それより一桁は大きい風速だろう。そんな威力を持った渦を、何発も用意したって?「なんでレベル2だったの?」「え?」「それだけあれば、今までに普通にレベル3に上がれたと思うんだけど」レベルも3くらいからは、「2よりちょっと上」と「4よりちょっと下」の差というものがかなり開いてくる。佐天の実力は、断片的に見立って、「2よりちょっと上」なんて段階じゃない。だから、とっくの昔にレベル3くらいとってたっておかしくないはずだ。「えっと、レベル2になったのも割と最近だから」「……そっか。佐天さん、いま伸びてるんだね」綯足は注意深く、佐天への評価を改めた。編入試験の合格者のパイは大きくない。そこそこ近い流体系の能力者同士だから、食われる可能性がゼロとまでは言えないのだった。とはいえ、まだ自分と同じ高みにまでは来ていないと思う。綯足は、そう判断して気を取り直し、微笑を浮かべた。「佐天さんは今からどうするの?」「あたしは結果、聞きに行こうと思って。綯足さんも?」「うん、まあ一応ね」綯足が肩をすくめて頷いた。尋ねておいて思い出したが、そういえば綯足はレベル4だ。まずレベルは上がるまい。そう考えたのは、レベル5誕生なんて非常識なことが自分の目の前で起こるとは佐天には思えなかったからなのだが、きっとその感想を佐天と一緒に試験を受けた人間に聞かせたら顔をしかめることだろう。他人にとってどれほど驚異的な結果か、佐天自身も正しく理解はしていなかった。「試験官の先生がコメントくれるかもーって思って」「あ、それが目当てなんだ」「うん。やっぱり常盤台の先生だからね、結構いいこと言ってくれるんだよね」「なんかそれいいね。あたしも何か言ってもらえるのかな?」綯足に向かって、疑問顔で佐天はそう返した。だがちょうどそこに通りがかった常盤台の先生が、あら、という顔で佐天を見た。「もちろん言いたいことがあるわよ。色々ね」「え? あっ!」面接を受け持ってくれたあの先生だった。ただ、向けられたのは佐天をねぎらってくれるような微笑みではなく、どこか不満を感じさせる顔。「まずは、お疲れ様」「ありがとうございます。それで、あの……」「演算の規模は決して悪くないのに、ちょっと応用力の低さが目立つ結果だったわね」「……」前置きも無く告げられたその言葉は、佐天を突き放すような言葉に聞こえた。目の前がさあっと暗くなる。だって、もし「そう」なら、自分は常盤台を受ける資格がないことになる。「流体の圧縮も、貴女の演算能力でまだいけたはずでしょう。渦になったって気流は気流、いつだって流れの枝分かれの取り扱いはついてまわるんだから、普通の空力使いの演算の勉強をおろそかにすべきではないわ」「はい……すみません」手にした紙をペラペラとめくり、佐天の評価が書かれた紙を先生は見直す。「あえて普通の空力使いと同じ試験を受けさせたのは、特異な演算方式の能力者でも、応用と工夫次第で、普通の能力者にできることもちゃんとカバーできるからよ。それを確認したんだけれど、特に午前のテストは散々だったわね」「そう、ですか」自覚は、確かにあった。できなかったという思いを佐天は間違いなく心に抱えていた。「渦の基本性能についても、液体密度以上に圧縮してくれたら、もうちょっと加点のやりようもあったんだけど」「はい」曇っていく佐天の表情を、どうしていいかわからずに綯足は横から見つめる。ただ、納得行かない部分もあった。やけに採点が厳しい気がするのだ。つけている注文が、レベル2相手とは到底思えない。「とりあえず本番まで、まだ日にちはあるから。弱点を埋めてきなさい。言ったこと全部よ。いいわね?」「はい……って、えっ?」「何?」「あの、本番って」「本番は本番よ。あなた、転入試験受けるって言ったじゃない」「え? でも」佐天は混乱して、先生が何を言っているのか分からなかった。だって。