……まあまあ、遠方からはるばるようこそ。今日は天気が悪いですねぇ。さ、入ってください。今お茶を用意します。……いえいえ、遠慮なさらずに。
……ああ、それはよかったです。こんな年齢になりますと自分が飲むだけのお茶を入れるのも億劫になります。今日のお茶はここしばらくでは会心の出来でした。
……今日は天気が悪いですねぇ。でも、昔を思い出してしんみりするにはちょうどいいかも知れませんね。それで、どのようなお話をお聞きになりたいのでしょうか?
……まあまあ、お嬢様と皇帝陛下のことを。……わたしにとってのお嬢様とは言うまでもなく第二皇妃、ラズワルド様のことですよ。わたしより四歳下なだけのお婆ちゃんのはずなのに、あの方はいつまで経ってもお美しいです。あの方はわたしにとってはいつまでも「お嬢様」なのです。
……確かに、お嬢様の本当のことを知る者はとても少なくなりました。お嬢様自身は全く気にしていないとは言え、あの方がこの先もずっと誤解され、怖れられたままなのはわたしも心が痛みます。
いいでしょう。私が知る限りのあの方のことをお話しいたしましょう。
「黄金の帝国」・番外篇
「とある白兎族女官の回想」
白兎族の隠れ里はキルタ(元の世界のコンスタンティーヌ)の南の山奥にあります。小さな村で、村人全てが白兎族なので全員が顔見知りで家族のようなものです。わたしもそこの生まれですが、親の仕事の事情で里の外で暮らしており、里には年に数回戻るでした。このため村にいた頃のお嬢様とはほとんど会ったことがありません。ですが、お嬢様が村でどんな扱いを受けていたかは覚えがあります。
お嬢様は三歳までは母親と二人暮らしでしたが、亡くなってしまった後は一人となりました。村の誰も引き取ろうとせず、お嬢様は母親が亡くなった後もその家に一人だけで暮らしていたのです。
族長のホズン様が哀れに思い自分の家に住まわせようとしたのですが、家族の者が反対してできなかったそうです。ホズン様が毎日のようにお嬢様の家に泊まり込んで面倒を見ておりました。
六歳の頃、お嬢様はバール人商会に売られましたが、お嬢様がいなくなったときの村の様子にも覚えがあります。皆、息苦しさがなくなりすっきりした顔をしていました。「目障りな者がいなくなり、清々した」という感じではありません。「目の前から猛獣が連れ去られ、ようやく人心地ついた」。皆、そんな顔をしておりました。
その後もお嬢様のことを気にかけていたのはホズン様一人くらいで、村の者は一人残らずお嬢様のことなど忘れてしまった、まるで最初からいなかったかのように振る舞っておりました。……ですが、子供心にもその様子は非常に不自然に思えたものです。
「そう言えば、あの子は今どうしているのだろうか」
わたしがそれを口にすると、村の者はわたしにいろんな顔を、いろんな表情を見せました。わたしの問いを聞き流す者。白けたような顔をする者。気まずげな顔をする者。「何故そんなことを言うのか」と怒る者……。
多分、村の者には後ろめたさがあったのだろうと思います。まるでのたれ死にを望むかのように幼いお嬢様を放置し続け、挙げ句にバール人に売り飛ばした。お嬢様にひどいことをしてきたという罪悪感の他に、お嬢様に復讐されるのではないかという恐怖もあったのではないでしょうか。普通に考えればお嬢様にそんな力があるはずもないのですが、そんな理屈を超えて「何があるか判らない」という恐怖を与える――お嬢様にはごく幼いうちからそれだけの存在感があったのだと思います。
わたしが成長したお嬢様と再会したのは海暦三〇一六年の初めの頃です。
その前年には聖槌軍がヘラクレス地峡を突破してヌビアに侵攻しています。戦争の影響は隠れ里にも及んでおりました。族長の補佐をしていたベラ=ラフマ様は早くから皇帝の命を受け、村の若者をエレブに送り込んで情報収集に当たらせておりました。白兎族は金獅子族や赤虎族とは全く違う形でしたが戦いの最前線に立っていたのです。
そんな中、わたしや村の若い娘がベラ=ラフマ様の元に集められました。人数は十五人です。
「村の中で、恩寵が強く、若く美しく賢い娘に集まってもらった」
ベラ=ラフマ様はそんなことを言いました。あの無愛想なベラ=ラフマ様でも、そんな風に言っていただれけば結構嬉しかったです。
