「黄金の帝国」・死闘篇
第三一話「ディアとの契約」
日が暮れても奴隷軍団の将兵は忙しく走り回っている。兵の半分は聖槌軍の生き残りを警戒して歩哨に立っており、もう半分は堰の再建のために流れ落ちた木材を回収していた。
竜也はマグドと共に騎馬で山道を進み、将兵の仕事ぶりを見て回っている。エレブ兵の死体がそこら中に転がっており、死体を集めて埋葬するのも兵の仕事だった。
「……? ツァイドさん、今の聞こえました?」
「ああ、聞こえた。もしかして今のは狼か?」
竜也は近衛に同行しているツァイドに訊ね、ツァイドは首をひねっている。竜也達が耳にしたのは狼か何かの、犬科の動物の遠吠えである。だがネゲヴに狼は生息していなかった。
偵察に行くべきか、とツァイドが考えている中、
「……生きて」「女が……」
今度は一部の兵が何か騒いでいるのが耳に届いた。竜也達はその騒ぎの方向へと馬首を向ける。竜也達が到着するとそこでは、数名の兵士が小柄なエレブ兵を地面に押さえつけているところだった。
「どうした? 何事だ」
マグドの問いに、兵士達は愛想笑いを浮かべて答える。
「へえ、エレブ兵の生き残りを見つけたんですが、こいつ女だったんで。どうせ殺すなら皆でいただいちまおうかと」
女が、と竜也は驚く。そのエレブ兵が何とか起き上がろうとするのを、兵の一人が思い切り頭を踏みつけた。
「やめろ!」
竜也が鋭く怒鳴り、兵士達は身体を硬直させた。一方竜也も、思わず止めたはいいもののこの先どうすべきか何も考えておらず、内心で右往左往していた。そんな竜也の窮状を察したのか、マグドが助け船を出した。
「あー、お前等。戦利品はまず皇帝に献上されるのが筋ってもんだ。お前等は今度俺が娼館に連れていってやる」
「本当ですかい頭?!」「期待してますぜ」
兵士達は口々にそんなことを言い、そのエレブ兵を竜也に差し出す。竜也は気絶したその兵をサフィールに受け取らせた。
竜也とサフィール等近衛隊は山頂の砦へと戻ってきた。皇帝と近衛専用の宿舎まで戻り、エレブ兵の世話をサフィールに任せ、部屋の外で待つことしばし。やがてサフィールが部屋から出てくる。
「すまない、どうだった?」
竜也の問いにサフィールが答える。
「はい。見たところ怪我はほとんどありません。多分水を飲んで気絶していただけでしょう。まだ意識は戻っていませんが、そのうち目が覚めると思います」
そうか、と竜也は安堵する。
「……あんな子供があんな身体になるまで従軍しているのですね、聖槌軍には」
サフィールの慨嘆に竜也は何も言えず、しばしの沈黙がその場を満たした。不意に空気を換えるようにサフィールが竜也に問う。
「ところでタツヤ殿、あの者をどうするおつもりですか?」
「いや、どうしよう」
と途方に暮れたような顔をする竜也。サフィールは呆れてため息をついた。
「マグド殿の言うように慰み者にされるのも結構かと思いますが」
「やらないって、そんなこと」
と竜也は手を振る。
「なら、奴隷として売りますか? 結構きれいな顔をしていたので高く売れると思いますが」
「それじゃ、助けた意味が……」
とぶつぶつ言う竜也に、サフィールが肩をすくめる。
「ともかく、助けたのはタツヤ殿です。処分もタツヤ殿が責任を持って決めてください」
サフィールは冷たくそう言い残し、その場から立ち去る。残された竜也はちょっと憮然としていたが、気を取り直してその部屋に入った。
部屋のベッドではエレブ兵が寝かされていた。竜也は未だ意識が戻っていない様子の、そのエレブ兵の顔を覗き込む。
「まだ子供じゃないか」
