「黄金の帝国」・死闘篇
第三五話「エルルの月の戦い」
「トルケマダは処刑が始まってから丸一日息があったそうだ。翌日の昼過ぎにわたしが見に行ったときもまだ生きていた。死んだときには下半身が完全に炭化していたらしい」
場所はゲフェンの丘の総司令部、竜也の執務室。竜也はディアからスキラ偵察の報告を受けているところである。
「トルケマダが死んだ後、トルケマダ隊の主立った幹部が全員火あぶりになった。トルケマダ隊は解体されて、残った兵士はディウティスクの軍に組み込まれることになるらしい」
「多分、全員ひどい目に遭うんだろうな」
竜也の確認にディアは皮肉げな笑みを浮かべる。
「当然そうなるだろうな。奴隷と変わらない扱いでこき使われるか、最前線で盾の代わりにさせられるか」
エレブで散々恩寵の民を殺戮してきたトルケマダ隊がこのような末路を迎えたのだ。ディアの村が直接トルケマダ隊の魔手にさらされたことはないらしいが、それでも暗い悦びを抱かずにはいられないようだった。
そうか、と竜也は天を仰ぐ。
「……やっぱり簡単には同士討ちにならないか。そうそう思い通りにはいかないよな」
「だが、王弟派と枢機卿派の対立がなくなったわけじゃないぞ。衝突の火種はそこら中に転がっている」
気負ったように言うディアに対し、竜也は冷静さを取り戻したようだった。
「もちろん内訌工作も続けるけど、次は聖槌軍の全力を挙げた、本格的な戦いになる。敵の総攻撃がいつ始まるか、どういう戦法を採るのか、その点の情報収集に力を入れてくれ」
そして月も変わってエルルの月(第六月)の初旬。聖槌軍のほぼ全軍を動員した、アンリ・ボケ指揮によるナハル川渡河作戦が決行される。本当の死闘はこれからだった。
この日のアンリ・ボケ指揮による渡河作戦とその迎撃戦は、後日「エルルの月の戦い」と呼ばれるようになる。なお、この戦いの前後から聖槌軍側でも「ネゲヴ」に代わって「ヌビア」という名前が使われるようになっている。
「南岸の連中は自分達の国をヌビアと呼んでいて、これは古いケムト語で『黄金の国』という意味だそうだ!」
「その黄金の国が今お前達の目の前にある! 一億アンフォラの麦が、百万タラントの金銀財宝がそこにはあるのだ!」
百人隊長の檄に、エレブ兵は高揚のままに雄叫びを上げた。兵士達はその勢いで丸太を抱えてナハル川へと飛び込んでいく。何万というエレブ兵が一斉に対岸を目指して泳ぎだしていた。
アンリ・ボケが採った戦法はトルケマダのそれとほとんど変化がない。スキラ近隣から丸太を集め、いかだや船にせずに兵士には丸太に捕まって泳いで渡河をさせる。泳ぐ邪魔になるので、ほとんどの兵士は革製の鎧すら身にせずに半裸である。盾すら手にしていない兵が大半だ。ごく一部に鎖帷子を着込んで泳いでいる騎士がいたが、そのうちの半分は渡河最中に溺れ、残り半分はナハル川南岸にたどり着いたところで力尽きていた。
「なんて数だ……!」
水軍司令官のケルシュは眼前の光景に戦慄する。ナハル川の水面はエレブ兵で埋め尽くされんばかりだった。前回と同じようにエレブ兵に接近し、矢をかけて射殺していく。的はそこら中にあり、狙わなくても当たるくらいだ。だが、敵の数が全く減らない。いや、おそらく減ってはいるのだろうが、それを全く実感できなかった。
敵の群れに接近しすぎため、敵兵が船に乗り込もうと集まってくる。乗員は得物を弓から剣や斧に持ち替えた。
「くそっ!」
櫂で殴られた兵が頭部から出血して川に流されていく。櫂をすり抜けて敵兵が船に取り付くが、振り下ろされた斧が敵の手首を断つ。敵兵は船の手すりに手首を残したまま下流へと流れていった。
「ここを突っきるぞ!」
ケルシュは敵兵の群れを強行突破し、その後は敵の密度の薄い場所を選んで船を進めた。前回とはまるで逆である。不用意に敵兵の群れに突っ込んだ僚船は、群がった敵兵を排除しきれずついには船を乗っ取られてしまっていた。
「ちっ……」
