「黄金の帝国」・会盟篇
第二五話「サフィナ=クロイの暴動・後」
ときはシマヌの月(第三月)の上旬、晩餐会から数日後のその日。総司令部で東ネゲヴ諸都市の長老から陳情を受けていた竜也達の元に、兵士が駆け込んできた。
「市民と兵が……!」
その兵士の注進を受け、竜也が総司令部を飛び出す。その後を護衛と官僚達が追いかけた。
総司令部はゲフェンの丘と呼ばれる、海に面した小高い丘の上に建っている。その丘のふもとに、大勢の市民と兵士が集まっていた。人数はざっと見て千人以上。市民と兵士は口々に不満と要求を叫んでいる。
「食料の配給をもっと増やせ!」
「もう一月以上休んでない! 少しは休ませろ!」
「お前達だけいい家に住みやがって! 俺達はずっとあばらや暮らしだ!」
「敵なんか来ないじゃないか! 適当なことを言いやがって!」
「独裁官を交代させろ!」
要するにデモ隊か、と竜也はその市民と兵士の集団を理解した。サフィナ=クロイの劣悪な環境を思えば市民から不満が吹き出すのも当然だった。
「兵士を集めて鎮圧させなければ」
官僚の一人がそんなことを言うが、竜也はそれを止めた。
「不測の事態に備えて兵を呼ぶのは仕方ないが、強権的に鎮圧するのは望ましくない。市民の代表を二、三人選ばせろ。話は総司令部でその代表から聞くと。兵士の方は上官を呼んで、その上官に事態を収拾させろ」
竜也の指示を受けて官僚の何人が兵士を連れてデモ隊との交渉に向かう。官僚がデモ隊に代表を前に出すよう命じるが、市民はそれに反発して前進しようとする。それを兵士が押し止めようとし、揉み合いとなった。総司令部側・兵側の応援が到着してデモ隊側を押し返し、一方デモ隊側にも応援や野次馬が集まってきて押し戻す。人数は増える一方であり、デモ隊の行動も激しくなる一方だった。
「食い物をよこせ!」
「無能な独裁官は出ていけ!」
デモ隊が投石し、兵士側に負傷者が出る。兵士側が剣を抜き、デモ隊に怪我人が続出した。暴力のエスカレートに歯止めはなく、すでにその群衆はデモ隊ではなく単なる暴徒と化していた。
竜也は丘の上から暴徒と化した群衆を見つめている。胃痛に顔色を悪化させながら竜也は命令を下した。
「……すぐに将軍アミール・ダールに連絡を。今動けるだけの兵を集めてこの丘へ」
もはや穏便な解決など望むべくもない。これ以上の双方の被害を減らすには力尽くで暴徒を抑え付けるしかない。それが竜也の判断だった。
竜也が命令を下すのとほぼ同時にアミール・ダールの軍がゲフェンの丘に到着した。暴徒の動きを聞き及び、竜也からの命令を待たずに行動を開始していたのだろう。
「排除せよ!」
アミール・ダールが剣を振り下ろし、配下の兵が暴徒へと突撃する。アミール・ダールの兵は三百人にも満たない少人数だが、それが二千にも届こうかという暴徒を圧倒していた。たちまち暴徒は総崩れとなり、散り散りになって逃げていく。いや、一部の暴徒は隊列を保ったままだ。その一団に他の暴徒が合流している。ある方向へと一直線に向かっている。
「何だ、あの連中?」
竜也は不審に思い、その一団が向かう先に視線を送る。そして、元々悪かった竜也の顔色が蒼白となった。音を立てて血の気が引く一方心臓が早鐘を打っている。
「……食糧庫と宝物庫! 奴等、略奪するつもりなのか!」
恐怖が物理的な痛みとなって胸を刺した。死神に心臓を鷲掴みにされたかのようだ。
サフィナ=クロイ南部の食糧庫と宝物庫は竜也の権力の源泉であり、ネゲヴ軍の兵糧であり資金源でもある。もしここが略奪されたなら戦争遂行の目算が一から狂ってしまう。勝てるかどうかですらなく、戦うこと自体が危うくなるかもしれないのだ。
「我々が先回りをして暴徒を止める」
バルゼルが短く告げ、身を翻した。竜也はその背中に、
「――何人斬ってもいい、何としても守ってくれ」
