「黄金の帝国」・死闘篇
第三二話「女の闘い」
サフィナ=クロイのゲフェンの丘の上には町の名前の元となった船が設置されている。皇帝の公邸、竜也の私的空間という扱いのその船は、女の園だった。
主人の竜也がただ一人の男で、それを取り巻く女性がファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール。ファイルーズには自分付きの女官十数人を船に置いていて、ラズワルドもまた白兎族の女官十数人を船に常駐させている。ミカにも自分付きの女官はいるがその数はほんの二、三人。カフラ付きのメイドも同数。船を内側から警護する牙犬族の女剣士達は形式上はサフィールの部下で、その数は五、六人だった。
さらに四〇人ほどのメイドが炊事掃除洗濯等の下働きに勤めている。スキラ近隣から集められた彼女達は全員が若く見栄えがよく身元が確かで、さらに竜也に対して害意を抱いていないことはラズワルドのお墨付きである。
八〇人以上の人間が、しかも女ばかりが集まれば派閥ができるのは必然だった。最大派閥はファイルーズとその女官を主軸とする一派であり、それに対抗するのがラズワルドとその女官を主軸とする一派だ。当初両者の勢力は拮抗していた。が、ソロモン盟約改訂や人事辞令発令、それに伴う竜也とファイルーズの結婚発表。これにより船の中の勢力図も大きく変貌する。
「ファイルーズ様は既に第一皇妃。その一方あの小娘は予定にもなっていない第二皇妃でしかないのですよ? どちらが上か考えるまでもないでしょう?」
ファイルーズの女官はメイド達をそう口説き落とし、自分達の派閥に組み込んでいく。メイドを取られた白兎族は人手不足に悩み、自分達が下働きをする羽目になっていた。炊事だろうと掃除だろうと、それをすること自体は恥でも何でもない。だがその姿をファイルーズの女官に見られ、嘲笑されるのはこの上ない屈辱だった。
「お嬢様、何とかしてください」
白兎族の女官達はラズワルドに泣き付く。ラズワルドとしてもファイルーズ派に大きい顔をされるのは不愉快だったので、何とかすることを考えた。
「敵に回ったメイドの落ち度を見つけて、一人一人追い出していけばいい」
ラズワルドの恩寵を使えば造作もないことだが、
「いくら何でもそれは……」
「ただでさえわたし達はメイドから怖がられているのに、ますますメイドが逃げていきます」
と白兎族の女官が懸命に説得、
「……判った、別の方法を考えておく」
何とかラズワルドを思い留まらせることができた。ラズワルドはその足でベラ=ラフマの元を訪れた。
「何か方法を考えて」
いきなり要求されたベラ=ラフマだが、白兎族の地位に関わる問題なので真剣に対策を検討する。
「……敵に回ったメイドの落ち度を探り出して、一人一人追い出していけば」
「それはダメ出しされている」
第一案を却下されたベラ=ラフマはさらに検討するが、
「……正直、いい対策が思い浮かばない」
「そう」
ベラ=ラフマの答えにラズワルドは失望した。だが、
「ここはもっと適切な人間の知恵を借りることとしよう」
「適切な人間?」
「皇帝タツヤだ」
ベラ=ラフマはこともなげにそう答えた。
それから数刻後、竜也の元を訪れたラズワルドとベラ=ラフマが仕事の話と世間話のついでに、
「白兎族がメイド達に怖れられているために人手が集まらず、困っています」
と状況を説明し、相談する。ファイルーズ派が人手を奪っていることや、彼女達が目障りで仕方がない等とは、思っていても口にはしない。
「……メイドであっても公邸で働くのはかなりのステイタスになることだし、給料だっていいんだから人手に事欠くことはないはずなんだが……ステイタスってのを前面に押し出すべきかも。『白兎族に選ばれているのは絶対に皇帝を裏切る心配のない、精鋭だ』と。あとはそれを判りやすく示すために制服を揃えれば」
「なるほど、近衛隊と同じことですか」
竜也の発想にベラ=ラフマは感心する。思考回路が謀略や粛清に特化したベラ=ラフマ達には出てこない対策案である。
「メイドの制服はどんなの? ――うん、判った」
竜也の思考を読み取ったラズワルドが勝手に納得する。竜也が止める間もなく二人は執務室から退室し、数日後には元の世界のメイド服姿のメイドが船に登場した。
黒のオーバーニーソックス、黒のエプロンドレスと白のエプロン、黒のリボンに白のカチューシャ。メイド達は可愛らしいメイド服に恥ずかしそうにしているが、誇らしげでもあった。
「みんななかなか可愛いな。華やかでいい感じだ」
と喜ぶ竜也と、満足げなラズワルド。一方のファイルーズ派は内心穏やかではない。
「あの小娘の一派が勢力を盛り返していますわ」
「せっかく追い詰めていたのに……わたし達も何か考えないと」
「確かにあの服は可愛らしいし、ちょっと着てみたいけど」
女官達の緊急会議を黙って聞いていたファイルーズだが、
「だからと言って、ラズワルドさん達の真似をするのは面白くありませんわ」
と口を挟む。女官達もそれには同意し、結局その日の会議では結論は出なかった。トルケマダに対する謀略が仕掛けられるのはその直後である。
「女官達を、ですか?」
