「黄金の帝国」・征服篇
第五四話「カデシの戦い」
ダムジの月(第四月)が下旬に入ろうとする頃。竜也達はメン=ネフェルに向けての進軍を開始。竜也と共に進軍するのは、マグド率いる奴隷軍団七千・エレブ人部隊一万五千・傭兵部隊五千・新兵集団二万、それにナウクラティスに集まっていた旧大ギーラ帝国軍のうち二万数千。合計五万の軍勢である。
タフジールの第十軍団はナウクラティスに駐留。ロカシスやジェフウトで集められた工作部隊もナウクラティスに残し、順次西へと帰還させる予定である。サドマ達の騎兵隊はテル=エル=レタベに残したまま。ノガ率いるエジオン=ゲベル軍は竜也達と別れ、テル=エル=レタベに向かって進軍を開始していた。
ダムジの月の下旬、ヌビア帝国軍がハカー=アンクに到着。ハカー=アンクは元の世界ではカイロに相当し、宰相府を始めとするケムトの行政組織が一通り揃っている。ケムト王国の事実上の首都と言うべき町である。王宮のあるメン=ネフェルまではあと一日もかからない距離だった。
その町の城外で陣地を築いて野営の準備をする竜也達の元に、ハカー=アンクからの使者が訪れた。いや、使者はハカー=アンクからだけではない。
「メン=ネフェルの? ケムト王の使者だということか?」
竜也の前に立つ若い貴族は胸を張り堂々と名乗った。
「はい。私はケムト王国の国王メンマアトラーの使者として、ヌビアの皇帝の前に来ております」
ふむ、と竜也はちょっと勿体ぶった態度をして見せた。
「……しかし、あなた達と我々は未だ戦争中だと思うのだが。宰相プタハヘテプは我々に対する討伐を呼びかけているだろう?」
竜也の問いに対し使者は何も答えず、何かの荷物を取り出した。豪華な錦布に包まれた、数十センチメートル四方の箱である。錦布の包みを解くと出てきたのはただの木箱だった。その使者が床に置いた木箱を開く。竜也達は息を呑んだ。
「お納めください。前の宰相プタハヘテプの首級でございます」
竜也達の眼前には蝋付けとなった老人の生首があった。竜也は視線をイムホテプへと送る。イムホテプはわずかに顔色を悪くしながらも、
「間違いありません、確かに宰相です」
と頷いた。
「……ケムト王の答え、確かに受け取った。我が軍は矛を収めよう」
竜也がそう宣言し、使者はかすかに安堵の様子を見せた。
「これからヌビアとケムトは一つの国となる。私はケムト王と手を携え、新たな国を造っていきたいと思っている」
この日、ケムト側の事実上の降伏により戦いは終結。ケムト王国は解体されヌビア帝国に併合されることとなった。
「……これほどの大遠征なのに、戦闘らしい戦闘がろくになかったじゃないか。ナウクラティス城壁での『説得』にしたって、双方合わせても死者は二百人にも届いていない」
とマグドは気の抜けた様子である。
「ファイルーズは一人で数万の兵に匹敵するくらいの威光を見せつけたし、イムホテプやベラ=ラフマの働きはかけがえのないものだ。でも、それもこれも将軍がサフィナ=クロイから四万近い軍を連れてきてくれたからだ。
『ヴェルマンドワ伯と互角に戦った螺旋のマグドが率いる』
『百万の聖槌軍を皆殺しにしたヌビア帝国軍』
――ファイルーズ達の働きにしてもそれだけの武力を背景にしてのことなんだ」
竜也はそうマグドの功績を称揚し、マグドは照れくさそうな笑みを見せた。が、続く竜也の、
「まあ一番の功労者が誰かと言えば、ギーラになるんだけど」
その言葉に肩すかしを受けたようになっていた。だが「確かに」と同意する他ない。各都市から人質を取ってそれを自分の後宮に放り込んだり、皇帝を名乗ったりと、ギーラが暴走して傍若無人の限りを尽くしたからこそ、