ケルシュは思わず舌打ちする。
「頭、矢の数が……」
部下の報告にケルシュはさらに舌打ちした。矢の減り方が予想を超えて早すぎる。
「速度を上げろ、海まで出るぞ!」
ケルシュは櫂を全力で漕がせ、敵兵の群れを掻き分け突き抜けて突き進む。部下の船がそれに続くが、海に出たときにはケルシュの艦隊はその一割が失われていた。
ヌビア軍の野戦本部はナハル川から若干離れた高台の上に設置されている。そこにいるのは総司令官のアミール・ダールは言うまでもなく、副司令官のバースイットやツェデクを筆頭とする補佐官や書記官だ。各軍団長は前線で督戦をしており、伝令兵や斥候がひっきりなしに出入りをしている。野戦本部の眼下にはナハル川が広がっており、その川面は今エレブ兵一色に染まっていた。
「一体どれだけいるんだ……」
書記官達は恐怖を隠しきれない。もしそれが許されるなら彼等はすぐにでもその場から逃げ出すかもしれなかった。
本部の一角では何人もの書記官が算盤そっくりの計算器具を使い、敵の総数を計算しようと努力している。算出方法は竜也の元いた世界のそれと基本的には変わらず、一定区画の狭い範囲で頭数を数え、その数を全体の面積の比率で等倍するやり方だ。もちろん写真機もないこの世界では精密な計算など望むべくもないが、それでも目安や参考くらいにはなった。
書記官の一人が計算結果の書かれたメモを片手に竜也とアミール・ダールの前に立ち、動揺に声を震わせて報告する。
「敵の総数ですが……少なめに見積もっても二〇万を越えます。おそらくは二五万に届くものと」
「ご苦労だった」
アミール・ダールは鷹揚に頷いた。「おそらくそんなものだろう」と竜也も頷く。
「アンリ・ボケのことだから六〇万以上の全軍で渡河を決行するかも、と思っていたんだが」
「可能であればそうしていたでしょう。ですができなかった」
竜也の独り言のような問いにアミール・ダールが答えた。
「充分な時間と余裕があるなら全員分の丸太を採取してから総攻撃に移ったでしょう。ですがもう食糧がほとんど残っておらず、時間がなかった。サドマやダーラク達騎兵隊の妨害があり、その損害も無視できなかった。時間や手間と兵数とを天秤にかけ、前者を重視したのだと思います」
「二〇万も動員できるなら、普通ならそれで充分だと考えます。相当の大国でも一戦で滅ぼせる兵数なのですから」
ツェデクの解説にアミール・ダールはやや顔をしかめた。説明は何も間違っていないが、ありのままの真実は抜き身の真剣のように味方を怯えさせるだけだ。その場の空気を入れ換えるべく何か言おうとするアミール・ダールだが、その前に竜也が悠然とした態度で言ってみせた。
「なに、コミケ一日分だと思えば大した数じゃないさ」
その通りですな、とアミール・ダールが追従するように笑う。さらにバースイットも大笑いし、その場から恐怖の感情は一掃されたようだった。「……コミケって何?」と、その場の誰もが疑問に思いはしたものの。
同時刻、野戦本部から少し離れた最前線。
「ケルシュ達は敵に大した痛手を与えられなかったようだな。まあこの状態なら仕方ないか」
今、ノガの目の前にはエレブ兵が川面を埋め尽くす光景が広がっている。敵兵のほとんどが無傷でナハル川南岸へとたどり着いたように見えた。二五万のうち一万が川底に沈んでいようと、見た目の光景に変化はないに違いない。南岸は押し寄せるエレブ兵であふれかえっていた。
「ぐ、軍団長、この数は……」
ノガの配下の兵士が怯えた様子を見せた。兵士だけでなく百人隊長も、敵のあまりの数に、恐るべき光景に萎縮している。ノガは檄を飛ばした。
「味方だって充分な数がいるんだ、怯える必要はない」
迎え撃つヌビア軍は総勢一〇万、ほぼ全軍が動員されている。ヌビア兵は鎧を着込み、盾を持った完全武装である。槍を手にする者、剣を持つ者、弓や火縄銃を用意する兵、投石機や大砲、そして原油の充ち満ちた鉄の鍋。迎撃のための万全の体制が取られていた。
