「黄金の帝国」・征服篇
第五五話「テルジエステの戦い」
エルルの月(第六月)の中旬。サフィナ=クロイのハーディが一月近く前に高速船を使って送り出した連絡員が、ようやくこの日ハカー=アンクに到着した。
「……そうか。教皇が死んだか」
教皇インノケンティウスの死。これまで何度かその噂を耳にし、そのたびに後日訂正されていたのだが、今回は訂正される心配はないらしい。竜也はしばらくの間無言で天井を仰ぎ、言葉にならない感慨を抱いていた。やがて気分を切り替えてその連絡員に問う。
「次の教皇は? エレブ情勢はどうなっている?」
「次期教皇は未だ定まっていません。これをきっかけにした戦乱がエレブ中で巻き起こっています。どういう理由で誰と誰が戦っているのか、まとめるのも馬鹿らしくなるくらいです」
教皇インノケンティウスの存在はエレブの諸侯・諸王国にとって重石となっていたが、病床にあっては重石としての役目は果たし得ず、死ぬ前から死んだも同然のように思われていた。次期教皇の最有力候補だったニコラ・レミが自滅し、誰が次期教皇になるのか見通しが立たなくなり、五王国や有力諸侯が自分に近い聖職者を後押し。教皇候補が乱立し、対立する。その対立が各地でくすぶっていた紛争の火種と結び付いたのだ。火種は急速に大きく燃え広がり、次々と各地に飛び火し、今では戦争の猛火がエレブ中に広がっているという。
竜也はムハンマド・ルワータの報告書に目を落としながら「ふーむ」と唸った。
「この戦乱がヌビアに波及することは心配しなくていいんだな?」
「それはもちろん」
その連絡員は力強く頷いた。
連絡員と入れ替わりで竜也の執務室にやってきたのはディアである。
「教皇インノケンティウスが死んだそうだな」
「ああ。これでエレブの恩寵の民も少しは状況がマシになるんじゃないのか?」
竜也の言葉にディアは顔をしかめて首を横に振った。
「いや、そうでもない。村に帰った者からの手紙が届いたんだが、『ヌビアに移住先を用意してほしい』と記してあった」
竜也は少しの間無言となり、大きく見開いた目をディアへと向けた。
「銀狼族が危険にさらされているのか?」
「具体的なことは書いていないが……戦乱が広がればあの村だって安全じゃなくなる。余裕のある今のうちに逃げた方がいいのは間違いない」
そうか、と竜也は頷き、非常に軽い物言いで続けた。
「移住先は手配させる。銀狼族は全部で千人だったな、ゴリアテ級が二隻もあれば全員乗船できるだろう。銀狼族に海沿いまで出てきもらえれば、あとは船で拾い上げるだけだ」
「……まあ、そんな簡単な話ではないだろうが」
とディアは苦笑する。
「判った、村の者に連絡を取って脱出の準備をさせる」
ディアは晴れ晴れとした表情で頷いた。
――どうやって皇帝に移住先を用意してもらうか? どう言って皇帝に脱出に協力してもらうか? 断られたらどうするか、ファイルーズやカフラに協力を仰ぐべきか、でもどうやって……等とディアは脳が焼けるくらいに悩んでいたのだ。だがそれが馬鹿らしくなるくらいにあっさりと竜也が全ての願いをきいてくれたわけで、ディアは脱力する他ない。竜也に言わせれば「銀狼族に協力を仰いだときに最初に提示された条件を履行しているだけ」なのだが。
その後、竜也はベラ=ラフマを呼び出した。
「エレブ情勢が不安定になっている。ヌビアに飛び火する可能性はほとんどないとは言え、銀狼族のこともある。状況はこちらでも把握していくべきだ」
ベラ=ラフマが我が意を得たりとばかりに頷いた。
「サフィナ=クロイは遠く、エレブはさら遠く、情報を得るには時間がかかります。サフィナ=クロイを経由しない独自の情報網を作るべきです。まずはバール人商人やヘラス人商人に協力してもらうべきかと」
