「黄金の帝国」・逆襲篇
第四二話「敵の敵は味方・後」
タシュリツの月(第七月)の一二日、時刻は早朝。場所はスキラ湖の北岸。そこには今、二隻の船の姿があった。石ころだらけの見渡しのいい岸辺が一スタディアの幅で続いており、そこから二スタディアほど沖合に外洋船が一隻。広々としたその岸辺に接し、小さな船が一隻浮かんでいる。十人も乗れば満員のその船に、今は八人の人間が乗っていた。
「夜明けか」
竜也は地平線から離れる太陽を見つめた。
「合図は?」
「まだない」
短い会話を交わしたのは赤虎族のダーラクと金獅子族のサドマだ。その横には牙犬族のサフィールが佇み、
「……ルサディルを思い出しますね」
と呟く。牙犬族のバルゼルが無言のまま同意するようにかすかに頷いた。
「……しかし、本当に来るのか?」
と問うのはアミール・ダールの第三子ノガであり、
「望みはある、としか今は言えません」
そう答えるのは白兎族のベラ=ラフマだった。最後の一人、白兎族のラズワルドは外套に身を包み、竜也の膝の上で丸くなって眠っている。
アンリ・ボケとの会談にあたり、竜也は互いの身の安全を図るための条件を親書に記載しておいた。
「ヌビア側は皇帝クロイが、聖槌軍側は枢機卿アンリ・ボケが必ず出席する。同行者は二人まで、護衛は五人まで。それ以外の両軍の兵士は会談場所から二スタディア離れる」
そして竜也の同行者がベラ=ラフマとラズワルドであり、護衛がバルゼル・サフィール・サドマ・ダーラク、そしてノガだった。近衛隊隊長のバルゼルが護衛となるのはもはや太陽が東から昇るくらいに当たり前のことだが、いずれは皇妃になってもらうサフィールを護衛とすることに竜也は難色を示した。が、
「……」
頬を膨らませて竜也を凝視する無言のサフィールに押し切られてしまったのだ。当初は護衛を全員近衛で揃えるつもりだったのだが、そこに口を挟んできた者がいる。
「これほど重要な任務を牙犬族だけが任されることには納得がいかん」
「俺達が犬どもより弱いっていうのか?」
皇帝は牙犬族だけを優遇している、という風聞が流布することは竜也もバルゼルも望んでおらず、他部族や他所からも護衛を受け入れることとなった。サドマとダーラクはそれぞれの部族を代表する戦士であり、西ヌビアを蹂躙する聖槌軍と戦い続けてきた実績があり、竜也とも親しく付き合ったことがある。竜也も二人のことを喜んで受け入れた。
「ヌビア軍最強の戦士は誰か?」
という問いに答えるのは難しい。だが「最強の五人は誰か?」という問いならば、そこにバルゼル・サドマ・ダーラクの三人の名が挙がるのは確実だった。
一方、ノガが護衛として選ばれたのは政治的理由が多分に含まれる。だがノガも恩寵を持たない人間の中では最強の一人に数えられる戦士だ。バルゼル達のような恩寵の戦士の中でも超一流にはかなわずとも、一段下の一流程度の戦士となら充分互角に戦える。バルゼル達もその点は認め、ノガが護衛に加わることに異議を唱えはしなかった。
「――タツヤ殿、エレブ兵が」
張りつめたサフィールの声に、竜也はラズワルドを抱えたままその場で立ち上がった。その拍子で目が覚めたラズワルドは寝ぼけ眼をこすり、さらには顔を竜也の胸へとこすりつけている。一人だけ緊張感の欠片もないラズワルドを放置し、他の七人は最大限の警戒心を持って接近するエレブ兵の姿を見つめた。
サフィールが発見したのは斥候の兵士のようで、すぐに姿を消した。しばらく時間を置いて今度は隊列を組んだエレブ兵の一団が接近してくる。その数は約百人。旗を掲げているが、その文様まではまだ判別できない。
「交差した二本の鉄槌……見覚えがあります、アンリ・ボケの鉄槌騎士隊に間違いありません」
八人の中で一番視力のあるサフィールが報告。続いてダーラクが「間違いないようだ」と同意した。
「アンリ・ボケはいるか?」
「待ってください……もしかしてあれがそうでしょうか。この距離では顔までは」
サフィールは鉄槌騎士隊の中に一際体格のいい男を見出し、その男へと全視力を集中する。鉄槌騎士隊は竜也達から計ったように二スタディアの距離を置いて停止。そこから八人が離れ、竜也達へと接近した。
もうサフィールに確認してもらうまでもなく判別できる。八人の中にアンリ・ボケがいる、竜也達へと向かって静かに、着実に歩んでいる。
「……まずは第一関門突破か」
「はい。ですがすぐに第二関門です」
安堵のため息をつく竜也にベラ=ラフマがたしなめるように言い、竜也が「判っている」と気を引き締めた。その間にもアンリ・ボケは接近、やがて一〇パッスス(約一五メートル)程の距離を置いて停止した。
両者はそのまま対峙、しばらくの間沈黙がその場を支配する。竜也はアンリ・ボケとその取り巻きを観察した。
一団の中央で屹立しているのはアンリ・ボケだ。身長一九〇センチメートルを超える巨体を黒い法衣に包み、仮面のような柔和な笑みを湛えている。その両側に立っているのは騎士甲冑に身を包んだ男と、聖職者の法衣をまとった男。その二人が同行者という位置付けなのだろうが、その目つきからして鉄槌騎士隊の手練れの騎士にそれっぽい格好をさせているだけとしか思えなかった。
つまりはアンリ・ボケは「護衛は五人まで」という約定を破っているわけだが、それを責めるつもりは竜也にはない。卑怯というなら恩寵の戦士と恩寵を持たない兵士の戦力差の方がよっぽど卑怯臭い、というのが竜也の正直な所感だった。
後ろに回した竜也の手をラズワルドかがしっかりと握る。竜也と同じようにアンリ・ボケもまた竜也達の姿を観察し、分析しているところである。
(……黒い服に金の角の若い男、これがヌビアの皇帝クロイか。まだ子供ではないのか? 隣の黒髪の男が本当の交渉相手ということか。悪魔の民の戦士が三人……今戦うのは得策ではない)
アンリ・ボケもまた人生の大半を戦場で過ごしてきた男である。バルゼル達三人の名を知らずとも、彼等が歴戦の戦士であることが判らないはずがない。が、サフィールとラズワルドの存在には困惑を抱かずにはいられないようだった。
(悪魔の民の戦士は女でも油断できないが……もう一人の方は本当の子供ではないか。一体何のつもりだ?)
