「黄金の帝国」・逆襲篇
第四六話「瓦解」
「スキラはなかなか愉快なことになっていたぞ」
ディアの報告はそんな言葉から始まった。ときはアルカサムの月(第八月)の上旬、場所は臨時総司令部の執務室。北岸の偵察から戻ってきたディアが竜也に報告をしているところである。
「モーゼの堰の噂はかなり広まっている。みんなアンリ・ボケの間抜けさ加減に呆れていたな。アンリ・ボケはもう一度渡河作戦をやろうと準備をさせているが、全く進んでいない。兵士達はやる気を失っているようだった」
「モーゼの堰の戦い」の直後から銀狼族や灰熊族が、
「ナハル川の水量が減っていたのはヌビアの皇帝が堰を築いていたからだ。アンリ・ボケや将軍達はその罠に引っかかったのだ」
という噂をスキラで流しており、噂は竜也の期待通りの効果を上げているようだった。ふむ、と竜也は頷いて報告の続きを促した。
「何とかという貴族様が焚刑に処されていた。将軍タンクレードと連絡を取り合い、聖槌軍を裏切ろうとしていた、というのが処刑の理由だそうだ。でも、本当はアンリ・ボケの作戦指揮を非難して渡河の準備をするのを拒絶したから処刑されたんだ、って噂を聞いている」
「見せしめってことか」
竜也の確認にディアが頷く。
「それじゃ、それで渡河の準備が進んだりは?」
「いや、それはない。末端の兵士達は怠けてばかりだし、監督する騎士様の方も形だけだ。あれじゃ一年あっても渡河なんかできない」
ディアの断言に竜也はひとまずの安心を得た。が、すぐに難しい顔をして考え込む。
「この有様になってもまだ戦う意志を失っていないのか、アンリ・ボケは」
「ああ、全く度し難いことだ」
ディアは呆れた様子で肩をすくめる。一方の竜也はディアの報告を吟味した。
(……モーゼの杖を手にしながら無残な大敗北を喫したことで、アンリ・ボケのカリスマも地に落ちているはずだ。今ならあの男を殺すのも難しくはないだろう)
竜也の瞳の奥に剣呑な光が灯った。
「……そろそろあの男にも退場してもらおうか」
竜也の呟きにディアが反応する。殺意の灯火がディアにも引火し、静かに、だが確実に燃え上がった。ディアが牙をむき出しにした笑みを見せる。
「ようやくか、待ちかねたぞ」
そのとき突然執務室の扉が開いた。ノックもなしに執務室へと飛び込んできたのはベラ=ラフマである。
「皇帝、緊急の連絡です。スキラの聖槌軍内でアンリ・ボケに対する反乱が起こっています」
竜也とディアは思わずベラ=ラフマを凝視した。
……時刻は少し遡って、その日の朝。アンリ・ボケはユーグの襲撃によって焼け落ちたソロモン館を引き払い、拠点を太陽神殿跡地に移動させている。その場所には朝早くから将軍や軍団長が集められていた。
「……前回は裏切り者が我々を誘導したために敵の卑劣な計略にはめられ、大きな損害を出してしまった。だが、今こそ信仰心の試練のとき! この苦難を乗り越えてこそ信仰心はいや増し、神の栄光は光り輝くのだ。神の鉄槌たる我が将兵よ、この程度の苦難に怯んではならない!」
アンリ・ボケは将軍達を前にして演説を打っている。将軍や軍団長は石像のように微動だにせず、アンリ・ボケの有難い説教を拝聴している――ように見えなくもなかった。
「裏切り者はその愚行に相応しい報いを受けた。これで我等の進軍を妨げるものはもう何もない。我等は今度こそあの川を渡る! 異教徒どもの穢れた町を浄化の炎で焼き尽くすのだ!」
将軍達は揃って仮面を被ったかのような無表情だが、アンリ・ボケはその奥に隠された感情を鋭敏に感じ取っている。彼等の反応が以前とは一変していると、アンリ・ボケも実感する他なかった。
「将軍ジョスランと将軍ギヨームは丸太を集めよ。将軍プリムスと将軍ベルトランはそれぞれ二万の兵を率い、トズルを攻略するのだ」
うんざりしたような、誰かのため息が聞こえてくる。アンリ・ボケが一同を睥睨するが、将軍達のまとう弛緩した空気に変わりはなかった。アンリ・ボケは内心の苛立ちを必死に隠した。