「確かに、まずはそこからだな。でもそうなるとこの町の位置がやっぱり不便だ。海沿いの町に拠点を移そうと思う」
その後竜也はガイル=ラベクを呼び出し、拠点移動の件を相談した。
「ヌビア帝国は海洋交易国家となるんだから、ケムトの拠点は港町でないといけない。東ヌビアとケムト、ケムトとアシューを結ぶたけじゃない。北はエレブ・ヘラス・アナトリコン、南はミディアン半島・紅海からその先のバラタ洋まで、ヌビアの商人が往来して商売をする。そのための拠点なんだ」
竜也のその意志を受け、「それなら」とガイル=ラベクが推薦したのがダフネという名の町である。ダフネは元の世界で言うならエジプト・ポートサイド付近となる。スアン海峡入口のケムト側に位置する港町で、地中海とスアン海峡の双方に面していた。
竜也はその日のうちから拠点移動の準備を開始した。とは言っても、移動するのは竜也やファイルーズ達、それに一部の文官くらいだ。マグドを始めとする武官、イムホテプを始めとする大多数の文官はハカー=アンクに残していく。
「軍の再編成が終わって旧ケムトとヌビアとの一体化が進んだら、将軍マグドもダフネに移動してもらう。ダフネがケムト方面軍の本陣となる」
「しかし、未だ帝国になじんでいない旧ケムトの各都市に睨みを利かせるにはこの町でないと」
竜也の命令にマグドはそう難色を示したが、
「もちろん今すぐでなくてもいい、何年か先で構わない。もし東ヌビアや西ヌビアで何かあった場合に船を使ってケムトの将兵を移動させるし、逆にここで何かあった場合も同じように西や東から兵を送り込む。そのためにも拠点をダフネに置く必要があるんだ」
竜也の説明にマグドも理解を示し、納得する。
「なるほど、そのためのゴリアテ級か」
「そうだ。もっとも、たった一一隻じゃ話にならないんでもっと数を揃えてからのことになるけど。最低でも五〇隻、できれば一〇〇隻は揃えたい」
それを冗談だと思ったマグドはその時は「豪気なことだな」と笑っていた。が、十数年後にゴリアテ級が本当に五〇隻揃っているのを見て頬を引きつらせることになる。
文治面で竜也の代理となるイムホテプに様々な指示を残し、仕事の引き継ぎをし、竜也はファイルーズ達を引き連れてハカー=アンクを後にする。ハカー=アンクを出発したのがエルルの月の月末。そしてタシュリツの月(第七月)の上旬にはダフネへと到着した。
ダフネに移動した竜也は書類仕事に勤しんでいる。旧ケムト王国が使っていた行政府庁舎の一部を間借りしてケムト総督府を設置。各都市からの税金を集め、使い道を策定し、陸海軍を再編成し、法制を整備し、アシューやエレブとの交易を促進し、情報網を構築する。目が回るくらいの仕事量に追い立てられるままに一月近くが経過し、月は変わってアルカサムの月(第八月)の月初。
「……はあ、お茶が旨い」
その頃にはようやく総督府の組織が整い、有能な人材も登用できて、竜也の負担が減って余裕を持てるようになっていた。書類仕事の合間にファイルーズに入れてもらったお茶を二人で味わい、まったりゆったりと休憩時間を過ごしている。
「こっちでの仕事は一通り片付いたし、そろそろサフィナ=クロイに戻らないとな」
「そうですわね。皆がタツヤ様の帰りを待っておりますわ」
ファイルーズは口ではそう言いながらも名残惜しそうだった。
「戻ったら正式な建国式典と即位式典ですわね。『ヌビアの全自治都市代表を集める』とバリアさんが張り切っているそうですわ」
「建国式典ならもうやったんだからまたやらなくてもいいのに……」
