「黄金の帝国」・死闘篇
第三〇話「トルケマダとの戦い」
ダムジの月(第四月)・二六日。トルケマダ率いる聖槌軍先鋒はついに渡河作戦を決行。ここにようやく聖槌軍対ヌビア軍の激突が開始された。トルケマダ主導によるこの渡河作戦とその迎撃戦は、後日「ダムジの月の戦い」と呼ばれるようになる。
ナハル川北岸に集められた兵を見渡し、トルケマダは自分の部下に問うた。
「兵数はどのくらいだ?」
「は、おそらく五万は越えましょう。閣下の元で戦うことを望む者が多数加わっております故」
そうか、と頷くトルケマダだが、五万という数字を額面通りには受け止めなかった。トルケマダ自身の部隊と、彼に協力する五人の軍団長、モネリー、ポワシー、アールスト、ル・ピュイゼ、ジョフレが率いる各軍団、それで兵数は約三万。戦果や食糧を求めて飛び入りで加わっている兵士はおそらく一万くらい、合計兵数は四万程度とトルケマダは推定していた。
一方、集められたエレブ兵達はナハル川を眼前にして途方に暮れたような顔を見合わせている。対岸ははるか彼方、かすんでいてろくに見えない距離である。エレブ兵は全員服を脱ぎ、半裸だった。剣や槍は背に負い、紐で身体にくくりつけられていた。そして彼等の足下には万に届く数の丸太が転がっている。
「俺、泳いだことなんかないぞ」
「俺だって」
兵士の大半は泳いだ経験を持っていない。生まれ育った場所が海辺や水辺の人間であれば泳ぎの経験はあるが、
「……こんな川、どうやって渡れっていうんだ?」
それでも一〇スタディアの距離を前にしては全員が尻込みをした。各所に散ったトルケマダの部下が大声で兵士達に命令を伝えて回った。
「それぞれ丸太を持て! そのまま水に浸かって対岸まで泳げ!」
あまりと言えばあんまりな命令に兵士達は行動を起こせなかった。数人がかりで丸太を持ち上げはしても、水を前にして立ちすくむだけである。苛立ったトルケマダの部下が兵士達へと宣告する。
「これは聖戦である! 勇敢に戦えばお前達だけでなく故郷の家族も救われるだろう! だが逃げる者にはその家族にも災いがあると知れ!」
トルケマダの部下達はくり返しそう言って兵士達を脅迫した。これまで散々地獄を見てきた兵士達は「救い」に対してはシニカルな思いを抱かずにはいられなかった。だが「災い」に対しては疑いを持っていない。
「ここで逃げたら家族が異端審問にかけられるかもしれない」
トルケマダという名の「災い」が兵士達に決死の覚悟を抱かせたのだ。兵士達が次々へと川に飛び込んでいく。
「対岸に着いて陸地に上がったら集結しろ!」
ナハル川南岸に橋頭堡を築くこと、それが当面の目的だった。トルケマダは四万の兵士を川に突き落とすようにして出撃させ、自分は一番最後に出発した。トルケマダと五人の軍団長は二隻のいかだに分乗して川を渡っている。
川を三分の一ほど渡ったところでそれに気が付いた。
「敵地から煙が……」
「よし、これで勝ったぞ」
対岸の各所から煙が立ち上っている。今日は風も弱いため煙は真っ直ぐに天へと向かっていた。何本もの煙がまるで天を支える柱のようである。
その煙の立ち上る元の一つ、サフィナ=クロイの中央広場。そこでは積み上げられた木材がキャンプファイヤーのように巨大な炎を生み出していて、その前ではモタガトレスが腕を組んでその炎と煙を見上げている。
「頭、全部に点火が終わりました」
部下の報告にモタガトレスは「よし」と頷いた。
「しばらくこの火勢を維持しろ。絶対に周囲に飛び火させるな」
モタガトレスの命令を受けた部下が四方に散っていき、その命令を伝達する。中央広場においても何人もの兵士が周囲に飛び火しないよう注意を払っており、モタガトレスはその様子に満足そうに頷いていた。
一方のトルケマダはモタガトレスの策略を知りもせず、約束通りに内応したものと思い込んでいる。
「あの煙は我等が手の者が放ったものだ! 敵は混乱している、この機会を逃すな!」
トルケマダは近隣を泳ぐ兵士の士気を鼓舞した。あいにくトルケマダの声が届く範囲は限られていたが、何本もの煙を見たエレブ兵は事情は判らずとも「これは絶好の機会だ」と同じように判断していた。士気を上げた兵士達が必死にバタ足をし、川を渡っていく。そしてエレブ兵はようやくナハル川南岸に到着した。だが、