アンリ・ボケの柔和な笑みは鉄仮面のように全く変化がないが、その思考も感情も、ラズワルドの恩寵の前では全てが筒抜けだ。竜也は内心の苦笑を懸命に隠した。
(卑怯なんてもんじゃない、反則がすぎるだろうこれは)
(わたし達を敵に回したあの人が愚かなだけ)
確かに、と竜也はラズワルドに同意し、気持ちを切り替えた。
「――聖槌軍の枢機卿、アンリ・ボケだな」
「いかにも。ヌビアの皇帝、クロイとお見受けする」
アンリ・ボケの確認に「その通りだ」と答える竜也。それが武器なき戦場の口火だった。
「あんたが自らここに来ているということは、俺の申し出た取引に応じる、ということか」
「そうとは限らん」
アンリ・ボケはそう言いつつも、内心では取引を成立させるべく懸命に考えを巡らせていた。竜也は内心でガッツポーズを取る。
(よし、取引に応じるつもりがある!)
(はい。第二関門突破です)
「それじゃ何をしに来たって言うんだ。俺もあんたも忙しい身分だ、体裁を取りつくろうだけの余計なやりとりは抜きでいいだろう?」
竜也の言葉にアンリ・ボケは答えを返さない。だがその内心では様々な思考が渦を巻いていた。
「あんたにはヴェルマンドワ伯ユーグの首級は不要だろうが、俺達には必要だ。俺達にはモーゼの杖は不要だが、あんたは必要だろう? お互いの要るものと要らないものを交換する、最も基本的な取引だ」
「……貴様の狙いはあの男の首級ではあるまい。私とあの男とを噛み合わせ、共倒れにすること、それこそが真の狙いであるはずだ。違うとでも言うのか?」
「あんたが下手を打てばそうなるだろう。上手くやればいいだけの話だ」
竜也とアンリ・ボケが無言で視線をぶつけ合う。だが竜也はアンリ・ボケの推測を否定しなかったし、アンリ・ボケは内心で竜也の主張を肯定していた。
「そもそも、杖は貴様のものではあるまい」
「今は手元にないが、すぐに用意できる」
アンリ・ボケの確認に竜也が即答。アンリ・ボケもそれ以上は疑わなかった。
アンリ・ボケはそのまま数十秒間、沈黙し思考を巡らせている。やがてアンリ・ボケがその口を開いた。
「やはりこの取引は受けられんな」
苦虫を噛み潰したような竜也が「何故だ」と問い、アンリ・ボケが「信用できんからだ」と端的に答える。ラズワルドの恩寵を通じてアンリ・ボケの思考は全て読んでいる。竜也にとってそれは質問ではなく確認だった。
「先に杖を持ってこい。杖を手にしたなら、その上であの男の首級を取りに行く」
「首級が先だ。あくまで首級と杖を交換だ」
二人は互いの主張をぶつけ合う。だがそこに妥協点はなかった。アンリ・ボケは先に杖を手に入れたとしてもユーグを殺すつもりはなかった……少なくとも即座には。
(王弟派から切り離してしまえばあの男とて恐るるに足らん。南岸を占拠した上で焚刑にでもすればいい)
それを把握している竜也が杖を先に渡せるはずがない。一方、竜也としてはユーグとアンリ・ボケが噛み合ってくれるなら杖くらいいくらでも渡すつもりでいるのだが、それはアンリ・ボケには伝わらない。
(杖を手にするためなら王弟派との全面衝突もやむを得ん……が、そうなったとしても私に杖を渡すかどうかはこの小僧の腹一つではないか。そんなものをどうして信用できる)
竜也を信用できない、信用する理由のないアンリ・ボケが杖より先にユーグの首級を獲ろうとするわけがない。つまり、取引を成立させるにはアンリ・ボケの信用を得るか、何らかの妥協をするしかない――それこそが第三の関門、最終関門。ここを突破すべく竜也はずっと考え続けてきたのだ。だが未だ良案は見つかっていない。
しかし、杖を欲し、取引を望んでいる点ではアンリ・ボケもまた竜也に負けてはいなかった。彼は彼で取引を成立させるべく知恵を絞っていたのだ。
「杖を必ず引き渡すという保証が必要だ。人質をよこせ。確か皇妃はケムトの王女だったな、その者をよこしてもらおう」
アンリ・ボケの言い放った言葉に空気が凝固した。最低限このくらいは当然だ、とアンリ・ボケは得々と頷く一方、竜也達が怒りを噛み殺している。特に竜也の怒りは深刻だったが、「冷静になれ」と必死に自分に言い聞かせた。
(確かにアンリ・ボケの立場ならそのくらいの保証は必要だろう。立場が逆なら俺だってそうする)
そして竜也がその要求を決して呑めないこともまた確かだった。竜也にもしものことがあってもファイルーズさえいれば、ファイルーズを拠り所としてヌビアは結束し続けることができる。ヌビアにとっては竜也よりもファイルーズの方が重要性が高い――と少なくとも竜也は思っている。ベラ=ラフマあたりにはまた別の判断があるだろうが。
(……そうか、俺が人質になればいいんだ。仮にも皇帝なんだ、こいつだって文句はないだろう)
そのとんでもない思いつきを得た竜也は晴れやかとなった顔を上げる。重苦しく暗い濃霧が突然晴れ上がり、視界が開けたような気分だった。取引を成立させ、ヌビアを救うための正解にようやくたどり着いた――と竜也は思っている。アンリ・ボケへと向き直った竜也がそれを提案しようとし、
「――わたしが人質になる」
ラズワルドが先制して宣言した。手を挙げ、身体一つ分竜也の前に進み出るラズワルド。一瞬唖然とする竜也だが、
「ば……馬鹿! そんなの認められるか!」
「馬鹿はタツヤ。わたしが言わなかったら自分が人質になるつもりだった」
ラズワルドが非難の目を竜也へと向けた。反論しようとする竜也だが、剣よりも鋭い怒りの目が、無言の諫言が四方八方から竜也の全身に突き刺さる。竜也は我知らずのうちに身を縮めて言葉を呑み込んだ。
「待ってください。ラズワルド殿よりもわたしの方が」
一拍置いてサフィールもまた人質へと立候補するがラズワルドは「だめ」と首を振った。
「第二皇妃のわたしなら第一皇妃の代わりが務まるけど、第五皇妃じゃ向こうも納得しない。それに何より、わたしの方が安全」
ベラ=ラフマが背後から、
「この者の言う通りかと。人質しては最適の人選です」
と援護する。竜也は激情を堪えるために歯を食いしばった。竜也の理性はすでに計算結果を出力している。皇妃(候補)の六人のうち、ファイルーズ・ミカ・カフラは失った場合の政治的なマイナスが大きすぎて到底人質に出せない。エレブ人のディアはアンリ・ボケの側が人質としての価値を認めないだろう。残ったのはラズワルドとサフィールだが、どちらを失ったとしても竜也の政治的立場には全く影響がない。後はどちらがより身の安全を図れるかだが、今の場合なら烈撃よりも読心の恩寵の方がより有用に違いない。戦いに行くわけではなく、人質としてエレブ人の直中にたった一人で放り込まれるのだから。
残った問題はアンリ・ボケが納得するかどうかだが、
「――よかろう、その小娘を人質として認めよう」
竜也の振る舞いを目の当たりにし、その執着を演技ではなく本物だと判断。アンリ・ボケはラズワルドの提案を受諾した。後は竜也がそれを承認するだけである。