と竜也が言い訳のように呟き、そんな竜也にファイルーズが呆れたような目を向ける。竜也の言うところの建国式典とは、帝国府の中庭で元老院議員を集めて演説して建国を宣言したあれのことだが、あれを「正式な建国式典」だと思っていたのは竜也一人だけのようだった。
そんな執務室に、
「皇帝! 緊急の連絡だ!」
とディアが飛び込んできたのはそのときである。竜也は、
「……まあ、そろそろ何かありそうな気はしていたんだ」
と悟り近い境地に達していた。軽く頭を振って余計な思考を追い払い、真面目な表情でディアに向き直る。
「何があった?」
「エレブから戻ってきた連絡員が知らせてくれたのだ。銀狼族の村が反乱を起こしているらしい! すぐにエレブに戻らないと」
竜也はわずかに眉をひそめ、ディアから詳しい事情を聞くこととした。
――ダフネに移動後、ベラ=ラフマはエレブの情報を収集するための機関を設置。銀狼族脱出の準備を竜也から命じられていることもあり、真っ先に構築されたのが銀狼族の村との連絡体制だった。そして、連絡員からの第一報が「銀狼族の決起」だったのだ。
「あの村が恩寵の部族の村であることが発覚し、周辺の領主が討伐の準備を進めているそうなのだ。このままでは村の者が皆殺しになってしまう!」
焦燥に駆られたディアはいてもたってもいられない様子である。放っておいたら地中海を泳いで渡ってでも一人でエレブまで戻りそうな勢いだ。
竜也は考えを巡らせていたがそれはそれほど長い時間ではない。
「ディアは銀狼族と灰熊族の全員を集めてくれ。それとエレブ人部隊の協力者も。俺は提督達を呼ぶ」
「判った!」
竜也の指示を受けたディアが執務室を飛び出していく。竜也もまたベラ=ラフマとガイル=ラベクを招集するために人を送った。ベラ=ラフマは総督府内にいたためにすぐに執務室にやってきて、詳しい情報を得るべく港に部下を送り出す。ベラ=ラフマの部下が港と総督府を行き来し、情報が集まり、それに基づいて竜也とベラ=ラフマが検討し、対策の大枠が固まった頃。
「皇帝、とりあえずこの二人を連れてきた。他の者も順次ここに集まる手筈だ」
ディアがヴォルフガングとミハイルの二人を連れて戻ってきた。竜也は頷く。
「まずは情報の裏取りをしたいところだけど、時間が惜しい。報告に間違いがないことを前提に対策をしておく」
竜也は地中海世界の地図を広げ、エレブのある地点を指で指し示した。元の世界で言うならオーストリア南端、イタリアとの国境間近の山腹である。銀狼族の村はそこにあった。
「経緯はよく判らないがかなり大きな反乱のようだ。銀狼族がヌビアの海軍と合流するために海を目指していて、それを阻止するために周辺領主が合同で討伐軍を送り出そうとしている――というのがエルルの月の月末、半月前の話だ」
青ざめたディアが唇を噛み締め、ヴォルフガングが拳を握り締めた。ベラ=ラフマが冷酷なまでの平静さで解説する。
「いくら銀狼族が精強でも大半は戦えない女子供や年寄りです。それに領主の側には恩寵の民に対し、聖槌軍戦争で兵を皆殺しにされた恨みもあるでしょう。戦いが長引けば銀狼族の壊滅は免れないかと」
「時間との勝負ってことか。だがエレブは遠いしゴリアテ級は足が遅い。この辺まではどう急いでも一月はかかる」
と竜也は元の世界ではヴェネツィア湾に相当する場所を指差した。
「高速船を使えば半月で行き着けます、先遣隊を送りましょう。反乱した銀狼族に合流し、士気を鼓舞。ゴリアテ級に速やかに乗船できるよう準備を整える役目です」
「わたしが行く!」
「私が行きましょう」
「俺が行ってやる」
ディアとヴォルフガングとミハイルが三人同時にそう告げる。そしてヴォルフガングが、
