「黄金の帝国」・死闘篇
第三三話「水面下の戦い・前」
アブの月(第五月)の初旬、その日の朝。竜也の「サフィールを皇妃として迎える」という爆弾宣言炸裂の直後。竜也達は船の食堂に場所を移している。食堂の中は一種異様な緊張感に包まれていた。
竜也は床の上に正座をしていて、それに向かい合ってファイルーズとラズワルドが腕を腰に当てて立っている。二人が竜也を見下ろす形で、竜也は身を縮めることしきりだった。
「……確かに何人か側室を持つことは認めましたが、まさかこんなに早くなんて。わたしに何か不満でも?」
「いえ、とんでもない。ファイルーズさんは素晴らしい女性です」
ファイルーズの口調も声音も、普段と何も変わらない。だがいつもは天上の歌声のようなそれが、今は地獄の底から響く罵声のようだった。
「いえ、タツヤ様のお気持ちはよく判りますわ。サフィールさんは本当に凛々しく美しい方で、年齢もまだ十代。肌なんてまるで絹のよう。それにひきかえこのわたしはタツヤ様より年上ですし……」
「ファイルーズだって、スタイルのよさなら誰にも負けないだろ?」
ファイルーズがわざとらしくひがんでみせ、竜也が必死に言い訳をし、ファイルーズを褒め称える。ちょっと面白くないラズワルドは皮肉を口にした。
「もうおばさん。重力には勝てない」
ファイルーズが一瞬般若の形相を垣間見せ、即座に取りつくろっていつもの笑顔の仮面を被り直す。
「おほほほ。垂れるものがない方が羨ましいですわ、本当に」
「……わたしはこれからだから」
震え声でそう言いつつも、白兎族の体質的にグラマーにはならないことはラズワルドも嫌と言うほど理解していた。
「……えっと、スレンダーにも需要はあるから」
竜也は何とかラズワルドのフォローをしようとするが、
「サフィールさんはスリムですものね」
「いえ、あの……」
ファイルーズとの板挟みとなり、往生した。
竜也がファイルーズとラズワルドに吊し上げになっている一方、食堂の一角では同じようにサフィールが床に正座し、腕を組んで立つミカとカフラに挟まれている。
「まさかサフィールさんに抜け駆けされるなんて。油断でした」
「サフィールさんがファイルーズ様に次いで第二皇妃ですか。すごいですね」
ミカもカフラも笑顔だがその目は笑っていない。サフィールは消え入りそうになるくらいに身を縮めた。
「……あの、わたしは末席で、第五皇妃で構いませんから」
それでも「皇妃にはならない」と言わないところを見ると、サフィールも覚悟を決めたようだった。カフラは小さくため息をつく。
「それじゃわたしが第三皇妃、ミカさんが第四で」
「待ってください。格式から言うならわたしが第三皇妃になるべきでは?」
カフラが無表情となってミカを見返し、ミカも無言のままカフラと対峙する。両者の間に空気が凝固したような緊張感が張り詰めた。
「……へえ、本格的に参戦するつもりなんですね」
「アミール・ダール一門のことを考えれば、いつまでも子供のようには振る舞ってはいられません。わたしがタツヤに嫁ぐことは一門にとって利益となりますから」
ミカは赤面しつつそっぽを向いて、何者かにそう言い訳する。そんなミカをカフラとサフィールは白けたような目で見つめた。
さらに食堂の出入り口では、ケムトの女官、白兎族の女官、牙犬族の女剣士、メイド等が何人も集まって興味津々で聞き耳を立てている。竜也達当人にとっては修羅場だが他人が見ればじゃれ合いやいちゃつき合いにしか見えないこの状況は、正午近くまで続くこととなった。
竜也のサフィナ=クロイ帰着に遅れること二日、ようやくトルケマダがスキラに戻ってきた。
