「黄金の帝国」・会盟篇
第二七話「眼鏡と乙女と」
「く、くいもの……」
ディアは今にも倒れそうになりながらも辛うじて行軍を続けていた。その辺に落ちていた木の棒を杖にし、その杖にすがるようにして歩き続けている。ディアの後ろには、一族の戦士三六人の姿があった。皆一様にやせ衰え、幽鬼のような姿になりながらも、それでも何とか行軍を続けていた。
「食い物さえあればあの二人も死ぬことはなかったのに……」
イコシウムで手に入れた食糧はとっくに食い尽くされていた。イコシウム以降で二人の戦士を失っている。村を出てからなら四〇人のうち四人、一割の損失である。だがそれでも、ディア達の損失の割合は特別に少ない方だった――聖槌軍全体から見れば。
街道のそこら中にエレブ兵の死体が転がっている。西ネゲヴ中にエレブ人の死体をばらまくのが聖槌軍の目的だったのか、と思いたくなる様相を呈していた。
シマヌの月(第三月)の下旬のその日、ディア達はカルト=ハダシュトに到着した。カルト=ハダシュトの住民は一人残らず逃げ出し、町は完全な無人である。ディアの戦士達が町中に散って食糧を探し求めるが、見つかりはしなかった。同時に入場した何万というエレブ兵が食糧を探し回っているのだから。
エレブ兵は町中の民家や商家に入り込み、床板を剝がして地面を掘り返し、天井裏に登って天板を踏み抜いていた。ごくまれに食糧を発見するエレブ兵士がいたが、即座に他の兵士達がそれを横取りしようとし、殺し合いになっていた。
食糧を探し求めて入り込んだ民家で、ディアは置き去りになっていた付け耳を見つけた。犬の耳のように見える獣耳の付いたカチューシャである。ディアは我知らずのうちにそれを手に取っていた。ディアはそのまま長い時間考え込む。
「……この大陸ならわたし達の一族も受け入れてもらえたのだろうか」
ディアはその呟きと同じことを以前にヴォルフガングに対して言ったことがある。
「受け入れてくれたかもしれません」
それに対してヴォルフガングはこう答えていた。
「――この戦争が起きてさえいなければ」
エレブ人は侵略戦争を起こし、西ネゲヴを死の荒野とした張本人であり、ディア達もまたその一員である。ディア達はネゲヴの戦士と戦い、その手で何人かを殺している。
「来たくてここに来たわけじゃない。殺したくて殺したわけじゃない」
そんな聞き苦しい言い訳が通用するはずもない――ディアもそれは骨身にしみて理解していた。
ディアはその犬耳を投げ捨て、食糧を探して別の家へと向かった。一日中町をさまよい歩き、それでも食糧は見つからない。海岸では魚を捕ろうとするエレブ兵が芋を洗うがごとき有様となっている。
「……この対岸はすぐエレブだ! 俺はもうエレブに、故郷に帰るんだ!」
と大声で叫んで沖へと向かって泳ぎ出すエレブ兵も一人や二人ではなかった。カルト=ハダシュトからトリナクリア島までは船で一昼夜の距離であり、泳いで渡れる距離ではない。そんなことも判らなくなっている彼等はおそらくもう発狂していたのだろう。
「く、くいもの……」
時刻はすでに夕方である。一日中歩き回って何の収穫もなく、残り少ない体力を消耗しただけの結果となってしまった。ディアは今にも力尽きそうになっている。
そのとき、ディアの前を黒い獣が横切った。小柄なディアと同じくらいの重量がありそうな、大型の野犬である。その野犬はディアを獲物と狙い定めたようだが、それはディアも同じことだった。
「――くいもの!」
ディアからすればその野犬は、犬の形をした肉でしかなかった。ディアは爪と牙をむき出しにし、少しずつその野犬との距離を詰めていく。その野犬にも野生の勘は残っていたようだ。勝てる相手ではないことを悟ったように、その野犬は速やかに逃げ出した。ディアが一呼吸遅れて飛びかかったが、もう遅い。その場に残されたのは、その野犬がくわえていた何かの骨だけである。
ディアは滑り込むようにしてその骨を掴み、口にくわえようとした。骨髄でも残っていれば充分に腹の足しになる、今日一日を生き延びることができる――
「……く、か」
ディアはそれをくわえようとした姿勢のまま硬直していた。ディアは気付いてしまったのだ、それが人骨であることに。
(気が付かなかった。わたしは気が付かなかった)
ディアは必死に自分を騙そうとした。だができなかった。
(わたしだけじゃない、みんなやっていることだ)