「ディア様はお残りください。私では皇帝を動かせませんが、ディア様ならそれができます」
「ディアには残ってもらわないと困る。ディアがいないと軍を動かす名目が立たない」
竜也にもそう説得され、ディアは渋々残留を承諾した。一族のことで頭がいっぱいだった彼女は気付かなかったが、
「最悪、もし間に合わず銀狼族が滅ぼされた場合、ディアだけでも生き残っていてほしい」
ヴォルフガングと竜也はそんな共通の思いからディアを残留させたのだ。
「先遣隊には私も加わりましょう」
ベラ=ラフマの言葉に竜也は「判った、頼む」と頷く。圧倒的に不利な状況の反乱軍に加わり、少しでも時間を稼ぐには謀略・噂・流言飛語を最大限利用するしかない。その過酷な要求に応えられるのはベラ=ラフマしかいなかった。
ヴォルフガングが銀狼族の一〇名、ミハイルが灰熊族の一〇名、ベラ=ラフマが白兎族の若干名とエレブ人協力者一〇名を率いて高速船に乗船。その日の夜にはエレブに向けて出港した。ヴォルフガング達を乗せた高速船が黒々とした波間に遠のき、消えていくのを、ディアは祈るような瞳で見つめ続けていた。
竜也が大急ぎで仕事を部下に引き継ぐ一方、ガイル=ラベクがゴリアテ級の出港準備を超特急で進めている。サドマやダーラクは率いる兵を選抜し、ラズワルドはエレブ人部隊の中から協力してもらえる人間を厳選した。
そしてアルカサムの月の上旬。一応の準備を終えた竜也達が五隻のゴリアテ級に分乗、エレブに向けて出港した。乗船しているのは、まずサドマとダーラクが率いるヌビア兵一千。彼等は主に騎兵隊から選抜されており、全員が恩寵を持つ戦士である。そしてエレブ人部隊から選抜された兵が一千、指揮を執るのはガルシアだ。彼等には「恩寵の民のためにエレブ人と戦うこともあり得る」という条件が最初に提示され、それを全員が承諾している。裏切りの心配は不要なことはラズワルドのお墨付きだった。
提督ザイナブの艦隊のうち七隻の軍船がゴリアテ級の護衛として随伴。全艦の指揮を執るのはガイル=ラベクである。旗艦のゴリアテ級ゼロ号艦にはガイル=ラベク・竜也・ディアの他、バルゼル等近衛とサフィール、そしてラズワルドが同乗していた。
「遠征軍の中の恩寵の民が勢揃い、恩寵の戦士の最精鋭が総結集、と言ったところですね。これだけの仲間が揃っているのです、怖れるものなど何もありません」
サフィールがディアを励まそうとし、
「そうだな」
とディアが形だけの返答をする。そしてすぐに視線を舳先の向こう、水平線の遙か彼方の故郷へと向けた。潮風がディアの輝く銀髪を揺らし、愁いに満ちたその顔を撫でていく。
その後方では竜也とガイル=ラベクが打ち合わせ中である。
「急いで出港したから食糧の手配が全然終わっていない。高速船を使って食糧の受け渡しをするつもりだが、それで足りるかどうか」
「各地のバール人商会に協力を仰いでいる。エレブ側のバール人やヘラス人、他の商人にも協力を依頼中だ」
「協力するか?」
「『金さえ積めば親でも売るのがバール人』だろう? それに、『ヌビアの皇帝の艦隊が接近している』と噂を流してくれるだけでも意味がある」
アルカサムの月も下旬となる頃、竜也達のゴリアテ級艦隊はヘラス近海に到着。ヘラスは元の世界ではギリシアに相当する。ヘラスもまたエレブの一国であり聖杖教の勢力圏内だが、テ=デウムから遠いこともあってその影響力はかなり低い。聖槌軍に参加した諸侯もフランク等の五王国と比べれは非常に少なかった。
