とある製薬会社の研究所。佐天と白井が相対している敵の片方、中学生か高校生と思しき金髪の少女が地面に向けて何かを落とした。不意を打たれ、佐天はとっさに心のギアを入れ替えることもできず、ただ落下する様をを見つめた。ちょっと太めの万年筆みたいなもの。先端はペンじゃなくて、少し鉤状に曲げられた金属針が取り付けられている。重心がその鉤の近くにあるのだろう。地面に針を向けて、まっすぐと落下した。その落下予定地点には、あとから誰かが貼ったのであろう、テープのようなものが一直線に走っていた。そしてその先にはかわいらしい人形が場違いに鎮座している。そのミスマッチさが、脳裏に警鐘を鳴らした。どんな手かは知らないが、これはあの金髪の少女からの、攻撃の始まりだ。ペン状の何かがその先端をテープに触れさせる。バシュッという音とともに、テープ、否、導火線が火花を立てて弾け、人間の全速力よりずっと速いスピードで火種を人形へと運んだ。「――っ!」「佐天さん!」花火に似た導火線の燃える音とは違う、けたたましい音が佐天の耳に届いた、その瞬間。――バ、アァァァァァァン!佐天の目が一瞬にして違う風景を映し出す。すぐそばで聞こえるはずの爆音は離れて聞こえた。それは今日一日で慣れ親しんだ感覚だった。おそらく、白井が助けてくれたのだろう。「テレポーター? やっぱ、聞いてない相手だよね」「そのようですね。イレギュラーな事態なのか、上が超怠慢だったのか、どちらか知りませんが」呑気ともとれるような声色でそう話し合う敵を横目に、佐天は爆心地を観察する。置かれていたはずの人形が跡形もなく消えて、黒い焦げが辺りを彩っていた。もしあそこにとどまっていたら、きっと無事では済まなかっただろう。火傷程度で済めば幸運なくらいだ。つまりは、それくらいの非道、相手は平気でやるということだ。「佐天さん! 相手にしていては埒があきませんわ。先へ進みましょう!」「はい!」この二人をゆっくり倒してから先に進む、というのは得策じゃない。佐天たちは、美琴に合流するのが目的なのだ。美琴に、人として越えてはならない一線を越えさせないために。そして美琴一人では見つけられないような、より良い答えをみんなで探すために。そのためには、この二人に構ったところで時間を浪費するだけだ。白井があたりを見渡し、先へと進むための経路を導き出す。爆発がその場を襲う直前、再び二人は姿をかき消した。爆炎渦巻くそこを、フレンダは冷静に見つめ結果を確認する。体が吹き飛んでバラバラになるほどの爆薬ではないから、当たっていれば結果は見ればわかる。とはいえ、あまり期待はしていなかった。相手の能力は、こういう設置型爆弾に対してアドバンテージがあるからだ。「フレンダ。足止めを。近接戦闘に持ち込んでくれればこちらで超撃破します」「てか絹旗じゃテレポーターの相手は無理だよ、ねっ!」文字通り忽然と二人が消えてしまったのを確認し、フレンダはとんとんと重心を確認するようにペン型の着火装置を弄ぶ。そして手近な所以外にもあちこち火種を撒いた。フレンダは仕込んだトラップで相手と戦うスタイルを得意としている。それは基本的には、テレポーターと相性が悪い。相手がどこに現れたかを視認してから導火線に着火する限り、後手しか取れないからだ。だがそれに嘆くでもなく、不敵な笑みをフレンダは浮かべる。交通の便のよい平地が限られた学園都市特有の、ビル風に高く積み上がった実験用プラント。さながら剥き出しのコンクリートと鉄骨、ダクトがなすジャングルを、絹旗とフレンダは自分の庭のように駆け巡った。爆音と爆風があちこちを赤く染める世界。そんなものを一秒程度のコマ送りで変化させながら、白井は施設内を突き進む。