「――――ということで、5分ほどで準備して。いいわね?」「あーはいはい。話はそれだけ?」「ええ。そちらこそ聞きたいことないの? 失敗しないように何か確認事項とか――――」「ないわね。それじゃ」電話の向こうでさらに何かを言おうとするのを無視して、麦野は通話をオフにした。「ったく。言われなくてもギャラの分くらいは働いてあげるわよ」「言葉の割に、珍しく超やる気ですね、麦野」「そう?」少し、高揚が態度に透けて出ていたらしい。鋭い絹旗の指摘にとぼけた声を返して、麦野は自省した。麦野を含めた『アイテム』のメンバー達四人。彼女達が待機しているのは、ゆったりとしたボックスカーの中だった。スピーカーから聞こえてきたのは彼女たちの上司からの仕事の指示で、もう間もなく、彼女たちは与えられた仕事のために動くことになる。その指令は、麦野を除く三人にとっては不可解なものだった。そんな仕事は珍しいこともないから誰も文句は言わないが。内容を簡単に言うと、ある施設を破壊しまわっている能力者を撃退すること。相手は発電系能力者らしい。不可解な点というのは、注文内容に「相手の素性の詮索は無用」とあること。仕事の依頼主は相手の能力のことをかなり正確に理解していて、まるでその相手が誰なのかを知っているようにさえ思える口ぶりだった。なのに、こちらから消しに行くこともせずに、ただ攻め込まれるのを待ち、『アイテム』に迎撃を依頼している。……まあ、事情を知っている麦野からすれば納得の行動ではあるが。『絶対能力進化<レベル6シフト>』はかなり上位のプロジェクトとはいえ、さすがに学園都市の『顔』を消し飛ばすのは無理だろう。「ねー麦野。ギャラはどう分けるの?」フレンダの声に、麦野は思案する。だいたいこういう時の配分は、シンプルな取り決めがある。しかし、今回はそれをあまり歓迎できない事情があった。「いつも通り仕留めた人の総取り……って言いたいところなんだけど、ちょっと私にターゲットを譲って欲しいのよね。襲撃はこっちのビルの可能性の方が高いんだったわよね。だから、そっちに私と滝壺が行くわ。フレンダと絹旗は反対側」「まあ、それは別に構いませんが。でいくらで手を打ってくれるんです?」「私が仕留めたら6割貰っていくわ。残りを滝壺が2割、あんたたち二人で1割づつ」「えーなにそれ! 譲るかわりに1割ってひどくない?」「いくら欲しいわけ?」「じゃあ2割!」「1.5割ね」「横暴だー。私達んとこに来たら全額貰ってくからね」「それでいいわ」口を尖らせるフレンダの相手をそこで打ち切って、麦野は腰を上げた。彼女たちの上司が依頼先から仕入れた情報だと、15分もすれば『敵』が来るらしい。僅か先の未来に思いをはせて、麦野はニヤリと笑みを浮かべた。この件については、自分はただ仕事を引き受けた掃除屋の立場に留まらない。あの口うるさい上司が把握しているのか知らないが、誰が来るのかを、麦野は知っている。絹旗あたりも、敵が誰かまでは分からずとも、自分がそれを知っていること自体には気付いているかもしれない。口出ししてこないので、麦野からは特に何も言わなかったが。「さて、それじゃさっさと終わらせて帰りましょう」その麦野の号令で、『アイテム』のメンバー達はワゴンを後にした。先頭をゆっくりと歩きながら、麦野は押さえがたい戦意を表情の奥に押し込めていく。ようやく、お膳立てが出来たのだ。野試合などではなく、誰かに望まれた形で公然と第三位を倒す、その下準備が。絶望に塗れた御坂美琴の表情を思い出しながら、麦野は襲撃予定の場所、樋口製薬の研究所に足を向けた。――ただ、彼女も、そして依頼主たちも、誰も予想していなかった。御坂美琴の他にも、侵入しようとする者がいることは。夕日が林立するビルの奥に消え、人工の明かりが街を照らすその時間帯。渋滞で込み合う大通りに面した歩道を、佐天と白井の二人は疾走していた。白井はスティック状の携帯端末を常に耳に当て、佐天はその後ろを付き従いながら、白井が立ち止まるたびに白井の肩に触れる。それは二人が向かっているとある研究所へ、最短でたどり着くための努力だった。「初春! 次は?!」『そのビルの『厚み』は裏手まで50メートルです。まっすぐ素通りしてください』「了解」佐天は電話越しにやり取りされるその声を傍で聞き、白井に向かって手を伸ばす。その感触を肌で感じ、白井はすぐさまに能力を発動した。もう何度目か分からない、一瞬の視界のブラックアウト。テレポートの感覚にようやく佐天は慣れつつあった。瞬きをする前とでガラリと変化した視覚情報を大急ぎで処理しつつ、佐天はひたすら白井の後を追う。