ディアは懸命に何者かにそう言い訳した。エレブ兵の間で密かに食人行為が蔓延しているのは事実であった。エレブ本国から支援を受けられる上級貴族や聖職者、バール人と取引のある貴族や騎士階級はさすがにそこまで追い詰められてはいなかった。だが逆に言えば、それより下の兵士や傭兵、農民兵はとっくの昔にそこまで追い詰められていたのである。食人行為をせずにカルト=ハダシュトまでたどり着けた兵は、ディア達を除けばほとんど存在しなかっただろう。
(そうでもしなければ生き延びることができなかったんだ、仕方のないことなんだ)
ディアはそう思い込もうとし――
「くそっ!」
叫んだディアがその骨を投げ捨てる。ディアは先ほどの野犬の後を追い、杖をついて歩き出した。
「わたしは死なん、生き延びてやる。生き延びてやるんだ!」
――カルト=ハダシュトからスキラまでは二〇日ほどの旅程である。ディア達の苦難に満ちた旅路が終わるのももう間もなくのことだった。
時間は少し遡って、ジブの月(第二月)の下旬の頃のこと。総司令部のベラ=ラフマの元を、井戸を掘っていたザキィが訪れた。
「独裁官はどちらへ?」
「所用で席を外している。何かあったのか?」
「はい、この地下に空洞が見つかったのでその報告を」
それを聞いたベラ=ラフマが沈黙する。それは単なる沈黙ではなく、ザキィの息を詰まらせるような重い沈黙だった。
「……確認をする」
ベラ=ラフマが短く告げ、ザキィを伴い井戸の掘削現場へと向かう。それにバルゼルが同行した。井戸は十数人の人足により交代で掘り進められ、一〇メートル程度の深さに達している。ザキィ達三人は縄梯子を使って井戸の底に降り立つ。そこには奈落まで続いているかのような黒い穴が空いていた。
ベラ=ラフマは穴の中に首を突っ込んでのぞき込んだ。真っ暗闇で何も見えない。
「少し潜ってみましたが、かなり深い穴です。底の方から水の流れる音がかすかに聞こえました。岩を削って垂直に穴を開けられれば井戸を作れます。独裁官の言われるように風車を設置すれば、井戸が深くても水を汲み出す手間はかかりません」
その報告を聞いたベラ=ラフマは少しの間無言で考え込み、そして二人に告げる。
「……この洞窟は他の者達には洞窟ではなくただの岩の裂け目、ただの井戸だということにする。この洞窟にどの程度の大きさがあるのか、どこまで伸びているのかを、警護隊で内密に確認してほしい」
バルゼルはベラ=ラフマの求めていることを素早く理解した。
「なるほど、秘密の抜け穴にするおつもりか」
「その通りだ。海側に抜ける穴を掘って、出口には船も用意する」
ベラ=ラフマはザキィの方へと向き直った。
「あなたには井戸掘りとは別に、抜け穴を掘り抜けるための工事もお願いする。海側に出口を作るが、海水が入ってこないよう注意してほしい。抜け穴工事はあくまで内密に。人手はこちらで用意する」
「あの、独裁官タツヤにも内密にするのですか」
そうだ、と頷くベラ=ラフマ。ベラ=ラフマの命令にザキィは頷く他なかった。
そして一月ほどの時間をかけて、ザキィはゲフェンの丘に井戸を掘削した。水を汲み上げる風車も同時並行で建設し、完成させている。
総司令部の小間使い等が集まり注目する中(野次馬には竜也達も混ざっていたのだが)巨大な風車が風を受けて回り出す。それに連動したロープが動き出し、やがて水がなみなみと汲まれた桶が地の底から上がってきた。桶は水槽に水を移し、また地の底へと戻っていく。
「おお、水が!」
「やったー!」
建設に関わった人足、小間使い等が手を取り合って喜んでいる。ザキィも問題なく稼働していることを確認でき、ほっとしているようだった。
「おおっ、ちゃんと動いとるようだな! よくやったザキィ!」
そう言ってザキィの肩を叩いているのはガリーブである。ザキィは苦笑しながらガリーブの慰労を受けていた。
「よくやってくれた。感謝する」
竜也もザキィにそう声をかける。ザキィは「いえ、とんでもない」と答えを返した。
「まあ、あれがなければもっと早く完成できたんですけど」
ザキィの呟きにガリーブと竜也が「何の話だ?」と訊ねるがザキィは「こちらの話です」とごまかした。
井戸の掘削と風車建設を目眩ましにして秘密の抜け穴掘削工事は進められ、三者は同時に工事を完了していた。抜け穴掘削に動員されたのは多数のエレブ人捕虜である。彼等は抜け穴完成と同時にバルゼルの手により全員殺害され、死体は海に捨てられた。これで抜け穴の存在を知るのはベラ=ラフマ・バルゼル・ザキィの三人だけ。竜也やラズワルドすらその事実を知らないままだった。
その日の夕方、竜也の公邸となっている船。
公邸に戻ってきた竜也は、ファイルーズやカフラ、女官達が何か騒いでいるのを耳にした。竜也は女性達が集まっている、食堂として使われている一番大きな部屋の中をのぞき込む。