「全く、趣味の悪い仕掛けですこと!」白井が毒づきながら眺めるその先では、火花が爆弾へと届こうとしているところだった。その設置型の罠という趣味の悪さも不愉快だが、それだけではない。爆弾がどれもこれも、ファンシーなぬいぐるみに仕込まれているのだ。幼児向けにデフォルメされたキリンやパンダのような動物や、毛糸で編んだ洋装の少女の人形。年は自分よりは上であろうあの少女の趣味としてもどうかと思うし、さらにそこに爆弾を仕込むという感覚がどうにも悪趣味すぎる。「白井さん! 爆発来ます!」佐天の声と同時くらい。ぬいぐるみが最期を迎えるより先に数十メートル先へと瞬間移動した。「テレポート、まだ続けられますか?」「大丈夫ですわ。ただペースが」白井の『飛距離』は最大で80メートル程度。安定的に繰り返せる距離でも50メートル程度はある。だがそのポテンシャルを発揮できず、短い転移が続いていた。見通しが効かないからだ。ゆっくりと次のポイントをさがす暇が与えられないせいでもある。再び視界が暗転し、そして。「――くっ!」着地の瞬間に、爆発が重なった。「任せて!」テレポートとテレポートの間にある、白井の息継ぎの瞬間。それが佐天の働き時だ。手にした渦を、爆弾に向けて叩きつける。そして空気を震わせ迫り来る爆風を、佐天の圧縮空気が押し返す。そうして被害はもとより、視界の悪化を最小限に抑え、白井の能力をサポートする。「次、行きますわよ」「はい!」白井は佐天のそれに驚きも褒めもせず、テレポートを発動した。それは、佐天を自分の背中を預けられる能力者として、白井が認めた証だった。苦虫を噛み潰したような顔で、フレンダは敵を見つめる。「ねーちょっと絹旗、今のあれ、電撃使い<エレクトロマスター>じゃなかったよね?」「ええ。使われたのは高圧縮された空気。素直に考えれば空力使い<エアロハンド>でしょうか」「結局事前にもらってた情報は、ひとつも合ってない訳?」「そのようですね。あの女には超失望させられました」彼女たち『アイテム』を取り仕切る上役の女性から聞いていた話では、高位の電撃使いの単独犯、とのことだったのだ。それがどうだ。蓋を開けてみれば、相手はどう見積もってもレベル4はあるテレポーターと、レベル3はあるエアロハンド。「乗っ取られ対策でわざわざリモコン式爆弾を避けたのに、意味なかったじゃない!」「で、どうです。超仕留められそうですか」いつもどおりぶーぶーと不平を垂れるフレンダに取り合わず、絹旗は必要なことだけを淡々と確認する。「大丈夫、ちゃんと追い込んでる。もう二三手あれば狩れる」「そうですか。ですがフレンダ」「何?」無表情な絹旗の声に、わずかに咎めるような響きを感じて、フレンダは振り返った。「あちらの反撃を超計算に入れての話ですか?」フレンダには見えなかった。合成火薬の炸裂ほどではなくとも、優に人間を吹っ飛ばせるレベルの空気弾が、こちらに向かって降ってきていることが。「白井さん、次のターン、二秒ください」「? 何を――」「逃げてるだけじゃジリ貧ですよ!」その言葉の意味を理解して、白井はテレポートを発動する。たどり着いた先はまだ破壊が及んでいなかった。二秒の安全は確保できそうだった。「――ふっっ!」虚空に向かって拳を握り締め、佐天が空気を手元に引っ張る。ボッ、という鈍い音をたてて空気が歪み、渦を鈴なりに作り出す。その10発程度の渦を、佐天は敵の二人に向かって投げつけた。「オッケーです!」渦が届いたその瞬間、佐天がそう叫ぶのを聞いて、白井は再び飛んだ。互換から入力される情報の不連続な変化。そして、敵のいる場所から、爆弾の爆発とは異なる破裂音がいくつも響いた。「やりましたの?!」爆風で霞んでよく見えない。首尾を知りたくて佐天に尋ねる。