「……こんなの、どうやって登れば」
彼等は覆い被さるようにそびえる石壁を見上げて呆然とした。四パッスス(約六メートル)もの高さまで石材を積み上げ、隙間と表面はコンクリートで固められている。壁は緩やかな曲線を描いて内側に凹んでおり、表面はまるで磨いた鏡のように白く滑らかだ。そんな白い壁が何スタディアにも渡って連なっているのだ。
そして二スタディア置きくらいに川の中に出丸が設置されている。壁と同じように石材を積み上げてコンクリートで固めたその出丸は、竜也の目から見ればまるで石灯籠のような形をしていた。川岸の壁そのものと比較すればまだ登りやすそうだが、出丸の上では火縄銃や弓矢で武装した兵士が鈴なりになっている。出丸に取りつくのはどう考えても自殺行為だった。
「南岸の全部をこんな壁で覆っているわけじゃないだろう」
「もっと登りやすそうな場所を探そう」
そう言ってあるエレブ兵が壁に沿って移動しようとする。だが彼の探索と人生は数瞬後には終わりを告げた。壁を飛び越えて降ってきた大きな石が彼の頭部に命中、頭を砕かれたそのエレブ兵はそのまま水に沈んでいった。
南岸にたどり着いたエレブ兵の多くが彼と同じ運命を辿った。矢で射殺された者、火縄銃で射殺された者、投石機の石で潰された者、熱した油で焼かれた者――待ち構えてたヌビア兵の手により、エレブ兵は次々と死体に姿を変えていく。
軍の結成から四ヶ月、聖槌軍到着から半月。ヌビアの将兵はこの瞬間を待ちに待ち、この瞬間のために耐えに耐えてきたのだ。彼等は皆、自制や手加減というものをどこかに放り捨てていた。
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
「殺れ!」「殺れ!」「殺れ!」
一人のエレブ兵に向かって十数人の弓兵が矢を放ち、一人のエレブ兵に向かって投石機が使用され、一人のエレブ兵に向かって大砲が放たれる。エレブ兵の全身に矢が刺さり、エレブ兵が石に潰され、エレブ兵が砲弾により砕け散った。
「どうなってるんだ! 話が違うじゃないか!」
「じょ、冗談じゃない! こんなのやってられるか!」
第一波の攻撃に耐えて辛うじて生き残ったエレブ兵は一旦南岸から離れようとする。だがトルケマダが兵士を叱責した。
「逃げるな! 逃げた者は地獄に堕ちるぞ!」
兵士を脅迫しながらもトルケマダは思考を巡らせている。
(この守りの堅さはどうしたことだ? モタガトレスは何をしている、もしや我々を裏切ったのか?)
「……どうやら我々ははめられたらしい。あのネゲヴ人は最初から我々を騙すつもりだったのだ」
ポワシーの呟きにモネリーが「そうなのだろうな」と同意した。トルケマダもその推測が正しいと認める他ないのだが、追い詰められたからこそトルケマダはさらに戦意を燃やした。
「姑息な罠など食い破ればいいまでだ! あそこだ、あの出丸に攻撃を集中しろ!」
トルケマダが指し示したのは一番河口に近い出丸である。その指示に従い、兵士がその出丸を目指して流れていく。その出丸には、まるで蟻が砂糖に群がるようにエレブ兵が殺到した。一時的にはエレブ兵の数に圧倒されて危うくなった出丸だが、ヌビア兵の応援が他所から駆けつけて形勢はすぐに逆転した。
エレブ兵が出丸や壁をよじ登ろうとし、ヌビア兵がそれを叩き落としていく。槍で刺され、矢を射られ、エレブ兵は実に効率よく殺されていった。
「くそっ、こちらも鎧を着ていれば……」
川を渡るため、溺れないため鎧を脱いで身軽になったエレブ兵だが、彼等はヌビア兵から見ればいい的だった。防御手段のない彼等は次々と射られ、負傷し、前線から下がっていく。
「敵兵がこの場所に集まっていて上流の方が手薄になっている。上流に一万も兵を回せれば我々の勝ちだ!」
「……だが、どうやってだ? 川の流れに逆らって泳ぐのか?」
敵の動きに対応し、敵の弱点を突くように自軍を運用する――そんなごく当たり前のことすらが今のトルケマダ達にとっては贅沢な話となっていた。伝令兵を飛ばすことも、自軍の陣形変更も、何一つままならない。