「レベルが上がらなかったら、あたし受験資格ないじゃないですか」「え?」「えっ? あの」先生も、佐天の反応を見て何か勘違いが有ると気付いたらしい。困惑がもたらす空気の停滞を挟んで、ああ、と先生が手を打った。「まさか、レベル3に上がれない心配なんかしていたの?」「え? は、はい。だってその、レベル2ですし」「もう、違うわよ」呆れたように先生はため息をつき、髪を掻き上げた。そして佐天を安心させるように微笑んでくれた。そしてプリントを一枚、手にした束から引き抜いた。「分かっていたでしょう? それだけ演算能力があればレベル3が取れることくらい。私が文句を言ったのは、飛び級が失敗したっていうこと。もう一ヶ月くらい時間をかけて練習していれば、今日ここでレベル4になっていたんだろうれど」大して字も書かれていないプリントが、手渡された。隣から覗き込む綯足と一緒にそれを見る。初めにびっくりしたのは、佐天涙子宛てになったそのプリントに、とても繊細で華やかな常盤台中学の判が押してあることだった。不思議と、それが感慨深かった。「おめでとっ! 佐天さん」「え?」綯足が、急にそんな風に労ってくれた。まだ内容を読んでいなかったのでびっくりしてしまう。慌てて目を通すと、そこには、佐天涙子をレベル3と認定するという趣旨が書かれていた。「あ……」「これで、ライバルになっちゃったね」冗談交じりにポーズをとって、綯足がそう言った。そうだ。レベル3なら、自分は常盤台を受ける資格がある。「嬉しいのは当然だろうけど、レベル4を取り逃したことの反省もして欲しいわね。これで編入試験に落ちるようなつまらない真似だけはやめて頂戴」「えっ? あ、はい。それはもちろん頑張りますけど」そんな風に、佐天に目を掛けてくれるようなことを常盤台の先生が言うのが信じられなかった。「貴女は私が面白いと思えるだけの結果を出してくれたわ。だから私は貴女に常盤台に来て欲しい。貴女には教えたいことが沢山あるし、やらせたいことが沢山ある。もっと今より能力を伸ばして、もっと面白いことが出来るように導いてあげるわ。だから、うちに来なさい。弱点を埋めて本番に臨みなさい。いいわね?」「はい。あの、頑張ります!」「いい返事ね。それじゃ、また新学期に会いましょう」それだけ言って、先生は佐天たちを追い越してさっさと教室に向かった。かけられた言葉の意味を受け止めるのに、佐天はぼうっと立っていることしか出来なかった。きっとあれはリップサービスだ。ああいう言葉を他にも何人かかけているに違いない、と心に言い聞かせる。だけど、それでも。「佐天さん、あの」「あたし、常盤台に受かりたい」「え?」「あの先生みたいな人たちのいる学校で、勉強したい」「……そうだね。あの先生面白いね」佐天の瞳の中に宿った輝きを見つめ、綯足は笑った。常盤台中学が女子の中学生達の中で最も人気がある中学なのは、そこがお嬢様学校だからじゃない。そこに、最高の教育があることを知っているからだった。「佐天さん、今からどうする?」「え?」「私はその紙もらいにあの教室に行くけど、佐天さんもう用事無いよね」そういわれてみれば、もうレベルアップ通知も、先生からのコメントも貰ってしまった。けれど。「綯足さんについてっていい?」「いいけど、どうして?」「今日せっかく仲良くなったんだし、お互い最後まで見届けようかと」「最後って。別に私はレベルアップは期待してないからねー」苦笑いしながら、綯足は歩みを再開した。佐天もそれに合わせて教室に進む。綯足にも常盤台に受かって欲しいなと、そう佐天は思えた。綯足は、気取らないし嫌味なところもないし、いい子だと思う。そういえば合格すれば白井も、泡浮も湾内も同級生だから、友達の数に困ることは無いだろうけれど。「あ、先生もう来てる」扉をくぐり、綯足がそう呟いた。恐らくは視線の先にいるのが水流系の能力者の試験官なのだろう。