トルケマダとともにスキラまで戻ってきたのは一万ほどの兵だ。残りの二万のうち最低でも一万はトズルで戦死するか捕虜になるかし、それ以外の兵はトルケマダとは別行動を取っているものと考えられた。トルケマダは町を目前にして部隊を停止させる。そして斥候を町へと派遣した。昼前に送り出した斥候が町の噂を集めて戻ってきたのは夕方である。
「フリードリッヒが、死んだ……?」
斥候の報告を聞き、トルケマダは呆然としてしまう。斥候はそれに構わず機械的に自分の役目を、報告を続けた。
「先のナハル川での戦いの際、ディウティスク国王フリードリッヒ陛下はいかだに乗って指揮を執っておられました。そのいかだが敵の軍船に攻撃されたのです。いかだは軍船の体当たりを受けて沈没し、陛下は未だ北岸に戻ってきておられません。陛下は鎧を身にしていたのでおそらくはそのまま川に溺れたのでは、と……」
「何と愚かな……!」
トルケマダは舌打ちをする。間抜けな死に方をしたフリードリッヒを嘲笑したい気持ちは強かったが、自分の立場が想像をはるかに超えてまずくなっているという自覚がそれを抑えさせた。
「フリードリッヒの部下は、ディウティスクの軍団長はどうしている? おそらくフリードリッヒが死んだのは私のせいだと逆恨みしているであろう?」
「はい、『トルケマダを殺す』と息巻いているそうです」
トルケマダは舌打ちを連発した。
「どうする、どうする」
と右往左往するが良案は何も思い浮かばない。だがトルケマダには考える時間も迷う時間も残されてはいなかった。
「閣下! スキラからどこかの軍勢が」
見張りの呼ぶ声にトルケマダは本陣を飛び出した。丘に上がってスキラの方角を見ると、そこには数千の兵が砂塵を上げて進軍しているのが見える。トルケマダのいる方へ、脇目もふらずに真っ直ぐに進んでいるのが見えている。
トルケマダが斥候を放ったように、ディウティスク側もトルケマダの所在を掴むために斥候を放っていたのだろう。そして今、トルケマダのいる場所へと一直線に突き進んでいる。彼等が何を目的としているのか、問うまでもなかった。
「閣下、指揮を、指示を」
だがトルケマダは命令を求める部下を無視し、自分一人で逃げ出した。部下の何割かがトルケマダの後を追い、何割かがトルケマダに見切りを付けて独自に逃げ出す。兵士がそれぞれの指揮官の後を追い、トルケマダの軍勢は陶器よりも簡単に粉々になり、散り散りとなった。目前まで迫っていたディウティスク軍は散開したトルケマダ隊を追い回し、多数の兵と一部の指揮官を捕虜とした。が、トルケマダはついに捕縛することができなかった。
ディウティスク国軍は渡河作戦により大損害を受けただけでなく主君まで喪う結果となってしまい、この事態をもたらしたトルケマダを激しく憎悪した。
「あの男を生かしておくな。必ず見つけ出せ」
「トルケマダの部下は全員拘束しろ」
トルケマダ捜索のために兵が四方に派遣され、トルケマダの部下の捕縛のためにスキラの門前に兵が常駐した。一旦は逃げ出したトルケマダ隊の指揮官達だが他に行く場所もなく、多くがスキラへと舞い戻ろうとしていた。
「聖槌軍の将兵は何十万といるんだ。スキラにさえ潜り込めばいくらでもごまかしようはある」
彼等はそんな楽観を抱いてスキラに戻ってきて、その全員がスキラの門前で検問に引っかかって捕縛された。彼等はディウティスク側の恨みの深さをあまりに軽く見ていたのだ。が、その執念を持ってしてもトルケマダだけは未だ見つかっていない。