「……判った」
鉛よりも重くなった頭部を何とか前後に振る竜也。ラズワルドも「ん」と頷き、船を下りた。ラズワルドはそのまま軽やかな足取りでアンリ・ボケの方へと歩いていく。数秒後にはラズワルドはアンリ・ボケの目の前までやってきていた。
アンリ・ボケは「うむ」と頷き――背負っていた愛用の聖杖を、黒々と光る鋼鉄の鉄槌を高々と振り上げた。鉄槌を頭上にかざされもてラズワルドは人形のように無表情なままだ。だが竜也の方はそうもいかなかった。
「ラズワルド!」
竜也は船から飛び降りようとした。だがそれよりも早くアンリ・ボケが鉄槌を振り下ろす。その瞬間、誰もがラズワルドの頭部が砕け散る光景を幻視した。
「……終わった?」
最後まで平然としていたのはラズワルド一人だったかもしれない。アンリ・ボケの鉄槌はラズワルドの頭部から紙一重の空間で制止していた。安堵のあまり竜也はその場にひざまずきそうになる。が、何とか踏み止まった。
アンリ・ボケは竜也とラズワルドの様子を見比べ、「うむ」と満足げに頷いた。
(人質としての価値は充分なようだ。この歳でこの腹の据わり具合、皇妃というのも嘘ではあるまい)
確かにラズワルドは同年代の少女の中では飛び抜けた鋼鉄の無神経を誇っているが、今の場合は腹の座り具合の問題ではなく、アンリ・ボケに殺意がないことを誰よりも知っていたからに過ぎない。過ぎないのだが、そんなことをアンリ・ボケが知るはずもなかった。
「ついてこい」
とアンリ・ボケが背を向け、ラズワルドが「ん」と頷いた。その背に、
「アンリ・ボケ!」
ゆっくりと竜也に向き直るアンリ・ボケに、
「その子にかすり傷一つ付けるな。――折れた杖や粉々になった杖はほしくないだろう?」
竜也は牙と敵意をむき出しにした、壮絶な笑みを見せつけた。アンリ・ボケは舌打ちをし、今一度背を向けて立ち去っていく。アンリ・ボケの、ラズワルドの姿が林の中に消えるまで、竜也はそれを見送っていた。
「タツヤ殿……」
サフィールには気遣わしげに声をかけることしかできない。
「アンリ・ボケに人質を害する意志はありません。ご心配なきよう」
とフォローをするのはベラ=ラフマだ。竜也は煩わしげに「判っている」と答えた。
「急いでサフィナ=クロイに戻るぞ。杖を手に入れて、一刻も早くラズワルドを取り返す!」
竜也達は沖合に待機していた外洋船に乗船、一路サフィナ=クロイへの帰路に着く。逸る竜也の思いを受けるように風を受け、その船はスキラ湖を進んでいった。
「アンリ・ボケとの取引も難問だけど、どうやって杖を奪い返すかも問題だ」
時間は若干前後してタシュリツの月の一一日。アンリ・ボケとの会談に臨む前日の晩、竜也はベラ=ラフマに問うていた。
「何か方法は?」
「おう、俺達に任せろ」
ベラ=ラフマよりも先に竜也の前に進み出たのはガイル=ラベクである。
「ケムト艦隊の監視には軍船五〇隻を動員している。お前の命令さえあれば今すぐにでもガベスに攻め込んでやる」
とガイル=ラベクは胸を張る。海上封鎖の任務をずっと続けてきた海軍だが、陸軍のようには大規模な会戦を経験せず、華々しい戦果も獲得していない。無意味に戦うつもりはないが、また同時に戦う機会を逃すつもりもないようだった。
が、血気盛んなガイル=ラベクに対し、竜也は戦火の拡大を望んではいなかった。
「今ケムトまで敵に回すのは得策じゃない。戦闘以外の方法は?」
落胆するガイル=ラベクに代わってベラ=ラフマが竜也の前に進み出た。
「ギーラの元にはこちらの手の者を潜り込ませています。命令があれば杖だけでなくギーラの首級も獲らせることができます」
ギーラの信頼を得るために諜報活動もさせず、ただギーラのために働かせている、ベラ=ラフマにとっての切り札だ。ベラ=ラフマはこの切り札の効果に満腔の自信を持っていた。
竜也は「うーん」と悩み、
「できればそれは最後の手段にしたい」
とその案を保留とした。「他に何か方法は?」という竜也の問いに対し、
「難しいことではありませんわ」
満面の笑みを湛えつつ真打ちとして登場したのはファイルーズだった。ファイルーズはイムホテプにその案を説明させる。それを聞き、
「お見事です」
とベラ=ラフマは端的に賞賛し、
「あの男も哀れだな」
とガイル=ラベクは同情した。
竜也が「説得は?」と確認し、ファイルーズが「すでに協力を取り付けておりますわ」と答える。勝利を確認した竜也が獰猛な笑みを見せた。
「愛してるぞファイルーズ」
竜也の言葉にファイルーズは「あらあら」と言いつつも珍しく照れた様子を見せる。だが竜也はそんなファイルーズを見ていない。ギーラから杖を奪い取る段取りを組み立てることに夢中だった。
そしてタシュリツの月の一二日。早朝にアンリ・ボケと取引をし、ラズワルドを人質に取られてすぐ。サフィナ=クロイに戻った竜也は船を用意し、ガベスへと向かった。竜也がガベスに到着したのは昼過ぎである。
一方のギーラは自分の船室でその知らせを聞いていた。
「あの小僧が?」
「はい。皇帝クロイが特使ギーラ、提督センムトとの会談を求めています」
ギーラは少し考える素振りをし、
「いいだろう。接舷を認めよう」
と大仰に頷いた。
……ヌビア海軍の軍船がケムト艦隊の旗艦に接舷する。ギーラは竜也を迎える準備を万端に整えていた。ギーラの周囲には何十人もの、完全武装のケムト兵が槍を揃えて並んでいる。
「愚かな小僧だ。適当な口実を付けて今この場で串刺しにしてやろう」
と皮算用にほくそ笑むギーラ。その隣にはセンムトが白けきった顔で佇んでいた。
やがて、板を渡ってヌビアの軍船から何人もの人間がケムトの軍船に乗り込んできた。まずは青鯱族の水兵、続いて赤虎族のダーラク、金獅子族のサドマ、そして牙犬族のバルゼルを始めとする近衛の剣士達。ギーラの皮算用は早くも綻び出していた。
「……あれはもしかして『ルサディルの血の嵐』か?」
「たった七人で千のエレブ兵を斬ったっていう……」
ケムト兵の囁きがギーラの耳にも届いている。それにギーラはサドマやダーラクのことも知っていた。人数だけならケムト側がずっと多く、彼我の差は三倍にもなるだろう。だがバルゼル・サドマ・ダーラクの三人が本気になればこの三人だけでケムト側を圧倒できる、その程度の人数差でしかないのだ。
近衛に続いて竜也がケムト船に乗り込んでくる。そして、竜也はファイルーズを伴っていた。
「皆様、ご機嫌よう」
ファイルーズの言葉にセンムトが、ケムト兵が背筋を伸ばして直立不動となる。ギーラは自分の皮算用が完全に破綻したことを理解した。竜也に剣を向けるのはファイルーズに向けることとほぼ同義だ、センムトやケムト兵がそんな命令に従うはずもない。
「ふん、何のようだ。小僧」
ふて腐れたように問うギーラに対し、
「こっちの作戦にモーゼの杖が必要になった。引き渡してもらいたい」