「ギーラの家来よりは皇帝クロイの臣下の方がまだマシだ」
と各都市が思ってくれたのだから。
翌日、竜也はファイルーズと共にメン=ネフェルを来訪。ケムト王国国王メンマアトラーと会談を持つ。竜也はそこでプタハヘテプの末路について知ることとなった。
――メンマアトラーを傀儡として権勢を振るったプタハヘテプだが、近年は老化により判断力がかなり落ちていたようである。聖槌軍と手を結ぼうとしたことも結果としては判断ミスだったし、ギーラの竜也暗殺計画に協力してヌビア帝国を敵に回したのは重大な間違いだった。以前のプタハヘテプならそこで軌道を修正し、ギーラを竜也に差し出して「全てはギーラ一人で考えて実行したことで、ケムトは全くの無関係です」等と強弁しただろう。だが耄碌した彼はギーラの口先と虚像に惑わされ、ギーラを司令官としてヌビア帝国と戦争することを選んでしまった。
それでギーラが勝っていればよかったのだろうが、結果は全くの逆で大ギーラ帝国軍は消滅、ギーラ自身はアシューに逃亡。プハタヘテプも逃亡を考えたのだが、メンマアトラーが、
「自裁せよ」
と命じたのである。以前なら国王の命令など鼻で笑って無視するくらいだったし、周囲もそんなプハタヘテプに追従していたのだが、その時点ではもうプタハヘテプは一人だった。追従していた者達は彼に背を向けるか嘲笑を浴びせるだけだ。プハタヘテプは自室で毒をあおり、死を迎えたという。
会談を終えた竜也はその日のうちにハカー=アンクに戻ってきて、翌日以降はその町を拠点としてケムト併合を定着させるための政策を立案・実行していく。数日後にはハカー=アンクの竜也の元にシェションクの騎兵隊が戻ってきた。シェションクはギーラが確保していた各都市の人質を引き連れて移動してきた。
また、シェションクがテル=エル=レタベから連れてきたのは人質だけではない。竜也の前に引き出されているのは、年老いた貧相な傭兵だった。
「……お前がキヤーナか。ギーラの右腕の」
竜也の確認にキヤーナは「へへっ、左様でございやす」と平伏して返答する。キヤーナに代わってベラ=ラフマが説明した。
「この者は早くから私に協力することを約束しております。ギーラの側近として働いておりましたが、ギーラ側の情報を我々に流してきたのも、我が軍の情報をギーラから遮断したのも、各都市が人質の身代わりを送ってきたことを黙認したのも、人質の安全を確保したのも、全てこの者の働きです」
竜也は「そうか」と瞠目、キヤーナの働きを賞して充分な報酬を与えることを約束する。キヤーナは土下座するくらいにさらに平伏した。
――なお、キヤーナがどのくらい早くからベラ=ラフマと協力していたかと言うと、実はほぼ最初からである。東ヌビア内の竜也に敵対的な勢力がキヤーナ傭兵団を雇ってギーラに助力しようとしていたのをベラ=ラフマが察し、雇われる前のキヤーナに接触して協力を約束させていたのだ。ギーラがケムトに逃げるよう仕向けたのはベラ=ラフマだし、ケムトでプタハヘテプと面会できるだけのコネを用意したのはイムホテプだ。
ベラ=ラフマの期待に応えるようにギーラはプタハヘテプをそそのかしてヌビアに対する戦争の道を選ばせ、結果としてプタハヘテプは排除されケムトはヌビアに併合されることとなった。ただ、暗殺計画にエジオン=ゲベルまで巻き込んで竜也の生命を危機にさらしたのは全くの計算外で、ベラ=ラフマにとっては痛恨事である。だが、それにしたって結果としてはムンタキム排除の遠征につながり、東側国境の安全をより高めることに結実しているのだ。
