朝。カーテン越しに、すでに猛暑を感じさせる日差しが否応なしに突き刺さる。ピピピピというけたたましい音で、佐天は夢の中から強制的に引き上げられた。「……」不機嫌そうに壁を見つめ、目覚ましをオフにする。二度寝の誘惑をすぐに断ち切って、佐天は大きく伸びをした。とりあえずテレビでもつけようとリモコンに手を伸ばしたところで、不意に止めた。手のひらを、じっと見つめる。回れ、と念じながら、瞬きすらせずに、その手の上をただひたすらに睨みつける。「……そりゃ、無理だよね」結果は、何も起こらなかった。当然だ。だって佐天涙子に対し学園都市が与えたレベルは、ゼロなのだ。だが手のひらの上に感じる、あの日の感触の残滓は、まぎれもなく本物だった。「さて、今日の朝は……控え目のほうがいいかなー」軽い溜息ひとつで胸にたまった何かを押し流す。ぱっとテレビをつけて、佐天は洗面所へと向かった。数日前、佐天はその手の中に、小さな渦を作った。それを手にしたことは、とてつもなく嬉しくて、楽しかったけれど、反則技に手を出して得たものでもあった。幻想御手<レベルアッパー>。木山春生という名の研究者が開発したそれは、使用者同士の脳波をリンクさせ、互いが互いの演算を補うことで、個人にはなしえないような大規模な演算を可能とする技術だった。佐天はそれを利用し、ほんの短い間の喜びをかみしめた後、使用者の昏睡という副作用を代償に支払って、そしてまた力を失った。空力使いに分類されるその能力、いわば自分の可能性が泡沫(うたかた)のように儚く消えたことに、ショックがないと言えば嘘になる。もちろん、もう一度、あんな手を使って能力を使いたいとは思わない。人一倍、努力をして能力を磨くしかない。そのはずだ。だけれど、レベル0という事実は、その努力をしようという強い意志を萎えさせる、強い足かせだった。顔を洗って戻ってくると、ニュースがレベルアッパー事件の続報を流していた。音楽ファイルとして配布されていたことと、二次利用しても効果がないことが、繰り返し強調されている。佐天は被害者、いや使用者としてより詳細を聞かされていた。脳波の同期を統括する存在、すなわち木山春生が身柄を拘束されているため、学園都市内にばら撒かれたあの音楽データを聞いても、誰にも繋がらないのだそうだ。だから、佐天が再び能力を使える日は、果てしなく遠い。――――あんな風に、お手軽にじゃなくてもいいから。努力を、実らせる方法が知りたい。そうした希望と、これまでため込んできた諦観が、心の中でせめぎ合う。それが佐天の、今の偽らざる心情だった。「いただきまーす」用意したトーストにかじりつきながら、テレビの画面に映る時刻をチェックする。今日は『撮影のお仕事』が入っている日なのだった。時は少し遡る。光子は、年下の友人たち、湾内と泡浮と一緒にお茶のテーブルを囲っていた。ただし目の前の二人の雰囲気は、いつもとちょっと違う。「どうしましたの? なんだか、今日は変に遠慮されているみたいですわ」一体何が原因だろうか。自分に心当たりはないから、おどけて見せて二人に言うよう促した。「ええ……ちょっと、婚后さんにお願いがありますの」「ただ、少し切り出しにくいことで」「あら。遠慮なんて必要ありませんわ。お二人のお願いでしたら、できる事ならお引き受けしたいもの」年下ではあるが、この二人には本当に世話になっているという思いが光子にはあった。その気持ちをストレートに伝えると、二人は救われたように顔をほころばせて、軽く頭を下げた。「そう言っていただけて、本当に助かりますわ」「いいんですのよ。それで、どのような頼まれごとをすればよろしいのかしら」雑用くらいなら喜んで手伝うし、勉強を見てほしいなんてのも大歓迎だ。途中編入ではあるが、光子は常盤台でも少数派のレベル4、かなり優秀な学生だった。そういう依頼なら喜んで引き受ける、のだが。「実は、水着のモデルを、探しておりますの」「……え?」二人の頼み事は、そういう光子の予想を全く裏切るような内容だった。「――それで、光子はどうするんだ?」「いえ、その、何でもおっしゃってって言ってしまった以上、引っ込みがつかなくなって……」光子に依頼をした後、二人は短いティータイムを終えてすぐ、他の人員を探しに行った。一方光子はと言えば、断るに断れず引き受ける旨の返事をした後で、当麻に反対されるんじゃないかと不安になって電話をしたのだった。「当麻さんは、やっぱりお嫌?」「んー……。急な相談で混乱してるってのが正直なところだけど、まあ、不安、かな」「不安、ですの?」そのニュアンスは光子の危惧とは少し異なっていた。はしたないと、そう怒られるかと心配していたのだけれど。「やっぱり、水着なんだから露出が多いんだよな? その、変な写真撮られたりとか、さ」「それは……私も初めてですから、確実なことは言えませんけれど、湾内さんと泡浮さんが言うには、心配なさそうですわ」「そうなのか?」「はい。毎年、常盤台の水泳部の子が協力しているそうですから。こういう言い方はなんですけれど、問題がある相手ならどうにかできる後ろ盾ですから。常盤台は」それが今まで動いていないのだから、依頼してきた相手はまっとうな企業なのだろう。実際、ブランドの名前は学園都市ではよく耳にするものだ。「もし当麻さんが、駄目っておっしゃるなら」「駄目、とは言いたくないんだよな」「え?」「彼氏だからって、あれこれ命令するのはおかしいだろ? 光子が危ないことなら絶対に反対だし、男向けのきわどい写真を撮るってのも反対だ。けど、そういうのじゃないんなら、なんでも駄目っていうのは、よくないかなって思ってさ」「当麻さん……」「それに、光子の友達も一緒なんだろ? それなら、たぶん余計な心配だと思うしさ。光子がいいと思うなら、行ったらいいと思う」「本当は、反対されているとか、そういったことはありませんのね?」「正直なことを言うと、なんか光子が他の男にも見られるかもしれないってのがあんまり嬉しくない、かな。でも、無暗に束縛するのも、彼氏として違うと思ってる」「……当麻さん、ありがとうございます」「いや、礼を言われるようなことじゃないって」「ううん。