「黄金の帝国」・逆襲篇
第四四話「モーゼの堰」
サフィナ=クロイの郊外のある空き地。そこには木製の杭が地面に刺さっていた。その高さは一メートルほど、その本数は……数え切れないほどだが、見える範囲だけで千より少ないことはないだろう。
前後左右に一メートルほどの間隔を開け、杭が地面に刺さっている。それが延々と並んでいるのだ。時刻は夕陽が水平線に没する寸前。赤く染まったその空き地はまるで異界のような空気を漂わせていたが、それもある意味当然だろう。そこはサフィナ=クロイ最大の墓地なのだから。
聖槌軍との戦争が始まってから優に万を越える戦死者を出している。そのうち簡素でも墓碑を建てて葬られているのはほんのごく一部に過ぎず、戦死者のほとんどは共同墓地にまとめて葬られていた。その共同墓地もこの空き地の一角に建てられているが、それは置いておこう。
今、その墓碑の一つに何人かの男が参拝をしていた。他の墓碑が木製の杭なのに対し、その墓碑だけは石でできていた。大きさは膝の高さほどで、形は真四角。ただしその墓碑には何の銘も刻まれてはいない。
「ヌビアの皇帝よ。殿下を弔ってくれたこと、感謝する」
「さて、何のことかな。ここに眠っているのは名も知れないエレブの騎士のはずだが」
竜也の物言いにタンクレードは小さく笑いを漏らした。竜也は明後日の方向を向きながら、独り言のように言う。
「ヴェルマンドワ伯ユーグはベン・ヤイル要塞で玉砕したと聞いている。ヴェルマンドワ伯は我々にとっては憎むべき敵ではあったが、知勇に優れた将軍でもあった。その死には哀悼の意を表したい」
ユーグが亡命した事実をなかったことにするのはユーグの名誉を守るための、竜也なりの配慮だった。タンクレードの涙腺は激情により決壊する寸前となった。尽くすべき主君を喪った悲しみと憤りが改めて募ってくる。それに加え、敵である竜也がユーグを評価してくれたことには複雑な、だが一際の嬉しさがあるし、それに対するアンリ・ボケの態度には憎悪がいや増すばかりだった。
一方、竜也が示した哀悼の意は本心とポーズが半々である。ユーグが生きている限りは決して枕を高くして眠れはしないが、死んでしまったならその存在を惜しむ余裕も出てくるようになる。竜也は敵ではない者にはどうやっても残虐にはなれない性格だし、死者は決して敵になりはしないのだから。
墓碑の前にひざまずいていたタンクレードが立ち上がり、竜也に向き直った。
「――ところで皇帝よ。アンリ・ボケを殺すために皇帝は我々を支援してくれていたが、それはまだ有効と考えていいのか?」
「ああ。あの男を殺すためなら支援を惜しまない」
竜也の回答にタンクレードは「よかろう」と頷く。
「遠慮なく受け取っておく。あの男を殺すために私はこの生命を懸けよう」
ユーグなき今、タンクレードにとっては聖槌軍の勝利など完全に他人事だった。自分が目的を達するためなら聖槌軍が敗北しようと破滅しようと、どうでもいい――タンクレードはそこまで覚悟を決めていた。タンクレードは竜也という悪魔と取引をし、その魂を竜也に捧げたのである。
……時間は少しだけ巻き戻り、タシュリツの月(第七月)の中旬。スキラでは聖槌軍の内戦が勃発し、サフィナ=クロイでは多少なりとも余裕が生まれている頃のこと。……あくまで「多少」の話だった。
「王弟派の人数が全然少ないらしいな。この分なら内戦もさっさと終わっちまうんじゃないのか」
「くそっ、王弟派に賭けたのに……」
「そんなこと言ってる場合か! 枢機卿派が勝つってことは内戦が終わったらまたすぐ戦争が再開するってことだろうが」
つい先日までの、戦って負けるか、ヌビアの半分を割譲するかの二者択一を迫られていたときよりは状況は大幅に改善している。が、依然として厳しい状況にあることには変わりなかった。戦闘に直面する兵士達は誰よりもその厳しさを実感しており、休憩中の彼等が将軍や元老院議員のように情勢について語り合っている。