「お前達には独裁官クロイの元で女官をしてもらう。お前達の恩寵を最大限使い、独裁官を守るのがその役目だ」
最初は戸惑いましたが、次いで嬉しさがこみ上げました。その当時わたし達は、
「独裁官というのは王様みたいに偉い人だ」
と大ざっぱに理解していました。戦火が迫って窮乏する村を出、都会での王様の元で華やかな女官生活! それを喜ばない村娘がいるでしょうか? ですが、
「なお、お前達は全員ラズワルドの部下となりその命令を受けることとなる」
その言葉にわたし以外の全員が天国から地の底に突き落とされたような顔をしていました。
「自分達はお嬢様に恨まれている。どんな仕返しをされるか」
と皆怖れていたのです。ですが、女官生活の魅力には抗えませんでした。この命令を拒否する者は一人もおらず、わたし達は揃ってお嬢様の元に向かったのです。
……お嬢様と初めてお会いした時のことは今でもはっきりと思い出せます。本当は再会なのですが、売られる前はほとんど顔を合わせることがなかったのでこのときが初顔合わせのようなものです。わたし達はサフィナ=クロイのゲフェンの丘でお嬢様のお目にかかりました。
「こんなに美しく、可愛らしい娘がこの世にいるのか」
と驚いたものです。わたし達はお嬢様の前に整列していましたが、棒立ちになったわたしの他は、皆お嬢様の目に留まらないようこそこそしていたようです。お嬢様はそんなわたし達をつまらなそうに一瞥しました。
――お嬢様がどういう感情を持っているか、非常に判りやすかったです。敵意や悪意、恨みといった感情は感じられませんでした。「役に立つか立たないか」、ただそれだけをわたし達に求めているようでした。他の娘達もそれを読み取り、落ち着くようになったのです。
「顔見せをするから堂々としていて。うろたえたりしないように」
わたし達はお嬢様に引き連れられ、ファイルーズ様やその女官達との対面に向かいました。
ケムトという本物の王様の元で女官をしていたあの方達からすれば、わたし達白兎族なんか田舎くさい村娘でしかない……わたしはそんな風に思ってかなり気後れしていたのですが、そんなわたしの手をお嬢様の手が握りました。
その途端、遠くにいる、ようやく姿が見えてきたところのケムトの女官達の心がわたしの中に流れ込んできたのです。あの方達はわたし達のことを「不気味な恩寵を持つ、薄気味悪い連中」と思っていましたが、田舎娘という軽侮は感じられませんでした。
(立っているだけでいい、弱みを見せずに堂々としていて。他の皆にも伝えて)
そしてお嬢様の声が心の中に流れ込んでくるのです。――そのときのわたしの衝撃を、一体どうすれば伝えられるのでしょう? わたしは一族の中でもかなり強い恩寵を持っておりました。わたしより強い恩寵を持つ者は、お嬢様やホズン様を含めても一〇人に届きません。そのわたしでも、あれほど離れた場所の他者の心をあれほどはっきりと感じ取るなんて不可能です。しかもお嬢様は相手の心を「感じ取っていた」んじゃない、「読み取っていた」んです。
わたしや一族の他の者がしているのは、相手の感情、快不快、喜怒哀楽を色や温度のように感じ取ることです。「何を考えているか」までは読み取れず、それは感情の動きから推測するしかないのです。それでも修行を積めば高い精度で相手の思考を推測できるようになりますが……お嬢様は修行をするまでもなく、相手の思考をまるで耳で聞くかのように読み取っていくのです。
挙げ句に手をつなぐだけで心を伝えるなんて……そんな恩寵がこの世にあること自体をあのとき初めて知りました。お嬢様の恩寵はわたし達のそれとは全く別の、他の何かだとしか考えられません。言葉は悪いですが確かに「悪魔」「化け物」としか言いようがありませんでした。
そしてわたし達はファイルーズ様とその女官達と対面しました。お嬢様がその恩寵を使ってファイルーズ様の女官の落ち度を暴き出し、わたし達は皇帝陛下が――そのときは独裁官でしたが――当時公邸に使っていた船に居座ることが認められるのです。
翌日、わたし達は皇帝陛下とお会いします。皇帝陛下はお嬢様を本当に可愛がっておいでで、お嬢様も陛下の前では普通の子供のようでした。皇帝陛下の裁定で白兎族の女官は減らされそうになりますが、結局公邸には交代で泊まり込むことにして、わたし達の中から村に戻される者がないようにしたのです。
