「黄金の帝国」・逆襲篇
第四三話「聖槌軍対聖槌軍」
スキラでヴェルマンドワ伯ユーグと枢機卿アンリ・ボケが挙兵し、お互いを殺すために戦っている――そのニュースはサフィナ=クロイを席巻した。また同時に竜也がアンリ・ボケと取引をした事実も知れ渡り、聖槌軍の内戦勃発は竜也の功績として称揚された。
「共倒れをするまで殺し合いを続けさせればいい。そうなれば戦わずして俺達の勝ちだ」
「まあ、そこまで上手くはいかんだろうが、どちらが勝つにしても聖槌軍の弱体化は避けられんだろう。願ってもないことだ」
敗北の危機から救われ、町には安堵の空気が満ちている。
「さあ、枢機卿アンリ・ボケと王弟ヴェルマンドワ伯、勝つのはどっちだ?! 穴狙いなら王弟だ!」
町では賭け屋が店を出して賭け金を募っている。多くの人が金を出し、どちらが勝つかを彼等なりに真剣に予想し、議論をしており、アミール・ダールなどは民衆のその姿に呆れた様子だった。
「王弟と枢機卿、勝つのはどっちだと思う?」
一方の竜也もまたどちらが勝つかを予想しているが、その内容も向き合う姿勢も庶民とは次元が違っていた。
「枢機卿アンリ・ボケが大幅に優勢です。おそらくヴェルマンドワ伯はこれを覆せないまま終わるでしょう」
と答えるのはベラ=ラフマだ。竜也は詳細な解説を求めた。
「まず、長雨の戦いにより王弟派はその兵数を減らしました。王弟派一〇万に対して枢機卿派は三〇万。しかもアンリ・ボケはモーゼの杖を手に入れています。もはやその権威は教皇インノケンティウスにすら匹敵するものとなったでしょう」
(鬼に金棒……いや、狂人に刃物、かな)
竜也は内心でそう呟き、皮肉げに嗤った。
「枢機卿派は黙っていても味方が増えていきます。一方の王弟派は一〇万の味方を維持することすら困難となるでしょう」
ふむ、と竜也は頷く。ベラ=ラフマの予測を否定する材料はどこにもないものと思われた。
「でも、それではヌビア側には都合が悪いな。最終的にはアンリ・ボケが勝つとしても、ヴェルマンドワ伯にはできるだけ粘ってもらわないと」
竜也の言葉にベラ=ラフマが「その通りです」と同意する。
「王弟派に対する支援が必要かと」
「判った、許可する。出し惜しみせずに支援してやってくれ」
ベラ=ラフマは深々と頭を下げ、了解の意を示した。
一方のスキラ。ソロモン館での戦闘は王弟派が枢機卿派を圧倒したものの、「アンリ・ボケを殺す」という当初の目的は空振りに終わっていた。ユーグは小さくはない失望を抱えて撤退。本格的な戦いを前にして自軍の再編成を行っていたところに「アンリ・ボケが杖を手に入れた」という知らせがもたらされる。
「そうか」
ユーグは淡々とした態度でその事実を受け入れる。アンリ・ボケの生存も杖を手に入れた事実も既に予想されたことであり、そこに驚きはなかった。が、悪化する一方の状況には重いため息をつかずにはいられない。
そんなユーグの元にある報告が届き、ユーグは港へと急行した。
「これは……」
スキラ港に到着したユーグの目にまず入ったのは、二〇を超えるバール人の大型商船だ。さらにはその商船からは次々と荷物が搬出されている。港の一角にうずたかく積み上げられる穀物の山に、兵士達は歓声を上げていた。
ユーグは搬出作業を監督していたアニードを見つけ、自分の元へと呼び寄せた。
「何があった?」
ユーグの問いにアニードは一瞬忌々しげな顔をし、すぐに冷静さを取り戻す。
「ヌビアの皇帝が南岸のバール人商会に殿下との取引を公認したのです」
「しかし、お前も知っているだろう。僕の手元にそれほどの金があるわけじゃない」
ユーグの懸念にアニードは「大丈夫です」と首を振った。
「支払いは後日で構わないとのことです。もし殿下が踏み倒した場合は皇帝が肩代わりをしてくれると」
「……はっ」
ユーグは嗤わずにはいられない。つまりはユーグがあまりに劣勢なのを心配し、皇帝が支援をしてくれているのだ。竜也が送った支援物資は食糧だけに留まらず、矢玉・火縄銃・大砲・弾薬等の軍事物資も含まれていた。何百丁もの火縄銃、何十門もの大砲にユーグは目を丸くする。さらには、
「……」
さすがのユーグも唖然とする他ない。タンクレードが何百頭もの騎馬を率いて王弟派の陣地に戻ってきたのだ。
「その騎馬は一体?」
ユーグの代わりにアニードが問い、
「ヌビア軍の騎兵隊が譲ってくれた。皇帝の寸志とのことだ」
タンクレードはやや憮然とした顔でそう言う。ユーグはまるで自棄になったかのように高らかに笑った。
「……そうかそうか。そこまで僕が負けることが心配なのか」
ひとしきり笑ったユーグは平静を取り戻し、一同に告げた。
「せっかくの皇帝の厚意だ、遠慮せず受け取っておこう」
僕を軽んじたこと、必ず後悔させてやる――内心でそう誓いながら。