「? 誰か来ているのか?」
「あ、タツヤ様」
見ると、行商人が荷物を広げて商売をしているようだった。売り物は衣服やアクセサリーの類である。「ふーん」と竜也は売られている衣服を見渡す。女官達が竜也のために場所を空けた。
「男物の服はないのか?」
「はい、ありますよ。こちらなどいかがですか?」
と中年女性の行商人が何着かの服を取り出す。竜也はその中の真っ黒の服だけを手に取り、サイズが合うことを確認した。
「これと同じ服をもう四、五着ほしいんだが」
「はい、すぐに用意してお届けいたします」
竜也の買い物は二分もかからずに終了し、カフラやファイルーズは物足りなさそうにしている。
「タツヤさん、そんな地味な服よりもこっちの方がよくないですか?」
「いえ、こちらのケムト風の方が」
と派手な服を進めるが、竜也は「ほら、黒が俺の色だから」と二人を宥めた。
竜也は今度はアクセサリーの方を眺める。そして、ミカが真剣な様子で眼鏡を選んでいることに気付いた。竜也はそれを横からのぞき込む。
「これがこっちの眼鏡か……」
二つのレンズを目の位置に並べるフレームはあるが、耳にかけるためのつるはまだ発明されていないようだった。眼鏡は紐を使って固定するのが主流のようである。フレームもやたらと大きくド派手に作ってあり、「仮面舞踏会にでも行くのか」と思うような物ばかりだった。眼鏡と言うよりレンズ付き仮面と呼ぶべき代物だ。実用性よりも金持ちの装飾品としての側面が大きいようである。この行商人の品揃えが装飾品限定なのか、それとも眼鏡全体がまだ金持ちしか買えない商品なのかまでは判らないが。
「いいのはあったか?」
竜也の問いに、ミカはため息をついて首を振る。
「わたしの趣味ではないものばかりです。度数として一番合っているのがこれなんですが」
とミカが取り出したのは極彩色に塗装された蝶仮面である。竜也は思わず吹き出し、ミカは不満そうな顔をした。
「こんなものを付けて仕事をしたら部下の笑いものになります。今回は諦めるしかないようです」
「そうか。それじゃそれは俺が買おう」
ミカは思わず竜也を見つめた。
「何をお考えですか、タツヤ」
「心配しなくていい、これを付けさせようなんて考えてないから」
と竜也は笑ってはぐらかした。
「金物細工職人に仕事を頼みたいんだが、いい職人を紹介してくれないか?」
竜也は女商人と何やらこそこそと相談をしている。ミカは納得していないようだったが、それ以上は追求しなかった。
……その最近のミカには悩みがある。
「タツヤはどこに?」
「今はファイルーズ様と一緒のようです」
苦笑混じりのサフィールの言葉にミカも理解する。夕食を終えてミカ達は食堂で休憩中の一時だが、竜也とファイルーズはさっさと寝室にこもってしまったらしい。ミカはため息をつきたくなった――覚えたては特に楽しいらしいが、それにしても快楽に耽溺しすぎではないのか、と。
もし竜也がそれを聞いたなら心外に思うだろう。ファイルーズとそういうことをするのは夜だけだし、昼間は皇帝としての仕事に集中している、決しておなざりになどしていない、と。だが、仕事を切り上げて総司令部から公邸の船に戻ってくる時間が早くなったのは竜也にも否定できない事実であった。
ミカも竜也とファイルーズが男女の関係になったこと自体を非難するつもりはない。ただ、あの日から船の中の空気がミカにとって居心地の悪いものになっている。
その翌日も、
「ファイルーズ様はしばらく都合が悪いんですよね。代わりにわたしが」
「邪魔。竜也と寝るのはわたし」
カフラが竜也の右腕をとって胸に抱きしめ、その反対側ではラズワルドが竜也の左腕にぶら下がっている。カフラとラズワルドは竜也を挟んで火花を散らし、竜也は途方に暮れたような顔をした。
食堂の中央で見事な三角関係を描いている三人を、ミカとサフィールは少し離れた席から眺めている。ミカはふと竜也達からサフィールの方へと視線を移し、サフィールの顔にどこか羨ましそうな思いが浮かんでいることに気がついた。ミカは指をくわえているサフィールの姿を幻視した。
さらにその翌日も、
「? どうしたんですか?」
ミカとカフラ達が食堂にやってくると、竜也達が使っている中央のテーブルをラズワルドが一人で占拠し、ファイルーズが食堂の片隅に待避しているところだった。状況を確認しようとしたミカがある刺激臭に気がつく。
「こ、この臭いは……!」
「そう、アナトの毒薬ですわ」
やや顔色を悪くしたファイルーズの言葉にミカは脱兎のごとく身を翻した。食堂の扉を盾にするようにして身を隠しつつ、最大限の警戒心を持って食堂をのぞき込んでいる。その姿にカフラとサフィールが唖然とした。