……わたしがお嬢様に対して変な遠慮を持っていなかったこと、恩寵の強さと物怖じしない性格が買われ、一番年下のわたしが女官の責任者みたいな立場に任命されました。わたしは張り切ってお嬢様のために仕えます。ファイルーズ様の女官とやり合ったときにはヤラハ様と共に先頭を切って敵陣に斬り込んだものです。わたし達にとって「アブの月の戦い」と言えば、二回目のナハル川渡河作戦の迎撃戦のことではなく、あの夜の船での馬鹿騒ぎのことです。
……お嬢様は早くからベラ=ラフマ様のお仕事を手伝っておりました。ベラ=ラフマ様が主に聖槌軍への諜報を担っていたのに対し、お嬢様は総司令部内に監視の目を張り巡らせておりました。ですが戦争の末期にはお嬢様は勝利に欠かせない役割を果たすことになります。アンリ=ボケの心を読み取り、タンクレードの心を読み取り、聖槌軍の内情を余さず暴き出す。そんなことが可能なのはお嬢様一人だけでしょう。
わたしもお嬢様の右腕となり、そのお仕事に加わるようになります。とは言っても最初のうちはただの雑用係でしたが、そのうちにお仕事も増えていくのです。お嬢様の成長と共にお仕事の内容もより複雑に、高度になっていきます。単に圧倒的な恩寵を使って心を読み取れば済む話ではなく、部下をどう動かすか、誰に何を探らせるか、矛盾する複数の情報からどう真実を見出すか、そんなことを覚える必要が出てきます。
お嬢様とわたしは四苦八苦しながら必死にそれらを覚え、先々には引退したベラ=ラフマ様から仕事と組織の全てを受け継ぐのです。
……話が少し飛びましたね。お仕事のお話ではなく普段のことをお話ししまょうか。
皇帝陛下にはお嬢様の他に五人の皇妃の方々がおられましたが、お嬢様はその皆様と仲良くしておられました。お嬢様が他の皇妃の方々を邪魔に思い、密かに抹殺しようとするような企てはあり得ません。下衆の勘繰りというものです。
……確かにお嬢様には情の薄いところがあり、ファイルーズ様や他の皇妃の方々に何かあったとしても大して悲しんだりはしなかったでしょう。ですが、皇帝陛下を悲しませることだけは絶対にするわけがありません。皇帝陛下は皇妃の方々に甘いように見えて――実際かなり甘かったのですが――決して譲らない一線を持っておられました。お嬢様が他の皇妃を傷付ける、ましてや害する等という行為を、皇帝陛下が許すわけがありません。陛下のそんなところを誰よりも理解していたのはお嬢様なのです。そのお嬢様が他の皇妃を害そうとするなど、どうしてあり得ましょうか?
……確かに皇妃の中でお嬢様だけが陛下の御子を得ませんでした。ですがそれは恩寵を失うことを怖れたお嬢様がそう選択されたのです。お嬢様は子供を介して皇帝陛下とつながりを保つことより、恩寵で直接心をつながることを優先させたのです。
わたしも何度かお嬢様に訊ねたことがあります、「陛下の御子は作らないのか?」と。
「――タツヤはわたしに子供がいようといまいと気にしない」
それがお嬢様の答えでした。……皇帝陛下も変わったお方だ、としか言いようがありません。
「帝位を受け継ぐ者が誰にもできなかったとしても、市民に迷惑がかからなければそれでいい」
そう言っているのを私も聞いたことがあります。あの方は「クロイ朝が一代で断絶しても別に構わない」と本気で言っていたのです。お嬢様もそんな皇帝陛下にかなり感化されていて、ご自分の異常なまでに恵まれた恩寵を次へと受け継がせることを最初から考えてもいなかったようです。
逆に言えば、皇帝陛下がもし跡継ぎを最重視する方でしたらお嬢様は何人でも子供を産もうとしたでしょう。また、ファイルーズ様の御子を密かに排除しようとすらしていたかもしれません。もしそうなっていたら、クロイ朝の後宮はどれだけ陰惨なことになっていたでしょう……。お嬢様とファイルーズ様が軍を率いて争い、悲惨な内乱が起こっていたかもしれません。
そう言えば、こんなことがありました。あれは戦争が終わって十年くらい経った頃でしょうか。思えばあの頃が一番充実していたように思います。