「ああ。彼女達に明日の作戦を手伝ってほしい。絶対に信用のできる女官を五、六人選んでほしいんだ」
竜也のその要請に、ファイルーズは少し首を傾げて問うた。
「ラズワルドさんの方には頼まないのですか?」
竜也は気まずそうに目を逸らしながら、作戦に使うベリーダンスの踊り子みたいな衣装を取り出した。
「……その、こーゆー服を着てもらうんだが、白兎族は……ああだから」
白兎族の女性は脂肪の付きにくい体質のようで、スレンダーな体型の者ばかりだった。竜也の説明にファイルーズは完全に納得する。
「判りましたわ。特に信用がおけて、スタイルのよい者を選べばいいのですね?」
こうしてファイルーズに負けないくらいにグラマーな六人が選ばれ、お芝居で竜也に侍ることとなる。お芝居の終了後、
「皇帝は豊満な女性が好みです! ファイルーズ様、わたし達はこの路線で行きましょう!」
熱帯のケムト育ちであるため、女官達は肌の露出に大して抵抗を持っていない。ファイルーズも女官達の主張を入れ、その日以降ファイルーズの女官達は全員で踊り子みたいな露出の多い衣装を身にすることとなった。
「なかなか華やかでしょう? タツヤ様」
「あー、確かに」
ファイルーズにそう訊かれ、竜也は頷くしかない。実際には目のやり場に困っていたのだが。
一方のラズワルド一派は、
「お嬢様、あの者達に負けたくありません!」
と等しく悔しさを噛み締めている。ラズワルドとその女官達はいつになく心を一つにしていた。
「……あの路線で勝負しても勝てない。わたし達はわたし達の路線で戦うしかない」
「はい、その通りです」
ラズワルド一派は、白兎族の女官も全員メイド服を着ることにした。スカートの丈は膝上十数センチメートル、この世界では画期的なミニスカートである。ますます目のやり場に困るようになった竜也はそっぽを向いて壁の染みでも数えているしかない。
ラズワルド一派とファイルーズ一派の対立はあさっての方向に流れたまま勢力を拮抗させる。膠着した事態を流動化させたのは、別勢力の介入だった。
ミカが総司令部で兵站担当官補佐として仕事をしている最中、突然ラズワルドが訪ねてきた。
「話がある」
と言うので応接室に移動し、ミカはラズワルドと二人きりで対面する。考えてみれば、ラズワルドとの付き合いも短くはないが二人きりで話したことなど数えるほどしかない。ミカは居心地が悪そうに座り直しながらも、
「それでラズワルドさん、話とは?」
と口火を切った。
「……わたしとミカで同盟を組む。それであの女を圧倒できる」
「同盟? ファイルーズ様に対抗するために、ですか?」
戸惑いながらのミカの確認にラズワルドが頷いた。ミカはますます戸惑うしかない。
「わたしは別にファイルーズ様と対立しているわけではありませんし、対抗するつもりも……」
「第三皇妃になるのならあの女と対立することになる」
「皇妃」の単語にミカは大いにうろたえた。
「こ、皇妃などと、わたしはそんなこと……」
赤面し、にやけ顔になり、頭を振って妄想を打ち消すミカの醜態を、ラズワルドは白けたような目で見つめている。
「別にわたしは認めたわけじゃない。それにタツヤだって皇妃を増やすつもりは全然ない」
ラズワルドの言葉に頭が冷えたミカは、表情を取り繕ってラズワルドへと向き直る。
「ならば何故そんな話を?」
「ミカの立場を考えれば、ミカとタツヤの気持ちは関係なしに、いずれ皇妃に収まるしかない……って言ってた」
誰がだ、と突っ込みを入れたいミカだったがそれは置いておいて、ラズワルドの説明はミカにも充分理解できる話である。ミカはアミール・ダールの愛娘であり、アミール・ダールはヌビア陸軍の総司令官である。竜也はアミール・ダールの懐柔のために、アミール・ダールは自分の立場の確保のために。双方が婚姻という結びつきを求めるようになるのは政治的には必然だった。
「……確かに言われる通りです。わたしが皇妃となることはアミール・ダール一門にとって大きな利益となりますし、皇帝にとっても損な話ではありません」
ミカは自分の気持ちを切り離して現状を冷静に分析する。
「もしわたしが皇妃となったら……ああ、なるほど。確かにファイルーズ様とは対立することになるかも」
ケムトの王女のファイルーズに対し、ミカはエジオン=ゲベルの王族であり、太陽神殿の巫女であるファイルーズに対し、ミカは陸軍総司令官の娘である。血統の点・政治の点でファイルーズに対抗し得るのはミカしかいない。問題は「対抗するつもりがあるのか」ではない、「対抗し得る力があるのか」なのだ。そのつもりがなくとも力があれば警戒される、それが本当の対抗・対立へとつながっていくことは政治の世界では珍しくも何ともないことだった。
「そこは上手く対立を煽る……って言っていたから、思う存分あの女と殺し合ってくれればいい」
とラズワルドは得々と説明した。
「共倒れになって一緒に潰れてくれると一番嬉しい」
「阿呆ですかあなたは」
あまりに正直すぎるラズワルドにミカが思わず突っ込むが、ラズワルドは罵倒された理由が判らずきょとんとしている。
(――いや、よく考えてみれば、読心の恩寵に目を眩まされてきたけど、実はこの子結構阿呆……?)