「――どういうつもりですか、ラズワルドさん。そんなものをこの場所に持ち込むなんて」
「わたしが飲んでるだけ」
刺々しいミカの詰問にもラズワルドは涼しい顔を保ったまま――とは言えなかった。その「毒薬」をわずかずつ口に含み、そのたびにめいっぱい顔をしかめている。詰問を重ねようとするミカをカフラが制した。
「ファイルーズ様、ミカさん。確かにあれはアナトの薬湯みたいですけど、アナトの薬湯は恩寵の民の女戦士がよく飲んでいるんですよ」
「あ、アナトの毒薬の効用は」
「一定量を一定期間飲み続けると、子供を身籠もらなくなります。飲むのを止めればまた子供を授かる身体に戻ります。恩寵の女戦士にはそれが必要なんですよ」
一般的に、恩寵の民は男よりも女の方が強い恩寵を授かる傾向にある。だからある程度以上の水準となれば恩寵を持つ女戦士は男の戦士と同等以上に戦うことができる。だが女に授けられた恩寵は子供を妊娠・出産するとそのほとんどが失われてしまうのだ。
ちなみにこの世界の性道徳や貞操観念は庶民に関して言えばかなり緩やかで、二一世紀の日本と大差ない。処女でなくても結婚にはほとんど差し支えはないし、離婚や再婚も何一つ珍しい話ではない。ただし、社会階層が上になるほどより厳しい貞操観念が求められるようになる。ファイルーズやミカのような王族の子女ともなれば、婚前交渉が決して認められないことは言うまでもない。
カフラの説明にミカは一応納得した顔を見せた。一方のサフィールは、
「アナトの薬湯は一族の者もよく飲んでいますが、何か問題でも?」
とまだ不思議そうな顔である。そのサフィールにミカが説明した。
「わたし達のような王家の息女にとって最大の役目は良家に嫁いで子供を産むことです。アナトの毒薬はそれを妨害する絶好の武器であり、宮廷の陰謀劇には何らかの形で必ずこの毒薬が登場します。わたしは自分の身を守るためにこの毒薬の臭いや味を覚えさせられたんです――忌まわしい、陰惨な陰謀劇の数々の記憶とともに」
ファイルーズが大きく頷いてその説明に同意し、サフィールが「ほー」と感心して納得した。ファイルーズがいつになく厳しい表情でラズワルドを非難した。
「事情は判りましたが、そんなものをわざわざこの場所で飲むなんて嫌がらせとしか思えませんわ」
「隠れて飲んで誤解される方がずっと問題」
ラズワルドは端的に釈明する。ファイルーズはまだ納得できないようだったが、カフラが「アナトの薬湯はファイルーズ様の女官が保管・管理することにしたらどうか」と仲裁。ラズワルドがあっさりそれを呑み、この騒動はそれで一応の収まりを見せた。
「……そもそも、ラズワルドさんがそんなものを飲む必要があるのですか?」
「近いうちに必要になる」
「十年くらい先のことでは?」
ファイルーズが腹立ちを紛らわすようにラズワルドをからかい、ラズワルドが真正直に反撃する。サフィールはそれを眺めながら何やら真剣に考え込んでいる。それに気がついたミカが、
「どうしたんですか?」
「……剣を振るうのと子供を産むのと、どちらがタツヤ殿の力になれるのでしょうか」
何でその二択になっている、とミカは突っ込みたくて仕方なかった。
(カフラさんとラズワルドさんはあの通りだし、サフィールさんもこの有様……)
サフィールが竜也に対して抱いているのはおそらく男女の愛情ではないだろう。だがもし竜也がサフィールの身体を求めたなら、サフィールは決してそれを拒絶しないに違いない。竜也に対するサフィールの忠誠心は上限値を突破しているのだから。
(もしこのままカフラさん、ラズワルドさん、サフィールさんがタツヤと関係を持ってしまったら……わたしはどうすれば)
ミカが女として傷物扱いされることを覚悟で竜也の元にいるのはアミール・ダールの軍事力を背景にして竜也の立場を強化するためである。だが逆に言えば、アミール・ダールはミカを通して総司令部内の自分の立場や権益を守っているとも言えるのだ。他の四人が竜也との関係を深める中で自分だけが竜也と距離を置いたままであることは、ミカの立場上許されることではない。
「とは言え竜也とそういう関係になるのも……」
ミカは竜也のことを、これまでの行動やその能力を非常に高く評価している。何年か先に竜也の夫人の一人になる未来図も、
「まあ、やむを得ないでしょうね」