年齢は、ラズワルドよりは上だがサフィール達よりは下。元の世界で言えば中学生くらいか。骨と皮までに手足は細くなり、頬もこけているがそれでも確かにきれいな顔立ちである。栄養状態がまともならとびきりの美少女となるだろう。中途半端に伸びた髪は泥に汚れているが、汚れを拭うとその下からは見事な銀髪が姿を現した。
突然、少女――ディアの瞳が開かれる。エメラルドのような美しい碧眼に、竜也は心を奪われたように見入ってしまった。その瞳に怒りの炎が点ったかと思うと、次の瞬間には竜也の喉は鷲掴みされていた。
「……!」
声を出すことはもちろん、呼吸もまともにできない。ディアは竜也の喉を握り締めたままベッドから起き上がった。ディアが片手で竜也を持ち上げ、竜也の身体が半ば宙に浮く。ディアは空いた手で竜也の腰から剣を抜いた。
「抵抗すれば殺す。外に出る、案内しろ」
窒息寸前の竜也に抵抗できるはずもない。竜也は言われるままにディアを部屋の外に連れ出した。ディアはそのまま人気のない場所へと竜也に案内させるつもりだったのだろうが、その目論見は早々に崩れ去った。
「た、タツヤ殿!」「タツヤ殿が!」
部屋を出た途端、竜也達は近衛隊の剣士に発見された。近衛隊は剣を抜くが、ディアは竜也の身体を盾にしてその攻撃を阻む。両者は対峙したまま移動し、屋外へと出た。ディアを囲む兵士が急増する。
竜也の首を掴んだままのディアを牙犬族の剣士が包囲、さらにその外側を奴隷軍団の兵士が取り囲む。十重二十重に完全包囲され、ディアは舌打ちを禁じ得なかった。ディアにとって幸いだったのは、兵士が無理押しで攻撃してこなかったことである。ディアは試しに要求を出した。
「こいつを殺すぞ、道を空けろ」
兵士の視線がマグドへと集まり、マグドは忌々しげな顔をしながらも左手を振る。包囲の一角の兵が移動し、ディアの前に道が開かれた。自分で要求しておきながら、ディアは驚きに目を見張った。
「こいつ、何者だ……?」
ディアが自分の手の中の竜也を見つめる。隙とも言えないその瞬間、
「――!」
殺気を感じたディアが上空を振り仰ぐ。月の光を切り裂いて、白刃が流星のように落ちてくる。ディアは竜也を突き飛ばし、その反動を利用して転がるように全力で回避する。ディアと竜也の中間に、大地を叩き割って着地したのはサフィールだった。
「ちっ! 逃したか!」
屋根の上から全力で跳躍し、上方という死角からディアを斬り捨てる――サフィールの作戦は九割方成功した。竜也は近衛隊に保護され、ディアは人質を失っている。これであのエレブ兵は終わりだ、と誰もが思った。が、
「てえぇぃっ!」
ディアは未だ諦めていなかった。ディアはサフィールに剣を叩き付け、サフィールはそれを剣で受けた。ディアの攻撃の威力に、サフィールは後ろに飛んでそれを緩和する。ディアはそれにつけ込むように追撃を仕掛けてきた。
肩に担いだ状態から剣をプロペラのように振り回すディアと、それを流水のように受け流すサフィール。ディアは疾く、力強いが剣術をまるで知らないように見え、それとは対照的にサフィールは彼女に負けないくらいに疾く力強く、その上で精巧な剣術を有していた。両者の力量の差は歴然と思えたし、事実サフィールはディアの剣をはじき飛ばしている。
「もらった!」
無手のディアにサフィールの剣が襲いかかる。だがディアは一片の動揺すら示さず、振りかぶったサフィールの懐へと飛び込み、右拳をサフィールの腹部へと突き刺した。
「ぐっ……!」
はじき飛ばされるようにサフィールが後方に下がる。その口からは血がこぼれていた。
(この打撃は一体……)
その威力にサフィールは驚きを禁じ得ない。サフィールが体勢を立て直す間もなくディアは攻撃を続行した。
「あの子、まるで動きが違っている」
