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No.19836の一覧
[0] 【異世界トリップ・建国】黄金の帝国【完結】[行](2020/12/25 19:28)
[72] 第一話「奴隷から始めよう」[行](2013/04/11 21:37)
[73] 第二話「異世界のでの生活」[行](2013/04/11 21:40)
[74] 幕間0・ラズワルドの日記[行](2013/03/01 21:07)
[75] 第三話「山賊退治」[行](2013/03/01 21:10)
[76] 第四話「カリシロ城の花嫁」[行](2013/03/08 21:33)
[77] 第五話「都会を目指して」[行](2013/03/24 19:55)
[78] 第六話「バール人の少女」[行](2013/03/24 19:56)
[79] 第七話「牙犬族の少女」[行](2013/03/29 21:05)
[80] 第八話「冒険家ルワータ」[行](2013/04/11 21:51)
[81] 第九話「日常の終わり」[行](2013/04/12 21:11)
[82] 第一〇話「エレブ潜入」[行](2013/04/19 21:07)
[83] 第一一話「エルルの月の嵐・前」[行](2013/04/26 21:02)
[84] 第一二話「エルルの月の嵐・後」[行](2013/05/06 19:37)
[85] 第一三話「ガフサ鉱山暴動」[行](2013/05/15 20:41)
[86] 第一四話「エジオン=ゲベルの少女」[行](2013/05/17 21:10)
[87] 第一五話「スキラ会議」[行](2013/05/24 21:05)
[88] 第一六話「メン=ネフェルの王女」[行](2013/05/31 21:03)
[89] 第一七話「エレブの少女」[行](2013/06/07 21:03)
[90] 第一八話「ルサディルの惨劇」[行](2013/06/14 21:02)
[91] 幕間1 ~とある枢機卿の回想・前[行](2013/06/21 21:05)
[92] 幕間2 ~とある枢機卿の回想・後[行](2013/06/28 21:03)
[93] 幕間3 ~とある王弟の回想・前[行](2013/07/05 21:39)
[94] 幕間4 ~とある王弟の回想・後[行](2013/07/12 21:03)
[95] 幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想[行](2013/07/26 21:25)
[96] 第一九話「ソロモンの盟約」[行](2013/07/19 21:03)
[97] 第二〇話「クロイの船」[行](2013/10/05 20:59)
[98] 第二一話「キャベツと乙女と・前」[行](2013/10/08 21:01)
[99] 第二二話「キャベツと乙女と・後」[行](2013/10/10 21:05)
[100] 第二三話「地獄はここに」[行](2013/10/12 21:05)
[101] 第二四話「サフィナ=クロイの暴動・前」[行](2013/10/15 21:03)
[102] 第二五話「サフィナ=クロイの暴動・後」[行](2013/10/17 21:02)
[103] 第二六話「皇帝クロイ」[行](2013/10/19 22:01)
[104] 第二七話「眼鏡と乙女と」[行](2013/10/22 21:04)
[105] 第二八話「黒竜の旗」[行](2013/10/24 21:04)
[106] 第二九話「皇帝の御座船」[行](2013/10/27 00:44)
[107] 第三〇話「トルケマダとの戦い」[行](2013/10/29 21:03)
[108] 第三一話「ディアとの契約」[行](2013/11/02 00:00)
[109] 第三二話「女の闘い」[行](2013/11/02 21:10)
[110] 第三三話「水面下の戦い・前」[行](2013/11/05 21:03)
[111] 第三四話「水面下の戦い・後」[行](2013/11/07 21:02)
[112] 第三五話「エルルの月の戦い」[行](2013/11/09 21:05)
[113] 第三六話「ザウガ島の戦い」[行](2013/11/12 21:03)
[114] 第三七話「トズルの戦い」[行](2013/11/14 21:03)
[115] 第三八話「長雨の戦い」[行](2013/11/16 21:02)
[116] 第三九話「第三の敵」[行](2013/11/19 21:03)
[117] 第四〇話「敵の味方は敵」[行](2014/03/21 13:39)
[118] 第四一話「敵の敵は味方・前」[行](2014/03/18 21:03)
[119] 第四二話「敵の敵は味方・後」[行](2014/03/21 18:22)
[120] 第四三話「聖槌軍対聖槌軍」[行](2014/03/25 21:02)
[121] 第四四話「モーゼの堰」[行](2014/03/25 21:02)
[122] 第四五話「寝間着で宴会」[行](2014/03/27 21:02)
[123] 第四六話「アナヴァー事件」[行](2014/03/29 21:02)
[124] 第四七話「瓦解」[行](2014/04/03 21:01)
[125] 第四八話「死の谷」[行](2014/04/03 21:01)
[126] 第四九話「勅令第一号」[行](2014/04/05 21:02)
[127] 第五〇話「宴の後」[行](2014/05/01 20:58)
[128] 第五一話「ケムト遠征」[行](2014/05/02 21:01)
[129] 第五二話「ギーラの帝国・前」[行](2014/05/03 21:02)
[130] 第五三話「ギーラの帝国・後」[行](2014/05/04 21:02)
[131] 第五四話「カデシの戦い」[行](2014/05/05 21:01)
[132] 第五五話「テルジエステの戦い」[行](2014/05/06 21:02)
[133] 第五六話「家族の肖像」[行](2014/05/07 21:01)
[134] 第五七話(最終話)「黄金の時代」[行](2014/05/08 21:02)
[135] 番外篇「とある白兎族女官の回想」[行](2014/10/04 21:04)
[136] 人名・地名・用語一覧[行](2014/05/01 20:58)
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[19836] 第五〇話「宴の後」
Name: 行◆7809557e ID:f6f09d19 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/05/01 20:58



「黄金の帝国」・征服篇
第五〇話「宴の後」









 もう三〇年以上も昔のことになる。その日、テ=デウムは暖かな春の日差しに包まれていた。春の花が咲き誇り、日の光がサン=バルテルミ大聖堂のステンドグラスに反射して宝石のように輝いている。まるで世界の全てが彼等を祝福してくれているかのようだった。
 大聖堂内の礼拝堂では、ちょうどピエールが新教皇インノケンティウスとして壇上に登場したところである。インノケンティウスが身にまとっているのは華麗な紫の法衣だ。絹布に縫い込まれた金糸と銀糸がステンドグラスから差し込む光にきらきらと瞬いている。手にしている聖杖は黄金製で、頭にかぶる宝冠は白銀製。宝冠にはいくつもの巨大な宝石が埋め込まれていた。その豪奢さ、その絢爛さに観衆からはため息しか出てこない。だが、インノケンティウス自身は憮然としているようだった。