絞り出すような声で、だが確かにそれを命じる。バルゼルは返答せずに走り出した。その後にサフィールが、警護隊の剣士達が続いて走っていく。
「将軍アミール・ダールに連絡を。暴徒が食糧庫を襲おうとしている、守れと」
竜也は伝令をアミール・ダールの元へと走らせた。アミール・ダールも即座に暴徒の後を追う。だが追いつくことはできても先回りは到底不可能だった。
数刻の後。サフィナ=クロイ南部の倉庫街、そこに続く路上。その場所でバルゼルやサフィール達、十人に満たない牙犬族剣士がへたり込んでいた。身体強化の恩寵を全開にして必死に走り、何とか先回りに成功したバルゼル達は、今は呼吸を整えることに専念している。暴徒の一団はすぐそこまで迫っていた。彼等が宝物庫を目指して走っているのが見えている。彼等が立てる地響きが足の裏から伝わってきている。欲望に目の色を変えているのが見えている。
「来るぞ、用意しろ」
バルゼルが静かに命じ、息を整えた剣士達が移動を開始した。暴徒が回り込んで宝物庫を目指しても対応できるように他の道路にも剣士を配置し、大通りにはバルゼルとサフィール、それにもう一人だけが残っている。サフィール達の眼前には、千を超える暴徒が怒濤のような勢いで迫っていた。
「バルゼル殿、どうするおつもりですか。たった三人で」
サフィールは思わず不安そうな声を出してしまう。
「ルサディルを思い出せ。あれより条件ははるかにいい」
「しかし、あれは本来守るべき味方――」
「敵だ」
バルゼルは静かに、だが明確に断言する。
「タツヤ殿は奴等が止まるまで何人でも斬れと命じた。それを忘れるな」
サフィールは返答をしなかった。だが顔を青ざめさせながらも、剣を持つ手にはすでに迷いはない。その目はしっかりと「敵」を見据えている。
暴徒とバルゼル達の間はもはや指呼の間である。先頭を走る暴徒は欲望に顔を歪めている。その目に映っているのは宝物庫内の金品だけ、その頭にあるのはどれだけ多く金品を略奪できるかだけだ。サフィールは自分の心が冷えるのを感じていた。確かに眼前の暴徒とルサディルのエレブ兵との間には、何らの違いも見出させなかった。
暴徒の先頭を走っているのは若く体格のいい三人の男だ。あるいは恩寵持ちなのかもしれず、後続の暴徒を数十メートル以上引き離して走り続けている。三人の男がサフィールの横を走り抜けた。だがそこにはバルゼルが佇んでいる。
「キェェーーッッ!」
示現流のような猿叫を上げ、バルゼルが上段から真っ直ぐに剣を振り下ろす。男の一人が脳天から股間までを真っ二つにされた。一人の男の二つの死体はまるで人体標本のような断面をさらし、地面に転がる。
バルゼルは振り下ろした剣をそのまま斜めに振り上げ、次の男の胴体をなぎ払った。斬られた男はそのままの姿勢でしばし佇むが、やがてその上半身がゆっくりと斜めにずれて地面に落ち、次いでその下半身も倒れた。
最後の一人は急停止をするが遅く、男はすでにバルゼルの間合いの中に入っていた。後退しようとする男へとバルゼルが上段から剣を振り下ろす。最初の一人のように真っ二つにはならなかったが、額から股間までを一直線に斬られたことには変わりない。
「ひゃやややっっーーー!」
奇妙な悲鳴を上げた男が後ろ歩きで後退し、後続の暴徒にぶつかって背中から倒れ込んだ。暴徒達はその場に急停止するしかない。
「それ以上前に進めばお前達もこうなる」
バルゼルは静かに通告した。
「こ、この人殺し――」
暴徒の一人がバルゼルを罵ろうとするが、バルゼルに見据えられて即座に沈黙した。
「けっ! たかが犬っころ相手に何をびびってやがる! この俺様が――」
おそらくは恩寵持ちであろう、どこかの馬鹿が暴徒をかき分けてバルゼルの前に進み出てくる。バルゼルは無言のままその馬鹿の間合いに飛び込み、剣を横腹に突き刺し、横に薙いだ。馬鹿の横腹からは大腸が大きくこぼれ出していて、馬鹿は泣きながら、手を血まみれにしながらそれを腹に収めようとしている。
