「黄金の帝国」・会盟篇
第二三話「地獄はここに」
ときは三〇一五年アダルの月(第一二月)の月末、場所はルサディル。この町が聖槌軍に占領されてからまだ二〇日も経っていない頃。
元々の町の住民はほとんど逃げるかあるいは殺されるかし、現在残っているのは数千。一割に満たない人数だ。逃げ遅れて聖槌軍に捕まったルサディルの住民は奴隷として様々な雑用に従事していた。
「ほらほら、逃げてみろよ!」
「狐狩りだぜ!」
聖槌軍の兵士が逃げる奴隷に矢を浴びせている。エレブ兵は単なる娯楽でルサディルの住民に暴行を加え、なぶり殺しにした。奴隷の数は減る一方だった。
港に近い商館街にはわずかに生き残った女性達が一人残らず集められている。彼女達は建物の中に押し込められ、一日中エレブ兵に強姦され続けていた。ほとんど寝る間もなく、一日に何百人というエレブ兵が次々と彼女達を犯していく。彼女達を犯そうとするエレブ兵が建物の外まで長い行列を作っている。精も根も尽き果て、涙も涸れた彼女達はもう死体とほとんど変わらない。
「くそっ、もう死んでるじゃねぇか。……これで我慢するか」
そのまま死体となった彼女達はそれでも犯され、その上でうち捨てられた。生き残った女性の数も急速に減っている。このペースならルサディルの住民が一人残らず死に絶えるまで一月も必要ないだろう。
奴隷の何人かが女性の死体を町の外に運び、埋葬する。町の中の墓地はすでに満杯、町の外の荒野を臨時墓地としそこに死体を埋葬していた。浅く掘った穴に遺体を安置し土をかぶせ、目印に石を置いただけの簡易墓地だ。何百と並ぶ目印の石は彼等奴隷を陰鬱とさせた。
「俺達も遠からずここに入るんだろうな」
「そのときにわざわざ埋葬してくれる人が残っているのかね」
気が沈む一方の会話を交わしながら彼等は穴を掘っていく。穴を掘り終え、女性を安置しようとしたときに気が付いた。女性が何かを握りしめている。奴隷の一人が女性の手を広げ、それを手に取った。女性が手にしていたのはT字に蛇が絡みついた聖杖教の印、聖杖の首飾りだった。アニードやタンクレードに勧められるままに、身の安全を図るために彼女は聖杖教の洗礼を受けたのだろう。聖杖を握りしめた奴隷がうち震えた。
「くそっ!!」
奴隷は聖杖を地面に叩き付ける。それでも気が済まず、聖杖を何度も何度も踏みにじった。
「くそっ、くそっ……! あのバール人が! エレブ人の言いなりになって嘘をついて……『聖槌軍に協力すればルサディルは攻撃しない』? バール人を信じた俺達が馬鹿だったんだ! あいつさえいなければこんなことには!」
その奴隷は天を仰いで怨嗟の雄叫びを上げている。他の奴隷は無言だが全くの同感であることはその表情を見れば明らかだった。そしてこれは彼等だけの見方ではない。生き残った、逃げ延びたルサディル市民のほとんどが同じ恨みを抱いているのだ。
一方そのアニードである。アニードはルサディルの惨劇に際しては自分の商船に隠れて難を逃れた。陸上の商館や豪邸は聖槌軍に略奪され、あるいは焼き討ちされ、アニードの財産はもうこの商船しか残っていない。
そしてアニードが今いる場所はマラカである。イベルス王国の港町であり、聖槌軍の集結地となっている町だ。町には聖槌軍に参加したエレブ兵が満ちあふれている。続々とネゲヴに向かって進発しているはずなのに、その数は減っているようには見えなかった。
アニードは商船の船長室で椅子に腰掛け、何かを待っているようである。竜也がその容貌をきっと驚くだろう。急激に白髪が増え、頬が痩せこけている。たった一月でアニードは十歳も老け込んだかのようだった。
ノックも何もなしに誰かが船長室に入ってきた。その誰かはそのまま部屋の中を進み、アニードの前の椅子に腰を落とす。その誰かは肺の息を全て吐き出すほどに大きなため息をついた。
「……それで、どうだったのだ」
アニードが目を向けるまでもない。そこにいるのがタンクレードであることは確認する必要もなかった。
「事情は判った、予想通りだ」
「ならば処罰も」
「ああ、現状では不可能だ」
アニードは返事の代わりに歯ぎしりをした。すでに予想していたことだが、こうやって事実として確定すると改めて憤りと恨みが募ってくる。
トルケマダ隊によるルサディルの惨劇を目の当たりにした後、タンクレードはマラカに帰還。王弟ヴェルマンドワ伯ユーグを通じてアンリ・ボケへの抗議をしようとした。ルサディルを聖槌軍の拠点として活用しようとしたのはユーグの発案した計画である。タンクレードだけでなくユーグもまた多くの労力と資金をこの計画に投じてきたのだ。その一切を台無しにされたユーグが怒りに燃えるのも当然だった。だが――
「口を慎んでいただきましょうか。王弟殿下」
詰め寄るユーグに対し、アンリ・ボケはそう言い放った。ユーグは言葉を途切れさせる。
「今のお話は聞かなかったことにします。私も殿下を異端として告発したくはないのですよ。殿下もどうかこの話は忘れてくださいますよう」
「ルサディルを懐柔し拠点とする、それが聖槌軍の勝利にどれだけ重要なのかが判らないのか! それを全て無為に帰しておいて、私を異端とすると?!」
アンリ・ボケは殊更にため息をつき、なだめるように告げた。