恩寵の部族はそれぞれの部族旗を掲げている。自治都市の出身者ごとの部隊も、それぞれの町にちなんだ旗を掲げていた。様々なデザインの、色とりどりの旗が風を受けて勇壮に翻っている。ノガのナハル川方面軍第七軍団はヌビアの七輪旗を掲げていた。七輪旗を掲げている部隊は他にも多く、ざっと見て翻る旗の三分の一はそれである。
ノガの第七軍団はその兵士のほとんどが徴兵された市民や農民である。ほぼ全員が実戦は前回の戦いが初めてで、その前回もただ立っていただけでろくに何もしていなかった者が半分以上だった。
「エジオン=ゲベルの兵がほんの千でも、いや、五百でもここにいてくれれば」
ノガはそう思わずにはいられない。だがすぐに「ない物ねだりをしても仕方ない」と首を振った。ノガは用意しておいた縄を自分の腰に結びつけ、そして川岸の石壁の上に登って仁王立ちとなった。
「いいかお前等! エレブの雑兵くらいものの数ではない! それを今から見せてやる!」
配下の兵へと高らかに宣言したノガは、そのまま川へと、敵の直中へと飛び降りた。
「軍団長!」「軍団長!」
百人隊長や兵士が慌てて石壁から身を乗り出した。見ると、川の浅瀬に降り立ったノガが敵兵に囲まれている。焦り慌てるだけのヌビア兵の中で、エジオン=ゲベル出身のノガの部下は慌てず騒がす矢を速射し、ノガに近付くエレブ兵を射殺した。
「ううおおぉぉーーっっ!!」
ノガが愛用の鋼鉄の槍を振り回し、その一旋で何人ものエレブ兵が喉を斬られ、目を斬られ、あるいは頭部を殴られた。血を流し、悲鳴を上げるエレブ兵がノガの周囲に転がっている。その外側を、剣を手にしたエレブ兵が包囲した。
「エジオン=ゲベルの名将アミール・ダールの第三子、ノガとは俺のことだ! 死にたい奴からかかってこい!」
ノガの名乗りを受け、複数のエレブ兵が同時にノガへと襲いかかった。だが一合も持たずにノガに斬り捨てられてしまう。散発的に勇敢な、だが無謀なエレブ兵がノガへと突進。ノガがそれを斬り捨てることがくり返された。
「異教徒にも名のある騎士がいるようだな! 我こそモンフェラート伯の騎士、レイモンなり!」
雑兵をかきわけてレイモンと名乗る騎士が登場する。鎖帷子を身にし、手にした剣はなかなかの業物である。敵の名乗りに対し、ノガは不敵に挑発した。
「いちいち覚えていられるか! 地獄で獄卒に名乗るがいい!」
「言ったな!」
槍を構えたレイモンが突進、ノガがそれを迎え撃った。エレブ兵がレイモンを援護しようとするが、矢を射掛けられて接近できない。その間に両者の戦いは決着していた。槍の穂先が四合重なり、槍の柄が四合ぶつかる。九合目でノガの槍がレイモンの心臓を貫いた。
「く……無念」
胸を抱えたレイモンがうつ伏せに倒れる。レイモンの顔が完全に水に浸かるが、レイモンはもう二度と動かなかった。ノガは額の汗をぬぐう。
「あんたなかなか強かったぜ」
もしレイモンが腹を減らしていなかったら、もしレイモンが渡河で疲れ切っていなかったなら、もし五分で戦うことができたなら――一瞬脳裏を過ぎったその感傷をノガは即座に振り捨てた。ノガは槍を構え直し、接近しようとしていたエレブ兵を視線だけで威嚇する。エレブ兵は凍り付いたように足を止めた。
「お前達何をしているか! 取り囲んで全員同時にかかればいい!」
エレブの騎士が追加でやってきて指示を飛ばす。その騎士の頭部に矢が突き刺さり、その騎士は絶命した。だが彼の命令は生きている。エレブ兵はノガを包囲せんと動いた。
「そろそろ潮時か」
ノガは腕を振って合図を送る。それを受けて石壁の上で、十数人のヌビア兵が綱を引っ張った。綱はノガの腰へとつながっている。急激に引っ張られたノガは石壁にぶつかりそうになるが、体勢を変えて壁を蹴った。ノガはそのまま壁を垂直に駆け上がるようにして登り、石壁を乗り越えて地面に転がる。地面に大の字になったノガは気力と体力を使い果たしたように呼吸をくり返した。