朝と同じ席に二人して座ると、間もなくして、綯足が試験官に呼ばれて行った。流石に慣れない場所で知らない人たちとずっといると、気疲れする。僅かなため息をつくと、またすぐに誰かに声をかけられた。「佐天涙子さん、でお名前はあっているかしら?」「えっ? あ、はい。そうですけど」振り返ると、声をかけてきたのは見覚えのある顔の学生だった。一つ目の試験を終えて着替えているときにきつい言葉を投げかけてきた人だった。その隣には、これまた見覚えのある、飛び込み台に向かって飛んでいく試験のときに話をした人がいた。制服を見てみると、どうやら二人は同じ学校の、それも同級生らしい。「廊下の奥で先生と話しているのが見えましたけれど、結果はどうでしたの?」きついタイプの先輩のほうが、佐天の鞄を見ながらそう聞いた。もう、紙が手元にあるのを知っているのだろう。となりのちょっと優しい先輩も、興味があるらしく頷いていた。「一応、レベル3になりました」「そう。おめでとう、佐天さん」「おめでとう」「あ、その……ありがとうございます」礼を言うのに少し戸惑いを感じた。二人は一応、自分のライバルでもある。そして、その鋭いライバル心を向けられたこともあるから。「レベル4になるのかなって、思ってたんだけど」「あ、それにはまだまだ応用力とか、足りないところがあるって言われちゃって」「……あの先生がそう言ったの?」「はい」「ふうん」その相槌には、警戒感があった。編入試験を何度か受けたことのある二人だから、知っているのだ。あの先生は、見込みの無い学生にそんな駄目出しはしない。「佐天さん。朝言ったこと、覚えていて?」「はい」「あの時、つい棘のある言い方になったこと、謝りますわ。ごめんなさい」「え? いえそんな」「ただ、内容については、撤回する気はありません。最後に見たあの試験を振り返れば、貴女の演算能力なら、もっと工夫の仕様があっただろうにって思いますから」「先生にも言われました」「そう。まあ、初めてのテストで戸惑ったのかも知れませんけれど」試験が終わったからだろうか、二人の態度はさっきよりも柔らかい気がした。そういえば、二人は佐天を陰で笑ったりはしなかった。きっと、それだけの余裕がある人たちなのだと思う。「そういえば、どの試験も初めて受けたようなこと言っていたけど、本当?」「はい、そうですけど」「それにしてはレベル3にしても充分すぎる出来だったわよね」「たしか先生が呟いていたと思うのだけれど、レベル2に上がるときも試験免除だったらしいわね」「あ、はい」「レベル2までは、システムスキャン無しで昇格ってのもたまにある話だけれど……。それにしても、上がってからスキャンを受けていないって言うのは、かなり早いペースでレベルアップしてるのかしら」「ねえ。レベル2に上がったのっていつなの? あ、嫌なら別に言わなくてもいいけど」話の内容が、また受験者として互いを比べるような流れになったからだろう。二人の先輩達が気遣うような顔をした。とはいえ、まあ、話しても佐天が困ることはない。「上がったのは3週間くらい前です」「え」「3週間……?」二人の少女は、思わず絶句した。それは、一体どんな滅茶苦茶なペースだろうか。システムスキャンは学期ごとに受けるものだから、レベル2に上がったのが五月以降であることは二人にも予想がついていた。だけど、3週間なんて。「レベル1から、よくこんなところまで上がりましたわね」「そうね。レベル1の下積み期間はどれくらいだったわけ?」佐天はまだ中学一年だ。可能性として、例えば学園都市に来たのがそもそも今年の四月、なんてのもありえる。そういう意図の質問だったのだが、答えはまたも、二人の予想を裏切った。「そっちは2週間くらいです。あたし、7月の中ごろまでレベル0でしたから」完全に自慢に聞こえてるだろうな、なんて思いながら佐天は質問に答えた。佐天の答えを聞いて、二人は完全に固まっていた。