普通の子供なら人間関係が広がっていく中で「相手が何を考えているのか」を必死に考え、推察することを余儀なくされる。だがラズワルドはそんな機会を持ったことが一度もない。解答を見ながら試験を受け続けてきたようなものである。他の面はともかく、少なくとも人間関係という面においてはラズワルドの未熟さは阿呆扱いされても仕方のないレベルだった。
「……なんか失礼なこと考えてる」
「まあ、それはともかく」
ミカはラズワルドに関する考察は打ち切り、別の方向へと思考を向けた。
「状況は理解しました。ですが、わたしは今の時点で自分からファイルーズ様と敵対するつもりは」
「でも、ミカはタツヤが好き」
「だだだだ誰が誰を」
そこに突然、
「――話聞かせてもらったわ!」
第三者が応接室に飛び込んでくる。ラズワルドとミカは驚きに目を丸くした。
「あ、姉上?」
それはミカの姉のヤラハである。ヤラハは二〇代半ば、腰まで届く黒髪を持つ、長身でスレンダーな美女だった。
「ふっ、この姉を甘く見ないことねミカ! エジオン=ゲベルの鉄壁娘と謳われたあなたが恋などと! こんな面白い話をわたしが聞き逃すはずがないでしょう!」
ただし性格はかなり色々とアレである。ミカは思わず頭を抱えた。
「あ、姉上。わたしは別にタツヤのことなど……」
と言いながらも、ミカは赤面するのを抑えられない。それを見たヤラハはテンションを上げる一方だった。
「くーっ、何この可愛い妹?! 大丈夫、今のあなたなら皇帝でも教皇でも堕とせるわ!」
ヤラハはラズワルドとミカの手を取り、強引に結び合った。
「わたし達が力を合わせればケムトの王女も目じゃないわ! ミカの恋を成就させるわよ!」
呆然としたラズワルドと疲れ切ったミカを置き去りに、ヤラハは高らかに宣言する。その日からヤラハ主導による竜也攻略作戦が発動された。
まずはその日の夕食時。
「ミカ、その格好は……」
「あ、あまり見ないでください」
メイド服姿のミカに竜也は呆然とし、ミカは恥ずかしそうに身じろぎする。スカートの丈は限界まで短くされており、落ち着かないことこの上なかった。
「くっ、まさかミカさんまで参戦するなんて……」
と悔しそうにしているカフラ。ファイルーズはいつもの仮面のような微笑みで平静を装っていた。
「この間あげた眼鏡はかけないのか?」
「タツヤはわたしを殺す気ですか?!」
何気ない竜也の質問にミカは涙目になって抗議する。今の状態で眼鏡をかけて竜也の顔をまともに見たなら心臓麻痺を起こしてしまう、そんな確信がミカにはあった。もっとも、そんな乙女心が判らない竜也は目を白黒させるばかりである。
「よしよし、掴みは上々」
ミカと竜也の様子を扉の陰から見守っていたヤラハが満足げに頷く。ヤラハはミカ付きの女官にもメイド服を着ることを強要、ラズワルド・ミカ連合はファイルーズ一派に対し優位を確保した、かに見えた。だが翌日。
「カフラ、その格好は……」
「いやーん、あまり見ないでくださーい」
踊り子みたいな格好をしたカフラがわざとらしく腕で身体を隠そうとする。だが全然隠れておらず、むしろ腕で胸を強調しているだけである。カフラは媚びるような、艶っぽい視線を竜也へと向けた。
「ご、ごめん」
竜也の方が赤面しながらそっぽを向く。カフラは内心で密かにガッツポーズを取った。
一方、その様子を歯噛みしながら見つめているのはラズワルド達だけではない。
「……ファイルーズ様、本当にこれでよかったのでしょうか。強敵に塩を送っただけのような……」
女官の言葉にファイルーズも半分くらい同意する。
「あるいはそうかもしれませんけど、今カフラさんを敵に回すのは得策ではないでしょう」
カフラは自分付きのメイドにも踊り子の衣装を着せて、ファイルーズ側に付くことを鮮明にする。こうしてファイルーズ・カフラ連合とラズワルド・ミカ連合がそれぞれ成立し、両者は再び勢力を拮抗させた。
「……何かよく判らない競り合いをしていますね」
ファイルーズ・カフラ連合とラズワルド・ミカ連合が熾烈な女の戦いを演じている一方、サフィール達牙犬族は完全に蚊帳の外だった。サフィール達が船にいるのは警護のためであること、牙犬族が独自の部族衣装にこだわりを持っていること、戦闘に不向きなメイド服や踊り子の衣装を着るつもりが毛頭ないこと、等がその理由である。