『白井さん、そこから300メートルは障害物無しです』「そう。走る距離が長いのは休憩と捉えるべきですわね」『行き止まりが、ちょうど研究所の側面の壁になります。そこからは、白井さんのほうでもよく様子を見てください』「ええ、分かっていますわ」高密度に形成された学園都市の街中では、自動車の実効的な時速は30キロを下回る。その中で、文字通りの直線的なルートを時速80キロ近くで駆け抜ける白井達は、超高速移動していると言っていい。そんな二人が今、こうして夜の学園都市を走ることになったのは。「御坂さん……きっといます、よね」「私たちにできるのは、それを信じることだけですわ」つい数時間ほど前に、御坂美琴にそっくりな、とある少女に邂逅したことがきっかけだった。「初春。そちらに変わりは?」『ありません。こちらは三人ともさっきのままです』初春は春上とともに、詰所である風紀委員の第117支部から白井たちに連絡を取っている。そして初春が口にした三人目、それが件の少女。御坂美琴のクローンである妹達<シスターズ>の一人だった。彼女は先程、白井たちもいた頃に宣言したとおり、初春たちに暴力を振るうこともなく、静かに隣で待機しているらしい。病み上がりの春上、バックアップが専門の初春を後方に残し、そこに御坂のクローンをとどめておく。そして白井と自分が実働部隊になるのは、佐天にとっては決まりきったことだった。「佐天さん、飛びますわよ!」「はい!」這い上がる様々な感情を演算に使う脳から必死に追い出しながら、白井は前を見続けた。目的意識がギリギリのところで理性を押し止めていてくれているが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。――――数時間前。白井たちは、第七学区の公園で、『妹達』の一人に出会った。言ってしまえば、見た目が美琴と瓜二つというだけの少女。それくらいなら驚くには値しないはずなのだ。外見を偽装する能力や技術なんて、学園都市にはありふれているのだから。だから普段なら、風紀委員として何かと事件に首を突っ込む悪癖のある自分とて、警備員あたりを呼んでそれで終わりにしたことだろう。そうなる、はずだった。もし初春が、少し前に美琴から電話を貰ったことを思い出さなかったならば。春上たちを救うためにテレスティーナを退けた、その前の日。初春は夜、電話越しに美琴とおかしな会話を交わしたのだった。何に必要なのかわからない符牒<パス>。そのデコードを手伝ってくれという依頼だった。あの時の美琴に感じたどこか不自然な、何かを隠すような態度。それと目の前にいた少女を結びつけて考えた初春の直感は、残念ながら、まったくもって正しかった。「――っとと」「佐天さん、大丈夫ですの?」全力疾走したままのテレポート。それは、転移後の様子まで脳裏に思い描いてある白井にとってはもう何でもないことだが、佐天にとっては大変な作業だ。だが白井が気遣うと、気にしないで、というふうに佐天は首を振った。その表情には、消えない戸惑いが貼りついていた。きっと電話の向こうの、初春や春上だってそうだろう。あまりに、資料が物語る事実が、非現実的すぎた。曰く。この学園都市には、約一万人の御坂美琴の妹達<シスターズ>が存在している。そして、これまでに約一万人の妹達が、実験の過程で死亡、処理されている。こんなもの、まるで実感を伴わない事実だ。あの10031号というナンバーを振られた彼女を見ても。だって、そんなに簡単に人が死ぬなんて。そんなに簡単に人間の複製<コピー>を作るなんて。白井は独り、唇を噛んだ。戸惑いを隠せない友人たちとは、少しだけ違っていた。自分だけは、気づけたはずだった。様子のおかしいお姉さまの姿を、ずっと見続けていたから。だが自分は深くは踏み込まなかった。関わるべきか、見守るべきかを逡巡していた。そして、その判断が、たぶん間違っていたことを白井は思い知らされたのだ。「この壁……」『そうです。これを越えたら、目的の製薬会社の敷地内です』風雨に晒され僅かに黒ずんだ塀。上には簡素ながら鉄条網が張ってあるし、監視だってされているだろう。だが、そういうものを白井は平気ですり抜ける。コストの関係から、テレポーターを想定したセキュリティは張っていないらしかった。それでも、進入するのには二の足を踏まずにはいられなかった。この施設が美琴のクローンの量産プラントだと言っても、見た目は完全に善良な研究施設なのだ。そこに入り口以外から、許可を取らずに忍び込むのだ。