「軍団長! 大丈夫ですか!」
「大将、怪我は!」
ノガは何とか身を起こし、野太い笑みを見せる。
「エレブの雑兵ごときにこの俺がやられるか!」
ノガを囲む隊長や兵士からは安堵の笑みがこぼれた。立ち上がったノガが一同へと告げる。
「見ての通りだ、数が多いだけのエレブ兵など恐るるに足らん!」
「そうだ! 大将に続くぞ!」「奴等を近づけるな!」
ノガの奮戦に戦意を極限まで高めた兵士が壁の上に立ちはだかる。壁を登らんとするエレブ兵を矢で、槍で、次々と殺していった。その背後ではノガの巨体が屹立し、第七軍団将兵の戦いを力強く見守っている。それを知っているから兵士達は勇敢に、ときに無謀なまでに戦えるのだ。
兵士に代わって前線に立ち、自らの手でエレブ兵を撃破することで味方の戦意を高揚させるのはノガだけの行動ではない。ヌビア軍の将官は多かれ少なかれそうしていた――そうすることを余儀なくされていた。ヌビア兵の大半は実戦を知らない素人の兵士なのだから。
第一軍団では軍団長にして赤虎族族長のセアラー・ナメルが一族の精鋭を率いて敵の直中に突撃。恩寵が尽きるまで雷撃を放ち続け、エレブ兵を打ち倒し続けた。
第二軍団の軍団長アゴールは鉄牛族の中でも最強の座を争う戦士である。アゴールの得物は長さ二メートルを超え、太さは人の腕ほどもある鋼鉄の棍棒だ。六角形のその棍棒を、アゴールは剛力の恩寵を使って縦横に振り回す。棍棒はかすっただけでエレブ兵の頭部を粉砕、アゴールの通った後には頭部を砕かれたエレブ兵の死体が転がり、死体の道が作られた。
第九軍団の軍団長ディカオンは名の通った傭兵団の団長をしており、その実績から軍団長に選ばれた。一見では陰気な、目立つところのない男なのだが実際の人柄も非常に陰気で愚痴っぽく、傭兵団でも部下に人気が全くなかった男である。
「全く、何だって俺がこんな面倒を……」
ディカオンはぶつくさと文句を言いながら矢を放った。一言の愚痴を言う間に三本の矢を放ち、三本ともがエレブ兵の頭部に突き刺さっている。矢の受け渡しを担当する兵がその神業に唖然とした。
「何をしている」
「は、はい」
兵から三本の矢をまとめて受け取ったディカオンは、
「だいたい俺は団長になりたくなったんだ、それを……」
目にも止まらぬ早業で矢を速射、やはり矢は三本ともエレブ兵を貫いていた。
「次だ」
今度もディカオンは矢を三本受け取り、
「もうちょっとで団も潰れるところだったのに、今度は国軍の軍団長なんて……」
ディカオンの放った矢がやはりエレブ兵を射貫いたことはもう言うまでもない。矢の受け渡しをしている兵は、
「……確かに凄いけど、愚痴らずに矢は放てないのだろうか」
と思わずにはいられなかった。
ディカオンは弓の名手として名高く「ケシェットの再来」とまで呼ばれていた。性格的にも能力的にも全く不向きなのに傭兵団で団長で選ばれたのも、ディカオンがネゲヴ全土でも有名な傭兵だったからだ。不向きながら嫌々団長を務めていたディカオンだが、その傭兵団は経営難で潰れそうになる。
「これで肩の凝る団長からはお役目御免か」
とほっとしていたのに、何の因果か今度はヌビア国軍の軍団長になってしまったのだ。ディカオンとしては、
「愚痴も言わずに矢が放てるか」
と言いたいところだった。
この戦いでディカオンは一〇張の弓を使い潰し、二千の矢を放って一九一九人のエレブ兵を屠った、と記録されている。これはただ一人の戦士が殺した敵兵数の最高記録を大幅に――文字通り桁違いに――更新するものとなった。
「大!粉!砕! 大!爆!砕!」
第十軍団軍団長のタフジールも傭兵団団長としてある意味名の通った男だ。……石壁の上で両手に火縄銃を持って踊り狂っているのがそれだった。
「はーっはっはっは! さあエレブ人どもよ、もっと近付いてこい! そして血と臓物を撒き散らすがよいぞ!」