「……」「佐天さん?」佐天は、喜びとも落胆とも違う、厳しい顔をしていた。「防がれました」「防がれた? ……それは、能力で?」「はい。多分、体にまとった、空気の壁で」硬い声で、佐天が肯定した。これまで手をだしてこなかったパーカーを着た少女が、爆弾魔のメルヘン女のほうの前方に立ち、爆風をブロックしていた。それはつまり、相手の能力もまた、空力使いということだろう。同能力者の対決は、互いの手が読みやすいだけに創意工夫と経験がものを言う。それを薄々感じ取って、佐天は危機感を覚えていた。爆風の切れ目で、絹旗は渦巻少女と目線が合ったことに気がついた。「うー、絹旗、ありがと」パンパンとスカートを払い、隣にいるフレンダが尻餅を付いた体を素早く起こした。その間にも導火線の準備や、施設の破壊は忘れてはいないようだった。「私の『窒素装甲<オフェンスアーマー>』と相性のいい能力で助かりました。やはり空力使い、渦を操る能力のようですね。フレンダ、詰みまで後何手ですか」「絹旗が防いでくれるなら変わらないよ」絹旗はフレンダの答えにわずかに首をかしげ、疑念を伝える。相手のあの渦があれば、爆発は防がれてしまうだろう。だから止めようがないのではないか、と。「こういうタイミングでね、行けるって確信した能力者の裏を書くのが最っ高に快感なわけよ」フレンダは明確には答えず、ただ笑みを浮かべて絹旗を見つめ返すだけだった。立体的な工場内部をかけ登り、白井と佐天は高さにして5階程度のところまでたどり着いていた。「佐天さん、多分、もう少しですわ」中央管制室は、そう遠くないところに来ている。佐天たちが遭遇した妹達のひとりの言によると、施設はどれも中央部を電気的に破壊することで無力化されているらしい。だから、美琴がいるならきっとそこだろう。「いい加減、しつこいっ!」繰り返される爆撃にそう文句をつけながら、佐天は渦を投げつける。方向だとか、開放のタイミングを変えてはいるのだが、爆弾を操作している方には中々届かない。佐天の渦は、空気であるが故に当然無色透明だ。それは敵に渦の場所を悟られないための利点なのだが、あいにくと空気の流れを読める空力使いが相手ではまるで意味をなさない。一つ一つ、パーカーの少女に被害を食い止められている。「佐天さん、手を!」そして、焦燥を晴らすことができないまま、白井のテレポートが完了した瞬間。「チェックメーイト」爆発は起こらず、金髪の少女の楽しげな声が、二人の耳に届いた。ただ導火線が走り抜ける音だけが、佐天たちの耳を通り抜けていく。――――直後、世界が揺らいだ。「えっ?」突然に地面が自分たちを支えることをやめた。綺麗にナイフで切ったみたいに、自分たちの立っていた鉄骨の階段がバラバラに壊れ、佐天たちと共に落下を始めたのだった。「ただの導火線じゃなくて、本来これはドアや壁を焼き切るツールだったって訳よ」そんな道具を、ただの導火線かのように使うため、フレンダはこれまで厚い壁に走らせたものだけに点火してきたのだ。それは、敵を陥れるためのひとつの布石だった。佐天たちが厚みの薄い簡易の鉄階段に降り立つこの瞬間を、フレンダはずっと待っていたのだった。「白井さん!」「こんなものっ!」どうってことはない。白井の能力に、地面のあるなしなんて関係ない。「これで終わりと思った訳? 視線を誘導したかっただけだよん」白井たちが壊れやすい通路を使ったのはこれが初めてではない。今ここを狙ったのには、ちゃんと理由、というか続きがあるからだ。ゴールが近く、また地面までが派手に高くなってきたこのタイミングでなら、施設構造を知るフレンダにとって、次に白井が飛ぶ場所を読むのはわけもない。