「殿下、我々にとっての勝利とは何ですか? ネゲヴ全土を征服することですか? ネゲヴから金銀財宝を奪い取ることですか? ネゲヴから麦や金貨を税として徴収することですか? ――違うでしょう、我々にとっての勝利はそれではない。ネゲヴの邪教を全滅させ、ネゲヴの悪魔の民を全滅させ、ネゲヴの異端を全滅させる。それが我々にとっての勝利のはず」
ユーグはアンリ・ボケに、その狂気に圧倒される。弁舌でこの狂気を覆すことなど不可能だと目の前が暗くなった。だが、それでも必死に抗弁する。
「ルサディルの町には改宗した聖杖教の信徒もいたのだぞ。だがトルケマダ隊は彼等も殺戮してしまった……この先ネゲヴの誰が洗礼を受けるというのだ!」
「邪教の信徒が身の安全のためだけに聖杖教の信徒と偽る、それはただの邪教の信徒よりはるかに罪深い存在ではありませんか?」
ユーグはがっくりと肩を落とす。絶望がユーグの声から力を奪った。
「そんなことを言っていたらネゲヴの民の誰一人として改宗させることができないではないか……あなたはネゲヴ人を皆殺しにするつもりなのか?」
「ええ、その通りですよ?」
アンリ・ボケはごく当たり前のようにそう答える。ユーグはこれ以上アンリ・ボケと言葉を交わす気力を持てなかった。会話をすることはできる、だが言葉が通じない――アンリ・ボケはユーグにとってはもはやそういう存在だった。言葉の違う異国の人間の方がまだ心を通わせることができるだろう。
……タンクレードの報告を聞き、アニードは暗然とした顔をタンクレードへと向ける。
「……話には聞いていたが」
アニードはそれ以上言葉が続かない。アンリ・ボケを的確に表するどんな言葉もアニードは持っていなかった。代わりに別のことを口にする。
「……それで、どうするのだ」
「前々から考えていたことだが、今回の件で確信した。――あの男は敵だ」
タンクレードは殺意に眼を光らせた。戦場で、宮廷で戦い続け、勝利し続けた謀略の将軍が獲物に狙いを定めている。
「今は仮に味方でも、あの男は必ず我が主に、王弟殿下に仇なす敵となる。あの男を放っておけば聖槌軍が、祖国の軍が壊滅する。だから殺す」
タンクレードの放つ殺気に触れ、アニードは恐怖を覚える。だが期待が、強い望みがそれを上回った。
「トルケマダはどうするのだ」
「もちろん始末する。順番としてはまずトルケマダを標的とし、あれを足がかりに枢機卿を攻める糸口を探す、というところだ」
「ならば、私はお前に協力する」
アニードが立ち上がり、そのアニードをタンクレードが見上げている。
「私の町を、私の商会を、私とお前の努力の全てを壊したトルケマダを許しはしない。私はトルケマダに復讐をしたい」
いいだろう、とタンクレードもまた立ち上がった。
「謀略を仕掛けるとしても舞台となるのはネゲヴだ。お前の人脈や土地勘は私にとっても必要だ」
タンクレードが手を差しのばし、アニードがそれを固く握る。全てを失い、汚名だけを得た者の復讐がここから始まろうとしていた。
年は三〇一六年となり、ニサヌの月(第一月)。アンリ・ボケの鉄槌騎士団に次いで最後尾のユーグの軍がルサディルに到着した。トルケマダ隊がルサディルで殺戮をくり広げてからすでに一ヶ月近くが経っている。逆に言えば(街道が充分に整備されていないという理由があるにしても)ある一地点を聖槌軍の全軍が通過するのに一ヶ月を要するのだ。総兵数百万とはそういう数字だった。
ルサディルの元の住民は逃げるか殺されるかし、町には人影がほとんど見られない。ユーグ達も空き家を宿泊に使うくらいで早々にルサディルを抜けて東へ向かおうとしていた。
ユーグのフランク軍がゴーストタウンとなったルサディルの大通りを進軍する。大通りの脇には負傷したエレブ兵が立っていた。両目を切られた兵は幽鬼のように佇み、足を斬られた兵が、手首から先を喪った兵がすがるような目をユーグへと向けている。
「あの者達は?」
ユーグの問いに答えるのは近衛の騎士である。
「トルケマダ隊の兵です。この町を落としたときに悪魔の民に手傷を負わされた者達です」
ユーグは「ああ、あの噂の」と納得する。
「たった七人の悪魔の民の戦士が千の兵を屠り、万の兵を退けた」
「奴等の剣は触れるだけで兵を真っ二つにした。盾を手にしようと、鉄の鎧を身にしていようと、奴等は盾や鎧ごと兵を斬った」
「斬られた兵の血で地面が真っ赤だった。血の雨どころではなく、血の嵐だった」
そんな噂がユーグの耳にも届いている。ユーグはその噂を信じていなかったのだが、
「ただの与太話ではなかったのか?」
「万はさすがに誇張が過ぎますが、たった七人で千に届く兵を斬った、というのは嘘ではないようです」
たとえ千でもにわかには信じがたい話ではある。が、トルケマダ隊の兵の哀れな姿を見ると簡単に嘘と断じることもできなかった。
「そんな化け物どもが待ち構えている大陸にこれから進軍するのか……」
この聖戦がどれだけ前途多難かを証拠つきで示されたようなものである。ユーグは暗澹たるため息をついた。そしてその思いは聖槌軍全軍が共有している。トルケマダ隊の負傷者の姿はこの町を通過する全ての将兵が目にしているのだから。
ユーグの次、全軍の最後尾としてルサディルに到着したアンリ・ボケもこれらの負傷者の姿を見ている。トルケマダ隊の負傷兵はアンリ・ボケにすがり慈悲を求めた。
「我々は悪魔を相手に勇敢に戦い、このように負傷しました。どうか我々がエレブに帰るための助力を」