当麻さんに電話した私のほうにも、甘えがあったって、思いましたの」「甘え?」頼まれた以上は後輩に応えたいし、自分のプロポーションにはそれなりに自信がある。でも、肌を人目にさらすことで当麻に嫌われるのは絶対に嫌だ。だから、駄目だと怒られるのが怖くて電話したけれど、同時に、お前が好きで、死ぬほど独占したいから行くなと、そんな風に言われたい気持ちもどこかにあった。でも、恋人は、そういう強権的なものじゃないのだ。当麻の言ったことは、光子の勝手にすればいいという、ある意味で突き放したものだ。それをさびしく思う自分に、光子は反省した。過剰に束縛したりされたりするのは、たぶん、後でどんどん辛くなるのだと思う。だから、当麻の信頼にもきちんと応えることが、一番大事なのだ。「当麻さん。この話、やっぱりお受けしようと思います」「……ん。わかった」「絶対に、当麻さんに嫌な思いをさせるような水着は着ませんし、変な写真も撮らせません」「わかった。ってまあ、あまり堅苦しくならなくていいって。普通の水着メーカーの水着だろ?」「ええ。それも中学生から高校生がターゲットと聞いていますから」「それなら、あんまり制約かけなくていいんじゃないか。……俺こそ、なんか嫌な彼氏みたいになってたら、ごめん」「そんなことありません! 当麻さんにお電話してよかったって、思いますもの」「ならよかった。それでさ、光子」「はい?」「撮ったやつ、俺にも見せてくれよ?」「えっ?! わかりました。印刷されたらお見せします。でも、恥ずかしいですわ」「なんでだよ。撮られるんだから今さらだろ」「でも、当麻さんに見られるのは恥ずかしいんですの」「そういうもんかねえ」「だって、当麻さんにしっかりと見られてしまうんだって思ったら……っ」想像して、顔がほてってくる。今回は普通の水着姿だけど、ずっと先、このままずっと当麻と一緒にいたら、いつかは――――「お、おう。なんか俺もドキドキしてきた。すげー楽しみだ」「もうっ! 当麻さん、嬲るのはおよしになって!」戸惑いながらもからかってくる当麻につい文句を言いたくなって、光子は電話に向かって叫んだ。そんないきさつがあって、今日これからが、水着の撮影会になる。佐天は家を出すぐ、初春と合流して集合場所へと向かっていた。「初春はどんなの着るのかなー」「私、ちんちくりんですし、似合わないのばっかじゃないかなってそれが不安です」「ないない! 初春はとっても可愛いんだから、絶対合う水着あるよ。っていうか、初春の水着が見たくて今日のお仕事引き受けたんだから、そんな後ろ向きな気持ちじゃ駄目だよ」「佐天さん!? そんな理由で引き受けたんですか?!」この水着撮影はもともと、常盤台の水泳部がお世話になっている水着メーカーから依頼されたものだ。その水泳部員が美琴と白井、佐天たちの友人に声をかけ、さらにその伝手で自分たちにまでお鉢が回ってきたのである。撮影依頼を白井から聞いた瞬間に、初春が難色を示すより先に佐天が快諾し、今ここに至る。「そんな理由って、可愛い初春をコーディネートするのは友達としての義務だよね」「佐天さんのほうがスタイルいいのに」「お互いまだまだこれからだよっ。それと、いろいろあったから気晴らしもしたくって、さ」佐天が明るく、さらりと口にしたそれに、初春はとっさに返事を打つことができなかった。幻想御手<レベルアッパー>事件からまだ数日。佐天とともにレベルアッパーを使用したクラスメイト達は、みな昏睡から目覚め、退院を済ませている。けれど、やっぱりどこか心に傷を負って、陰りのある表情を見せていた。「あ、あそこだよね」佐天が、目的地らしきビルを指差す。建物の側面には、佐天らもよく知るブランドのロゴが描かれていた。そのビルの足元を見れば、見知った白井や美琴の姿もあった。手を振って挨拶をしてくれた美琴にこちらからも手を振りかえし、信号を渡って合流する。「おはよー、二人とも」「おはようございます、御坂さん、白井さん。それと……」佐天は出迎えてくれた二人とあいさつを交わし、目線で隣にいた常盤台の学生たちの紹介をお願いする。「ごきげんよう、お二人とも。こちら、私たちと同じ一年の、湾内さんと泡浮さん」「ごきげんよう。初春さんに、佐天さんですわよね」「あ、どうも、おはようございます」おっとりとしていて上品な挨拶に、佐天は少し気圧される。美琴も白井も、常盤台の生徒ながらあまりお淑やかな印象を感じさせない相手だが、やはり普通の常盤台の学生はこうなのだろうか。隣ではセレブな人々にあった一般人みたいに、初春が感激の表情を見せていた。だが、もう一人、そこにいた女性の紹介をする段になって、その穏やかな雰囲気にひびが入った。さっきとは打って変わって、ぞんざいな視線を投げて、白井がつぶやく。「で、この残ったのがお姉さまと同じ二年の婚后光子ですわ」「あら白井さん。なにも長幼の序を押し付けるようなことは言いたくありませんけれど、外部の方に紹介する場合にそんな態度をとるのは、常盤台の学生として如何なものかと思いますわ」嫌々紹介する、といった態度の白井に、これまた嫌味ったらしく婚后と呼ばれた少女が返事をした。バカだのアホだのといった単語が出ないのはお嬢様らしいのかもしれないが、こと人間関係でこういう仲の悪い例もあるというのは、お嬢様であろうとなかろうと関係ないらしい。「お二人は私の友人ですから。けれど猫をかぶって貴女を持ち上げる必要なんてありませんもの」「別に持ち上げてくださる必要はありませんけれど、ぞんざいに扱われる謂れはありませんわ。年上の学友を呼び捨てにする白井さんとは違って」「貴女の人格的問題はそんな表層に現れているのではありませんわ。もっと根深い問題ですの」「こら黒子、いきなり喧嘩しないでよね」ため息をついて、美琴が白井の言葉を遮る。こんなところを見せられても初春と佐天は困惑するだけだろうし。「喧嘩なんて。私はただ、あの女の――」「あーはいはい。私からも紹介するね。婚后さんは、佐天さんたち、泡浮さんたちより一つ上で、私と同学年なの。一人だけ浮いちゃわないでちょっと安心したわ」そう言いながら光子に笑いかけると、光子も美琴に笑顔を返してくれた。「知り合いがいたほうが安心なのは確かですわ」「今度はこっちの二人の紹介もしないとね。