だから、次の目標をテレポーターが睨みつけるタイミングに合わせて、ちゃんとスタングレネードを投げてあるのだった。かぶったベレー帽で光を防ぐ準備をしたのと同時に、カッと、強い閃光が周囲を満たした。「あっ?!」白井は唐突な光に、視界を完全に奪われた。そしてそれは、このタイミングでは致命的なダメージ。テレポーターにとって、空間把握能力は生命線だ。それは音や匂い、直前までに自分が感じていた速度とか速度などでも限定的には察せるが、実際に「見える」ことに比べればはるかに劣る。まして、床が崩落中のこの瞬間に、絶対に手放してはいけないものだった。あっけなく白井の空間認識は混乱をきたす。演算式に代入すべき座標の情報が、11次元どころか3次元のレベルで完全にぐちゃぐちゃになった。白井は自分の顔が強ばったのを自覚した。目の見えない状態で、地上5階の高さで自由落下状態になるというのは、飛び慣れている白井にとっても恐怖を誘うものだ。「く……っ!」能力が、まとまらない。焦りが焦りを呼び、どうしようもな空回る。もはや自分にはどうもならない、そう白井は思い始めていた。とはいえ安易な絶望は白井の好みではない。自分の能力に頼りすぎたテレポーターが、哀れ一人で墜落死、とならないことを、白井は予想していた。。「白井さんっ!」隣に響く力強い声。自分が心にこの方だけと決めた相方ではないが、信頼できる仲間がいるのだ。佐天が、白井の胴を抱え込むように抱きしめ、足元に作った渦をぐっと踏み込んだ。線の細い白井だから、自分より重いことはあるまい。佐天の心配は自分の渦の威力ではなく、踏み込む足の負担の方だった。自分の体がいつもの倍くらいの慣性を持っているせいで、高速移動に体が軋む。それに必死に耐えながら、佐天はすぐ階下の足場に着地した。こちらの床は、破壊できないくらい頑丈そうだ。そこにきちんと足を下ろし、ようやくうっすらと視覚を取り戻しつつある白井を立たせてやった。これでようやく仕切り直しができる、と佐天が軽く息をついた。地に足の付く安心は、空力使いにとっても大きいものだ。だがそれは、この場においては油断でしかない。「ほい、チェックメイト。ちゃんと言ってあげたのに」そんな余裕のある声に、佐天は顔を上げた。少し離れたところで、髪を弄びながらニヤリと笑みを浮かべるフレンダの隣に、絹旗がいなかった。そして自分たちの背後で、空気が不自然に『固まる』のを佐天の感覚が感じ取った。「くっ……はああぁっ!!!!」理屈より先に、手のひらが渦を集めた。パーカーの少女、絹旗が音も無く忍び寄り、細腕を白井に向かって振りかぶった。依然として危機に気づかない白井の頬の間に拳が届くより前に、佐天は渦を、敵対する少女にぶつけた。――刹那。佐天の渦は、絹旗が纏った『窒素装甲』に傷一つ付けられず、ただ白井を、吹き飛ばした。「あ……か、はっ」視界を奪われた上での完全な不意打ちに、白井はなすすべなく地面に叩きつけられる。そして2メートルほど転がった。突然の事態に、再び頭を混乱が占める。今自分を吹き飛ばしたのは、佐天の渦ではなかったか?「ひっどーい。お仲間だけ痛そう」「正しい判断ですよ。まだ、痛みを感じられるんですから」そんな声が、すぐ近くから聞こえてようやく白井は理解できた。おそらく、佐天にも、こんな乱暴な方法で自分を吹き飛ばすしか、できなかったのだ。「その威力と速さならレベル3、いや4でしょうか。いずれにせよ相性が悪かったですね」その言葉を、佐天は否定できそうもなかった。佐天は集めた渦の威力で相手を吹き飛ばすことしかできない。空気を固める能力を持つ相手に対して、打つ手がなかった。「さて、じゃあ詰みまで行ったから、ちゃんと狩っちゃおう。