「いくら頭数を揃えたって、経験のない奴がまともに戦えるのか? 俺達だってちゃんと戦えるようになるのに結構かかったんだぞ」
「勝てるかどうか、かなりぎりぎりって感じじゃないのか?」
「優位に立つのに何かもう一手くらいほしいところだよなぁ……」
一人の呟きに全員が頷いて同意する。彼等はそろって腕を組み「うーん」と考え込んだ。そこに、
「皇帝が視察に来られた! 全員整列!」
隊長の声に休憩を中断、兵士達は隊長の下に集まり直立不動で整列した。
それほどの時間を経ずして皇帝の一行が彼等の前を通り過ぎていく。先頭を歩いているのが黒い甲冑を身にした若き皇帝、その横を同行するのは将軍アミール・ダールだ。皇帝のやや後方に黒い陣羽織の牙犬族の剣士達が続いている。さらにその後方には完全武装の兵士の一団が連なっていた。
先頭の皇帝と将軍アミール・ダールは熱心に何かを話しているがその内容までは聞こえない。だが真剣な表情の中にも時折笑みを浮かべており、皇帝も将軍も戦いの先行きを決して悲観してはいない――それだけは間違いなかった。
皇帝の一行が兵士達の前を横切り、一行の背中が遠ざかっていく。兵士達はその姿を長い時間見送っていた。
「……何かもう一手、きっと考えてあるんだろう」
誰かの言葉に全員が同意する。
「あの皇帝のことだからな。きっと考えているに決まってるさ」
「そうだな」
休憩時間はそこで終わりとなり、兵士達はそれぞれの持ち場に戻っていく。彼等の胸の内に巣くっていた不安はいつの間にかなくなっていた。
「何かもう一手」が必要だと竜也が考えていないわけがなく、その中身についても既に発案済みだった。その実行のため竜也は総司令部にガリーブとマグドを呼び出している。伝令を送ったのは同時だが、サフィナ=クロイにいるガリーブは呼び出されてすぐに臨時総司令部に登庁。トズルにいるマグドが伝令と一緒に臨時総司令部にやってきたのは夕方になってからである。
「完全に封鎖すると水圧もそれだけ強くなるだろう? ある程度は排水して水圧を弱めることを考えるべきじゃ」
「その排水箇所から崩れるぞ? 恒常的な設備ならともかく、あくまで仮設なのだろう?」
「この辺に排水用の水路を掘るのは?」
マグドが総司令部の執務室に入室すると、そこでは竜也とガリーブが何やら熱心に話し合っているところだった。執務室には他にアミール・ダールやガイル=ラベク、それにベラ=ラフマの姿があったが議論には加わっていない。
「遅くなった」
「いや、構わない。これを見てくれ」
挨拶もそこそこに、竜也は卓上を指し示す。そこに広げられているのはトズル周辺の地図、それに何かの設計図だ。「ふむ」とマグドはそれをとっくりと眺め、そして困惑の視線を竜也へと向けた。
「堰……ですか?」
「ああ、トズルに堰を築く」
竜也が大きく頷くがマグドの困惑は深まるばかりである。
スキラ湖は元の世界でならチュニジアのジェリド湖やガルサ湖に該当する。その二つの湖が一つにつながっている場所が、その北側がトズルと呼ばれている。トズルとその対岸は岬のように大地が突出していて、一番狭いところでは一スタディア、約一八〇メートルの距離しかなかった。
「ここに堰を築いて水を塞き止める」
と竜也はその一スタディアの隙間を指し示す。
「工期は一〇日だ。将軍マグドにはその指揮を執ってもらう」
マグドは助けを求めるようにアミール・ダールやガイル=ラベクに視線を向けるが、同情するような視線を返されるだけだった。
「しかし、たったそれだけの工期でそんな大工事を」
「目的は聖槌軍を水攻めにすることだから、渡河作戦が始まったら決壊させる。要するに何日か持てばそれでいい、あくまで仮設の堰だ」
マグドは難色を示すが竜也の姿勢は変わらない。豊臣秀吉は高松城の水攻めのためにわずか一二日で全長四キロメートルもの巨大な堤防を築いたとされている。それを思えば、マグドほどの将軍がたったの一スタディアの堰を建設できないわけがない――それが竜也の確固たる意志だった。
「サフィナ=クロイの市民から協力を得ている。二万の工夫を動員する」