くらいで受け入れてしまっている。もしアミール・ダールとエジオン=ゲベル国王との対立がなく、アミール・ダールもミカ達も故国に留まったままだったなら、ミカには縁談話が台車に山積みとなってやってきたことだろう。そしてミカは今頃顔も知らないようなどこかの貴族の息子に嫁いでいたことだろう。
「それを思えばタツヤの夫人になる方が何十倍もマシです。ですが……」
今すぐに竜也と男女の関係になれるかと問われればやはりためらってしまうのだ。
そんな中、ミカの部下がある報告書を提出する。
「……これは使えますね」
ミカはそれを手に独りごちた。
「タツヤの寵愛をカフラさん達と競い合うのはわたしの性には合いません。ここは一つ、タツヤにわたしの能力を示すことでカフラさん達に対抗することとしましょう」
ミカはその報告書を元にある行動を開始した。
その日、総司令部の執務室でいつものように全自動署名マシーンとなっていた竜也の元に、突然カフラが飛び込んできた。
「タツヤさん! これはタツヤさんの指示なんですか?!」
「何の話だ?」
首を傾げる竜也に対し、カフラがある書面を手渡す。竜也はそれに目を通した。
「……ハムダン商会を摘発?」
「はい。ハムダン商会はザウグ島・ザウガ島の砦建設を請け負っていた商会です。ミカさんはハムダン商会が建設費用を水増し請求しているとしてハムダン商会の当主を拘束したんです」
ザウグ島・ザウガ島はナハル川に浮かぶ二つの小島である。大きさは両方とも縦横数十メートル程度。渡し船が川を行き来する際に休憩に使っているくらいで、人は住んでいない。聖槌軍がこの二つの島を奪取して渡河の拠点とすることが考えられたため、アミール・ダールが両島での砦建設を進めていた。ハムダン商会はその砦建設の資材調達や工夫・職人手配を請け負っていた商会である。
「まずはミカの話を聞こう」
と竜也はミカを呼び出す。数刻を経て総司令部にはミカが登庁した。何故かラズワルドとファイルーズもやってきて、元から竜也と一緒にいたサフィールも合わせて執務室には「皇帝の後宮」のフルメンバーが顔を揃えることとなった。
「ミカさん、これはどういうことですか」
「どういうも何も、わたしはわたしの職務を果たしただけです」
カフラが開口一番ミカを追求し、ミカはそれを真っ向から迎え撃つ。竜也以下他の面々は口を挟まず、二人の舌戦に耳を傾けていた。
「証拠は揃っています。ハムダン商会の過大請求の事実は明白です」
「今、東ネゲヴで木材がどれだけ暴騰しているかご存じないんですか? それを過大請求と言われてしまっては」
「もちろんそれも考慮に入れています。それでもなおハムダン商会の請求額は馬鹿げているとしか言いようのない数字です」
「木材価格が反転する見通しはありません。木材の輸送にだってお金はかかります。輸送中の事故だってあり得ます。それを全部考慮に入れなければ」
「では木材価額が下落したなら、海難事故がなければその請求額は取り下げられるとでも?」
ミカの報告書が事実であればハムダン商会の水増し請求は確かに摘発の対象となる。だが、もし竜也がミカの行動を事前に把握していたならミカを止めていただろう。
「多かれ少なかれどこの商会でもやっていることだ。他と比べて特別悪質だというわけでもないし、あまり目くじらを立てても仕方ない」
もちろん竜也にもバール人達に対する苛立ちがあるが、それ以上にバール人の貢献を一身に受けている立場でもある。それに何よりバール人の協力がなければ総司令部は即座に立ち行かなくなってしまうだろう。が、竜也のその姿勢がバール人でない者達からは「甘い」と見られ、不満を持たれているという一面の事実があった。
ミカの行動は非バール人の不満の発露であり、非バール人を代表してバール人の利権に切り込もうとしていた。一方のカフラはバール人の権益を擁護する立場にある。ミカとカフラの口論はいつの間にか、ハムダン商会の不正という各論からバール人商会と総司令部の関係という総論へと論点が移っていた。
「ネゲヴの未曾有の危機なのに、この期に及んで自分の儲けを考えている方がおかしい!」
「利益が出なければ商会だって存続できません!」
「その程度がなんだと? 今この瞬間だって恩寵の戦士達が聖槌軍と戦って生命を落としている。父上や兄上だって生命を懸けて戦うんだ!」
「バール人だって場合によっては大損することを覚悟の上で総司令部に協力してます!」
カフラの言葉をミカは鼻で嗤う。カフラの目から悔し涙が今にもこぼれ落ちそうになっていた。
「――二人とも、そのくらいにしておけ」
竜也がようやく仲裁に入り、二人は互いにそっぽを向いた。竜也の立場としては「どちらの言い分もよく判る」としか言いようがないし、どちらか一方の味方をするわけにもいかない。