凄惨な斬撃を目の当たりにした暴徒の先頭は完全に足を止めてしまっていた。だがその後続はまだ止まっていない。後ろから押された者が倒れ、さらに倒れた者に足を取られて後続が倒れる。それでもその後続はまだ足を止めず、さらに後ろから来る者に押されてしまう。暴徒は方向転換も身動きもままならない、すし詰めの渋滞状態となってしまった。足を止め、勢いを失った暴徒はすでに暴徒たり得ない。
「制圧せよ!」
そこにアミール・ダールの軍勢が到着、暴徒を――その場の群衆を蹴散らしていく。群衆の半分は散り散りになって逃げ出し、もう半分はアミール・ダールの手によって捕縛される。食糧庫も宝物庫も襲撃されることなく、暴動は無事に鎮圧された。
だが、竜也にとってのこの事件の本番は後始末の方だった。
「食糧庫の警備の強化が必要だ。とりあえず独裁官警護隊に警備してもらって、兵を厳選して独自の警備隊を作って」
「将軍アミール・ダールに市内の見回りをしてもらう」
「白兎族を集めて暴動参加者の取り調べを進めてくれ」
「暴動に参加した兵はどのくらいいる?」
アミール・ダールはサフィナ=クロイの随所に兵を配置する一方自分は騎馬隊を引き連れて市内を巡回。市民の動揺を抑えることに努めた。その一方ではベラ=ラフマとラズワルドの率いる白兎族が暴動参加者の取り調べを進めている。
「捕縛された暴動参加者は五一一人。取り調べの終わった者から鉱山での強制労働に従事させます」
「煽動した人間は厳しく処罰する必要はあるけど、ただ単に騒ぎに加わった野次馬まで厳罰を下す必要はないと思う」
との竜也の意向に従い、五一一人のうちのほとんどが二、三ヶ月の強制労働の刑である。が、一部の扇動者はその限りではなかった。
暴動から三日目。今竜也がいるのは、ゲフェンの丘の上の裁判所に使われている船だった。小さな裁判は船内の一室で行われるが、大法廷は船の甲板上だ。中央が大きく開けられ、その周囲を椅子が囲んでいる。片隅には書記官用の机が備え付けられており、正面には検事兼裁判官の竜也の座席があった。
中央の床には縄で縛られた一〇人の男が座り込んでいた。ラズワルドを始めとする白兎族の尽力により判明した、暴動の扇動者である。彼等は歪んだ笑顔を作って必死に竜也に媚びを売ろうとしていた。
「俺達はギーラに命令されただけなんだ!」
「そうだ、悪いのはギーラだ!」
男達は口々にギーラの名を上げて責任転嫁を計った。だが竜也はラズワルドと手をつないで彼等一〇人の心を読んでいる。
「確かにお前達は何者かに集められて暴動を扇動した。だがお前達を集めたのはギーラじゃない」
彼等を集めて金を与え、煽動をさせたのはゲゼルという人物だが、それが本名かどうかも判らない。彼等は「ゲゼルの背後にはギーラがいるのだろう」と感じ取り、あるいは推測しているが、ギーラを直接見たわけでもなく、今のところはただの憶測でしかない。ベラ=ラフマもまたギーラの陰謀を疑っているが、その証拠は何も見つかっていなかった。
「それに誰かに依頼されたとしても、それを受けると決めたのも、それを実行したのもお前達だ。お前達のやったことがやらなかったことになるわけじゃない、お前の罪も罰も変わりはしない」
竜也が冷徹に通告し、彼等の媚びた顔が凍り付いた。
「……畜生! 俺達が何をしたって言うんだよ、結局何もなかったんだからいいじゃねぇか!」
「てめぇはネゲヴ一の金持ちなんだろ! 俺達がちょっとばかりおこぼれに預かろうとして何が悪いんだよ!」
「てめえだってバール人をだまして金を集めたじゃねえか! 俺達だけ罰するなんておかしいだろ!」
男達が口々に子供の言い訳にもならないことを叫んでいる。竜也は疲れ切ったため息をついた。これ以上裁判を続ける気力が湧かなかった竜也は早々に判決を下した。