初春さんと、佐天さん。初春さんが黒子と同じ風紀委員で、そのつながりで今日は来てもらったってこと」「よろしくお願いします」「こちらこそよろしくお願いしますわね」美琴の紹介で全員の名前の交換が終わる。仲の良かった相手とゆるやかにまとまりながら、談笑が始まった。人見知りをあまりしない佐天も、初春や白井、美琴との会話をメインにしつつ、初めて会った常盤台の学生たちに目をやる。同学年の湾内と泡浮は、おっとりしていて、まさに想像通りの常盤台の女子中学生、という感じだ。初春も同感なのだろう、柄にもなく同い年相手に敬語で話しかけていた。一方、もう一人、婚后という二年生の生徒がいるが、彼女は少し近寄りがたい感じがした。あの我の強い白井といがみ合う根性がある時点で、気さくに話しかけるのはちょっと難しい。ただ、美琴と話すその表情は穏やかで、さっきほどには険があるように見えなかった。「おはようございます。お待たせしました」少しの時間をおいて、エントランスからスーツ姿の若い女性が現れた。「……あの人は?」「メーカーの担当者さんですよ」湾内に尋ねると、そっと教えてくれた。「今日はよろしくお願いしますね。一人、二人……あら、あとの一人は?」「まだいらっしゃるんですの?」そう呟きながら目で問いかける光子に、泡浮が知らないというように首を振った。「ああ、おひとりだけ別の伝手で来ていただく方がいるんです。あとはその方のようですね。あちらが、そうかしら」こちらに向かって、ジャージ姿のラフな格好をした女子高校生が歩いてくる。企業のオフィスに場違いな年恰好からして、そうらしかった。眼鏡をかけて、聡明な印象のある女性。目があった初春が、「あれっ?」と驚いた声を上げた。「固法先輩?」「あら、初春さんに白井さんも。おはよう」「先輩も水着のモデルを?」思わず、初春はそう確認してしまった。固法は初春や白井と同じ、第177支部を拠点とする風紀委員<ジャッジメント>の一人だ。モデルをするのに全く見劣りのしない、素晴らしいプロポーションの持ち主だが、生真面目なのでこういうことはしないと思っていたのだが。「ええ。いつも通ってるジムで、風紀委員の先輩に頼まれちゃって。あなたたちは?」「私たちは、水泳部の子に頼まれたんです」「ああ。もしかして、常盤台はこちらのメーカーと提携しているのかしら」固法はすぐに事情を言い当て、納得したように頷いた。「お知り合いの方だったんですか?」企業の担当がそう尋ねた。一人だけ違うルートで依頼したはずの相手が互いに面識があったことが気になったらしかった。「ええ。私と、こちらの白井さんと初春さんとは、風紀委員の同じ支部で活動しているんです」「そうでしたか。できればみなさんで一緒に過ごしていただきたかったので、面識があるのは助かります。それでは、さっそく水着を選びに向かいましょうか。どうぞみなさん、こちらにお越しください」その案内につき従い、光子たちは水着の並んだ部屋へと足を運んだ。「どれにしようかしら……。これ、はちょっと野暮ったいし」一人、決めあぐねながら光子はハンガーラックに並べられた水着の間を歩いていく。一緒に選んでいた水泳部の二人は、早々に決めてもう試着室に向かっていた。着るならビキニにしようかと考えていたのだが、当麻に自分からわざわざ約束をしたし、あまり布地が少ないのは良くないかとも思う。「あら、これ」目に映った水着を取り上げ、眺めてみる。色は濃いワインレッド。光子のお気に入りの色だ。ワンピースタイプなのだが、背中側が大きく開いていて、後ろから見るとビキニに見えるデザインだった。「これにしようかしら」あまりに選択肢が多いと、完全なベストを選ぶことは難しい。こういうのは直観に頼ってしまうに限る。光子はさっと候補を決めて、試着室のほうを振り向いた。「あら、御坂さん」「ぅえっ?! ど、どうしたの? 婚后さん」「どうしたもなにも、水着を選んでいるんですけれど……。あら、御坂さんはそういうのが好みですの?」「えっ?! いや、その」美琴が手にしているのは、トップス・ボトムともに大きなフリルのついた、水玉模様の可愛らしいビキニだった。トップスはカップの見えないチューブ状となっていて、あまり起伏に富んだほうでない美琴のスタイルにはよく似合っていると思う。「きっとよく似合うと思いますわ」「そう、かな」心中複雑な顔で、美琴がそうつぶやいた。似合うといわれるのは嬉しいのだが、素直に褒め言葉と受け取れない。だってそう言ってくれた光子の、同い年なのになんと成熟した体つきをしていることか。「婚后さんはそういうの、似合いそうだね」「そうかしら? 私の好きな色ですし、これくらいなら派手すぎないかと思って」……いや、婚后さんなら何着ても派手になると思う。そういう心の声を押し隠して、美琴は苦笑いに見えないよう笑顔を見せた。「私も、もうちょっとそういう落ち着いたのにしようかな」溜息をついて、ハンガーをラックに戻そうとした時だった。「えーっ、いいじゃないですか、それ」やや大げさな、残念そうな声が隣から聞こえてきた。「佐天さん?」「あたし見てみたいなー、御坂さんのその水着姿」「私も。是非着てみてください」佐天に並んで、ひょっこり初春も顔を出した。ここ最近になって、二人は美琴の好みと葛藤を、理解し始めているのだった。どうやら「常盤台でもトップランクに位置するお姉さま」は、可愛らしいもの好きなのだが、立場上それを表に出すのがはばかられるらしい。「い、いやいや。さすがにこれは、ね? ほら、また黒子になんて言われるかわかんないし」「そう言わずに、試着だけでも」「ぜーったいに、可愛いですって!」「その、そうは言うけど、婚后さんと並んじゃうと、ほら。いくらなんでも子供っぽいっていうか」「あら。いいではありませんの。その人に似あった水着ってあるでしょう。きっと御坂さんが来たら、子供っぽいんじゃなくて可愛くなると思いますわ」「そう、かな……?」美琴は周りの勧めに、つい抗えなくなる。本当は一目で気に入った、大好きなデザインの服だ。着てみたいに決まっていた。そういえば、この間のセブンスミストでもどっかのバカは、最後までこういう服の趣味を笑いはしなかった。