それも風紀委員の一員たる、この白井黒子が。「佐天さん」「はい」「迷いはありませんのね?」「大丈夫。さっさと御坂さんのところに、行きましょう」背負うものが少ないからだろうか、まっすぐな瞳で佐天が瞬時に返事をした。その決然とした様子に自分も背中を押される。風紀委員である分、見つかったときに自分の方がより重い処罰を受けるのは確実だ。だけど、その多寡など些細な差だろう。産業スパイそのものの行為なのだから、佐天だって見つかれば拘束されるに決まっている。それを分かっていないのかと問い直そうとして、白井はやめた。佐天は、そういうことをきちんと理解できる、聡い友達だ。それでも、ここにいる。「佐天さん、手を」「はい」出された手を、白井は握った。市街に張り巡らせられたカメラによる監視網、その間隙を縫って、二人は学園都市の優しい世界から、姿を消した。カツカツと、ローファを響かせながら、布束はガードマンに付き添われて通路を歩く。電子機器から発せられるオゾンと酸化物の臭い、それに混じって漂う、培養プラント特有の匂い。いつもの制服の上から白衣を着て、こんな薄暗い室内を歩くと、決まって『彼女』の顔が思い出される。初めて日の光を浴びて、「世界とは、こんなにも眩しいものだったのですね」とつぶやいた、布束砥信の実験動物<モルモット>。10001号と銘打たれた彼女の顔はもう、思い出せない。二万人いる彼女たちの無個性な顔の中に埋もれてしまった。そういうふうに作るのが目的ではあったけれど、その目的が完璧に果たされていることに、あの日の布束は疑問を持ってしまった。だから、今ここにいる。小さな音と共に開いた扉の向こうでは、慌ただしく職員たちが駆けずり回っていた。「あなたが……布束砥信さんですか?」「ええ。はじめまして。御社の学習装置<テスタメント>の監修を担当しました布束です」「はじめまして。すみません、『量産型能力者計画<レディオノイズ>』の頃から関わっているとお聞きしていたので、こんなに若い方だったとは……」対峙した瞬間の動揺をそんなふうに言い訳して、中年の研究者が手を差し出してきた。軽く握手を交わし、当たりを見回す。その視線の意図に気づいて目の前の研究者が説明を加えた。「ちょっとしたトラブルがありましてね、研究所の全設備と研究データを他所へ移す必要がありまして……」「私は何をすればいいのですか?」「ああ、いえいえ。こちらに控えていてくだされば結構です。何分我々もこんな大規模な移送は初めてで……」歯切れの悪い言い回しを続ける研究者の言葉にじっと耳を傾けていると、不意に血相を変えた男が入ってきた。「失礼します! 所長」「なんだ? ……ちょっと失礼」布束の前から少し移動し、入ってきた男の耳打ちを聞いて、所長らしいその研究者も覚悟を決めたような顔になった。「分かった。では急ぎつつ、手はずどおりに」「はい」布束は、もちろんその様子が示すのが何か、よく理解していた。自分がこの施設に立ち入ったのが15分前。その瞬間は、この施設の出入口でセキュリティが甘くなる瞬間でもある。御坂美琴が、侵入したのだろう。そしてもうこちら側がそれに気づけるほどに破壊活動が始まったということでもある。「布束さん、それではこちらにご案内します。学習装置<テスタメント>の搬送もしばらくすれば始まりますので、その時にまたアドバイスをいただければ……と」「そうですか。わかりました」まだ、自分が動くべき時ではない。素直に布束は案内に従った。同時刻、同施設にて。美琴は姿を潜めつつ、内部からセキュリティ情報にハックをかけて、自分たちの身の安全を確保していた。隣では、かばうように当麻が立って周囲を警戒している。当麻はいつもの私服の上から白衣を着込んでいた。そんな変哲な格好をした理由は、似たような人間が施設内をうろついていたから。どうやら、スキルアウトらしき連中を人足として雇って物資の運搬をやらせているらしい。そちらを襲撃する手もあるにはあるが、根元を叩くほうが先だ。二人が侵入しようとしているところは、運搬口から少し離れた、施設深部への通路だった。その先には多分、何百人かの妹達が待機していて、そして彼女たちの育成、いや培養プラントがあるはずだった。そこまでたどり着いたほうが安全だと美琴は考えていた。妹達は、クローンでない人間を殺傷することを強く忌避する。だからこちらなら見つかっても当麻は殺されたりはしないだろう。「……できた」「そうか」障害物の向こうで時折聞こえる足音に緊張を隠せない当麻が、硬い顔で返事をした。プシュ、という音と共に機密の高い扉がロックを解除された。