竜也は端的に要求を突きつける。ギーラは思わず訝しげな顔をした。
「何を言っている? そう言われて『はい、そうですか』と渡すとでも思っているのか?」
竜也は「いや、まさか」と首を横に振った。その上で、
「だが、これは必要なことだ。だから渡してもらう」
そう断言する。その断固たる口調、その殺気立った目つきが、竜也が本気であることを物語っていた。ギーラは舌打ちをする。
「渡せんな。ヴェルマンドワ伯と和平を結び、東ヌビアの、ひいてはケムトの安全を確保するために杖は必要不可欠だ」
竜也にでなくケムト兵に聞かせるように、ギーラは宣言した。ケムト兵が息を呑み、槍を握り直している。センムトは麾下の軍船に密かに合図を送っていた。
「今、ここで聖槌軍を壊滅させる。そのために杖が必要なんだ」
「信じられると思うか? そんな与太話を」
竜也の訴えをギーラは嘲笑する。竜也が一歩後方に下がり、ケムト側に「戦闘か?」と緊張が走った。が、竜也に変わって前へと進み出たはファイルーズだ。
「提督センムト、タツヤ様に杖を託してはいただけませんか?」
センムトが何を言うよりも早く、ギーラがファイルーズとセンムトとの間に割り込んだ。
「提督センムトに対する命令権は特使たる私にある! 私は特使として、宰相プタハヘテプから聖槌軍問題に関する全権を委任されている! 要求があるなら私に言ってもらおう!」
ギーラが高圧的に発言し――その顔が不審に埋め尽くされた。
ファイルーズが可笑しそうな笑みを見せている。竜也が悪辣な笑みを、サドマやダーラク達が嘲笑を浮かべている。
「『提督センムトに対する命令権は特使にある』、『宰相プタハヘテプが特使に聖槌軍問題に関する全権を委任した』。それに間違いはないな? ――副特使ギーラ」
竜也の確認にギーラは一瞬耳を疑い、そしてその顔を蒼白とした。竜也やファイルーズが後背を振り返る。ヌビアの軍船から水兵の担ぐ輿に乗って、一人の老人がケムトの軍船へと乗り込んできた。
「……ま、まさか」
声を震わせるギーラと驚いた顔のセンムト。理解が及ばず怪訝な様子のケムト兵に向かって竜也が、
「この方は正特使ホルエムヘブだ」
とその老人の正体を明らかにした。
ギーラは今、目眩によく似た感覚を味わっている。盤石だと信じて疑わなかった岩の足場が砂のように崩れていく。水平に立つこと、ただそれだけが非常に困難だったが、それでもギーラはひざまずかなかった。
ホルエムヘブを乗せた輿はギーラやセンムトに相対するように安置された。しばらく見ないうちにホルエムヘブは一気に老化が進んだように思われた。ホルエムヘブは八〇歳を超える老人であり、体力的な問題があって特使としての仕事は全てギーラに任せてサフィナ=クロイの郊外で隠居状態となっていた。その老人をファイルーズが説得し、文字通り担ぎ出してきたのである。
「あー、久しいのう、ギーラよ。今まで何かとご苦労じゃったな。後のことは儂と、皇帝クロイに全部任せてゆっくりするがいいぞよ」
まるで給仕から料理の皿を取り上げるくらいの気軽さで、ホルエムヘブはギーラの持つ全ての権限を奪わんとする。ギーラは歯を軋ませた。
「貴様……」
殺意に満ちた視線で竜也を刺す。対する竜也は不敵な笑みでそれを跳ね返した。ギーラは必死の眼差しをホルエムヘブへと向ける。
「お待ちください、私は宰相プタハヘテプから新たな命令とケムト艦隊の指揮権を預かってきたのです。それを無条件でお渡しするわけには」
「儂は特使でなくなったのかの? 提督センムトよ」
ホルエムヘブの問いにセンムトは「いえ」と首を横に振った。
「正特使はあくまでホルエムヘブ様、ギーラはその補佐に過ぎません」
センムトの説明にギーラは折れる寸前まで歯ぎしりをする。「先のこの老人を殺しておけば」という益体もない後悔が脳裏を過ぎるが、今さらの話だった。それに、ギーラが「ケムトの特使」を名乗って好き勝手ができたのもホルエムヘブの存在があってのことなのだ。ギーラは元々素性もよく判らない半端者のバール人でしかなく、そんな人間にケムトが自国の命運を託するような真似をするはずもない。
「ギーラはホルエムヘブの管理監督の下に行動している」
その建前があったからこそケムトの貴族や官僚はギーラの行動を黙認していたのだ。センムトはギーラに従っていたのだ。だが今、そのはしごが外されようとしている。ギーラは窮地から脱するべく知恵を絞り、その舌を縦横に振るった。
「西ヌビアを聖槌軍の、東ヌビアをケムトの勢力圏とし、持ってケムトの安全を図る。これこそ宰相プハタヘテプの戦略だったはず! それを無視されるおつもりか?!」
「聖槌軍に勝って、西ヌビアを渡さずにすむのならそれに越したことはないじゃろうが。現場の判断じゃよ」
「し、しかし宰相は……」
悪あがきをするギーラに対し、ホルエムヘブは深々とため息をついて頭を振った。
「若いのに頭が固いのお。ケムトを離れられん宰相に代わり、現場で最善の判断をするために特使が全権を有しておるんじゃ。宰相の言いなりでいいんじゃったら伝書鳩にでも特使をさせればいいじゃろうに」
ケムト兵の失笑がギーラの耳にも聞こえている。恥辱と憤怒と絶望でギーラの目の前は真っ暗となった。血走った目が視界を赤く染めた。理非の判らない、耄碌した老人に対する百万の罵倒がギーラの口内を埋め尽くした。
「一体どう説得してホルエムヘブを味方に付けたんだ。半日でも、いや、一時間でも時間があれば私の正しさを理解させてやるのに。いや、敵に回らないよう前もって気を配っていれば……」
遅すぎる後悔がギーラの胸中に広がっている。だがギーラは何故自分がホルエムヘブに見捨てられたのか、未だ真に理解してはいない。
ホルエムヘブが隠居状態になったとき、スキラ郊外に邸宅を用意したのはギーラではなくファイルーズだった。身の回りの世話をする侍女を派遣したのもファイルーズ。サフィナ=クロイへの引越先を用意したのも、引越の手配をしたのもファイルーズ。もちろん各種手配を実行したのはファイルーズの部下だが、命令を下したのは間違いなくファイルーズである。
さらにはファイルーズ自身が何度も隠居先を訪れてホルエムヘブに近況を報告し、様々な問題の相談を持ちかけている。ホルエムヘブにとってはファイルーズは生まれたときから知っている孫のようなものだ。そんなファイルーズが可愛くないわけがなく、頼られて嬉しくないわけがない。挙げ句に、ファイルーズの指示を受けたケムト出身の官僚や武官が頻繁にホルエムヘブの元を訪れ、総司令部の状況や聖槌軍との戦況について包み隠さず報告をしているのだ。ホルエムヘブの見方、考え方、立場がファイルーズ寄り、ヌビア軍寄りになるのは理の当然だった。
その一方、ホルエムヘブが隠居状態になってからギーラが報告や相談をしたことは一度もない。ギーラがホルエムヘブの元を訪れたことも、手紙を送ったことすら一度もない。自分の名前を使って好き勝手をしているギーラに対し、ホルエムヘブが好意を抱くことは困難だった。多少程度の気配りや報告でそれを覆せるものではない。