「……あのー、トズルに行くまでの兵糧は」
「神は自ら助くる者のみを助く。まずは自らになせる全ての努力を果たし、その上で神に祈るがいい」
質問をした将軍プリムスは何も言わずに引き下がるが、それはアンリ・ボケの回答に納得したから、では決してない。プリムスの白けたような顔を見ればそれは誰の目にも明らかだった。アンリ・ボケはプリムスを糾問し、糾弾したい誘惑に駆られたがかろうじてそれを我慢した。自分の返答に無理があることに、アンリ・ボケ自身も無自覚ではなかったからである。
会議……ではなく一方的な通達を終えて、将軍達はアンリ・ボケの前から立ち去っていく。一人その場に残ったアンリ・ボケは、苛立ちが暴発するのを抑制するため自制心の全てを費やさなければならなかった。
「……誰も彼もが怠惰で無能な不信心者ばかりではないか。将軍や指揮官があのざまでは戦いに負けるのも当然だ」
敵が卑劣で味方が無能か裏切り者だったから――アンリ・ボケにとっての苦戦や敗北の理由は要約すれば、身も蓋もない言い方をすればその二つだった。自分の作戦指揮がまずかったから、という理由はアンリ・ボケの脳内には存在しない。いや、ないわけではないが、それは意識の上から排除され、抑圧されている。アンリ・ボケは自分の落ち度を隠蔽し、自分が潔白であることを証明するためにも他者の責任を追及していくしかないのだ。
一方、将軍達にとってはアンリ・ボケのそういう身勝手さはあまりにあからさまだった。アンリ・ボケの前から退出した将軍達はそれぞれの思いをため息に込めて吐き出している。
「……どうするのだ。トズルに行けと言われても兵糧もなしでは」
「こちらだって、これまで何万本の丸太を伐採したと思っている。スキラの近隣には丸太なんかもう一本もないんだぞ」
アンリ・ボケの命令は将軍達にとってはすでに「物理的に不可能」な域のことだった。かと言って命令に従わなければ最悪は焚刑の身だ。進退窮まるとはこのことだった。
「……」
プリムスは、ギヨームは、ジョスランは、ベルトランは、その他の将軍達は一様に一つの思いを抱いている。誰かがそれを言い出すのを待っている。
「……」
だが全員の期待に反し、その場の誰一人としてそれを言い出さなかった。自分の意見を明らかにせず、常に多数派に属し、大勢に逆らわず流されることでここまで生き延びてきたのが彼等なのだから。
結局誰もそれを言い出さないまま、将軍達はそれぞれの陣地へと戻っていった。彼等はそれぞれアンリ・ボケの命令を形だけでも全うしているように見せかけるべく悪戦苦闘するのだろう。
一方のアンリ・ボケは鉄槌騎士隊の騎士の一人、ヘルモルトに命令する。
「将軍サンザヴワールの姿が見えなかったな。ここに連れてこい」
何気なく下したこの命令がアンリ・ボケの命運を決することになるのである。
将軍サンザヴワールの陣地内にある、元は商家と見られる石造りの建物。そこでサンザヴワールは一人の騎士と面会していた。
「……私の立場は判っていよう。私は故国では守旧派として王弟殿下に剣を向けたこともある。聖槌軍ではずっと枢機卿派に属しているし、先日は将軍タンクレードとも戦っているはずだ」
「それは些末なことでは? 将軍の置かれた状況の厳しさを思うなら」
その騎士の言葉にサンザヴワールは重苦しいため息をついた。
「確かにそうだ。アンリ・ボケはあんな単純な罠に引っかかって一〇万以上の味方を失ったのに、渡河作戦をくり返そうとしている。これまでは運良く生き延びることができたがこの先どうなるか判りはしない」
「閣下が生き延びるためには方法は一つしかないのでは?」
騎士の言葉に対し、サンザヴワールは首を横に振った。
「その通りかもしれんが……それをやるのが私である必要はない。邪魔はせんからを他を当たってくれ」