素早く美琴がそれを開き、二人は体を滑り込ませた。「アンタは足音はあんまりたてないようにしながら、降りてきて」「お前は?」「私はアンタの先行くから」怪訝な顔をした当麻に、美琴は多くを説明しなかった。どうせすぐにわかるからだ。すぐさま現れた階段の前で跳躍すると、美琴は階下へと一気に飛び降りた。「ちょ、おい――」「シッ!」声を上げようとする当麻に釘を指しながら、美琴は付かず離れずの距離を先行する。生物系の研究施設と思えない無骨な作りの地下が、建物の外見以上の規模で広がっていた。居住空間としては二階ぶんくらいある高い天井の廊下、そこに連なるのは乗用車が楽に乗り入れられる広い入口を持った部屋の数々。閑散としているのは、施設の運び出しが済んでいる証拠か、あるいはもとから何もないのか。美琴は見えない磁力線を手のひらに束ね、それをつかんでふわりと降り立った。そしてすぐさま、人気のないその廊下を駆け抜ける。「御坂、ちょっと」こわばった顔で、息を切らせているくせに疾走をやめない美琴に追い詰められたものを感じて当麻は思わず声をかけた。その声が聞こえないほど離れてはいなかったが、美琴は当麻の声に耳を貸さず、さらに歩を早くする。当麻はそこで、ようやく美琴の様子がおかしいことに気づいた。早く事態を解決してしまいたい、そんな感じの焦りが美琴の態度に透けていた。慎重さよりも拙速に重きを置いた歩みで、ためらいなく美琴は深部へと向かう。大型のトラックの間をすり抜け、大量の資材を乗り越える。自分たちがいるのは、実験室で作った製造プロセスと実機のプラント運転の間をつなぐ、実証試験用のパイロットプラントを設置するスペースなのだろう。あるけども人の気配に全く出くわさないのをいいことに、美琴が足音を警戒するのもそこそこに、さらにペースを上げた。そして当麻の方を見ることもなく、角を曲がり視界から消える。さすがに、その行為を見とがめないわけにはいかなかった。警戒感が薄いのもあるが、何より、美琴の態度が危うかった。「御坂。急ぐ気持ちはわかるけど、もう少し――」小走りに角を曲がって、思ったより近くにあったその背中に声をかけたところで、当麻は先の言葉を紡げなくなった。美琴が、全く人気のなかった廊下で、じっと『誰か』を睨みつけているから。「ごきげんよう」そこに居たのは、私服姿の、若い女が二人。ひとりは自分よりは年上だろう。だが研究者という風にも見えなかった。もう片方は、私服というか、野暮ったいジャージ姿で、こちらは同い年くらいだった。「アンタは……」「え?」その人を知っている、という感じの口ぶりで美琴が呟いた。「……知ってるのか?」「顔はね。どうも、色々『物知り』な人みたいよ」「ま、そうね」すらりと背が高く、胸を強調するような服を着たその女性は、余裕のある態度で肩をすくめた。「どういうつもりでここにいるわけ?」「どう、って。私は不審者が入れば追い払うようにっていうバイトを引き受けているだけよ。そちらこそどうしてこんなことをしているのかしら、不審者さん?」「……理由なんて、私が言わなくたって知ってるでしょうが」「まあそうね。私が教えてあげたんだったものね? 別に礼を要求するつもりはないけど、その分遠慮はしないわよ?」そう嘯くその女を、美琴は睨みつけた。忘れた訳がない。妹達が投入されている実験を知らせたのがそもそも、この女だ。情報提供という意味では、確かに恩があるとも言えなくはない。だけど、コイツは、真実を知った自分を見て、面白そうに笑ったのだ。礼を言う気にも、そしてこの場にいる時点で味方だと思う気にも、到底なれなかった。「……邪魔だからどいて」「お仕事だからね。そういうわけにはいかないのよ。だから、仕方ないわね」あまり残念そうにも見えない笑顔を浮かべて、その女は組んでいた腕を下ろした。そして、後ろに控えていた当麻に、視線をやった。「あの日の彼氏だっけ? ここまで付いてきてくれるなんて、女冥利に尽きるじゃない」「……」「どれくらい使い物になるの? 別に2対1でも構わないけど、できればサシがいいんだけど」「そっちの後ろにも一人いるけど?」美琴には、正面切って戦う気はない。ここを壊しさえすればいいのだから。だが、口先で牽制し合って互いの実力を図るのは、必要なことだった。「アッチは私のバックアップ。直接手は出さないから。そうね……これ、使っときなさい」小さなパスケースを、女が後ろの少女に向かって投げた。不器用な手つきでそれを受け取り、慣れた仕草で、手の甲に中身を少し乗せた。それを見届けて、女――麦野沈利は重心を軽く落とした。