「……とにかくやるぞ! トルケマダ隊は私に続け!」
トルケマダは自分のいかだを兵士に押させ、川を遡行しようとした。が、ろくに前に進まない。トルケマダの兵が前線から離脱して川を遡行しようとするが、トルケマダと同じようにその場に留まるのが精一杯のようだった。
「か、閣下! 敵の船が!」
何隻もの軍船が川面を切り裂くように猛スピードで突き進んでいる。軍船の全長は十数メートル、三〇人の男達が一五対の櫂を漕ぐ手漕ぎ船だ。その軍船に乗っているのはナハル川方面軍水軍司令官のケルシュである。年齢は三〇の少し手前で実はかなりの美形なのだが、モヒカンの髪型と鋭く凶悪な目つきが全てを台無しにしていた。見た目も性格も海賊の典型みたいな男である。
「このまま突っ込んで敵を蹴散らすぞ!」
川の流れにも乗り、ケルシュの軍船は飛ぶような速度で真っ直ぐ突進している――トルケマダ達のいかだへと。
「避けろ! 攻撃しろ!」
トルケマダが混乱するままに命令を下し、いかだの兵士達は右往左往した。それでも何とかケルシュの軍船に向かって矢を放つが、軍船は矢を跳ね返すだけだ。そして、その軍船がいかだに激突した。
軍船の体当たりによりいかだは砕け、分解し、トルケマダ達は水面へと投げ出される。何人かは船に轢かれて頸骨や背骨を折られてそのまま川の底へと沈み、何人かは櫂で殴られ血を流した。トルケマダ自身は無傷だが彼はその幸運を判っていない。
「ひっ、ひっ……」
いかだの残骸にしがみついたトルケマダは南岸に背を向け、北岸へと向かって一心に泳いでいく。いかだに同乗していたモネリーがトルケマダの後を追い、同じく同乗していたポワシーの姿は見えなかった。
「閣下!」「お待ちください閣下!」
トルケマダの部下がトルケマダに続いて戦場から逃げ出し、さらに彼等に兵士が続いた。
「くそっ! あいつ、上流を攻撃するんじゃなかったのか?!」
残されたアールスト達は悪態をつくが、彼等も早急に決断しなければならなかった。全軍の二割が戦線を離脱し、逃げ出しているのだ。残された兵の動揺は避けられず、勝ち目はますます小さくなっている。このまま攻撃を続けるか、それともトルケマダを追って離脱するか。
「閣下! 敵が……!」
が、彼等の考える時間はもう残ってはいなかった。ケルシュの軍船が彼等のいかだに狙いを定め、突進してきている。応戦する間もなく彼等のいかだもまた体当たりにより砕け散った。
「エレブ兵を生かしておくな!」
ケルシュは軍船の兵に矢を射させる。散々に矢を射って川面を血で染め、ようやく気が済んだケルシュは次の獲物を求めて軍船を移動させた。そのいかだに乗っていた三人の軍団長のうち、ル・ピュイゼは激突の衝撃により気を失ってそのまま溺れ死んだ。ジョフレは矢を受け、最早助かる見込みはない。残ったアールストは、
「くそっ……! 撤退、撤退だ!」
トルケマダと同じように南岸に背を向け、逃げ出した。アールストに続いて全軍が逃げ出すまでそれほどの時間は必要としなかった。アールストがそれを見ていたなら、
「逃げるときだけ機敏に動けるのだな」
と皮肉の一つも言いたくなっただろう。だがその撤退は決して容易でも順調でもありはしなかった。
何万というエレブ兵が泳いで北岸に、友軍の元に戻ろうとする。その彼等をケルシュの艦隊が襲い、散々に矢で射殺した。たとえそれから逃れても多くの者は北岸にたどり着く前に海まで流されてしまい、ガイル=ラベク率いるヌビア海軍の餌食となった。運良くそれから逃れても商品の仕入れにやってきた奴隷商人に捕まってしまい、さらにそれから逃れた者は陸地にたどり着く前に溺れ死んだ。
南岸の防衛線では、初戦闘と初勝利に将兵共に大いに湧き上がっている。が、竜也とアミール・ダールは苦り切っていた。
「持ち場を離れて兵が動くとは。百人隊長は何をしていたのだ」
「将軍、物資は無限にあるわけじゃない。こんな調子で戦われたらあっと言う間に底をついてしまう」
「判っています。何とか自制させましょう」
アミール・ダールは各軍団の軍団長を集め、叱責と説教を加えている。竜也は総司令部に戻り、コハブ=ハマーやジルジス達とともに軍需物資調達の計画を練り直した。