マグドが思わず「二万?」と問い返し、竜也が頷いた。
「ナハル川方面軍の新兵達だが、実戦経験もなければろくに訓練も受けていない。一〇日間中途半端な訓練を受けさせて無策のまま防衛戦に臨ませるよりは、切り札の建設に使った方がいいだろう?」
マグドは不明な点をいくつか確認する。最大の問題はそもそもこんな堰が建設可能なのかどうかだが、その点についてはガリーブが、
「計算上ではこれだけの厚みがあれば水圧に耐えられる!」
と設計図を示してお墨付きを与えてくれた。マグドとしてはそれを信じる他ない。他にも問題は無数にあったがどれも致命的というほどではなかった。つまりは竜也の命令を拒否するだけの理由も存在しないということだ。
「……まあ、やるからには全力を尽くしやしょう」
「すまない。よろしく頼む」
工事の困難さを思ってマグドが気を重くする一方、竜也は重荷をマグドへとバトンタッチして安堵したような様子である。そこにアミール・ダールが、
「ところで皇帝、この新しい堰は何と呼べば? トズルの堰では今トズル砦にある堰と区別が付きません」
問われた竜也は「ふむ」と首をひねった。マグドは深く考えずに提案する。
「クロイの堰でいいんじゃないのか?」
「そうですな」等とアミール・ダール達が賛意を示す一方、竜也一人が否定的だった。
「いや、それだったらマグドの堰かガリーブの堰の方がいい」
戦いも既に終盤であり、知名度も実績もそれなりに積み上げてきた。これまではヌビア軍を結束させるためにある程度の自己宣伝や自己神格化を推進してきた竜也だが、決して望んでやってきたことではない。「ヌビア軍の結束のため」という公益が羞恥心や良識という私心を上回っていたわけだが、その必要性が薄れれば私心を優先させるようになる。
が、竜也のそんな心理はマグド達には理解の外である。マグド達は戸惑ったように顔を見合わせている。一方ガリーブは、
「いやあ、照れますなぁ。はっはっは!」
竜也から譲られた栄誉をてらいもなく受け取るつもりでいた。が、マグドの殺気立った視線を受けて慌てて笑いを引っ込める。マグドからすればその命名は竜也の業績を自分やガリーブが横取りするに等しいもので、受け入れられるものではなかった。
そんな一同の様子を無言で観察していたベラ=ラフマだが、
「それならモーゼの堰と呼ぶのはどうでしょう」
その提案に竜也は破顔した。
「ああ、それはいいな。それでいこう」
竜也達の念頭にあったのはアンリ・ボケの檄文、その一節だ。
「聖杖さえあればナハル川を二つに割って南までの道を造ることも容易い――」
聖杖に成り代わり、ナハル川に南までの道を造ること。それこそがこの堰の建設の目的なのだから。
タシュリツの月・一六日。モーゼの堰の建設が開始された。
二万の工夫がサフィナ=クロイから南へと移動する一方、一二隻の外洋船がナハル川を遡上してスキラ湖に入っていく。工夫がトズル対岸に到着する頃、外洋船はすでに所定の場所に配置されていた。
「なんだありゃ?」
「橋か?」
工夫がそれを見てざわめく。彼等のいる場所と対岸のトズルを結ぶように六隻の船が縦に並び、船同士は何本ものロープで連結されて、さらには船と船の間には板が渡された。この場所からトズルまで歩いて渡れるよう、浮き橋が設置されたような状態だ。
「作業にかかるぞ! 持ち場に移動しろ!」
各現場を監督する百人隊長の号令に従い工夫が移動する。一部の工夫は橋となった六隻の船上で行列を作り、大半の工夫は周辺に散った。それらの工夫が土砂を集めて土嚢に収め、バケツリレーの要領で土砂を移動させていく。土砂の行き先は橋となった船の上だ。船上の工夫は受け取った土砂を船倉へと捨て、それが何十箇所で、何百回もくり返された。見る間に船倉に土砂が貯め込まれ、船の喫水がどんどん下がっていく。
「そろそろ限界か。――船から退去しろ!」
マグドの号令に従い工夫が船の上から移動。わずかに残った工夫が六隻の船倉に穴を開ける。船倉に水が流れ込み、瞬く間に船が水へと沈んでいった。