白井の趣味に合わないせいか小言をもらうことは多いけれど、別に、こういう服や水着が好きでも、いいのかもしれない。「じゃあ、着てみよう、かな。と、とりあえず試着。試着だけだけど」「よーし、じゃあ早速行きましょう! ほら初春も、それもってあたしたちも突撃だー!」「はいっ」「ちょ、ちょっと二人とも。何も押さなくても――」善は急げ、美琴の気が変わるうちにと佐天と初春が美琴の背中を押していく。試着室がいっぱいになったのでもう少し水着を眺めようかしらと光子が思案していると、隣でもう一人、まだ決めあぐねている眼鏡の少女が近寄った。「楽しそうにしていたわね。あなたはもう決まったの?」「ええ。こちらにしようかと」まだ水着を一つも確保していない固法に、光子は手にしたそれを持ち上げて見せた。「あら、なかなか刺激的なデザインじゃない」「そうでしょうか? 布地の多いものを選んだつもりなんですけれど。何せ、サイズの問題であまり数がなくて」「そう! それよね。ホント、選択肢がないのが不満っていうか。大手のメーカーだから期待してたんだけど、やっぱり少数派よね」ため息をつく固法の胸元を見る。光子よりも、さらに大きかった。羨ましいというよりは、煩わしそうというのが感想だった。「下着もそうですけれど、不平等ですわよね」「本当にね。年々サイズが変わるからすぐ使えなくなるし」「そうなんですの!」つい、身を乗り出して同意してしまった。こういう話ができる友人の中に、光子の苦労をわかってくれる相手がいなかったのだった。「まだ成長中? なら、私に追いつかないようにってお祈りしてあげるわよ」「確かに、これ以上はいりませんわね」共感たっぷりな苦笑いを、光子は返した。「私は結局この辺しかサイズが合うのはないし、諦めてこれにしようかしら」固法が手に取ったのは、白黒の水玉模様のビキニで、ボトムには小ぶりなフリルがついているものだった。普通サイズのを普通の少女が着れば単に可愛らしいデザインなのだろうが、固法に着せるとかなりセクシーさが強調されるだろう。「じゃ、着てみましょうか」「ええ」湾内と泡浮が着終えて、空きの出た試着室へと二人は向かった。「そーれぇっ!」「あっ、ずるいですわお姉さま!」「ついさっき空間移動<テレポート>つかったアンタが言うな!」文句の中身に反して意外と上機嫌な美琴の声が、あたりに響き渡る。佐天、初春はいつもの美琴と白井のコンビと一緒に、ビーチバレーをしているところだった。ホログラフィを始めたとした映像技術などをフルに生かした、学園都市最新の拡張現実技術を利用して作られた空想のビーチ。海のない学園都市の、それも第七学区のビル内に再現された浜辺で皆は戯れているのだった。「よしっ、これで勝ち越しっと!」「もう、お姉さまったら本気になって」佐天はガッツポーズをする美琴の後ろ姿を見て、うんうんとうなずいた。やっぱり水着の効果だと思う。美琴自身嬉しいのだろう、いつもよりも美琴は快活な印象を周囲に与えていた。「し、白井さん。ちょっと休憩しましょう」「そうですわね。ゲームセットですし。私たちの負けで」ふう、と白井はため息をついて、チームメイトの初春をねぎらった。この四人の中では、初春が一番運動が苦手なのだ。それもあって疲れたのだろう。傍の浅瀬に目をやると、湾内と泡浮、光子が水の中で水を掛け合いながら戯れていた。「捕まえまし――――あっ、」「ふふ。残念でした」まるでイルカのように、滑らかに水中を突き進んだ湾内に対し、泡浮は捕まらないようにと水中から逃げ出した。それも陸に上がるとかそういうのではなく、何と光子ひとりを抱きかかえて、水面に立っているのだった。「すご……泡浮さんて、力持ち?!」横から眺めつつ、佐天はついそう呟いた。湾内は水泳部で、使った能力はまさに水流操作そのものといった感じだ。一方、泡浮の能力は、想像がつかない。あんな細い腕で光子を抱きかかえられるとは考えにくいし、能力を使っているのだと思う。けど、それなら同時に水面にも浮かんでいるあの能力はいったいなんだろうか。多重能力<デュアルスキル>はあり得ないというのが学園都市の定説だから、それらはきっと一つの能力に違いないのだが。「泡浮さんは少々変わった能力の持ち主なんですの」「水流操作じゃない、ですよね?」「ええ。でも流体と関わりの深い能力ではありますわ。あの三人とも」学園都市のマナーとして、白井は他人の能力そのものを教えてくれることはなかった。視線の先では、水中を魚みたいなスピードで追う湾内から、水上を走る泡浮という構図が出来上がっていた。だが、軽そうではあるものの、光子を抱えた泡浮は走るフォームをきちんと取れない。わずかな駆け引きの後に追いつかれて、うねるように立ち上がった水流に絡め取られ、再び水中へと戻されていた。「も、もう! お二人とも容赦がありませんわね」そう文句を言いながら、光子は不敵に笑って起き上がる。「あら、こういう時に遠慮をしては面白くありませんわ」「水中は私たちの活躍の場ですもの」年上相手だが、二人は能力を使って遊ぶのにためらいはなかった。光子は二人より上の、レベル4の能力者だ。環境の不利くらい平気で覆して、遊びに加わってくれることだろう。「まあ、水中で分が悪いのは認めざるを得ませんわね。でも――――」光子が、傍にいた泡浮の肩に手をかけた。泡浮の力を借りてふわりと飛び上がり、体を横にしながら足を水面から出す。そして、水面から1メートルくらいの高さを、滑らかに飛翔した。「私から逃げられるかしら?」「負けませんわ!」湾内は光子のそのアクションを見ても、まだ余裕を感じていた。光子は自由自在に空を飛べるタイプの空力使いではない。方向転換は不得意なはずだし、なにより空気より密度の大きい水流を扱う自分のほうが、機敏な動きは特異なのだ。追いつかれる前にと、湾内は再び水に潜ろうとした。その時だった。「引っかかりましたわね」おかしそうに光子が笑うと同時に、幾本もの水柱が、湾内の周りで噴出した。「きゃっ!」「――――捕まえましたわ」光子が、自らの滑空速度を減じながら、腕を湾内に絡めた。そのままギュッと抱きしめて、体を水に投げ出した。ザッパーーン!盛大な水音があがる。