皇帝陛下は皇妃の方々に一人ずつ男子を産ませており、その御子達が皆八歳くらい。いたずら盛りで公邸はいつも賑やかでした。ファイルーズ様が女の御子を産み、その子が二歳くらいでしたか。皇帝陛下はその御子、ルール様を特に可愛がっておいででした。男親にとって娘というのは特に可愛いようです。
皇帝陛下の膝の上がルール様の指定席でしたが、お嬢様はそんなルール様をいつもきつい目で睨んでおりました。身近な大人にあれだけ敵意を剥き出しにされたら普通の子供なら怖がるはずですが……さすが「あの」皇帝陛下と「あの」ファイルーズ様の娘と言うべきでしょうか。ルール様はお嬢様の敵意をいつも鼻で笑っていなしておりました。
ルール様が何かで皇帝陛下のお膝から離れ、少しして戻ってきた時にはその場所にはお嬢様が座っておりました。お嬢様はいつもルール様にされているように、優越の笑みを見せながら陛下に抱きつくのです。ルール様は笑い顔のままお嬢様と対峙し、そのまま両者は長い時間睨み合っておりました。皇帝陛下は、
「ルールの後ろに太陽神ラーが、ラズワルドの後ろにでっかい白い兎が立っていたように見えた」
などと語っておられましたが……。わたしとしては、二十歳をとうに過ぎたお嬢様が二歳の幼子と本気で張り合う姿は見ていてかなり恥ずかしかったです。
お嬢様にとっては二歳の幼子であろうと陛下の寵愛を奪い合う競争相手。そしてそれは、たとえ自分の子供であろうと変わりはなかったことでしょう。それがお嬢様が御子を作らなかったもう一つの理由だと思います。
あの頃のお嬢様は二〇代の半ばでしたが、見た目はまだ十代にしか見えませんでした。あの頃のお嬢様の美しさときたらそれはもう……! この世の者とは思えないくらいです。宮廷画家のアーテファさんがお嬢様の肖像画を描こうとして、
「自分の才能のなさ加減に絶望した」
とそのまま引退してしまったという噂はご承知でしょう? あれは本当のことです。ですのであの当時のお嬢様の肖像画はどこにも残っておらず、そもそも描かれてもいないのです。アーテファさんがもう少し頑張って描いてくれればよかったのですが……。
帝国府の若手官僚達も、たまに見かけるお嬢様の姿にいつもため息をついておりました。もっとも、同じくらい怖れられていましたので遠くから眺めるのが精一杯だったようですが。他にお嬢様の周囲におられた身近な男と言えば、皇子の皆様です。長男のリュータロー様が九歳、五男のアキラ様が七歳くらいですか。皇子の皆様もお嬢様に憧れておりました。五人ともおそらく初恋の相手はお嬢様だったはずです。憧れと同じくらい怖がられていたのは官僚達と同じですが。
それからもう何年か経って、ルール様が六歳くらいになられた頃でしょうか。クロイ朝はリュータロー様が継ぎ、ルール様には旧ケムト貴族の中から最適の者を婿にあてがった上でセルケト朝を継がせることは、お二人が生まれる前から決められていたことでした。ですが皇帝陛下は愚痴を言うようになったのです。
「ルールを嫁にやるなんて、しかも片道一ヶ月もかかるような遠くに……」
しまいには「ルールは嫁にやらん、ずっとこの町にいればいい」と半ば冗談で言うようになったのです。それを聞いたお嬢様は、
「あの小娘にセルケト朝を継がせる必要があるのは、タツヤにも理屈では充分判っている。ただ感情が納得していないだけ。だから竜也が納得してあの小娘をメン=ネフェルに送り出せるようにすればいい」
ルール様がセルケト朝を継ぐためにメン=ネフェルに行けばお嬢様が皇帝陛下を独占できるわけで、そのための方法を考えたのです。
「それで、どうやって納得していただくのですか?」
「代わりをあてがえばいい」
そう言ってお嬢様は、六歳のルール様と同じ格好をして皇帝陛下の元に向かわれ……しばらくして落ち込んだ様子で戻ってきました。
「……本気でドン引きされた」
それはそうでしょう、と言わざるを得ません。
「髪が短いからツインテールにはちょっと無理があった」
いえ、そういう問題じゃないと思います。
しばらく一人で反省会を開いていたお嬢様はやがて、
「……この方向は間違っていたかもしれない」
もっと早くそれに気付いてください。……まあ、それを理解してくれたのは幸いでしたが。