タフジールの命令を受けて部下が一〇門の大砲を次々と発射する。砲弾はエレブ兵の真ん中に着弾し、何人ものエレブ兵を粉微塵に砕いた。さらには四〇丁を超える火縄銃が一斉に火を噴き、エレブ兵がばたばたと倒れていく。
「遠慮をするな、撃て! 撃ちまくれ! 火薬代は皇帝持ちだ、こんな機会は二度とない!」
タフジールが右手の火縄銃を振り下ろすと大砲が発射され、左手のそれを振り下ろすと火縄銃が一斉射撃された。そしてそのたびにエレブ兵が虫けらのように死んでいき、タフジールが、
「大!全!滅! 大!殲!滅!」
と喜びに舞い踊る。時折思い出したように自分の銃でも銃撃をしたりする。タフジールの傭兵団出身でない、第十軍団のヌビア兵は呆然とそれを見守るだけである。
タフジールは一介の傭兵だった頃から火力を偏重し火力至上主義を信奉し、その傾向は年を経るにつれて強くなりこそすれ弱くなりはしなかった。元いた傭兵団から独立して自分の傭兵団を作ったときも砲兵と銃兵しか揃えなかったくらいである。あまりに偏っていたため仕事がろくに受けられず、火薬が馬鹿高いこともあってあっと言う間に経営難に陥り解散まで秒読み段階となっていたが、そこに聖槌軍のヌビア侵攻が勃発。そして各軍団の軍団長を決める際にその特徴が竜也の目に止まり、竜也の一声で軍団長に選出されたのである。
「皇帝にこのタフジール様のやり方で勝利を捧げるのだ! この火花、この砲声こそ我が忠誠の証なり!」
言っていることはもっともらしいが要約すると「好きなだけ火薬を使わせてくれる皇帝素敵! 抱いて!」となる。タフジールはこの日一日思う存分に砲撃を続け、後日送られてきた請求書に竜也は目を回す羽目となった。
……早朝から始まった戦いは昼を過ぎ、夕方近くなっても途切れることなく続いている。ノガは食事を取る暇もなく督戦に走り回り、自ら弓を取って敵を殺し続けていた。
矢を弓に番えるノガに、副官が耳打ちする。
「軍団長、矢の数が……」
「ちっ、もうそんなに減っているのか……あの愚弟、いい加減な計画を」
ノガは自分の弟に八つ当たりをした。コハブ=ハマーが立てた補給計画はアミール・ダールにも事前に報告されていたし、ノガも目を通していた。そこで誰も文句を言わなかったのだから、彼の計画に不備があったわけではない。矢の消費が万人の予想を超えて早かっただけである。
「仕方がない、弓兵の半分を槍に切り替えさせろ。敵を引きつけて殺すぞ」
矢による攻撃が弱まり、敵兵は一層南岸へと押し寄せてきた。殺到と言ってもいい。石壁のすぐ下は敵兵が集まりすぎて身動きもままならないくらいである。亡者の群れのようなエレブ兵は、味方を足場にし、踏みつけ、乗り越え、石壁を登ろうとする。本人の意志とは全く無関係に、ただ適当な場所にいたという理由だけで足場にさせられたエレブ兵は、味方に踏みつけられ、踏み躙られ、圧死し窒息死した。文字通りに味方の屍を乗り越え、エレブ兵がようやく南岸へと降り立つ。
「はい、ご苦労さん!」
そして即座にノガにより斬り殺された。ノガは率先して前に立ち、石壁を越えてくる敵兵を次々と殺していく。ノガの勇姿に味方も発奮し、剣を振るい槍を手にし、エレブ兵を死体へと変えていく。突き落とされるエレブ兵の死体が石壁を登っているエレブ兵を巻き込んで転がり落ちた。
それでもエレブ兵は石壁を登ろうと次々と押し寄せてくる。まるで味方の損害が目に入っていないかのようだ。
「きりがない」
さすがにノガもうんざりし「あとどのくらい敵兵が続いているのだろうか」とエレブ兵の後方へと視線を送る。そこでノガはあることに気が付いた。
「――貴様達、何をやっている! 枢機卿のお言葉を忘れたのか!」
後方に小船が浮かんでいる。船の上では鎧を身にした騎士が立ち、剣を振り回している。どうやら周囲の兵士を叱責し、督戦しているようだった。その騎士に押されるようにしてエレブ兵が南岸へと向かっている。
「おい、あれを持ってこい」