「ああ、もったいない……」
「沈めるんなら俺に一隻譲ってくれよ……」
その様子を船の上から見守る水兵達が嘆いている。ガイル=ラベクは平静を装っているが内心は彼等と大差なかった。この作戦に使われる船は自沈が約束されている。
「廃船にする予定の古い船を集めてくれ」
と竜也に言われはしたものの、不要な船は以前にゲフェンの丘に集められたため早々見当たりはしない。工事を急ぐ必要があったこともあり、集められたのはまだまだ現役で使える船ばかりだった。船を惜しむ気持ちは人一倍であるが、
「完全に沈んだようだな。行くぞ」
それでも自分の役割を忘れはしない。ガイル=ラベクの命令に従い、第二弾の六隻の船が移動を開始した。
同じことがくり返された。六隻の船が浮き橋のように連結され、それらの船に工夫が土砂を流し込み、自沈させる。さらには翌日も同じことを実施し、そこには合計で二一隻の船が沈むこととなった。船の上に船が積み重なり、一番上は沈んだとは言っても水面下に潜っただけ。その上を歩いてトズルへと渡れる状態になっている。
「ここからが本番だ! 土砂を運べ!」
沈んだ船の上に工夫が列を作り、やはりバケツリレーの要領で土砂を運んでいく。土砂は次々と足下へと捨てられた。さらにはいくつもの大きな岩が船で運ばれ、湖底に沈められ、ロープが結ばれて蜘蛛の巣のように張り巡らされる。隙間を埋めるために土砂が、粘土が、瓦礫が、木材が沈められる。工事は常に決壊の危険と隣り合わせであり、その対応は昼夜を問わなかった。夜であっても篝火を焚き、不眠不休で工事は進められる。その甲斐もあってタシュリツの月の月末には堰は一応の完成を見た。また、水圧を下げるための排水路は堰と同時に掘削が進められ、堰と同時に完成している。だが、
「ロープが切れかかっている! 代わりのやつは!」
「枝を払わなくていい! そのまま持ってきてここに突き刺せ!」
決壊を防ぐための補修や補強に始終追われる状態であり、むしろ工事中より忙しくなったくらいだった。二万の工夫だけでは人手が足りず、トズル砦から兵士の大半を呼び寄せて応対させることで最悪の事態だけは何とか避けているような状況だ。
「将軍、今もし敵がトズルに攻めてきたら」
「敵の動きは見張っている。留守の砦を攻められる、なんて間抜けなことにだけはならんさ」
マグドは部下の懸念を笑い飛ばした。もっとも内心はそこまで楽観していたわけではないが。
「敵がトズルに攻めてこないことを祈る他ありませんな」
副官のシャガァの言葉にマグドが頷く。
「それと、さっさと渡河作戦を決行してくれることもな。いくら補修をしてもきりがない。あと何日も持たんぞ」
マグドの祈りがどこかの神に聞き届けられたのはアルカサムの月(第八月)に入ってからである。
ナハル川の水位が急速に下がっていることに聖槌軍の将兵が気付かないはずもなかった。水位が数日前の半分以下になったナハル川を前にし、兵士達がざわめいている。
「何があったんだろう」
「決まっているだろ、枢機卿様が聖杖を手にしたからこうなったんだ!」
「上流で土砂崩れがあったって聞いたぞ」
兵士達はどこかの誰かが意図的に流した噂を頭から信じ込んでいる。一方の将軍や軍団長達の様子も兵卒とあまり変わりがなかった。
「上流で土砂崩れがあったとのことですが、これこそまさに天佑神助。神が猊下の勝利を望んでいる、何よりの証でしょう」
将軍達の追従にアンリ・ボケはやや煩わしげに「うむ」と頷く。それを口にした将軍自身は自分の言葉を信じているわけではなく、アンリ・ボケの反応を、
「世辞を言われるのを疎んだのだろう」
と思っている。だが事実はそうではなかった。
(そんな当たり前のことをいちいち述べずともよい)
それがアンリ・ボケの本心だったのだ。神が自分の勝利を望んでいることも、そのために天佑があることも理の当然。聖杖を手にしているのだからそれがない方がおかしい――アンリ・ボケは心底からそう思っている。