年老いたとは言ってもホルエムヘブは有能な政治家であり有力なケムト貴族だ。彼を味方に、自分の与党にするべく画策したファイルーズと、自分の才覚を過信するあまり味方に留める努力を怠ったギーラ。勝敗を決したのはその点だったのだ。
「さて、提督センムトよ。杖を持ってきてくれるかの」
「はい、ただちに」
ホルエムヘブもセンムトも、もう誰もギーラのことを見ていない。センムト自身が船倉から運んできた、杖の入った宝箱をセンムトがホルエムヘブに渡している。ホルエムヘブはすぐにそれを竜也へと手渡し、竜也達は意気揚々とヌビアの軍船へと引き上げていく。その光景を、ギーラは赤くなった眼でただ見つめるだけだった。
「……ころす……ころす……ころす」
水平線へと消えるヌビアの軍船を、ギーラは一人甲板から見続けている。惚けたように呟くギーラを、ケムトの水兵は嘲笑するか、狂人を見る目を向けるだけだ。
「……ころす……必ず殺す……今に見ていろ」
狂気に陥ったかと思われたギーラだが、その一歩寸前で踏み止まっている。ギーラは竜也に負けたこの現実をちゃんと認識し、受け止めているのだから――あくまでも現時点では、この局面では、という但し書き付きだが。
「必ず殺す。貴様が私から奪ったもの全てを奪い返した上で、考えられる限り最も悲惨で惨めな死に様を与えてやる……!」
ギーラは他の一切をなげうって思索を巡らせている。冷徹な計算を重ねている。全ては竜也に勝つために、竜也から何もかもを奪い取るために――それは確かに理性的な思考と行動かもしれない。だがギーラという人間は、その意志もその行動も今や全てをその妄執に乗っ取られている。その有様は、結局は「狂気に陥った」としか言いようがないものだった。
竜也がラズワルドのことを心配し、焦燥を深めている頃。そのラズワルドは、と言えば、
「おなかすいた」
サフィナ=クロイにいるときとほとんど変わらない、マイペースを貫いていた。応対しているヨアキムとしては「人質の自覚があるのか」と感じずにはいられない。
ラズワルドをスキラに連れ帰ったアンリ・ボケはヨアキムをラズワルドの監視役兼世話役に任命した。だが世話役と言ったところで大した仕事があるわけではない。ソロモン館の最奥の人目につかない部屋にラズワルドを軟禁し、他者との接触を禁止しているだけである。ただ、アンリ・ボケからは人質の身の安全を図るよう厳命されている。
「おなかすいた、おなかすいた。ごはんを食べさせてくれなかった、ってタツヤに言いつける。きっとタツヤが怒って杖をへし折って二つにする」
もしヨアキムのせいでそんなことになったなら、ヨアキムの首と胴が泣き別れになることは間違いなかった。ヨアキムは食料を手に入れるために同僚や知り合いの元を奔走する羽目となる。だが、
「他人に分けられるほどの余裕があるはずないだろう」
「俺だってもうずっとろくなものを食っていないんだ」
「いくら出せる? タラント金貨以外は受け取らんぞ」
ソロモン館内を走破して結局一切れのパンも手に入れることができなかった。ヨアキムは失意と徒労のみを抱えてラズワルドの元へと向かっている。
「私が個人的に隠し持っている食料を分け与えるしかないのか」
一体何日分失うことになるのだろう、あと何日食いつなげるのだろう、と考えたくないことを考えているうちにラズワルドを閉じ込めている部屋に到着。ドアをノックしてヨアキムはその部屋の中へと入った。
食料を手に入れられなかったことを告げようとし、ヨアキムはそのまま硬直する。
「……まずい」
「贅沢を言うな」
ラズワルドとアンリ・ボケが同じ食卓に着き、向かい合って黒パンをかじっていた。二人ともヨアキムが部屋に入ってきたことには気が付いているようだが、そろって何ら注意を払っていない。
一切れの黒パンと干し肉をひたすら延々と咀嚼して水で喉の奥へと流し込み、それでその日の食事は終了した。ラズワルドがここまで粗末な食事を経験するのはあるいは初めてかもしれなかった。
「……タツヤはいつも言っている、『腹が減っては戦ができない』って。こんな状態で戦争ができるの?」
賢しらなラズワルドの疑問にヨアキムが思わず、
「誰のせいだと――」
と口走る。ラズワルドはヨアキムの方を向いて嘲笑を見せつけた。
「タツヤの作戦勝ち。早く降伏した方がいい」
ヨアキムは悔しげに「悪魔の民が……」と呻くことしかできない。それに対し、
「悪魔じゃない。『白い悪魔』」
と得意げにうそぶくラズワルド。ヨアキムは毒気を抜かれたように沈黙した。
ふと、アンリ・ボケが立ち上がって食卓から離れ、出入り口へと向かって歩き出した。
「勝手に持ち場を離れるな」
アンリ・ボケの静かな叱責にヨアキムは身を縮めた。そのままその部屋を退出しようとするアンリ・ボケに対し、
「――ヴェルマンドワ伯に注意して。そろそろだと思うから」
ラズワルドはそれ以上言葉を重ねない。アンリ・ボケは何も問わないままその部屋が立ち去っていった。
一二日夜遅く、アニードの送り出した使者がタンクレードの元を訪れる。使者が持っていた書状を手に、タンクレードはユーグの自室へとやってきていた。
「……こ、これは事実なのか」
ユーグは書状を手に、手と声を震わせてタンクレードに問う。タンクレードは冷静を装っているがその顔は血色を失い、紙のように白かった。
「おそらくは事実なのでしょう」
「し、しかし、ただの噂や何かの間違いだということも」
未だその事実を受け止められないユーグに対し、タンクレードは残酷なまでに現実を突きつけた。
「『ヌビアの皇帝とアンリ・ボケが手を結んだ。アンリ・ボケが殿下の首級を獲る代わりに皇帝がモーゼの杖を引き渡す』――これが事実とするなら、殿下はどうしますか?」
現実を受け止められない感情に代わり、ユーグの軍才が冷静な計算を進めている。ユーグは他人事のようにその答えを呟いた。
「あの男が杖を手にしたならもうだれにも手が付けられない。そうなる前に何としてでも殺すしかない」
「それこそが皇帝の狙いなのでしょう。ですので、皇帝には嘘をつく理由がありません」
ユーグがその言葉を、その事実を呑み込み、腑に落とし込んでいく。ユーグにとってそれは焼け石を呑み込むがごとくに至難だった。それでも何とか腑に落とし、その途端内臓が沸騰した。
「――おのれ! おのれ皇帝クロイ!」
ユーグは炎を吐くかのように怨嗟の声を上げる。
「僕達は、エレブとヌビアは平和共存できると思っていたのに……! そんなに戦争を続けたいのか! これほどの血を流してまだ足りないのか!」
ユーグにしてみれば差し出した手を打ち払われたに留まらず、背後から刺されたようなものである。どれだけ罵っても飽き足りなかっただろう。だが、もし仮に竜也がユーグの罵声を聞いたならどう反応しただろうか?