そのトルケマダはディウティスク軍の追跡を振り切り、スキラの北へと逃れていた。今いる場所はスキラとスファチェを結ぶ街道上の、小さな漁村である。その漁村の小さな港では、バール人の商船と聖槌軍が取引をし、積み荷の受け渡しをしているところだった。トルケマダは物陰に隠れてその様子をうかがっている。船は普通のバール人の商船よりも二回りも三回りも小型である。
「はい、毎度ありがとうございます」
バール人商人が金貨の詰まった袋を受け取り、商船からエレブ兵が麦袋を降ろしていく。全ての荷下ろしが終わってその船が出港しようとする直前、トルケマダがその船へと突進した。
「待て! その船よ待て!」
トルケマダはそう叫びながら、そのままその船へと飛び込んだ。船員は目を丸くする。
「あの、騎士様、一体何事で?」
「エレブに行け、エレブに着いたなら金はいくらでも出してやる」
トルケマダの前に揉み手で出てきた商人に対し、トルケマダは傲然と胸を張ってそう告げる。商人は当惑を笑顔で隠した。
「騎士様、そうは言いましてもこの船では地中海を渡れません。見ての通り小さな船ですので」
商人の口調にはトルケマダの無知に対する嘲りが隠しようもなくにじんでいた。
「うるさい! そんなことは判っている!」
トルケマダにできるのは大声で威嚇し、ごまかすことだけだ。だが部下を持たず、聖杖教の権威を持たず、裸一貫に等しいトルケマダの威嚇は、バール人の零細商人にすら通用しなかった。
「お前達は南にあるあの町に戻るのだろう? ならば私をそこでエレブに行く船へと乗せればいいのだ」
「エレブ行きの船賃は値が張りますよ? 前金はお持ちですか? それに私どももそれなりの案内料をいただきませんと」
「エレブに戻ったなら金くらいいくらでも出せる」
トルケマダの言葉を商人だけでなく船員もが嘲笑う。トルケマダの手が腰の剣にかかった。
「貴様等……! この私を誰だと思っているんだ!」
「はて、どこの騎士様でしょう?」
揶揄するように問う商人に、トルケマダは名を名乗ろうとし、
「……」
結局その名を呑み込んだ。代わりにトルケマダは剣を抜き、精一杯の脅迫をする。
「バール人の分際で無礼であろう! これが見えないのか!」
だが商人の反応はまるで剣が見えていないかのようだった。商人はため息をつき、視線で部下へと合図する。トルケマダの背後から接近していた船員が投げ縄を放った。縄の輪はトルケマダの首へとかかり、引き絞られる。トルケマダの身体は後背に引っ張られて甲板にひっくり返った。トルケマダは窒息しながら、それでも剣を振り回そうとするが、一足早く船員の一人が手の剣を奪っていた。飛び出した何人もの船員が倒れたトルケマダをよってたかって足蹴にし、トルケマダは身体を丸めることしかできない。
「もういいだろう、殺すな」
散々に痛めつけられたトルケマダは抵抗できないまま縄で縛られた。
「船長、この馬鹿をどうするおつもりですかい?」
「総司令部に差し出せば小遣い銭くらいにはなるだろう」
「この馬鹿がですか?」
商人は得々と「ああ」と頷いた。
「中身はともかく身なりも得物も上物だ。この馬鹿さ加減も、それなりの貴族の出身だと考えれば納得もできる」
商人の言葉を聞いても船員達は「この馬鹿がねぇ」と首をひねっている。だがそれ以上は何も言わず、商人の指示に従った。
こうしてトルケマダの身柄はヌビア側に、総司令部へと引き渡されることとなった。
場所はサフィナ=クロイのゲフェンの丘、時刻はまだ早朝の時間帯。公邸の食堂で竜也が早めの朝食を取っていると、
「ふぁーっ」
と大あくびをしながらディアが食堂へとやってきた。
「あれ、ディア?」
「おお、皇帝か。おはよう」
とディアは挨拶をしながら竜也の前の席に着く。メイド達が非難がましい眼でディアを見るがディアは欠片もそれを気にせずに、