同情を買おうとする負傷兵だが、彼等に対しアンリ・ボケは不快そうな顔で冷酷に告げた。
「聖下のご命令を果たさないうちにエレブに逃げ帰ろうとするのは敵前逃亡であり、利敵行為であり、異端も同然。通常の兵ならまだしも貴様達は教皇聖下の兵を名乗ったのだろう。聖戦にその身を、その生命を捧げることを誓ったのだろう。ならば矢尽き刀折れ、傷を負おうと這ってでも前進すべきなのだ。そうやって模範になってこそ味方の士気も上がろうというのに、貴様達がやったのは全く逆のことではないか」
アンリ・ボケは彼等の帰還を許さず前進を命じた。負傷したトルケマダ隊の兵が泣きながら歩いていくが、元々辛うじて生き延びた負傷兵ばかりである。傷を悪化させた彼等が全滅するのに半月の時間も必要なかった。
アンリ・ボケのこの行為は単なる残虐趣味ではなく、下がる一方の全軍の士気を少しでも上げることを目的としたものだった。だがそれはすでに遅く、ほとんど意味を持たなかった。「ルサディルの血嵐」の噂は聖槌軍全軍に根深く広がっていたのだから。
そしてこの噂は西ネゲヴで戦うネゲヴ兵にとって大きな助力となった。赤虎族のダーラク率いる遊撃部隊がくり返し聖槌軍に奇襲を仕掛けるが、
「敵だ! ネゲヴ兵だ!」
「悪魔の民だ! 血の嵐だ、逃げろ!」
悪魔の民を怖れるエレブ兵は簡単に総崩れとなった。ダーラク達は逃げ惑うエレブ兵を追い散らすだけ。敵に一方的に損害を与え、味方の損害はゼロに等しい。が、ダーラクは嬉しくも面白くもなかった。
「逃げるな! 敵は牙犬族ではない! 別の悪魔の部族だ、怖れる必要はない!」
指揮官の一人が兵を叱咤し、体勢を立て直そうとしている。それがダーラクの耳にも届いていた。
「俺達が犬どもよりも与しやすいかどうか、その身体で確かめてみな!」
ダーラクは敵指揮官の部隊まで騎馬で突撃、雷撃を放ってその指揮官を打ち倒した。指揮官を失い、敵兵が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ダーラクは馬上からそれを眺め、鼻を鳴らした。
「……こんな雑魚ばかり何人殺そうと赤虎族の名を高めることはできん。もっと名のある騎士を狙わんとな」
冷静に考えて、ダーラクが赤虎族の戦士六人を率いてルサディルの惨劇に直面したとして、バルゼル達と同じだけの戦果を上げられるかどうかは疑問だった。赤虎族の雷撃の恩寵は見た目は派手だが殺傷力の面では烈撃の恩寵に劣っている。
「だが、だからと言って犬どもが俺達より強いとは思えん。赤虎族の方が強い――それをエレブ兵にも判らせてやる」
一方、金獅子族のサドマはグヌグで聖槌軍と戦っていた。聖槌軍先鋒のトルケマダ隊がグヌグを通過。殿軍部隊を率いるサドマはグヌグ市民が東に逃げる時間を稼ぐためにトルケマダ隊と対峙していた。
「久々の獲物だ! 逃すな!」
欲望に目を血走らせたトルケマダ隊が突撃、その眼前にサドマと金獅子族の戦士達が立ち塞がった。嘲笑を浮かべたまま突撃するエレブ兵だが、彼等は見えない壁にぶつかったかのようにはね飛ばされ、地面を転がった。
「何だ? 一体何が」
その兵は事態を理解できないまま、前へと進んだサドマの手により斬殺される。その様子に一瞬怯むトルケマダ隊だが、欲望が恐怖を上回った。トルケマダ隊は重ねて突撃を敢行する。
「外撃で敵の体勢を崩し、斬り込むぞ」
サドマの指示に金獅子族の戦士達が頷く。突撃してきたエレブ兵はまたもや見えない壁にぶつかって地面を転がった。そこに金獅子族の戦士達が突撃し、エレブ兵を屠っていく。
「くそっ!」
剣を振りかぶってサドマを斬らんとするエレブの騎士。サドマはその騎士の前に左掌を突き出した。何も持っていない、空の手である。だが、
「くわっ!」
突然目に痛みが発し、その騎士は反射的に手で顔を、目を覆った。目つぶしでも食らったのか、と思い、それがその騎士の最期の思考となった。その騎士が剣で胴をなぎ払われ、地面に倒れ伏す。
サドマ達金獅子族に授けられているのは外撃と呼ばれる、衝撃波を放つ恩寵である。エレブ兵が見えない壁と錯覚したのはサドマ達がタイミングを揃えて放った衝撃波にはね飛ばされたからだ。エレブの騎士が目潰しと勘違いしたのは目をめがけて放った衝撃波だった。
「悪魔だ! 魔物だ!」
「血の嵐だ!」
サドマ達の攻撃を受け、恐怖が欲望を上回ったエレブ兵が逃げていく。トルケマダ隊は総崩れとなり、充分な時間が稼げそうだった。が、サドマはその表情に複雑そうな思いをにじませている。
「……敵に脅威と思わせるのは簡単ではないな。どうすれば犬どもよりも強い恐怖を敵に与えられるのか」
「ルサディルの血嵐」の噂はエレブ兵の戦意を大いに削ぎ、サドマ達の戦果に大きく寄与していた。だがサドマはそれを素直に喜ぶことができない。それは言わば牙犬族の助力があって得られたものであり、金獅子族が単独で獲得したものではないのだから。
「牙犬族は確かに強い、だが金獅子族の方がもっと強い――それを示さなければならない。敵にも、味方にも」
ダーラクとサドマ、赤虎族と金獅子族は競争するように聖槌軍に戦いを挑み、戦果を上げていく。だが彼等にとって競争相手は互いではない。この戦場にはいない、スキラにいる牙犬族だった。
ネゲヴに侵入した聖槌軍は東へと進軍を続けている。