思いがけず装備と補給を充実させたユーグは引き続き自軍の再編成に勤めた。一方のアンリ・ボケもまた自軍の、枢機卿派の引き締めを行っている。
「王弟ユーグは敵の皇帝と取引をしようとした挙げ句にこの私を殺そうと挙兵した! これが裏切りでなくて何なのか?! 王弟ユーグはエレブと、聖杖教と、聖槌軍と、諸君に対する最悪の裏切り者だ!」
アンリ・ボケは集めた将兵を前に声を張り上げた。その巨体から発せられる怒声が将兵の耳朶を鞭打ち、彼等は揃って身を縮める。散々ユーグを罵ったアンリ・ボケは一転、悲しげな表情と声を作って見せた。
「彼のような名高い騎士が何故ここまで墜ちてしまったのか、私には判らない。エレブでは私も彼と轡を並べ、共に異端と戦ってきた。彼を助け、彼に助けられた。神の騎士としての彼を私は敬愛してきたのだ。……ここには彼の下で戦ってきた者も多いだろう。彼の名を惜しむのであればためらってはならない。我々の手で彼に引導を渡すのだ」
アンリ・ボケの言葉に、フランクの諸侯がそれぞれの表情で目を伏せた。望んでユーグを討とうという者はそう多くはない。だがアンリ・ボケの言葉に異議を唱える者が一人もいないこともまた事実であった。
アンリ・ボケの演説は書面に書き起こされて檄文となり、何十枚も書き写され、枢機卿派内で回覧され、あるいは読み上げられる。また、少なくない数のその檄文が王弟派へと流れ込み、密かに読み回された。自派閥の動揺を前に、ユーグは対応に追われることとなる。
「アンリ・ボケはどうやって杖を手に入れたというのか、ヌビアの皇帝と取引をしたのは自分ではないのか? 殿下の挙兵は決して突然のことではなく、もっと早くにするべきことだったのだ。そうすれば長雨の戦いで二〇万もの兵を無為に失うことはなかった! 殿下の挙兵はアンリ・ボケにこれ以上兵を殺させないための、やむにやまれぬものだったのだ」
ユーグは配下の司教にアンリ・ボケ弾劾の檄文を書かせた。その檄文は自派の将兵の前で読み上げられ、また枢機卿派にも送り付けられた。アンリ・ボケもまたこの弾劾文を目にし、部下に反論させた。
「聖杖が枢機卿の手にもたらされた神の思し召しというもの。聖杖さえあればナハル川を二つに割って南までの道を造ることも容易いであろう。最悪の裏切り者を処断した上で我々は南の町へと進軍する! ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ヌビアとケムトの全てを支配する! 一億アンフォラの麦が、百万タラントの金銀財宝が今、我々の目の前にある。我々の到着を待っているのだ!」
アンリ・ボケ自身は決してやらなかったものの、その部下はこのような欲望丸出しの論法を使うことに臆面もためらいも持ちはしなかった。そしてアンリ・ボケもそれを止めなかった。枢機卿派の戦意は高揚する。王弟派もこれに対抗しようとした。
「我々はヌビアの半分を獲得した、戦果としてはもう充分だ。広大な西ヌビアの全てが我々のものなのだ! 入植する農夫は全員奴隷と自分の農地を持てる、騎士は自分の領地を持てる! 川に飛び込んで溺死する、そんな愚かな戦いを諸君はこれ以上望むのか?」
が、ユーグ側のこの主張に対し、末端の兵士達の反応は芳しくなかった。
「……結局なんで枢機卿様と戦わなきゃならないんだ?」
「もっと戦うか、それともここで戦うのをやめるか、つきつめればそういうことじゃないのか?」
アンリ・ボケと戦うには大義名分や説得力が不足しており、兵士達の間に支持が広がらなかったのだ。そうなると実利に訴えるしかないのだが、
「領地や農地をもらうにしても、あの西ヌビアじゃな……あの土地で何人餓え死にしたことか」
西ヌビアは決して貧しい土地ではない。大地は豊穣で水と天候に恵まれていて、富農の割合はエレブの大抵の土地よりもはるかに多い。が、聖槌軍の兵士が知っている西ヌビアは焦土作戦により食糧が全く存在しない、飢餓の大地だった。街道が人骨で埋め尽くされた、人食いが横行する、地上の地獄だった。そんな場所の農地を与えると言われたところで素直に喜べるはずもない。
もちろんユーグに賛同する将兵も少なくはない。だが、
「もう生きてエレブに帰れるなら何でもいいけど、そのために枢機卿様と戦って死んだら意味がないじゃないか」
戦いを厭い、エレブへの帰国を第一に考える者達は、必然的にユーグのために生命を懸けて戦う意志が弱くなる。その一方、アンリ・ボケ側に立つ者達は未だ戦意を維持していた。
「こんなところで休戦してどうなるっていうんだ。同郷の奴等が死ぬところを何度見てきたと思っている。俺は奴等の分まで金銀財宝を略奪して村に持って帰らなきゃいけないんだ」
結論として、宣伝合戦ではユーグはアンリ・ボケに対して防戦一方となった。その影響は兵力差に如実に表れている。