じっと眺めていた佐天以外の、陸にいた残りのメンバーも何事かとそちらを見ていた。「ふふ。私の勝ちですわね」「こ、婚后さん。水中にも『仕込んで』いましたの?!」「油断してましたわね。湾内さん」「婚后さんは、さっき落ちた時に空気の泡を全部ここの底に貯めていたんですよ」笑いながら、そういうことだったのかと納得するように湾内が頷いた。三人としては、ずいぶん能力を抑え目にしてのちょっとした遊びだったのだろう。遠巻きに見る佐天には、そんな風に見えた。ただ、それでも少々、羽目を外しすぎたのかもしれない。ビーチを再現したフロアに、どこからかアナウンスが響いた。『お楽しみのところ邪魔をしてごめんなさい。能力を使って運動をされると、企業として安全が保障できなくなってしまうので、申し訳ないんだけど控えてくださいね』「す、すみません!」「失礼しました」依頼を受けて皆を誘った側の湾内と泡浮が、恥ずかしそうに謝った。『常盤台の学生さんですから、もちろん大丈夫だとは思うんですけど、依頼している我々の体裁もありますから。そうだ、そろそろお昼になりますけど、みなさんどうされますか?』もうそんな時間だったのかという顔をした学生たちに向かって、撮影担当の女性は、続けて提案を行った。曰く。撮影用に飯盒(はんごう)などのキャンプの道具と食材も用意しているから、自分たちで準備されますか、と。ずっと遊んでいたい彼女たちにとっては、願ったりかなったりだった。ニンジン、ジャガイモ、玉ねぎといったオーソドックスな野菜と、牛肉のブロック、エビやイカなどの海鮮が並んだテーブルを挟んで、全員で顔を見合わせる。「それじゃ、作りましょうか」「はーい!」固法の音頭に全員で返事を返し、それぞれの担当作業に手を付け始める。相談の結果、美琴と白井が飯盒でご飯を炊き、佐天と初春が牛肉入りの普通のカレーを、光子と湾内、泡浮がシーフードカレーの調理をすることになった。固法は全体を見回しつつ、シーフードカレー組のサポートに入ることになる。理由は簡単、その組だけが、全員に調理経験があまりなかったからだ。手始めにニンジンや玉ねぎの皮を剥かせ、包丁を三人に渡す。「いい? 包丁は野菜を押さえるほうの手の形にさえ気を付けておけば、指を切ったりすることなんてまずないわ。だから左手には気を付ける事」「わかりましたわ」根は素直な三人なので、固法はあまり心配はしていなかった。現に、恐る恐るではあっても、危なげない手つきで光子たちは野菜を刻んでいく。手つきが安定してきたのを見計らって、他のメンバーの進捗を見にいくことにした。「それじゃこれ、全部切っておいて。準備の山場はエビの処理だろうけど、難しいと思うからちょっと待っててね」「はい」ひときわはっきりと、光子が頷く。先ほどから自分たちよりも光子がやる気になっているのが、湾内と泡浮は気になっていた。普段の光子は、ことさらに食に関心があるほうではない。料理が趣味だなんて印象はなかったし、現にスキルという意味では自分たち同様、素人そのものだ。だから、やる気の原因は、きっと。「婚后さん、張り切ってらっしゃるのって、やっぱり」「えっ?」「作ってあげたいって、思ってらっしゃるのかしらって」「な、何のことですの? 私別にそんなこと考えていませんわ」「そんなこと、ですって! 湾内さん」「私たち、別に何も言ってませんわよね?」不穏な空気を感じて、光子が警戒感をあらわにする。だが視線が落ち着きなく揺れていて、口元が決して嫌そうな感じに見えないあたり、光子の内心はバレバレだった。「婚后さんは、お付き合いなさっている殿方の話をするときだけは、嘘をつけませんわ」「嘘なんて、私言っていません!」「そういう照れ隠しが、素直すぎるんですわ。目上の方に失礼ですけれど、ちょっと可愛いって思いますもの」「そ、そんなこと」「ね、婚后さん。もう一度お聞きしますけど、手料理、振る舞って差し上げたいんではないんですの?」穏やかそうな声で、しかしどストレートにぶつけられた質問に、光子は窮してしまった。確かに自分は、嘘をついた。「……いつも食事を用意するのが面倒だって、おっしゃいますの」「常盤台みたいに寮で食事まで用意される学校ではありませんのね」「高校でしたら、そういうのも普通だと聞きましたわ」「今の私は、正直に申し上げて、あの人よりきっと料理下手なんですの。だからお力になれませんし、それが悔しくって」「だから、料理を勉強しようって考えていらしたんですね」「……ええ。お恥ずかしながら」拗ねたようにそっぽを向く光子に、二人は温かく微笑んだ。「とっても素敵ですわ」「どこがですの。お付き合いしている方よりも、料理ができない女なのに」それは本当に、自分の嫌なところだった。なにせ、当麻からはいずれ下宿に手料理を作りに来てくれなんて、言われたことがあるのだ。付き合うより前の話だし、当麻はもう忘れているかもしれないが、光子はその言葉をずっと心にとどめている。当麻のために自分ができる、数少ないことなのだ。こんな成り行きでも、料理の腕を磨ける気概があることは光子には有難かった。「自分に足りないところを認めて、改めようとしているところが、格好いいんですわ。……いいなあ。私にも、そういう方がいたらもっと家庭科の勉強に身が入るのかしら」愚痴のような独り言を泡浮が漏らす。湾内にとっても全く同意できる内容だった。「婚后さんって、彼氏がいるのね」「えっ?!」慌てて振り向くと、後ろで固法が興味深げな顔をしていた。どうやら別のチームの監督はすぐ終えて戻ってきていたらしかった。「た、立ち聞きなんてお行儀が悪いですわよ」「それはごめんなさい。でも周りに聞こえる声で話していた側にも非はあると思うわよ。ね、それより、どんな彼氏なのか気になるなー、って」大人の余裕が垣間見える態度で、固法がそう問いかけてくる。あまり知らない相手に話すのなんて、照れくさいし恥ずかしい。「そんなこと聞いてどうなさいますの。別に、普通の方ですわ」「普通の方、ですって。泡浮さん」「そうとは思えませんわよね。あんなに素敵な恋をなさっているのに」「もう! お二人とも! 人の秘密をあけすけにばらすのはおやめになって!」