ナハル川北岸に逃げ戻ってきたトルケマダは兵を集めて軍を再編した。それと同時に部下に命じ、損害状況について聞き取りをさせてまとめさせる。二日後、再編の完了と同時に聞き取り調査がまとまり、部下がトルケマダへと報告した。
「……三分の一……三分の一が帰ってこなかったと言うのか」
「はい、あくまで概算ですが」
トルケマダは崩れ落ちるように椅子に座り込む。場所はスキラ市街の商家と見られる建物の一つ、トルケマダはそこを自軍団の本営としていた。トルケマダと共にその報告を聞いたモネリーは、
「私の部下も戻ってきたのは七割に満たん。おそらく間違っていないだろう」
アールストは苦り切った顔で頷いてモネリーに同意した。
「戻ってきた者のうちかなりが負傷していて、次々と死んでいる。再戦に耐えられる者はおそらく半分になってしまうだろう」
「四万を動員して二万……何故こんなことに」
トルケマダは嘆かずにはいられなかった――その理由を判っていながら。
「……陸地の戦闘であればあり得ない話だが、川に浸かって水を浴びながらの戦いだからな」
「鎧を身にすることはおろか、盾すらが泳ぐ邪魔になる。ちょっとしたことで負傷するし、負傷者が一〇スタディアもの距離を泳いで戻ることも困難だ。たとえ戻ってこられても普通なら軽傷で済む傷が簡単に破傷風になってしまう」
「仮に戦闘がないとしても、単に泳いで戻ってくるだけとしても相当数が海まで流されて戻ってこられない。一〇スタディアというのはそういう距離だ」
アールストとモネリーは損害状況について分析を述べ合い、深々とため息をついた。
「……モタガトレス! あの異教徒が我々を裏切りさえしなければ! 全てはあの男のせいだ!」
唐突にトルケマダがそう言い出して「そうであろう?!」と二人に同意を迫った。が、アールスト達は無言のまま白けた目をトルケマダへと返すだけだ。騙される方が間抜けなだけ――二人の目がそう語っている。トルケマダもそれ以上は責任転嫁を主張できず、気まずそうに二人から目を逸らした。
(くそっ、何とかしなければ……)
トルケマダは敗北の責任から逃れるために知恵を絞った。
(……二万は少なくない損害だが結果としてそれ以上の戦果があれば問題はない。味方を増やすにも賄賂を贈るにも金目のものが必要だ、そのためには何としても南岸を略奪しなければならない。だが四万では足りなかった、ならばもっと多数の動員が必要だ。それに、我々以上の損害を別の誰が受けさえすれば周囲の目をごまかせる)
トルケマダの思考はある一つの方向に固定された。どのような筋道を通っても結論は常に「より多数の兵を動員して再戦すること」である。様々な選択を検討しても結局はその結論の正当化に使われた。
(あの町を攻め落とし、略奪し、この私があの皇帝の代わりに……)
トルケマダの脳裏に浮かぶのは竜也の姿――金銀宝玉に埋もれ、肌も露わな美女を何人も侍らせたその姿である。トルケマダの脳内ではその顔が自分の顔へと置換されていた。意識の上からは振り払っても意識の死角に常にその妄執が隠れている。その妄執こそが今のトルケマダにとっての最大の原動力となっていた。
(問題はどうやって兵を動員するかだが……)
それこそが最大の問題だが、悩む時間はそれほど必要なかった。部下が現れ、トルケマダ達にある報告を届けたのだ。
「閣下、ディウティスク国王フリードリッヒ陛下が到着しました」
その報告にトルケマダは一呼吸置いて、
「――うむ、そうか」
と嫌らしい笑みを見せた。
「よし、挨拶に行くぞ」
トルケマダは身を翻してその建物を出ていく。モネリーとアールストが慌ててそれに続いた。
……数刻後、ナハル川の川辺。フリードリッヒは護衛を引き連れて川辺に立ち、対岸を望んでいる。トルケマダは近侍の者の許可を得てフリードリッヒに接近した。
「陛下にはご機嫌うるわしく。私は枢機卿アンリ・ボケ猊下より聖槌軍の先鋒の命を賜ったトルケマダと申す者」
「そうか。何の用だ?」
フリードリッヒは疎ましげな態度だがトルケマダにはそれを気にした様子はない。