「――一〇人全員を死刑とする、これで閉廷だ」
……扇動者一〇人の処刑はその日の夕方には実行された。処刑台が用意されたのはサフィナ=クロイの中央広場だ。立てられた一〇本の丸太にそれぞれ扇動者がくくり付けられ、その周囲に薪が積まれていた。扇動者は泣きわめき、あるいは恐怖のあまり糞尿を垂れ流しており、集まった大勢の野次馬がそれを見て嘲笑っていた。
竜也は広場の外の物陰からその有様を、広場全体の様子を眺めている。その顔に浮かんでいるのは強烈な嫌悪感だった。
「……他に方法はなかったのか」
無意識のうちに竜也が独りごちる。元の世界にいたとき竜也は「どちらかと言えば死刑に反対」という意見であり、この世界に来ても原則としてその意見に変わりはなかった。独裁官として数多くの裁判を主催してきた竜也だが、死刑判決を下したのは今回が初めてである。
「生かしておいても役に立てようがありません。せいぜい見せしめとして活用しなければ」
ベラ・ラフマはかすかな戸惑いを隠してそう述べる。
「あの者達が扇動者であることには間違いがない、それは何度も確認済みです」
竜也は返答しない。その点は竜也自身もまたラズワルドの恩寵を使って確認しており、疑う余地はどこにもない。そもそも、もしわずかでも疑いがあったなら始めから死刑の判決など出していなかった。
「見せしめなんて野蛮だ、文明国のやることじゃない」
「あるいはそうなのかもしれません」
竜也の愚痴めいた言葉にベラ=ラフマは一応そう頷いておき、
「ですが、必要なことです。食糧庫と宝物庫を何としても守り抜く、そのためには模倣犯が出てくる可能性を潰さなければならず、そのためには恐怖を持って全市民に理解させなければならないのです。『略奪しようとするならこうなる』と」
竜也にもその必要性は理屈では判っている。判っているからこその死刑判決であり、この公開処刑である。だが竜也の感情は未だ納得していない。
広場では処刑が始まろうとしていた。
「やれ!」「殺せ!」
集まった野次馬が口々に叫ぶ中、積まれた薪に兵士が火を灯す。野次馬が揃って大きな歓声を上げた。小さな種火は燃え広がって大きくなり、赤い炎が扇動者を焼いていく。泣きわめき、焼き崩れていく扇動者を見物しながら、野次馬達は笑っていた。竜也がその光景に血を凍らせる一方、野次馬はそれを単なる見せ物として眺め、笑っている。
「うぐ……」
竜也は胃液を吐きそうになるが何とか堪えた。広場から背を向けた竜也はそのままその場から逃げるように立ち去っていく。ベラ=ラフマが、バルゼル達がそれに続いた。
悪夢のような光景を振り払うように竜也は早足で歩いていく。だが広場の光景は竜也の脳裏から離れようとしなかった。
サフィナ=クロイで暴動があったその翌日の朝、独裁官公邸の船。食堂では女官達が途方に暮れたような顔を見合わせている。そこにファイルーズが姿を現した。
「皆様、おはようございます」
いつものようににっこり笑って挨拶をし、その上で周囲を見回し空気を把握する。食堂にいるのは女官の他はミカ、カフラ、サフィール。竜也とラズワルドの姿はなかった。
「タツヤ様はどうされたのですか?」
ファイルーズの問いに気まずそうに沈黙するミカ達。ファイルーズが視線で自分の女官に問い、女官の一人が答えた。
「タツヤ様が寝室に閉じこもったまま出てこないのです。寝室の外から何度も呼びかけたのですが……」
「ラズワルドさんは?」
ファイルーズが白兎族の女官に視線を向ける。その女官はどもったようになりながら、
「あの、その、お嬢様は昨晩は一緒ではなく、お嬢様も寝室に入れず……」
そうですか、と頷くファイルーズ。ファイルーズは再度周囲を見回し、
「ミカさん、カフラさん」
名を呼ばれた二人が戸惑いを見ながらも「はい」と返答する。