「しかし、敵が兵を南に動かしているという噂も聞きます。おそらくは川を塞いだ土砂を取り除き、水流を元に戻そうというのでしょう」
「ならば、急がねばなるまい。この好機を逃しては天佑も手からすり抜けてしまう」
将軍達が意志を一つにし、アンリ・ボケを見つめる。元よりアンリ・ボケに異存があるはずもなかった。
「全軍に通達せよ。明日には渡河作戦を決行する」
――もしこの場にユーグかタンクレードがいたならこう疑問を呈していただろう。
「誰か見てきたのか? 土砂崩れがあったのかどうかを」
アンリ・ボケの部下の中にも同じことを思った者は確かにいた。
「まずは土砂崩れが事実かどうかを確認するべきなんじゃないのか?」
そう考えた者は決して少なくはなかった。だがそれを提案するのはアンリ・ボケに対する天佑に疑義を挟むことに等しく、罠の存在を疑いながらも誰もそれを口にできなかった。聖槌軍が最後まで無為無策のまま、馬鹿の一つ覚えの渡河作戦を決行することになったのは、聖槌軍という組織の必然だった。アンリ・ボケという指導者をいただき、反対派閥を全て排除し粛清した、その当然の帰結だったのだ。
そしてアルカサムの月・一日、聖槌軍の渡河作戦が決行される。
アンリ・ボケは聖槌軍の残り全軍を動員、実際に渡河をする兵は三〇万に達していたと言われている。聖槌軍の全兵力を投じた総攻撃だ。
「これが最後の好機だ、今日勝てなければもう飢えて死ぬしかない」
兵卒はともかく指揮官の多くはアンリ・ボケに対する天佑や聖杖の神助など信じてはいない。それでも今日が最大最後の好機であることは彼等の共通認識となっていた。
「今日勝てばもう我々に敵はない! もう我々の進軍を阻むものは何もない! 今日勝てばヘラクレス地峡からケムトまで、ヌビアの全てを征服したも同然だ! これが最後の決戦と心得よ!」
軍団長の檄に配下の兵は勇を奮い立たせ、怯むことなくナハル川へと飛び込んでいく。ナハル川の水面はエレブ兵に埋め尽くされんばかりだった。
一方、南岸でそれを迎撃するのは七輪旗を掲げたヌビア軍八万。そのうち三万は新兵で今回が初めての実戦だ。が、南岸に結集しているのは兵だけではなかった。
「……これらの者は皇帝が集めたのですか」
「俺は何も言ってない」
アミール・ダールが眼下の光景を視線で指し示し、竜也は首を振って否定する。前線には兵だけではなく、女・子供・年寄り等も含めたサフィナ=クロイの市民十数万が集まっていたのだ。彼等は棍棒や手製の槍、石ころ等の粗末な武器を持ち、戦う意志を全身にみなぎらせている。
「市民にも判っているのでしょう、これが最後の戦いだと。これにさえ勝てばわたし達の勝ちだと」
野戦本部を訪れているファイルーズがそう口を挟む。ファイルーズの言う通り、今日が決戦だという意識は竜也やアミール・ダールといった総司令部首脳陣、各軍団長や百人隊長といったヌビア軍幹部だけのものではなかった。前線で戦う兵だけでもなく、サフィナ=クロイ全市民がそれを共有していたのだ。
女子供までが棍棒や石ころ、包丁までも手にして戦う覚悟を決めているのだ、彼等を背にした兵士達が高揚しないはずがない。雲霞のごとき大軍勢を目前にしながらも前線から逃げようとする新兵はただの一人もいなかった。
竜也はやや申し訳なさそうにしながらアミール・ダールに依頼する。
「市民からは極力犠牲を出さないように頼む。補助的なところで活用してくれ」
アミール・ダールは「判りました」と返答し、部下を引き連れて野戦本部を後にして前線へと赴いた。竜也達は野戦本部の前から川岸の様子を見つめる。川岸では、ようやく南岸までたどり着いたエレブ兵がヌビア兵と今まさに干戈を交えようとしているところだった。
一方、ほぼ同時刻のモーゼの堰。聖槌軍が渡河を開始したという知らせは、狼煙、手旗信号、早馬等、あらゆる手段を使って最高速でマグドへともたらされた。連絡を受けたマグドは部下へと命令を下した。
「よし! 堰を切れ!」