「この宝石一つでどれだけの飢えた子供にパンを与えられるか、判りますか」

 と、当初インノケンティウスはこの無意味に贅沢な法衣を着ることを拒否して、普段と同じ簡素な法衣で即位式典に臨もうとしたのである。だが伝統や前例を何よりも、聖典よりも重んずる儀典長の強硬な反対に抗しきれず、結局はこの法衣をまとうこととなったのだ。
 元々インノケンティウスは聖職者の腐敗追求により名声を高めてきた人物だ。かつての自分が非難した虚飾や奢侈で自分を装うのはインノケンティウスにとっては耐え難いことに違いない。

「くだらない」

 インノケンティウスのその葛藤をニコラ・レミは鼻で嗤う。聖杖教の教皇とは全ての聖杖教徒の頂点に立つ存在だ。フランク・ディウティスク等の諸王国の国王を超越し、エレブの全てを事実上支配する、神聖不可侵の絶対的存在。そうであるならばその地位に相応しい姿を装うのは当然というものではないか。

「かつて私が着ていた法衣は何度も繕い直したもので、接ぎ当てだらけでした。宝石なんか一つも付いていませんでしたが、それでも人々は私の言葉に耳を傾け、私に力を貸してくれました。教皇になっても同じことを望むのは間違いなのでしょうか?」

 ああ、間違いだ。どうしようもなく愚かな間違いだ、とニコラ・レミは嘲笑する。エレブ全土に一体何千万の信徒がいるのか、判っているのか? この先全ての時間を費やしたとして、対面し、声をかけ、直接導くことができる民草が一体何人になるか、判っているのか?
 何千万という信徒を支配し、導くには教皇庁を頂点とする教会組織がなければどうしようもない。五王国を始めとする王宮や諸侯の協力が不可欠だ。そして彼等を動かすにはそれだけの権威が必要だし、その権威は先人が少しずつ築いてきたもの――すなわち伝統や前例の積み重ねなのだ。
 この男は確かに高邁な理想を持っているのだろう――だがそれだけだ。この男は確かに優れた弁舌を持っているのだろう。人々を感化し、教化するのが上手いのだろう――だがそれだけだ。それで身の回りの数十人を支配できたとしても、見ず知らずの何千万を支配することなどできはしない。教皇庁とその配下の教会を最大限活用し、新教皇の事績を、聖徳を宣伝する。諸国王、諸侯の協力の度合いに応じ、その行動をあるいは称揚し、あるいは破門をちらつかせて脅迫し、五王国や有力諸侯を意のままに操る――それだけの力があるのだとエレブ中に見せつける。そうやって、新教皇インノケンティウスが神の代理人でありエレブの支配者であることをエレブ全土に示すのだ。

「そしてその支配権を僕に譲るがいい」

 インノケンティウスは五〇の手前、ニコラ・レミは三一歳。二〇年も経てばインノケンティウスは七〇歳となりニコラ・レミは五〇歳となる。教皇の地位を引き継ぐにはちょうどいい頃合いだ。

「二〇年は協力してやるさ。お前の権威を高め、エレブの支配者として盤石の地位を作ってやる。その全てはいずれ僕が譲り受けるのだから」

 今、新教皇インノケンティウスの前にはニコラ・レミがひざまずつき、その横では枢機卿アンリ・ボケが同じように床に伏している。この十年間、ニコラ・レミとアンリ・ボケは二本の脚となってインノケンティウスを支え、二本の腕となってインノケンティウスの障害を切り払ってきた。客観的にはニコラ・レミとアンリ・ボケは無二の同志であるように見えただろう。だがニコラ・レミにとってアンリ・ボケはどれだけ遠い異国の人間よりも理解の外にあった。今、誰よりも近くにいようとその心は大陸の果てよりも遠い場所にあった。

「……まあいい。この男にも利用価値はあるさ」

 正直言って、ニコラ・レミはこの男が苦手だった。ニコラ・レミの得意技は謀略や陰謀や毒殺だったりするが、それがこの男に通用するように感じられない。どういう罠に嵌めようとこの男はそれを力尽くで打ち破り、自分の頭を鉄槌で叩き潰す――そんな未来図しか思い浮かばないのだ。ニコラ・レミは自分の父親たるピエルレオニの二の舞を演じるつもりは毛頭なかった。

「これまで通り、あと二〇年はお互いに協力し合おうじゃないか。二〇年経ったなら、教皇と一緒に引退するがいいさ」

 アンリ・ボケは教皇庁の中では傍流たる聖堂騎士団の出身で、その経歴はあまりに血で汚れている。アンリ・ボケが教皇の座を争う相手になるとはまず考えなくていいだろう。

「あと二〇年……二〇年後には僕こそが教皇だ」

 ニコラ・レミはインノケンティウスの教皇就任を心から祝福した。彼から教皇の座を自分が受け継ぐものと、疑いもせずに。
 ……その後、ニコラ・レミは概ね自分の想定通りの人生を歩んできた。陰謀を仕掛けてインノケンティウスの政敵を滅ぼし、謀略により諸侯や諸王国を縦横に操り、教皇の権威を雲の彼方まで高めていく。ニコラ・レミはアンリ・ボケと並んで「教皇の盾と剣」と呼ばれるようになり、早々にインノケンティウスの後継者としての地位を盤石とした。次期教皇というトロフィーを争う相手がいないわけではないが、ニコラ・レミと比較すれば誰もがどうしても実績や政治力の面で見劣りしてしまう。そしてその競争相手にアンリ・ボケの名が出てきたことは一度もない。

「次期教皇はニコラ・レミで決まり」

 とは衆目の一致するところであった――もう二〇年以上も前から。
 ニコラ・レミにとっての唯一最大の誤算は、インノケンティウスが思ったよりもずっと壮健で八〇歳近くになっても未だ教皇の座に留まったままであるということだ。このためニコラ・レミももう六〇歳を越してしまっている。

「くそっ、いい歳をして一体いつまであの椅子にしがみついているんだ。さっさと後進に道を譲るのが人の道というものだろう」

 そう言うニコラ・レミ自身も本来なら引退を考えるべき年齢だ。節々は痛みを訴え、筋肉は減っていく。体重は軽くなっているのに身体を動かすのは億劫になる一方だ。食は細くなり、髪の毛はどんどん抜けていく。しわは増えて深くなり、みっともない染みは広がるばかりである。最近は鏡を見ても自嘲しか浮かばない。

