「黄金の帝国」・会盟篇
第二四話「サフィナ=クロイの暴動・前」
海暦三〇一六年ニサヌの月(第一月)。竜也はサフィナ=クロイに拠点を移した主要なバール人商会を集めた。総司令部の会議室にはナーフィア商会のミルヤムを筆頭に十数人の商会当主が集まっている。
「総司令部独裁官令第一二号、西ネゲヴの避難民を奴隷として売買することを禁止する――今日来られた皆さんは第一二号を遵守しているものと思っている」
竜也の言葉に、集まった商会当主達はやや気まずそうな顔をした。集まった商会はともかくとして、聖槌軍と取引をしているバール人商会は決して少なくない。聖槌軍に食糧を提供し、代価として奴隷を――聖槌軍に捕まった西ネゲヴの民を受け取る。エレブの商会だけではなく東ネゲヴにもそんな商会が数多く存在しているのだ。
「だが、第一二号を無視している商会も少なくはない。西ネゲヴの民の不幸につけ込みその生き血をすするような真似をし、その上焦土作戦の完遂を危うくする。彼等の行為を決して許すことはできない。敵と取引をしている商会に対する取り締まりを強化する、今日集まってもらったのはそれに協力してもらうためだ」
「独裁官クロイの方針に異存はありません。バール人の不始末は同じバール人の手でつけます」
ミルヤムが即座に宣言し、その場の全員がそれに賛同した。竜也は頷く。
「皆さんには第一二号に違反している商会の告発をしてほしい。その商会は潰すが、それも手伝ってもらう。告発した商会は自分が担当するものと思ってくれ。商会当主・幹部は奴隷として鉱山送り。商会財産は奴隷の買い戻しに使うけど、買い戻しの交渉や取引もお願いする。その代わり余った財産は担当した各商会の自由だ」
金の臭いを嗅がされ、当主達の目の色が変わった。それを狙ってのこととは言え、竜也は内心でうんざりする。
この後、いくつものバール人商会が血祭りに上げられた。商会は潰され、商会当主と幹部が奴隷となって鉱山送り。多くのネゲヴ人の溜飲は下がったが、バール人の評判がそれで改善されたかどうかは判らない。
その一方、奴隷売買に荷担した全てのバール人商会が潰されたわけではない。
「独裁官閣下にはご機嫌麗しく。私はシャッル商会の当主シャッルと申す者です」
その日、竜也と会談を持ったのはシャッルと名乗るバール人だった。年齢は三〇代の手前。線の細い、派手な優男で、酷薄そうな笑みをその口に常に浮かべている。会談にはシャッルを連れてきたベラ=ラフマが同席していた。
「独裁官閣下に買い取っていただきたいものがございます。こちらです」
シャッルは何かの書面を竜也へと差し出した。竜也がそれを受け取って目を通す。驚きを隠せない竜也の視線がベラ=ラフマへと送られ、シャッルへと戻された。
「アビシャグ、三三歳、女、ティパサ出身。アロン、八歳、男、ティパサ出身。サライ、一二歳、女、グヌグ出身。ヒラム、一九歳、男、グヌグ出身……これは?」
「はい。私が聖槌軍から奴隷として買い取った者達です」
シャッルは悪びれもせず堂々と答えた。竜也は考えを巡らせながら問う。
「……つまりあなたは自分が独裁官令第一二号に違反したことを認めるのか?」
「いえ、とんでもない」
とシャッルは首を横に振った。
「独裁官閣下、よくお考えいただきたい。私が自分の利益だけを求めるのならケムトなりアシューなりに行ってこの者達を売りさばいています。また、私がこの者達を買わなければ他の商会が買い取っていただけ、その商会がこの者達を売りさばいただけです」
「つまり、これは西ネゲヴの民を助ける行為だと」
はい、とシャッルは満腔の自信の元に頷いた。竜也は思わず唸ってしまう。