「わたしの分のご飯はないのか?」
竜也は少し苦笑しながら「用意してやってくれ」とメイド達に命じ、メイド達は不承不承それに従った(なお、ファイルーズ・ラズワルドが以前の馬鹿騒ぎを反省した結果、メイドや女官の服装は露出の少ないものへと戻っている)。
「こんな朝早くからどうしてここに?」
「昨晩は遅くまでナハル川の北岸にいたのだぞ、わたしは。さっきこっちに帰ってきたところだ」
ディアは非難するような目を竜也へと向けた。ディアは部下のヴォルフガング達から報告を受けるだけでなく、自らスキラに潜入して自分の目での状況の確認もしていた。
「そうか、お疲れ様。それで、どうだった?」
「この間の戦いでディウティスク国王フリードリッヒが死んでいた」
パンを持つ竜也の手が空中で止まった。
「――それは確かか?」
「まず間違いない。ディウティスクの騎士様はみんな『トルケマダを血祭りに上げろ』と息巻いている」
「何でトルケマダを?」
ディアは出されたパンやハムをむさぼりながら、世間話のように竜也に報告した。
「国王は単独でこの町を攻めるつもりはなく、総司令官のフランクの王弟が到着するのを待つつもりだったらしい。でもトルケマダが『敵を攻めないと異端審問にかける』と脅迫して無理矢理戦わせたんだ。そのせいで国王が戦死してしまったから、みんなトルケマダを恨んでいる」
竜也は「ほう」と感心したように言い、そのまま考え込み、黙り込んだ。ディアは少し不安になったように問う。
「こんな話、役に立つのか?」
「すごく役に立つ」
竜也は力強く即答した。
「ディウティスク国王が戦死したなんて今初めて聞いた。ディアがいなければその話を聞くのがもっと遅れていただろう」
「そうか、こんな噂話でよければいくらでも集めてやる」
ディアは少し嬉しげに胸を張った。
「お前への報告は私が直接してやろう」
「ああ、そうしてくれると助かるな」
ディアの何気ない言葉に竜也が頷く。ディアが「計画通り」とばかりにほくそ笑むが、その顔を竜也は見ていなかった。
「――な、何故あなたがここにいるのです!」
声のした方へ竜也とディアが視線を向けると、そこには人差し指を突き出したサフィールの姿があった。ディアは偉そうに胸を張る。
「わたしと一族は敵地潜入の依頼を皇帝から直接請け負っているのだぞ? 報告だって皇帝に直接するように言われている」
「そうなのですか?」
サフィールの詰問じみた確認に竜也は「あ、ああ」とためらいがちに頷いた。
「ですが、わたし達警備の者はその話を聞いていません。一体どうやってこの船に入ったのですか」
「町側に比べて海側の警備は緩かったな」
ディアは他人事のような物言いでそれだけを言う。竜也は唖然とし、サフィールはその上で剣に手をかけた。
「まさかエレブ人の侵入を許すとは……不覚です」
「確かに普通の人間ではあんな場所からの侵入は不可能だろうが、恩寵持ちならその限りではない。恩寵持ちが敵に回るはずがない、そんな油断があったのだろうな」
殺気立つサフィールと、得意げな表情を何とか抑えて平静を装っているディア。竜也は「サフィール、ディア」と二人を制した。
「侵入を許したのは不覚だったけど、次から注意すればいい。大事になる前に警備の穴の指摘を受けた、そう思おう」
竜也の言葉にサフィールは不承不承「はい」と頷いた。竜也は次いでディアへと視線を向け、
「見つからなかったからよかったようなものの、もし見つかっていたら斬り捨てられても文句は言えなかったんだぞ?」
「判っている、もうやらない」
とディアは手を振った。
「次からはちゃんと正面から入るさ。皇帝の許可が取れたのだからな」