「……ふっ。誰なんだ、このじじいは」

 四〇年前には「教皇庁の天使」とまで謳われたその美貌は、今では想像するのも難しい。ただ女性的な容貌は相変わらずなので、顔だけ見るなら老婆にしか見えなかった。その外見と、数々の政敵を屠ってきたその陰惨な実績から、現在では「教皇庁の魔女」と呼ばれている。
 自分の残り時間が減る一方であることにニコラ・レミは無自覚ではいられない。

「私がこれまで手を汚してきたのはお前のためなんかじゃないんだ。早く死ね、そしてその地位を私に譲れ」

 就寝に際し、ニコラ・レミは神に祈りを捧げるのと同じその口で呪詛を吐いた。だがそれも空しくインノケンティウスはますます壮健であり、外見だけならニコラ・レミとあまり変わらないくらいに見える。アンリ・ボケに至ってはこの三〇年全く歳を取っていないかのようだ。自分だけが年老い、残り時間を減らしているような感覚に焦燥と苛立ちを深める中、

「――聖戦を発動?」

 ニコラ・レミが望んだ転機がようやく訪れるのである。







 来年の新年祭の勅書で聖戦の発動を宣言する――ニコラ・レミがインノケンティウスからそれを聞かされたのは海暦三〇一四年も終わりに近付いた頃だった。

「五王国を始めとするエレブの全ての国から軍勢を集め、百万の兵を率い、ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴ全土を征服する! 聖杖の教えでネゲヴを覆い尽くし、教皇聖下のご聖徳を未開の地たるネゲヴに隅々まで行き渡らせよう!」

 アンリ・ボケは拳を振り上げ気勢を上げた。意気込みを一方的に聞かされるだけのニコラ・レミは白けた思いを抱かずにはいられない。

「豪気なことですね」

 アンリ・ボケが「百万の兵を率いる」と公言してもニコラ・レミはその数字を額面通りには受け止めなかった。

「実際に率いるのは二〇万か三〇万くらいか。それでも空前の壮挙には違いないし、ネゲヴ全土を征服するには充分だろう」

 大多数のエレブ人と同様にニコラ・レミもまたそのように考えていた。同僚として、「教皇の盾と剣」として四〇年もの付き合いがありながら、ニコラ・レミはアンリ・ボケのことをほとんど全く理解していなかったのだ。ニコラ・レミはそのことを嫌と言うほど思い知らされる。
 アンリ・ボケは本気で百万の兵を集めるべく五王国を始めとする各王国に動員を命令し、各王国は配下の諸侯に動員を命令する。諸侯は百万を現実の数字とするべく、自分の領地を空にする勢いで騎士を、兵を、兵糧を集める羽目となった。その結果エレブの社会と経済は急速に崩壊していく。

「聖戦に反対するつもりは毛頭ありませんが、物には限度というものがあります」

「教皇聖下のご下命を果たすべく私は死力を振り絞っています。領地からは騎士が、農村からは働き盛りの男衆が一人もいなくなりました」

「家財全てを売り払いましたがそれでも戦費は到底まかなえません。領民は種籾までを吐き出し、来年の作付けができるかどうかも判らない状態です」

 ニコラ・レミの元には嘆願書が続々と届けられている。送ってきているのは交流のある諸侯や王族であり、その内容は彼等の悲鳴そのものだった。

「どうかあの狂人を止めてくれ」

 彼等は揃ってそれをニコラ・レミに願っているのだ。手紙ではなく直接ニコラ・レミの元を訪ねてくる者も少なくなく、邸宅の前では彼等が列を作っている。ニコラ・レミは彼等への応対に追われることとなった。

「機会さえ作ってくれるなら私が手を汚す」

 思い詰めた挙げ句にアンリ・ボケ暗殺を持ちかけてくる者も一人や二人ではなかった。ニコラ・レミは彼等をなだめながらも決断を迫られていた。
 三〇一五年の初冬、ニコラ・レミは会談を持つためにアンリ・ボケの元を訪れる。

「今、エレブの民草全てが聖戦の動員負担に苦しんでいる。動員数をもっと減らして民衆の負担を軽減するべきではないのか?」

「理想の実現に犠牲は付き物、民草の苦しみもやむを得ない範囲と理解しています」

 ニコラ・レミの要求をアンリ・ボケはいつもの茫洋たる笑みで拒絶した。ニコラ・レミがどれだけ民衆の苦難を説いても返答は全て同じだ。言い方こそ違え、要約すれば、

「この程度の苦難は確固たる信仰心があれば乗り越えられる」

 とくり返しているだけである。

「そもそも、我々はこの聖戦を実現するために聖下の手足となって四〇年も戦い続けてきたのではないですか? 聖戦に反対するなら今の地位を返上してからにすべきでしょう」

 アンリ・ボケとの会談はそれで打ち切られ、ニコラ・レミは何の成果も得られず帰路に着くしかなかった。インノケンティウスからニコラ・レミに対して「ブルティガラ教区司教」の地位が提示されたのはその直後である。

「最近君が沈みがちとなり疲れているようで私も心配していたのですが、アンリから提案があったのです。『ブルティガラは冬でも気候が穏やかで過ごしやすい場所です。そこでゆっくり休んでもらってはどうでしょう』と」

 なおブルティガラは元の世界のボルドーに相当する。つまりは聖都テ=デウムから離れた場所への左遷勧告であり、要するに高齢のニコラ・レミに対する隠居勧告だった。
 ニコラ・レミは一言の反問も反論もせず、その内示を受け入れる。そして早々にテ=デウムを退去してブルティガラへと移動した。ニコラ・レミの左遷は、彼に希望を抱いていた多くの諸侯や聖職者を絶望させた。特にフランク国王フィリップは、

「これでフランクを救う手立てはなくなった」

 と嘆いたと言われている。
 一方、島流しとなったニコラ・レミはブルティガラの教会荘園で悠々自適の日々を過ごしていた。昼は庭の薔薇の世話をし、雨が降れば書物を読み、夜は名産のワインに舌鼓を打つ毎日だ。酒の肴の代わりにエレブ各地から送られてくる手紙に目を通しているが、そこに記されているのは塗炭の苦しみを味わっている民衆の姿だった。