今、ユーグは整列する将兵を睥睨している。不利な状況でもユーグに忠誠を誓い、背教者と罵られようと、裏切り者とそしられようと、アンリ・ボケと戦い、これを殺す覚悟を決めた者達――その数三万。
「思ったよりも大勢残ってくれた。これだけの数があれば戦いようはある」
ユーグの安堵したような言葉にタンクレードが頷く。
「王弟派の残りの七万も決して殿下に弓引くことはありません。好意的中立というところです」
その言葉にユーグは「そうか」と頷いた。
一方のアンリ・ボケもまた集められるだけの兵を集めて閲兵式に臨んでいた。集まったのは雲霞のごとき大軍勢だ。アンリ・ボケの手の一振りに、兵士達が熱狂的な歓声を上げている。
「三〇万の将兵、ただの一人も欠けることなく猊下の元に参集いたしました」
レモリアの将軍の追従にアンリ・ボケは満足げに頷いている。が、その側に侍っているヨアキムは複雑な思いを隠せなかった。ヨアキムはその発言が大嘘だと誰よりも判っている。
「集まったのは多分半分くらいだろう? 残りの半分は猊下の目が行き届かないのをいいことに、損耗を惜しんでどこかに隠れているんだろう」
つまりは枢機卿派は三〇万を公称しながら実動は一五万でしかないのだ。それでもユーグとアンリ・ボケの兵力差は実に五倍にもなる。両者のその差を正確に把握している人間はこの世のどこにもいなかったが、ユーグの方が圧倒的に少ないことは誰もが認める事実だった。
「戦いは数だけで決まるわけじゃない。それを教えてやる、アンリ・ボケ」
ユーグは自らの将兵を前にそううそぶく。「戦争の天才」と謳われたユーグの真価が今、発揮されようとしていた。
タシュリツの月(第七月)・一七日。王弟派と枢機卿派の戦闘が再開されたのがその日である。
枢機卿派の軍勢がスキラの中心地を通って南へと向かって進軍している。彼等の目的地は王弟派の根拠地である海辺の要塞、ベン・ヤイル要塞だった。
「敵が出てきたなら兵力差に任せて潰せ。出てこないならそのまま敵の要塞を占拠せよ」
アンリ・ボケが与えた命令はその二つだけだ。配下の将軍達も「これだけの兵力差があれば戦いになるまい」と気楽に考え、特に作戦もなく無造作に兵を進軍させている。
「閣下、敵が前に」
部下の注進を受けるまでもなく見えている。王弟派の部隊が通りを進んだ先にたむろしていた。粗末なバリケードを作って枢機卿派を待ち構えているようだ。将軍エティエンヌは彼等を嘲笑した。
「あんなもので我等を阻むつもりか――前進せよ! 背教者を蹴散らせ!」
エティエンヌの命令を受けた兵が前進する。それを見ただけで王弟派の兵は恐慌を起こし、算を乱して逃げ出した。エティエンヌの兵がそれを追う。
「逃がすな、追え!」
優位を確信し、嗜虐心を高めた将軍とその部下が王弟派の部隊を追いかけた。王弟派が角を曲がって逃げていき、それをエティエンヌ達が追う。エティエンヌもまた角を曲がって走っていくが、
「これは、何事だ!」
曲がった先は袋小路となっており、王弟派の兵の姿はどこにもない。エティエンヌ達だけがそこに押し込められいる状態だった。エティエンヌは引き返すために後ろを振り返り、
「――な」
と絶句する。そこに整列していたのは王弟派の部隊、その兵二百あまり。糸を張ったように足先を揃えた彼等は、その全員が銃を手にしていた。
「撃てー!」
火縄銃が一斉射され、百を超える弾丸が宙を裂き、エティエンヌの兵を撃ち倒していく。枢機卿派は恐慌状態に陥った。ひたすら身を伏せる者、何とか逃げ道を探す者、味方を盾にしようとする者。反撃するべく突撃をかける者も少なくなかったが、即座に放たれた第二射がその全員を射殺した。
その先はもう、戦闘ではなく殺戮だった。枢機卿派の兵を王弟派の銃撃隊が次々と射殺していく。枢機卿派の兵がどれだけ命乞いをしようと、無様に泣きわめこうと、王弟派は何の反応も示さない。まるで機械のように黙々と、弾丸と火薬を込め、射撃し、また弾丸と火薬を込める。それが何回もくり返された。
千を超える枢機卿派の兵が五百を下回った頃、ようやく王弟派が撤退する。残された枢機卿派に反撃や進軍が考えられるはずもない。我先に北へと向かって逃げていくだけだ。エティエンヌは死体となっていたがそれを知る者も気にする者も誰一人いなかった。
――それは決してエティエンヌ達だけの災難ではない。スキラの各所で同じような、一方的な戦闘がくり広げられていた。
枢機卿派のある部隊は隘路で挟み撃ちとなり、壊滅的な打撃を受けた。ある部隊もまた隘路に誘導され、上から一方的に攻撃されてなすすべもなく逃げ出した。
「な、なぜ騎兵が――」
枢機卿派のある将軍は騎兵部隊の奇襲を受けて討ち取られた。ある将軍もまた騎兵の強襲を受け、鎧袖一触で蹴散らされた。
騎兵を率いるのはユーグ自身だ。ユーグは配下の騎兵をスキラの随所に送り込み、敵味方の情報をリアルタイムで把握する。このため刻一刻と移り変わる状況に応じて最適の命令を下すことができた。