まるで剣が重荷だったかのようにディアの速度が、鋭さが上がっている。サフィールが剣術の修行に明け暮れていたように、彼女もまた無手の格闘術の鍛錬を続けていた、竜也にはそうとしか思えなかった。
二人の剣舞のような戦いにその場の全員が魅せられた。近衛隊もサフィールに助太刀することを忘れているし、他の兵士も同様である。一方竜也は二人の戦いを見守りながらある可能性について検討し、その答えに確信を得ていた。
ディアはフットワークの良さを生かし、小刻みな打撃をサフィールへと加え続ける。だがサフィールも牙犬族の剣士だ。何発食らおうとその程度の打撃は致命傷にはなり得ない。ディアが眉間をめがけて拳を放つが、煩わしげな顔のサフィールは自分から飛び込んでその拳を額で受けた。額が裂けて血を流すサフィールだがそれには構わず剣を一閃。ディアは飛ぶように大きく後退し、かろうじてその斬撃を避けた。
両者の距離が開き、闘いに一呼吸が置かれる。サフィールとディアの目には互いの手足しか映っていなかった。呼吸を整え、この敵を屠ることだけに精神を集中し、敵の隙をうかがう。両者が戦意を急速に高めていく、そのとき、
「サフィール、待て!」
両者の間に竜也が割って入った。気勢を削がれたサフィールは刺々しい声で竜也に告げる。
「また人質になるおつもりですか? タツヤ殿、お下がりを」
だが竜也はそれを無視し、サフィールと並んで少女へと向き直った。
「――君は、エレブの恩寵の民だろう? 多分銀狼族だ」
竜也の指摘に、少女はこぼれ落ちそうなくらいに目を見開いた。牙犬族の剣士や奴隷軍団の兵士に包囲されても震えなかったその身体が震えている。
「こ、殺せ……! わたしを殺せ!」
目に涙を溜めながら少女はそんなことを言い出した。サフィールは戸惑いながらも、
「無益な殺生はしない」
と剣を鞘に収める。少女は絶望を顔に浮かべると、足下の剣を拾い上げて自分の喉へと向けた。
「やめろ!」
竜也は怒鳴るが少女の腕は止まらない。その剣が少女の喉を切り裂く瞬間、
「――!」
目の前に雷が落ちたかのような轟音。少女は思わず尻餅をついていた。ふと手にしている剣を見ると、
「え」
刀身が斬り落とされ、柄しか手元に残っていない。少女は放心する他ない。その数メートル横では、
「ふっ、またつまらぬものを斬ってしまった」
とわずかに照れを見せつつそう言っているバルゼルが、剣を鞘に収めていた。
「さすがバルゼルさん」
竜也は安堵のため息をついた。ディアが自刃する寸前、バルゼルが飛び込んでその剣を烈撃の恩寵で断ち斬ったのだ。
「タツヤ殿、どうしますか」
「その子から話を聞きたい。近衛で拘束を、あまり乱暴にはしないように」
竜也の指示にバルゼル達が動き出す。止まっていた周囲の兵士達の時間も動き出しつつあった。
それからしばらくして、トズル砦の一角。地べたに座らされているディアと、それを取り囲む近衛の剣士達。ディアの前には竜也が立ち、その両脇にはバルゼルとサフィールが剣を抜いて控えている。マグドとライルは少し後方からその様子を見物していた。
「名前を教えてくれないか?」
竜也は問うが、ディアはふて腐れたように口をつぐんでいた。その竜也にサフィールが問う。
「タツヤ殿、どうしてこの子が恩寵の戦士だと判ったのですか?」
「恩寵を使っているサフィールと互角以上に戦える子に、恩寵がないわけないじゃないか」
エレブにいたとされる部族で竜也が名前を知っているのは銀狼族と灰熊族。少女の銀髪から「銀狼族だ」と当たりを付けたのだが、正解だったのは偶然みたいなものである。
サフィールはなるほど、と得心する。
「あの打撃も彼等の恩寵だったわけですか。どういう恩寵なのでしょう」
「確か、内撃という名前だったか」