「一回くらいなら自腹を切ることもやぶさかではありませんが、私どもも商人です。採算の合わないことをくり返すわけにはいきません。その点を考慮の上、閣下にはこの者達を買い取っていただけたら……」
「総司令部は人身売買をしない」
竜也は厳しい口調で断言し、その上で「だが」と付け加えた。
「西ネゲヴ避難民の救出については感謝する。航海実費については支援し、救出した人数に応じた報奨金を支払うことを約束する」
「ありがとうございます」
シャッルは深々と頭を下げた。
……シャッルとの面会を終え、竜也は執務室でベラ=ラフマと向かい合っている。
「あの男、シャッルは聖槌軍と取引をしたときは避難民を助けるつもりはさらさらなかったんじゃないか? でも奴隷売買の取り締まりが強化され、このままだと告発されて商会を潰されるからこんな手を打ってきた」
竜也の推測にベラ=ラフマが「その通りです」と首肯した。
「多分、シャッルの真似をする商会が今後続出するだろう。別にそれはいい、全ての奴隷商人を今すぐ全部潰してやりたいわけじゃない。西ネゲヴの避難民を助けることが先決だ。でも、問題はこの先だ」
「この先とは?」
竜也は腕を組み、難しい顔をする。
「確かに、今現在聖槌軍に捕まっている人達を助けるには聖槌軍と取引をするしかない。でも、聖槌軍が西ネゲヴの人達を捕まえるのはそれが売り物になるからだろう? 聖槌軍との取引を認めることは聖槌軍の人間狩りを促す結果になるんじゃないか?」
「確かにそれは考えられます。ですが同時に、売り物にならないネゲヴ人は即座に殺されるだけ、とも考えることができます」
竜也が「じゃあどうすれば?」と途方に暮れたように問い、ベラ=ラフマが「どうする必要もないかと」と淡々と答えた。
「バール人の各商会に大々的に救出を命じたりせず、各商会が自主的に西ネゲヴの避難民を救出してきたなら報奨金を支払う。それでよいのでは」
「……確かに、そうするしかないかな」
竜也はやや納得していない様子だったが一応そう頷いた。
「シャッルはトルケマダを始めとする聖槌軍の高官と面識を持っています。敵の情報を収集するにも彼等の協力は不可欠です」
「だがだからと言って敵への食糧補給を許すわけにはいかない」
強い口調で反発する竜也に対し、ベラ=ラフマは「少しくらいなら構わないのでは」という立場だった。
「シャッル等が補給する食糧は百万が必要とする量に対してごくわずかです。大勢に影響はありません。情報収集のためなら多少の利益供与はやむを得ないかと」
それでも渋る竜也だが、情報収集の重要性は竜也だって百も承知だ。結局竜也も折れ、聖槌軍への食糧提供を黙認することとなった。
「でも、売っていいのは製粉した小麦粉とか葡萄酒とか、高級食材や嗜好品だけだ。指揮官が兵の飢えを理解できなくなれば士気も規律も低下するだろう。反乱を煽ることもできるかもしれない」
竜也はそう付け加えることを忘れない。ベラ=ラフマはその命令を了解した。
取り締まりの強化により一旦は下火になった奴隷売買だが、ジブの月(第二月)に入るとまた盛んになってくる。ただし、取引される奴隷はネゲヴ人ではなくエレブ人だった。
「食糧を買うために一番手早く売れるものを売っている」
とはベラ=ラフマの解説である。東ネゲヴの奴隷市場にはエレブ人が溢れ、奴隷の市場価格は暴落した。
竜也は再度総司令部にバール人商会当主を集めた。今回集めたのはワーリス商会の他、東ネゲヴの主要な鉱山所有者ばかりだった。
「久しぶりじゃの、独裁官タツヤよ」
「お元気そうで何よりです」
ワーリスと簡単な挨拶を交わす。十人ほどの商会当主を前にし、竜也は本題に入った。
