「じゃあ、またね、綯足さん」「また来週ね、佐天さん」アドレスを交換して、学舎の園のゲート前で二人は別れた。同じ制服の生徒がいるせいで、綯足はあっという間に雑踏にまぎれる。夕日はまだまだ赤みが差すには早い時間だが、長くなった影が夏の終わりを感じさせた。「さて、それじゃ帰りますか」「そうですわね」「……あれ、白井さん?」振り返ると、穏やかな顔で白井が佐天を待っていた。ゲートの内側には白井だけしかいないが、外側で、ぶんぶん手を振ってくれている友達もいた。「初春……。それに春上さんも!」「みんなで一緒に帰るんだって、初春から連絡がありましたの。それで私も風紀委員の仕事を済ませてすぐこちらに来ましたの」「そうなんだ。……その、ありがとうございます」「お世辞なんて水臭いですわ。もうじき同級生かもしれない相手に向かってですから、尚更ね」二人でゲートをくぐり、初春、春上と合流する。「お疲れ様です!! 佐天さん!」「お疲れ様なの」「二人ともありがと」「それで、そのっ、結果は……?」「あー、うん」わざと言葉を濁して、佐天は困った顔を作って頭を掻いた。答えるのを躊躇って帰り道を歩き出す。その反応に、初春を筆頭として皆が言葉を失った。「演算能力足りてないって」「えっ?」「応用力もまだまだだし、もっと磨いて来いって怒られちゃった」「それ、って……」初春が、まるで自分が落第したみたいに、暗い顔をした。かわいいなあ、と佐天は思う。こんなに心配してくれるなんて。繁華街に通じる道を歩きながら佐天は思わずにやけた。「だからレベル3しかあげられないってさ」「へっ?」「……意地が悪いんではなくって? 佐天さん」「あはは」同じ事を常盤台の先生にやられたのだ。ちょっとくらいいいじゃないか、と思う。ようやく佐天の引っかけに気付いた初春が、口をぷくっと膨らませて抗議を始めた。「ひどいです佐天さん! 落ちたのかって、落ちたのかって思ったじゃないですか!!!」「やーごめんごめん。初春が可愛いからさ、つい」「そんなの理由にならないですよ!」「そうかなあ」「そうかなじゃありません!」「佐天さん。レベル3になったの?」怒る初春からさらにワンテンポ遅れて、春上がそう聞きなおした。優しくそれに頷き返し、佐天は答える。「うん。ほら」「あ……レベル3って書いてあるの」「でしょ? これで、あたしも常盤台の受験資格はギリギリ手に入れました。みんな、応援してくれてありがとう」初春の顔を見て、最初に心に湧き上がった感情を佐天は言葉にした。支えてくれる人がいたから、自分はここまで来た。「婚后さんにもお礼が言いたかったんだけど」「婚后光子はまだ仕事中ですわ」「え、風紀委員が先に帰っていいんですか……?」「だって先生が指示されたことですもの。私の身分がどうこうという話ではありませんわ」呆れ顔で突っ込む初春にしれっと答えを返して、白井は歩みを緩めた。四列並んで歩いていたのを崩して、二列にする。傍を自動車が走り抜けて行った。佐天は、白井に合わせて後列に並びながら光子は今どうしているか、思い浮かべた。なんとなく、光子に仕事を与えた先生はあのおばあちゃん先生ではないかという気がするのだった。「春上さん」「どうしたの?」「ごめん、あんまり自然だから聞くの遅れたんだけど、その、退院できたの?」よく考えれば、春上は昨日までは入院中だったはずだ。どうして今、ここにいるのか。「お昼から夕方までは外出許可が出たの。ちょっとずつ慣らすんだって」もとより春上は身体的な怪我はほとんどない。復帰が早いのは自然ではあった。「それに絆理ちゃんにも、外の景色とか教えてあげたいから」「そっか」枝先は、流石にまだまだ入院生活が続くだろう。早く快復して仲良く学校に通うようになるのを、佐天は願わずにはいられなかった。その時に、自分はいないかもしれないけれど。心に隙間風のようにさしこむ寂しさに目を瞑って、佐天は前を向く。そこはもう、美琴と白井の住む寮と、佐天たちの下宿の分岐路に当たる公園だった。「そういえば、御坂さんは?」「お姉さまはお忙しい用があるそうですの。『おめでとう』という言葉を言付かっておりますわ」「おめでとう、って。合格するの前提ですか」「事実レベルアップされたではありませんの」「まあそうですけど。