サンザヴワールはその騎士を追い返すが、その騎士と入れ違いになるようにアンリ・ボケの命を受けたヘルモルトがサンザヴワールの元を訪れた。鉄槌騎士隊の騎士の姿にサンザヴワールは狼狽した。
「な、何故あの連中が」
「枢機卿猊下が今日の朝に将軍全員を招集していた、ということなのですが……」
部下の言葉にサンザヴワールは「聞いていないぞ!」と悲鳴を上げた。なお、召集令が届かなかったのはサンザヴワールの秘書役の騎士が先日の戦いで戦死していて、その混乱が未だ続いているためだった。
「と、とにかく釈明しなければ」
サンザヴワールは汗をぬぐいながらヘルモルトの前に進み出た。サンザヴワールが何か言う前にヘルモルトが何気なく質問する。
「先ほどこちらを立ち去っていったあの騎士殿はどちらの方でしょう? どこかで見かけたように思うのですが」
本当に見覚えがあったのかもしれないし、あるいは単に世間話のとっかかりとしてそれを問うたのかもしれない。だが問われたサンザヴワールにしてみれば心臓に剣を突き立てられたに等しかった。
「貴様がタンクレードと連絡を取り合っているのは判っている」
サンザヴワールにとってはそう告げられたも同然だったのだ。目眩を起こしたサンザヴワールはその場に座り込んでしまう。
「どうされたのですか。どなたか、将軍の具合が」
ヘルモルトの呼びかけに、サンザヴワールの部下がその場に集まってきた。部下達が剣を帯びているのを目にし、サンザヴワールは一つの決断を迫られた。
「……ろせ、……ころせ」
「将軍?」
うわごとのような呟きはやがて明確な命令となり、全員の耳朶を打った。サンザヴワールは槍のような鋭さでヘルモルトを指差した。
「殺せ! その男を殺せ! 生かして帰すな!」
ヘルモルトは反射的に腰の剣に手をかけながらも「将軍、何を」と問う。その答えに代えるように、背後からの剣がヘルモルトを背中から腹部まで串刺しにした。さらに何人もの騎士が剣を抜いてヘルモルトに襲いかかる。ヘルモルトは全身を切り裂かれて絶命した。
無残なヘルモルトの死体を前に、サンザヴワールは惚けたように佇むだけだ。そのサンザヴワールの肩を部下の一人がしっかり掴み、強く揺すぶった。
「将軍、お気を確かに! どうかご命令を!」
「命令?」
思わず問い返すサンザヴワールに部下が諄々と説いていく。
「鉄槌騎士隊の騎士を殺しておいてただですむとお思いですか? 閣下や我々は焚刑となり、兵はこの場では殺されずとも次の戦いで真っ先に渡河を強要されることでしょう。もはや是非もありません、こうなれば剣によって生き延びる道を切り開くまで」
その言葉が脳裏に浸透する。サンザヴワールももう選択肢が一つしか残っていないことを理解するしかなかった。
「……そうだ、今こそ正道に帰るとき。アンリ・ボケは王弟殿下の仇敵だ、フランクの貴族として奴を生かしておくことはできん!」
王弟派と枢機卿派の内訌に際してはサンザヴワール達は枢機卿派として戦ってきた。それなのにいきなり「王弟殿下の敵討ち」を掲げたのだ。部下達は白けた顔をするか、わけが判らないといった顔をしただろう――「モーゼの堰の戦い」の前ならば。
「アンリ・ボケを殺せ!」
「あの男を許すな!」
今、この場に異議を唱える者は一人もいない。「王弟殿下の敵討ち」などただの題目に過ぎないことは誰もが百も承知だ。
「自分達が生き延びるためにはアンリ・ボケを殺すしかない」
サンザヴワールとその部下は意志を、目的を共有し、心を一つにしていたのである。サンザヴワールは配下の三千の兵を率いてアンリ・ボケの陣地を目指し、進軍を開始した。
「フランクの民よ、今こそ目覚めるときだ! 王弟殿下を殺したアンリ・ボケを生かしておくな!」
今、アンリ・ボケと戦うことに疑問を抱く者はサンザヴワールの兵の中に一人もいない。その顔に貼り付いているのは半分は復讐心、もう半分は追い詰められた者の必死さだった。アンリ・ボケの無謀な作戦指揮により多くの同胞が無意味な死を強いられた。かろうじて生き残った自分達にしても次の作戦で生き残れるとは到底思えない。死なないためには反乱を起こすしかない、というのが兵士達の共通認識だった。