「敵が東側から回り込もうとしている。応戦を」
「そこには大砲を配置しています。彼等に任せましょう」
そしてタンクレードがそれを補佐する。タンクレードが広げているのは巨大なスキラ市街地の地図である。今日この日があることを見越し、スキラに到着したその日から少しずつ作らせてきたものだ。
タンクレードの命令を受けて大砲が火を吹き、枢機卿派の軍勢の直中に着弾する。破裂した大砲の破片が何十人もの兵をなぎ倒し、運悪く砲弾が直撃した指揮官は微塵となって砕け、跡形も残らなかった。
……日が暮れて戦闘が終結し、両派が自分の陣地へと戻っていく。王弟派の損耗はごく軽微なのに対し、枢機卿派は手ひどい痛手をこうむっていた。だがその程度のことで戦いを厭うアンリ・ボケではなく、むしろ戦意と敵意をさらに募らせている。
「王弟派はあれだけの銃器をどこから手に入れたのだ。あの騎馬はどこからやってきたというのだ。――言うまでもないだろう、ヌビアの皇帝だ! あれだけの武器をヌビアの皇帝以外の誰が用意できる! 王弟の背後にヌビアの皇帝がいることはもはや明白。王弟は自分が最悪の裏切り者であることを自ら明らかにしたのだ!」
アンリ・ボケはその翌日以降も王弟派への攻撃を続けた。そしてそのたびに手痛い反撃を受け、小さくない損害をこうむって撃退されている。枢機卿派の陣地には負傷者が溢れていた。負傷した兵士が行き倒れ、死体となり、それを別の兵士が一箇所に集めて積み上げていく。死体の山がうずたかく築かれた。
「……あの枢機卿様は数任せの戦いしか知らないのか……!」
負傷した騎士が呪詛を吐いているが、それを咎める者はいなかった――彼の回りは全員死体となっていたのだから。半日後には彼もまたその死体の仲間入りとなっていた。
もちろんアンリ・ボケも無意味に自軍の損害を増やして喜んでいるわけでは決してない。
「一体指揮官は何をしているのか!」
アンリ・ボケが鞭打つような罵声を上げ、将軍達が身をすくめた。
「相手はたかだか数万、その程度の敵に何を手間取っておるか! 無能は背教者と同じ、臆病者は異端と同じだ! 勝手に逃げる者には我が鉄槌の裁きがあると知れ!」
アンリ・ボケの檄――という名目の脅迫は小一時間ほど続いた。散々に脅され、ようやく解放されたときには将軍の誰もが精も根も尽き果てていた。
「……どうする」
「どうするもこうするも、戦う他あるまい」
「だが、ろくな武器もなしに、あの銃弾の雨にどうやって対抗しろと……」
「誰か、何か作戦はないのか」
一人がそう問うが誰もが途方に暮れたような顔を浮かべるだけだ。枢機卿派の主立った将軍は長雨の戦いの後にアンリ・ボケ自身が焚刑に処している。残っているのは軍団長クラスの有象無象ばかり。アンリ・ボケの方針を具体的に実行する、実務を担えるまともな将軍が一人もいないのだ。さらには議論を主導できるような、格のある将軍や力のある指揮官もおらず、どんぐりの背比べというべき同格ばかり。このため議論をしても時間を無為に使うばかりで意味のあることを何一つ決められないでいた。
「……ともかく、以前決めた受け持ちの場所で、各々が奮闘するしかないだろう」
このときも新しい方針も対抗策も、何もないまま同じことをくり返すと決まっただけ。将軍達は暗澹たる思いを共有した。
一方、王弟派の方が枢機卿派に比べて順風満帆だったかと言えば、決してそうではない。
「どうだ、動いたか?」
「いえ、全く。あの場所に留まったままです」
「そうか、警戒を怠るな」
ユーグはひっそりとため息をついた。最初のうちは簡単な罠にも引っかかり自滅していった枢機卿派だが、数日を経て急速に学んでいる。せっかく用意した罠も十中八九が空振りしていた。もっともそれだけ警戒しているため敵の足は完全に止まっている。戦線は膠着状態に陥っていた。
戦況は持久戦となっているわけだが、それはユーグの望んでいる形ではない。自陣内を見回っている最中、ユーグはタンクレードに確認した。
「また減っているようだが?」
「はい。百人ばかり逃げたようです」
その回答にユーグは口をつぐんで歩いていく。うかつに口を開けば愚痴があふれ出るだろう。ユーグの後背で、ユーグの代わりにタンクレードが愚痴を口にしていた。
「……まったく、今肝心なのはアンリ・ボケを殺すことだというのに。そのためならヌビアの皇帝だろうと利用できるものは利用するべきだ、その道理が何故判らん」
ユーグが皇帝の支援を受け入れているのは選択の余地がないからであって、ユーグはタンクレードほど恬然とその「道理」を認めることができないでいる。ユーグですらそうなのだから、他の将兵が「ヌビアの皇帝の支援」に対してわだかまりを抱くのも避けようがなかった。
「この戦いに意味はあるのか?」