竜也は人質を各都市へと送り返すのに使者を同行させ、各都市代表をハカー=アンクに招集した。ケムト王国に属する全ての都市とソロモン盟約を締結し、それによって正式にケムトをヌビアに併合するのだ。
「まず、ケムト王国軍は解体だ。各都市の武装は原則禁止、盗賊退治ができる自警団があればそれでいい。今のケムト遠征軍をケムト面軍に再編成する。今いる兵はできるだけサフィナ=クロイに戻して、各都市の兵力を集めて方面軍に組み込むんだ」
流れる血が最小限となるよう最大限努力し、それが正しく報われた竜也だが、逆に言えばケムト王国の諸都市はそれだけ戦力を残しているということだ。ケムト王国の解体はまず軍の解体から始まったが、当然ながらそこには反発も生じる。小規模な兵の反抗が頻発し、混乱に乗じて盗賊が出没した。
「盗賊共は生かしておくな! ヌビアの皇帝に逆らうとどうなるかを思い知らせてやれ!」
兵の反抗を鎮め、盗賊を討伐して回るのはマグドである。マグドはシェションク隊を中心に旧ケムト軍から騎兵隊を再編成。シェションクと共にケムト中を縦横に走り回った。竜也もまたそれらの反抗が大規模な反乱に至らないよう細心の注意を払っている。ミカとカフラがそれぞれの分野で竜也を補佐した。
月がダムジからアブ(第五月)に入り、その中旬には竜也の招集を受けたケムト各地の都市代表が順次ハカー=アンクに集まってくる。
「ケムトという国が喪われたのではありません。セルケト朝の血を継ぐ者が次期皇帝としてヌビアに君臨し、太陽神の威光がヌビア全土を照らすのです」
ファイルーズは各都市代表を説得し、竜也にとって最大の協力者となった。そのファイルーズを補佐するのはイムホテプだ。イムホテプは宰相代理として軍務以外の政務全般を取り仕切っている。
「……クムヌの代表は個人的な借金で首が回らない、金品で懐柔できる。スウェネトの代表はセルケト王族との婚姻を望んでいる、これについてはイムホテプと相談……」
そしてベラ=ラフマが監視の目を張り巡らせ、ファイルーズの説得にも渋る相手を裏技を使って陥落させようとし、
「……あれは反乱を起こすつもり。準備もほとんど終わっていて、後は実行するだけ」
「反乱に協力する都市は?」
「皆が協力すると思い込んでいるけど、本当かどうか判らない」
それでもどうしようもない相手はラズワルドがそれを見抜いていく。
「それでは頼む」
「おう、任せろ」
そしてベラ=ラフマの指示に従い、ツァイドとその部下が処分の手を下した。その日の深夜、何者かに撲殺されたウアセト代表の死体がハカー=アンクの路地裏に転がった。
それを耳にした竜也は、
「物騒だな。俺達だけじゃなくて各都市代表の警備にも注意してくれ」
軍とバルゼル達近衛にそう命令。バルゼルはその命令にしっかりと頷いた。
竜也・マグド・ファイルーズ・イムホテプ・ベラ=ラフマ等々。ヌビア帝国側全員の尽力により、旧ケムト王国に属していた全ての都市がソロモン盟約を締結。エルルの月(第六月)となる頃、正式にケムトはヌビア帝国領となった。単にその領土を拡大させただけではない。三大陸の中で最も巨大な穀倉地帯を、最も交易が盛んで経済的に豊かな地域を、竜也は手に入れたのだ。
エルルの月の上旬。エジオン=ゲベル王国の使者がハカー=アンクに到着、竜也はその使者と面会する。竜也達はその使者からノガのエジオン=ゲベルでの戦いぶりを聞かせてもらうこととなった。