絹旗、ギャラは半分こでいい? さくっともらって遊びに行こうって訳よ」「――あなたたちは」「ん?」その、軽薄なフレンダの声に、佐天はカチンとなった。「どうしてこんなことをするの?」白井を庇うように、絹旗に立ちはだかる。そして少し離れたフレンダをキッと睨みつけた。「自分が、どんなものに協力してるかわかってるの!?、学園都市の生徒としておかしいって思わないの!?」こんなふうに、美琴を傷つけた連中に従い、こんなふうに、白井を傷つけて。そんな佐天の義憤に対し、フレンダはめんどくさそうに手を振った。「あーいいからいいから。雇い主の目的とか、消す相手が善人か悪人かとか、そいつが歩んできた人生とか、結局んなもんはどーでもいい訳よ」「そ、んなっ……」あっけらかんとしたフレンダの態度に、佐天が言葉を詰まらせる。その様子を馬鹿にするように笑いながら、フレンダは最後の仕掛けに取り掛かった。絹旗に任せても取りこぼすことはないだろうが、相手と能力が近い分、仕留めるまでにはまた手数がかかるだろう。それよりは自分のほうが早いはずだ。左手のペン型着火器と、右手のぬいぐるみを、フレンダは無造作に投げつけた。テレポーターは無力化済み。空力使いは、二人を抱えてこの数の爆弾からは逃げ切れない。これで、終わりだった。「恨みつらみは別のところでゆっくりやってね。それじゃ」絹旗が軽く距離を取り、そして、閃光と爆音が、佐天と白井を包み込んだ。結果をまともに確かめることもせず、フレンダは爆風に背を向けた。「一丁上がりー、っと。さぁ何買おうかな」脳裏にあれこれ欲しいとおもった商品を並べながら、出口までの道を見通す。ずいぶん壊したから、帰りも道をよく考えないといけない。最悪、絹旗におぶってもらえば少々危険な道でも大丈夫だが。そこまで考えて、ふと、違和感に気づいた。仕込んだ爆弾のわりに、音と熱が、少ないような?投げつけた爆弾は威力が飽和するくらいあったはずだ。だけど、どうも物足りない感じがする。だが、足取りを変えることはなかった。相手には、防ぐ手段がないのだ。死んだに決まっている。そう、思ったところで。「フレンダ!」離れたところから、絹旗が鋭い声で注意を促した。反射的に目をやると、赤く光った球体が、自分に迫ってくるのが後ろ目で見えた。本能的な恐怖を感じ、戦場に慣れた反射神経があっという間に身を地面に投げ出し、伏せの体勢を作らせた。直後。――フレンダの爆弾そのままの音と熱が、うずくまったフレンダの体を襲った。「っつつ、あ――。い、一体何」チリチリと皮膚が焼けているような感覚。熱波に髪が傷んでやしないだろうなと考えつつ、とりあえず大きな外傷はないことをフレンダは確認した。「今まではタイミングがなかったけど」煙が晴れた。もっとたくさんの爆弾を発動させたはずだから、こんなに早く見通せるはずはなかったのに。その先には、自分たちに向かって立ちはだかる空力使いの少女と、回復してきたのか、体を起こしつつあるテレポーターの少女がいた。「こんなチャチな爆弾を止めるくらい、別に難しくない」そう言い切る佐天を見て、フレンダは、いたずらに爆弾を投げつけたのが、失策だったことを悟った。佐天の周りには、爆風を『食った』と思わしき赤熱する渦が、いくつも宙に浮いていた。お洒落とは程遠いジャージ着の少女が、粉薬を手の甲に乗せ、唇をあてて舐めとった。それとほぼ同時に、年上の女の方が手をかざし、当麻と美琴を睥睨する。「さ、逃げられると仕事にならないし。――灰も残さずプラズマに変えてあげる」その声が響いてすぐ、能力が発動する直前に美琴は何かを感じ取って、当麻を突き飛ばした。「――っぶない!」「おわっ!」直後、二人が固まっていた当たりを、直径50センチはありそうな極太のビームが貫いた。