「今、東ネゲヴに大量のエレブ人奴隷が流入しています。皆さんの鉱山でも購入しているかと思いますが」
バール人達は互いの顔を見合わせた。どう答えれば一番無難か、竜也の顔色をうかがっているようである。そんな中、
「ひょほほほ、うちの商会では大勢買っておるよ。他のところも同じじゃろうて」
真正直に答えたのはワーリスだ。ワーリスに促されるように他の当主達も、
「……総司令部から増産の依頼もありましたからな。人手は必要です」
「奴隷になったとはいえ敵兵だった者を町中に置いておくのはまずいだろう。鉱山で使うしかあるまい」
等と言い訳がましくその事実を認めた。竜也は手を振って説明する。
「誤解しないでほしいんですが俺はそれを責めるつもりは全くありません。形はどうあれエレブ人を引き受けてもらえるのは本当に助かります。聖槌軍がこの町に接近し、戦争が本格化すればエレブ人の捕虜を大量に獲得することになるでしょう。おそらく、どんなに少なくとも何万という数の捕虜を」
「なるほど。それを我々の鉱山で使え、ということか」
当主の一人の言葉に竜也は「はい」と頷いた。
「できるだけたくさん受け入れてほしいと思います。ただ問題は、捕虜の待遇です」
「なるほど確かに。エレブ兵の捕虜にガフサ鉱山式の厚遇を与えるのは問題かもしれん」
当主の一人がそんなことを言い、周囲が頷いて同意する。だが竜也は、
「いえ、エレブ兵の捕虜もガフサ鉱山に準じて遇してほしいんです」
一同はそれぞれの方法で驚きを表現した。
「エレブ人どもをそこまで厚遇するのか? そんな必要がどこにある?」
「別に何もかもネゲヴの市民と同じ扱いってことじゃないですよ。でも、皆さんも判っているでしょう? あのやり方が一番効率がいいんです。それに、エレブ人を酷使して絶望させて、反乱を起こされるのは総司令部としては非常に面倒ですし、迷惑です。『ここで真面目に働いて金を貯めれば、戦争が終わればエレブに帰れる』、そう希望を持たせれば反乱なんか起こさないでしょう?」
苦笑混じりの竜也の説明に一同が納得する。その中、ワーリスが疑問を呈した。
「……独裁官は百万の聖槌軍を皆殺しにすると言っておったんではなかったかの?」
「俺の目的はあくまでネゲヴの勝利、エレブ人を殺すのはその手段であって目的じゃありません。エレブ人であっても殺さないでいいのならそれに越したことはないですよ。……ただ、確実に勝利するには百万のほとんどを殺さなきゃいけない、それだけです」
竜也の瞳が剣呑な光を帯びる。ワーリス達はかすかに身震いするが、それを竜也に悟らせることはなかった。
不意に竜也の瞳から殺気が消え、代わりに悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「エレブ人に対する給金はネゲヴ人の十分の一とかにしたらどうでしょう。その上で支払いをこれにすれば逃亡も防げると思います」
そう言って竜也がテーブルに何かを差し出し、一同がそれをのぞき込む。それは中央に奇妙な肖像画が描かれた、ただの紙切れだ。一同が不思議そうな顔を竜也へと向けた。
「これは一体?」
「紙幣、紙のお金です。その鉱山でしか通用しない、独自通貨で払うんです。食事も、酒も、娼婦も、その金を払えば買えるようにします。でも鉱山の外ではただの紙切れです。稼いだ金を握りしめて脱走したところで玉子一つ買えないってことです」
ワーリス達が各自でその案を検討し、
「ふむ、面白い。よい考えかもしれんの」
「確かに。問題はなさそうです」
等と頷く。彼等はそのアイディアを採用してくれそうだった。ワーリスがその紙幣を手に取る。
「これ一枚が一ドラクマということかの」