「これ以上戦うのはヌビアに利するだけではないのか?」
そんな疑いが王弟派の腹中でよどみとなっている。それが将兵の脱走を生み出しているのだ。
「これ以上脱走が続けば我が軍は戦わずして瓦解する。何か方法はないのか?」
「はい。アンリ・ボケの殺害、これこそが殿下にとっての勝利のはず。この目的に集中します」
思わず足を止めたユーグがタンクレードの方を振り返る。タンクレードの真っ直ぐな視線がユーグを迎えた。
「暗殺部隊を送り込むのか?」
その確認にタンクレードは無言で頷く。しばらく考えていたユーグだが、タンクレードに背を向けて歩き出した。
「――成功を期待している」
タンクレードはユーグの背に向かい、深々と頭を下げた。
戦線の膠着と自軍の不利に危機感を深めているのはユーグだけではなく、アンリ・ボケもまた同じだった。そしてアンリ・ボケが選ぶ手段もまた同じだったのである。
タシュリツの月・二四日のその日。スキラの市街地では王弟派と枢機卿派が戦いをくり返している。一日中戦い、戦況は一進一退で変化がないまま犠牲ばかりが増えていく。その日もそうやって過ぎていき、やがて夕方。両軍が自分達の陣地へと引き上げ始めている。
枢機卿派の本陣、その最奥には大きな天幕が立てられていた。かつてはそこに地図が広げられ、何人もの将軍が作戦を練る場所だったのだが、今そこを利用しているのはアンリ・ボケ一人だけだ。
「……空の鳥を見よ。播かず、刈らず、蔵に収めず。然るに汝らの天の父はこれを養い給う。汝らはこれよりもはるかに優れる者ならずや。信仰薄き者たちよ。さらば、何を食らい、何を飲み、何を着んとて思い煩うな。これ皆異教徒の切に求むる所なり……」
戦況に苛立ちを深める一方のアンリ・ボケは聖典に目を通して心を静めようとしているところだった。そのとき不意に風が動き、気配を感じたアンリ・ボケが後ろを振り返る。そこには鉄槌騎士隊の鎧を身にした騎士が二人、無手で佇んでいた。
「一体何事か」
アンリ・ボケが問うてもその二人は何も答えない。その二人の顔にも見覚えがない。二人の騎士はにじり寄るように距離を詰めていく。
「猊下! 猊下! ご無事ですか、どうかご返事を!」
そのときになってようやく侵入者に気付いたようで、護衛が天幕の外で騒ぎ出している。アンリ・ボケは舌打ちをした。二人の侵入者は目配せをし、一気にアンリ・ボケへと突撃した。それと同時にアンリ・ボケも後方へと飛んでいる。
二人の暗殺者は手には何も持っていないように見えて、その手の中で何かが光っていた。掌に隠れるような小さな短刀、隠し武器だ。それが毒刃であることはまず間違いない。アンリ・ボケが愛用の聖杖型鉄槌を手に掴んだ。暗殺者はもう鉄槌の間合いの中だが、鉄槌を振り上げ、振り下ろすよりも暗殺者の方が一歩早い。
アンリ・ボケが鉄槌を盾のように掲げ、暗殺者の毒刃を防ぐ。だが暗殺者はもう一人いるのだ。二人の暗殺者は自分達の勝利を確信した。アンリ・ボケの腹部めがけて毒刃を突き刺そうとし――拳を顔面に叩き付けられた。
アンリ・ボケが当て推量でくり出した左拳がカウンターとなって暗殺者の顔面を痛打、暗殺者はたまらず尻餅をついている。間髪入れず、アンリ・ボケは鉄槌越しにもう一人の暗殺者を突き飛ばし、その体勢を崩した。暗殺者が体勢を整える間を与えずアンリ・ボケが追撃、鉄槌が暗殺者の頭部へと振り下ろされる。暗殺者の頭部は微塵に砕け、血飛沫が天幕の内側を赤く染めた。
残った暗殺者はすでに立ち上がり、再度突撃を仕掛けてきている。だがアンリ・ボケにはもう隙も焦りもなかった。一対一で向かい合い、戦うならばアンリ・ボケは誰と戦っても負けない自信があった。ましてやアンリ・ボケは愛用の鉄槌を持っているのに対し、暗殺者の得物は玩具のような小さな隠し武器だけだ。アンリ・ボケは自らの勝利を疑っていなかったし、事実もその通りとなった。
護衛の騎士が天幕に入ってきたのはアンリ・ボケが手ずから暗殺者を打ち倒した後だった。血で染まった天幕の内側と転がる二つの死体に護衛が動揺を見せる。
「猊下、お怪我は」
「ない。この死体を片付けよ」
アンリ・ボケが天幕の外に出ると、そこにも鉄槌騎士隊の鎧を着た死体が転がっていた。
「暗殺者の一味です。護衛を殺してそれに成り代わり、歩哨に立っておりました」
そうか、とアンリ・ボケが頷く。七日前にユーグが奇襲を仕掛けてきたとき、何人もの鉄槌騎士隊の騎士が戦死し、あるいは行方不明となっている。王弟派はその鎧を利用したのだろう。
「猊下、ご無事ですか」
「猊下、お怪我は」
暗殺騒ぎを聞きつけた配下の将軍達があちこちからアンリ・ボケの元へと集まってくる。アンリ・ボケは彼等の前に立ち、自らの無事を誇示して見せた。
「背教者は卑劣にも暗殺者を送り込んできたが私は無事だ。そもそも、神に守られたこの私が暗殺者ごときの刃にかかるはずもない!」