命令を受けた奴隷軍団の兵士達が鬨の声を上げながら散っていき、堰を壊しにかかった。張り巡らされたロープは次々と切断され、丸太や杭が引き抜かれ、さらには大砲の砲弾が撃ち込まれる。元々いつ崩れても不思議はなかった堰である。膨大な水圧に耐えきれずついに決壊した。必死の思いで築いた堰が一瞬で瓦礫となって一気に水に流される。何人かの兵士が逃げ遅れて奔流に呑まれてしまったがそれを助けることもできない。奔流はスキラ湖の下半分にまず広がっていく。水流がスキラ湖の下流に及ぶまではかなり時間がかかりそうだった。
ナハル川の南岸では秒単位で死体が量産される死闘がくり広げられていた。
エレブ兵の肩にエレブ兵が登り、南岸の石壁を乗り越えようとする。それにヌビア兵が矢を放つ。さらに市民が点火した原油を浴びせ、石を投げて突き崩した。追加の兵が後から後からやってくるが石壁を乗り越えることができない。まともに身動きもできないくらいに石壁の前に集まり、ヌビア兵のいい的となっていた。石に潰され、矢に刺されたエレブ兵の死体を、エレブ兵が集めている。死体を壁の前に積み上げている。味方の死体を運んでいたエレブ兵に矢が刺さり、自分もまた死体の一つに加わった。
死体の山を足場にして石壁を乗り越えようとする聖槌軍。何箇所かでそんな足場が作られ、何人かのエレブ兵がようやく石壁を乗り越えて南岸の大地を踏みしめる。
「はい、お疲れ様!」
その途端、火縄銃の集中砲火を浴びて倒れ伏した。それらのエレブ兵はそのまま南岸の大地の一部となった。さらにヌビア軍は死体で作った足場に大砲の照準を合わせ、生きたエレブ兵と死んだエレブ兵をまとめて吹き飛ばす。聖槌軍は足場の積み直しを余儀なくされるが、その材料に事欠くことはなかった。
早朝から始まった戦いは血に飽きることもなく続いている。太陽が中天に昇る頃、南岸はエレブ兵に埋め尽くされていた。普段より大幅に広がった川の岸辺はエレブ兵の帯となり、地面も川面も見えないくらいになっている。壁を乗り越えんとするエレブ兵とそれを突き落とすヌビア兵。エレブ側の損害は数えることをとっくに諦めるくらいだったが、ヌビア側の損害も無視できないくらいに広がりつつあった。市民が矢面に立っている場面も少なくはない。
敵に加熱した油を浴びせようとしていた子供が、誤って自分がその油を浴びてしまう。火だるまとなった子供が悲鳴を上げて岸へと転がり落ちていくが誰も助けることができない。母親が悲嘆に暮れているが、それも敵味方の怒号に呑み込まれていった。
女子供を含む市民が懸命に投石をし、エレブ兵に多大な痛手を与えている。だがエレブ兵は血まみれになりながらも突き進んだ。血を流し、味方の死体を踏みしめながらも壁を乗り越えようとしている。ヌビア兵がそれを槍で刺して突き落とすが敵は後から後から沸いて出た。
「くそっ、きりがない」
「投げる石がもうないぞ、どうする」
投石の弾幕がなくなり、エレブ兵は攻撃を強めた。一人が槍で刺されながらも敵を離さず、その敵を味方が二人がかかりで殺す。壁を登りきったエレブ兵が敵を排除し、後続が次々と壁を登っていく。奔流となって溢れてくるエレブ兵の姿に市民だけでなくヌビア兵までが怯んでいる。いける、勝てる、このまま押し切って――何人ものエレブ兵がそう思い、そのまま絶命した。
「あの穴を塞ぐぞ!」
ダーラクの率いる騎馬隊がエレブ兵の一団へと突撃。騎兵の突進にエレブ側は恐慌を起こし、逃げ惑うことしかできない。そんなエレブ兵をダーラクは馬蹄で踏みにじり、さらには雷撃の恩寵で打ち倒した。雷撃の恩寵の一斉射が壁を乗り越えようとしていたエレブ兵を焼き、死体となったエレブ兵が血の焦げた臭いを撒き散らしながら落ちていく。
「おお、赤虎族のダーラクだ!」
「雷光のダーラク!」
市民の呼び声にダーラクは手を振って応える。ダーラクはその手をそのまま振り下ろし、それを合図に赤虎族の戦士達が並んで壁の上に立ち、敵へと向かって雷撃を掃射した。
「このダーラク様がここにいるんだ! 敵はこれ以上先に進めん!」