竜也達はバール人商人だけでなくヘラス人商人からも食糧を購入。さらに、遠征中の食糧補給を委任する契約をいくつかの大商人と結び、補給線の維持に務めた。また、それら大商人の情報網から銀狼族の反乱について情報を得ようとする。竜也達の艦隊がアズル海(元の世界のアドリア海に相当)に侵入する頃には、食糧と一緒に様々な情報が届けられるようになっていた。
「銀狼族の反乱軍はすでにここ、テルジエステを攻め落として占拠しているらしい。非戦闘員も含めてその数は二千」
竜也は地図上のアズル海北端を指差した。テルジエステは元の世界ではイタリア・トリエステに相当する。暦はすでにアルカサムの月の月末、竜也達はもうアズル海の奥深くまで入り込んでいる。
「二千? 銀狼族の一族は年寄りから赤ん坊まで全員を含めても千人しか……」
「灰熊族みたいな銀狼族以外の恩寵の部族や、多神教の隠れ信者が大勢合流しているらしい」
竜也の説明にディアが納得を示す。一方の竜也は、
「ゴリアテ級を余計に動員しておいてよかった」
と胸をなで下ろしている。すぐに動かせるだけのゴリアテ級を全隻引き連れてきたのはエレブ側に対する示威のためだが、もし千人を収容できる必要艦数しか動かしていなかったなら反乱軍の半分は残していくことになっていたのだ。
「敵はテルジエステ周辺の諸侯二万だ。まともに戦っても勝てないが、俺達の目的は戦闘じゃない。銀狼族を始めとする反乱軍の二千、彼等の回収だ。戦闘はできるだけ避けて、速やかにテルジエステに入港して二千を乗船させて逃げていく。一人でも多くを収容して無事にヌビアまで連れ帰ることが俺達の勝利だ」
竜也の確認にガイル=ラベクを始めとする全員が頷く。目的地まではあと少し、テルジエステは目前に迫っていた。
そして数日後、月がアルカサムからキスリム(第九月)に変わった頃。その日の午後、竜也はテルジエステの町をその眼で捉えていた。町のあちこちからは煙が立ち上っている。望遠鏡を使っていたガイル=ラベクが険しい眼で町を見据えた。
「どうやら今この瞬間も戦っているようだ。急がせよう」
ザイナブ艦隊の偵察船が先に入港し、安全を確認。偵察船の誘導に従ってゴリアテ級が入港しようとする。港には女子供ばかりが何百人も集まっており、竜也達に向かって懸命に手を振っていた。ディアもまた流れる涙を拭いもせずに力の限り手を振っている。
水深が充分でないためにゴリアテ級は接岸できず、竜也達は連絡船を使ってテルジエステに上陸することになった。竜也達を乗せた連絡船が岸に近付く。我慢できなくなったディアが船から飛び降り、泳いで接岸。何人もの手に陸上に引っ張り上げられ、そのまま皆と抱き合った。
竜也達の連絡船が接岸するのはそれから少しだけ後である。竜也達と共にサドマやダーラク、二人が率いるヌビア兵も上陸する。連絡船の数が足りず、兵の大半は泳いで港に上陸していた。
「ここの責任者は?」
竜也の問いに犬耳を付けた女達が口々に、
「北の城門が破られて、そこの指揮を」
「戦える者は皆が戦っています」
竜也は視線でサドマ達に命令を下し、サドマ達もまた無言で頷いた。
「北の城門に向かうぞ! 銀狼族を援護する!」
「エレブ兵を蹴散らしてやれ!」
サドマ達が率いる千の兵が城門方向へと駆け出した。それを見送り、竜也が一同に告げる。
「戦士達が時間を稼いでいる間に乗船を! まずは子供を抱える母親から、落ち着いて、急いで!」
銀狼族の女と子供達が連絡船や港にあった船に分乗し、ゴリアテ級を目指して漕ぎ出していく。避難民に対して連絡船の数が足りず、避難民の大半はまだ港に留まったままである。全員が乗船するのに七、八往復は必要そうだ、と竜也は目算した。
「ディア様、よくご無事で……」
「お前達にも苦労をかけた、すまなかった」