と不敵に笑うディア。サフィールは八つ当たり気味に竜也をにらみ、竜也は気まずそうに視線を逸らした。
朝食を終えた竜也はディアを連れて総司令部へと登庁した。竜也はそこでベラ=ラフマからあるニュースを知らされる。
「本当か? それは」
「はい、聖槌軍先鋒指揮官のトルケマダを捕縛しました。トルケマダ自身であることはラズワルドにも確認させています」
さらにラズワルドはトルケマダの持つ一切合切の情報を全て読み取り、ベラ=ラフマに報告していた。情報源という意味ではトルケマダはすでに出涸らしである。
「いかがしますか? トルケマダと言えばルサディルの惨劇の指揮官であり、ヌビア人にとっては教皇インノケンティウスや枢機卿アンリ・ボケに次ぐ仇敵です。見せしめになぶり殺しにすれば将兵の士気も上がるかと」
「いや、まだ利用価値があるかもしれない。ディアが聖槌軍内の情報を掴んできた」
竜也はディアをこの場に呼んで今朝と同じ報告をさせる。ディアが自分を無視して竜也に直接報告を上げたことに、ベラ=ラフマは内心では不快感を抱いた。が、それを欠片も垣間見せなかった。
「……なるほど確かに、トルケマダの身柄は聖槌軍に何らかの影響を与えられるでしょう」
「ああ。ただ問題は、どんな影響を与えられるか。それにどうやって影響を与えるか、なんだけど」
竜也は肩をすくめた。
「……足りませんね」
ベラ=ラフマの言葉に竜也が「ああ」と頷く。トルケマダという駒を生かすにはまだ情報が足りなかった。他の駒が足りなかった。が、それは向こうから飛び込んでくる。サフィナ=クロイの港にアニード商会の商船が入港したのはその日の午後のことである。
連絡を受けた竜也とベラ=ラフマはラズワルドを連れて港に急行した。港に正面から入ってきた商会の商船は抑留され、アニードは海軍の軍船で拘束中という。竜也達は停泊しているその軍船へと乗り込んだ。
船倉奥の囚人房、トルケマダはそこに入れられていた。ベラ=ラフマは囚人房の扉の前に立ち、中のアニードに声をかけた。
「久しいな。アニードよ」
「お前か……何年ぶりになるか」
竜也はアニードへの尋問をベラ=ラフマに委ね、自分とラズワルドはアニードの死角に陣取って聞き耳を立てていた。アニードと対面したとして竜也は何を言うべきか判らなかったし、アニードにどんな態度を取られても竜也は困惑するだけだっただろう。
ベラ=ラフマはアニードに、自分が総司令部で情報収集の任務に就いていることを簡単に説明した。
「お前は今タンクレードの御用商人を名乗っているそうだな」
その問いにアニードは「ああ」と頷く。
「タンクレードは聖槌軍の中でも有力な将軍の一人であり、聖槌軍は我々ヌビア軍と戦争中だ。それを理解してのその名乗りであろうな」
アニードは「もちろんだ」と確かに頷いた。
「将軍タンクレードはヴェルマンドワ伯ユーグの懐刀として有名であり、王弟派の中でも五指に入る将軍だ。お前達が枢機卿派と戦う上で将軍タンクレードと誼を通じておく、その意味は理解できるだろう?」
「……我々から見ればどちらも聖槌軍であることには変わりがないのだが。そもそも王弟派と枢機卿派とやらはどう違うのだ?」
「聖槌軍は決して一枚板ではない、その中に無数の派閥があるのだ。その中でも最も有力なのが王弟派と枢機卿派の二つだ。どこの派閥であろうと結局はその二つのいずれかに属している」
王弟派はフランク王国王弟にして聖槌軍総司令官のヴェルマンドワ伯ユーグを頂点とする派閥。枢機卿派は聖槌軍付き枢機卿にして全ネゲヴ教区統括者のアンリ・ボケを頂点とする派閥である。両者は聖槌軍の主導権を巡って水面下での戦いをくり広げていた。