周りの空気を熱しているからか、ボウ、と鈍い音を立てながらそれは二人のそばを通り過ぎ、背後にあった壁にビームの太さそのままの大穴をぶち開けた。その一撃だけで、美琴を最大限に警戒させるに十分だった。「ずいぶん派手にやる気なのね」「派手? 意外ね、こんな程度でそう思うのかしら?」再び女が手をかざす。今度は、当麻の方も何が起こるかを理解したようだった。二人してさっと体をひねり、ビームを回避する。馬鹿正直な照準のおかげで、ビームはあっさりと二人の元の位置を素通りした。普通、これだけ太いビームというのは収束が悪く、エネルギー密度が低いことを意味するものだが、このビームはそんなやさしいものではない。十分な厚みのある施設の壁に、平気で穴を開けるのだ。「気を抜くんじゃないわよ!」美琴はそんな当麻に、鋭く注意を促す。この女は、今のところは甘い攻撃しかしていない。おそらく奇襲で勝つ気はない、ということなのだろう。だが、殺意はひしひしと伝わってくる。それは攻撃的な意思というよりは、殺害という行為への抵抗のなさだった。だったら、こちらも加減なんて必要ない。どうせ死なせるくらいのつもりで攻撃しないと、相手のリアクションを稼ぐことすらままならないだろう。「――ふっ!」手近にあった金属製のタンク数台を、美琴は電磁場を操作して引き抜いた。中身もあるのかそれなりに重たい。一人のジャージの少女の方に何か指示を飛ばすその横顔に、美琴はタンクを投げつけた。麦野は焦るでもなく、鋭い放物線を描いて飛んでくるタンクを一瞥する。そしておもむろに手をかざすと、たったそれだけで、タンクは相手に届く前にボロボロと崩れ、消滅した。さながら、何らかのバリアでも貼っているかのよう。おそらくは、先程のビームと根は同じ。「ちょっと。まさか今のが『超電磁砲<レールガン>』だなんて言わないわよね?」「当たり前でしょ」挑発というよりは純粋な落胆すら感じられるその響きに、美琴は端的に事実を返す。今のは電磁場を感覚的に変化させ、手の延長みたいにして投げただけだ。簡単な代わりに、レールガンのようにプロジェクタイルを音速まで加速するのは到底不可能。とはいえ手数を簡単に増やせる点では、レールガンより優れているところもある。美琴は10ほど手近な金属物をかき集め、四方から再び、敵の女二人に投げつけた。「だからヌルいって言ってるのがわからない?」美琴のそれが近づくより前に、麦野はビームを放ち、一つ一つを迎撃する。その過剰な破壊力は、金属物をあっさり貫通した上で、美琴に襲いかかった。直前。美琴が、すぐそばのパイプを引きちぎり、目の前にかざす。――ボワァァン!と音を立てて、パイプが爆発し、もうもうと白煙が立ち込めた。すぐに消えていくそれは、明らかに水蒸気のもの。冷却水をビームにぶつけたということだろう。その意味を、麦野は咄嗟に考える。これはもう一人の男の方の身を隠すための方策か、それとも――ハッと、麦野は上を見上げた。そこには、壁にくっつきこちらを見下ろす、美琴の姿。「きついのが欲しいってんなら、いくらでもくれてやるわよ」そう言い放つ美琴の額の先で、パリッと電界がはじけた。麦野に向かってまっすぐ、室内で、人工の稲妻が降りおろされる。死にはすまい。だが、ギリギリの威力まで強くした一撃だ。美琴の能力によってあっさりと絶縁を破壊された空気が、不自然なほどまっすぐに、雷を麦野へと届ける。その先端が、麦野に触れそうになった刹那。「バーカ」まるで恐れるように、麦野の体を避けて地面に墜落した。「なっ」かわした?!と美琴は愕然となる。強制的に曲げたらしかった。レベル5の、御坂美琴が操る電撃を。もとより低レベルの能力者の訳がないとは分かっていたが、それにしても、これは。