ディアは銀狼族の年配の婦人と抱き合うように互いの無事を喜び合っている。その婦人や周囲の女性達、それに子供達もまた犬耳を付けて尻尾を生やしていた。
「ディア様もこれを」
と女性の一人が何かの袋を持ってくる。婦人がその袋から取り出したのは犬耳と尻尾である。ディアの銀髪によく似通った、輝くような銀の毛並みの耳と尻尾だ。
「再びこれを身に付けられる日が来ようとは……」
とディアは感無量の様子である。恭しく差し出されたそれをディアは厳かな面持ちで受け取り、戴冠するかのように自ら頭部に装着する。犬耳を付けたディアが凛々しい眼差しを同胞へと向け、一同が感涙にむせんだ。
その光景を暖かく見守っていた竜也だが、「皇帝」と声をかけられる。振り返るとそこに立っていたのはベラ=ラフマだった。服は汗と泥で汚れ、弓を手に携えている。思いがけないその姿に竜也は少しの間絶句した。
「時間を稼ぐために打てるだけの手を打ったのですが……」
とベラ=ラフマは自嘲を浮かべる。竜也は頭を振って、
「あなたは充分に時間を稼いだ。俺達の到着がちょっと遅れたかもしれないが、決して間に合わなかったわけじゃない。違うか?」
「確かにその通りです」
竜也の言葉にベラ=ラフマが頷く。竜也も頷き返し、
「ラズワルドが選んだエレブ人部隊一千をあのゴリアテ級に乗せている。敵の後背を突かせたい」
「私が同行して案内します」
竜也が連絡船を一隻用意、ベラ=ラフマはそれに乗ってゴリアテ級へと向かった。
その様子を見つめていた銀狼族の者達が、
「ディア様、あの方は一体?」
「ああ、あれがヌビアの皇帝クロイだ」
銀狼族は「おおー」と一様に驚きの声を上げたが、その中には喜びの感情が多分に含まれていた。
「あれが皇帝、ディア様の良人となった方ですか!」
竜也が否定する間もなく「その通りだ」と即答するディア。銀狼族の者達は竜也を取り囲み、
「一族を助けていただき感謝の言葉もありません」
「ディア様をどうかよろしくお願いします」
竜也にすがり、土下座せんばかりに頭を下げている。
「あの、俺がディアを皇妃にしたってその話はどこから」
竜也の問いに彼女達は「白兎族の方が言われたことですが」と当たり前に答えた。ベラ=ラフマはこのように語って反乱軍の者達を鼓舞し続けた、とのこと。曰く、
「ヌビアの皇帝は銀狼族の娘を皇妃とした。一族の危機を知ったその娘が皇帝に懇願し、皇帝が軍を動かした」
「皇帝が百の軍船を引き連れてエレブに向かっている。乗っているのは『血の嵐』を始めとする、十万で百万の聖槌軍を皆殺しにした一騎当千の戦士達だ」
「銀狼族を傷付けて皇妃を悲しませたなら皇帝は怒り狂い、再び百万のエレブ人を皆殺しにするのは間違いない」
ベラ=ラフマの台詞を彼女達が口々に再現し、竜也は頭を抱えそうになった。
――後で聞いたことだが、ベラ=ラフマのこの宣伝工作は味方に対するものはあくまでもののついで。敵に対して、テルジエステの外においてこれらの流言飛語を全力で広めまくったのだが……どうやら思いも寄らないほどの効果があったらしい。
「『ヌビアの皇帝』に対するエレブ人の恐怖はどうやら私の想像を大きく越えていたようです」
とベラ=ラフマ。銀狼族に対する諸侯の追撃は消極的だったし、銀狼族でない他の恩寵の部族や多神教の隠れ信者も銀狼族を装うことで難を逃れた例が多数あるそうである。テルジエステの占領も比較的簡単だったそうだし、長い期間諸侯軍は無理にテルジエステを攻め落とそうとはしなかった。が、「今日にもやってくる、今にもやってくる」と言われていたヌビアの皇帝がいつまでたってもやってこないので次第に恐怖心が薄れ、ついには攻城戦が始まってしまったのだ。竜也達の到着がもう二日も遅れていてれば反乱軍二千の全滅は免れなかったに違いない。