サンザヴワールにとってもこの反乱は、焚刑の運命から免れて生き延びるための唯一の手段だった。自分が生きるか、アンリ・ボケが生きるか、二つに一つであって両者が並び立つことはあり得ない。サンザヴワール軍は将軍から末端の兵卒まで、全体が「自分が生き延びるためにはアンリ・ボケを殺すしかない」という一つの悲壮感を共有していたのだ。
サンザヴワール軍は士気の高さと意志の強さをそのままにアンリ・ボケの陣地へと突撃した。
一方、アンリ・ボケ側は事態の急変に戸惑うばかりだった。
「一体何故あの男が反乱など」
アンリ・ボケにはその理由が判らない。アンリ・ボケにとってサンザヴワールは「裏切る危険の少ない、有力な駒」だったはずなのだ。
「くそっ、裏切り者がこんなに根深いところまで巣くっていたとは」
前回の戦いで敗北を喫したのも道理だ――アンリ・ボケは改めて腑に落ちた心地を得ている。もっとも、そんな理由で前回の敗北を納得できるのはアンリ・ボケ一人しかいないに違いないが。
「迎撃せよ! 裏切り者を生かしておくな!」
サンザヴワールの兵数が三千なのに対し、アンリ・ボケの陣地には万を越える兵がいる。戦いは味方がサンザヴワールを蹴散らして一方的に終わるだろう、とアンリ・ボケは判断したし周囲の者も同様だった。だが事実は全くの逆に推移する。
「何故だ、何故我が軍が押されている! 味方はどこに行ったのだ!」
味方だったはずの軍勢のほとんどが兵を引き、残っているのは千に満たないアンリ・ボケの直営だけ。その千に満たない兵で必死にサンザヴワールの攻勢を支えているのが現状だった。その果敢な兵士達も秒単位で数を減らしている。いずれ攻勢を支えられなくなるのは明白だった。
「ギヨームは、プリムスは、ベルトランは! 奴等はどこで何をしているのだ! すぐに呼び戻せ!」
逃げていった味方の将軍を呼び戻すべくアンリ・ボケは鉄槌騎士隊の騎士を派遣する。それらの騎士が目的の場所にたどり着き、目当ての将軍に会うことはそれほど難しくはなかった。だが、
「猊下に本当に神のご加護がおありなら、我等が力を貸さずとも逆賊に敗れることなどありはしないでしょう」
プリムスに面会した騎士はそう告げられ追い返された。ギヨームの元を訪れた騎士は剣を持って追い払われた。ベルトランの元に向かった騎士は問答無用で斬り捨てられ、戻ってこなかった。ほうほうの体で帰ってきた騎士達の報告を聞き、
「……」
アンリ・ボケの口内で歯が軋みを上げている。怒りのあまり目眩がしたがその巨体が揺らぐことはなかった。大量の血流が頭部に集中し脳の血管が切れる寸前となったが、ぎりぎりでそれは回避された。拳を握りしめるあまり爪が掌に食い込み、そこから血を流していたからである。
「猊下、ここはもう持ちません。どうか脱出を」
この圧倒的に不利な状況下にあって逃げもせず必死に防戦を続けていた鉄槌騎士隊だが、それでも限界はやってくる。すでに鉄槌騎士隊はその兵数を大幅に減じ、事実上の壊滅状態だった。サンザヴワール軍の損害も小さくはないがその攻勢に途切れはない。逃げ出した味方の一部がサンザヴワールに軍に合流し、その数は戦いの前より増えているかもしれなかった。
「時間を稼げ」
アンリ・ボケはそれだけを命じ、一人その場から逃げ出していく。残された鉄槌騎士隊は一言の不平も口にせず、サンザヴワール軍との戦いを続行した。アンリ・ボケが脱出したことにより他の味方は武器を投げ出し降伏するが、鉄槌騎士隊だけは降伏を拒絶。最後の一兵となるまで戦い続け、一人残らず戦死した。首実検のために鉄槌騎士隊の騎士の死体を見せようとする部下をサンザヴワールは殴り倒した。
「そんな奴等は捨て置いておけ! アンリ・ボケだ、アンリ・ボケを探し出せ!」