それじゃ、御坂さんに会うの、もしかしたら常盤台に合格後かもしれないんだ」「そうですわね……って」そこは、まさに別れ際となるある一角。また今度と別れの挨拶を切り出そうとした、ちょうどその時だった。「お姉さま……?」猫でも追っていたのだろうか。茂みのほうに向かって、常盤台の制服を着た御坂美琴らしい少女が立ち尽くしていた。忙しいはずのお姉さまがどうしてここにいるのか。そして、どうしていつもとまったく違う雰囲気を纏っているのか。うまく処理の出来ない違和感を抱えながら、白井はその少女を見つめる。「おー、いいタイミングじゃないですか。おーい、御坂さん」「あ、お待ちになって佐天さん!」佐天は、ちょっとハイな気持ちのまま、その少女の下に駆け寄る。どうやら今日は頭に、いかついゴーグルを乗せているらしい。サバイバルゲーム用の小道具だろうけれど、質感が本格的だった。美琴らしくないその装備はどういう事情なのか。きっとつついたら面白い話が聞ける気がする。そんな気持ちで、佐天は少女の腕を取り抱き込んだ。「会えてよかったです、御坂さん。聞いてくださいよ、あたし――」それ以上を、佐天は言えなかった。御坂美琴のはずの、それ以外の人間ではありえないはずの少女が、まったくの無表情で、静かに佐天を観察していた。「御坂さん……ですよね?」「……」その誰何は馬鹿馬鹿しいことのはずだった。だというのに、少女は彫像のように瞬きひとつしない。その間は逡巡だったのだろうか、やがて佐天から目をそらし、素っ気ない返事をよこした。「すみませんが、人違いです。とミサカは見知らぬあなたに答えを返します」「お姉さま……では、ありませんの?」「どうしたの?」「白井さん、佐天さん、どうしたんですか?」やや遅れていた初春と春上も、何かがおかしいことに気付いたらしかった。その少女の前に、四人は集まった。「失礼ですが、貴女は常盤台の生徒ではありませんわね。お姉さま、御坂美琴その人でないと言うならば」白井は直感で、それが美琴の演技などではないと気付いていた。なんらかの能力による擬態か、あるいは。「クローン……?」それを呟いたのは佐天だった。この中で一番、噂好きで、都市伝説なんかも大好きな少女。そんなはずは無いと、誰もが心の中で呟いた。「御坂さんじゃ、ないんですか?」「人違いです、とミサカは先ほどの答えを繰り返します」その時、その場にいた誰一人として気付かなかった。この出会いが、どういう意味を持っているのかを。どれほどほの暗い、学園都市の深淵を覗きこんでいるのかを。上条家。最近は家主が別宅に入り浸っているせいで生活感にやや欠けていたそこが、今日に限っては様子が違っていた。と言っても、楽しい空気が漂っているわけではない。一晩の宿を求め、次の日の夕方を迎えた今も、御坂美琴と御坂妹の間には隔意があった。「とりあえず、家の準備は出来ただろ」「そうね。この子がどうこうしない限り、電波はここには届かない」「……」昼間に当麻が買い込んだアルミホイルが、家中の壁と言う壁に張られていた。おかげで部屋の中は銀一色、ギラギラとしていて照明をつけるのが躊躇われるくらいだった。そんなことをした理由は単純。電磁波遮蔽のためだ。妹達は、脳の活動によって生じる電流が生み出す電磁波を増幅し、それを受発信することで情報をやり取りしている。それを遮断するための最も原始的な方法が、御坂妹を導電体、例えばアルミの薄膜で覆った部屋の中に閉じ込めることだ。完全に電磁波を遮断するには1ミリ程度の穴でさえ見つけ出して塞がねばならないが、幸い、御坂美琴がいればその問題は難なくクリアできる。「……手錠、されたい?」部屋の真ん中に御坂妹は座っている。ネットワークから物理的に遮断された経験はこれまでに無い。だからだろうか、襲ってくる孤独感にジワジワと蝕まれているような気がした。自分が製造された目的に照らし合わせれば、なんとしてもこんな状況から脱し、実験へと再び身を投じなければならない。それが正しいことだと思っているはずなのに、御坂妹は行動を起こすことが出来なかった。「もう、いいだろ。何度も話したことだろ」「アンタはアンタで信用するのが早すぎるわよ」そう、このアルミホイルの檻の作成も、そこに自分が幽閉されることも、そして、その状況で二人が実験を止めるために夜の街に出かけることも、もう何度も話し合われ、既に決まったことだった。