「はい。私はこの川を守る敵と戦い、撃退される結果となりました。私の失敗を陛下の教訓にしていただければと思い、ご報告に」
「ならば聞かせてもらおう」
トルケマダは自分が採った戦法について説明し、それがどのように撃退されたかを解説した。なおモタガトレスに騙されたことについては一言の言及もない。
「……南岸の要塞は堅牢です。努々油断なきよう」
フリードリッヒはトルケマダの忠告を鼻で嗤った。
「ディウティスク国軍と貴様の部隊とを一緒にするな。異端の女子供ばかりを狙って殺してきた連中とはわけが違うんだ」
「……頼もしいことです。確かに陛下とその軍の力があれば、ネゲヴの皇帝とその軍など鎧袖一触で打ち倒せましょう」
フリードリッヒは「その通り」とばかりに頷く。トルケマダは内心の嘲笑を隠しながら続けた。
「――それで、いつ攻めますか?」
「……何?」
フリードリッヒの困惑に構わず、トルケマダは攻勢に転じる。
「ディウティスク国軍の力を持ってすればネゲヴ軍など鎧袖一触なのでしょう? ならば攻めない理由はないのでは? まさかとは思いますが、自分ができもせずやるつもりもないのに、ネゲヴ軍と勇敢に戦って死んだ我が将兵を侮辱したわけではありますまい。ネゲヴの皇帝と戦って天に召された神の使徒を侮辱した等と、枢機卿アンリ・ボケ猊下がもし耳にお入れになったらどのようにお思いになることか。あるいは異端として告発されることも……いえ、陛下にとっては関係のないお話でしょうが」
フリードリッヒは悔しげに呻くだけで意味のあることを何も言えない。トルケマダの攻勢は続いた。
「ナハル川南岸には一億アンフォラの麦が貯蔵されているという噂です。実際にはその十分の一だとしても実に一千万アンフォラ。もし獲得できたなら、飢えに苦しむ我が軍にとっては天の恵み、干天の慈雨となりましょう。我が軍の勝利を決定づけたとして、その功績はヴェルマンドワ伯を抜いて第一となるに違いありません」
トルケマダは話術を駆使し、飴と鞭を使い分けてフリードリッヒを誘導する。経験不足のフリードリッヒでは、トルケマダによって刺激された野心や功名心を抑えることができなかった。危険や無謀な点について自覚はあったが、若さがそれを軽んじたのである。
「……判った、準備が整い次第攻撃を実行しよう」
気が付けばフリードリッヒはそれを確約していた。フリードリッヒの側近が歯を軋ませる一方、トルケマダは満足げに頷いている。
「それでは私は陛下を援護するために、陛下の攻勢と同時にトズルを攻撃します。敵に対する囮となりましょう」
トルケマダは恩着せがましくそう告げる。トルケマダが意図しているのは逆であり、フリードリッヒを囮としてトズルを抜くことだった。フリードリッヒもそれは理解していながら何もできない。
「そうか、頼りにしているぞ」
「お任せください」
トルケマダは慇懃に深々と頭を下げた。
……トルケマダが去った後、フリードリッヒは側近や軍団長に取り囲まれた。
「陛下、どうかご再考を。何の策もなしに攻勢に出るなど無謀です」
「せめてヴェルマンドワ伯の到着を待つべきです」
彼等は口々にフリードリッヒの決断に異議を唱え、翻意を促した。が、フリードリッヒはかえってそれに反発した。トルケマダに誘導されて攻勢に出ると言わされたのは確かに屈辱である。が、部下に言い負かされてそれを覆すのは屈辱を重ねることでしかなかったのだ。
「我が軍に食糧がどれだけ残っている? ヴェルマンドワ伯の到着までそれが持つのか?」
フリードリッヒの指摘に部下達が沈黙する。喉から手が出るほど食糧がほしいのは誰にとっても同じだった。
「敵の半分は素人で残りの半分は金目当ての傭兵、つまりは烏合の衆だ。我がディウティスク国軍の敵ではない! 準備を進めておけ」
フリードリッヒの決断に部下達は頭を垂れるしかない。フリードリッヒが立ち去った後、部下達は不安げな顔を見合わせた。
「……どうする?」
「どうもこうもないだろう。陛下が命を下した以上は戦う他ない」
「確かに、陛下の言われる通り食糧不足は深刻だ。このままでは戦う前に我が軍が潰えかねない」
「ネゲヴの皇帝の首を取れればこの戦争はそれで終わりだ」