連絡船が何往復かし、反乱軍の避難と乗船が進んでいる。あと一往復で非戦闘員は全員乗船できるところだがその頃には日は沈み、空は夕闇に包まれていた。
「そこの君達も早く!」
何故か皆から離れた場所にいる数名。黒い布をフードのように被って頭や顔を完全に隠しているが、どうやら若い女性のようだった。竜也が彼女達を呼び寄せようとするが、彼女達は連絡船への乗船をためらっているように見受けられた。竜也の言葉に引かれてディアがその女達に視線を向け――少しの間言葉を失っていた。
「お前達……戻ってきてくれたのか」
嗚咽を飲み込んでいるかようなディアが歩み寄る。彼女達が逃げるべきか迷っている間にすぐ側まで踏み込み、その者達を全員まとめて抱き寄せた。
「ディア様……」
その女達――声を聞く限りではディアと変わらないくらいの年齢のように思える――その少女達とディアは互いに抱き合い、涙を流した。ひとしきり泣いたディアは、
「さあ、一緒にヌビアに行こう。今度はわたしがお前達の力になる番だ」
ディアは少女達を促し、連絡船へと乗船させる。名残惜しげにディアを見つめる少女達に、
「わたしも後から行く」
と声をかけていた。竜也はそのディアの横に並んで立っている。やがてその連絡船がゴリアテ級に接舷、乗員の移動が開始された。
「……何年か前にひどい凶作になったことがあってな。村の若い娘を娼館へと売ったのだ」
竜也は驚きの目をディアへと向けた。ディアの瞳には未だ涙がたまっている。
「その金で何とかその冬は乗り切ることができた。売られた者は皆わたしと同じ歳だった、もし族長の娘でなかったらわたしも売られていただろう」
「そうか」
竜也はそれだけしか言えない。ディアが一族に身命を捧げている理由を、その一端を竜也は理解できたような気がした。
非戦闘員の乗船がようやく終わり、次に戦士が負傷者から順次連絡船へと乗船を開始している。竜也はディアと共に北の城門へと向かった。その場所では激しい戦闘が続いている。竜也はサドマを見つけ、
「他の皆も乗船の準備を」
「駄目だ、今退いたら敵が追撃してくる。この場を支え続けるしかない」
「でもそれじゃ」
だがそのとき、不意に敵の攻撃が弱まった。
「? 敵が退いていくぞ」
「ガルシア達が上手くやったようだな」
――ガルシア達エレブ人部隊用のゴリアテ級はテルジエステの西へと移動。町の外の海岸で下船したガルシア隊が諸侯軍の後方へと回り込んだ。標的は諸侯軍の補給部隊である。
ガルシア達は夜になるのを待って、暗闇の中を補給部隊目指して突撃する。食糧を荷駄ごと奪い取り、持っていけない食糧は荷駄を破壊し穀物を地面にぶちまけ、火炎瓶を使って焼き払う。城門を攻撃していた諸侯軍が慌てて引き返してくる前に風のように撤収。食糧を担いでゴリアテ級へと乗り込み、意気揚々と凱旋していった。
一方北の城門では、
「今のうちに撤収するぞ!」
後背を襲われた諸侯軍が混乱しているうちにサドマ達は城門から撤収。ゴリアテ級やザイナブの艦隊に乗り込んでいく。未明になる頃には反乱軍・ヌビア軍の全員の乗船を確認。ゴリアテ級艦隊とザイナブ艦隊はテルジエステの港から離岸した。時刻はすでに太陽が昇ろうとする時間帯だ。
そのわずかに昇った朝日に照らされる、エレブ諸侯の軍船一〇隻の姿があった。エレブ側の軍船がヌビア海軍の前に立ち塞がっている。
「ふっ、俺達とやり合うつもりか」
ガイル=ラベクは太々しく笑い、全艦に突撃を命じた。