……一月以上前、ダムジの月の下旬。ノガ率いるエジオン=ゲベル軍がテル=エル=レタベに到着。その町にはガイル=ラベクがすでに到着しており、ノガはゴリアテ級を使って対岸へと海を渡る。
スアン海峡を挟み、テル=エル=レタベの対岸にあるのはスアン王国の王都・スアンである。ノガやベラ=ラフマが早くから使者を送り、スアン王国の協力は取り付け済みだ。アブの月の上旬、スアンの郊外に上陸したノガは一万の兵を率いて東への進軍を開始した。スアン王国の領土を横断し、エジオン=ゲベル王国を目指して進んでいく。
一方エジオン=ゲベルのムンタキムもノガの接近には気付いている。ムンタキムは将軍アッワルに兵二万を与えてノガ討伐へと送り出した。数日後、ノガの一万とアッワルの二万がシン半島(元の世界のシナイ半島に相当)の東、国境の町・カデシ郊外で激突する。
「――来たか」
ノガは接近するアッワル軍二万を見下ろしている。普通に考えれば一万の軍で倍二万の軍に勝てるわけがない。ノガはこの不利を覆すため、百メートル程の小山の上に自陣を置いていた。塹壕を掘り、杭を打ち、馬防柵を立て、ちょっとした要塞を築いている。
一方のアッワルは敵陣のその様子を見て歯噛みをした。
「それでもアミール・ダールの息子か! 出てきて戦え、臆病者!」
アッワルは要塞に閉じ籠もるノガ軍に思いつく限りの悪口雑言を浴びせ、挑発しようとする。が、ノガは決してその挑発に乗らなかった。
「あんなのは気にするな。勝てばいいんだ」
ノガは悠然とした態度で挑発を聞き流す。兵達もまたノガの命令をよく聞き、要塞の強化と防御に専念していた。兵士はともかくノガとその直属は聖槌軍との死闘に耐えてきた者達だ。待つこと、我慢することには慣れている。
「……くそっ、こうなったら」
前にしびれを切らしたのはアッワルである。アッワルは全軍に突撃を命令、ここに戦いの火蓋が切って落とされた。
アッワル軍の兵が雄叫びを上げながら突撃、それを塹壕に籠もったノガ軍の兵が迎撃する。ノガ軍の兵が矢を放ち、アッワル軍の兵が倒れ伏す。怯んだアッワル軍は少し方向を転換し別の場所へと突撃した。そこは馬防柵が立てられている場所である。アッワル軍の兵が馬防柵に体当たりして柵を倒そうとするが、ノガ軍の兵が槍を突き出して敵兵を殺していく。柵の前には兵の死体が転がった。
「……」
ノガは険しい表情でその血戦を見つめている。両軍の激突で味方が死に、敵が死ぬ。だがこの場合の敵とは故国の兵であり、ノガが王となったあかつきには自分の兵となる者達なのだ。
……戦いが始まって半日が経過。防御に徹していたためノガ軍の戦死者はそれほど多くない。一方のアッワル軍も、ノガのためらいにより損害は少なかった。だがそのためにノガ軍は危険な状態に陥った。
「将軍、柵が……!」
ノガ軍陣地正面の馬防柵がついに破られたのだ。柵を倒し、踏みつけ、アッワル軍の兵が陣地の中へとなだれ込んでくる。ノガは決然と目を見開き、鋼鉄の槍を手にして敵の眼前と進んだ。
「敵将が……」
「アミール・ダールの息子・ノガが……」
ノガを目の当たりにした敵兵が動揺する。それを敵の部隊長が叱責した。
「何をしている、そこにいるのは敵の首魁だぞ! そいつを殺せば褒美は望むままだ!」
欲望を煽られ、敵兵の何人かが猛然と突撃してくる。だがノガが槍を旋回させ、敵兵を斬り払う。アッワル軍の兵四人が死体となって地面を転がった。その光景に怖じ気づくアッワル軍。ノガが槍の柄で地面を突き、アッワル軍の兵は飛び上がりそうになっていた。
「――我が名はアミール・ダールの息子・ノガ。我こそはエジオン=ゲベルの王位を継ぐ者なり! 兵よ、自分達の王に刃を向けるか!」