サンザヴワールは懸命にアンリ・ボケの姿を探すが見つかることはなかった。アンリ・ボケの脱出が彼に知らされるのは戦いが終わった後のことである。
竜也とベラ=ラフマは海軍の軍船に乗船。ガイル=ラベクの指揮するその船はスキラにぎりぎりまで接近する。竜也はその船を情報収集の本部とした。
連絡船を使ってエレブ人の協力者がスキラへと送り込まれ、そのついでに川沿いにいたエレブ兵を捕虜にして白兎族が尋問した。銀狼族や灰熊族がスキラに潜入し、騎兵隊もスキラに接近して様子を伺った。彼等全員の尽力により竜也とベラ=ラフマはほぼリアルタイムで状況の推移を把握できた。
「アンリ・ボケは脱出したようだな」
「往生際の悪い、どこに逃げたんだ」
「予測は難しくはないでしょう」
竜也とディアとベラ=ラフマは卓上に広げられたスキラの地図から目を離さない。ベラ=ラフマがスキラの北を指でなぞった。
「スキラ全体がアンリ・ボケにとっては敵に回っています。一旦スキラを脱出するしか道がありません」
「……騎兵隊を使えば先回りできるかな」
竜也は少し考え込んだがそれも長い時間ではなかった。竜也がディアへと向き直る。
「船と騎兵隊を使ってディア達を先回りさせる。アンリ・ボケを確実に殺してほしい」
溢れんばかりの思いが胸の内を満たすが何も言葉にならなかった。ディアはただ無言のまま頷く。
「注文は一つだけだ。アンリ・ボケを殺したのがヌビア側だとは悟られないようにすること。あくまでエレブ人同士の内紛で、エレブ人の部下に殺された、そういう形を装ってくれ」
そうでないと戦争がまだ続くことになりかねないからな、と竜也は説明をまとめた。ディアは「判った」と簡潔に頷く。ディアは身を翻して船長室を後にする。ディアはヴォルフガングを始めとする銀狼族の戦士を引き連れ、スキラの北へと向かった。
時刻はすでに日が沈む直前となっている。アンリ・ボケは荒野をさすらっていた。同行するのはわずか三人ばかりの供回りのみだ。そのうちの一人はモーゼの杖の入った黄金の宝箱を担いでいる。
「伏せよ」
アンリ・ボケの命令に従い供回りが身を隠す。少し時間をおいて、彼等の行く手を騎馬の一団が通り過ぎていった。
「ヌビアの騎兵がこんなところにもいるとは」
アンリ・ボケは忌々しげに舌打ちする。アンリ・ボケは元来た道を引き返し、別の道を探した。騎兵隊の見せつけるような動きが自分をある方向へと誘導させるためのものだとは思いつきもしない。
その騎兵隊が誰を捜索しているのかはアンリ・ボケにとっては問うまでもなかったし、何故捜索しているのかも自明のことだった。
「聖槌軍内の裏切り者はヌビアの皇帝と手を結んでいたのだ。だからこそ皇帝は私を捕まえるべく騎兵を走らせている。そうでなければヌビアの動きがこんなにも素早いわけがない」
サンザヴワールのような聖槌軍の反乱者とヌビア軍が別個に、別々の思惑で動いているとはアンリ・ボケは考えない。アンリ・ボケにとって味方でない者は敵であり、敵は「異教徒」も「背教者」も「裏切り者」も、全てが一つにつながり一つの意志で動いている――それがアンリ・ボケにとっての世界だった。
もちろん、アンリ・ボケとて最初からここまで単純な世界観を持っていたわけではない。本質的には変わっていないとしても、少なくともエレブにいたときのアンリ・ボケなら、
「裏切り者とヌビアはそれぞれ別の思惑で動いているのではないか」
と推測するくらいはできただろう。だが、アンリ・ボケはあまりに敗北を重ねすぎた。敗北の理由から目を逸らすために視野が狭まり、自分の責任を否認するために世界観が歪んでいく。そんな状態で戦いに勝てるはずもなく、それがますます世界観を歪めていく結果となっていく。
今のアンリ・ボケは自己正当化と失敗が連鎖した、その究極の姿だった。聖槌軍の全将兵に背かれ、裏切られてもなお、アンリ・ボケは自分の非を認めてはいない。