細い街道をエレブ兵が連なり、歩いている。エレブ兵の列は地平線の向こうから始まり、地平線の彼方まで続いていた。隊列などという整然としたものはもうどこにも存在しない。浜の真砂が西から東へと流れているようなものだ。
「食い物……食い物……」
エレブ兵の頭にあるのはその一言だけである。
「東に行けば、次の町に行けば食い物がある」
ただそれだけの思いが彼等の足を前へと動かしている。その思いが途切れた者は地面に倒れ伏し、二度と起き上がりはしなかった。
聖槌軍の行軍は困難を極めた。雨が降れば道は泥濘の川となり、晴れれば強い日差しが容赦なく水分と体力を奪っていく。そして何より食糧がない。総数百万という数字を維持することはネゲヴに侵入した瞬間に不可能になっていた。脱落者が続出しているが誰もそれを気にしていない。そんなことを気にする余裕は誰も持っていなかった。誰もが自分と、自分の食い扶持のことしか頭にない。
脱落したエレブ兵の死体がそこら中に転がっている。エレブ兵の死体をついばみにカラスが舞い降り、そのカラスを捕まえて食おうとエレブ兵が群がっている。カラスに逃げられたエレブ兵が恨めしげに空を見上げた。
ディアの虚ろな碧い瞳がその様子を写している。ディアに続く四〇人の戦士はエレブ兵の集団の中では例外的に隊列を保っていた。だがその内面は他のエレブ兵と何ら変わらない。
「食い物……とにかく食い物が」
川に行き当たってはドジョウでもメダカでも捕まえて食い、村に行き当たっては村中を掘り返す勢いで残された食糧を探した。わずかに残った食糧を奪い合い、殺し合いになることも珍しくはない。
だがそれでもディア達はまだ余力がある方だった。のろのろと歩く他のエレブ兵を追い抜き追い越し、ディア達四〇人は先へと進んでいく。ディアの村を支配する領主の隊列からはとっくに外れてしまっているが、ディア達はそんなことを気にしなかったし領主の側も気にしていないだろう。脱落も逃亡も何一つ珍しくはないのだから。
森を抜けて街道が開けた場所に出たところで、敵の襲撃があった。突如現れたネゲヴの騎兵がエレブ兵の列に突っ込み、散々かき回している。エレブ兵は逃げ惑うだけである。
「くそっ、こちらにも騎兵があれば……」
エレブの騎士が悔しがるが、聖槌軍に騎兵はもう一騎も残っていなかった。騎馬の飼料が底をつき、馬が足を止め、処分されて人間の胃袋に収まる。全ての馬が食い尽くされるまで一月かかっていない。
ネゲヴの騎兵が一方的にエレブ側を蹂躙している。その間にディア達は移動、ネゲヴの騎兵が逃げると思われる方向に四〇人の戦士を分散配置した。そして騎兵の一団が逃走、それはちょうどディアが網を張った場所である。三人の戦士を率いたディアが地面に伏した。地面を揺らして騎馬の一団がディアの目の前を通り過ぎていく。騎馬の一団の最後尾、一騎だけ他より遅れている騎馬がいる。他の騎馬が全て通り過ぎ、その最後の一騎が目の前にやってきたとき、ディアが跳躍した。
「てぇぃっ!」
高々と舞い上がったディアの跳び蹴りがその馬の頭部に直撃。頭蓋骨を砕かれた馬はそれでも十数メートル疾走しつつ、血と脳漿を撒き散らしながら滑り込むように地面に倒れた。騎乗していたネゲヴ兵は振り落とされている。
「くそっ、何が……」
ネゲヴ兵は頭を振りながらも何とか起き上がった。その兵が体勢を整える前に、ディアの部下が背後から剣でその兵を一突きする。腹部から剣を生やしながらもその兵は最後の反撃をしようとした。だがそのあがきも届かず、ディアの戦士二人が左右両側からその兵にとどめを刺す。絶命したネゲヴ兵を放り捨て、ディアの戦士達はディアの元に駆け寄った。ディアは倒れた馬を引きずって移動しようとしているところである。ディアと三人の戦士が馬を引きずって物陰へと移動した。
「よし」
大きな岩の陰に隠れたディアは岩の上から周囲を見回し、エレブ兵もネゲヴ兵の姿もないことを確認する。そして大きく息を吸い込み、
ウゥゥルルォォーーーンン
まるで狼のような遠吠えを上げた。その遠吠えは一〇スタディア先までも届くかと思われた。遠吠えがどこかで反響し、こだまとなっていまだ聞こえている。
やがて、遠吠えを聞きつけた戦士達がディアの元に集まってきた。彼等は馬を目の当たりにし、揃って歓声を上げた。
「火を燃やせ。燻製にすれば何日かは食べられる」
ヴォルフガングの指示に従い戦士達がそれぞれ動いた。薪を集め、火をともし、その間に馬を解体する。心臓や肝臓などの内臓を先に焼いてこの場で食し、肉は燻製にして保存食とした。骨髄はもちろん血の一滴までも無駄にせず、全てを飲み干し、平らげる。
「……はあー」
久々に充分な栄養を補充し、ディアは恍惚の表情を浮かべていた。飲み干した馬の血が栄養となって身体の隅々まで行き渡るのを実感できる。食らい尽くした馬の心臓が胃で分解され、血肉となっていくのを体感できた。
栄養を補充したディアとその戦士達が東への移動を再開する。食糧が手元に残っている間は街道に戻らず、他のエレブ兵の目ができるだけ少ない場所を選んで進んだ。もっともそんな道はないに等しい。食糧を求めるエレブ兵はそこら中に広がっている。エレブ兵はまるで蝗のように広がり、全てを食い尽くしながら進んでいた。彼等がディア達のように幸運や武運に恵まれる機会はほとんどなく、エレブ兵は次々と倒れていく。西ネゲヴの街道はエレブ兵の屍によって舗装されようとしていた――比喩ではない。路上から移動されることもない死体は後続の兵士に何度も何度も何度も踏みにじられ、原形を留めることもできない。その血肉は泥濘とかき混ぜられ、地面と一体となっていくのだ。