「秘密ですって! やっぱりお付き合いなさっている方が素敵な方だっていうことは、人には知られたくないんですわね」「それはそうですわ。大切な人を独占したいっていう気持ちは、わかりますもの」「そんな意味で言ったんじゃありませんわ!」しれっと自分の言葉を曲解していく湾内と泡浮が恨めしくて、じっとりと睨みつける。だが最近はもうすっかり慣れてきたのか、年下の二人は全く物怖じしなくなっていた。そんな三人のやり取りを、固法が楽しげに見つめる。「固法さん、でしたわね。貴女こそどうですの?」「えっ、私?」「確かに気になりますわ。とってもお綺麗で、大人の女性ですもの。素敵な恋の一つや二つ、経験されているかも」「あなたたちに綺麗って言ってもらえるほどじゃないわよ。それと、大人って言っても高校生だし、そういう浮ついた話は残念ながらできないわ」光子の続きで盛り上がる湾内と泡浮に、固法は苦笑せずにいられなかった。恋愛話は固法の周囲でももちろんホットな話題だが、その内容はもうちょっと下世話というか、オトナな内容になっているのは事実だった。「じゃあ、お付き合いしている方は」「いないわよ。別に、今すぐ欲しいとも思わないし」「それなら、今までに恋をした殿方はどんな方でしたの?」「恋って、別に、そういうのはないわよ」固法がその返事にわずかに言いよどんで視線がぶれたことを、三人は見逃さなかった。「今の、ちょっと怪しかったですわ」「湾内さんも泡浮さんも目ざといですわね。固法さん、私に聞くんでしたら、貴女からもお話していただかないと」ようやく自分にも攻める側に回るチャンスが巡ってきたので、光子が嬉しげに頷いた。「あらあら。こりゃちょっと旗色が悪いわね。言っておくけど、これまでに付き合った相手なんていないんだから、面白い話なんてないわよ」「じゃあ、片思い」「さあ。でもそれくらい、誰だってある話でしょ?」それは紛れもない固法の実感だったのだが。うーんと首をかしげる三人の態度を見て、お嬢様とはこういうものかと変に納得させられた固法だった。「あっちは盛り上がってるねえ」「ちょっと手が止まってますけどね」初春と一緒に苦笑しながら、佐天はシーフードカレー組を眺める。こちらは野菜のサイズをどうするかでちょっと揉めたくらいで、あとは順調に進んでいる。失敗するほうが難しいのがカレーという料理だし、慣れた佐天にとってはなんてことはない作業だった。野菜くずをまとめてゴミ捨て場へと持っていくと、向かいからも湾内が捨てにやってきた。「調子はどうですか?」「固法さんのおかげで、今のところ順調ですわ」「常盤台では、調理実習とかないんですか?」「たしか二年か三年の時に、ありますわ。でもそれだってほんの数回のことですし、手際よくは難しいんじゃないかと思いますわ」「まあ、そりゃそうですよね。寮は全部作ってもらえるんですよね?」「ええ。ですからこんなことを言うと嫌味みたいですけれど、毎日ご自分で食事を用意される方って、尊敬しますわ」湾内がそう言って、にっこりとほほ笑み掛けてくれる。確かに内容は嫌味ともとれるのに、全くそう感じさせないおっとりとした笑みだった。柄にもなく、佐天は気恥ずかしくなる。「そ、そんな大したことじゃないですよ。とびきりおいしい料理が作れるわけでもないですし」「きっとそんなことありませんわ。お向かいから、佐天さんの手つきを拝見していましたけれど、包丁の動きがとってもリズミカルで、なんだか自分の母親のことを思い出しましたもの」「褒めすぎですって。それに、湾内さんたちは能力の開発を頑張ってるわけですから、私からすれば、そっちのほうがかっこいいです」「そう言っていただけるのは、光栄ですけれど。でも能力を日常の中でに活かせることなんて限られていますし、自分のことを自分でできるのは大切なことですわ」心のうちに広がる複雑な感情に気づかないふりをして、佐天は湾内に頷き返す。きっと湾内も、自分を気遣って言葉を選んでくれているのだろう。湾内はそういうことのできる女の子だと思う。「そういえば、さっきプールで見ましたけど、湾内さんって水流操作系の能力者……なんですよね?」「ええ。そうですわ」そう言って湾内は、手近な蛇口をひねって水を出し、手のひらの上に貯めて見せた。水塊はこぼれることなくまとまり続け、自然には絶対ありえないような、立方体のブロック形状を示した。「わー、なんかこのサイズだと可愛いですね。この能力を利用して、水中で早く移動していたんですよね?」「はい。その通りですわ」「じゃあ、泡浮さんの能力も、水流操作(ハイドロハンド)なんですかね?」素朴な疑問を、ぶつけてみる。水面から浮き上がっていた様子から察するに、どうも違うような気がしていたのだ。「いいえ。泡浮さんはちょっと違う能力をお持ちですの。私や婚后さんと同じ、流体に関する能力ではありますけれど」「――――浮力を操る能力なんですよ」隣から、泡浮本人がひょっこりと顔を出した。「泡浮さん。下ごしらえのほうはよろしいんですの?」「エビの皮むきは、婚后さんが全部するっておっしゃって」苦笑気味に、泡浮は手持無沙汰を暴露する。あちらでは光子が固法の手つきをまねながら、大きなブラックタイガーの頭を取り除いていた。「浮力を操るって、よくある能力なんですか?」「流体制御の一分野という意味ではよくある能力なんですけれど、浮力を直接対象とする能力はかなり珍しいですわ」「珍しさで言えば、婚后さんに引けを取りませんわね」「そういえば、泡浮さんもですけど、婚后さんも、空を飛んでましたよね」「正確には、私の場合は浮いていただけですの。婚后さんはまさしく飛翔されていましたけれど」「はあ」本質的にどう違うのかわからなくて、佐天としては生返事を返すしかない。二人はその態度を見て、佐天の疑問を察してくれたようだった。「私は水の浮力を極端に大きくすることで、ほんの数センチ、足を沈めただけで浮かべるようになるんです。他にも、空気の浮力を大きくして、空中にものを浮かべることもできるんですよ」そう言いながら、泡浮も能力を実演してくれた。手渡された空の鍋がステンレス製と思えないほどに、ふわりと佐天の加えた力に応じて持ち上がる。