ノガは愛用の強弓を用意させ、それに矢を番えた。放たれた矢は一スタディアの宙を切り裂き、督戦するその騎士の喉に突き刺さる。その騎士が川面へと倒れ、水に沈んでいった。
「うわぁ!」
船の周囲のエレブ兵は悲鳴を上げて逃げていく。南岸に離れている場所から波が広がるように徐々に、順番にエレブ兵が逃げていき、やがてのその波が南岸に到達した。エレブ兵が算を乱し、蜘蛛の子を散らすように必死に逃げていく。ノガが担当する部署だけ敵兵の姿がなくなり、奇妙な空白が生まれた。
あるいはそれが契機となったのかもしれない。戦線の全域で敵の攻撃が弱まった。早朝から丸一日戦い続け、ネゲヴ側の防御はいっこうに崩せず、自軍ばかりが一方的に殺されていく。エレブ兵も限界を迎えていたのだろう。攻撃はどんどん弱まり散発的になり、日が沈む頃には完全に終息。エレブ兵の大半は北岸を目指して逃げていったが、逃げ出す気力も残っていない一部の兵が南岸に留まり、ネゲヴ軍の捕虜となった。
戦闘中には全く出番のない竜也だが、戦闘終結後にはやるべき仕事が貨車でやってくる。
「うわっ、これ全部捕虜なのか」
今回の戦闘で獲得された捕虜の数は一万五千に達していた。既に武装解除をしているが、それでも暴発防止のために数万の兵が見張りに立っている。激闘の後も休むことができないまま見張りに動員され、兵はうんざりした顔を見せていた。
「皇帝、この連中はどうしたら」
と軍団長や官僚も途方に暮れた様子である。竜也は急いで指示を出した。
「捕虜を一箇所に固めておくな、まず二〇か三〇のグループに分けろ。その上で一グループずつ港に向かわせろ。港で捕虜の振り分けをする」
竜也の指示を受けて各部隊が動き出す。竜也は振り分けの準備のために港へと先行した。
……それからしばらく後。エレブ兵の捕虜が一グループずつ港へと向かって歩いている。港では槍を持った兵が道を作るように等間隔に並び、同じように無数の篝火が等間隔に立ち並んでいる。そのような兵と篝火により作られた幅五メートル程の道が何本か用意され、エレブ兵捕虜がその中をぞろぞろと歩いていた。
その道の外側からは、
「皇帝は慈悲を持って貴様等を捕虜とする! 大人しくしていれば危害は加えない!」
「貴様等には鉱山や山林開拓の労働をさせる! 反抗や反乱を起こさないなら、充分な食料と休養を約束する!」
と兵が大声で呼びかけ続けている。他にも、
「ヌビアの民間人を殺した者はいないか?! 女を強姦した者は?!」
「裕福な貴族はいないか?! 指揮官は?!」
と呼びかける兵もあった。
道の出口にはラズワルドの姿がある。ラズワルドだけでなくその下の女官、総司令部で司法関係の仕事をしている者等、恩寵を持つ白兎族が総動員されていた。
道から出てきたエレブ兵捕虜がラズワルドの目の前を通り過ぎていく。一〇人か二〇人に一人くらいの割合でラズワルドが、
「これ」
と指示を出す。それに従い兵が動き、指定された捕虜を別の場所へと移動させる。他の場所でも同じ作業が延々と行われていた。
捕虜選別の作業に立ち会いながら、竜也は各部署からの報告を受けている。
「銀狼族との接触を試みたのですが、北岸にはまだエレブ兵が溢れているようでした。今夜の接触は断念したところです」
と報告するのはベラ=ラフマである。
「敵の被害状況は知りたいが、銀狼族を危険にさらすべきじゃない。接触は明日以降で構わない」
頷いて立ち去るベラ=ラフマと交代にミカが現れる。
「概算ですが今日の矢の消費量と、今後の補給計画です」
ミカから渡された書類に目を通し、タツヤが呻いた。
「……あと一回こんな戦闘があったら矢玉が底をつくじゃないか」
「はい。何とか供給量を増やさないと、このままでは行き詰まります」
竜也は書類をにらんでしばらく呻いていたが、やがて方針を決定してミカへと告げる。
「……ジルジスさんとも相談してもう一度補給計画の練り直しを。ナーフィアさんや各商会には俺からも要請をする」