「総司令部に連絡していただけませんか? タツヤ様は体調が優れない、今日いっぱいは静養する、と」
ミカとカフラはそれぞれ、
「やむを得ませんね」
「それがいいですね」
と答え、総司令部へと向かった。「他の皆様はいつものお仕事を」というファイルーズの命令に従い女官達も動き出す。公邸はそれでようやくいつもの姿を取り戻した。薄皮一枚剝げばその下には目に見えない不安がわだかまっていたが。
……竜也が寝室に籠城して全く顔を見せてないまま時間が過ぎていく。ラズワルドが一時間おきに軽食を作って寝室へと持っていくがそのたびに追い返されており、泣きそうな顔で戻ってくる。手の付けられていない軽食はそのたびに作り直されていた。時刻は昼を過ぎ、すでに夕方である。
食堂にはファイルーズ、ミカ、カフラ、サフィールが集まり、不安げな顔を見合わせている。ラズワルドは他の四人とは顔を合わせたくないようで、厨房の方に居座っていた。
「……そろそろいいでしょうか」
日が完全に沈んだのを確認し、カフラが立ち上がった。「何がですか?」とミカが問うがカフラは「いえ、こっちの話です」とごまかした。カフラに続いてファイルーズも立ち上がる。
「どちらへ?」
サフィールの問いに、
「お風呂、先に使いますね」
カフラがそう答え、ファイルーズは微笑み顔で何も答えず食堂から出ていく。食堂には「こんなときに」と言いたげな様子のミカ達が残された。
公邸の船には船倉を改修して風呂場が設置されているが、それは日本風の湯船のある風呂ではなくサウナ式の蒸し風呂である。四畳半くらいの広さのその風呂に、裸体にタオルを巻いただけのカフラとファイルーズが入っている。設置された木の椅子に座っている。二人の間に会話はなく、沈黙が続いていた。
突然扉が開いて何者かが飛び込んできた。闖入者はラズワルドである。よほど慌てていたのかラズワルドは素っ裸のままで、その蒸し風呂に入ってから手にしていたタオルを身体に巻いて椅子に座った。
「……タツヤは渡さない」
「ラズワルドさんじゃ無理ですよ」
カフラは言葉の端にかすかな苦笑をにじませた。ラズワルドは親の敵を見るかのような視線を二人へと向けるが、二人はそれを受け流すだけだ。
二人が三人に増えても沈黙は続いている。砂時計の砂が全て流れ落ちた頃、ファイルーズとカフラが同時に立ち上がった。ラズワルドは二人を見上げる形となる。
二人とも汗のしたたる素肌にタオルを巻いただけの扇情的な姿である。ファイルーズの胸はこぼれんばかりにふくらみ、ウエストは優雅にくびれ、腰はまろやかな曲線を描いている。カフラも比較的背が高く、胸も大きい方だがファイルーズほどではない。が、女としての魅力は決してファイルーズに負けてはいなかった。ファイルーズが「女が理想とする女そのもの」であるとするなら、カフラは「男が理想とする女そのもの」であった。ファイルーズは漂う色香の点ではカフラに勝り、カフラはコケティッシュな魅力ではファイルーズに勝っていた。
二人を見上げていたラズワルドは我知らずのうちに自分の身体を見下ろしていた。そこにあるのは年齢に比してあまりに幼く、女として未成熟な身体である。自分の発育が悪いことはラズワルドだって自覚していたが、今までそれを気にしたことはなかった。
「それが何?」
というのがラズワルドの姿勢だったのだ――今この瞬間までは。
ラズワルドはこれまでの経験にない、深刻な劣等感を抱いている。成熟した女としてのその姿は、香り立つようなその色気は、今のラズワルドがどうあがいても手に入れられないものだった。
「タツヤ様のことはわたしにお任せください」
ファイルーズがそう言い残し、二人は蒸し風呂を後にする。二人がどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのかラズワルドは嫌というほど理解している。だがラズワルドは二人を追うことができなかった。唇を噛みしめ、涙を堪えることしかできなかった。