「さ、逃げられると仕事にならないし。――灰も残さずプラズマに変えてあげる」それが戦いの、合図だった。狙い通りに美琴を自分の方に呼び込めたことにほくそ笑みながら、麦野は美琴と、後ろの雑魚の始末をどうするか、プランを描き始めた。襲撃者が訪れず、することのなくなったはずの残りのメンバーのことは、脳裏には少しも浮かばなかった。フレンダと絹旗は、階段の上から慎重に侵入者を見下ろす。「……ターゲットは一人と聞いていましたが」「自信満々で一人って言ってたクセにぃ、あんのやろう」臨戦態勢を保ちつつも、話が違うことに絹旗とフレンダは文句を行ってやりたい気分だった。そして侵入者の二人も戸惑っている様子だった。まあ、自分たちのような能力者の掃除屋に出会ったのが初めての連中が決まってみせる表情だ。「あなたがたは、何者ですの?」ツインテールの少女が、そう尋ねた。しかし制服を着ているのは冗談なのだろうか。それも、超有名校、常盤台のなんて。もう片方は特徴のない制服だった。とはいえ、こちらも研究施設に侵入した人間の装いとしては極めて不自然だ。「何者って、ねえ。言う意味あるの?」「何がおっしゃりたいの?」「結局始末されちゃうのに、教える意味あるのって言いたい訳よ」「……」白井は、金髪の少女のとぼけた態度に対して、警戒心を深めた。相手はスキルアウトのような暴力に溺れた不良とは違う。「おしゃべりは超そこまでにしてください。あちらと連絡が付きませんし、さっさと済ませるべきでしょう」「え? つながんないの?」「どうも上が予想していた以上に忙しいようですね」もう一人の、ショートパンツからスラリと白い足を晒し、半袖のジャケットから生えたフードを目深にかぶった少女が端末を畳みながら階段の淵に歩み寄ってくる。「我々は雇われ稼業の人間です。受けた仕事は侵入者の排除。捕縛と追跡は仕事に入っていませんので、逃げてくれれば追いませんよ」「あ、それいいね! 頑張らずにギャラをゲット!」こんな異常な事態の中で、明るく振舞うその少女に、白井と佐天は困惑を隠せなかった。さっぱりわからないのだ。こんな場所に、自分たちと同年代の女の子が、それも敵としているなんて。「どうしてあたしたちの邪魔をするの?」「……そちらと似たような状況だと思っていましたが」何かを言おうとしたフレンダを遮るように、フードの少女、絹旗最愛が返事を返した。「私たちは金銭目的ではありませんわ。そちらこそ、ここで何が行われているか分かっていて、お金のためにこんなことをしますの?」ギャラをゲット、というフレンダの言葉を、白井は聞き逃していなかった。たんに金銭目的で、このような非人道的な実験に加担しているのなら、彼女たちの相手をする理由なんてない。不意に見つかったからと、時間を割いて言葉を交わしたこと自体が無駄だった。「別に何してるかなんて知らないけどねー。興味もないし」それは、自分が加担しているのが悪事であろうと薄々分かっていながら、それに全く頓着していない、というポーズだった。「白井さん」「ええ。話し合う時間はありませんわね」美琴を見つけて、無事に戻るまで、自分たちは引き下がれないのだ。まだ何も成し遂げていないこんなところで、足止めされるわけにはいかない。だが、別段話し合いも、有効的な態度も取る気がないのは、フレンダ達にとっても同様だった。「あ、やる気? なら先手は打っても文句ないよね?」警戒は怠っていなかった。だが、フレンダ達の方が、きっと戦いに関しては上手。無造作に手にもったペン状の何かを、フレンダが放り投げた。「――っ!」「佐天さん!」直後。光が走り抜けて、佐天と白井のいた場所を、爆風が吹き飛ばした。じっとりと首筋を伝う汗を不愉快に感じて、光子は空を見上げた。どのくらい時間が経っただろうか。空を見上げると、夕日がいくらか傾いていた。もっと長い間、何もできずに立ちすくんでいた気がしたのに。時の流れは、こういう時には持て余してしまうくらい遅かった。帰らなければ、と理性が訴える。一人歩きすべき時間ではなくなるし、きっと黄泉川家でインデックスがお腹を空かせていることだろう。だけど、そうしたくなかった。このまま夜の繁華街でも、当てもなくぶらつけば、心に空いた隙間を埋めてくれるかもしれない。自分の知っているところに戻れば、いずれ当麻に見つかる気がする。会いたくなかった。どんな顔をして会えばいいのかわからない。恨めばいいのか、泣けばいいのか。でも、光子の心の中に渦巻く気持ちは、どれも刃の向きが自分に向いていた。もう、自分は当麻に会えないと思う。