「ああ、俺もここにいる方が気分が落ち着く」
ファイルーズ達やラズワルド達といると獲物を狙う猛禽の眼にさらされているようで気分が休まらない竜也は、船にいるときはサフィール達の詰所にお邪魔してお茶を飲んでいることが多くなった。
聖槌軍の別働隊がトズル方面に移動していることを聞き、竜也はトズル方面の視察に向かうことを決定する。最近の船の中の空気に気疲れし、少し距離を置きたかったことがその理由の一つになっていることは間違いない。
一方ファイルーズやラズワルドはそんなことにも気付かずに(気付いていても重視せずに)暴走を続けている。
「勝負よ! ここは一つ、皇帝がわたし達のどちらを選ぶか勝負をしましょう!」
ヤラハはファイルーズへと果たし状を叩きつけた。
「皇帝は戦いに出かけて、帰ってきたときは疲れているはず! 皇帝を歓待し、ゆっくり疲れを取ってもらう、わたし達がそれぞれ別にその準備をする。皇帝がわたし達のどちらを選ぶかで勝負するのよ!」
ファイルーズもその果たし状をいつもの笑顔で受け取った。
「タツヤ様が疲れてお帰りのときに、疲れを取っていただくようわたし達が最善を尽くすのは当然のことですわ。わたし達はわたし達でその準備をいたしますね?」
「望むところよ!」
こうして両者は別々に竜也歓待のための準備を進めることになる。
ラズワルド達は自分達の優位を確信していた。
「タツヤの食べ物の好みも、してほしいことも、判らないことは何もない。この勝負は勝って当たり前」
「そういうことよ。ミカ、この勝負に勝ってわたし達が一気に主導権を握るわ!」
「は、はあ……」
一方のファイルーズ達も自分達の不利は理解している。
「気配りという点ではあの子達にはかないませんよね。どうするおつもりですか? ファイルーズ様」
「確かに多くの点で不利ですが、一つだけわたしが有利な点があります。そこを的確に突いていくしか勝機はありません」
「有利な点とは?」
「戦いにより昂ぶった殿方の気を静める一番の薬、それが何かはご存じでしょう?」
「……ああ、なるほど」
艶っぽいファイルーズの瞳にカフラは密かに嫉妬した。
「タツヤさんて、娼館に行ったりとかは全然しない人ですもんね。確かにその点を突けば……」
「とにかくタツヤ様の身柄を確保できさえすれば、わたしがタツヤ様を心ゆくまで休ませてさしあげます」
こうしてアブの月(第五月)の初旬、ついに船は決戦の刻を迎える。
その日、ディアを連れてトズル方面から戻ってきた竜也は、まずナハル川の野戦本部に赴いてアミール・ダールから報告を受けた。
「一昨日聖槌軍の二度目の渡河作戦が決行されましたが、撃退に成功しました」
「アブの月の戦い」と後に称されるこの戦いの、アミール・ダールの報告をまとめると以下のようになる。
まず聖槌軍の行動は最初の渡河作戦と特に変わらない。丸太を使い、一人でも多くに川を渡らせることしか考えていない、無理押しの作戦である。動員兵数は前回より大幅に増え、推定七万を越える大軍勢だ。
一方のヌビアの軍も、基本的には前回とやるべきことは変わらない。ただ今回、アミール・ダールは一番槍の敵兵を矢や火縄銃で殺すことを全軍に禁止。一番槍の敵兵は剣か槍で殺すよう厳命した。
こうして戦闘が開始される。ケルシュの水軍では到底殺し切れない数の敵兵が川を渡り、ナハル川南岸へと取り付く。さらに前回のように矢や弾丸が雨霰と降ってくることもない。聖槌軍のうち最初に南岸に到着した者達はこの隙に城壁を乗り越えようとし、ヌビア兵に槍で刺されて絶命した。
アミール・ダールが弓兵と鉄砲兵に攻撃命令を下す。敵兵は既に押し寄せてきており、狙いを付ける必要もない。撃てば当たる状態だった。矢が射られ、火縄銃が撃たれ、熱した油が撒かれる。敵兵は実に効率よく殺されていった。ごく一部の敵兵が南岸の城壁を乗り越えるが、即座に刺し殺され、斬り殺されてそれで終わりである。