「どうか、どうか助けてください。教皇様を諫めてください」

 インクの代わりに民衆の血と涙で綴られたかのようなその手紙を読みながらニコラ・レミは、

「今はこれでいい」

 とただ薄笑いを浮かべるだけである。
 本気のニコラ・レミが反対したならアンリ・ボケもインノケンティウスもそれを無視することはできなかっただろう。本気のニコラ・レミが聖槌軍の規模を縮小させるべくその政治力を最大限発揮したなら、アンリ・ボケとてそれに対抗できたかどうか判らない。本気のニコラ・レミならエレブの民衆を、諸侯を、各王国を、この地獄の窮状から救うこともできたのだ。

「聖槌軍は必ず失敗し、敗北する。今は左遷されようと、一年もすれば聖槌軍に反対した経歴は私の政治的資産となるだろう」

 テ=デウムから離れていても教皇庁内に築いた人脈や派閥は健在だ。ニコラ・レミの与党はインノケンティウスや教皇庁内の動きを逐一ニコラ・レミに知らせてくれる。アンリ・ボケの横暴を、それを制止しないインノケンティウスの怠惰を陰で非難して回っている。その結果として、

「早く教皇に引退してもらい、枢機卿ニコラ・レミが新教皇に就任するべきだ」

 というニコラ・レミ待望論が教皇庁内に広がっていく。全てはニコラ・レミの計算通りだった。

「今だけは好きなように振る舞うがいいさ。その全てが私の利益となるのだから」

 アンリ・ボケ率いる百万の軍勢はエレブを荒らすだけ荒らしてネゲヴへと去っていった。後に残ったのは焦土となったエレブの地である。

「最近教皇が体調を崩し、伏せることが増えている」

 ブルティガラでその報告を聞き、ニコラ・レミは嘲笑を浮かべた。

「もう『見なかった振り』は通用しないぞ。自分の理想の結果を受け止めるがいい」

 教皇の両腕と呼ばれた一方のアンリ・ボケはネゲヴへと旅立ち、もう一方のニコラ・レミはブルティガラへと去っていった。今やインノケンティウスの目をふさぐ者は教皇庁内には存在しない。以前はアンリ・ボケやニコラ・レミが塞き止めていた各地からの報告書がインノケンティウスの前に直接積み上げられている。民衆の悲嘆の声が、怨嗟の声がインノケンティウスに直接届けられているのだ。
 ニコラ・レミは聖槌軍の戦況もまた聞き及んでいる。フランクを始めとする五王国はバール人商会に聖槌軍への補給を委託しており、戦地に赴いたバール人商人が見聞きした戦況は五王国の王宮へと報告されている。その報告書の写しを手に入れるくらいはニコラ・レミにとっては造作もないことだった。

「思ったよりずっと苦戦しているな。あの男は想像以上に無能だった」

 聖槌軍は敵の焦土作戦により急速にその数を減らしていた。百万の威容を誇っていた大軍勢はネゲヴの街道に無数の死体をばらまき、街道を死体で舗装した。すでに二〇万を越える兵が餓死し、末端では人食いが横行しているという。あまりの惨状に各国の国王は卒倒していることだろう。
 もちろんインノケンティウスの耳にもネゲヴの現状は、聖槌軍の戦況は届いている。自分で知ろうとせずとも、見なかった振り、聞かなかった振りをしようとしても無意味である。教皇庁の中心部にいる以上、それらの報告を聞かないですませることなど不可能なのだから。それでも聞かないでいようとするなら病気となって床に伏せ、誰かを代理で立てるしかない。

「最近では起きている時間より伏せている時間の方がずっと長くなっております。教皇ももう長くはないでしょう」

 ニコラ・レミは訪れた部下の報告に「そうだな」と相槌を打った。ニコラ・レミ自身も高齢だから判るのだ。筋肉は使わなければ衰える。インノケンティウスのような高齢の者が横になるばかりの状態で筋肉が衰えないわけがなく、そうなれば起き上がって動くのがますます億劫となり困難となる。その筋力低下の悪循環の末に寝たきりがあり、その果てに永遠の眠りがあるのだろう。インノケンティウスの現状はその悪循環にはまり、すでに抜け出せないところまで来ているように思われた。
 やがて聖槌軍はスキラに到着し、そこでヌビアの皇帝の軍勢と川を挟んで対峙する。たったの一〇スタディアの距離を越えられないまま足止めをされ続け、軍勢は損耗の一途をたどり……インノケンティウスもまた伏せる時間がさらに長くなる。まるで聖槌軍の衰退とインノケンティウスの体力が同調しているかのようだ。
 そして三〇一六年キスリムの月(第九月)。聖槌軍が全滅し、残存するわずか一万がトリナクリア島に撤収したとの知らせがニコラ・レミの元へと届けられる。ニコラ・レミはその日のうちにブルティガラを出立、テ=デウムの教皇庁へと向かった。







 昨年末に百万の大軍勢でエレブを出発した聖槌軍も一年を経ずしてその数を一万余りまで減らしている。
 タンクレードの元に残った一万のうち、出征前からタンクレードの部下、あるいはユーグの部下だった兵は三分の一にも満たない。三分の二以上がヴェルマンドワ以外のフランク各地、あるいはディウティスク、あるいはイベルスの兵だった者達だ。聖槌軍の中では兵士や騎士が所属する軍を勝手に離れ、好きに選ぶのはありふれたことだったのだ。元々属していた軍が壊滅し、あるいは離散し、伝手をたどって知り合いの元に身を寄せたり、勝ち馬に乗ろうとしたり、より食糧の多い部隊を探したり……特に末期には激しい内訌があり、部隊単位、軍単位の所属替えも横行していた。この結果、フランクの将軍であるタンクレードの下にはディウティスクの部隊長がいてその下にイベルスの騎士がいてその下にレモリアの兵士がいる、といった混沌とした状況となっている。
 タンクレードはその多国籍の兵一万を五千ずつの二陣に分け、六隻のゴリアテ級に分乗させてトリナクリア島へと送り出した。第一陣の五千を率いるのはタンクレードの部下で名をサルロンという。第二陣を率いるのはタンクレード自身だ。
 キスリムの月(第九月)の上旬にサルロンの率いる第一陣五千がトリナクリア島に到着した。ゴリアテ級は五千の兵を放り出すようにしてトリナクリア島に上陸させ、さっさとヌビアへと帰っていく。トリナクリア島の海岸には途方に暮れた顔の五千の兵が残された。