「エレブにいる間は、あれでもまだマシだったんだな」
ディアはエレブでの行軍を「まるで地獄のようだ」と思っていたがその認識はネゲヴに来て改められた。ネゲヴの現状と比較すればエレブの惨状すら極楽みたいなものだ。
「ここはまさに地獄そのものだ」
靴の裏で人骨が砕ける感触を覚えながら、ディアはそれでも前に進んだ。歩くほどに地獄の底へと近付いていく――それを嫌と言うほど理解しながら。
街道沿いの町や村にネゲヴ人が残っておらず、食糧も残されていないことを疑問に思う兵はいなかった。
「百万の兵を目の前にすれば逃げるのが当然だ」
「先行した部隊が食糧を食い尽くしたんだろう」
自然にそう思っている。だが軍を指揮する者達にはそんな思考停止は許されていない。
「最後の食糧を食い尽くし、我が兵はもう三日も何も食べていません」
「我々が村に入ったときにはネゲヴ人は一人もおらず、食糧も残されておりませんでした」
「食糧がなければこれ以上はもう一歩も前に進ません」
「どうか殿下のご慈悲を、補給を」
ユーグの元には先行する部隊からの報告が、悲鳴が殺到していた。ユーグが敵の作戦を、竜也の意図を見抜くのに大して時間は必要なかった。
「確かに、百万の軍勢と戦うにはこうするしかないだろうな。僕だってそうする」
ユーグはただ嘆息するしかなかった。そしてユーグの推理の正しさをタンクレードが明確にする。
「ネゲヴ人はスキラに集まり、独裁官を選出して聖槌軍に抗戦しようとしています。その独裁官クロイ・タツヤという人物がこの焦土作戦を実行しているのです」
「その話は、バール人どもが?」
ユーグの確認にタンクレードが頷く。
「複数のバール人から全く同じ情報を得られました。エレブを経由しても同じ情報を得られています」
そうか、と頷くユーグ。
「……このバール人どもから我々は食糧を買っているのだな」
その確認をタンクレードが肯定し、ユーグが疑問を呈した。
「そいつ等はバール人であってもネゲヴ人なのだろう? 我が軍が彼等の商会を破壊し、略奪しているんじゃないのか?」
「確かにその通りですが、彼等の財産の大半はすでにスキラに移動しています。その上で我々と取引をして儲けようとしているのです」
タンクレードの解説にユーグは不快そうに鼻を鳴らした。なお、バール人が提供する食糧の代わりに聖槌軍が支払うのは略奪で得た財貨やネゲヴ人の奴隷(逃げ遅れて捕まったネゲヴ人全般)である。
「金のためなら親でも売る――まさしく評判通りの連中なのだな」
「はい、到底信用はできません。ですが、利用することはできるでしょう」
タンクレードの言葉にユーグは頷く。実際、バール人がいなければユーグ達はこれ以上進軍できなかったのだ。現地調達するはずだった食糧がほとんど手に入らず、全軍が飢餓に瀕している。多少なりとも食糧に余裕があるのはユーグ達のようにバール人と取引をしている部隊だけである。
「しかし、バール人から食糧の補給を受けるにしても限度があります。全軍の食糧をまかなうことなど到底不可能です。敵の焦土作戦にどのように対処するおつもりですか?」
ユーグはしばし考え込み、
「……最初から百万の軍勢なんて無茶でしかなかったんだ。いくら百万を揃えたところで大半が足手まといの無駄飯食らいにしかなっていないじゃないか。無駄飯を食らうだけの余計な軍勢はこれ以上必要ない、帰国させるべきなんだ。兵数を四〇万、いや、二〇万まで絞り込めれば……」
「確かにそれが最善かと私も思います」
タンクレードは一応そう答え、その上で問うた。
「ですが、あの枢機卿がそれを認めるでしょうか」
「認めるはずがないな」
ユーグは即答して肩をすくめる。
「だが、全軍の指揮官として提案しないわけにはいかないだろう」
ユーグは後続のアンリ・ボケに面会を申し込む。その夜、野営地の天幕にてユーグはアンリ・ボケと会談を持つ段取りとなった。
「『百万を進軍させよ』――それが教皇聖下のお言葉であり、ひいては神のご命令です。殿下はそれに異を唱えようと?」
ユーグの提案に対するアンリ・ボケの回答は予想と寸分変わらなかった。ユーグは徒労となることを理解しながら、それでも義務を果たさんとする。
「だが、その百万の軍勢はまともに敵と戦いもしないのに減る一方ではないか。この調子ではケムトに到着するまで果たして何人の兵卒が残っていることか」
「この程度の苦難は最初から予想していたことです」
自軍の膨大な被害に直面しようと、アンリ・ボケは泰然と頷くだけだ。
「我々は地上に神の国を建設しようとしているのです。その道程が容易いものであるはずがありません。この行軍の先にこそ魂の安らぎが、永遠の楽園があるのですよ。それを思えばこれしきの苦難が、この程度の犠牲が何だというのですか」
ユーグの提案をアンリ・ボケはまともに取り合わず却下し、その日の会談は終了した。この会談の内容についてユーグはタンクレードに報告しただけだし、アンリ・ボケは誰にも話していない。が、この会談の内容が数日で聖槌軍内で広く噂されるようになった。