ファイルーズは蒸し風呂の隣室に移動。そこで裸のまま寝台にうつぶせとなった二人は全身に香油を塗らせている。マッサージをするようにファイルーズに香油を塗っているのはファイルーズの女官だし、カフラの方は自分のメイドに香油を塗らせていた。
ファイルーズ達は無言のままで、女官やメイドも無駄口は叩かない。その部屋は沈黙で満たされていた。だがふと、
「ファイルーズ様には立場がおありでしょう? わたしに任せてもらえませんか」
カフラが独り言のように言う。
「さきほどカフラさんは、ラズワルドさんでは無理だと言っていたでしょう?」
ファイルーズの言葉にカフラは何も応えない。ファイルーズは構わず続けた。
「わたしも同じことを言いますわ。カフラさんでは無理だと」
カフラは思わず身を起こした。反論しようとするカフラに先制して、
「ラズワルドさんでは無理だとカフラさんが判断したのは何故ですか? ラズワルドさんの身体が幼いから、それもあるでしょうけどそれだけではないでしょう?」
「あの子の場合、身体以上に心が幼いままです。特にタツヤさんの前じゃ本当に小さな子供みたいに見えます。あの子は幼い子供が親を頼るようにタツヤさんを頼っている。それじゃ駄目なんです」
カフラの言葉にファイルーズは「確かにその通りですわ」と同意した。その上で、
「わたしにはカフラさんもあまり変わらないように見えますわ」
カフラは強い敵意を込めてファイルーズをにらんだ。
「確かにわたしはタツヤさんを頼っていますけど、タツヤさんだってわたしを頼りにしてくれています」
「カフラさんがタツヤ様をお仕事の面で支えているのは知っています。ですが、タツヤ様の心を支えていると言えますか?」
カフラのファイルーズを睨む目にますます力がこもる。だがその口から反論は出てこなかった。
「カフラさんはタツヤ様に心を預けている。その点はラズワルドさんと何も変わらないのではないですか?」
カフラは口惜しげに唇を噛み締めた。
「わたし達はタツヤ様の心に負担をかける一方でした。今、タツヤ様の心は折れそうになっている」
独裁官に就任して約七〇日、確かに竜也はこの七〇日間精神的にも肉体的にも過酷な状態に置かれていた。処理しても処理しても終わらない総司令部の仕事の山、百万の敵軍が接近しているという重圧、サフィナ=クロイの治安維持と裁判、西ネゲヴ市民の膨大な犠牲、そして市民や兵士の不平不満と暴動。
「タツヤ様は今日までネゲヴの民を守るために私財を投じ、骨身を削り、生命を懸けて戦ってきましたわ。ですが、その守るべき民の醜態を目の当たりにし、疑問を抱いたのではないでしょうか」
こんな奴等のために戦ってきたのか、これほどの苦労をしてきたのか――と。
「多分そうなんでしょう」
タツヤさんは理想主義で潔癖症なところがありますから、とカフラは同意した。
「今、タツヤ様に必要なのは心を軽くする存在。心の支えになれる存在です」
そのために女としての自分の身体を使う――それがファイルーズとカフラの至った結論だった。
「タツヤ様は紳士的に振る舞っていますが、女性に対して興味があることは判っています」
自分達と対面したときは竜也の視線が胸によく集まっていることを、ファイルーズとカフラは百も二百も承知している。スタイルがよく肌の露出の多いケムトの女官と、起伏の少ない身体をほぼ完全に隠している白兎族の女官とを比較すると、竜也の視線が前者を追っていることが圧倒的に多いことも把握している。
「紳士的なのはタツヤさんの長所ですけど、ちょっと意気地がないんじゃないかなと思うこともありましたから。こんな場所に閉じ込められれば我慢できなくなるんじゃないかなと期待していたんですけど……」
「タツヤ様が追いつめられる理由の一つになってしまいましたわ」