「もはや将軍どもは誰も彼も裏切り者ばかりだ。こうなれば私自身が兵を率いるしかあるまい」
そして今なお戦うことは諦めてはいなかった。その心は折れてはいなかった。
「この程度の苦難がどれほどのものか。三大陸を浄化の炎で焼き尽くし、地上から異教徒を根絶し、聖杖の教えで世界の全てを覆い尽くす。神父様の思い描いた理想の世界を実現するのだ。その行く道が容易いものであるはずがない」
百万の兵を引き連れてエレブを旅立ち、今連れている部下は三人だけ。それでもアンリ・ボケの戦い続ける意志に揺るぎはなかった。
「うわっ!」「なにも――」
その三人の部下が一瞬にして全滅した。太陽はほぼ地平線に没し、残光が血のように赤く空を照らしているだけだ。その闇の中に三人の男が立ち、三人の部下が血を流して大地に倒れ伏している。アンリ・ボケは背負っていた聖杖型の鉄槌を手に取った。
「……裏切り者の手下か」
マフラーのような長い布を巻いて顔の下半分を隠しているが、夕闇の中でも三人の男がエレブ人であることは見て取れた。三人の男達がアンリ・ボケを包囲するように立ち位置を変える。その後方から、夕闇の中から一人の人間が姿を現し、アンリ・ボケは戸惑いを見せた。現れたのが小柄な、エレブ人の少女だったからだ。その少女もまた長い布で顔の下半分を隠している。
三人の男達は剣を手にはしているが構えは取っていない。警戒はしていても戦意は見せていなかった。それに対してその少女は無手にもかかわらず殺意を、戦う意志をみなぎらせている。
アンリ・ボケを目の前にし、ディアは無言のままだった。アンリ・ボケと相対するのも、その目にするのも生まれて初めてのことである。鉄槌騎士隊を率い、「悪魔の民」を殺し続けた男。「悪魔の民」の排斥を訴え続け、銀狼族に塗炭の苦しみを味わわせた、その元凶――。
その男を眼前にし、ディアの心はあくまで静かだった。恨み言を言い出せば三日三晩だって語り続ける自信があるが、言いたいことが何も思い浮かばない。逆上のあまり剣で切り刻みたくなるかと思ったが、そんな衝動は感じていない。
今、ディアは自分一人の力でこの場にいるのではない。竜也を始めとするヌビア人の助力、これまで斃れていった数多の戦士達、無数の同胞達。彼等の思いの果て、願いの末に自分が今ここにいる。そうであるならば、自分の意志は不要だ。今の自分はただの一振りの剣。自分が背負った幾千の願い、幾万の思い、それをあの男に伝えるための、ただの剣なのだから。
戦いを前にし、ディアの血は自然と熱くなったがその心は明鏡止水のごとくに静まり返っていた。アンリ・ボケとて戦火の直中で生きてきた男だ、ディアの覚悟を肌に感じないはずがない。アンリ・ボケもまた口を閉ざし、愛用の聖杖型鉄槌を握り直し、ゆっくりと振り上げた。見た目にはただの小娘のディアに対し、油断も侮りも欠片もありはしていない。
何が合図となったかは誰にも判らない。自然体で佇んでいたディアが風のような素早さで突進する。それに対し、アンリ・ボケの脳ではなく身体が反応した。四〇年以上も戦い続けてきた男の身体は脳よりも数段早く、今なすべき最善を判断し行動した。
高々と掲げられていた鉄槌が渾身の力を持って振り下ろされる。鉄槌は真っ直ぐにディアの頭部を目指していた。狙いは完璧であり、それが外れることはあり得ない。仮に首をひねって頭部を外したところで、肩や身体のどこかを直撃する。ディアの細い身体など一撃で粉砕してあまりある、それだけの力を込めた一撃――そのはずだった。
「何っ……!」
鋼鉄を叩いたかのような轟音と手応え。アンリ・ボケは大きく体勢を崩した。アンリ・ボケの鉄槌を迎え撃ったのはディアの拳だ。ディアは鉄槌の一撃を左拳で殴り返したのだ。普通なら肘から先の骨が全て砕け、手首は千切れ飛んでいるかもしれない。だが実際には拳の皮が裂けて血が流れ、ディアが顔をしかめているが、ただそれだけだった。恩寵を込めた左腕はその鉄槌に耐え、ディアの左拳はその一撃に打ち勝ったのだ。ディアは大地を踏みしめてしっかりと立ち、殴った方のアンリ・ボケが体勢を崩している。