実験の被験者である自分は、二人に外出を禁じられた。それは、外に出て他の個体とリンクすれば、当麻や美琴の意志よりも誰かの命令を優先して、死へと赴くかもしれないという懸念からだった。その懸念は間違っていない。だって、そうすることが、正しいことのはずだから。やれといわれたら、きっと自分はやるだろう。だけど、だからといって二人の用意したこの檻を壊し、外へ出ようと思うかというと、自分の心は、いや、心などという高尚なものが自分にあるのかは分からないが、御坂妹の心は外へ出ようというアクションを起こせないでいた。その理由は分かっている。昨日の夕方からの、24時間。その間に投げかけられた言葉が、自分を動けなくしているのだった。彼女のお姉さまは、死ぬなと言った。死ぬのは許せないと言った。死ぬことはやってはならないことだと言った。上条当麻という青年も、死ぬなと言った。死んでいいはずがないと言った。絶対に死なせる気はないと言った。そんな自分が死ぬのは、良いことだろうか、悪いことだろうか。ヒトは喪われてはならないもの。ヒトガタの自分は、そんなヒトの代わりに失われるべきもの。そのはずだった。そう刷り込まれて自分は短い生を生きてきた。じゃあ、ヒトにお前は喪われてはならないと宣告されたヒトガタは?御坂妹は、思考をそれ以上前に進めることが出来ないのだった。「どうする気なのか、正直に言いなさい。アンタが嘘をついたって私にそれを調べる術はない。だから……私はアンタの言ったことを信じる。信じるなんて言っても、本当は信じないって選択肢が選べないだけだけど」せめて、紡がれた言葉が欲しかった。口約束なんて不確かなものに意味なんて無いけれど。表情に乏しい御坂妹の瞳と、毅然とした表情の中でどこか揺れている美琴の瞳が視線を交わらせる。「お二人が戻るまでここにいます、とミサカは誓います」「……わかった」「いいのね?」「善悪の判断を、ミサカはつけられませんでした。判断保留が決して有益でないことは承知していますが、今は状況を見据えたいと、ミサカは偽りの無い気持ちを言葉にします」「そう。なら、絶対にここに戻ってくるから。だから、お願いだからそれまで、ここにいて」御坂妹に背を向け、扉へと歩き始めながら美琴はそう宣言した。今から、今日これからで全てに決着をつける。こんな馬鹿げた実験なんて終わらせて、許されない死を、ここで終わりにしてやる。「メシは炊いてある米と冷蔵庫の中身で何とかしてくれ」ぽんぽんと頭を叩いて、ツンツン頭の少年が美琴に続いた。今から危険な場所へ赴くというのに、なんて場違いなことを言うのだろう。だけどそれを指摘する気持ちが湧き上がらなかった。きっと、食事なんて摂る気になれない気がする。自分が選んだこの選択肢は、何処までも「停滞」を意味している。死地へ向かう二人を止められず、刷り込まれた価値と二人の言葉の齟齬に判断を下すことも出来ず、自分はただ、ここに座っていることだけを選んだのだ。それが今の、御坂妹の限界だった。「じゃ」「行ってくる」一瞬だけ、家の扉が開いた。赤い夕日の色が部屋に差し込み、一瞬後、御坂妹は誰もいない部屋に一人、閉じこもった。夕日が眩しい通学路を、光子はとぼとぼと歩く。風紀委員の白井黒子でさえ帰ったというのに、最後まで仕事を手伝わされた結果がこれだった。「……夕食の準備は、私ですわね」今日は当麻は、黄泉川家に来ない。朝は一緒に過ごしたけれど、夜は用事があるらしい。詳しい内容を聞くことが出来なくて、隣人の土御門と一緒らしいということしか知らない。その名前は昨日も聞いた名前だった。確か片付けの手伝いだったか。昨日と同じ相手と一緒にいるというのが、当麻の言葉の信憑性を高めているような気もするし、逆に言い訳であることの証拠のような気もした。「疲れているのかしら。こんなつまらないことで、ウジウジと悩んで」声に出して、自分を非難する。だって当麻は一度だって自分を裏切ったりしたことはない。いつも自分が不安がって、疑心暗鬼になっているだけで、当麻はずっと光子のことを見ていてくれた。だから、変な不安なんて捨ててしまえばいいのだ。そう分かっていても、なかなか光子の心は晴れなかった。