と口を挟んだのはツァイドである。
「恩寵を拳や掌、蹴りに込めて撃っているそうだ」
ツァイドの説明の通り、銀狼族が有する内撃の恩寵は、不可視の力を拳打や蹴打に込めて攻撃対象に叩き込む技だった。手足が相手から離れていると恩寵の力を伝えられず、その点では使い勝手はよくはない。が、恩寵を使っていることが傍目には非常に判りにくい点は銀狼族の立場からすれば大きな利点である。それに、殺傷力や破壊力の面では烈撃の恩寵にも対抗できるだけのものがあった。
「エレブの恩寵の民は聖杖教に根絶やしにされたと聞いていたが」
というマグドの言葉に竜也が頷く。
「俺もそう聞いていた。多分、恩寵があることを隠して教会の目をごまかして、何とか生き延びたんだろう」
ディアの身体が小さく震える。竜也の言葉は間違っていないようだった。
「恩寵を持っていることが教会にばれたら火炙りになる。だから殺せと――いや、違うか。自分一人の問題なら逃げればいいだけのことだ。ということは、仲間がいる?」
ディアの顔からは完全に血の気が引いていた。どうやら彼女は嘘が苦手なようだ、と竜也は判断した。
「銀狼族の仲間……多分同じ村に住んでいて一緒に徴兵されたんだろう。自分が銀狼族とばれたら仲間も危うい。ああ、もしかしたら故郷の村に残っている仲間にも教会の手が」
「殺せ! 殺せ! 今すぐわたしを殺せ!」
ディアは泣き喚き、その場に伏した。サフィール達の非難がましい目が竜也に集まり、竜也は少し慌てた。
「ああ、ごめんごめん。俺達は君にも、君の仲間にも危険が及ぶようなことは絶対にやらない。約束する」
泣き伏していたディアが顔を上げる。竜也は笑いかけた。
「第一、俺達は教皇インノケンティウスから魔物呼ばわりされているヌビアの皇帝とその軍団だぜ? 俺達は聖杖教をぶっ倒すために戦っているんだ」
ディアがきょとんとした表情を竜也に向ける。
「……皇帝? 誰が?」
「俺が」
竜也が大真面目にそう答えると、ディアが竜也を睨み付けた。
「嘘をつくな。お前みたいなつまらない奴が皇帝なわけないだろう」
竜也は「そうは言っても」と苦笑する。
「ほら、ちゃんと角だって生えている。大人になったから生えてきたんだ」
竜也は自分の冗談に可笑しそうに笑うが、ディアは白けたような顔をした。
「お前の下手な冗談に付き合っている暇はない。わたしを殺せ、でなければ解放しろ」
「解放してもいいけど、条件がある」
竜也はそこで言葉を区切り、沈黙する。焦れたディアが「何だ」と続きを促し、竜也は条件を提示した。
「銀狼族の責任者と話がしたい。今聖槌軍内にいる銀狼族の全員を傭兵として雇いたいんだ」
ディアが「傭兵……」と呟き、殺気を込めた瞳を竜也へと向ける。
「お前、何をやらせるつもりだ」
「とりあえず情報収集。聖槌軍の現状、残っている食糧の量、食糧庫の場所、次の攻撃はいつか、兵が何を考えているか、ヴェルマンドワ伯の評判は、アンリ・ボケの評判は――判ったことは何でもいいから知らせてほしい。次に、情報工作。こっちが指示した内容の噂を聖槌軍内に広げるんだ。あとできれば、破壊工作。例えば食糧庫への放火とか、こちらの工作要員の道案内とかだ。破壊工作は非常に危険が伴う任務だから無理強いはできないけど、危険に見合うだけの報酬は約束する」
「ちょっ、ちょっと待て」
竜也が次々と仕事を提示するのをディアが止めさせる。ディアはしばしの間その仕事の内容を吟味し、
「……お前、本気か。本気でわたし達に味方を裏切れと」
「味方? 君にとっての味方って誰のことだ?」
不思議そうな竜也の問いにディアが言葉を詰まらせた。