「俺も平和共存したいと思うぞ――聖槌軍を一人残らずヌビアから駆逐した上で、な」
と嘲笑を浮かべるかもしれない。あるいは、
「戦争をやめたいのなら聖槌軍が降伏すればいいだけだ」
と憮然とするかもしれない。もしくは、
「お前達は今どこにいる? 何をしにここまで来た? ここに来るまで誰をどれだけ殺してきた?」
と怒りを殺して問うかもしれない。
いずれにしても、ユーグが手を差し延べたのはユーグの頭の中の竜也であって、現実の竜也ではなかったのだ。
「殿下、どうかご命令を」
「命令?」
タンクレードに問われ、ユーグは血走った目をタンクレードへと向けた。
「今すぐにアンリ・ボケ討伐の兵を挙げるのです。生き残るにはそれしかありません」
ユーグは一瞬虚を突かれたような顔をし、次いで「しかし」と目を伏せた。逡巡するユーグに対し、
「敵と和平を結ぼうとした殿下をあの男が許すわけがありません。このままでは殿下は遅かれ早かれ焚刑に処されます」
「しかし、ここでの挙兵はヌビア側の思う壺だ」
「だからこそです! あの男の首級を取ることだけに全戦力を集中させ、一秒でも早く終わらせるのです。聖槌軍の内戦を、エレブ人の同士討ちを避けるにはそれしかありません」
迷っていた時間は決して短くはなかったが、それでもユーグは決断を下した。もとより、ユーグは焚刑にされることも敗残者となることも望んではいなかったのだから。
「――兵を集めろ。明け方にはアンリ・ボケを急襲する」
命令を受けたタンクレードがその部屋を飛び出していく。残されたユーグは虚空を凝視していた。ユーグがそこに見出しているのは、まだ見ぬヌビアの皇帝、竜也の顔である。
「今に見ていろ、アンリ・ボケの後は貴様だ……!」
ユーグの頭の中ではアンリ・ボケに対する戦術と同時にヌビア軍に対する戦略が組み立てられていた。アンリ・ボケと並んで斬首される竜也の姿が思い描かれていた。
――タシュリツの月・一三日未明、ユーグが自ら率いる二千の兵がソロモン館を急襲する。それが聖槌軍同士の内戦の始まりとなった。エレブ人同士が殺し合う、血で血を洗う戦いの始まりだった。
ラズワルドに注意されるまでもなく、ユーグ挙兵の可能性をアンリ・ボケは充分に考慮しており、警戒も防御も怠ってはいなかった。ソロモン館の周囲には数千の兵が常時待機しており、アンリ・ボケの身辺を警護していた。
が、アンリ・ボケに油断はなくともその下の指揮官や兵は完全に気を緩めていた。杖を巡ってユーグとアンリ・ボケが暗闘している事情など彼等が知るはずもなく、彼等にとってこの時点でのユーグの挙兵は完全に想定外だったのだ。
「館を囲んで火を放て! 出てくる者は全員殺せ!」
待機していた枢機卿派の兵を蹴散らし、ユーグの兵がソロモン館を包囲する。ユーグの兵が火矢を放ち、やがて館のあちこちから火の手が上がった。館から逃げてきた聖職者が助けを求めてユーグの兵へと接近し、問答無用で斬り捨てられる。そんなことが何十箇所でくり返され、兵士達の足下には無数の死体が転がった。
が、ユーグの包囲網は決して完璧ではなかった。
「殿下、後背から敵が」
「防御は任せる、五百連れていけ」
アンリ・ボケを救うべく枢機卿派の兵が突撃をかけてくる。その敵に対処するために兵を裂き、その結果包囲網が薄くなる。包囲網の隙間を突いて逃げていく敵を、ユーグは歯噛みをして見送ることしかできない。
「くそっ、せめて一万も兵がいれば……」
アンリ・ボケを殺すことを一般の兵に理解し納得させるのは至難だったため、ユーグは挙兵にあたり裏切らないことを確信できる二千の兵しか動員できないでいた。それでも挙兵を一日遅らせれば一万くらい揃えるのは難しくはなかったのだ。ユーグは遅巧よりも拙速を選んだわけだが、その選択に対する後悔がうっすらと陰を差している。
(いや、これで間違いないはずだ! 悠長に構えていてあの男を殺せるはずがない)
ユーグは頭を強く振って弱気な思いをふるい落とした。
アンリ・ボケの危機を知って枢機卿派の軍団が救援のためにやってくる。その兵数は万を軽く越えていた。窮地に陥るユーグだがその直後にタンクレードが援軍を率いてやってきた。ソロモン館の周囲で、その狭い範囲で万を越える軍団同士が激突。その一方でソロモン館に放たれた炎は館全体を覆おうとしている。状況は混迷の一途をたどるばかりとなった。
同時刻、アンリ・ボケは焼け落ちるソロモン館を丘の上から見つめている。
「あの背教者が……」
謎の敵が接近している、その第一報を受けたアンリ・ボケは「ヴェルマンドワ伯が挙兵した」と判断。守備兵に徹底抗戦を命令した上で自分はわずかな供回りだけ連れてソロモン館を脱出したのである。ユーグはそうとは知らずにアンリ・ボケが脱出した後のソロモン館を包囲していただけだったのだ。
「……あの、猊下。これからどうすれば」
ためらいがちにアンリ・ボケに問うのはヨアキムであり、彼の横にはラズワルドがいる。ヨアキムやラズワルドの他にアンリ・ボケに同行しているのは鉄槌騎士隊の護衛だけで、その数は全部で二十人にも満たない。
問われたアンリ・ボケも迷っている。ユーグを討ちに行くだけなら何も難しくはない、味方と合流すればいいだけのことなのだから。だが今のアンリ・ボケにとってその優先順位は低かった。
(杖だ、ともかく杖を手に入れなければ。だが一体どうすれば)
「タツヤが待っている。あの場所に行けばいい」
アンリ・ボケがラズワルドへと視線を向ける。ラズワルドは人形のように無表情のままアンリ・ボケを見つめ返した。二人に挟まれたヨアキムが何やらうろたえているが二人ともヨアキムには路傍の石ほどの関心も払っていない。
「先日取引をしたあの場所のことか。そこで皇帝が待っていると」
アンリ・ボケの確認にラズワルドが「ん」と頷く。
「何故そんなことが判る」
「タツヤの考えていることなら何でも判る」
ラズワルドは態度だけは誇らしげに胸を張った。
「タツヤはわたしのことが何より大事だからあの日すぐに杖を手に入れに行って、杖を手にしたならその事実をヴェルマンドワ伯に伝えてヴェルマンドワ伯が暴発するように仕向けて、あなたがどう動こうと内戦が避けられないようにする……って言ってた」