他の面々の様子をうかがうと、ラズワルドとサフィールはミカに同調しているようである。ラズワルドは以前バール人の不正を告発しようとして握りつぶされた経験があるためだし、サフィールはやはり聖槌軍と戦う立場としてミカに共感しているのだろう。ファイルーズ自身の意見はおそらく竜也と同じだが、バランスを考えてこの場ではカフラの味方をするようだった。
「……ともかく。ハムダン商会の件についてはミカに一任する」
竜也の決定にミカは顔を輝かせ、カフラは悔しそうに顔を背けた。
「それではわたしはハムダン商会の取り調べをします。ラズワルドさん、協力してもらえますか」
ミカに要請にラズワルドは「ん」と頷き、二人が執務室を後にする。竜也はそれを見送りながら「これ以上面倒なことにならなきゃいいけど」とため息をついた……それが叶わぬ願いであることは百も承知していたが。その翌日に開催された裁判で、竜也はハムダン商会当主の鉱山送りを判決として下した。
「面倒なことになる」
それは嫌と言うほど理解していたが、正式に告発があった以上は法に則って処罰を下すしかないのが竜也の立場だ。ハムダン商会は潰され、その全財産が総司令部に没収された。
ネゲヴ軍に対するあらゆる補給がぴたりと止まってしまったのはその翌日のことである。
「これはどういうことですか!」
ミカはバール人各商会の担当者を総司令部に呼び出して詰問する。だが、
「いえ、申し訳ありません。嵐のせいで船が到着しないために木材が届きませんで。いやー、嵐のせいでは私どもではどうしようもありませんな」
彼等はへらへらと笑いを浮かべてのらりくらりとミカの追及をかわしていく。経験不足のミカが海千山千のバール人達に敵うはずもなく、結局事態は何一つ改善しなかった。
「木材が届かず工事が滞っているのですが」
「工夫は一体どこに行ったのかと隊長から抗議が」
「今日の分の食糧はいつになったら届くのですか」
「今日の分の日当は」
ミカの元には各部署からの抗議や要請が殺到し、ミカとその部下はその処理にも忙殺された。だがミカが処理する速度よりも問題が積み上がる速度の方がよほど早い。そもそも完全に止まっている補給が再開しないことには問題は何一つ改善しないのだ。
「あら、大変そうですねー」
ミカの執務室にカフラが顔を出し、そう言って笑顔を見せる。ミカは唇を噛み締めた。
「わたしの口添えが必要ですか?」
「いえ、無用です」
ミカの即答にカフラは肩をすくめ、立ち去っていく。残されたミカは歯ぎしりをした。
カフラはその足で竜也の執務室へと向かった。執務室では竜也が腕を組んで難しい顔をしているところである。竜也はカフラへと目を向け、
「ミカをあまりいじめないように」
「ちょっと意趣返しをしただけですよ」
カフラは悪戯っぽく笑うだけだ。
「タツヤさんこそ、ミカさんに力を貸してあげないんですか?」
「ミカから頼まれればすぐにそうするけど」
このストライキの目的はミカに対する抗議と竜也に対するデモンストレーションである。
「バール人の権益を一方的に脅かすなら、こちらにも考えがある」
ミルヤム達はそれを竜也に理解させようとしているのだ。だがその一方竜也の面子を潰すつもりはさらさらなかった。竜也が一言命じれば即座に補給を再開する、ミルヤム達はその体勢を最初から整えていた。竜也もそれを知っている。自分の一言があれば問題は全て解決することは判っている。
「……ただ、それをやるとミカの、ひいてはアミール・ダールの面子を潰すことになるんだけど」
解答のない問題を前にし、竜也はため息しか出てこなかった。事態が改善しないまま時刻が夕方になる頃、秘書官の一人が顔を出してくる。
「皇帝、将軍アミール・ダールが総司令部に来られています」
「将軍が?」
「はい。王女ミカの元に向かいました」
そうか、と頷いた竜也はミカの執務室へと向かった。
「ミカ、入るぞ」
ノックをする間も惜しんでその執務室に入る竜也。その部屋にいたのはミカとアミール・ダール。それにアミール・ダールの息子の一人、五男のコハブ=ハマーだった。ミカは目に涙をいっぱい貯めて俯いている。
「皇帝、ちょうどいいところに。兵站担当からミカを外すこと、ご了承願いたい。後任にはこの者を出します」
アミール・ダールはコハブ=ハマーを指し示した。竜也は一呼吸置いてその申請を検討する。そこにミカが抗議の声を上げた。
「しかし父上、わたしはあくまで法に則って不正を処断しただけです! 責めるべきはバール人ども――」
「痴れ者が!」
アミール・ダールの鞭打つような叱責にミカは数瞬呼吸を止めた。