「軍団長、これからどうしたら」

「軍団長、食糧は」

 問われたサルロンこそどうしたらいいかをタンクレードに訊きたかったが、タンクレードがやってくるのにはどんなに早くても一〇日はかかる。それまではサルロンが方針を定め、行動を決めなければならないのだ。
 サルロンはタンクレードより一〇歳下で、それなりに有力な貴族の三男坊だ。貴公子然とした容姿と勇猛果敢な戦いぶりで知られており、部下にも慕われている。一軍を率いるにはやや経験が不足しておりタンクレードもその点は不安があったものの、家柄や実績の点で彼以上の適任者はおらず、一軍を任せることとなったのだ。

「……ともかく、地元の領主のところ行って話をしなければ」

 上陸地点に一番近いのはシラコという町であり、これは元の世界ならシラクサに相当する。だがサルロンが動くよりも領主の方が使者を送ってくる方が早かった。馬に乗ってサルロンの前にやってきたのは初老の騎士である。

「私はシラコ伯マンフレーディが騎士、ダンベルトである! お前達は何者か!」

「私がこの軍団を預かっています。フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯配下、将軍タンクレードの騎士、サルロンです」

 サルロンはトリナクリア島にやってきた経緯を説明、食糧と住居の支援を要請した。

「五千もの兵への支援など私に判断できることではない。まずは我が主人に報告してからだ」

 とダンベルトは帰っていく。ダンベルトがやってきたのは日中だったが日が暮れる時間になっても誰も何の回答もやってこない。腹を減らし、しびれを切らしたサルロンは兵を引き連れて町の方へと移動した。
 武器を手にした五千の兵が前進する。サルロン達が上陸した海岸から領主マンフレーディの館までは五〇スタディアほど離れていたが、一万スタディアの征旅を生き延び、西地中海を一周したサルロン達にとっては目と鼻の先でしかなかった。
 一方、五千もの武装した兵に押しかけられたマンフレーディは慌ててダンベルトを派遣した。

「お前達聖槌軍の生き残りの扱いについては我が主人だけで判断できることではない。レモリア王宮と教皇庁に連絡を取って指示を仰ぐからしばらく待て」

「返答が来るまでどれ何日かかる? それまでどうしろと? しばらく待つのは構わんが、それなら食べるものと眠るところを用意しろ」

 サルロン達にとっては当然の要求だがマンフレーディやダンベルトは頭を抱える他ない。

「事前に連絡の一つもあれば我々だって……」

「連絡もなしに押しかけてくる客は追い返すべきだろう」

 部下の誰かがそんな愚痴をこぼしておりマンフレーディも内心でそれに同意するが、それで問題が解決するわけでもなかった。

「……東の海岸に砦があったな、あれを奴等に提供しよう」

 マンフレーディの発案に部下の半分が賛意を示し、半分が怪訝な顔をした。

「しかし、あの砦は百年以上前に放棄されています」

「判っている。だが他に五千もの兵を収容できる場所があるのか?」

 疑問を呈した者にも代案があるわけではない。結局それが決定事項となり、ダンベルトはその回答と館内からかき集めた食料を持ってサルロンの前に戻ってきた。マンフレーディがそれなりの努力と誠意を示してくれたことにサルロンは一応満足する。サルロンはその食料を全員に分け与えた上で、ダンベルトの案内で海岸の砦へと移動した。
 ……事態の悪化は急斜面を転がり落ちるような勢いであり、破局の到来は誰の予想よりもずっと早かった。だがそれ自体は誰もが予想したことだったのだ。
 まず、サルロン達に提供された砦は百年以上も放棄されており、荒れ放題の場所だった。壁や天井には穴が空き、今にも崩れ落ちそうである。床には草が生えており、屋内と屋外の区別がないくらいだ。砦自体も大した大きさではなく、五千もの兵を押し込んだら足の踏み場もなくなってしまう。この時点でサルロン達は大いに不満を持っていた。

「今日の分の食料はどうなっている?」

「昨日支給しただろう、あれで終わりだ!」

 一方マンフレーディの側にも言いたいことは山のようにあった。そもそもマンフレーディにはサルロン達を養う理由も義理もありはしない。それでもマンフレーディは身銭を切って支援をしているのだ。だがマンフレーディの身代で五千もの兵を維持するのは最初から無理があり、限界は早々にやってくる。

「シラコ領ではもうあなた達を支援することができない。レモリア本土まで移動し、レモリア王宮に支援を仰いでもらいたい」

「そうすることに異存はないが」

 ダンベルトの要請にサルロンは一応そう言い、腕を組んで考え込んだ。
 サルロンの元にはエレブ中の様々な国の兵が集まっている。レモリアの兵もある程度の数がいるが、トリナクリア島の出身者は一人もいなかった。つまりはトリナクリア島に永住すべき理由は何もないという意味であり、移動して少しでも故郷に近づけるのならそれに越したことはない。だが、

「本土に移動するための船は? 旅の間の食糧は? それは支援してもらえるのだろうな」

 そんな余裕があるのなら最初からこんな話は切り出していない、とダンベルトは言いたかっただろう。サルロンもそれは判っていた。結局、事態が手詰まりとなり打開策が何もないことを確認しただけでその会合は終わってしまう。その間にも状況は悪化の一途をたどっている。サルロン配下の兵士達はシラコの町中へと移動し、傍若無人の限りを尽くしていた。

「待ってください、お代は」

「領主様に払ってもらえ!」

 兵士達は店中の食べ物を食い散らかし、その代金は必ず踏み倒された。

「なかなかいい家だ。この家を使わせてもらおう」

 騎士達は目星を付けた家を奪い取るため、兵士を使って元の住人を叩き出した。何百というシラコ市民が家と財産を奪われ、路頭に迷うこととなった。兵士達による強姦や輪姦も当たり前のようにくり返された。
 五千という数に怯えていたマンフレーディもさすがに我慢の限界がやってくる。マンフレーディはありったけの手勢を集め(それでも百人ほどだが)鎧を身にまとい、自らサルロンの前に姿を現した。

「貴様達は私の町を、市民を何と心得ているのか! 今すぐこの町から出ていくがいい!」

 マンフレーディに剣を向けられ、サルロンも鼻白んだ様子だった。サルロンが五千の兵を動かせると言っても今は町中に分散していて、周りには十数人の味方しかいない。サルロンはできるだけ穏便にこの場をやり過ごすことを考えた。