アンリ・ボケが聖杖を振り上げて見得を切る。周囲からは感嘆の声が上がった。
「諸君、これは背教者が追い詰められていることの何よりの証拠だ。背教者は自らの卑劣さに相応しい報いを受けるだろう!」
アンリ・ボケは力強く断言し、その予言に将軍達は追従の頷きを見せた。ユーグが自陣内で襲撃を受け、重傷を負ったという知らせが届いたのはその直後である。
――時間は少しだけ遡り、同日の午後。ユーグは前線に近い場所で監督と督戦をしているところだった。
大通りはバリケードによって塞がれ、そこに王弟派の兵士が陣取っている。大通りの向こうから枢機卿派の兵士が押し寄せてくるのを王弟派の兵士が迎撃していた。バリケードの隙間から火縄銃を撃ち、矢を放つ。枢機卿派の兵士がばたばたと倒れ、総崩れになって逃げていく。
「殿下、一四番の通りから敵兵が」
「判った」
だが一箇所で敵兵の侵入を防いでも別の場所から入り込もうとしてくる。ユーグは少ない人数で敵を迎撃するためスキラ中を走り回らなければならなかった。
近衛の騎士を引き連れてユーグが次の迎撃地点へと騎馬で移動している。前方には味方の兵とバリケードがあり、その向こうには枢機卿派の兵がいる。後方からは自軍の別の部隊が接近しているところだ。ユーグが後ろを振り返ろうとし、
「な――」
腹部を鉄槌で殴られたかのような、強い衝撃。ユーグの身体は馬上から落下し、地面に叩き付けられた。
「殿下!」
「殿下!」
近衛の騎士が慌てて駆け寄りユーグを抱き起こす。上半身を起こし、ユーグはようやく自分の背中に矢が突き刺さっていることを理解した。刺さっているのは後背、右腹の裏側。鉄の鎧を貫いて鏃が腹の中央まで届いている。一体誰が放ったのか、その疑問を口にするまでもなかった。
「背教者に死を!」
「裏切り者を生かしておくな!」
雄叫びを上げながら王弟派の一部隊がユーグへと突撃してきている。兵士は全部で百人ほど、先頭の兵士が手にしているのはクロスボウだ。
「カステルノー……! あの裏切り者!」
ユーグを後背から撃ったのはカステルノーという諸侯の部隊であり、カステルノーはこの戦争中ずっと王弟派としてユーグの下で戦ってきた男である。その男がユーグを討つべく、その首級を獲るべく、突撃してきているのだ。
「……追い払え」
ユーグは近衛に指示を出した上で再び馬に乗った。騎乗したユーグが、背中に矢を刺したまま自軍の陣地へとやってくる。兵士達の不安げな視線を一身に受けたユーグは頼もしげな笑みを作って見せ、剣を抜いて高々と掲げた。
「迎撃せよ!」
一拍置いて、兵士達が雄々しい歓声を上げる。士気を極限まで高めた王弟派の兵士は枢機卿派の兵士を殲滅した。それは戦闘と言うよりは一方的な虐殺と呼ぶべき代物だった。カステルノーの部隊も近衛の部隊に一蹴され、散り散りになって逃げている。
……日が暮れて戦いも鎮まり、王弟派も枢機卿派も自らの陣地へと戻っている。王弟派のベン・ヤイル要塞の一室ではタンクレードを始めとする幹部が沈鬱な顔を付き合わせていた。
その日の戦闘は何とか乗り切ったものの、失ったものは決して取り返しがつかなかった。ユーグは腹部に矢を受け、血を流しながらも負傷を押して全軍の指揮を執り続けた。
「僕がここで倒れたら王弟派は総崩れだ。今倒れるわけにはいかない」
最初の一時間は総司令官としての責任感で立ち続けた。責任感が血と共に流れ去り、耐え難くなると、
「僕はフランク王アンリの息子、フランク王フィリップの弟だ。この程度の怪我で倒れていては父上と兄上が侮られる」
次の一時間は王弟としての矜持を支えに立ち続けた。その支えも急速に削れ、鉛よりも重くなった身体を支え難くなってしまう。最後の一時間は立ち続けるのに生命を燃やし、注ぎ込んだ。戦闘が終わったときユーグの中にはもう何も残っていなかったのだ。
そして今、ユーグは自室のベッドで横になっている。近衛の騎士の中で医術の心得のある者が治療をし、その処置が終わって寝室から出てきたところである。その騎士をタンクレード達が取り囲んだ。
「殿下の具合は、どうなのだ?!」
その騎士は無言で首を振るだけだ。誰かの歯ぎしりの音がタンクレードの耳に届いたが、あるいはそれを発したのはタンクレード自身だったかもしれない。
「出血の恐れがあるため矢を抜くのは無理でした。傷口の止血をしてありったけの薬を飲ませただけです。王都の宮廷医ならばもっとマシな治療もできるのでしょうが、この場では……それに、たとえ宮廷医であってもあの傷では」
二一世紀の日本の基準ならユーグの負傷は重傷ではあっても重篤ではない。早急に大手の病院で治療を受けさえすれば生命に関わりはしない、その程度の傷である。だが逆に言えば、治療が遅れれば、小さな病院なら、生命に関わる傷だということだ。付け加えれば、現代の日本の病院ならどんなに小さなところでも消毒薬や抗生物質くらいはあるだろう。それでも危険なくらいなのに、ユーグの部下達はその程度のものすら有してはいないのだ。彼等が持っているのは効用も定かではない薬草だけだった。