「いえ、通貨単位はペリカです。一〇ペリカで一ドラクマ」
竜也は大真面目な顔でそう告げた。一同は不思議そうな顔をする。
「まあ、通貨の名前など何でもいいだろうが……」
「いえ、ペリカです。こういう時の単位はペリカと決まっています」
竜也があくまで真剣に言い続けるので、一同は怪訝に思いながらもそれを受け入れる。竜也が作った手描きの一ペリカ紙幣、その中央には兵藤和尊の肖像画が描かれていた。
ジブの月の月末、イコシウム陥落の知らせがサフィナ=クロイに到着した。
「一ヶ月くらいは籠城して聖槌軍を苦しめてくれることを期待していたのですが……たった五日で陥落するなんて。しかも兵糧の焼き捨てに失敗して敵に兵糧を提供する結果となるとは。一体彼等は何のために戦ったのですか」
ミカは呆れたように言う。イコシウムの籠城戦に対するこの酷評は総司令部の多くの者が共有しているものだった。
「イコシウムの将軍ムタハウィルはバール人だ。やはりバール人は信用ならない、敵に利することばかりやっている」
そんな声が竜也の耳にも届いている。
「将軍ムタハウィルはバール人の悪評を少しでも払拭するため聖槌軍に立ち向かったのでしょう。結果として悪評を重ねただけとなってしまいましたが」
ベラ=ラフマがそう分析し、竜也もそれに同意した。だが、
「籠城戦を戦った者達が近々この町に移動してくる。敗北したとは言え彼等は百万の敵と勇敢に戦った戦士達である。戦っていない者が戦った者を侮辱することは許されない。彼等の勇戦を貶めてはならない」
竜也は公式にそう布告し、イコシウムの戦士達の名誉を保つことに努めた。イコシウムの籠城戦に対する竜也の評価のうち、公になっているのはこの布告だけである。二万近くの兵を喪い、敵に大量の食糧を提供したことに内心穏やかであったはずがないが。
そして月はシマヌの月(第三月)に入り、その初旬。随分久々になる人物が総司令部を、竜也の元を訪れた。
「船長! サドマさん! ダーラクさん!」
ガイル=ラベク、サドマ、ダーラクが西ネゲヴからようやく戻ってきたのだ。竜也は思わず彼等と抱き合う。
「よくご無事で……! 戻ってくれて嬉しいです」
「お前こそ、お前の評判は西ネゲヴにも広まっているぞ」
「大した奴だぜ!」
竜也達はしばしの間互いの無事を喜び合い、健闘を讃え合った。
「――西は今どうなってるんですか」
竜也がそう問うと、ガイル=ラベク達は目を伏せて沈黙した。少しの間、その場を静寂が支配する。
「……人間が無数に死んでいったよ。力尽きた避難民が、聖槌軍と戦う戦士が。それに、聖槌軍の兵士も」
ガイル=ラベクのその言葉に竜也は、
「……そうですか」
万感の思いを込めてそう応えた。ガイル=ラベクが懐から書状を取り出す。
「戦死者の一覧だ。後で目を通してくれ」
「判りました」
竜也はその書状を謹んで受け取り、軽く目を通す。偵察船団メンバーの者、サフィナ=クロイから援軍に送った者、知った名前をいくつか見出す。竜也は内心で黙祷を捧げた。
竜也は気持ちを切り替えてガイル=ラベクに問う。
「聖槌軍は今どこまで来ていますか?」
「そうだな。先鋒はイギルギリはまず越えただろう。今頃はキルタまで来ているかもしれん」
キルタは元の世界で言えばアルジェリア・コンスタンティーヌ付近となる。
「もうそんなところまで……!」
竜也は戦慄するが、理性を総動員して内心の動揺を沈めた。竜也はガイル=ラベク達を自分の執務室に案内し、西ネゲヴの現状について詳細な報告を受けることとした。