「いっそ、当麻さんの家に寄れば」悪くない気がした。自分は彼女なのだ。合鍵だって貰っている。会いたいから会いに行って、悪いことなんて無いはずだ。気恥ずかしい思いをさせるかもしれないけれど、それくらいは付き合っているんだから、いいはずだ。「……どうせ買い物のついでにちょっと足を伸ばすだけだもの」そう決めてしまえば、頭に浮かぶのは、いいイメージばかりだ。男友達と話している当麻の所に自分が押しかければ、きっと冷やかされる。当麻は照れるだろうけれど、嫌な顔をしたりはしないだろう。そしてきっと自分のために席を外してくれて、二人っきりの時間を少しだけ取ってくれるだろうと思う。「どうして来たんだ」「当麻さんのお顔が見たくて」それだけで、もう自分のつまらない不安なんて消し飛んでしまうのだ。なんだ、それでいいじゃないか。そんなことで済んでしまうような悩みを、どうして自分は晴らしてしまえなかったのだろう。光子は大通りを曲がって、スーパーへの道を、少しだけ遠回りするルートに変えた。「準備はいいのか、御坂」「ええ。アンタこそ」「俺はこれで大丈夫だ」「……服のことを聞いてるんじゃ、ないわよ」美琴は制服姿ではなく、昨日着ていた短パンとTシャツの出で立ちだった。当麻も当たり障りのない、大手量販店の品で固めた私服。部屋を出てエレベータに乗り、階下へと下っていく。「アンタには、本当は関係のないことなんだから」「何度言わせるんだよ」「これが最後よ。だって、この先まで行っちゃえば」もう、やっぱり関わるのは止めなさいなんて言えなくなる。今が最後の引き際なのだ。「俺は、お前や御坂妹の事情をもう知ってるのに、それを放り出してどっかになんて行けない。他人事じゃない。それを見なかったことになんて、出来ない」「……アンタに大したことが出来るって期待はしてない。けど、今ここで引き下がらないんなら、私はアンタにも、役に立ってもらう気でいるから」「ああ。そうしてくれ」チンとベルを鳴らし、エレベータが到着したことを伝えた。シャワシャワと夏の終わりの蝉時雨が騒ぎ立てる中、二人は雑踏の中へと、静かに歩き出した。未だ視界に入らぬ、妹達を作る工場を睨みつけながら。「え……?」光子が最後の角を、ちょうど曲がったその時だった。数十メートル先には、当麻の住む寮のエントランスがある。手の平にはもう、当麻の部屋の合鍵だって用意してあったのに。――――眼前には、エントランスから出てどこかへ消えていく男女の影。見たことのある背格好と髪型、見たことのある服。男が当麻なのは、見間違えなどでは有り得なかった。じゃあ、女性のほうは?目深にキャップを被っていて、顔は半分くらい隠れていた。どうしてそんな変装じみたことをするのだろう。まるでそれじゃ、浮気現場みたいだ。……それが誰なのか、考えたくもなかった。だけど、背格好で、すぐに分かった。一つ一つ特徴を確認するまでも無い。自分の直感を、光子は疑わなかった。「なん、で」疑問の言葉だけが脳裏をリフレインする。今日は、当麻は男友達と用事があるらしいのだ。もしかしたら、用事なんて大層なものじゃなくて、ゲームでもしているのかもしれない。そういう予定の、はずなのに。夜の街に、女の子と、御坂美琴と二人きりで繰り出すなんてこと、あるはずが無いのに。「当麻さん」呟いたその名前の空虚さに、光子はゾッとした。そうやってあの人の下の名前を呼んでいるのは、自分だけじゃないかもしれない。愛されていると思っていたのに。その裏で、美琴は自分を笑っていたのだろうか。浅はかな女だと。クラクラと揺れ動く視界の中で、光子は思わず壁に手をついた。その間に、光子の視界の外に、あっという間に二人は消えていった。「嘘……嘘」――――口の中に湧き上がった裏切りの味に、光子は押さえ切れない吐き気を感じて、そこにうずくまった。余りにも酷い現実は、泣くことも嗚咽を漏らすことも、許してはくれなかった。「――――ということで、5分ほどで到着するだろう。彼にも説明をしておいてくれ」「わかったわ。話はそれだけ?」「ああ」「そう。それじゃ」傍らに置いた端末をパタンと閉じて、少女は軽くため息をついた。装飾の少ないナイトドレスからすらりと伸びた四肢を丸め、片膝を抱くようにしてソファに座る。