「軽っ! っていうか、水でも空気でも操れるって、すごいですよね」「この能力は重力と逆向きの力しか生み出せませんから、そういう不便もありますわ。そして、私と違って、空気の流れを操る空力使い<エアロハンド>でいらっしゃるのが、婚后さんですわ」「空力使い……」「それもレベル4ですから、非常に優秀でいらっしゃるんですよ」それを聞いて、佐天は内心で、驚きを禁じ得ないでいた。光子が空力使いだということが意外なのではない。それ以前に、自分と同系統の能力者がいて、自分よりずっと高レベルであるということが、佐天にとってひどく新鮮な事実だったのだ。空力使い<エアロハンド>はありふれた気流操作の能力に対する大きな分類に過ぎず、仲間意識など持ってはあちらに失礼だとは思う。けれど学園都市に来て以来、能力の系統すらまともに判定してもらえなかった佐天にとって、それは感慨を覚えるに値することだった。「あたしと同じ、なんですね」「佐天さんも空力使いなんですの?」「はい。って言っても、そう名乗れるようなレベルじゃないですけどね」苦笑いして、佐天は手を振った。「さて、そろそろ炒めないと、先にご飯炊けちゃいますね」「そうですわね。美味しく召し上がっていただけるものを、ちゃんと作りませんと」悲壮な決意を見せる、といった感じに湾内がおどけて見せたのをひとしきり笑って、三人はそれぞれの持ち場に戻った。「……それでは、今日の撮影を終わりにしたいと思います。写真を収録した雑誌は発行する前にチェックのためにいったんお送りしますから、問題があれば二日以内にご連絡くださいね。今日はお集まりいただいて、ありがとうございました。」「お疲れ様でしたー!」そう声を唱和させて、固法はふうとため息を一つついた。慣れない体験に、気づかないうちに気を張っていたのだろう。周囲の女子中学生たちにも、一様に仕事をした後の笑みが浮かんでいた。「それじゃみんなお疲れ様。先に失礼するわね」夏も真っ盛りだから、濡れていた髪の枝先ももうすっかり乾いている。これからの予定を相談して盛り上がる残りのメンバーより先に、固法は水着メーカーのオフィスを後にした。「相変わらず暑いわねー」一人そう呟き、昼下がりの太陽にケチをつける。冬なら日も翳ろうかという時間帯だが、あいにく外はまだ十分に明るかった。メールをチェックして、この後会う予定のあった友人とやり取りをする。予定通りの時間に終わったから、このあともうひと遊びするつもりだった。そして、駅のほうへと歩き出したところで、見覚えのある相手が歩いてくるのに気が付いた。「あら、上条君?」「へ? って、メガネの先輩じゃないですか」「その呼び方やめなさいよ」「へーい。お久しぶりです、固法先輩」「久しぶりね。もう一年くらい会ってなかったかしら」「話したのはそれくらいだっけ。半年に一回くらいは街のどっかで見かけてましたけど」そう言い返してきた相手は、上条当麻という学生だった。風紀委員になってからも、その前からも、ちょくちょくと縁のある相手だった。「私のほうには覚えがないんだけど……」「そりゃ先輩、風紀委員<ジャッジメント>やってるじゃないですか。いたいけな一般市民としてはお近づきになりたくないっていうか」「君が一般市民だって意見には納得できないんだけどね」「それ言ったら、夜にバイクで流してた先輩が風紀委員ってほうが納得いかないんですけどね」う、と固法は言葉に詰まる。親しい友人にしか知られていないが、二年ほど前の固法は、それなりにやんちゃだったのだ。目の前の彼とは、その頃からの知り合いである。本人は別にバイクの趣味もないし飲酒も喫煙もしないくせに、荒事の起こる界隈に出没する不思議な学生だった。「ま、それは置いておくとして。こんなところで何してたんですか?」当麻の質問は、もっともだった。風紀委員とはいえ高校生でしかない固法が、水着のメーカーのビルを訪れる理由はあまりない。「ちょっとお仕事でね」風紀委員の、とは言わなかったけれど、そうとも取れるような言い方で固法は答えをはぐらかした。納得してくれたかと相手を観察すると、ふーんとつぶやいて、判断を保留するような顔をしていた。だが、一呼吸おいて。「てっきり俺は、先輩が水着のモデルでもやってたのかと思ったんですけど?」当麻が見透かすように意地悪く笑った。「っ! な、なんでいきなりそういうことを考えるのかしら」「髪、ちょっと濡れてますよ」「汗かいてるだけでしょ」「今ビルから出てきたところなのに?」ニヤニヤとした笑いをひっこめず、さらに問いかけてくる当麻を睨み返す。一つ年下のくせに、固法に対して妙に遠慮がないのだ。この男は。「上条君って、そういうデリカシーのないことは、あんまり言わないタイプだと思ってたんだけど」当麻を牽制するつもりで放ったその言葉に、嘘はない。この男は口では女性に対して気を使えるほうだ。隣にいる女性が、『不幸なアクシデント』にめぐり合うことが多いだけで。「いや、俺は気になったことを聞いてるだけですよ。先輩が嘘をついているみたいだったんで」「嘘だなんて。決めつけはよくないわ」「じゃあ何してたんですか。そんな着替えでも入ってそうなスポーツバッグなんか持って」そう言われて、むしろ固法は不審を抱いた。お互い久々に話したことで少々テンションはおかしかったのかもしれないが、それにしても当麻の態度に余裕がありすぎる。固法が本当に水着の撮影をしていたことを、内心では完全に確信しているように見えた。「上条君こそ。こんなところにどうしているの? 駅から離れているし、遊ぶところも近くにはないのに」「友達に会ってから、繁華街に繰り出すところだったんですよ」その言葉に、嘘を感じた。だってこのあたりに学生寮はない。不意に、撮影現場での会話が脳裏に思い出された。論理的な裏付けのないまま、固法は直観に従って当麻の嘘を穿った。「友達だなんて、言い方はないんじゃない?」「え?」「婚后さん、とってもきれいな女の子だと思うけれど」効果は覿面だった。「ちょ、ちょっと先輩?! なんで」「やった、正解だったのね。ごめんなさい上条君、確かに君の言うとおり、水着の撮影を頼まれていたわ」面白いように狼狽した当麻の態度を見て、心の中でガッツポーズをする。もう、水着姿を取ってもらったという話をばらしても恥ずかしくない。