ノガが兵を睥睨、アッワル軍は後ずさった。ノガの気迫に呑まれ、百人以上のアッワル軍の兵が先に進めずその場に金縛りになっている。その場の空気が限界まで張り詰め、息をするのも困難となった。
「――敵が! 敵の援軍が!」
戦場にその知らせが響き渡ったのはその瞬間である。
「ヌビア軍の騎兵隊が近付いている! 後ろに回り込まれる!」
「退路が断たれる!」
ノガ軍の兵は喜びに沸き、アッワル軍の兵は悲鳴を上げた。接近しているのはヌビア帝国軍の騎兵一万五千。数の優位を覆された上に、前後から挟撃されては最早勝利など望むべくもない。アッワルは肩を落としながらも決断した。
「……撤退する」
アッワル軍はノガ軍に背を向け、東へと去っていく。ノガはそれを追おうとはしなかった。
カデシの戦いに勝利したノガは進軍を開始。ヌビアの騎兵隊はスアンへと撤収し、ノガ軍は一万だけでエジオン=ゲベル領内へと侵入した。王都ベレニケを目指してゆっくりと南下する。
アブの月の中旬、ノガ軍はエラト湾に面したベレニケに到着した。行軍中にノガに味方する貴族・豪族が合流し、ノガ軍は一万五千まで膨れ上がっている。
「お前の働きは大したものだ。戦いが終わったらこの功績には必ず報いよう」
ノガが感嘆するようにガアヴァーを称揚し、ガアヴァーは「いえ、とんでもない」と恐縮した。ガアヴァーはベレニケやその周辺でノガに味方するよう貴族・豪族を説得して回っていた。
「二万を擁していたアッワルを、ノガ様が半数の一万の兵で撃ち破ったからこそ皆が参集しているのです。あの勝利こそノガ様が将軍アミール・ダールを継ぐ者であることの証、それが貴族達の心を動かしたのです」
ガアヴァーの賞賛にノガは居心地の悪そうな顔をした。カデシの戦いでヌビア帝国軍の騎兵隊がノガに味方した事実は、別に隠されていたわけではない。ただ簡単に触れられるくらいで、積極的には語られなかっただけである。だが噂は事実を置き去りにし、「ノガが倍する敵を野戦で撃ち破った」という伝説が既に一人歩きをしている。
「……まあ、今は噂だろうと虚像だろうと利用するだけだ。それで兵や市民の犠牲を減らせるのなら」
ノガは厳しい顔でベレニケの城壁を見上げた。ナウクラティスほどではないにしても、ベレニケもまた堅牢な城塞都市だ。真正面から戦ったところで容易には落ちそうにない。そこにガアヴァーが進言した。
「陛下は逃げ帰ってきたアッワルを将軍職から解任し、投獄したそうです。このため人心は陛下の元から離れる一方とのこと。ここは砲弾ではなく交渉により門扉を開かせるべきかと」
「その辺はお前に任せる。上手くやってくれ」
軍の采配にしか興味のないノガは交渉や謀略をガアヴァーに丸投げし、ガアヴァーは奮い立ってそれを引き受けた。ガアヴァーは書状の執筆に専念する。
「よく考えてほしい。ムンタキムは味方にすべきでない者を味方とし、敵に回すべきでな者を敵としたのだ。そのような者を王位に就けたままで、エジオン=ゲベルに未来はあるのか?」
「ノガ様は百万の聖槌軍と勇敢に戦い、ヌビア全土にその名を響かせている。『猛将ノガ』と言えば子供でもその名を知る程の英雄なのだ」
「戦いが長引けばこの国が疲弊するだけだ。我が軍に勝ったところで、その後背にはヌビア帝国が控えている。たとえノガ様を暗殺しようと、帝国はシャブタイ様を、コハブ=ハマー様を王位に就けようとするだろう。百万の聖槌軍を皆殺しにしたヌビア帝国軍に、エジオン=ゲベルのような小国が勝てるのか?」