ヌビア兵が殺し、エレブ兵が殺される一方的な展開は結局最後まで変わることがなかった。敵軍が全員逃げるか死ぬかし、戦闘は終結する。聖槌軍は万単位の死傷者を出した一方、ヌビア軍の戦死者は百人にも届いていない。
「完全勝利だな」
アミール・ダールの報告を聞き終え、竜也はそう感嘆する。アミール・ダールも、
「はい。なかなかよい予行演習ができました」
と満足そうだった。「予行演習?」と竜也が首を傾げる。
「敵の規模を考えれば今回の戦闘とて前哨戦に過ぎないでしょう。ですが我が軍は敵の本隊と戦う前に手頃な規模の敵と戦うことができた。将兵も殺し合いに慣れましたし、我が軍の不備も洗い出せました。我々は万全の体勢で敵の本隊を迎え撃つことができます」
「そ、そうか。頼りにしている」
野戦本部を後にした竜也は総司令部へと戻ってくる。サフィールに連れられたディアがそれに同行、竜也はディアをベラ=ラフマに紹介した。
「彼女は銀狼族族長のディアナ・ディアマントだ。彼女と聖槌軍内の銀狼族が我々に協力してくれることになった」
「さすがは皇帝です。まさかこのような協力者を得てくるとは」
ベラ=ラフマは表情をあまり変えないまま大いに驚き、喜んでいる。
「まずは情報収集、次いで情報工作をやってもらうつもりだ。ディアはあなたに預けるから二人で協力して情報収集・情報工作の仕事を進めてくれ」
竜也の指示にベラ=ラフマが頷く。が、ディアはかすかに不安そうな顔をした。それを見て取ったベラ=ラフマが助け船を出す。
「仕事についてはそれで構いませんが、普段の生活の後見をするのは別の者がよろしいかと」
指摘を受けた竜也は「それもそうか」と思い直し、
「じゃあサフィール、牙犬族の皆で面倒を見てやってくれ」
「タツヤ殿がそう言われるのであれば」
サフィールは内心の不満を口調ごと抑制しそう返答する。ディアは素知らぬ顔でそっぽを向いているが、その顔から不安の色がなくなっていることをベラ=ラフマだけが察していた。
竜也はたまっていた書類を片付けに執務室へと向かい、サフィールは一足先に船へと戻った。そこで彼女が見たものは――
「……確か皆さんはタツヤ殿の疲れを癒そうと準備をしていたはず。何でこんなことになっているのですか?」
サフィールの問いに、ファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラが気まずそうに目を逸らした。
……きっかけが何だったのか、どちらが先に手を出したのか、それはもう誰にも判らない。だが、
「きゃあっ?! 料理が!」
「ああ、ごめんなさい。ここの廊下は狭いから」
あるいはわざとではなかったのかもしれない、ほんのちょっとした相手の準備の邪魔が次第にちょっとしたいたずらに、
「ああっ! 衣装に染みが!」
「あーらごめんあそばせ、わざじゃなくってよ?」
やがてちょっとした嫌がらせに発展。
「ああっ、砂糖と塩が入れ替わってる!」
「ああっ、かまどの火が消されてる!」
「ああっ、料理が食べられてる!」
数時間後にはそれは物理的妨害へとエスカレートしていた。
「ああっ、靴の中に針が!」
「ああっ、服にソースが!」
「ああっ、ベッドが水浸しに!」
そして物理的妨害が乱闘に至るまではあっと言う間だった。
「ほほほほ! このアミール・ダールの娘ヤラハに戦いを挑むとは、舐められたものね!」
「お黙りなさい! メン=ネフェルの後宮で四千年間培われた嫌がらせの数々、思い知らせてくれますわ!」
両派閥の女官やメイドが船の中を縦横に走り回り、ときに取っ組み合いを演じ、ときにモップと箒で切り結び、ときに集団で一人を包囲して裸にむいて、ときにソースの入った瓶が爆撃される。ヤラハは先頭に立って走り回り、騒ぎを拡大させ続けた。
安全地帯にさっさと避難したミカは、
「ああぁぁ、姉上が首を突っ込んできたときからこんなことになるような気はしていたんですぅぅ……」
と頭を抱えている。
「……はあ、お茶が美味しいですわねぇ」
とお茶をすするファイルーズと、
「税率を二割とするなら公債の返済が終了するのが……」
総司令部から持ち込んだ書類に目を通しているカフラ。やり方は違うがこの惨状から目を背けていることには変わりない。ラズワルドは、
「わたしのせいじゃない」