確かに不安は大きい。だが戦わないという選択肢がもうない以上、彼等にできるのは危機感と野心を膨らませて不安を乗り越えることだけだった。
月は変わってアブの月(第五月)。ディウティスク軍を中心とする聖槌軍が渡河作戦の準備を進めており、その一方でトルケマダはトズル方面へ移動を開始した。
「三万程度の聖槌軍がスキラを出立、西へ移動中」
野戦本部のアミール・ダールの元にその報告を持ってきたのは、北岸に送り出していた騎兵隊の伝令である。
「この部隊は西側の森に到着しても木には目もくれず、西に向かって進み続けているそうだ」
「トズルか」
誰かの言葉に一同が頷いて同意した。
「おそらくは。敵は次の渡河作戦の準備を進めている。それと呼応してトズルを攻略するつもりなんだろう」
「ともかくトズルへ連絡を。あとはマグド殿に任せておけばいい」
一方、総司令部でその報告を聞いた竜也は、
「トズル方面の状況も確認したい。次の戦闘は将軍マグドの元で観戦させてもらう」
と指示を出した。
アブの月の初旬、竜也は連絡船を使ってトズルへとやってきた。竜也に同行するのはサフィールやバルゼル等、近衛隊の面々だ。竜也を出迎えるのはマグドと奴隷軍団の幹部達である。その中のライルという年齢不詳の女性の姿が竜也の目を惹いた。奴隷軍団がトズル砦に配置された頃から、ライルは秘書官兼愛人としてマグドの側に侍るようになったという。
「ようこそトズル砦へ! 歓迎しますぜ、皇帝」
マグドに先導され、竜也達はトズル砦へと続く山道を登っていく。道幅は数メートル、周囲よりも道の方がU字型に一、二メートルほど低くなっている。
「まるで水の涸れた川みたいな道だな」
「多分、昔は本当に川だったんだ。地震か何かで地形が変わって上流が塞がれ、水が涸れたんだろう」
「その地形をもう一回変えたわけか」
竜也の言葉にマグドは無言のままニヤリと笑った。
その山道には複数の関門が建設されていた。石材を積み上げて作った山城にも等しい関門が五つ。馬防柵や土嚢、茨の木を積んだだけの簡易的な関門が一〇。竜也は順番にそれを通り抜ける。
「山道を外れて回り込まれることはないのか?」
「山の中の獣道には罠を仕掛けてある。完全には防げないだろうが、後は見回りで対処するしかないな」
竜也の質問にマグドはそう答えた。
「何、この藪の中では大軍の展開は不可能だ。それより全兵力を関門にぶつけてくる敵の方が厄介なんだが、そいつ等にはあれを使う」
竜也達は山を登り切り、山頂へとやってくる。西を見れば広大なスキラ湖の西側が眼下一面に広がり、東を見れば今登ってきた山道が山を貫くように延びているのがよく見えた。そして山腹に、山を回り込むように運河が掘られているのが見える。
「あれがそうか?」
「そうだ。スキラ湖に流れ込む川の流れを変え、堰を築いてある」
竜也は山頂から堰の姿を見る。堰の内側には小型ダムくらいの水が溜め込まれており、竜也は「大したものだ」と感想を漏らした。
「あれだけの水が溜まるのに何日かかった?」
「半月は必要だ」
竜也は難しい顔で考え込む。
「……それはちょっと厳しくないか?」
「何、やりようはあるさ。戦争ってのはいつでもどんな戦いでも厳しいもんだ」
砦周辺の視察を終えて竜也達は砦内の野戦本部に案内され、早速作戦会議が開始された。
「聖槌軍三万がこちらに接近している。あと数日で到着するだろう」
「別に変わった作戦があるわけじゃない。この要塞を使って敵を撃退する、やるべきことはそれだけだ」
「敵には第五騎兵隊を貼り付かせている。タイミングを合わせて敵の後背を突かせようと思っているんだが」
「そいつは有難い。タイミングについてはお任せいただけますかい?」
「もちろんだ」
作戦会議の内容は基本的な戦略と各自の任務の確認くらいのもので、割合早々に終了した。そして会議終了後。
「武器を用意した。将軍マグドに使ってもらおうと思う」
竜也がそんなことを言い出した。マグドは「ほう」と小さく驚き、奴隷軍団の幹部達は「名誉なことだ」と喜びを見せている。