ガアヴァーはそんな内容の書状を何人もの使者に持たせ、ベレニケ城内に潜り込ませる。書状を持った使者が密かに城壁内外を行き来する日が続いた。その間ノガは自分に味方するためにやってきた貴族や豪族を歓待することに追われている。
アブの月の下旬、連日の宴会や各貴族の陳情にノガが飽き飽きし、
「いっそこのまま突撃してやろうか」
と本気で検討していた頃――その日、ベレニケが開城した。
ノガ達の前に、城塞正門の門扉が開かれる。騎乗したノガが全軍の先頭に立って正門を通り抜け、ベレニケに入城。それをベレニケの兵と市民が出迎えた。
「我が王ノガ!」
「新王ノガ!」
ノガの姿に市民や兵はそんな歓声を上げていた。内心は狐につままれたように感じながらもそんな素振りは欠片も見せず、中央の通りを進んでいくノガ。やがてノガ達は王宮へと到着した。王宮の前でノガを出迎える者達の中に、ノガはある人物の姿を見出す。
「宰相カイユーム……あなたまで」
その六〇過ぎの老人こそムンタキムの下で辣腕を振るってきたエジオン=ゲベル宰相・カイユームだった。カイユームは恭しくノガへと頭を下げる。
「お待ちしておりました、国王陛下。まずはこちらへ」
騎馬から下りたノガはカイユームとガアヴァーの案内で王宮を進んでいく。ノガが案内されたのは、王宮の敷地内に設置されている小さな神殿である。そこには一人の男の遺体が寝台に寝かされ、安置されていた。
「……伯父貴」
ノガがその男――前のエジオン=ゲベル王ムンタキムと対面する。豪奢を極めた錦の衣装をまとい、金銀珠玉の装身具と花々で全身が埋もれそうになっている。だがその死に顔は決して安らかではなかった。
ノガは長い間ムンタキムの遺体の前で立ち尽くしていた。やがて、その背中にカイユームが声を掛ける。
「運命の巡り合わせによりノガ様と敵対することととなりましたが、前のエジオン=ゲベル王であったお方です。どうかその死を貶めることは……」
「判っている、死体に鞭打つような真似はしない。それよりも、下手人は――」
底冷えするノガの口調にカイユームはかすかに身を震わせながらも「はい、ここに」と兵に何かの箱を持ってこさせた。兵はその木箱を床に置き、箱を取り払う。その下からある若い男の首級が現れた。
「……久しぶりじゃないか、ギーラよ」
ノガの確認にカイユームが頷く。首から上だけになりながら、ギーラは憤怒と怨嗟に顔を歪め、牙を剥き出しにしていた。まるで今にも罵声を上げそうである。
「この首級は蝋付けにして腐らないようにしろ。皇帝タツヤへの使者に持たせる手土産にする。それでヌビア帝国とエジオン=ゲベルの諍いは手打ちだ」
ノガの指示にカイユームが頷く。その後ノガは玉座の間へと移動、そこでカイユームとガアヴァーから事情説明を受けることとなった。
……ケムトを船で脱出したギーラはムンタキムの元へと逃げ込んだ。ヌビア帝国軍が間もなくエジオン=ゲベルまで攻め込んでくるのだから、自分がその迎撃の指揮を執る――ギーラは本気でそう思っていたらしい。エジオン=ゲベル軍を指揮してヌビア帝国軍を撃破し、ケムトまで攻め入って大ギーラ帝国軍を再興する……ギーラはそのつもりだったのだろう。だがムンタキムもカイユームもこの期に及んではギーラを相手にしなかった。ムンタキムは即座にギーラを殺そうとしたのだが、
「殺すのはいつでもできる、ヌビアに対する何らかの交渉の材料になるかもしれない」
とカイユームが止めたのである。ギーラはそのまま王宮内の牢獄へと放り込まれた。