「……枢機卿様より王弟殿下の方が正しいんじゃないのか?」
「この調子じゃ俺達だっていつ餓え死にするか……」
「エレブにいたときに聞いていたのと話が全然違うじゃないか。金目のものはないし、女どころかネゲヴ人がいないし、飯すらまともに食えないなんて!」
「帰れるものなら帰りたいよなぁ……」
そして噂が兵士の郷愁を刺激する。その思いは騎士階級の下級貴族、領主クラスの上級貴族も共有した。
「死なないうちに帰りたい」
「これ以上被害を大きくする前に帰りたい」
そんな声が全軍から聞こえてくる。ユーグの元にも直接それを言いに来る者が現れた。
「飼い葉もなく、馬は処分され、これ以上の進軍は困難です。どうか我々の帰国をお認めください」
そう言ってひざまずくのはアデライードの部下達だ。アデライードは自分の肖像画をこの出征にも同行させたのだ。
「帰れ帰れ」
と内心では二つ返事で許可したいユーグだが、アンリ・ボケへの手前もある。言葉を曖昧に濁すだけで明確な許可は出さなかった。彼等は勝手にユーグの軍を抜け出して街道を逆行し、エレブへと戻ろうとする。が、その彼等をアンリ・ボケが捕まえた。
「どこへ行こうというのですか? 聖下があなた達に求めるのは前進のみです」
「我々はフランク王国ヴェルマンドワ伯夫人アデライード様の……」
彼等はいつものようにアデライードの名前を振り回してアンリ・ボケの制止を振り切ろうとする。だが、
「私はアンリ・ボケ、神の僕です」
アンリ・ボケにそんなものが通用するはずがない。彼等はきびすを返して前進することを余儀なくされた。
「……ですが、この美しい肖像画がこれ以上ネゲヴの風雨で傷んでしまうのは忍びないことです。この肖像画は船で本国に送り返しましょう」
とアンリ・ボケは妙なところで好意を示し、肖像画の入った黒檀の箱だけはバール人商会の船でエレブに送り返される段取りとなった。アデライードの部下達はこの後身軽な状態で行軍を続けることになるが、彼等がアンリ・ボケにそれを感謝したかどうかは判らない。
アンリ・ボケはエレブへの帰還願いを一蹴し続けるが、それでも帰還願いは続出する。ついには一国の指揮官が帰還へと動いた。聖槌軍内のイベルス王国軍を率いる将軍サンチョがアンリ・ボケと会談を持ったのはニサヌの月(第一月)の中旬である。
「イベルス王国の軍勢は帰国させてもらう」
サンチョは不格好に肥え太った中年男だった。サンチョは頬を振るわせてアンリ・ボケにそれを一方的に通告した。
「聖戦の騎士となること、閣下はそれを聖下に誓ったのではありませんか?」
「聖戦もくそもあるか! 食糧がなく我が軍は全軍が餓死しようとしているのだ。私は国王陛下より預かった我が国の兵と民を守らなければならないのだ」
サンチョは鬱憤を晴らすように吐き捨てた。一方のアンリ・ボケは表面上はいつもの柔和な微笑み顔を維持している。
「……私は全ネゲヴ総教区枢機卿としてあなたを異端として告発することもできるのですが?」
「やりたければやるがいい」
アンリ・ボケの脅迫に対してサンチョは嘲笑で応えた。
「イベルスの二五万が貴様に剣を向けるだけだ。貴様の味方がどれだけいる? どれだけの兵が貴様に味方すると思うのだ?」
アンリ・ボケは沈黙する。自分が無数の人間の恨みを買っていることについて、アンリ・ボケは決して無自覚ではなかった。アンリ・ボケの沈黙にサンチョは勝利を確信する。
「さらばだ。私は急いで帰国し、貴様が好き勝手に荒らした祖国を立て直さなければならん」
サンチョはそう言い捨て、天幕を出ようとし――サンチョの人生はそこで終わった。水平に振り回された鉄槌がサンチョの延髄にめり込む。サンチョの首は鋭角を作ってねじ曲がり、サンチョは倒れ伏した。
次の日、アンリ・ボケの元から将軍サンチョの死去が公表された。死因は食中毒。もちろんそれを信じる者は一人としていない。反乱を起こす前にアンリ・ボケ直属の鉄槌騎士団がイベルス軍へと乗り込み、主立った指揮官を処刑する。これにより帰国の願い出は一切なくなり、全軍を慄然とした沈黙が満たした。
「まさかここまでやるとは。あの男を甘く見ていたか」
とほぞをかむのはタンクレードだ。ユーグとアンリ・ボケの会談内容を噂として広めたのはタンクレードであり、その後の展開はタンクレードの予想の範囲内だった。ついにはサンチョがイベルス全軍を帰国させると聞き、予想以上の展開に内心でほくそ笑んでいた。だがこの全軍分裂の危機をアンリ・ボケは回避して見せたのだ――強引極まりないやり方ではあったものの。
「だが、まだだ。アンリ・ボケのあのやり方で反感や敵意を買わないわけがない。今は味方を増やす雌伏の時だ」
タンクレードはイベルスの各軍を中心に部下を派遣。各軍の諸侯や指揮官とコネクションを作り、ユーグのシンパを作ることに尽力した。
一方のアンリ・ボケである。部隊単位・軍単位の正式な帰国願い出は一切出されなくなったが、帰国を願う兵や貴族がいなくなったわけではない。所属部隊を脱走して西へと逃げようとする兵は少なからず存在した。だがそんな兵は全軍の最後尾に位置する鉄槌騎士団により捕縛され、処刑される。バール人の船で帰国しようとする貴族もいたが、
「勝利を得ずして帰国しようとする者は敵前逃亡と見なし、本人だけでなく一族郎党を異端として告発する」
アンリ・ボケのこの布告にその数を大幅に減じた。