「最初のうちは失敗や問題ばかりで、本当に途方に暮れていた。『もっと違うやり方があったんじゃないか』と、そればかり考えていたな。だが東に移動するにつれて有能な人間があちこちから合流してきたし、皆も作業や指導に慣れてきた。より短い時間で、より多くの民を東や南に避難できるようになった」
「それでも問題がなくなったわけじゃない。南に避難した民と、元から南に住んでいる民の対立や衝突は深刻だ。南の住民が避難民を排斥したり、逆に避難民が侵略者となって南の住民を支配しようとしたりしている。この衝突が原因の死傷者も数え切れないくらい発生しているそうだ」
竜也は無表情を装って内心の懊悩を抑圧した。南の住民と避難民の衝突は目に見えていたことだが、当初の想像よりもかなり被害が大きいようである。だがその被害も「想定の範囲内だ」と割り切る他ない。
「食糧の焼き捨ても同じような状態だ。最初のうちは不手際で多くの食糧が街道上に残ってしまったが、次第に残してしまう食糧が少なくなっていった。今ではほとんど残さないくらいになっているだろう」
「聖槌軍にはかなりの打撃になっているようだ。お前の戦略は間違っていない。ただ計算違いだったのは、聖槌軍の連中は食糧不足を軍全体で均等に受け止めていない、ということだ。奴等は入植目的の農民や徴兵された農民兵から食糧を取り上げ、騎士階級や戦い慣れた兵に回している」
「……それは、聖槌軍の中の戦力としては弱い・当てにならない部分に飢餓や被害を押しつけ、戦力として当てにできる部分の体力を温存している、ということですか?」
竜也の確認にダーラクが「その通りだ」と頷く。
「物凄い数の農民や農民兵が進軍から脱落している。飢えて進軍について行けなくなった連中が街道に無数に行き倒れていたよ。東ネゲヴやアシューからやってきた奴隷商人に捕まった連中も多かったが、飢え死にするよりはそちらの方がまだマシかもしれん」
「進軍から外れて、食糧を求めて南に行こうとする連中も少なくなかった。全体から見ればごく一部だが何しろその全体が百万だからな。規模の大きい連中は俺達遊撃部隊で仕留めて回ったが、規模の小さい連中は避難民等の自警団に任せるしかなかった」
あの分ならスキラに着くまでにはどんなに少なくとも二〇万は脱落しているだろう、とダーラクは報告をまとめた。その報告を受けた竜也は内心で様々な再計算と戦略の再検討を行っている。
「タツヤ?」
「あ、ああすみません」
竜也はガイル=ラベク達に笑顔を見せた。
「皆さんにはまた色々と仕事をお願いしますが、何日かはゆっくり休んでください。今夜は総司令部で晩餐会をやりますので、楽しみにしてください」
その夜、ガイル=ラベク等戦地から戻ってきた者の慰労のために総司令部でちょっとした晩餐会が催された。それなりに豪華な晩餐を用意するのはファイルーズ付きの女官達である(もっとも竜也はほとんど食べなかったが)。参加者は竜也は言うまでもなく、戦地帰りのガイル=ラベク・サドマ・ダーラク。ファイルーズ・ミカ・カフラ・サフィール・ハーキム等の、竜也の側近メンバー。アラッド・ジューベイ等の有力者に、アアドル・ジルジス・バリア等の大臣クラスの事務官。最後にアミール・ダールを筆頭とする軍の指揮官である。なおラズワルドは参加を辞退した。
晩餐会の目的は単なる慰労だけではない。竜也の側近・総司令部高官全体が戦地の現状を直接聞いて情報を共有し、臨戦意識や緊張感を高めて職務に励行してもらうことを狙いとしている。だから本当はマグド等もっと大勢の参加者を集めたかったところなのだが、集められるのはサフィナ=クロイにいる者に限られていた。
ガイル=ラベクやダーラク達は戦地の現状を正直に陰鬱に語って苦労自慢をするような人間ではない。戦場がどれほど悲惨であろうと、苦労話を馬鹿話に変えて笑い飛ばすのが彼等の流儀である。だがそんな馬鹿話でも西ネゲヴの過酷な現状は隠しようもなく伝わってくる。竜也の目的は概ね達成されたと言っていいだろう。