「不正の処断なんぞ余技に過ぎん。お前の職務はあくまで滞りなく補給を行うことだ。今のこの状態が戦時に起こっていたなら我々の敗北は必至なのだぞ。そんなことも判らぬお前にこれ以上兵站を任せておけるか!」
ミカは再び俯き、瞳から大粒の涙をこぼした。
「――判った。それじゃ兵站はコハブ=ハマーに任せる」
「ありがとうございます」
アミール・ダールとコハブ=ハマーは深々と頭を下げた。一瞬顔を上げたミカだが、その顔には絶望が貼り付いている。失意のミカは項垂れたまま執務室から出ていった。一拍おいて竜也がその後を追う。その執務室にはアミール・ダールとその息子だけが残された。
総司令部の船の中をミカは小走りに移動する。人目を避けて歩いていくうちに甲板に上がったミカはその片隅にたどり着いた。夕闇の中、ミカは歩き疲れたように帆柱の一つにすがり付く。
「……うっく……」
堪えきれずに涙を流すミカに、竜也が背後から「ミカ」と声をかけた。
「ミカはよくやってくれたよ。バール人の不正告発は誰かがやらなきゃならなかったんだ」
ミカは返答しなかったが竜也は構わず言葉を続ける。
「バール人達がいないと総司令部が動かないし、まともに戦争一つできない。だからと言ってバール人の不正をそのままにしておいていいわけがない。――ごめん、俺にもっと力があればミカをかばうこともできたのに」
「タツヤは悪くは……!」
振り返ったミカがそのままの勢いで竜也の胸に飛び込んでしまう。竜也はミカの肩を優しく抱いた。
「ミカはよくやってくれた。ミカは間違ってない。それは俺が保証する、俺が判っている」
何度もそう繰り返した。ミカは竜也の胸の中で涙を流した。
やがて夕陽は沈み、月明かりが二人を照らし出す。大地に写っているのは一つの影だ。ミカは長い時間、竜也の胸の中で泣き続けていた。
さて、この事件の後日談である。
「……結局ミカさんが兵站担当から外されただけでバール人側は矛を収めたわけですが、それでよかったのですか?」
「よくはないです」
ファイルーズの問いにカフラはやや憮然として見せた。
ミカが兵站担当を外された理由は「補給を滞らせたため」であり、ハムダン商会を処断したことは何ら責任を問われてはいない。ハムダン商会は潰されて当主は鉱山送り、その一方ミカは叱責されて役職を解かれただけ。バール人側には「釣り合いが全く取れていない」というわだかまりが残っている。
「でも、これ以上のことを要求したならバール人に対する反発は凄まじいものになったでしょう。落としどころとしては悪くない……と思うしかありません」
アミール・ダールに一歩譲らせたことを慰めとするしかない――それがバール人の立場であった。
一方のアミール・ダールだが、
「あんなに強く叱ったのは初めてだ。ミカに嫌われてしまったのではないか? どうする、何とかフォローできないものか」
懊悩するアミール・ダールはミカ付きのメイドを呼び出してミカの様子を問い詰めた。
「そう言えば様子がいつもと違っていました」
「少し元気がなかったようです」
問われたメイド達がそう答えるとアミール・ダールは「何とかしなければ」と慌てた。が、おろおろとうろたえるばかりでどう行動すべきか方針が立たない。その翌日、
「ミカはどうしているのだ?」
「もうすっかり元気になっていますよ。皇帝の慰めが効果的だったようです」
コハブ=ハマーがそう報告するとアミール・ダールは不機嫌そうに「むう」と唸った。
「父上、ミカももう子供ではないのですよ。いつでも嫁げる年齢なんですから」
「そんなことは判っている」
と答えるアミール・ダールだが、コハブ=ハマーの目から見て本当に判っているのかどうかは疑問だった。
「いずれは誰かに嫁がせるとしてもあのような貧弱な男になど……最低限、シャブタイくらいには軍の指揮ができてノガぐらいには個人戦闘ができる男でなければ」
「そんな男がいるとするなら若い頃の父上くらいです」
とはコハブ=ハマーは言わなかった。
「確かに皇帝タツヤは軍の指揮も個人戦闘もろくにできません。ですが、兄上達にも、他の誰にもできないことをなそうとしているのではありませんか? ミカが嫁ぐ相手としてはこれ以上はないのでは?」
コハブ=ハマーの指摘にアミール・ダールは沈黙する。息子の言う程度のことはアミール・ダールとて百も承知だが、それでも愚痴を言わずにはいられないようだった。
アミール・ダールはミカを解任することでバール人達に一歩譲ったように見せて、その実後任には息子の一人を選んでおり、何ら損をしていない。もしこの一件でミカと竜也との間に心理的距離ができたならそれが損と言えるだろうが、事実はむしろ逆であった。