また、アンリ・ボケは恐怖だけで全軍を統率し、聖戦を遂行しようと考えているわけではない、ようである。
「スキラという町に逃げ出したネゲヴ人が集まっているらしいぞ。ネゲヴの皇帝が俺達と戦うために人を集めているそうだ」
「スキラには皇帝がネゲヴ中から集めた一億アンフォラの麦があるらしい」
「西ネゲヴの金銀財宝や金貨は皇帝がスキラに集めて隠し持っている。その額は百万タラントになるって話だ」
兵士の間で流れているその噂を報告され、タンクレードはかなりの時間考え込んだ。
「単なる噂にしてはやけに正確だ。バール人どもに集めさせた情報とほとんど変わらない」
大きな差異は一点だけ、スキラにいるのが独裁官ではなく皇帝になっていることだ。タンクレードはこの点から、この噂にアンリ・ボケが関与していると判断した。この噂を流したのがアンリ・ボケであると確信していた。
「皇帝と言えば昔から聖杖教の宿敵とされる存在だが、聖典に名前が出てくるだけで実際の歴史上には存在しない役職だ。アンリ・ボケは独裁官を皇帝と呼ぶことで信徒の敵愾心を煽ろうとしているのだろう」
それに、一億アンフォラの麦や百万タラントの金銀財宝も極めて魅力的だ。スキラまでたどり着けばそれが手に入る、そう思えば下がる一方だった士気も向上するだろう。実際、兵卒の士気が上がっている。全軍が脇目もふらずに東へ、東へと突き進んでいる。この状況下ではタンクレードもアンリ・ボケに謀略を仕掛けるような余裕も材料もなく、自軍の指揮に専念するしかなかった。
「農民どもに食糧を回すな。戦い慣れた兵士だけを食わせればいい」
タンクレードは入植のために聖槌軍に参加していた農民達を見捨てた。自軍の兵士には農民達から食糧を奪い取ることも許可した。これはタンクレードだけでなくユーグやアンリ・ボケもやっていることだった。聖槌軍全体の方針として実行されていることなのだ。
「百万全軍を食わせることなど不可能だ。ならば戦力を維持するために、自分の兵士を、戦い慣れて練度の高い兵士を優先して食わせるべきだ」
ユーグが全軍にそう布告したわけではない。だがユーグの振る舞いは全軍の将軍が見習う。進軍を続けるため、戦力を維持するため、ユーグの方針以外に取るべき方策などどこにもありはしなかった。
悲惨なのは見捨てられた農民の方である。ある農民の一団は味方から攻撃されて食糧を奪われ、ある農民の一団は味方の手によりバール人に奴隷として売られた。そして大半の農民は荒野にうち捨てられた。食うものがなくなり、草の根を噛み、木の皮をかじって飢えをしのぎ、それでも飢えて死んでいく。
「これより下はもうないと思っていたのに……地獄というのはいくらでも底があるんだな」
地獄を見続けたディアだがそれでもそう慨嘆してしまう。ディアとその戦士達はユーグ達により見捨てられた部類に入る。どこかの貴族の軍勢がディア達から食糧を奪おうとし、ディア達はそれを返り討ちにして逆に食糧を奪い取った。これにより何とか進軍を続けていたディア達だが、ディアの周りでは農民が続々と倒れていった。西ネゲヴは死体の荒野と化している。ディアは哀れな犠牲者に目もくれず、ひたすらに前進を続けた。
「わたしは死ねない、こんな馬鹿げた戦争のために死ぬわけにはいかないんだ。わたしの生命は一族のためのものなんだから」
精強を誇るディアの一族からもすでに二人の犠牲者を出している。一人は怪我で歩けなくなったため置き去りにした者、もう一人はエレブ貴族との戦いでの戦死者だ。
「二人とも勇敢な戦士だった。食い物さえ充分にあったなら二人とも死なずにすんだんだ。二人が死んだのはわたしの責任だ」
意味がないと思いつつもディアは悔やまずにはいられない。手持ちの食糧が底をついたディアは「早く食糧を探さないと」と焦っていた。月はジブの月(第二月)の中旬、ディア達がイコシウムに到着する。
「なんだ、あの町?」
イコシウムの城壁を見上げてディアは首を傾げた。これまでいくつもの町を通過してきたが、どこの町も空っぽで人はおらず、食糧もほとんど残されていなかった。だがイコシウムには人が残っている。城壁の上に兵が並び、矢を番え、大砲の砲門を揃え、戦う準備をして聖槌軍を待ち構えている。
「ネゲヴの戦士は全員スキラって町に、皇帝の元に移動しているんじゃないのか?」
「私もそう聞いていましたが……逃げることをよしとしなかった戦士もいたのでしょう。そんな戦士がこの町に集まっているのではないでしょうか」
ヴォルフガングの解説にディアも「なるほど」と頷く。ヴォルフガングが力を込めて続けた。
「これは絶好の機会です。あれだけの戦士が残っているのなら食糧もかなりの量があるはずです」
ディアの瞳が戦意に輝いた。
「確かにそうだ、こんな機会がこの先何度もあるとは思えない。何としてもあの町で食糧を手に入れるぞ」
城壁を見上げる将兵がディア達と同じ結論に至り、同じ戦意を共有するのにそれほど時間は必要なかった。イコシウム攻略戦はその日の内に開始された。
イコシウムは西ネゲヴでも有数の城塞都市である。城壁の高さは七パッスス(約一〇メートル)を超え、その厚さは三パッスス(約四・四メートル)を超えている。籠城するのは西ネゲヴ各地より集結した戦士や市民、その数二万。女子供はすでに東へと逃がしており、この二万は全員戦う覚悟を持ってこの町に残った者達ばかりである。このため援軍のないことが最初から明確な籠城戦でありながら、その士気は非常に高かった。