「恩寵を持っていることがばれたら村ごと焼き払いに来るような聖杖教の教会が君や君の一族の味方か? 今の君にとって味方と言えるのは同じ銀狼族の仲間だけだろう。俺達ヌビア軍には見ての通り」
と竜也は牙犬族の剣士達を指し示す。
「数多くの恩寵の戦士が、恩寵の部族が加わっている。少なくとも俺達は君にとっての敵じゃない」
竜也の真摯な瞳がディアを見つめる。ディアの瞳は先ほどまでと比べれば敵意が大分薄れていた。
「いきなり味方だ、仲間だ、って言ったところで簡単には信じられないだろう。だからまず商売相手から始めよう。対等な立場で、取引をしよう」
ディアは気難しげに考え込んでいる。竜也はディアに笑いかけた。
「そう言えば腹が減ったな。食事を用意するから一緒に食べよう。食べたら君をここから解放する。仲間のところに戻って俺の言葉を責任者に伝えてほしい」
「――いいだろう」
ディアは短く答えを返す。竜也にとっては現状ではそれで充分な回答だった。
竜也はディアの向かいにあぐらをかいて座り込んだ。
「名前はまだ教えてくれないのか?」
「ディアだ。そう呼べ」
ディアはそう答える。
「ディア……うん、いい名前だ」
と微笑む竜也。ディアは無愛想にそっぽを向き、サフィールは何故か面白くなさそうな顔をしていた。
そこに兵が食事を持ってやってきた。戦争中の最前線の中なので、皇帝に出すものであっても決して豪華な食事ではない。用意されたのは乾パンみたいな固いパン、干し肉、果物、小麦粉を溶いた塩味のスープ、葡萄酒等だ。
竜也はまずコップに入ったスープを自分で飲んで見せ、そのコップをディアへと渡した。ディアは最初は恐る恐るスープを口にし、すぐに一気に飲み干してしまう。パンや干し肉も最初は竜也が毒味して見せていたが、やがてそれが煩わしくなったディアは出されたものを即座に片っ端から飲み込んでいった。
「くっ……おいしい」
と涙ぐむディア。
「いや、まだまだあるから」
涙を拭いながらディアは出されたものを食べ続ける。小食な竜也の十倍くらい食べて、ようやくディアは満腹になったようだった。
「ははは、食い過ぎても気持ち悪くなるんだな。生まれて初めて知ったぞ」
食べ過ぎて動けなくなったディアはその場に寝転がり、大の字になった。今死んでも何一つ悔いはないくらいの笑みを浮かべている。竜也とサフィールは困ったような顔を見合わせた。その竜也に寝転がったままのディアが問う。
「お前、こんなおいしいものを毎日食べているのか」
「今日の食事は戦地で用意されたものだから特別上等でもおいしいわけでもないぞ」
竜也の言葉に、ディアは起き上がって真剣に考え込む。そして、
「お前、本当に皇帝だったんだな」
そんな納得の仕方をされても、と竜也は思わずにはいられない。だがディアはより一層真剣になり、
「お前が皇帝なら、ネゲヴに銀狼族のための村を、銀狼族の全員が移住できる村を用意することはできるか?」
「用地を用意するのはそんなに難しくない。開拓は自分達でやってくれるか? でも、どうやってエレブからヌビアまで村人を移動させるかは問題だぞ。ヌビアの中なら何とでもなるが、エレブまではまだ手が届かない」
ディアは「確かに」と呟き、次いで頭を振った。
「今そこまで考えても仕方ない、まずは皇帝」
ディアが立ち上がったので竜也も立ち上がる。ディアは傲然と胸を張った。
「わたしはお前の取引の申し出を受ける。銀狼族はネゲヴの皇帝に傭兵として雇われてやる」
が、竜也は苦笑未満の中途半端な表情をする。
「いや、君がそんなことを決めても……責任者に伝えて皆で考えてくれないと」
ディアが竜也のすねに蹴りを入れ、竜也は痛みに飛び上がった。
「わたしが銀狼族の族長、ディアナ・ディアマントだ」
ディアは不満げに頬を膨らませる。が、竜也は戸惑うばかりである。