「アンリ・ボケがケムトまで征服してネゲヴの全ての異教徒を殺し尽くすつもりなのに対し、ヴェルマンドワ伯は早々にこの戦争を終わらせたいと考えている。お前達が、ネゲヴが戦うべき相手は枢機卿派なのだ。王弟派と、将軍タンクレードと手を結ぶことは決して不可能でも無意味でもない」
アニードは熱を込めた声で訴えた。ベラ=ラフマの恩寵ではアニードが本気で言っているとしか感じ取れなかったし、それはラズワルドも同様である。
「仮にヌビア軍が王弟派に協力して枢機卿派を排除したとして、ヴェルマンドワ伯や将軍タンクレードはこの戦争をどういう形で終わらせるつもりなのだ?」
その問いにアニードはしばしの間沈黙した。
「……それは私では判らない。だが、アンリ・ボケの主導する戦争でこれ以上戦火が拡大するよりはずっと、ネゲヴ人の犠牲の少ない終わり方になるはずだ」
そうか、と竜也は得心する。アニードがタンクレードに協力する最大の理由はそれなのだ。タンクレードが枢機卿派を排除できれば戦争の早期終結につながり、ヌビア側の犠牲者もその分減らすことができる。それこそがアニードにできる唯一の償いであり、ヌビアに貢献する唯一の方法なのだろう。
ベラ=ラフマは無言のまま少し考え、竜也に視線を送った。その視線を受けた竜也は首を縦に振る。ベラ=ラフマは「少し待て」と言い残して一旦その場から立ち去った。数分も待たないうちに水兵がやってきてアニードは囚人房から解放される。応接間に案内されたアニードはそこで改めてベラ=ラフマと対面した。
「王弟派と協力するかどうかはともかく、交渉の窓口を閉ざすべきではないと考えている」
「私にその窓口になれ、と言うのだな。いいだろう、望むところだ」
ベラ=ラフマの言葉にアニードは力強く頷いた。
「早速だが手土産がある。我々は聖槌軍先鋒のトルケマダを拘束している」
「あの男を……?」
アニードはその意味が理解できないかのようにしばし呆然とした。
「ディウティスクの恨みを買ってスキラにいられなくなったトルケマダはバール人の商船でエレブに逃げ戻ろうとしたのだ。その身柄を我々が確保した」
「あの男、どこまで恥知らずなのだ……!」
アニードは憤りに歯を軋ませる。ベラ=ラフマはそれに構わず話を進めた。
「トルケマダは枢機卿アンリ・ボケの右腕として知られている。その身柄は枢機卿派に打撃を与える武器になるのではないか?」
「その通りだ。将軍タンクレードなら最も有効に、的確に使ってくれることだろう」
身を乗り出すアニードに対し、ベラ=ラフマは冷静に頷く。こうしてトルケマダの身柄はアニードに譲渡されることとなった。
トルケマダを連れたアニードは意気揚々と西へ、タンクレードの元へと帰っていく。竜也とベラ=ラフマは遠ざかるアニードの商船を港から見送っていた。
「……現時点では王弟派は枢機卿派に対して劣勢にあります。この一手が功を奏すれば、両派は互角に近くなるかもしれません」
「上手く噛み合ってくれるといいんだがな」
ベラ=ラフマの言葉に竜也はそう言って頷く。
「我々から見ればどちらも聖槌軍であることには変わりない」
それは竜也とベラ=ラフマの掛け値なしの本音だった。枢機卿派はもちろん王弟派であろうと、竜也達は宥和策など考えてはいない。竜也達が考えているのは両派の対立を煽り、同士討ちをさせ、聖槌軍全体の戦力を少しでも低下させること、それだけである。
「タンクレードがどのようにトルケマダを使うのか、可能な限り即時把握しなければなりません」
「ああ。銀狼族の役割は重要だ」
ベラ=ラフマは何か言いたげな顔をするが、結局は何も言わなかった。