ある日のある夜の、竜也の公邸。夕食を取るために公邸に戻った竜也は廊下でミカとばったりと出会った。
「あ、ミカ」
ミカは逃げるように身を翻す。竜也はその背中に声をかけた。
「ミカ、渡したい物があるから待ってくれないか」
「渡したい物?」
ミカが足を止めて振り返る。
「ちょっと待ってろ、取ってくるから」
「わ、判りました。それでは食堂で」
ミカが速やかに食堂へと向かう。ここ数日ミカと顔を合わせなかったのは、ミカの方が避けていたかららしい。そんなミカの振る舞いを竜也は「泣き顔なんか見られたから恥ずかしがっているんだろう」と深く気にしなかった。
一方一人になったミカは、
「……ええい、落ち着きなさい馬鹿心臓!」
と早鐘を打つ胸を押さえ込む。熱を持った両頬を掌で押さえ、少しでも放熱すべく努力した。
少しの時間を置いて、何とか平静を取り戻したミカが食堂を訪れる。ミカはうっかり失念していたが、食堂には竜也の他ファイルーズ・ラズワルド・カフラ・サフィールがいて夕食後のおしゃべりに興じていた。ミカは自分の失敗に内心かなり動揺したがそれを外見に表すことなく、竜也の前へと進み出る。
「それでタツヤ、渡したい物とは?」
「ああ、これだ」
と竜也が差し出したのは、ビロード張りの小綺麗なケースである。ファイルーズ達が猛禽のような眼で一挙手一投足を見つめていることに気付き、ミカは内心で冷や汗をだらだらと流している。が、外見上は怪訝な顔をしただけでそれを受け取り、蓋を開けた。
「……レンズですか?」
ミカの目にはそこにあるのは「奇妙な黒い針金細工付き丸レンズ」にしか見えなかった。
「違う、眼鏡だ。俺が元いたところじゃこういう眼鏡が主流なんだ」
「眼鏡、これが?」
「こうやって使うんだ。……ラズワルド、鏡を」
ラズワルドが手鏡を用意する間に、竜也が眼鏡を手に取りミカの顔にかける。ミカは思わず目をつむって全身を硬直させた。
「もういいぞ、目を開けてくれ」
ゆっくり目を開けたミカはラズワルドから手渡された手鏡をのぞき込んだ。
「これは……」
鉄製の黒い針金が二つの丸いレンズを包み、耳の後ろまで延びたつるが眼鏡の位置を保持している。鼻に当たるフレーム部分も痛みが小さくなるよう工夫がなされていた。
「この間紹介してもらった金物細工の職人に作ってもらったんだ。フレームの鉄もレンズもかなり重い素材だから、軽くなるよう可能な限り薄く細くしてもらっている。つるは本当は折り畳めるようにするものなんだが、そこまで手が回らなかった」
「へぇー、ふぅーん、これは……」
とカフラが興味深げに四方八方からミカの眼鏡を見て回っている。ミカほどではないが、カフラもどちらかと言えば目が悪い方だった。
「さすがタツヤさん、すごく実用的です。この形式の眼鏡はきっと流行ると思います」
カフラの賞賛に竜也は内心で「そりゃそうだろう」と思うしかない。数百年分の進歩を先取りした眼鏡なのだから、今この世界にある眼鏡をいずれ駆逐してしまうのは間違いなかった。
「どうだ、ミカ?」
「はい、気に入りました」
とミカは竜也の方を向いて「ありがとうござ……」と礼を言おうとして、
「――!」
刹那に放たれた右拳のストレートが竜也の顔面に突き刺さる。ひっくり返った竜也に構わず、ミカは脱兎のごとく逃げていった。
「……な、何で……?」
いきなり殴られた理由が判らず、竜也は助けを求めるようにラズワルドに視線を向ける。だがラズワルドは、
「……」
呆れたような冷たい視線を竜也へと向けるだけだ。そしてそれはファイルーズやカフラも同様である。
「……ええっと」
竜也は何が悪かったのかわけが判らないまま、失意のうちに逃げるように仕事に戻るしかなかった。
一方、公邸の一角。誰もいない場所まで逃げてきたミカは、
「……ええい、落ち着きなさいと言うのにこの馬鹿心臓!」
激しく動悸する自分の胸を何度も叩いていた。極度の近視のミカは今まで竜也の顔をはっきりと見たことがなかったのだが、眼鏡を手に入れて初めて鮮明な竜也の顔を目の当たりにしたのである。
「……まさかあれほどまでの美男子だったとは。眼鏡がなかったから今まで気が付きませんでした」
ミカは悔しげに呻く。お前がかけたのは恋という名の色眼鏡だ、と突っ込む人間はどこにもいない。
「あんな美男子ならわたしが会うたびに動揺するのも仕方ありません。わたしとて一応は年頃の乙女なのですから」
ミカは自分の致命的な間違いに気付くことなく、泥沼のような理論武装を深めていくばかりだった。