「判りました」とミカが立ち去り、今度は別の官僚が竜也の前に立った。
「皇帝タツヤ、概算ですが今回の戦闘の被害状況です」
竜也は手渡された書類に目を通して確認する。
「……戦死者は二千から三千か」
竜也は目を瞑ってしばしの黙祷を捧げた。戦闘の規模と、敵に与えた損害の大きさを考えればごく軽微と言うべき戦死者数だ。だが少数であろうと、竜也の命令で戦った者達の死を竜也が悼むのは当然のことだった。
「……戦死者名はちゃんと一覧にして残しておくように。遺族には何らかの形で必ず報いる」
……竜也は立ったまま報告を受け続け、書類をさばき続けた。空が白み始める頃にようやく仕事が一段落つき、捕虜の選別もほぼ同時に終わっていた。
「それで、どの連中がそうなんだ?」
「はい。あの一団は裕福な貴族、あの一団は百人隊長の騎士達です。残りが西ヌビアの民間人を殺害した者・女を強姦した者、それと反乱や脱走を考えている者達です」
裕福な貴族・百人隊長クラスの騎士は合わせて数十人である。
「この連中はとりあえず牢屋へ。貴族連中は本国から身代金を取るのに使う。交渉にはバール人商人を当たらせろ、得られた身代金は折半だ。百人隊長の連中には後で尋問をする」
残りの不穏分子に分類されるエレブ兵は千人以上に上っていた。
「この連中はシャッル達奴隷商人に買い取らせろ。一人一〇ドラクマで構わない」
竜也が捕虜の処遇を決定し、兵がそれに従い動き出す。それを終え、竜也は徹夜で捕虜を選別し続けた白兎族へと向き直った。
「皆も今日はご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」
白兎族の一同は疲れ切っていたが竜也の言葉に恐縮する。力尽きたラズワルドは竜也しがみついて立ったまま眠っていた。竜也は眠るラズワルドを抱え、騎馬で総司令部へと戻っていった。
問題は山積しているとは言えヌビア側は一方的な勝利でこの戦いを終え、その表情も明るかった。それとは対照的なのが一方的な敗北を喫した聖槌軍側である。
「……どうするんだよ。この川が渡れないんじゃ」
「俺達、ここで飢えて死ぬのか……?」
死闘を経て、かろうじて北岸に戻ってきたエレブ兵は虚ろな表情でナハル川の川面を見つめている。先日の激闘も、川が呑み込んだ幾万の死体も敗北も、何もかもが嘘だったかのように川面は静かであり、戦いの前から何の変化も見られない。まるで海より広い底なし沼を死体で埋め立てようとしているかのようだ。無意味な暴挙に動員させられていることを、その徒労感を彼等は感じずにはいられなかった。
スキラの建物の大半は解体されて南岸に移設されたが、解体されずに残っている建物も少なくはない。聖槌軍の将兵は分散してそれらの建物を宿舎としていた。残っている建物の中で一番豪奢な建物を宿舎としたのがアンリ・ボケで、一番堅牢な建物を宿舎としたのがユーグである。
ユーグが宿舎としたのは海に近い、海軍の要塞と見られる施設だ。ユーグはそこでタンクレードからこの戦いについての報告を受けていた。
「……損害は四万から五万になるか」
「はい。戻ってきてから死んだ者も含めれば全体の四分の一が帰ってこなかったことになります。戦死・捕虜・逃亡、いずれかに該当しているものと思われますが」
少しの時間を置き、二人は同時に重いため息をついた。
「多分、六割から八割が戦死、残りが捕虜だろう。あの戦況ならそれくらいは死ぬ」
ユーグの言葉にタンクレードが同意する。
「戦いに加わったのも損害を受けたのも、その多くが枢機卿派です。だからと言ってこの結果を手放しで喜んでいるわけではありませんが」
ユーグは「ああ」と頷く。
「枢機卿派にはフランクの将兵も大勢加わっている。最近感覚が麻痺しているが、五万という戦死者は一国を傾けるに足るものだ。こんな敗北や損害をくり返すわけにはいかない」