と他人事を決め込んでいた。
そしてサフィールは四人を前に深々とため息をついている。四人が逃げ込んできた安全地帯とは船の中の牙犬族の詰所だったのだ。
「タツヤ殿は間もなく帰ってくるのですよ? どうするつもりなのですか?」
サフィールの問いに四人は揃って汗を流しながら目を逸らした。サフィールは再度ため息をつく。
「……タツヤ殿にはわたしからお願いして、今夜は別の場所で泊まっていただくことにします。皆さんは今夜中にこの有様を何とかしておいてください。それでよろしいですね?」
「お願いします」
四人は声を揃えてサフィールに向かって頭を下げた。
サフィールが船を出て竜也のところへ向かおうとすると、ちょうど竜也が船へと向かって歩いてくるところだった。間一髪だった、とサフィールは胸をなで下ろす。
「あれ、どうした?」
どういう言い訳をするか何も考えていなかったサフィールは、とにかく竜也の前に立ち塞がった。竜也はサフィールを避けて前に進もうとするが、サフィールは無言のまま通せんぼする。
「サフィール?」
「……その、タツヤ殿。何も訊かず、今夜は別の場所に泊まっていただきたい」
少しの間真顔でサフィールを見つめる竜也だが、
「――サフィールがそう言うなら」
とその要請を承諾した。
「それで、どこに泊まったらいい?」
竜也の問いに「えーと、えーと」と悩み出すサフィール。竜也はちょっと笑いながら提案した。
「それなら牙犬族の皆のところに泊めてもらおうか。そこならこの町で一番安全だし、ラサースさんやジューベイさんにも積もる話は色々あるだろう?」
「ああ、さすがタツヤ殿です。それがいいでしょう」
こうして竜也はサフィール達の案内で牙犬族の宿舎へと向かい、その夜をそこで過ごすこととなった。
「おお、タツヤ殿。よく来られた!」
総司令部のあるゲフェンの丘に程近い町中の、治安警備隊の庁舎。牙犬族の宿舎はそれに隣接して建てられていた。竜也はサフィールの案内でそこを訪れる。
「すまない、今夜はちょっと世話になる」
「何を言われる。タツヤ殿は我等にとって一族も同然、遠慮は無用ですぞ!」
竜也はジューベイやラサースから治安警備隊の現状について報告を受け、竜也の方もトズル方面の戦闘について説明があり、その後はディアの扱い等の二、三の打ち合わせをした。
夜になって、竜也歓迎の宴会が催される。とは言っても戦時中である。料理がいつもよりちょっとだけ上等で、酒がいつもより多めに出されているだけのことなのだが、集まった牙犬族の面々は大いに盛り上がっていた。
「……くっ、美味しい」
だが、誰よりもこの宴会を堪能していたのがディアなのは間違いない。特別上等と言うほどではない料理であろうと、ディアは感涙にむせびながらむさぼり食っている。
「ほら、料理はまだまだあるから」
当初はディアのことを胡散臭げに見ていた牙犬族だが、元々情に厚い彼等である。ディアの前には次々と料理が運ばれ、ディアはひたすらそれを食い続けた。
「がははは。タツヤ殿、楽しんでおられますかな?」
完全にでき上がったジューベイが酒瓶を持って竜也の隣にやってくる。酒が好きではない竜也は正直辟易していたが「ええ、もちろん」と調子を合わせた。が、ジューベイは竜也の内心を察したようで、「もっと歓待しなければ」と余計な義務感にかられてしまった。
「料理も酒も皇帝を満足させるには程遠いでしょうが、しかし急には用意できんし……ここは一つ他のことで補うしかあるまい」
ジューベイは二人の剣士を指名し、
「おい、お前等! あれをやれ!」
と命令する。二人は勇んで一同の中央に立ち、周囲の牙犬族は「よっ、待ってました!」等とはやし立ててさらに盛り上がる。どうやらこの二人が宴会芸を披露してくれるようだ、と竜也はのんきに構えていた。
二人の剣士は真剣を抜いて、
「きええぃぃ!」
裂帛の気合いを込めていきなり斬り合いを始めた。恩寵を最大限使っているらしく、剣戟は竜也の目では到底追うことができない。まるで時代劇のチャンバラを四倍速くらいの高速再生で見ているかのようだ。だがTVの時代劇とは違い、今竜也の目の前で、本当の斬り合いが、殺し合いが行われている。殺気に当てられた竜也は木偶のように身体を凍り付かせ、剣戟をただ見つめるだけである。