ラズワルドの解説にアンリ・ボケは「ふん」と口を歪める。
「ヴェルマンドワ伯は皇帝の思惑にまんまとはまったわけか、愚かな男だ」
ラズワルドは無言で頷いて同意する。一方ヨアキムはアンリ・ボケの怒りがラズワルドに向けられなかったことに安堵していた。
「つまりは、ヴェルマンドワ伯が暴発したということは皇帝が杖を手に入れたことの何よりの証ということか」
ラズワルドは「ん」と肯定する。アンリ・ボケは外套を翻して南へと向き直った。
「ならば行くぞ、スキラ湖に」
アンリ・ボケはそのまま南へと歩いていく。ラズワルドが、ヨアキムが、鉄槌騎士隊の騎士がその後に続いた。
タシュリツの月・一四日未明、スキラ湖の北岸。そこには今、二日前と同じように二隻の船の姿がある。岸辺に小さな船が一隻、二スタディアほど沖合に外洋船が一隻。岸辺の小さな船には七人の人間が乗っており、乗っているメンバーも全く同じ。足りないのは一人だけだった。
「タツヤ殿、少しはお休みになったらどうですか? わたしが見張っていますから」
「ありがとう、でも大丈夫だから」
サフィールの気遣いを無視するように竜也は北を見つめ続けている。その方角にはスキラの町があり、今そこは枢機卿派と王弟派の内戦の真っ直中だった。
竜也は彫像のように動かずに、瞬きの時間すら惜しんで北を見つめ、注視し続けている。竜也だけに見張りをさせて自分が休んでいるわけにもいかず、サフィールもまた北を見続けるしかなかった。
東の山間の中から太陽が顔を出す頃、接近するエレブ兵の一団がサフィールの視界に入った。やがてその一団が岸辺へとやってくる。その人数は二十人足らず。アンリ・ボケの巨体はすぐに判別できたが、肝心のラズワルドの姿が見当たらないためサフィールは気を揉んだ。
「……あ、あんなところに」
やっと見つけた、ラズワルドは文官らしき男に背負われて眠っていたのだ。今ようやく目を覚まし、文官の背中で大きく伸びをしている。文官の男は今にもぶっ倒れそうなくらいに疲れているようだった。
「ラズワルド!」
今にも飛び出しそうになる竜也だがバルゼルがそれを押し留める。一方のラズワルドも竜也達に気が付いたようで、大きく手を振っていた。ヨアキムの背から降りるつもりはないようで、背負われたまま進んでいる。
竜也は真っ直ぐにラズワルドを見つめた。他の何物も映っていないその瞳をラズワルドが見つめ返す。ふと、ラズワルドが小さく頷いた。竜也はますます目に力を込め、ラズワルドが小さく二回頷く。アンリ・ボケは気付いていなかったが、ヨアキムは竜也の視線にもラズワルドの動きにも気が付いていた。が、それに深い意味があるとは思ってない。
やがて、竜也達から二一〇パッスス(約三〇メートル)程の距離を置いてアンリ・ボケの一団が停止。そこからアンリ・ボケ、ヨアキム、ラズワルドの三人だけが前に進み出てきた。竜也もそれに合わせ、竜也とサフィールの二人だけで小船を下りて歩き出す。サフィールには杖の入った宝箱を持たせている――何故かその箱は二つあった。
一〇を数えるほどの時間を経て、竜也とアンリ・ボケは約一〇メートルの距離を置いて向かい合った。
「杖が本物かどうかを確認する。箱から出して杖を見せよ」
竜也は視線でサフィールに指示、サフィールが黄金で飾られた宝箱の一方を開けてビロードの包みを取り出した。それを外して出てきた杖をサフィールが頭上に掲げて見せる。そこにあるのは古ぼけた、一本の杖だ。
長さは一三〇センチメートルはあるだろう。材質は青銅製で、全体が翡翠のような青色となっている。彫り込まれた複雑な文様は古いケムト様式のようだった。柄頭にはからみ合う二匹の蛇が浮き彫りにされているが、非常に素朴というか、端的に言うと稚拙な出来映えである。歴史は感じさせるがただそれだけの、古びた杖。手にするサフィールにはその杖に何らの神秘性も感じ取ることができない。かつてのスキラの骨董屋ならもっと気の利いた杖を置いていることだろう。
「――それは本物なのか?」
サフィールは耳を疑った。自分の心の声が音になったのかと一瞬思ったがそうではない。それは確かに他者の口から発せられた声である。問題は、その問いを発したのがアンリ・ボケだということだ。
「どういう意味だ」
「言葉通りだ。貴様が持ってきたその杖は本物なのか?」
そんなの――思わず口走りそうになったサフィールは寸前で歯を食いしばった。
「これは確かに特使ギーラがケムトから持ってきた杖だ。特使ギーラはケムトの宰相プハタヘテプの部下からこの杖を譲り受けた。宰相の部下は聖モーゼ教会を脅迫してこの杖を手に入れた」
「特使ギーラが貴様に渡したのは確かに本物か? ケムトの宰相の部下が特使ギーラに渡したのは本物か? 聖モーゼ教会が宰相の部下に渡したのは本物か?」
そんなの、どうやっても証明は不可能じゃないか――アンリ・ボケは言いがかりを付けて取引を反故にしようとしている、サフィールにはそうとしか思えなかった。
「最悪の場合はサフィールが敵の中に飛び込んでラズワルドを救出してほしい」
事前に受けていた指示を思い返し、サフィールはその心構えと身体の準備をした。恩寵を全身に巡らせ、特に脚に込め、常人には不可能な瞬発力を生み出さんとする。竜也の一言があればサフィールは疾風よりも早く駆け抜け、アンリ・ボケを叩き伏せ、ラズワルドを奪還するだろう。
竜也の言葉を、その命令を一言も聞き漏らすまいと、サフィールは竜也の横顔を見つめる。歯ぎしりをしていた竜也が一呼吸置いて、
「――そんなの、偽物に決まってる」
誰もが自分の耳を疑った。サフィールは思わず竜也の横顔を凝視するが、そこに動揺も自棄の気配も欠片も感じられない。そこに浮かんでいるのは不敵な笑みだけだ。
「……今何と言った」
「あんたが疑うように、この杖はただの偽物だと言った。『聖モーゼ教会が持っている杖は本物か?』――あんたは何故問わなかった? 『そんなの偽物に決まってる』――答えが判りきっていたからだろう?」