ダーラクの鼓舞に市民が歓声を上げた。ダーラクはそれに雄々しい笑顔で応えていたが、不意に真顔になって視線を東へと向ける。その先には野戦本部があり、竜也やアミール・ダールがそこにいるはずだった。
ダーラクだけではない。多くの指揮官の、兵士の、市民の視線が竜也へと向けられている。戦況は厳しくなる一方だった。いつ、どの箇所で敵が壁を突破してもおかしくはない。敵の攻勢に耐えきれなくなっても不思議はない。北岸から呼び戻した騎兵隊が応急処置に走り回っているがそれも焼け石に水だった。
「――前線に出る」
竜也は立ち上がり、外套を翻して野戦本部を出た。竜也にはバルゼル、サフィールを始めとする近衛達が、一騎当千の牙犬族の剣士達が付き従う。さらにその後方には旗持ちの鉄牛族が続いた。巨漢の鉄牛族が掲げているのは五パッスス四方の巨大な旗だ。そこに描かれているのは七つの首がとぐろを巻いた黒い竜。それこそ皇帝クロイの旗、黒竜の旗である。
高々と掲げられた黒竜の旗を目の当たりにし、ヌビア兵は士気を高揚させた。疲れ切り、石のように重くなった腕を振り上げ、声を振り絞る。
「黒き竜(シャホル・ドラコス)!」
「皇帝クロイ!」
皇帝クロイの連呼が南岸に轟き、大地を揺らした。その勢いにエレブ兵が動揺するが、それも長い時間ではない。
「あれこそ敵の皇帝だ! あの首級を獲ればこの戦争は勝ちだ!」
百人隊長に煽られたエレブ兵が黒竜の旗をめざして突き進んだ。敵の目の前に立てられた旗をめざし、その旗の下で仁王立ちになる竜也をめざし、エレブ兵が殺到してくる。何千人ものエレブ兵が一塊となり、方向転換も身動きもままならない。
「狙う必要もないな」
「粉砕せよ!」
そのエレブ兵の一団に矢の一斉射を浴びせるのは第九軍団のディカオンであり、大砲の砲弾を撃ち込むのは第十軍団のタフジールだ。弓と火器の十字砲火を受け、エレブ兵は急激に人数を減らしていく。
「ひるむな! 進め!」
壁までたどり着いたときには人数は半減していたが、それでも半分は残っているということだ。エレブ兵は味方の身体を盾にし、味方の死体を踏み台にして壁を登っていく。壁を乗り越えることができたのは壁に到着した人数のうちの十人に一人にも満たない。
「それでも後続はいくらでもやってくるんだ! このまま皇帝の首級を――」
戦意に燃えるそのエレブ兵の首が胴体から離れる。何故、どうして自分が死んだのかも判らないまま、自分が死んだことにも気付かないまま、そのエレブ兵は戦死者数のカウントを一つ増やし、ただの数字となった。
壁を乗り越えたエレブ兵を待っていたのはバルゼルやサフィール、牙犬族の剣士達の白刃である。突進するエレブ兵が無造作に斬られ、人間の部品を撒き散らす。それが何度かくり返され、それでようやくエレブ兵も彼等の正体を思い知るのだ。
「血の嵐だ……! ルサディルで千の兵を斬ったっていう……」
「あ、あいつらが……」
たじろぐエレブ兵を前にしてバルゼルが、サフィールが、剣士達が立ち塞がる。バルゼル達は無言のままだがその目が百万言よりも雄弁に物語っていた――寄らば斬る、と。
ヌビアの皇帝の姿はすぐそこにあった。手を伸ばせば届きそうだ。だがその前に血の嵐が立ちふさがっている。剣士達の人数は二〇人にも満たない。彼等は隊列も組まず、剣を構えもせず、血に濡れた剣を手に提げ、ただ佇んでいるだけのように見えた。彼等の手にする白刃は指数本ほどの幅しかなかった。だがその白刃がどんな壁より、ナハル川南岸の石壁よりも高く厚く、エレブ兵の行く手を阻んでいる。
緊張に耐えられなくなったエレブ兵が散発的に飛び出し、無造作にバルゼル達に斬り捨てられる。それが何度かくり返された。剣士達の足下にエレブ兵の死体が転がるばかりであり、剣士達は傷一つつかず、息一つ切らしていない。エレブ側の百人隊長は歯噛みをした。
「くそっ、後続は……! もっと大勢で一斉に飛びかかれば」
百人隊長が後方を振り返り――馬鹿みたいに口を開けまま石像のように棒立ちとなった。味方が水に溺れている!