立場は固法が上だった。「もう終わったんだけど、婚后さんはお友達とまだ帰る支度をしていたわ。待っていれば、そのうちここに来るとは思うけど」「なんで、いきなり婚后の名前が出るんですか。っていうか、知ってたんならとぼけなくてもいいでしょう」「婚后さんのお相手の名前なんて聞いてなかったわよ、もちろん。上条君が調子に乗って自爆しただけ」「……ちぇ」クスクスと笑うと、ふてくされた顔で当麻がそっぽを向いた。珍しく、可愛い所もあるものだ。「それにしても、上条君に、ついに恋人登場かあ。あの子、一人目の彼女よね?」「さあ。別に先輩に言う義理ないと思いますけど」「それはそうね。でも今度婚后さんに会ったら、なんて言おうかしら。昔っからいろんな女の子に言い寄られてて、何人目の彼女かわからないって正直に伝えてもいいの?」「人聞きの悪い! 俺、誰かに言い寄られたことなんてないですよ。それと、俺の名誉のために言っときますけどとっかえひっかえなんてしたことないですからね」「うん。まあ、それは信じてあげるわ。陰で泣いてる女の子は多そうだけどね」「いるもんなら光子と付き合うより前に彼女ができてたでしょうよ」からかうつもりが地雷を踏んだ当麻の不機嫌な顔がおかしくて、つい固法は笑ってしまった。それを見た当麻の口元が、さらにひん曲がるのがさらにおかしかった。「ま、久しぶりに会って楽しい話も聞けたし、よかったわ。私はそろそろ行かなきゃいけないから、またね」「俺は会いたくない理由が増えましたよ。ったく。まあ先輩も、お元気で」当麻が最後に見せた苦笑に満足して、固法は当麻に背を向けた。そして数歩歩みだして、誰にも聞こえないように、そっとつぶやく。「やっぱり恋人がいると、輝いて見えるわねー……」独り身の自分を、全く嘆かないわけでもないのだ。今から会う相手、と言ってもただのルームメイトだが、彼女にもまた恋人がいないことを意地悪く喜びながら、固法はその場を後にした。「はー、なんだかんだで楽しかったねえ」「そうですね。いつの間にか、撮影だってこと忘れて遊んでました」夕焼けをバックに、佐天と初春は自分たちの寮を目指して歩く。手には行きと同じバッグに加えて、夕飯の材料を詰め込んだ袋があった。今日はこのまま、二人でお好み焼きパーティーの予定なのだった。「にしても、やっぱ常盤台の人って、遊んでる時でも平気で能力が出てくるんだよね。あの辺の感覚は、やっぱうちらと違うよね」「そうですね。レベル3以上の学生しかいないとなると、みんな何かしら、使える能力があるわけですもんね」精一杯うんうん唸って、スプーンを曲げるのが限界な連中ばかりのクラスメイトと違うのは、むしろ当然だった。「あの婚后さんって言う人、空力使いだった」「……佐天さん」その一言の意味を、初春はすぐに察した。能力を行使したところを実際に見たわけではないけれど、幻想御手<レベルアッパー>によって発現した佐天の能力は、気流操作だったと聞いている。「能力を使ってるところはちょっとしか見なかったけど、滑るみたいに空を飛んでたし、水中でも能力を使って水柱を上げてた」「私も見てました。レベル4ってことは、きっともっとすごい能力を持ってるんでしょうね」「そうだよねえ」歯切れの悪い佐天の言葉は、彼女の苦しみを、物語っているのだろうか。あの事件以降、良くも悪くも、佐天が能力のことを口にすることが、多くなっていた。一瞬手に入れて、すぐ失ったそれに対する葛藤なのか、あるいは罪悪感の裏返しなのだろうと思う。佐天を癒してやれない自分に、初春は少し苛立ちを覚えた。「ねえ、初春」「はい?」佐天が、澄んだ瞳で自分を見つめていた。「あの人に、能力の使い方を教わるのって、ダメかな?」なんでもないことのように告げられた佐天の一言に、初春は思考を麻痺させた。「えぇっ? さ、佐天さん?」「この街に来たからには、あたしはやっぱり、能力を伸ばしたい。そのために、やれることをやりたいんだ。もちろん婚后さんに無理って言われたらそれまでだけど、まずは、当たって砕けてみよう、って。そう思うんだ」そう言って照れくさそうに微笑む佐天を見て、初春は満面の笑みを浮かべた。「そうですね。砕けちゃだめですけど、当たってもみないのはもっと駄目ですよね!」佐天は、ほんの短い間だけ能力を身に着け、それを失った。その喪失感ばかりが、ずっと佐天を苛んでいるのだと、初春はそう思っていた。けれど、違うのだ。初春のよく知る佐天という少女は、弱さを抱えてはいても、弱いだけの少女ではなかった。失くしたことで、佐天が得たものもまた、あるのだろう。「とりあえずは婚后さんが街に出てくるところを待ち伏せかなー」「待ち伏せって……御坂さんか白井さんに聞けば、連絡先を教えてくれるんじゃ」「ま、そうだね。でもとりあえず今日は宴会だー。疲れたし飲むぞー!」「佐天さん! その言い方は誤解を招きますよ! 私ジュースしか買ってません!」初春は苦笑しながら、バッグをぶんぶんと振り回す佐天を追いかけた。誰も、気づく者はいなかったけれど。紛れもなく今日こそが、佐天涙子の『はじまり』の日だった。*********************************************************あとがき白井の風紀委員としての先輩にあたる固法美偉の学年は、作中では明記されていませんが、漫画版超電磁砲の一巻第四話(レベルアッパー事件)と三巻番外編(新人研修編・一年前)で着用している制服のスカートが、どちらも同じチェック柄であることから、少なくとも二年生以上であることが示唆されます。また、アニメ版超電磁砲15-16話の、彼女の二年前を描いたストーリーでは全く異なるセーラー服を着用していることから、(転校の可能性に目をつぶると)アニメでは、高校二年生であると考えられます。本作ではこの推測に基づき、二年生であると設定しています。またスタイルの情報を調べる限り、固法、光子、泡浮さんの身長・体重・バストサイズはほぼ同程度なのですが、アニメでは固法 >> 光子 >> 泡浮・湾内・佐天 > 美琴 > 初春 >>>>>>>>>> 白井 みたいな扱いなので、そのように描写しました。