その答えが、まるで嘘にしか聞こえなかったのだ。それもあざとい嘘じゃない。見え透いた嘘とはったりを言ってるんじゃないかとしか思えない。だって、たったの一ヶ月で、レベル0から3だって?「本当、なの?」「はい」それ以上、何を言っていいか二人にも分からなかった。これが真実なら、佐天涙子は編入試験のダークホースだ。誰も注目していなかったのに、誰も彼もを差し置いて合格しかねない。空回り気味だった頭が正気を取り戻してきて、二人は気付いた。自分達と佐天が話しているだけだと思っていたけれど、回りの学生達に、会話が無かった。聞き耳を立てているのが丸分かりだった。「もし良かったらIDを見せて?」「え? いいですけど」少し固い顔で、優しいほうの先輩がそう要求した。逆らう理由も無く、佐天はパスケースからIDカードを取り出し、手渡した。作られたばかりの真新しいカードなのは、見れば分かる。少女は手首を捻って裏面を見た。「カード発行日、たしかに2週間前ね。しかも、その前の発行日が3週間前」裏には最近のことが5行ほど書かれているのだ。そこにはレベルアップのことは明記されていないが、カード発行の記録があった。もちろん、それは紛失による再発行などではない。学園都市側が、佐天涙子のステータスが変わったことを理由に発行しなおしたのは間違いなかった。まるで、この一ヶ月で二度、レベルアップを果たしたかのように。そのログは佐天の言葉以上に雄弁だ。疑いを消しきることは出来ないけれど、でも、あるはずが無いなんて否定するには、重みがありすぎた。「一ヶ月でレベルを0から3に上げてきた、ってことね」確認するように、佐天の目の前の少女が呟き、佐天の瞳を覗き込んだ。それはもう、油断を見せられない相手、格下などでは断じて無い相手への視線だった。「おーい、佐天さん。おわったよー」綯足の穏やかな声に佐天はホッとした。「それじゃ、あたしはこれで」「ええ。次に会うときもよろしくね」「えと、はい。失礼します」「ごきげんよう」佐天は頭を下げ、教室の後ろの生徒達を見上げた。いくつか、ばっちりと目線が合う。そちらにも軽く頭を下げてから、佐天は綯足のほうへと逃げるように歩み寄った。「すごい空気だったね」「うん、まあ」「佐天さん、完全にライバル視されてた」「負けるつもりは無いけど……びっくりした」だって、一ヶ月前にはこれっぽっちも考えられなかったことだ。まさかレベル3や4の人たちが、自分を敵だと看做すなんて。「さて、それじゃお互いに終わったし、そろそろ出よっか」「そうだね。綯足さんはもう家に帰る?」「うん。そのつもり。佐天さんの家ってどのへん?」「あたしは割と近いよ。第七学区内だし」「そっか。じゃあ学舎の園の入り口まで一緒に帰ろうよ」「うん。綯足さんって家どこなの?」「制服じゃわかんなかったか。私、この中の学校の生徒だよ」「えっ?」言われて、改めて制服を見つめる。そういえば学舎の園の中で、何度か見た制服だった。「綯足さん、実はお嬢様……?」「そだよー。えっと……肩が凝るから嫌いなんですけれど、一応言葉遣いも含め、そういう教育を受けておりますわ」居住まいを糺し、綯足はおしとやかな身のこなしで佐天に微笑んだ。ああいう仕草を佐天あたりがやっても嘘臭くなるだろう。綯足は本当にお嬢様学校の出らしかった。「ごめんね。気付かなくて」「もう、なんで謝るかなー」綯足は笑って、佐天と歩みを並べた。ちらほらとすれ違う常盤台の先生や生徒に挨拶をしながら、二人で校門をくぐった。佐天は、階段を下りて常盤台の敷地を振り返る。「よし、来週またくるぞー!」「おー! って、次の学期もだよ。佐天さん」「九月から毎日来るから覚悟しろー!」「もう。人が見てるって」そう咎めながら、綯足もお腹に手をあてて笑っていた。前に来たときより、今日の朝より、佐天はこの学校のことが好きになっていた。