「――バール人どもには手を焼かされたな。潰しても潰しても次々と湧いて出てきて、本当にきりがなかった」
ガイル=ラベクの忌々しげな言葉に、カフラが言い訳がましく解説する。
「……気持ちは判りますけどね。東ネゲヴで一タラントで出仕入れた小麦を聖槌軍に売れば軽く一〇タラントになるんですから」
「まあ、西ネゲヴの広大な海岸線を俺達だけで完全にカバーするなんて始めから不可能だからな。上手いことやって最後まで逃れた商会も多いだろう。捕まえた商船も多くて俺達もそれなりに潤ったが」
ガイル=ラベクに捕まった商船は、まず船長や幹部は海に放り捨てて排除。船と船員はそのままガイル=ラベク麾下に収められ、避難民輸送や海上封鎖等の任務に当てられた。ガイル=ラベク達海上傭兵団にとっては任務に勤しめば勤しむ分だけ配下の船が増えるのだ。一方、聖槌軍との取引で手に入れた金品・美術品を積んでいた場合、それらはサフィナ=クロイに送られて竜也の宝物庫に納められた。
「タツヤだって随分儲けただろう?」
「借金を返せるほどじゃありませんけどね」
ガイル=ラベクの揶揄に竜也は苦笑した。
「ああ、そうだ。ちょっと珍しいものを手に入れたんだ」
ガイル=ラベクは手を振って指示を出し、部下の何人かの兵が会場に何かの箱を運んできた。
「提督、これは何でしょうか?」
「拿捕したエレブの商船に積んであった、エレブの美術品だ。その商船はエレブ本国と聖槌軍との連絡船だったらしい」
「そんな船が美術品を?」
「ああ、何故か積んでいた」
ファイルーズ達の問いにガイル=ラベクが答えているのを耳にしつつ、竜也は首を傾げていた。
「……仏壇?」
その箱は高さ二メートル、幅一メートルほど。全体が黒檀で作られており、金細工の飾りで彩られている。正面が観音開きの扉になっていて、竜也の目には仏壇にしか見えなかった。
ガイル=ラベクが合図をし、部下の兵が黒檀の箱の扉を開く。
「……!」
「ほう、これは……!」
ある者は息を呑み、ある者は感嘆した。竜也は一瞬その箱に人間が入っていたのかと勘違いした。それくらい精密に、実物と見間違うくらいに写実的に描写された人物画だったのだ。
一メートルほどの幅いっぱいを使って描かれているのは一人の女性である。高度な技法と優れた画才を惜しみなく無駄に使い、関取みたいな体格のその女性を実にリアルに描いている。顔の横幅も通常の倍くらいになっているが、眉や目鼻は常人と同じ範囲で中央に集まり収まっていた。輪郭を無視すれば、目鼻立ちの整ったかなりの美女である。
そこに描かれているのがヴェルマンドワ伯ユーグの妻アデライードであることを知る者はこの場には一人もいなかった。
「確かにこれはエレブで人気の人物画の手法です。でもこれだけの絵が描ける画家はエレブでも何人もいないでしょう。モデルが着ているのも素晴らしいドレスですし、かなり名のある貴族令嬢に違いありません」
美術に造詣の深いカフラが解説し、ミカは、
「わたしには芸術のことは判りませんが、それでもこの絵が見事なことは判ります――モデルはともかくとして」
「確かに素晴らしい絵だな――モデルはともかくとして」
ミカや竜也の感想はその場の全員が共有するものだった。
カフラやバリア達はその絵を肴に、美術談義を楽しんでいる。その一方ガイル=ラベクやサドマ達がやや退屈そうに見えた竜也は話が途切れたのを見計らい、
「――それにしても、敵がもうイギルギリを越えたなんて」
やや強引に話題を変え、それにガイル=ラベク達が乗ってきた。