あれは自分の見間違いだったかも、なんて考えはもう何度も吟味した。だが、何度思い出したって、光子の前で寮から出ていったのは当麻で、そして付き従っていた女の子は、美琴だった。自分に嘘を言ってまで、当麻は美琴と過ごすことを選んだのだ。自分はそれに何を言える?当麻に会っても、泣くことしかできないだろう。美琴に会うことは、考えたくなかった。自分の怒りの刃は、彼女には鋭く向けられているから。「……合鍵、なんて」当麻とすれ違う直前まで、もしかしたら使うかもしれないと思って鞄に忍ばせていたそれが、急に汚らわしく思えた。だってその部屋から、美琴と当麻は出てきたのだ。ずきんと、その事実を認識して心が痛んだ。初めてキスをしたのは、あの部屋だった。初めて彼氏に手料理を振舞って、喧嘩をして、キスをした。インデックスが現れたのは、なんとも言い難い思い出だが。それを、美琴に汚されてしまった。そこは当麻の部屋であり、上がり込んでいい女は自分だけのはずだったのに。カツ、とローファで小石を蹴り飛ばした。そして、近くの家の塀を見上げた。このまま、合鍵を投げ捨ててしまおうかと、そう考えた。「……部屋に、返しましょうか」思いとどまったのは、育ちの良さから来るものだった。ポストに入れておこうかとも考えたが、結局、部屋番号を確認しに上がらないとどこに入れたらいいかわからない。それなら、一言書いたメモと一緒に、当麻の部屋の新聞受けからでも、鍵を返してしまえばいい。とぼとぼと寮のエントランスをくぐり抜け、八階を目指す。常盤台の制服を着ているせいだろう、向けられる視線が奇異に染まっていて、鬱陶しい。人目から逃げるように当麻の部屋へ進む。けれど。「――お、そこにいるのは、たしか婚后」「カミやんの彼女か」今から出かけるところという雰囲気の兄妹が、そこに居た。どちらの顔も見覚えがある。兄の方は、当麻の隣人で、悪友だ。妹の方は、たまに自分の学校に研修に来る。「土御門さん。……ごきげんよう」「上条当麻に会いに来たのかー?」舞夏の何気ない言葉に、光子は何を返していいかわからなかった。隣では、軽薄な装いの兄が口をつぐんでいた。「まあ、そんなところですわ」「……舞夏。ハンカチ忘れたからとってきてくれ」「えー、自分でやれ」「どこにあるかわからないからにゃー。舞夏がどこに仕舞ったかわからんぜよ。勝手に漁ると怒るし」「出すときに散らかすからだってのをどうしてわからないかな。まあいいや、ちょっと待ってて」じゃあね、という感じで光子に笑みを送って、舞夏は部屋に戻っていった。光子は土御門に相対したまま、それを見送った。「……私に、何か」「んー、まあ俺に何か聞きたそうな顔をしてたからにゃー」「……」そんな思わせぶりな態度をとるということは、つまり。……別に再確認する必要はないのだ。当麻が美琴と一緒にいたことは、ほかでもない自分で確認したのだから。「土御門さん、昨日の夜は当麻さんとご一緒でしたの?」事情を知らなければ戸惑いを覚えそうな質問を、前置きなしで光子は突きつけた。だが土御門は、動揺することもなく、ただ何かを悟ったように頷いた。「いや。昨日はカミやんとは会ってない」「――――そう、ですか」「婚后さんこそ、昨日はここに来なかったか? カミやんの部屋が騒がしかったけど」「いえ」もう、充分だった。せめて、ここに来た用件だけは済ませよう。「なあ、その鍵、どうするんだ?」「え?」会釈して、通り過ぎようと思った矢先。土御門が光子の手を見ながら、そう尋ねた。「……私には、もう持っている資格がありませんから」「返すのか。なあ、一回くらい、部屋を見てみたらどうだ」「どうしてそんなことを勧めますの?」「間違いかもしれないから、だ」「間違い?」間違いを犯したのは、不義を働いた当麻のほうだ。今ここで確認したことが、勘違いな訳がない。これ以上何があるというのか。だけどそれを言い返すより前に、舞夏が部屋から出てきて、ハンカチを土御門に渡した。「お、サンキュ。それじゃ買い物に繰り出すぜい!」「遊びに行く時のテンションで買い物に付いてこられてもなー。それじゃ婚后、またな」「ええ」「ま、部屋見て考えることをカミやんの友人として勧めるぜい。それじゃあな」ひらひらと手を振って離れていく土御門に、光子はどう返していいかわからなかった。その、去り際に。「これからもカミやんをよろしくな」軽いようでどこか真剣な響きの、そんなお願いをして階下に消えていった。「……」わからない。というよりは、明らかにおかしい。土御門と今確認したのは、当麻が、自分以外の女を部屋に連れ込んだという事実だったはずだ。