竜也が視線で命令を下し、近衛隊の一人が箱を運んできた。箱の大きさは長さ一メートルにも満たず、マグド達は不思議そうな顔をしている。テーブルの上にその箱が置かれ、竜也がそれを開封した。
「これは……」
「義手ですか?」
その箱に入っていたのは鋼鉄製の右腕、肘から先の義手だったのだ。竜也がその義手を手に取って得意げな顔をする。
「見ての通り鋼鉄製だ、剣だって打ち払える。さらに」
義手の手首が折れ、そこにできた穴から白く輝く鋼のドリルが飛び出してきた。飛び出した勢いでドリルがぐるぐる回っている。
「さらにさらに」
と竜也が義手を壁へと向ける。義手の手首の穴から今度はダーツが射出された。ダーツには羽が付いておらず、形としては鉄の串、鉄の杭だ。ダーツは丸太を組んだ壁に突き刺さった。その威力に幹部達が「おー」と感嘆する。
「どうだ? 使えそうだろう?」
と竜也は得意満面、サフィールは「格好いい」と目をキラキラさせている。が、肝心のマグドの顔は引きつっていた。
「……あ、ありがとうございやす。早速使わせていただきやす」
引きつった顔のままマグドは何とか礼を言い、その義手を受け取る羽目となった。
そして二日後。
「来たか」
トズルの山頂に築かれた砦から竜也は山腹を見下ろしている。そこにいるのは細い山道を埋め尽くしている聖槌軍だった。聖槌軍は最初の関門攻略に取りかかっている。
「進め! 進め! 神は天上からお前達の戦いを見守っている!」
「あの砦には食糧が山ほど貯め込まれている! 砦を落としたなら好きなだけ食わせてやるぞ!」
トズル攻略軍を指揮するのはトルケマダ、それをモネリーとアールストが補佐した。総勢三万のうち二万は渡河作戦にも参加した元からの兵。一万はフリードリッヒに貸してもらったり、ユーグを待って待機していた他国の部隊を集めたりしたものだった。トルケマダは異端審問をちらつかせるなどして、強引な手段でこの一万を集めていた。
「ネゲヴに来てからは部下に仕事を与えられず、彼等も暇を持て余しているのですよ。そろそろ彼等に本来の仕事をさせなければ、せっかく磨き上げた技術も腕も錆び付かせてしまいます。それはあまりにもったいないでしょう?」
トルケマダはエレブで猛威を振るった部下の処刑執行人を聖槌軍にも同行させていた。彼等の得意技は焚刑において、処刑囚の意識を失わせず弱火でじっくり焼き続け、最大限の長時間最大限の苦痛を与えることだった。
「進め! 進め! 戦え! 戦え!」
(私には後がないのだ、何としてもここで勝たねば!)
フリードリッヒを動かすにしても兵を集めるにしても、かなりの無理をしていることをトルケマダは自覚している。返済できる当てのない巨額の借金をして博打に臨んでいるようなものである。負ければ何もかもを失うことだけは確実だった。
「勝てばいいのだ! 勝てば! 勝てば全ては我等のものだ!」
追い詰められたトルケマダは生まれて初めてと言っていいくらいに生命を懸けて、全てを賭けてこの戦いに挑んでいた。その意気込みが伝わっているのだろう、兵の士気もいつになく高くなっている。聖槌軍の兵士は死をも怖れず突き進んだ。
関門の上からはマグド配下の奴隷軍団が銃や矢で聖槌軍を攻撃。聖槌軍は盾で防御し、銃や矢で奴隷軍団に対抗した。エレブ兵はばたばたと倒れていくが、味方の死体を踏み越えてエレブ兵は前へ前へと進んでいる。竜也は敵兵の気迫に呑まれそうになっていた。
「……連中、思ったよりずっと強い」
「正直、見積もりが甘かったかもしれんですな」
足が地に着いている限り、エレブ兵は決して弱兵ではなかった。ナハル川での敗北の鬱憤を晴らすかのように突進し、第一の関門へと取り付いている。組体操のようにエレブ兵の肩にエレブ兵が乗り、味方を足場にして関門を乗り越えんとする。ヌビア兵は矢を放ち、槍を振り回してエレブ兵を突き落とした。そのヌビア兵にエレブ兵が剣を突き刺し、両者が諸共に落ちていく。ヌビア兵も必死に防戦するが、被害は次第に大きくなる一方だった。
「やむを得ん、あの関門は捨てるぞ」
副団長のシャガァの指示により関門から兵が撤退。関門には火がかけられた。用意されていた薪や油が使われ、火はあっと言う間に関門を包んでしまう。関門は巨大な炎となり、壁となって聖槌軍の進軍を阻んだ。関門が燃えている間に奴隷軍団は体勢を立て直している。