一方の聖槌軍である。彼等は軍と呼ぶのをややためらうくらいに貧相な装備しか有していなかった。飛び道具は弓矢くらいで大砲どころか火縄銃も一丁もなく、騎兵もない。あるのは剣や槍ばかりである。大砲や火縄銃はある程度の数を揃えて最初の内は必死の思いで運んでいたのだが、すぐに運べなくなってしまった。ネゲヴの悪路で荷車は破損し、餌がなくなり牛馬が飢える。さらには人も飢えて牛馬は人に食われてしまう。とどめに数日置きに必ず降る雨が火薬を湿気らせ、大砲や銃を無用の邪魔者と化してしまうのだ。それらはルサディルから次の町に続く街道脇にうち捨てられ、朽ち錆びるままとなっている。
当然ながら攻城戦用の投石機や攻城塔等も用意されていない。近隣に生えている大きな木を切り倒して即席の破城槌にするのがせいぜいである。
「見ろよ、剣と槍だけでこの町を落とすつもりかよ」
城壁上のイコシウムの戦士達はエレブ兵の装備を見てそう笑っていた。だがその笑いはすぐに引きつることになる。
「突っ込めー!!」
エレブ兵が何本もの破城槌を抱えて城門へと突っ込んでくる。城壁の上からは矢を雨のように降らせ、さらには熱湯を浴びせ、石を投げ落とした。エレブ兵は虫けらのようにばたばたと死んでいく。だが彼等は自軍の損害が目に入っていないとしか思えなかった。全く士気を揺るがすことなく、城壁を破ることだけに集中している。
どれだけエレブ兵を殺してもエレブ兵は続々とやってきた。聖槌軍の攻撃は五箇所の城門、それに城壁の高さがやや低い数箇所に集中して行われた。エレブ兵が昼夜を問わず、交代して間断なく攻撃をし続ける一方、イコシウムは限られた人員が交代なしでそれに対応しなければならない。
攻撃が始まってから一〇〇時間、全く途切れることなく攻撃が続けられ、五日目の未明。イコシウム側はついに限界を迎えようとしていた。負傷者は続出し、戦える者も一人残らず疲労困憊している。矢玉は尽き果て、建物を崩してその瓦礫を投石しているありさまだ。
「そろそろいけそうだな」
ディア達は攻撃に参加せず、城壁内に侵入するポイントを探し、侵入する機会をひたすらうかがっていた。そして五日目の払暁、歩哨の兵士がいないタイミングを突いてディア達が城壁を乗り越え、城内へと侵入する。五日前なら決してこれほど簡単には侵入できなかっただろう。まともに歩哨もできないくらいに人員が払底しているのだ。
「食糧庫だ! 食糧庫を探せ!」
ディアとその戦士達がイコシウムの町を烈風のように突き進む。運悪くその前に立ち塞がったネゲヴ兵は即座に斬殺された。
「エレブ兵が! エレブ兵が城内に!」
その悲鳴は、辛うじて残っていたネゲヴ兵の士気を折る最後の一撃となった。
「城門が破られたんだ! 敵が入ってくる!」
「もう駄目だ! 勝てない!」
「逃げよう! 俺達は充分戦ったじゃないか!」
ネゲヴ兵はそう言い訳し、持ち場を放り捨てて逃げていく。彼等は一様に港を目指していた。ぎりぎりで保っていた均衡はあっさりと崩され、エレブ兵が津波のような勢いでイコシウムの守備を突き破り、城門を破壊し、城内へと突入する。彼等もまたディア達と同じように食糧庫を探した。
一方食糧庫では、十人ほどの兵士がまんべんなく油を撒いていた。そして一人の将軍が今まさに火を点けんとし、
「……よかった、間に合った」
一人の少女が息を切らしながら、彼等の背後に現れた。火種を持った将軍が一瞬の戸惑いを見せ――次の瞬間には少女の剣が将軍を袈裟斬りにしていた。
周囲の兵士が一拍置いて、慌てて剣を抜こうとする。だが突撃してきたディアの戦士達が瞬く間に兵士を屠っていく。わずか三人の戦士が十人の戦士を倒すのに一分もかかっていない。
「お前達……お前達……恩寵の戦士、がなぜ……」
まだ息が残っていた将軍が喘ぎながらディアに問い、ディアは答え代わりに剣を一突きさせた。完全に絶命した将軍に構わずディアは周囲を警戒する。
「……誰にも聞かれていないな。よし、食糧を運び出せ」
ディアは遠吠えで仲間を呼び、全員で持てるだけの食糧を持って逃走する。他のエレブ兵がその食糧庫を発見して殺到してきたのはその直後のことである。
――ジブの月二〇日、イコシウム陥落。この知らせは最速でサフィナ=クロイへと届けられる。西ネゲヴ有数の城塞都市として名高いイコシウムがたった五日で陥落した事実は竜也達に大きな衝撃を与えた。この戦いで生き残ったのは船を使って逃走した一部の兵だけで、それ以外は逃走もできず降伏も認められず、聖槌軍の手によって皆殺しとなった。戦意溢れる二万の兵の大半が失われた事実も含め、ネゲヴ側が受けた打撃は決して小さくはない。
一方聖槌軍は、何よりもまず大量の食糧を確保できたことが大きな利益となった。それに大規模な会戦に初めて勝利したこともあり全軍の士気が大いに上がっている。イコシウムの籠城戦はネゲヴ側に損害を与え、聖槌軍側に大いに利する結果にしかならなかった。
イコシウムの籠城戦を指揮したのはムタハウィルというバール人だ。将軍ムタハウィルはイコシウム陥落に際し、兵糧を焼こうとして失敗。聖槌軍に処刑される前に、
「兵糧を焼く前に船を焼くべきだった」
そう言い残したと伝えられている。