「私も頭を痛めているところです。私からもよく言って聞かせますからどうか――」

 だがマンフレーディは「信用できるか!」と言下に否定。サルロンとマンフレーディの押し問答がしばらくくり返された。

「大体、貴様達はヌビアで味方を殺してその肉を食ってきたのだろう!」

 頭に血が上ったマンフレーディはついに禁句を口にしてしまう。サルロンが絶句したのを目の当たりにし、調子に乗ったマンフレーディは今まで我慢していた禁句を連発した。

「敵の皇帝と手を結んで、味方を崖から突き落として自分達だけ逃げ帰ってきたのだろうが! この卑怯者どもが、何故最後まで敵と戦わなかったのだ!」

 サルロンが無言のまま剣を抜き、部下の全員がそれに倣った。サルロン達が全身からみなぎらせる殺気にマンフレーディ側が狼狽する。

「何が判る……? 何が判るというのだ? この場所に、エレブにいて。この豊かで平和なエレブにいて、あの大陸での戦いの何が判るのか、と訊いている」

 サルロン達が一歩ずつ前進し、マンフレーディ側はそれに押されるように一歩ずつ後退した。押される一方のマンフレーディだが、貴族としての矜持が最後の一歩で踏み止まらせた。

「逃げるな! 立ち向かえ! 我々の町をこの卑劣な背教者どもから守るのだ!」

「貴様もあのアンリ・ボケと同類か!」

 マンフレーディが最後の一押しをし、サルロンも衝突回避の努力を投げ捨てる。剣を振り上げたサルロン達とマンフレーディ達が激突した。
 サルロンの下には十数人の兵、一方のマンフレーディの側には約百人。十数人くらいすぐに片付けられる、とマンフレーディは考えていたが、その目算は当たらなかった。率いる兵の質が段違いだったからだ。
 シラコ領からも多数の若者を聖槌軍に参加させており、その全員が帰ってこなかった。ここに集められた兵は四十五十の老兵や、金で徴兵義務を回避した者や、病弱なために徴兵されなかった者達だ。つまりは聖槌軍に参加しなかった、できなかったが故にこの場にいる者ばかりである。それに対してサルロン達は聖槌軍に加わり、最も過酷な実戦をくぐり抜けて今ここにいる。数では劣ろうと実戦経験や士気の面では比べものにならないということだ。
 確かにこの場の十数人ではマンフレーディの百人の兵に勝てはしない。だが防御に徹し、時間を稼ぐくらいなら彼等だけで充分だ。時間さえあれば味方はいくらでも増えるのだから。

「りょ、領主様! 敵が!」

「あっちからも!」

 町中に散っていた兵士が騒ぎを聞きつけて集まってくる。サルロン達はその数をすぐに倍にし、十倍にし、二十倍にした。そうなればもうマンフレーディに勝てる道理がありはしない。百人の兵は散り散りとなり、マンフレーディはわずかな供回りだけを引き連れて逃げ出した。サルロンの部下はそれをどこまでも追いかけている。
 サルロンは無人となったマンフレーディの館へと入り、何棟かあるうちの一つを住処とした。五千の兵士達は町中に散って狂乱の宴を開いている。家という家に兵士が押し入り金品を略奪し、女を強姦する。抵抗する者は容赦なく殺された。

「あの連中、以前はあれでも自重していたんだな」

 とは何とか生き延びたシラコ市民の嘆息である。シラコの町はマンフレーディが逃げ出し、サルロンが仮の支配者となって君臨した。「真の支配者」たるタンクレードがシラコに入城したのはその数日後のことである。







 キスリムの月の中旬、タンクレードは五千の兵を率いてトリナクリア島に上陸する。タンクレードは出迎えに来ていたサルロンとすぐに合流。事情の説明を受け、そして頭を抱えた。

「気持ちは判るが……堪えることはできなかったのか?」

 タンクレードから恨めしげな目を向けられ、サルロンは心外そうな顔をした。

「それは無意味です。奴は我々を裏切り者と、背教者と呼んだのです。マンフレーディだけでなく、エレブに残っている人間の多くが同じ見方をしているに違いありません。つまり我々には誰からもどこからも助けの手が差し延べられることはないのでしょう」

 今のタンクレードにはサルロンの言葉を否定する材料がない。タンクレードは状況を確認させるべくアニードをエレブへと送り出した。
 タンクレードにとってサルロンの暴発とシラコ占領は不本意なものであったが、やってしまったものは今さら取り返しがつかない。今のタンクレードにできるのは、シラコを自分の勢力圏として確立することくらいである。
 占領は長期間になる可能性があるため、シラコ市民のこれ以上の憎悪を買うのは得策ではない。タンクレードは配下の騎士を使って兵士を取り締まり、市民への暴行を抑制した。略奪品の一部は返品し、特に悪質な兵士は見せしめとして処刑する。その一方、略奪に参加できなかった第二陣兵士の不満が高まっているため、近隣都市への攻撃を検討しなければならなかった。
 エレブに送り出したアニードがシラコに戻ってきたのはキスリムの月の月末である。

「枢機卿ニコラ・レミが閣下に対する異端討伐を呼びかけています」

 アニードはまずその結論を報告。タンクレードが言葉を失っていることに気付かないまま報告を続けた。

「騎士サルロンの言うことは事実でした。閣下がどのように戦ったかはエレブでも広まっていますが、それは悪意によってねじ曲げられているのです」

 ユーグがギーラと和平を結んで西ヌビアを手にしれようとしたことは「敵との妥協」と非難された。ユーグとアンリ・ボケとの内訌は「王弟は敵の皇帝と手を結んで枢機卿を裏切った」と解釈された。タンクレードが竜也と結んだ和平協定は「敵への降伏」と見なされた。そして死の谷の大虐殺は「自分だけ生き延びるためにタンクレードが邪魔な味方を皆殺しにした」と決めつけられたのだ。

「――噂はかなりの正確さで、現地で実際に目にした者でなければ知らない話が多く含まれています。おそらく、ヌビア側がバール人を使って意図的に流しているのでしょう」

 アニードは悔しげに呻いている。

「……申し訳ありません。私が奴等の口車に乗ってあのような提案をしなければ」

「それ以上言うな。皇帝は嘘をついたわけではないし、皇帝の意図を見抜けなかったのは私も同じだ」

 ある程度の戦力を残したままのタンクレードをエレブに送り返す一方、タンクレードを「裏切り者」「背教者」と言い立ててエレブ中の憎悪をタンクレードに集中させる。エレブ人の敵意をヌビアではなくタンクレードに向けさせる――タンクレードは今にやってようやく竜也の狙いを理解していた。