マグドは目を瞑り、長い時間考え込んでいたが、やがて刮目し命令を下した。
「あれを使うぞ。関門から兵を引け、関門を開け放て」
竜也は驚き、問い返した。
「こんなに早く?」
「この調子で全ての関門が突破されるまで我慢していたら、味方の損害があまりに大きくなる。ここはあれで一気に蹴散らし、トズルが絶対に突破できないのだと奴等に骨の髄まで叩き込むべきだ」
そしてしばしの後、ようやく第一の関門が焼け落ちたのでトルケマダは進軍を再開した。だが、
「……どういうことだ?」
「敵がいないぞ」
山道の関門からヌビア兵が撤退、関門の扉は開け放たれたままとなっている。不審に思いながらも無人の第二の関門を通過。第三の関門に到着するが、そこもまた完全に無人、門扉も開け放たれた状態となっていた。
「何かの罠ではないのか?」
「確実に罠だな」
モネリーとアールストが頷き合っており、トルケマダもそれには同意した。だが、
「そんなことは判っている。だが『敵の罠が怖いから』と、このまま逃げ帰るのか? 何も手にしないままで終わるのか?」
トルケマダの言葉にモネリー達は沈黙する。このまま撤収するという選択は最初からあり得ない、ならば前に進むしかないのだ。
「斥候を送り出せ! 決して油断するな!」
トルケマダは偵察を厳重に実施した上で全軍に前進を命じた。エレブ兵は姿を見せないヌビア兵や人気のない関門に戸惑っているが、それでも先へと進み続けた。
そして、トルケマダが最後の関門を通過する。トズル砦はもう目前である。
「よし、再集結だ」
トルケマダは全軍の再集結を命じた。それが完了すれば即座に砦への総攻撃が始まるだろう。だが、
「な、なんだこの音は」
これまで聞いたことのない、謎の轟音と地響き。遠方から聞こえてきたそれが段々近付いてくる。どんどんその轟音が大きくなっている。そしてついにその正体が明らかとなった。
「み、水が!」
膨大な水が奔流となって聖槌軍へと突き進んでいる。土砂や丸太を大量に含んだ、水量数万トン、時速数十キロメートルの水流だ。それが真っ直ぐに聖槌軍へと向かってきている。
「に、逃げろ!」
反射的に命じるトルケマダだが、狭い山道に三万の兵がひしめいておりどこにも逃げようがない。奔流は立ち往生する聖槌軍に真正面から襲いかかり、三万の軍団が一瞬にして崩壊した。全員が水に流され、ある者は水に溺れ、ある者は丸太にぶつかって骨を砕かれ、ある者は流れ転がる岩石に潰され、ある者は土砂に埋もれた。
水は十数分で流れ去り、それと一緒に聖槌軍の大半も流された。水が引いた後の山道に残っているのは、丸太や土砂、エレブ兵の死体、それに辛うじて生き残った敗残のエレブ兵だけだ。
「突撃! 敵を逃すな!」
さらに奴隷軍団の全軍が出陣、何とか生き残っているエレブ兵を次々と血祭りに上げていく。聖槌軍は指揮系統も戦意も維持できるはずがなく、武器を放り捨てて我先に逃げ出していく。奴隷軍団は潰走する聖槌軍に容赦の欠片もない追撃を加え、一人でも多くを殺すことに専念した。
「ひっ、ひっ……」
トルケマダも水に流されて山道をふもとまで流され落ちてきた一人である。奇跡的に大きな負傷はない。
「モネリーは……アールストは……ともかく味方の再集結を」
トルケマダは逃げ惑うエレブ兵を自分の周囲に集めようとした。山のふもとで何とか二、三千の兵を集めたトルケマダだが、
「ネゲヴ軍だ! ネゲヴの騎兵だ!」
再集結したトルケマダの軍に横撃を加えたのはカントールの率いる第四騎兵隊だ。自軍の敗北を悟ったトルケマダが真っ先に逃げていく。その有様でエレブ兵が抗戦するはずもなく、エレブ兵は散り散りとなって逃げ出した。トルケマダが率いる軍団は完全に壊滅状態となり、後は落ち武者狩りの段階となっていた。
「見たか!」
「何度でも来やがれ、間抜けども!」
三倍の敵を相手にしての完全勝利に、奴隷軍団は大いに沸き上がっている。将兵と一緒に浮かれそうになるマグドだが、何とかそれを我慢した。
「戦いはまだまだ始まったばかりだ! 兵を集めろ、すぐに堰を再建する!」