とカフラ達は反省した。女ばかりの公邸に男一人で暮らす――他人には羨望され嫉妬される立場だろうが、当事者たる竜也はこう思わずにはいられなかった。
「頼むから誰か代わってくれ」
と。
魅力的で自分に好意を持っている女性がごく身近にいることも何の慰めにもならない。むしろその事実すらが竜也を追い詰める材料になってしまっている。竜也の自制心は何人の予想に反し、要塞なみに強固だった。
「タツヤさんは理解する必要があるんです、我慢しなくていいこともあると」
カフラの言葉にファイルーズが頷く。
「そして、あなたに心を許す人がいることを、あなたの心を守りたいと想う人がいることを――わたしはタツヤ様に教えたいのです」
二人の会話はそこで途切れる。沈黙の中女官とメイドがファイルーズとカフラに香油を塗っていき、やがてそれが終わる。服を着、身支度を終えた二人が向かい合った。
カフラは小さくため息と笑みを同時に漏らす。
「……今日のところはファイルーズ様に譲りますけど、独占するのはなしですよ」
「心に留めておきますわ」
ファイルーズはそう言って華やかに笑う。ファイルーズはタツヤの寝室へと向かっていった。
「えーっと……?」
窓から入る朝の日差しが寝室を照らしている。竜也は今まで自分が眠っていて、今目が覚めたことを理解した。これほど深く充足した熟睡をとったのは独裁官に就任して以降は初めてだったので、一瞬何があったのか判らなかったのだ。今までは徹夜も珍しくなく、眠っても頻繁に目が覚める浅い眠りばかりが続いていた。
「タツヤ様、お目覚めですか?」
耳元で聞こえるファイルーズの声。竜也が首だけ回してそちらを見ると、そこには裸で寄り添うファイルーズの姿があった。昨晩何があったかが竜也の脳裏をフラッシュバックする。
――強引に寝室に入ってくるファイルーズ、口論がファイルーズへの八つ当たりとなり、挙げ句にファイルーズをベッドに押し倒して服を剝いで……
「うわああぁぁ……」
竜也は思わず頭を抱えた。
「死ぬかと思うほど痛かったですわ。まだ中に何か入っているような感じがします」
ファイルーズがにこやかに追い打ちをかけ、竜也のライフはほぼゼロとなった。今目の前に白装束と日本刀が用意されているなら、竜也は迷わず切腹するだろう。
「……ええっと、その」
何か言おうとして何もまとまらない竜也の唇に、ファイルーズは人差し指を押し当てた。
「お気になさらないでください。元より、わたしはタツヤ様に全てを捧げていたのですから」
一見フォローのようだが、それは竜也にとって最後のとどめとなった。竜也はベッドに突っ伏してしまう。のろのろと身を起こしたのは、かなりの時間が経ってからである。
「あの……俺はどうすればいい……?」
竜也は無条件降伏してファイルーズに生殺与奪を委ねる。ファイルーズは優しく微笑みながら判決を下した。
「ネゲヴを救っていただけるのでしたら、わたしはそれ以上何も望みません」
竜也の口から乾いた笑いが漏れる。彼女は処女一つ・身体一つを代償に、百万の敵と戦いこれを滅ぼすことを竜也に求めているのだ。清々しいくらいに過酷で巨大な賠償請求だった。
(別に、やるべきことは今までと何も変わらない。自分が正しいと信じることを、最善を尽くしてやるだけだ)
それでファイルーズの全てを手にできるのだから、むしろ竜也にとって有利な取引だ。そう思えるほどに竜也の精神は復活を果たしていた。
仰向けになった竜也は目の前に手を伸ばし、
「――判った、ファイルーズ。勝利を、平和な未来を、ネゲヴの全てを手に入れよう」
「……はい、タツヤ様」
そう告げて拳を握り締める。竜也の精神が完全に復調したことを理解し、ファイルーズは安堵の微笑みを見せた。この日、竜也の精神は単なる復調ではなく更なる進化を遂げていたのだが、ファイルーズがそれを理解するのは少し先のことである。