不意に二人が斬り合いを中止、一同に向かって頭を下げる。一同は二人へと惜しみない拍手を送った。
斬り合いが終わったことに竜也が心底安堵し脱力する。その竜也にジューベイが、
「がははは、どうでしたか? 二人の剣舞は」
「えっ、剣舞だったの?!」
竜也は思わず大声で問い返した。ジューベイはそれを特に気にする様子もなく「見事なものでしょう!」と自慢げである。ディアは、
「大したものだ」
と感心し、竜也も「え、ええ。お見事でしたよ」と話を合わせるしかなかった。自分の席に戻った二人の剣士は数ヶ所に浅いながらも傷を負っていて、血を流しながら酒を飲み続けている。それを見て顔を青くした竜也は「失礼」と席を外してその部屋から退出した。
中庭に出て涼しい夜風で頭を冷やし、元の大広間に戻ろうとしてちょっと間違えてしまったらしい。
「あれ、こっちは物置か」
元来た廊下を引き返そうとして、竜也はサフィールと向かい合わせになった。
「こんなところでどうしたのですか?」
「道を間違えたんだ。すぐ戻るよ」
竜也を追ってきたサフィールは、竜也がまだ戻りたくない様子だと察し、
「そうだ、タツヤ殿に見ていただきたい物があるんです」
と竜也を客間に案内した。竜也が客間で待つことしばし、サフィールが手に巻物を持ってやってきた。
「それは?」
「剣祖が亡くなる直前に言い残した言葉を記したものです。誰にも意味が判らないままだったんですが、タツヤ殿ならあるいは判るかもしれません」
巻物を手渡された竜也はそれを広げた。そこに記されていたのはこの世界の文字であるが、確かに意味が判らない。竜也は首を傾げてそれを読み上げた。
「カーミーカ? クーシ? ……!」
この世界の言葉で、バール語で読んで意味が判るわけがない。それは日本語の音をバール語で記した文章だったのだ。そうと判れば読むのは容易い。竜也はその短い文章をすぐに読み終えた。
「……『かみかくし このちにながれ いくとしつき ほとけよみちびけ わがふるさとのち』」
「お国の言葉ですか? どういう意味でしょう?」
サフィールの無邪気な問いに竜也は答えられない。そこに記されていたのは、シノンが言い残したのは望郷の想いを込めた辞世の句。故郷から突然このヌビアの地に流されて何十年かを過ごし、死を目前にしてそれでも故郷に帰れず、日本を忘れられず、死後に魂だけでも日本に帰ることを神仏に願った、そんな詩だった。
「た、タツヤ殿、一体何が」
竜也の瞳から大粒の涙がいくつも流れ、そんな竜也にサフィールは大いにうろたえた。
「……シノンは故郷に帰れなかったんだ。そして俺も」
単にシノンに同情したわけではない。もう帰れない、もう二度と日本に帰れず、父母にも会うことは叶わない――その事実を眼前に突きつけられ、ずっと蓋をしていた望郷の思いがこみ上げている。ずっとずっと押し殺していた分反動は強く、溢れる涙は止まろうとしなかった。竜也はサフィールに背を向けて涙を拭った。
サフィールはとりあえず竜也に寄り添い、
「……その」
どうしていいか判らなかったサフィールは、思わず竜也を抱き締めていた。自分の意志でそう行動しておきながらサフィールの心は混乱し、惑乱する一方だ。
「わ、わたしがタツヤ殿の故郷となります!」
惑乱のままにサフィールは力強く宣言、竜也は小さく笑った。竜也はサフィールの胸の中で流れる涙を拭う。竜也の腕がサフィールの身体に回される。サフィールの胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。
そして――
翌朝の客間。一つ布団の中でほぼ同時に目が覚めた竜也とサフィールは昨晩何があったかを思い出し、
「うわああぁぁ……」
「うわああぁぁ……」
と二人して思わず頭を抱え込んだ。
「ファイルーズ様に申し訳が!」
と裸のまま切腹しようとするサフィールと、
「ちょっと待て!」
と裸のままそれを止めようとする竜也。互いの裸に赤面した二人はとりあえず服を着ることにした。
服を着て人心地つき、多少冷静になった二人は布団の上で向かい合って正座する。