「タツヤの立てた作戦がある意味上手くいきすぎたんだ。街道沿いの住民は徹底的に避難させたから戦闘がほとんど起こっていない。食糧もろくに残っていないから、連中は食糧を求めて先を急ぐしかないんだ」
ガイル=ラベクの説明をサドマが補足した。
「それと、聖槌軍内で流れている噂がある」
「噂?」
「ああ。捕虜から聞いた話だが、『スキラの東にはネゲヴの皇帝の黄金の宮殿がある』。聖槌軍の兵士の間ではそんな話で持ちきりだそうだ」
「俺が捕虜から聞いたのは、『スキラには皇帝がネゲヴ中から集めた一億アンフォラの麦と百万タラントの金銀財宝がある』って話だな」
と付け加えるのはガイル=ラベクだ。
「結構正確な噂ですね」
とカフラが評する。数字に多少の誇張はあるが、竜也が東ネゲヴ各地に数千万アンフォラの麦を確保していること、西ネゲヴ中から金品・美術品を預かっており、その総額が数十万タラントになること、それ等の全部ではないが何割かがサフィナ=クロイ南部の食糧庫・宝物庫で保管されていることは事実であった。
「連中その噂を信じ切っていて、誰よりも先にスキラに行って少しでも余計に略奪することだけで頭がいっぱいなようだ」
「脇目もふらずに東に、この町に向かっている。おかげで南に外れる敵は全体から見ればごくわずかだ」
そうですか、と竜也は引きつった笑みを見せた。南に逃れた避難民の被害が少なくなるのは結構だが、百万の敵を真正面から受け止める未来図を考えるとただ喜んでばかりはいられない。
「これも作戦のうちか? 皇帝タツヤ」
「俺達が見込んだだけのことはあるな、皇帝タツヤ」
とサドマ達が竜也をからかう。竜也は「皇帝は止めてくださいよ」と苦笑するしかなかった。だが、そこにハーキムが口を挟む。
「ですがタツヤ。聖槌軍をネゲヴの奥地まで引きずり込むのがタツヤの作戦なのでしょう? なら、皇帝を名乗ってその地位に就くのも作戦の一環としては有効なのではないですか?」
「そうですね。この際堂々と皇帝を名乗ってはどうですか?」
とミカまでが言うので竜也は「いや、それは……」と焦りを見せた。それに構わずジューベイ等が、
「おお、タツヤ殿が皇帝になるのか! いやそれは重畳!」
「本当です! タツヤ殿、おめでとうございます!」
サフィールは無邪気にそう喜んでから、
「ところで皇帝って何ですか?」
その問いにジューベイを除く全員が「だああーーっっ」と吉本新喜劇のようなコケを見せた。サフィールはそのリアクションが理解できないようで、「え? え?」と周囲を見回している。
バリアは苦笑を見せながら、
「サフィール、皇帝というのは……」
とサフィールの問いに答えようとしたが、そこで言葉を詰まらせた。
「ミカ、説明を頼む」
バリアからいきなり説明役を押しつけられたミカは「いぇえ?」と驚く。しばしの逡巡の後、
「ハーキムさん、お願いします」
とバトンタッチした。ハーキムは苦笑しながら全員に説明する。
「皇帝というのは、聖杖教の聖典に登場するネゲヴの支配者の名称です。『もしケムト王が圧倒的な武力を有していてネゲヴ全土を支配したなら』――歴史上そんな事例はないんですが、聖杖教の聖典の中では何故かそんなことが起こったことになっているんです。その、圧倒的な武力を持ってネゲヴ全土を支配した絶対的存在、それが皇帝と呼ばれています」
竜也を除く一同が「ほー」と感心する。晩餐会の参加者はネゲヴでも上流階級、または知識階級(インテリゲンチャ)に属する人達ばかりだが、それでも「皇帝」の何たるかを理解しているのはハーキムだけだった。エレブ人はともかく、ネゲヴ人にとってそれは他宗教独自の専門用語でしかないのだ。