南岸までたどり着いたエレブ兵が今、水に溺れていた。水に流されていた。普段より広がっていたはずの岸辺、それが今は川の底となっている。それどころか普段は岸辺になっている場所まで水が押し寄せ、エレブ兵は腰まで水に浸かっていた。しかも水位はまだまだ上昇しているのだ。
川岸から離れた場所のエレブ兵は抵抗もできないまま水に流された。川岸に近い場所のエレブ兵は何とか踏み止まっているがそれだけで、進むことも戻ることもできない。そして水位が増えれば彼等とて水に流された。川岸のごく間近な場所なら岸に捕まるか、その味方に捕まるかすれば流されることだけは避けられた。だがそのエレブ兵に対してヌビア兵は一片の容赦も持たなかった。矢が、火縄銃の銃弾が、熱湯が、油が浴びせられる。避けることもできないエレブ兵は傷つき、死体となり、やはり水に流されていくのだ。
「――やっと来たか。ともかくこれで勝ち目は見えたな」
竜也は肺の息を全て吐き出すくらいの大きなため息をつき、天を振り仰いだ。太陽は中天からやや傾き、日差しが一番強い時間帯となっている。
トズル砦では鉄砲水となった奔流が一気に敵を押し流したが、モーゼの堰の水はそのような鉄砲水にはならなかった。が、結果としては似たようなものである。ナハル川の水位は通常の半分以下の状態から一時間以上かけて水かさを増し、さらに増水していった。このためエレブ兵にとっては「気が付いたら増水していた」という状態であり、彼等の油断を突く形となったのだ。
通常より増水し、速度を増したナハル川の水が無慈悲にエレブ兵を押し流していき、南岸にかじり付いて何とか水流に耐えているエレブ兵にはヌビア軍が容赦のない攻撃を浴びせ続けた。反撃も退却も防御もままならないエレブ兵にできるのはただ神に祈ることくらいだ。そして神に見放されたエレブ兵が死体となり、水に流された。
水位や水流が通常状態に戻る頃には日差しもかなり傾いていた。運良く生き残ったエレブ兵は南岸を離れ、北岸をめざして泳いでいく。スキラに戻る気力もないエレブ兵はヌビア軍に降伏し、捕虜となった。
「――終わったか」
夕陽の中、北岸へと撤収する聖槌軍を見つめながら竜也が深々とため息を吐いた。竜也の側にはファイルーズ・ラズワルド・ミカ・カフラ・サフィール・ディアの六人が寄り添うように並び、竜也と同じ光景を見つめている。安堵・哀れみ・喜び・怒り等々、一様ではない複雑な、それぞれの感慨を胸に抱いてそれぞれの表情を浮かべている。
ヌビア側の大方の予想通り、この日の戦いが聖槌軍の最後の総攻撃となった。この日の戦いは後日、一般的には「アルカサムの月の戦い」と名付けられた。だがもう一つの呼び名「モーゼの堰の戦い」もまた広く知られている。