ユーグはもう既に死神に魅入られている――それがタンクレード達の共通認識だった。
「……どうするのだ。殿下抜きで枢機卿と戦うなど」
「これ以上戦っても無意味だ。枢機卿の寛恕を願うべきではないのか」
ルッジェーロやロベールといった何人かの将軍がこそこそと話し合っているのを耳にし、タンクレードは剣を抜いて彼等に突きつけた。
「目障りだ、去りたければ去れ」
ルッジェーロ達は気まずそうな顔をつきあわせ、やがてタンクレードに卑屈な笑みを見せる。
「我々の分の食糧をもらいたい。あれだけあってももう仕方ないだろう?」
タンクレードだけではない、何人もの将軍が剣を抜いた。恭順派の幹部達は慌ててその部屋から逃げていく。
「食糧庫の防御を固めよ。あの卑怯者どもには麦の一粒も分け与えるな」
将軍の一人、コンラートの指示に百人隊長が頷き、その部屋を飛び出していく。コンラートは残った幹部達の顔を見回した。恭順派として出ていった数は三分の一を越えている。コンラートは牙をむき出しにした笑みを見せた。
「これだけ残っていれば上等だ。坊主共に我等の意地を見せてやる」
タンクレードが「籠城か?」と問い、コンラートが「ああ」と頷く。
「できるだけこの城に敵を引きつけ、最後にはこの城に火をかける。一人でも多くの枢機卿派を道連れにしてやるのだ」
コンラートの示した方針に残った幹部の半数が力強く頷く。だがタンクレードを始めとするもう半数は同意しなかった。
「殿下はまだご存命だ。私は殿下を連れてここを脱し、ヌビアに亡命する」
コンラート達が驚きを共有する。コンラートは思わず「正気か」と問うた。
「ここでは助からずともヌビアであればあるいは治療できるかもしれん。殿下が生き延びられることがまず第一、それ以外はその先で考えればいい」
コンラート達の顔に理解の色が広がる。単なるヌビアへの亡命であれば受け入れがたいことだが「ユーグの治療のため」という大義名分があれば亡命も許容できなくはなかった。
「しかし、ヌビアが殿下を受け入れるのか?」
「受け入れないわけがない。我々にこれだけの武器を支援した連中だぞ? 殿下の身柄を最大限利用しようとするに決まっている」
誰かの問いにタンクレードが即答する。そうなったならユーグは今以上に「背教者」「裏切り者」の汚名を被ることになるのだろう。もしユーグに意思表示ができたなら自らの名を惜しんでコンラート達と共に玉砕することを選んだに違いない。だがこの時点、ユーグの意識は混濁し、口にするのはうわごとばかりだった。
「背教者」の汚名も今さらの話だ、生き延びさえすれば汚名を返上する機会もある。まずは何より生き延びること――それがタンクレードの確固たる意志であった。
「ならばここは二手に分かれよう。我々はここで籠城して敵を引きつける。その隙にお前達は殿下を連れてスキラを脱出せよ」
コンラートの言葉にタンクレードが力強く頷く。タンクレード達はそれぞれの行動を開始した。
タシュリツの月・二五日、その未明。
前日の夜、王弟派の陣地から逃げ出してきた将兵が枢機卿派に投降。彼等の口からユーグが重傷を負ったことが知らされる。
「敵陣を包囲せよ。明日には総攻撃を仕掛け、この戦いを終わらせる」
アンリ・ボケのその命令に従い、約二万の兵がベン・ヤイル要塞を包囲する。彼等は夜襲に備えて寝ずの番をしているところである。
「ようやくこの戦いも終わるのか」
「ああ、何にしろ終わってくれるのは何よりだ」
兵士達の間には安堵と弛緩した空気が流れていた。聖槌軍の内戦が終わったところでヌビアとの戦いが再開されるだけなのだが、彼等はその事実から意図的に目を背けている。それができるのも長い時間ではないだろうが、心の平穏のためにはそれが必要だった。
そして未明、兵士達の緊張感が一段と緩む時刻。居眠りをしていた歩哨の兵士は何かの物音で目が覚めた。
「なんだ、この音は?」
地鳴りのような、獣の唸り声のような低い音。それが響いている。その兵は敵陣の方へと目をこらし、
「な――」
騎馬の一団が突進してきている。見る間に目前へと迫っている。馬の息吹が頬に当たるかのようだ。
「敵だ! 敵が!」
その兵は敵襲を知らせるべく声を上げた。だがその前に彼は逃げるべきだったのだ。彼が最期に見たのは馬蹄の底だった。彼はそのまま突進する騎兵によって文字通りに蹂躙された。
何人もの兵が馬蹄に踏み潰されて生命を落とし、その数十倍の兵が逃げていく。騎兵が通り過ぎた後に続くのは火縄銃を備えた部隊だ。彼等が銃を乱射し、さらにその後ろには弓兵の部隊が続いている。
「敵襲だ! 逃げろ!」