学園都市内でもそこそこの高さのビルの、窓際に置かれたそのソファからは都市内の夜景が綺麗に映っていた。それに見蕩れることも無く、少女は日課であるマニキュアの補修を行っていた。足の親指から順に、剥げ易い爪の先に足すように塗り広げていく。暗みがかったワイン色のマニキュアが似合うような年ではなく、事実、娼婦と見るにはあまりに体の線が若すぎるが、妖艶さというよりは危うさを感じさせるその雰囲気が不思議と少女には似合っていた。その装飾には、あるいは『心理定規<メジャーハート>』と呼ばれる彼女の能力を利用した「副業」と関係があるのかもしれない。不意に、少女が顔を上げフロアの奥を見た。そちらにあるのはエレベータだ。「あら、随分と早い……違うわね。彼のほうかしら」エレベータが開くと、現れたのは青年だった。フロアの調度に対し似合ってなくもない、それなりにフォーマルな服を着ている。彼ともなれば所持金はいくらでもあるだろうから、一ヶ月前までならこのフロアで食事くらいは出来ただろう。ここは、つい先月夜逃げしたばかりのフレンチ・レストランの跡地なのだった。「お早い出勤ね、包帯男さん」「誰が包帯男だ」「体から薬品の匂いをさせているんだもの。服の下はどうせそうなんでしょ?」「……」目の前の長身の青年、垣根帝督が不機嫌そうに顔をゆがめ、少女から離れたソファにどかりと体を預ける。その際についた呼吸が、少し震えていた。「とうとう隠し切れないレベルになってきたのね」「あ?」「体のほうよ」少女は一度目の当たりにして知っている。垣根提督は恋人らしき少女を助けるために無茶な能力行使をし、そして、理由は分からないが代償として体を損傷させている。治るよりも壊れる勢いのほうがいくらか早いせいで、垣根は会うたびに消耗していっている。寿命はもって今月末ということだから、やせ我慢などせずに体を労わってやればいいだろうに。「これくらい何でもねーよ。別に俺は体が動かなくたって大して問題ない」「そう。あなたがそう言うなら、私は、それでいいけどね」「あん?」フゥンと小さな音を立てたエレベータにもう一度目をやる。階下に下って行ったということは、おそらく、来たのだろう。「いつものエージェントは、かなり心配しているみたいよ」「お前の中で心配って言葉はどんな意味だよ。あの男がしそうな行為なのか?」「彼は自分の手元で動かせる人間のメンテナンスには気配りしそうなほうでしょうね。それで、今日あなたを呼んだ理由だけど」少女はポーチにマニキュアを仕舞い、ソファから立ち上がった。そしてエレベータホールのほうに歩みを進める。垣根のほうをじっと見つめて、相手をこちらに振り向かせた。不機嫌な目と無関心な目が交錯すると同時に、チン、と音が鳴った。「新メンバーが加入することになったから、その顔合わせをするわね」そこから出てきたのは、お嬢様学校の制服に身を包んだ女子中学生だった。短めに切りそろえられた髪に黒縁眼鏡。野暮ったいとまでは言わないが、平凡ではある。巷の評価なら可愛らしいなどといったものもあるだろうが、学園都市の暗部にいる人間としては、不似合いすぎた。「お二人が『スクール』の人たちですか?」「……『スクール』?」「あれ、え、ちがいます?」垣根の露骨な不審顔に、穏やかな顔で返す。その様子は天然っぽくも合ったが、どちらかというと打算な気がした。事実、偶然や何かでこんな場所には来れやしない。ドレスの少女は、小出しに与えられる情報のせいでさらにイライラを募らせた垣根にフォローを入れてやる。「私たちを運用するのにグループ名がないんじゃ不便ってことで、エージェントが指定してきた名前よ。だから彼女の言っている事は間違ってないわ」「……そうかよ」名前などどうでも良かった。『スクール』などという安直な名前のせいで、命名の理由を聞く気にもなれない。「私は元々体を動かす能力者じゃないし、あなたも怪我で不安が残る。そういうことでエージェントが連れてきたのが彼女って訳。よろしくね。いきなり、あなたには色々動いてもらうことになると思うけれど」「別にそれは構いませんけれど。あ、自己紹介が遅れました」スタスタとローファの音を響かせ、少女は二人の手前までやって来る。適当なソファに少し膨らんだ鞄を置いて、丁寧にお辞儀した。「綯足です。