ユーグはフランクの王弟なのだからフランクの諸侯貴族全てが王弟派に属しているか、といえば決してそんなことはない。むしろユーグはフランク諸侯の特権を武威を持って奪った張本人であり、その恨みから枢機卿派に属するフランク諸侯も少なくはなかった。また一方、ユーグに対する恨みは深くともそれ以上に敵対的な諸侯が枢機卿派に属したため王弟派に属した者もいるし、同じ家で兄は枢機卿派、弟は王弟派に属している貴族もいる。ブリトンは歴史的にフランクとの敵対関係が長い国であり、その関係で枢機卿派に属している諸侯が多いが、やはり同じく諸侯間の関係で王弟派に属する者もいる。そして聖職者の間でも派閥があったり勢力争いがあったり協力関係にある諸侯との付き合いがあったりして、決して枢機卿派一枚岩というわけでなく、王弟派に属する者も多かった。
「殿下、そろそろお時間です」
そこに秘書官が現れて告げる。そうか、と答えたユーグは準備を整え外出する。同行するのは近衛の護衛、そしてタンクレードを始めとする何人もの将軍達だった。
ユーグが向かったのはナハル川にほど近い、太陽神殿の跡地である。そこにはアブの月の戦い、エルルの月の戦いで聖槌軍の本陣が設置された場所だった。それにユーグの宿舎とアンリ・ボケの宿舎のちょうど中間に位置していることもあり、両者が会談を持つときはこの場所を使うことが恒例となっていた。
ユーグ達が本陣に到着するとすでにアンリ・ボケの姿がそこにあった。ユーグだけでなくアンリ・ボケもまた鉄槌騎士隊の護衛、枢機卿派の聖職者や将軍を引き連れている。イベルスの将軍サンチョがアンリ・ボケに撲殺されて以降、以前のようにユーグとアンリ・ボケが一対一で対面することは絶えてなくなっていた。
「……先の戦いでは実に多くの将兵がその生命を散らしました。ですが、我々はその死を悼んでばかりはいられません。彼等の献身を無為にしないためにも我々は勝利を掴まなければならない。この苦難が過酷であればその分だけ神の栄光は輝きを増すのです」
会談はアンリ・ボケの長口上から始まった。内容のない独演会が長々と続き、ユーグは神妙な顔でそれを拝聴しているように装いつつ、右から左へと聞き流している。アンリ・ボケが言っていることは、美辞麗句や大げさな形容詞、虚飾をはぎ取ってしまえば要するに、
「敵は卑怯にも南岸に立てこもっている」
「この状態では誰が指揮を執っても結果は同じだ」
「これを乗り越えて敵に勝つにはより一層の信仰心が必要だ」
「今回負けたのも将兵の信仰心が足りなかったからだ」
ということだった。ユーグとしては相手にするのも阿呆らしく、反論する気にもなれない。
「……とは言え、私もいたずらに将兵の犠牲を増やすことを望んでいるわけではありません。どうやら王弟殿下には違うご存念がおありのようだが、いかがでしょう? 次の戦いでは王弟殿下に指揮を執っていただくのは」
「僕に?」
自分を指差すユーグにアンリ・ボケは深々と頷いた。
「ええ。戦争の天才と謳われた殿下の手腕、是非見せていただきたいのです」
ユーグは一呼吸置き、頷いた。
「――判った。僕が指揮を執ろう」
会談はそれで終了し、ユーグとアンリ・ボケはそれぞれの帰路に着いた。その道中、歩きながらタンクレードがユーグに、
「枢機卿は色々と言っておりましたが、これは!」
「ああ。要するに『次はお前達王弟派が戦え』ということだ」
ユーグは肩をすくめ、タンクレードは思わず唸った。
「しかし、このまま戦いを挑んでも先の戦いの、枢機卿の二の舞となるだけです」
「そうだな。何か考えなければならない」
タンクレードはユーグを諫めようとした。
「負けが目に見えている戦いで無為に兵を損なうより、アンリ・ボケを殺すことを優先すべきだ」
タンクレードはそう言おうとし、それを喉の奥へと呑み込んだ。ユーグの目は負け犬のそれではない。勝つのは自分だという自信が光となってそこに湛えられている。歩きながら作戦の立案に没頭するユーグの横顔を、タンクレードは深い満足と心からの忠誠を持って見つめ続けていた。