もう、当麻をよろしくなどと言ってもらえる立場に自分はないはずだし、自分だって当麻のしたことを許して受けいられれるとは思えなかった。だから、今日で、二人の関係はおしまいだと思っている。だからこんなに苦しくて、眩暈すら覚えているのに。でも、もしかしたら。期待をしそうになる自分の心に恐怖を覚える。そうやってまた落ち込むなんて、嫌なのに。予定通りに、自分の足は前に進む。ほんの数歩、それで当麻の部屋の目の前にたどり着いた。鍵に手を触れることがどうしてもできなくて、意味もないのに、インターホンを鳴らした。返事はなかった。当たり前だ。家主は今、ここにはいないのだから。美琴と、どこかに出かけてしまったのだから。光子の長い溜息が、人気のない廊下にかすかに木霊する。この鍵穴に合鍵を通したとして、何がわかるだろう。美琴のいた痕跡があるかもしれない。ないかもしれない。でも、それだけだ。悩むくらいなら開けてばいい。それが怖いなら、扉についた小さな口から、鍵を放り込んでしまえばいい。そう思いながら、意を決して、鍵に手をやった。「……?」そうして、ふと気づく。扉の隙間からかすかに覗いた、銀色の何か。注視するまでもなく、それはくしゃりとなったアルミホイルだった。まるで何かを漏らさないよう塞ぐかのように、扉の隙間にしっかりと詰めてあった。「なんですの、これ」部屋の修理だとか、そんなふうには見えない。とはいえ、別にこれを何かの事件などと結びつける必要はない。ただのアルミなのは、見ればわかった。……だけど。光子は鍵を取り出し、一瞬、その先を戸惑いに揺らしてから鍵穴へと突っ込んだ。この夏を迎えてから、光子は今までと全く違う人生を歩んでいる。インデックスと出会い、魔術師たちから彼女を守り抜いた。間接的とはいえ、春上たちと知り合い、学園都市の暗部から彼女たちを救い出した。どちらの時にも、ふとしたきっかけが、日常を塗り替えていった。小雨がアスファルトの匂いを変えていくように、そのはじまりは何気ないものだ。嗅覚と言えるほど、異変に鋭い感性を得たわけではない。だが光子は、そこに当麻の光子に対する裏切りだとかを超えた何かを感じて、鍵を回した。鍵はなめらかにその力に答え、ロックを解除した。ノブも扉を開くことに抗いはしなかった。アルミがカサカサと擦れる音を立てながら、扉はあっさりと開いた。そして廊下を見つめて、光子はギョッとした。一面の、銀。もっとも銀よりはくすんだ色をした、ただのアルミホイルの色だ。それが、床と言わず、壁、天井にまで貼り付けられている。部屋に入る前、自分の過ごした当麻の部屋が変容していることを、光子は恐れていた。だがこんな意味じゃない。こんな異様な変化を、光子は予想していなかった。そして何より。「え――」「――どなたですか、とミサカは鍵を使ってこの部屋に入ったあなたに問いかけます」自分と同じ、常盤台の制服。茶色がかった肩までの髪。当麻と一緒に、ここから出ていったはずの御坂美琴が、そこに居た。いや、見た目は美琴だが、この違和感はなんだろう。「御坂さん、ではありませんわね」「肯定します。それともう一度質問をくり前します。あなたはどなたですか」「常盤台の婚后光子ですわ。ここに住んでいる上条当麻さんの――」その先を光子は言い淀んだ。二人の関係がここで終わってしまうと、そういうつもりで来たから。だけど、事態はそんな光子の絶望とは違う様相を見せてきた。「――恋人です」そう、言い切った。美琴に酷似したその少女は、わずかに表情を驚きに変えて、呟いた。「言動から推察してはいましたが、やはり上条さんには恋人がいらしたのですね、とミサカはお姉さまにわずかに同情します」「……貴女は、当麻さんとどういうご関係ですの?」お姉さま、という響きが美琴を指すのだろうと想像しつつ、光子は最も大事なことを確認した。「事情があって他に行く所のない私を、昨日と今日限りで泊めて下さいました。お姉さまも昨晩はここにいました。ただ、上条さんは私たちにこの部屋を貸してすぐ別のところにお泊まりに行かれたので、部屋で共に過ごしてはいません、とミサカは上条さんの恋人に対する弁明としてベストなものを探しつつお答えします」「その事情というのは、何ですの?」「それをお教えすることはできません、とミサカは事実の開示を拒否します」「秘密にするのは、当麻さんと御坂さんがここから出ていったことと関係はありますの?」「イエスでありノーでもあります。お二人が共に行動されていることと事情は起源を一にしますが、上条さんたちに指示されたから黙っているというわけではありません」「……そもそも貴女は誰ですの?」