レベル4の流体制御系の能力者です」「垣根だ」「よろしくね」「……ええと」垣根は名前だけ、もう一人のドレスの少女のほうは営業スマイルだけだった。綯足は困った顔を返す。まあ、ある程度はエージェントから聞いているから、知らないわけでもない。それに。「垣根さんって、第二位『未元物質』の垣根帝督さんですよね?」「ああ」こちらをもう見もせず、垣根はぞんざいに返事をした。「先月くらいまで、こっちの業界で垣根さんのお名前を聞いた覚えはなかったんですけど。やっぱり、こないだの三沢塾の一件、あれに関係していたんですか?」「……そんなことを聞いてどうする?」「すみません、興味です。それより、今日は顔合わせで終わりですか? 一応私、それなりに真面目な学生なので帰れるならすぐ帰りたいんですけど」「……まあ、別に今日何かやれとは言われてないけど。そうね、私たちの初仕事の内容、聞いてる?」「いいえ」「そう。ならこれを見ておいて」ドレスの少女が、綯足に封筒に入った写真を手渡した。開けて中身を覗き込む。「……可愛らしい髪飾り」「それが私たちのターゲット」「どうすればいいんですか?」「生きたまま誘拐」「分かりました」綯足は何枚かある写真を一つずつ見ていく。中には制服を着ているものもあった。「このセーラーだと公立、それもレベルは低そう」「能力のレベルは1。どんな能力かは知らないけど、それが障害になることはないでしょ。……何かあるの?」「あ、すみません。今日ちょっと話した子の制服に似てるなって」「どこにでもあるデザインじゃない」「ですね」すみません、と目で謝りながら綯足は写真を封筒に戻した。「だいたい一週間以内には捕まえたい。実働はほとんどあなたになる予定よ。そっちの第二位さんはちょっとお疲れみたいだから」「疲れてようがレベル1を捕まえるくらいなら関係ねえよ」綯足など必要なかったと言うように、垣根が面白くなさそうに呟いた。その態度に苦笑を返して綯足は説明する。「誘拐って結構根気要りますよ。相手の場所も掴まなきゃいけないし、拉致るポイントも大事ですしね」「そうかよ」「あ、でも今回は偉い人に通じてるから、結構楽かな。この子の居場所ってわかります?」「IDがスキャンされた場所は追えるらしいわ。だから大体はわかる」「そうですか、じゃあ、機を見て動きます。今日すぐにじゃなくていいんですよね? とりあえず自分の生活もあるので」「長くは待てないわ。せいぜい、もって十日ってところね」「もって?」わかりにくい言い回しをした相手に、綯足は首をかしげてみたが、意味ありげに薄く笑みを浮かべただけで、何も返事はなかった。何かが「もたなく」なるから、十日以内なのだろう。だが綯足はそれ以上聞かないことにした。大事なのは、その期限を守れるかどうかだけだ。「十日ですね、分かりました。サポートが必要なら電話すればいいですか?」「……ええ。そろそろ下部組織も整うって噂だから、できればそちらを動かして対処して。誘拐の手伝いをやれなんて、面倒以外の何者でもないし」「結局は全部私の仕事ですか」半笑いで綯足はため息をつく。確かに、垣根帝督を運用するにしては随分と仕事が小さすぎる。「あなたがここに連れてきてからは私の仕事よ。そちらは心配しないでいいわ」「わかりました」話は、これで終わりのようだった。もとよりここにいるのは暗部の人間。仲良くなるための時間なんてとったりはしない。必要が無ければ接触することも無いのがこの業界の常なのだ。綯足は置いた鞄をまた持ち直し、帰る準備を整えた。「……この子の情報、まだあるんですか?」「名前は初春飾利。それ以外のことは面倒だからあのエージェントに聞いて」「分かりました。それじゃ、また」「ええ」垣根は挨拶すらくれなかった。それに気を悪くするでもなく、また一人でエレベータに乗り込んだ。そして誘拐すべき少女のことについて、頭で再確認する。「初春飾利、レベル1。おそらく中学生」別段、その少女に思い入れもない。サッと捕まえればいいだろう。その後の彼女の人生について、自分の関与するところではない。「とりあえず電話しなきゃね」そう言いながら、綯足はエレベータが地上に着くのをそっと待った。彼女は、この後エージェントから情報提供を受けたその後も、知ることは無かった。初春飾利の親友が誰なのかということは。