美琴は向かってくるビームを避けるため、寄り添った壁を蹴り飛ばし宙に身を投げ出しながら、驚きを隠せずにいた。「飛んじゃってどうするの。狙い目だけど?」「御坂っ!」小馬鹿にしたような麦野の言葉にも、慌てた当麻の声にも取り合わない。何の取っ手もない空中で電気力線を束ねて、曲芸のように空中で軌道をねじ曲げる。ビームが美琴の傍をかすめていった。電磁場で大きなものを引き寄せられるのと逆に、自分を壁に対して引き寄せることなんて簡単なことだ。身をひねり、地面に着地する姿勢を整えながら考える。どうも、敵は一発の攻撃力は大きいが、同時照準の数は多くない。構造物の投擲も雷撃も防がれていて打開策こそ見つかっていないが、それはあちらも同じ。むしろ美琴が心配なのは、当麻の方だった。わずかな時間の隙間に、麦野が当麻を、見つめた。「っ! 何ぼさっとしてんのよ!」はっきり言って、当麻は足手まといだ。万が一狙われたら、美琴がカバーするのは難しい慌てて、麦野の照準が当麻に向かないよう、天井から鉄パイプを投擲する。だがそんなもの、麦野にとっては防ぐことなど造作もない。お座なりな美琴の攻撃に、むしろ麦野は興ざめしていた。「彼氏が殺されちゃうかも、なんてビビりはいらねェんだよ。人質とって勝ったなんて、後でイチャモンつけられたら面白くねェしな」舌打ちをして、麦野は当麻に視線を移す。「手を出せば容赦なく殺す。余波で死んでも文句は聞かない。嫌なら逃げ回ってなさい」「言われてはいそうですかって聞けるかよ」「……アンタ。一人で先行って」「え?」両者の攻撃の手が、止まった。そして美琴がストンと当麻の隣に降りてきた。「ここで足止め食らっていいことなんかない。一対一なら、倒してからって手もあるけど」もう一人の能力者が、まだ一切アクションを起こしていない。ぼうっとして人畜無害そうな見た目のくせに、美琴はどこか不気味さすら感じていた。「私は別ルートから行くから。そしたら、とりあえずアンタが襲われることはないでしょ」「けど、それじゃお前が」「あのオバサンの狙いは私だから、どのみち構ってやんないといけないわよ」そんな打ち合わせを内緒にするどころか、美琴は相手に聞こえるような声で言ってやった。「余計な心配すんじゃないわよ。アレが第何位かまでは知らないけど、どうせ私よりは下なんだから」美琴は、この女が自分と同じ七人のうちの一人だと、ほぼ確信していた。これまでのこの女の口ぶり、そしてレベル4の範疇に収まらないだけの能力の規模から考えた、結論だった。そして、見え見えの挑発をしてやった美琴の言葉で、ぶちっと、相手の女――麦野の中で何かが切れる音がした。猪突猛進するほどまでに冷静さを失ったりはしてくれなかったようだが、これで敵の狙いはこちらに絞られるだろう。「序列を決めてんのは能力研究の応用がもたらす利益の大きさだろうが。そりゃあ負けるさ。こちとら二万人もクローン作ってもらえるほど高尚な能力じゃねェからな」心をえぐる言葉。それに、美琴は取り合わなかった。もう、できるだけの後悔はした。あとはただ、行動するしかないのだ。「……」「電撃使いってのは、なんでも出来る便利な能力さ。テメェは一番おりこうさんなんだろうが、たかが『超電磁砲<レールガン>』で、あたしの『原子崩し<メルトダウナー>』に勝てるなんて夢は見ねェこったな」そんな口上を言い切ると、ゆらりと、麦野が動いた。「みさ――」「行きなさい!」美琴は鋭く当麻にそう叫び、今にも動こうとする麦野を油断なく見つめた。そして一瞬後、当麻が自ら走り出すまでもなく、雷撃と光撃の乱舞が凄絶に始まった。柔らかなソファに座り、背後で置時計の秒針が立てる音を数え初めて300度目。