「こっちじゃ起こらなかったけど、俺が元いたところじゃそれが起こっていたんだ。皇帝っていうのは預言者フランシスが向こうからこっちに持ち込んだ言葉なんだ」
と竜也が説明を補足した。
――皇帝(インペラトル)とは「命令」「支配」を意味する単語に由来し、その意味は「命令者」、つまり軍の司令官を表す言葉だった。ローマに誕生した民主共和制国家は支配領域を拡大するにつれ、民主制が現実の政治と不適合になっていく。混迷の危機を迎えたローマは独裁官を選出してその危機を克服した。だが本来半年で交代するはずの独裁官はやがて建前だけを残して事実上の終身独裁官となり、その地位が世襲となっていく。その、世襲となった終身独裁官に対する称号の一つが「軍司令官(インペラトル)」なのである。
「――それなら、タツヤさんが皇帝を名乗っても何も問題ないんじゃないですか?」
竜也の説明を聞き終えたカフラはそんなことを言い出した。「ええ?」と驚く竜也にカフラが説明した。
「予定通り一年でこの戦争が終わっても、タツヤさんが独裁官の地位を手放すことは認められないと思いますよ? タツヤさんがスキラを初めとする商会連盟にどれだけの借金を抱えているか、忘れたわけじゃないでしょう?」
竜也が「うぐ」と呻くのに構わずカフラが続ける。
「一介の庶民に戻ったら借金の返済なんかできるわけがありません。タツヤさんの地位を引き継ぐ人間がちゃんと借金を返してくれる保証があるのか判ったものじゃないですし、それならタツヤさんが戦争後も独裁官の地位にあって、きっちり借金を返していくべきだと思います」
竜也が頭を抱えながら呻く。アアドルがそれに追い打ちをかけた。
「借金の金額を考えれば返済は一生物の仕事です、終身独裁官となる他ありません。独裁官の地位を世襲として、何代かかけて返していくことも視野に入れるべきかもしれません」
さらにガイル=ラベクがとどめを刺す。
「それに、一年で戦争を終わらせたとしてもネゲヴはもう昔のままじゃやっていけんだろう。教皇が懲りずにもう一度聖槌軍を発動する可能性がわずかでもある以上、ネゲヴの軍は維持しなければならんし、誰かがその指揮を保持しなければならんのだ。タツヤ、お前以外の誰にそれができる?」
竜也はテーブルに突っ伏していたが、やがてのろのろと身を起こした。
「……その、そんな先の話はこの戦争にちゃんと勝ててからにしましょう。皇帝の称号もその時に考えます」
と竜也は話を先延ばしにする。カフラ達は不服そうだがそれ以上の追求はしなかった。
「皇帝(インペラトル)」が「軍司令官」という意味しかないのなら、現状の竜也はまさにその地位にある、「皇帝」を名乗って何が悪いのか――カフラ達は皆そう考えている。だが、彼女達は知るはずもない。数ある称号の一つでしかなかった「軍司令官(インペラトル)」が唯一絶対と化していった歴史を。
五〇〇年にわたりローマに君臨し、東ローマではそこからさらに一〇〇〇年。西ローマが滅んでもその皇帝位はフランク帝国に、神聖ローマ帝国に、オーストリア帝国・ドイツ帝国に引き継がれ、東ローマの皇帝位はロシア帝国に引き継がれた。アウグストゥスに始まり実に第一次世界大戦終結まで、皇帝の地位は二〇〇〇年にわたってヨーロッパの、世界の至尊の座であり続けたのだ。その歴史の重みを知っている竜也が、いくら勧められたからと言ってそう簡単に皇帝の地位に就くはずがない。
「……予定通り一年でこの戦争を終わらせることができたなら、そのときなら皇帝を名乗ってもそんなに問題ないだろうけど」
竜也はそう考えており、現状で皇帝を名乗るつもりは毛頭なかった。だがその考えはある事件を契機に変更を余儀なくされる。