その後、カデシでの敗戦があり、ノガ軍にベレニケを包囲され、ギーラのことなど全員忘れていたのだが、昨晩になってムンタキムが思い出したのだ。
「あの男をヌビア帝国軍に引き渡そう。そうすればヌビア軍は皇帝の元に獲物を持っていくためにスアンからケムトへと引き返すだろう。ノガが帝国の後ろ盾を失えば、今はノガに与する者も背を向けるようになるに違いない」
そして、ムンタキム達の前に引きずり出されるギーラ。怯えるギーラは必死にムンタキムに媚びを売る。ムンタキムは侮蔑に唇を歪めた。
「ふん、口先だけの役に立たない男だったが、ここで少しは役に立ってもらわねばな」
だがそのとき、ギーラが短剣を振り回して警備の兵を振り払ったのだ。手首を切られた兵が思わず後ずさり、その隙にギーラがムンタキムに飛びかかった。兵が取り抑える間もなくムンタキムがギーラに掴まる。
「動くな!」
ムンタキムの喉元に短剣を突きつけたギーラが一喝、警備の兵が硬直した。
「き、貴様!」
ムンタキムが憤怒にうめくが、ギーラは嘲笑しながらその顎にわずかに剣先を突き刺した。剣先が血のしずくに濡れる。
「俺はこんなところで終わる男じゃないんだ、もう少し俺の役に立ってもらおうか」
ムンタキムは屈辱に歯を軋ませ、その身体を震わせた。ギーラはそれに構わず、
「馬とタラント金貨千枚を用意してもらおうか。国王の生命に比べれば安いものだろう?」
優位に立ったギーラがカイユーム達にそう要求。歓喜に満ちたギーラの笑みはまるで狂人のそれだった。が、その表情が訝しげなものに変わる。ムンタキムの震えが収まらず、強くなる一方だったからだ。
「おっ、おっ……」
ムンタキムは何か言おうとしたのかも知れないがそれは言葉にならなかった。ムンタキムの口から漏れたのは血で汚れた黒いよだれである。ムンタキムの身体はそのまま力を失い、まるで糸を切られた操り人形のようになった。
「お、おい――」
ギーラは戸惑いながらもムンタキムの身体を揺さぶる。だがムンタキムは沈黙するだけだ。
「――死んでる」
一同にそう告げるのは、倒れた同僚を抱きかかえていた護衛の兵士である。その倒れた兵はギーラにより手首を切られた者だった。それにより一同は何が起こったのかをようやく理解した。
「そうか、毒刃か!」
「何と卑怯な!」
剣を抜いた護衛の兵がギーラを包囲する。怯えたギーラはムンタキムを盾にしようとするが、それはもう盾の、人質の役目を果たしていなかった。どう見てもムンタキムは既に事切れていたからだ。
ムンタキムの身体を避けながら、兵士が剣をギーラの身体へと突き刺していく。太腿を、腹を、背中を、延髄を。振り下ろされた剣はムンタキムの身体を傷付けることなくギーラの身体を切り刻んでいた。全身から血を流したギーラが崩れ落ちる。
「が……」
わずかに残った最後の力を使い、ギーラが首を持ち上げる。ギーラが見たものは、自分を見つめるカイユームの冷たい眼だった。
「……」
ギーラがそこに何を見出したのかは判らない。ギーラの顔が苦痛とも憤怒とも付かないものに歪み、そのまま硬直する。末期の激情を自分の顔に刻み込み、ギーラはようやくその生命を終わらせた。
「……ギーラの毒刃にかかり陛下は崩御。王太子殿下がノガ様との戦いを望まれず、ノガ様に王位の禅譲を申し出たのです」
「……」
黙ってカイユームの説明を聞いていたノガだが、糾問したいことが山のようにあった。
「誰が投獄されていたギーラに毒刃を渡したのだ?」
「誰がギーラを利用するようムンタキムを促したのだ?」
「誰がムンタキムにギーラを謁見させるよう設定したのだ?」
「誰が王太子に禅譲を強いたのだ?」