「道をふさぐな、そこをどけ!」
タンクレード隊の突撃に対し、枢機卿派の多くの兵は立ち塞がることではなく道を空けることを選んだ。枢機卿派の勝利はもう決まっているのだ、ならばここで生命を懸けて戦うことに何の意味がある? ――それが彼等の本音だった。その一方タンクレード達はここを突破できなければ生命がない。武装の差だけでなく士気の差も圧倒的だった。タンクレード隊がごくわずかの脱落だけで無事に脱出に成功したのは幸運でも偶然でもなく、必然である。
アンリ・ボケは起き抜けに王弟派の一部が脱出したという報告を伝えられる。早朝から気分を害することとなったがやがて気を取り直し、ベン・ヤイル要塞への総攻撃を開始させた。
「突撃せよー!」
先陣を切っているのはルッジェーロ等、つい昨日まで王弟派に属していた者達だ。アンリ・ボケは「名誉回復の機会を与える」と称して一番危険な先陣をルッジェーロ達に委ねていた。ルッジェーロ達が喜んでその命令を受けたのはアンリ・ボケの歓心を買うためだけではない。
「食糧庫だ! 食糧を確保せよ!」
何よりもまず食糧庫を確保すること、ルッジェーロ達はそれしか考えていなかった。ルッジェーロの兵は銃や弓で要塞を攻撃するが、武装の面ではコンラートの方がずっと優勢だ。弾丸や矢を雨のように浴びせられ、兵が虫けらのようにばたばたと死んでいく。
それでも枢機卿派の兵は怯むことなく押し寄せてきた。
「あの要塞には食糧が山ほど貯め込まれている! 腹一杯飯を食えるぞ!」
どこからか食糧のことが漏れ、枢機卿派のあらゆる部隊が食糧確保のために動いている。死地へと突進しているのだ。やがて耐えきれずベン・ヤイル要塞の防御が突破される。枢機卿派の兵士が要塞の中へと流れ込んでくる。彼等が真っ先にめざしたのは食糧庫だ。兵を引き連れたルッジェーロが食糧庫に到着、その扉を開け放った。
「よお、遅かったな。待っていたぞ」
食糧庫の中にあるのは天井まで積み上げられた膨大な麦袋。床に転がっているのは何本もの樽で、そこから流れた油が床を満たしている。そして、松明を持ったコンラートが嘲笑を浮かべて佇んでいた。
「き、貴様、何をする気だ」
「見て判らんか? 死なば諸共、地獄の底まで付き合ってもらうぞ」
やめろ、と制止する間もなくコンラートが松明を投げ捨てる。炎は瞬く間に食糧庫全体に広がり、ルッジェーロもまた火炎に包み込まれた。
食糧庫から上がった火の手は速やかに要塞全体へと延びていく。もともと要所要所に可燃材を積み上げ、食糧庫の炎上と同時に着火するよう手配がされていたのだ。要塞全体が炎に包み込まれるまでそれほどの時間は必要としなかった。コンラートの部下が最期まで踏み止まって敵を引きつけ、逃げ遅れた枢機卿派の兵士が炎に巻かれてゆく。
アンリ・ボケは炎上するベン・ヤイル要塞を間近に眺めている。天をも焦がすほどの巨大なその炎の中には万を越える枢機卿派の兵が取り残されていた。彼等を助ける手段はもうどこにも存在しない。
血よりも赤い炎がアンリ・ボケの頬を照らしている。アンリ・ボケが顔に浮かべているのはいつもの仮面のような柔和な笑みだ。その奥にどんな感情が渦巻いているのか、誰も知ることができなかった。
同時刻、サフィナ=クロイの港。そこにアニードの商船が入港してすでに十数時間が経過している。
ユーグはベッドごと運ばれてアニードの船に乗り込んでスキラを離れ、夜明け前にはサフィナ=クロイに到着していた。アニードはベラ=ラフマに連絡を取ってユーグの治療を懇願。ベラ=ラフマは独断で医師の手配をしてアニードの船へと送り届けた。数刻遅れで報告を受けた竜也もベラ=ラフマの判断を追認している。
「この町で一番の名医を派遣してくれ。薬も必要なものは全て用意させる」
竜也はユーグを助けるためにその権限を最大限行使し、何人もの名医と呼ばれる医師をアニードの船へと送り込んだ。竜也自身もその日の午後にはアニードの船に赴いている。
船室の一つでユーグが治療を受ける中、竜也は甲板で結果を待っている。護衛として同行しているのはサフィールやバルゼル達だ。
「タツヤ殿、あれを」
とサフィールがスキラの方角を指差す。そこには立ち上る煙があった。やがて煙は天を支える柱のように太く大きくなっていく。
「王弟派の拠点が、ベン・ヤイル要塞が炎上している」
ガイル=ラベクの部下がその報告を届けに来てくれた。そうか、と竜也が頷いていると、梯子を登って誰かが甲板に上がってきた。出てきたのはベラ=ラフマが手配した医師の一人である。
その医師はまず無言で首を横に振った。
「手は尽くしたのですが……申し訳ありません」
「いや、あなた方のせいじゃない。ご苦労だった」
タシュリツの月・二五日。フランク王国王弟、聖槌軍総司令官、ヴェルマンドワ伯ユーグがその呼吸を止める。それはベン・ヤイル要塞陥落とほぼ同一の時刻だった。