「タツヤ殿、申し訳ありません!」
と平伏するサフィール。竜也は「サフィールが謝ることじゃない」と何とか顔を上げさせた。
「昨晩のことは犬にでも噛まれたと思ってどうか忘れていただきたい。わたしは牙犬族の里に帰ってこの町にはもう来ないことにしますから」
サフィールはすぐにでも旅に出そうな勢いだったが、
「そんなことはさせない」
と竜也はサフィールの手首を掴んだ。サフィールが思わず赤面する。
「『昨晩』こうなったのは、その、雰囲気とか、ものの流れというか、そんなようなもんだったかもしれないけど、『サフィールと』こうなったのは決して偶然でも勢いのせいでもない。他の誰でもない『サフィールだから』こうなったんだ」
竜也の真摯な瞳がサフィールを見つめる。サフィールが潤んだ瞳で見つめ返した。
「責任は取る、サフィールを皇妃として迎える」
決然とした竜也のその宣言に、
「おおーーっっ!! これはめでたい!!」
とジューベイ等牙犬族の一団が客間に流れ込んできた。竜也とサフィールは心臓が止まったような顔をした。
「牙犬族から皇妃が出るとは! よくやったサフィール!」
「おめでとうサフィール!」
とジューベイ等がサフィールを褒め称えた。サフィールは顔を赤くしたり青くしたりしている。
「タツヤ殿、こんな阿呆ですがこれでも可愛い我が娘です。サフィールをどうかよろしくお願いします」
とラサースは男泣きに泣いていた。竜也は硬直したまま、それでも何とか首を縦に振った。
牙犬族の面々は竜也とサフィールを囲んで万歳三唱しそうな勢いである。そしてその輪から外れ、一同から離れた場所でディアがその様子を注意深く観察している。
……数刻後、竜也は牙犬族の宿舎を出て公邸へと戻ることにした。ともすれば逃げ出そうとするサフィールの手首を竜也は掴み続けている。サフィールを引きずるように連れ、竜也は公邸へと歩いていった。
一方の公邸。昨日は女達の戦場となって荒れ果ててしまったが、メイドと女官の他ファイルーズ達四人も加わり、徹夜で掃除して何とか元の姿を取り戻していた。ファイルーズ達四人は食堂で一息入れているところである。
「……戦場から戻ってきたタツヤ様にゆっくりお休みいただくこともかないませんでした。本末転倒もいいところです」
とファイルーズはしおらしい様子を見せる。ラズワルドも、
「調子に乗りすぎた。反省」
とファイルーズと歩調を合わせた。
「ともかく、タツヤ様の疲れを癒すことがまず第一です。女官達やメイド達を無意味に競い合わせることはやめにして、一致協力してタツヤ様を歓待することに専念いたしましょう」
「それでいい」
とラズワルドが同意し、
「最初からそうすべきでしたね」
とカフラが苦笑し、
「当たり前のことです」
とミカが何故か偉そうにした。その足下ではヤラハが縄で縛られたまま泣き寝入りしている。
そこに女官の一人がやってきて、
「ファイルーズ様、皇帝がお戻りになりました。ですが……」
ファイルーズ達は竜也を出迎えるために食堂を飛び出していく。その場には何か言いたげな女官が残された。
そして船の前に集まるファイルーズ達。丘のふもとには竜也達の姿が見える。丘の上へと続く坂を登り、竜也とサフィールが歩いてやってきている――仲良く手をつないで。
「……」
実際には竜也がサフィールの手首を掴んでいるのだが、ファイルーズ達にとってはどちらでもあまり変わらない。嫌な予感を覚えるファイルーズ達四人の前に、ようやく竜也とサフィールが到着。赤面したサフィールは竜也の背後に身を隠そうとしていた。
まずラズワルドがそれを理解。ファイルーズとカフラも何が起こったのかを大体察し、ミカもまた竜也達二人のまとう空気が昨日とは一変していることを感じ取った。
「まー、その。ファイルーズ、それにみんなも」
竜也は恥ずかしさを抑え、意を決して一同に告げる。
「サフィールを皇妃として迎えるからそのつもりで」
ファイルーズ達四人は砂の人形のようになって、その場に崩れ落ちた。
(結局サフィールさんの一人勝ち……)
「漁夫の利」という言葉の生きた見本を残し、こうして女の闘いはひとまずの幕を閉じたのである。