ディアの脚が大地を蹴った。体勢を崩したアンリ・ボケの懐へと飛び込み、
「――フッ!!」
渾身の力を、ディアの有する全ての恩寵を、ディアが背負った無数の思いと願いを、流された涙を、その全てを託した右拳を、アンリ・ボケの鳩尾へと叩き込んだ。
「ふぅぐぅぬぅるぅほぉごぉがぁぁぁ……!!!」
およそ人が発したとは思えない呻き声がその口から漏れ、次いでバケツ一杯分もの血を吐き出す。アンリ・ボケは腹を抱えたまま膝を屈し、血で汚れた地面に顔を埋めた。戦場で敵を殺し続けて四十年余、アンリ・ボケの巨体が戦いで膝を屈したのはあるいはこれが最初かもしれず、そして間違いないのはこれが最後だということだった。その身体がくり返し痙攣を起こしており、ディアと三人の銀狼族はその無様な姿を氷よりも冷たい目で見下ろしている。
銀狼族が有する恩寵は「内撃」と呼ばれる、不可視の力を目標の内部へと直接叩き込む技である。ディアはその瞬間出せる限りの全ての恩寵を拳へと込め、アンリ・ボケの腹部へと、その内部へと叩き込んだのだ。攻城槌の直撃を食らったとしてもこんなことにはならない。大砲の砲弾の直撃を受けたならあるいはこうなるかもしれなかった。背骨は砕け、脊椎の神経束は断たれ、肝臓は潰れ、腎臓は裂け、脾臓は割れ、大腸は破れ、血管は千切れ、腹の中は血の海となっている。心臓と肺には大きな損傷がないことも何の慰めにもなりはしない。二一世紀の日本にある最先端の医療技術を持ってしても今のアンリ・ボケを救うことは不可能に違いなかった。
アンリ・ボケの部下が持っていた剣を拾い上げて、ディアはアンリ・ボケへと歩み寄った。アンリ・ボケはディアに対して何の反応も示さない。普段は糸のような目をこぼれんばかりに見開き、顔は雨に濡れたように汗まみれだ。生命があるのは確かだが意識があるかどうかは判然としなかった。
「セィッ!」
ディアが全体重をかけてその剣をアンリ・ボケの背中へと突き立てる。剣先は腹を突き破って地面に深々と刺さり、驚くほど大量の血が流れた。腹の中が空っぽになりそうな勢いで、この出血量だけで即死しても不思議はない。それでもアンリ・ボケは未だ生命を保っている。ただ、その死が時間の問題なだけなこともまた確実だった。司法解剖をすればアンリ・ボケの死因の異常さはすぐに理解できるだろうが、この世界のこの時代のこの場所で、そんなことを誰がするというのか? アンリ・ボケは背後から剣を刺されて死んだ。部下に裏切られ、殺された――誰もがそう思い、やがてそれが事実となるだろう。
「行くぞ」
ディアは外套を翻してその場から立ち去る。それに銀狼族の戦士が続いた。ディア達は一度も後ろを振り返らない。その場には、荒野の真ん中には倒れ伏すアンリ・ボケだけが残されている。彼の生命が尽きるのももう間もなくのことだった。
アンリ・ボケはこれまであらゆる苦難を、難局を、危機を、結局は己一個人の戦闘力を頼りに切り抜け、生き延びてきた。その戦闘力を凌駕されたとき、アンリ・ボケは命運は尽きたのである。
アンリ・ボケを捜索していたタンクレードの騎兵がその死体を発見したのは翌朝のことだった。腹部に突き刺さっていた剣が鉄槌騎士隊のものだったことからアンリ・ボケは部下に殺されたものと推測された。タンクレードはアンリ・ボケの死体とモーゼの杖を回収する。
タンクレードは騎兵と一万の兵を率いてスキラに入城。その際にはアンリ・ボケの死体も携えている。タンクレードは同日、サンザヴワール等聖槌軍の幹部と会談。その結果、聖槌軍全軍の指揮権はタンクレードが掌握することで合意が得られた。タンクレードはアニードを通じて竜也へと休戦を申し込む。竜也がそれを承諾し、両軍の間に休戦が成立したのはアルカサムの月(第八月)・一一日のことである。