竜也の嘲笑をアンリ・ボケは無言の怒気で迎え撃った。アンリ・ボケの放つ殺気にサフィールが密かに冷や汗を流す中、竜也は鈍感と言うべき不敵さで挑発を重ねた。
「その意味ではこの杖は確かに偽物だ。でも、そんなの最初から判っていた話だろう? 杖の奪還はケムトまで征服するためのただの名目。略奪や殺戮を正当化するための、ただの口実だ。杖が本物かどうかなんて別にどうでもいいんじゃないのか?」
「……我等を愚弄するか」
竜也の冒涜はアンリ・ボケにとって決して許されるものではなかった。ここがエレブなら皇帝だろうと国王だろうと竜也は即座に処刑されている。それができないもどかしさがアンリ・ボケの憤怒を募らせた。
「ああ、判った判った」
竜也はそう言って手を振るが挑発の姿勢は保ったままだ。
「要するに、こんな錆びだらけの骨董品を『聖杖だ』って見せたらエレブまで連れてきた馬鹿連中だって自分達がだまされたことに気付いてしまう、ってことだろう? そう言い出すんじゃないかと思って、もう一本用意している」
竜也は視線でサフィールに指示を出す。サフィールはちょっと慌てながらも、青銅の杖を竜也に手渡し、もう一つの宝箱から別の杖を取り出した。
ビロードの包みを外した途端、サフィールの口から感嘆が漏れそうになってしまう。その杖は全体が黄金製。柄頭は六面柱となっており、六つの面にそれぞれダイアモンド、ルビー、サファイア、真珠、琥珀、翡翠の大きな宝玉が埋め込まれている。随所に施されているのは銀線細工だ。それは贅と豪奢を尽くした、黄金の杖だった。
その杖を見せられ、ヨアキムが目を真ん丸にした。経理に明るいヨアキムでもその杖がどのくらいの価値を持つのか見当が付かない。柄頭の宝玉の一つ一つにタラント単位の値がつくだろう。エレブでこれだけの杖を作って持つことができるのはほんの一握りのバール人の大商会くらいに違いなかった。
「こっちなら文句はないだろう?」
得意げな竜也に対し、アンリ・ボケは激発寸前まで怒気を貯め込んでいた。
「……ふざけるのもそこまでにするがいい」
「ふざけているのはどっちだ」
竜也の態度が、その声が豹変する。身にまとう空気がアンリ・ボケに負けないくらいに冷たく、熱いものとなった。
「つまらない言いがかりで取引を反故にしたいのか。こっちは約束通りにモーゼの杖を持ってきている。この杖が気に食わないのならこっちの黄金の杖を選ぶがいい。その場合はこの杖はヴェルマンドワ伯に渡すことにする」
アンリ・ボケが沈黙する。竜也もまた口を閉ざし、両者は無言のまま数十秒間対峙した。静寂がその場を支配する中、竜也とアンリ・ボケは見えない剣を斬り結び、鍔迫り合いを演じている。
「さあ、どちらを選ぶんだ?」
「その青銅の杖を持ってこちらに来るがいい」
選択を突きつけられたアンリ・ボケが選んだのは青銅の杖の方だった。竜也は安堵のあまり膝が崩れそうになるのを寸前で堪える。竜也は前へと歩き出した。それと同時にラズワルドを背負ったヨアキムも前に歩き出している。
――杖が本物かどうかをアンリ・ボケが疑った場合どうすべきか。竜也とベラ=ラフマの二人が徹夜で対策を考え、そのために用意したのが黄金の杖だった。
「聖モーゼ教会が宰相の部下に渡したのは本物か?」
アンリ・ボケがそこに疑義を挟んだのに対し、竜也は、
「聖モーゼ教会が持っている杖は本物か?」
と挑発し、焦点をずらすことに成功した。聖モーゼ教会が宰相の部下に渡したのは偽物なのに、アンリ・ボケはもうその点を問題にしていない。
竜也はアンリ・ボケを挑発し、誘導し、「青銅の杖と黄金の杖、どちらを選ぶのか」と選択を突きつけた。アンリ・ボケが選んだのは青銅の杖の方だったが、アンリ・ボケは気が付かなかっただろう。二者択一で正解を選べるのは選択肢の中に間違いなく正解が入っている場合だけだ、ということを。
竜也にとっては寿命が数年縮むような駆け引きだった。ラズワルドがアンリ・ボケの心を読み、懸命に目配せで合図を送りはしたものの、それで判るのはごく限られたことだけなのだから。
ラズワルドは恩寵の使いすぎで消耗しながらも最後まで油断せずにアンリ・ボケの心を読み続けている。アンリ・ボケにとってもこの取引そのものを反故にすることはできなかったため敢えて竜也の挑発や誘導に乗せられたという面もある。アンリ・ボケは理非や利害を無意識で計算し、竜也に対する反発で疑念に蓋をし、この杖を本物であると「決めた」のだ。
竜也とヨアキムが向かい合い、ラズワルドがその背中から降りた。竜也が杖をヨアキムに渡した瞬間、ラズワルドがその胸の中へと飛び込む。竜也は少女の小さな身体を強く抱きしめた。
「無事でよかった……!」
圧倒的な安堵感、ラズワルドを危険にさらしたことの罪悪感――暖かな想いが奔流のようにラズワルドの中へと流れ込んでくる。腕の中のこの温もりが何よりも貴重で、この小さな少女が誰よりも愛おしい――ただ真っ直ぐなラズワルドに対する愛情。竜也のそんな想いをぶつけられてラズワルドが耐えられるわけがない。全身が溶けるような快感に、目眩がするほどの充足に、ラズワルドは翻弄されていた。
(……このまま死ぬかも、別にそれでもいいか)
ラズワルドはそんなことすら考え、
「――取引は成立した、もう貴様に用はない」
アンリ・ボケの言葉に竜也のスイッチが即座に切り替わった。アンリ・ボケはすでにヨアキムから杖を受け取っている。ラズワルドの家族としてのタツヤは奥へと引っ込み、皇帝クロイ・タツヤが表へと出てきたのだ。逢瀬を台無しにされたラズワルドが「死ねばいいのに」とばかりにアンリ・ボケを睨むが、アンリ・ボケはそれに気付いていない。
「次に貴様に会うのは処刑台だ。覚悟して待つがいい」
アンリ・ボケは捨て台詞を残して立ち去ろうとする。竜也はその背中へと、
「あんたの健闘を祈っているよ――ヴェルマンドワ伯よりもあんたの方が与しやすいからな。ヴェルマンドワ伯ならともかく、あんたにはナハル川は越えられない」
アンリ・ボケは何も応えず立ち去っていく。竜也はその背中を見つめ続けていた――王弟派と枢機卿派の戦いをどうやって長引かせるか、どうやって共倒れをさせるか、それを考えながら。