「族長? 君が?」
「犬耳や尻尾が生えていたら信じてくれるのか?」
そういうわけじゃ、と呟く竜也。ディアが嘘を言っているようには見えないが、容易に信じられることでもない。その竜也に「そう言えば」とディアが提案した。
「一族の者がわたしを探してこの近くに来ているはずだ。その者達を呼ぶことにしよう」
……それからしばらく後。ディアの提案を受け、竜也は近衛隊を連れてトズル砦を出て山の中腹に移動した。
「わたしの村はディウティスクの山奥にある。割合近くに五個くらいの村があって、全部合わせれば村民は千人になる。その全員が銀狼族だ」
道中竜也はディアの事情を色々と聞かせてもらっていた。ディアの生まれ故郷はレモリアとの国境に近いディウティスクの南端に位置する。元の世界で言うならオーストリアの南端になるようだ。
「わたし達の村は周囲から魔物の村ではないかと疑われていて、以前から領主に目を付けられていた。領主がどんな無理難題を出しても絶対に逆らわずに従順し、攻められる口実を与えないことで何とか生き延びてきたのだ。このネゲヴ遠征では領主から、村人一〇〇人につき四人の兵を出すよう命令があって、わたし達は必死に四〇人を揃えて出征させたのだ。……本当はわたしの父が出征するはずだったのだが病気で死んでしまったのでな、代わりにわたしが男の振りをして出征した」
男の振りをするために短く切った髪は、今は中途半端に長くなっている。だがディアというこの少女にはそのワイルドな髪型がよく似合っているように思われた。
「わたしはこんな体格だから簡単に水に流されてしまったが、他の皆は大人の男だ。あの程度の水流で溺れ死ぬはずがない。きっと皆無事でいてくれる、そのはずだ」
不意に、ディアが立ち止まって一同を制止する。ディアは目を瞑って両耳に手を当て、耳を澄ませた。
「――来ている」
ディアは大きく息を吸い込み、
ウゥゥルルォォーーーンン
と遠吠えを上げた。それは狼の遠吠えそのものとしか思えない。すぐ近くでいきなり耳をつんざく遠吠えをされ、竜也は度肝を抜かれた。近くの梢の葉がびりびりと震えている。こんな小柄な少女がどうやったらこれほどの声量を出せるのか、竜也は不思議に思うしかない。
遠吠えをして、待つことしばし。かなりの遠方から別の狼の遠吠えがかすかに聞こえてきた。ディアがもう一度遠吠えをする。少し待つと、数方向から狼の遠吠えが聞こえている。声が聞き取れるようになっており、接近していることが判る。
少し時間を置いて、ディアが三度目の遠吠えをする。遠吠えはそれ以上必要なかった。山道の向こうから、藪の中から、エレブ人――銀狼族が三々五々現れてくる。
姿を現し、竜也達の前に立っている銀狼族は一〇人くらい。全員粗末ながらも槍や剣を手にしている。さらに周囲の藪の中にもまだ何人かが潜んでいるようだった。一方それに対する竜也側は、近衛隊の牙犬族がバルゼル・サフィール他六名と、奴隷軍団の兵が同数。戦力的に不利は否めず、近衛隊は神経を尖らせた。
「ディア様、よくご無事で」
ディアが先頭の年長の、四〇代くらいの銀狼族と会話を交わす。
「心配かけてすまなかった、ヴォルフガング。他の皆は無事か?」
「はい。全員の無事を確認しています」
ディアは安堵のため息をついた。ディアにヴォルフガングが質問する。
「ディア様、その者達は一体」
「ああ、ちょっとばかり世話になった。ネゲヴの皇帝だそうだ」
銀狼族はわずかにざわめき、戸惑いの表情を見せた。竜也が皇帝だとはとても信じられないようである。その彼等の前に竜也が進み出る。