「大したものではないか、皇帝クロイよ」

 タンクレードが漏らしたため息は自嘲と竜也に対する賛嘆が半々となっていた。だがそこに竜也に対する非難はない。タンクレードもまたユーグの謀将として数多くの政敵を陥れ、抹殺してきたのだから。

「騙される方が間抜け、罠にはまる方が無能」

 敵の怨嗟を耳にしながらそううそぶいてきたのはタンクレード自身だ。謀略に生き、知謀に誇りを抱いてきた者として自分の言葉を嘘にすることはできないし、するつもりもなかった。

「それに、悪意を持って噂をねじ曲げているのは皇帝よりもむしろエレブ人の方だ。彼等にとって私は『裏切り者』であり『背教者』である必要があるのだ」

 百万が出征し、たった一万しか帰ってこなかった、想像を絶する無残で悲惨な敗北――その責任は誰に帰するべきだろうか? 真に責任を負うべき者は、今は自分が信じる天国にいるのだろう。彼と責任を共有すべき者は存命で教皇庁の最奥にいるが、彼がその責任を追及される可能性は絶無である。そうなれば生き乗った中で最も高位の者に全ての責任を負わすしかない。その者を非難し、弾劾し、断罪し、敗北の全ての理由となる人身御供となってもらう。たとえ気休めでしかなくとも、わずかでも心の平衡を取り戻すには他に方法がない――タンクレードを犠牲の羊として捧げることでエレブ全体が意志を一つとしているのだ。

「……それでは閣下はどうするおつもりで?」

 タンクレードの解説を聞いたアニードが問う。

「それが事実なら閣下の居場所はもうエレブにはどこにもないではありませんか」

「ないことはない。ここだ」

 とタンクレードは叩くように床を踏みつけた。

「一万の兵があればトリナクリア島全土を手にすることも充分可能だ。エレブ本土とも海で隔てられていて守りに易い。シラコを占領した事実は消せはしない以上、エレブ本土との対立はどの道避けられなかったのだ。ならばここに我々の王国を築くまでだ」

 はあ、と呆然としたようなアニードにタンクレードが命じる。

「サフィナ=クロイに行って皇帝から支援を要請してこい。ヌビアの海軍に討伐軍の軍船を攻撃させて、上陸する敵を少しでも削らせるんだ」

「……無条件で、ですか?」

 そうだ、とタンクレードは大きく頷く。

「あの皇帝なら支援しないはずがない。我々がここで暴れることは皇帝にとっての何よりの利益なのだからな」

 タンクレードは竜也の思惑を誰よりも正確に把握していた。タンクレードは竜也の描いた絵図を見抜き、それを最大限利用しようとした――だが、それがタンクレードの限界だった。タンクレードは竜也から与えられた状況を最大限生かそうとはした。だが、「皇帝の思惑を根底から覆してやる」等とは思いつきもしなかった。それは能力ではなく性格や適正の問題だが、それこそがタンクレードをして「ユーグの部下」で終わらせた最大の理由だったのだ。







 聖戦は終わった。エレブ社会と経済を崩壊させながらヌビアに出征させた百万の将兵はヌビアの大地に露と消え、わずか一万がトリナクリア島に逃げ帰ってきただけ。フランク王国王弟ヴェルマンドワ伯ユーグ、ディウティスク国王フリードリッヒ、枢機卿アンリ・ボケ、綺羅星のようなエレブの英雄達は誰一人として帰ってこなかった。

「異教徒を皆殺しにしろ」

「自分の領地を持てる」

「ネゲヴに自分の畑を持てる」

 宗教的情熱と欲望に目が眩み、熱狂に煽られるだけでなく煽る側にも回っていた。聖戦に疑問を呈する者を吊し上げにし、嫌がらせや私刑まがいの制裁を加えた。出征が始まると想像を絶する負担に「こんなはずでは」という思いが頭をもたげてきた。だがそれに蓋をし、笑顔で夫を、息子を、兄弟を聖戦に送り出したのだ。戦いに勝ちさえすれば全てが報われる、今流している血も涙も全てが価値のあるものとなる――それを信じて。
 宴は終わった。狂信という酔いから覚め、見回せばそこにあるのは焦土となったエレブの大地。種籾すら残らず空となった穀物庫、空となった財布。帰ってこない夫や息子や兄弟。そしてエレブの領土は寸土たりとも増えておらず、手にしたものは敗北という汚名だけ。
 一体何のための戦いだったのか、一体誰のために流された血と涙だったのか――エレブの誰もが喪われたものの大きさに呆然としている。他に何もできないでいる。
 教皇庁でも人々がただ馬鹿のように呆然としているのは同じだった。だが一般の社会とは少し違う点がある。衝撃のあまり言葉もない――それを装って誰もが沈黙を選んでいる、ということだ。
 教皇庁こそ聖戦を推進してきた張本人であり、この事態に対する最大の責任を有している。中でも最大の責任者は教皇インノケンティウスだが、インノケンティウスを諫めなかったという意味では教皇庁の全員が彼の共犯者だった。下手に口を開けば責任を追及される羽目になってしまう……誰もがそれを理解し、怖れているからこそ沈黙を選んでいる。選ばざるを得ないのだ。
 ニコラ・レミが帰還したのはそんな状況下である。ニコラ・レミは枯れ葉を握り潰すほどの容易さで教皇庁全体の主導権を掌握した。

「背教者タンクレードを生かしておくな! 裏切り者を討伐するのだ!」

 ニコラ・レミはまず最初にタンクレードに敗北の全責任を押し付け、タンクレードに対する異端討伐を呼びかけた。ニコラ・レミは使者を派遣してレモリアやフランクの王宮や諸侯に出兵を要請する。その一方、

「教皇はどうしている?」

「昏倒しております」

 タンクレード軍一万を残して聖槌軍が全滅した、という報告を受けた教皇インノケンティウスはその場で卒倒。ベッドに運び込まれたがその意識は混濁し、うわごとをくり返しているだけだという。

「聖下はしきりに枢機卿アンリ・ボケの名を口にしています。それに、猊下のお名前も」

「もうただの死に損ないだ。放っておけばいい」

 インノケンティウスが全ての政治力も一切の行動力も失った、と判断したニコラ・レミはそれきり彼に対する関心をなくした。

「あの男ももう長くはあるまい。こっちの準備が整ったなら神の御許に送ってやろう」

 ニコラ・レミは教皇に就任するための準備を進めた。ニコラ・レミの計算通り、聖戦の規模縮小を訴えて左遷された経歴は彼にとって最大のアドバンテージとなっている。ニコラ・レミが教皇になることに何一つ問題はないように思われたが、彼はそこで満足しなかった。