ちょうど五分を告げたところで、そっと布束は腰を上げた。美琴に手渡され、頭に叩き込んでおいた見取り図を頼りに進み、布束は一人、妹達の脳へと知識をインストールための『学習装置<テスタメント>』の管制室にたどり着いていた。そっと、ポケットの中身を確かめる。ひとつは、これから使うもの。あるデータを保存した、メモリディスク。もうひとつはできれば使いたくない。非力な自分が抑止力を得るための、野蛮な武器。どちらも問題なく自分の手元にあることを確認して、布束はメモリの方をそっと抜き出した。この『学習装置』の生みの親たる布束だ。目の前に存在する大型コンソールの持つ機能はほぼ理解している。操作に不安はない。物理的にここまでに厳重なセキュリティを敷いている分、この装置の保護は甘かった。システム作成者としての上位権限をそのまま使って、布束はシステムにアクセスする。この瞬間をもって、布束は学園都市のプロジェクトに抗う、犯罪者となった。ただ。――これは本来、私たちが負うべき罪。美琴はきっと、そう遠くないこの施設のどこかで、戦っているのだろう。それがなければ、こんなにスムーズにここまでたどり着けはしなかったはずだ。だけど、本当はそんなことを、彼女がする必要はなかったのだ。待機時間に僅かな焦りを覚えつつ、美琴の顔を思い出す。自分達が作り出した妹達と同じ顔でいながら、布束ははっきりと妹達とは別の人間として美琴を捉えていた。表情の数が、人としての躍動感が、妹達とは違うと思う。それが個性と呼べる差異なのか、それとも布束が作り上げた妹達の精神構造の不完全さなのか、布束には判断できなかった。こんなことが起こってしまったことについて、美琴に罪はない。幼い頃に、卑しい大人の善意を信じて、彼女は遺伝子マップを提供しただけだから。だから、彼女に罰を押し付けてはいけない。精算を彼女にさせてはならない。そしてさらに、美琴に付き従う当麻のほうには、本当に罪がない。なにせ全く無関係な人間だったのだから。なのにどうしてここにいるかというのは、はっきり言って不可解ですらあるけれど、美琴と、昨日知り合ったという妹達の一人を、不幸の谷底から救いたいという意思は、伝わってきた。それが少し羨ましい。今ここで、自分がヘマをして捕まったら、きっと自分もまた学園都市の暗部に囚われ、昏い人生を送ることになるだろう。そうなったときに、自分をそこから救い出そうなどと想ってくれる人はいまい。「……データのデコードは完了。あとは」その内容を、たった今『学習装置』の中にいる、あの妹達の一人にインストールするだけ。あとは彼女が覚醒しミサカネットワークに接続すれば、自動的にそのデータは、妹達の全員に広がるだろう。その命令を布束はコンソールに入力する。既に彼女を使用者として受け入れているシステムは一切抵抗をすることなく、それに従った。「これで、もう」誰にも止められない。布束は心の中でそう呟いた。ミサカネットワーク内では、20000体の妹達が互いに同格の権限を持っている。一人が受諾した命令は全ての個体が受諾することになる、そういうネットワークなのだ。少なくとも、布束が知るプロジェクトでは、そうなっていた。けれど現れたのは、おざなりなアラーム音と、無情なエラーメッセージ。「な、んで」何がいけなかったのかと考えを巡らせるより先に、そのメッセージが原因をわざわざ教えてくれた。書かれていたのは、『上位個体20001号のものでないコード』という表示。「上位個体、20001号……?」そんなもの、聞いたことがない。このプロジェクトは、きっかり20000号で打ち止めではなかったのか?あまりに上手くいきすぎた潜入と、それをあざ笑うかのような対照的な事態に、布束は呆然とする他なかった。