「ヌビアの皇帝、クロイ・タツヤだ。今回俺は族長のディアにある取引を申し出、ディアはそれを受けると言った。だがこの取引は聖槌軍に加わる銀狼族全員の生命に関わる問題だ。もう一度全員でよく話し合って、受けるかどうかを改めて答えてほしい」
竜也は銀狼族全員を傭兵として雇いたい旨、情報収集・情報工作・破壊工作の各任務の内容を詳しく説明した。情報収集・情報工作はこの戦争が終わるまでの期間契約とし、報酬は通常の傭兵契約の数分の一の金額を提示。破壊工作については任務一回につき別途報酬を払うことを約束した。
竜也の説明が終わり、銀狼族の男達はヴォルフガングを中心に額を寄せ合い、話し合っている。傭兵契約についてはそれほど否定的ではないが、聖槌軍を完全に敵に回すことに対して躊躇している様子だった。
その優柔不断さにディアが苛立ちを見せる。
「……お前達。族長のこのわたしが受けると決めて返答したことなのだぞ」
「しかしディア様。このような重大事、簡単に決めていいことではありません」
が、ディアはヴォルフガングの言葉を鼻で笑い、
「お前達、これを見てもまだそんなことが言えるか?」
と兵士に持たせていた荷物を広げた。銀狼族に、
「おお……」
と感嘆が広がる。そこにあるのは乾パン・干し肉・葡萄酒等の食料だった。
「毒など入っていないことはわたしが確認済みだ。お前達も食べるがいい」
逡巡していた時間はごくわずかだった。差し出された食料に銀狼族が飛びつく。藪の中からも銀狼族の戦士が出てきて食料の奪い合いに参加し、食料はあっと言う間に食い尽くされてしまった。満腹には程遠い様子の男達に、ディアが勝利を確信しつつ告げる。
「傭兵契約を結ぶなら我等に充分な食料を提供することを、皇帝は約束してくれている」
「契約の申し出を受けましょう」
ヴォルフガングは刹那の間も入れずに即答した。
竜也はディアを連れてトズル砦へと戻り、ディアにはヴォルフガング以下三名の銀狼族が同行した。そして夜が明けて翌朝、竜也は船を使ってサフィナ=クロイへと戻ることにする。
「俺達ヌビア軍と聖槌軍内の銀狼族との連絡役として、あなた達のうちの誰かに俺達の町に来てもらいたいんだが」
竜也はディア達にそう提案した。
「あの遠吠えがあれば互いに連絡を取り合うのも難しくはなさそうだし」
「ああ、確かに」
とディアは誇らしげに頷く。銀狼族の遠吠えは、聖杖教徒の弾圧の中で生き延びてきた彼等が長年磨き上げてきた技能だった。遠吠えの種類で「危険」とか「安全」とか「集まれ」とか簡単な意思疎通ができ、条件がよければ一〇スタディア遠方からでも聞き取ることが可能である。
「ナハル川かスキラ湖の岸辺の人気のない場所を合流地点に決めて、遠吠えで互いの安全を確認した上で接触するとかすれば……それで、誰が来てくれるんだ?」
ディアとヴォルフガングが顔を見合わせる。ディアが何か言おうとるするが、ヴォルフガングが先制した。
「ディア様、お願いできますか」
「だが」
と反射的に抵抗するディアにヴォルフガングが続ける。
「ディア様は村全体でネゲヴに移住できないかお考えなのでしょう? ならば、移住できるかどうか、できるとして、それが銀狼族の命数を長らえさせることになるのか否か――その目で直接ネゲヴの現状を見、ご判断いただきたい。ディア様以外の誰がそれを判断できるというのです」
ディアは「ぐ」と詰まり、ヴォルフガングの言葉を噛み締めるように考え込む。やがてディアは顔を上げた。
「……判った。銀狼族の未来がそこにあるのかどうか、この目で確かめてこよう」
ディアの言葉に、ヴォルフガング達は「お願いします」と頷いた。
竜也やサフィール、ディアを乗せた連絡船がトズルを出、サフィナ=クロイへと向かう。舳先に立つディアはまだ見ぬ町を、銀狼族の未来をその目に見据えていた。