「私に足りないものが一つだけある。私はそれを手に入れ、その上で教皇となる」

 インノケンティウスと比較してニコラ・レミが圧倒的に劣っているもの――それは武力だ。インノケンティウスはアンリ・ボケという恐るべき暴力装置を有していた。教皇に逆らったならあの男が何をするか判らない――その恐怖こそがインノケンティウスの権力の源泉だったのだ。ニコラ・レミとて自分の陰謀にアンリ・ボケの存在をどれだけ有効活用してきたか判らない。アンリ・ボケがいなければニコラ・レミが打てる手は半分以下となっていただろう。
 ニコラ・レミはインノケンティウスを超える教皇となるために武力を欲した。タンクレードに対する異端討伐はそれを手に入れることこそが真の目的なのである。

「一万のタンクレード軍を殲滅するには三万も集めればいいだろう」

 ニコラ・レミがタンクレード軍討伐を宣言したのはティベツの月(第一〇月)の初頭。一月ほどでテ=デウム周辺のフランク諸侯から二万の兵を集め、レモリアで集めた一万の兵と合流。合計三万でトリナクリア島に渡ってタンクレード軍を殲滅。年内にはテ=デウムに凱旋して来年年初に教皇に就任する――ニコラ・レミはそのように目算を立てていた。
 そしてシャバツの月(第一一月)の中旬に入ろうとする頃。テ=デウムにはニコラ・レミの呼びかけに応じた諸侯の軍勢がようやく集まっていた。
 ただ、その兵数は千にも届いていない。

「……これはどうしたことだ」

 集まった、あまりにも頼りない数の兵を前にしてニコラ・レミはそう言ったきり絶句した。ニコラ・レミが何とか自分を取り戻したのはかなりの時間が経ってからである。

「お前はアルトワ伯の家中の者か、この数は一体どうしたことか」

 ニコラ・レミの目算ではアルトワ伯は数千の兵を送ってくれるはずだったのに、実際には二百足らずでしかなかった。その二百の兵を率いる騎士は無言のまま十数枚の書状をニコラ・レミの手の上に積み上げていく。その無礼な振る舞いに腹立ちは募ったものの、ニコラ・レミはまずそれらの書状に目を通した。




「……わたしの夫と息子四人が教皇聖下の命に応じネゲヴの魔物討伐に向かいましたが、未だ戻ってきていません。わたしの元に残っているのは七歳の末の息子だけですが、この子に背教者を討伐させよと命じられるのでしょうか?」

「……私の五人の息子が聖槌軍として出征したが、一人して戻ってこなかった。それでも枢機卿は『神と教会への貢献が足りない』と言われるのだろうか?」

「……我が領から出征させた騎士と兵千人はどうなかったのか? それに明確な返答をいただきたい。背教者の討伐に協力するのはその後だ」

「……我が領では夜盗が跳梁し、農民が一揆をくり返している。我が領は聖槌軍に千の兵を送ったのだから、今度は我が領に教会の騎士団を派兵してほしい」




 書状を読むほどにニコラ・レミの手が震えた。それは怒りなのかもしれないし、自分の目算が崩れつつあることへの拒絶反応なのかもしれない。自分の肺腑をかき回しているこの感情がなんなのか、ニコラ・レミには理解できなかった。
 書状に落とされていたニコラ・レミの目がアルトワ伯の騎士へと向けられる。その騎士は肩をすくめ、

「これだけの兵を集めただけでもありがたいと思うべきだ。これ以上を要求するなら我々も領地に帰るまでだ」

 とニコラ・レミに背を向ける。ニコラ・レミはその騎士にかけるべき言葉を持たなかった。
 ニコラ・レミは自分でも気が付かないうちに尻餅をついていた。まるで、難攻不落の城塞だと信じ切って寄りかかった石の城壁が、芝居で使われる書き割りとなって後ろへと倒れたかのようだ。

(一体何だ……何が起こっている。まるで芝居が終わったかのように……)

 芝居の中で主人の役を演じていた男が、芝居が終わった後でも家来役の男にまるで主人のように話しかけたなら、家来役の男はどう反応するだろうか? この騎士の振る舞いがまさにそれなのではないのか――ニコラ・レミの直感は真実に限りなく肉薄していた。だがその直感を言語化し、論理化することはついになかった。
 ニコラ・レミは理解しようとしなかった。彼がその存在を疑わなかった「聖杖教と教皇庁の権威」は太陽や月のように実在するわけではなく、ただエレブ人社会全体の「約束事」として存在していたに過ぎないということを。だがれそを理論的には得心せずとも、感覚的には、肌身には実感せずにはいられない。
 聖槌軍の強行によりインノケンティウスとアンリ・ボケは自分達の政治基盤を掘り崩している――ニコラ・レミはそう判断したからこそ諫言も妨害もせず、流される大量の血も涙も嘲笑とともに見過ごしてきた。だがアンリ・ボケ達が掘り崩したのは聖杖教の権威そのものだったのだ。
 もしそうと判っていたならニコラ・レミはどんな手段を使ってでもあの二人を制止しただろう。ニコラ・レミはインノケンティウスとアンリ・ボケを制止できる事実上の唯一の人間だったのだから。だが今になってようやくそのことに思い至ったところで後の祭もいいところだ。
 教皇庁と聖杖教の権威はインノケンティウスとアンリ・ボケによって無為に消費され、蕩尽され、蚕食され、もはや書き割りみたいな形骸しか残っていなかった。そしてニコラ・レミによる異端討伐呼びかけはその書き割りをも蹴倒す最後の一撃となったのだ。
 ニコラ・レミは地べたに座り込み、両掌も地面についている。少し前までは世界の全てをこの手に握っていたかのように思えたが、今はただの砂すら手の中にありはしない。
 ニコラ・レミの脳内の冷静な部分がすでに計算結果を算出していた。アンリ・ボケが百万の兵を集めたのに対し、自分が集めたのは千以下。この異端討伐は自分の政治力のなさ加減を満天下に暴露しただけだった。このまま異端討伐を強行しても、討伐を中止しても、政治的な大打撃は避けられない。目前にしていた教皇の座も限りなく遠のいてしまっている。
 ニコラ・レミは自分の視界が暗くなっていくのを感じた。自分の視界がどんどん狭くなっていく。単にまぶたが閉じていくだけではない。それは目の前で閉ざされていく、自分の未来への扉だった。




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