「その質問にもお答えできません。上条さんにいただいた愛称ならばお答えできますが」御坂妹と申します、と無表情に答えながら、その少女はまたも黙秘した。光子はそれを冷ややかに見つめながら、じっと考えを巡らす。「アルミで部屋をシールしたのは、どうして? ……電磁波対策ですの?」「ええ」「どうしてこんなことを?」「お答えできません。ただ、私はずっとここの中から出ないように言いつけられています、とミサカはできる限りの事情をお伝えします」扇子を開いては閉じ、いつもの優雅さを欠いたまま、光子は御坂妹を睨みつける。容姿は、あまりに美琴に似すぎている。学園都市の科学技術は底なしだから、全くの他人でも美琴そっくりに返送できないとは言い切れない。だけど、きっと彼女は、そういう存在じゃない。「どうあっても、何も仰らない気?」「はい。申し訳ありませんが」「痛い思いをしても?」「拷問という苦痛を与えるのが目的の行いに対し、どの程度までこのミサカが耐えられるかは未確認です。ですが、死ぬほど痛い、という程度でしたら別段どうということもありません、とミサカは否定的な回答を行います」「……」もちろん、光子には苦痛を与えて情報を吐かせる術など持ち合わせていない。虚勢を張っているだけかもしれないが、それ以上確かめることもできないのは事実だった。「教える気のない人に何を聞いても無駄かもしれませんけれど」ポケットから携帯を取り出す。同時に一面銀世界のこの部屋では、まともに電波が入らないだろうことに気づく。「御坂さんと当麻さんは、危険なところに向かっていますの?」「……答えることは、できません」「そう。意外と、わかりやすい人ね、貴女は」御坂妹の逡巡で、感づいてしまった。また、当麻は行ってしまったのだ。光子と一緒にインデックスを助けたように。今回は、自分じゃなくて、美琴が隣にいるみたいだけれど。それ自体は、すごく嫌だ。どうして自分に声をかけなかったのか。それどころか、秘密にしようとしたのか。問い詰めて、たくさん怒らないと気が済まない。光子は御坂妹に背を向けた。室内では電波が届かない以上、電話をするには外に出ないといけない。そしてこの少女は室内に居なければならない。まったく、どうして恋人の家にこの少女を残して、自分が出ていかないといけないのか。「どうされるのですか、とミサカは問いかけます」「貴女は教えてくれないみたいですから、他の人に聞くんですわ。もう一度確認しますけれど、ここにいるのは当麻さんたちの提案ですのね?」「はい」なら、言うことはない。こんな異様な光景を作り出してまで、当麻たちはこの少女をここに留めることに決めたのだ。その判断を覆す理由は光子にはない。「そう。わかりました。私が言うのもなんですが、それなら中にいらっしゃればいいわ」「あなたは?」「決まっています。当麻さんが誰かのために動くなら、私もそれに付き従うだけ」返事を聞かず、光子は携帯を手に、御坂妹の残るその部屋を後にした。足取りは、この部屋にたどり着いた時の迷いに満ちたものとは、もう違っていた。おかしなことだと思う。常盤台のエリートと言ったって、自分はただの女子中学生。なのに、当麻がいるというだけで、危険な目に合いに行くのを、ためらわない自分がいるのを、光子は自覚していた。「当麻さんは、どうしてこんな莫迦ばっかりなさるのかしら」その愚痴っぽい独り言に、安堵が篭っていたのは否定できないが。毅然としたストライドで、光子は一歩を踏み出した。パタリと閉じた、扉の向こうを御坂妹はじっと見つめる。「……」一瞬だけ開いた、わずかな隙間。そこから御坂妹は妹達の思考の海、ミサカネットワークにアクセスしていた。得られたのは断片的な情報のみ。だが、どうやら一人、美琴の知り合いに拘束された個体がいるらしい。白井黒子、初春飾利、佐天涙子、春上衿衣。彼女らの誰かは婚后というあの少女と知り合いだろう。特に白井は同じ常盤台の生徒なのだ。取り残された室内で、御坂妹は悟っていた。直感なんてものを信じるには、あまりに自分達は非人間的な存在なのに。婚后という名のあの女性は、きっと真実を手にするだろう。そして、危険を承知で、恋人のところへ向かうだろう。瞳の輝きが、当麻にそっくりだったから。そして自分は、それを止められない。当麻を止めずに、光子を止める理由がないから。「戸惑いを感じて停滞したままで、それでいいのでしょうか」そう、禍々しいほどに銀色の世界で、ひとり呟く。ネットワークからも、人からも断絶した彼女に、答えは出なかった。