ノガはカイユームとガアヴァーを当分に見比べる。二人の無表情な顔がまるで人間以外の何か不気味なもののように思え、ノガは密かに怖気をふるった。だがそんな素振りは表には出さない。舌先まで出ていた詰問は無理矢理腑の底へと呑み込んだ。
「――そうか」
ムンタキムの死について、ノガが述べたのはただそれだけである。そして一生涯一言も増えも付け加わりもしなかった。
翌日以降、ノガは新エジオン=ゲベル王として新体制の構築に追われることとなる。ベレニケ開城前からノガに味方した貴族・豪族は一定優遇する必要があり、その一方ムンタキムの元で政務に当たっていた大臣を即座に解任するのは混乱の元でしかない。為政者は難しい舵取りを求められるのだが、ノガはその点をカイユームとガアヴァーに全て任せていた。
「前の国王崩御には私にも責任があります。事態が落ち着いたなら私は引退し、宰相職を次の者に任せたいと思います」
カイユームがノガにそう申し出、ノガもそれを了承した。ただし次期宰相と目されているのはカイユームの派閥の者であり、カイユームの息子はすでにノガの側近へと送り込まれている。カイユームが引退するからと言って、その影響力がなくなるわけではなかった。
「まあ、カイユームの顔を見ずにすむのならそれでいいさ」
ノガが抱くわだかまりをカイユームも感じ取っているからこその引退宣言なのだろう。カイユームに巻き込まれるように、他の大臣も何人か引退を申し出てきている。ノガは空いた地位に自分に味方した貴族を入れることにした。
竜也の元へと送った使者には、前の王太子を始めとするムンタキムの子供達の全員を同行させている。「皇帝クロイへの忠誠の証」のための人質という名目だが、実際には厄介事を竜也に押し付けただけである。
「この国に置いたままでは先の王太子を擁立してノガ様の玉座を狙う者が現れかねません。ですが理由もなく殺してしまっては民心が離れてしまいます。皇帝クロイに預かっていただくのがよろしいかと」
「そうだな。一〇年か二〇年して俺の玉座が不動となったら帰国を認めるから、それまでは帝国で大人しくしていてくれればいい」
ケムトにやってきた彼等ムンタキムの子供達は、竜也の指示により旧ケムト貴族に準ずる年金の支給を受け、移動や居住以外には特に不自由のない生活を送ることとなる。
政治には関心のないノガだがその分軍の統率には全精力を注いでいる。釈放したアッワルは大将軍に任じて全軍の指揮を委ね、その下には第七軍団からの幹部の面々を付けた。ノガの下で聖槌軍戦争を戦い抜いた第七軍団の面々は、
「自分達こそ猛将ノガの藩屏だ」
と自負している。第七軍団の幹部達が元からのエジオン=ゲベル軍を見下し、エジオン=ゲベル軍が第七軍団の幹部達を「田舎者が」と侮蔑する。両者の対立と反目にノガは頭を痛めた。だがその対立は時間をかけて解消していくしかないことだ。エジオン=ゲベルの若き新たなる王はまだ即位したばかりなのだから。
「……そうか、ギーラが死んだか」
エジオン=ゲベルからの使者の報告を聞き終えた竜也が嘆息を漏らした。その竜也に使者が首桶を持って進み出る。
「はい。ギーラの首級がこちらに」
竜也は一応それを受け取らせ、確認する。だが死んだギーラには全く関心がないようで、すぐに片付けさせた。
ギーラの死と、ノガの即位とエジオン=ゲベルとの和平。竜也はエジオン=ゲベル征伐の目的も無事完遂した。こうしてヌビア帝国軍のケムト・エジオン=ゲベル遠征は終結する。この遠征とそこで起こった一連の戦いは「ギーラの乱」と名付けられている。