ザイナブの艦隊が最大戦速で突撃、エレブ艦隊がそれを迎え撃つ。双方の船が搭載する大砲が火を噴き、運の悪い船に命中した。だがそれはごく一部だ。大半の船は当たりもしない砲弾をものともせずに突進し、そして船と船が激突した。ザイナブの艦隊とエレブの軍船が接舷し、エレブの軍船へとヌビア兵がなだれ込んでいく。
軍船の数だけならエレブ側が有利である。だがザイナブ艦隊に分乗して乗り込んでいたのは何百という兵で、しかもその全員が恩寵の戦士なのだ。ダーラクの雷撃が敵兵を打ち払い、サドマの外撃が敵船のマストをへし折った。元々恩寵の戦士と一般の兵ではキルレシオが一〇対一にもなると言われているのに、兵数ですらエレブ側は圧倒されているのだ。エレブ兵は完全に戦意を失い、船を捨てて海へと飛び込んでいった。
エレブ側の軍船が次々とヌビア兵に占拠され、または降伏する。敵の乗り込みを受けなかったエレブ側の軍船は味方を見捨て、艦隊を離脱して逃げ出していく。こうしてエレブ艦隊は四分五裂、日が中天に届く頃にはエレブ艦隊の壊滅により戦いが終わっていた。
キスリムの月の月末。竜也達を乗せたゴリアテ級艦隊・ザイナブ艦隊はその日に東ヌビアの港町・キュレネに到着した。
「タツヤ様!」
「タツヤ!」
「タツヤさん!」
上陸したタツヤを出迎えるのは、ファイルーズ・ミカ・カフラの三人だ。竜也は三人と抱き合い、互いの無事を喜び合った。竜也から少し遅れ、ラズワルド・サフィール、そしてディアの三人も姿を現す。
「ディアさん、その姿は……」
ディアの獣耳・尻尾にミカが目を留め、それに対しディアは誇らしげに胸を張った。
「もう誰をはばかる必要もない。銀狼族はようやく一族の誇りを取り戻したのだ」
ファイルーズ達は自分のことのように喜び、「おめでとうございます」と言祝ぐ。その中で竜也が、
「……それならもうその首輪も必要ないだろう。外したらどうだ?」
ディアは一瞬だけ考えたが、すぐに首を振った。
「いや、そんなことはない。わたしがお前のものだという事実には変わりないからな」
「な……」と言葉を詰まらせる竜也にディアが不敵な笑みで告げる。
「私を皇妃にしてくれるのだろう? エレブで散々そう宣伝してくれたじゃないか」
「いや、あれは謀略……」
と言い訳しようとして、竜也の声は小さくなっていった。ファイルーズに威圧的な笑顔を向けられたからだ。ファイルーズだけでなく、ラズワルドやミカ、カフラにサフィールまでもが竜也を睨んでいる。竜也は進退窮まり、
「――ごめん、ディアで最後にするから!」
土下座せんばかりの勢いでファイルーズ達を拝み倒した。ディアがそのうち皇妃の仲間入りをすることはファイルーズ達の想定の範囲内だったので、
「ディアナさんを最後の皇妃とする約束、太陽神に誓って守ってくださいね?」
「それはもちろんです」
竜也は直立不動でそう返答した。その竜也の右腕をディアが取り、胸の中へと抱き寄せる。そして勝ち誇ったような顔を示し、
「以前言っただろう? 狼は狙った獲物は逃さないと」
竜也はちょっと困ったような、照れくさそうな顔をした。それに対抗心を燃やしたカフラが、
「一ヶ月も離ればなれで寂しかったです」
と甘えた声を出しながら竜也の左腕を取って自分の胸に押し付ける。さらに頬を膨らませたラズワルドが竜也の背に乗り、竜也の首にしがみついた。そんな竜也達の姿に「あらあら」とファイルーズは微笑ましげな顔をし、ミカは呆れ顔。そしてサフィールはどこに抱きつくべきか迷っているような様子である。
――竜也はファイルーズ達と共にキュレネに移動していたゴリアテ級の残り六隻を含めて、人員と艦隊を再編成。一一隻のゴリアテ級を引き連れてサフィナ=クロイへの帰路に着く。竜也達がサフィナ=クロイに到着する頃にはティベツの月(第一〇月)が終わろうとしていてた。