その後、お嬢様はケムトに張り巡らせた諜報網を使って、ルール様の婿候補となる方々の情報収集に専念します。そしてその中から皇帝陛下が一番納得しそうな候補をサフィナ=クロイに呼び寄せ、陛下の下に置いて仕事をさせました。それによって皇帝陛下もその方・アイ様をルール様の婿に迎えることに納得するようになったのです。
アイ様とルール様が非常に仲の良い夫婦となったのはご承知でしょう? それはお嬢様が目障りなルール様を排除しようとしたことの結果なのです。ルール様が陛下の元から離れても幸福になれる、それを実現することがルール様を排除する最善の方法だったのですから。
それから一、二年経った頃でしたか。皇帝陛下が皇子の皆様を連れて西ヌビアに視察に向かわれたことがありました。皇妃の皆様や八歳の頃のルール様、わたし達女官はサフィナ=クロイで留守番です。半月後には皇帝陛下が戻ってこられると連絡を受けたわたし達はお出迎えの準備を始めたのですが、ルール様が突然言われたのです。
「とびっきりのご馳走を作って、お部屋をお飾りして、お父様をお迎えする」
と。ルール様はファイルーズ様の女官に料理を習って手ずから皇帝陛下をお迎えする準備を始めようとしていました。
……これにお嬢様が余計な対抗心を燃やしまして。
「わたしも料理を作ってタツヤを歓待する」
と言われたのです。戦争中は皇帝陛下のために料理を作られることもたまにあったようですが、自分で料理をされるのは多分十数年ぶりだったことでしょう。お嬢様は勘を取り戻すために料理の練習に専念していました。
……まあ、わたしも余計なことをしたと言えなくもないのですが。いつかのようにファイルーズ様のところの女官がお嬢様の邪魔をしないよう女官の人数を増やして警備を強化することにしたのです。銀狼族からは何人もの女戦士に来ていただきました。ですが、ファイルーズ様のところのハディージャさんも同じようなことを考えていたようでして。公邸は武装した女戦士でいっぱいになりました。彼女達は二派に別れて睨み合います。
公邸がそんな不穏な状態になっていることはすぐに軍に知られました。西ヌビア方面軍がミカ様の助力のために、中央ヌビア艦隊がカフラマーン様の助力のために集まってきます。いつの間にかサフィナ=クロイで帝国軍が二派に分裂して対峙している状態となってしまったのです。
この有様を知ったお嬢様は顔色を悪くし、
「まずい、タツヤに怒られる」
と事態の収拾に動きました。お嬢様は白兎族の女官の一人と、その家族を拘束したのです。
「こんなこともあろうかと思って泳がせておいた」
その女官自身には落ち度はなかったのですが、その家族の弱みを握っている旧ケムト貴族がおり、いざという時には脅迫により皇妃の誰かを毒殺するつもりでいたようです。お嬢様はその毒殺計画が実行直前だったかのように装いました。実際毒はすでに用意されていたのですから決してでっち上げではありません。
白兎族・旧ケムト、それぞれに落ち度があったことにしてファイルーズ様とは痛み分けとしました。「陰謀は解決した」と内外に示し、女戦士達も軍も元の配置に戻します。このようにして陛下が戻ってくる前に何とか事態を収拾させたのです。
ただ、お嬢様やわたし達が事態の収拾に手一杯だったため皇帝陛下の歓待は何も用意できませんでした。ルール様が陛下に手料理を食べていただき、褒めていただくところを、お嬢様は歯噛みしながら見つめるしかなかったのです。……その後お嬢様は旧ケムト貴族に対して追求と粛清を実行。それが苛烈を極めていたのはかなりの部分八つ当たりが含まれていたかもしれません。
……ベラ=ラフマ様から引き継いだ諜報組織を維持し、発展させることにお嬢様とわたしは心を砕きました。ルール様のメン=ネフェル輿入れの際にはわたし達の手の者を大勢メン=ネフェルの王宮送り込んだのですが……いつの間にか、ケムトに張り巡られた組織を統轄するのはルール様の役目となっていたのです。気が付いたらそうなっていた、としか言いようがありません。実際ルール様の人使いの上手さはわたし達には真似できません。恩寵に頼りがちなわたし達より、ルール様の方がこの分野ではずっと才能があったようです。
本当に、もしルール様が男で帝位を継がれていたらどんなことになっていたか、想像するのも恐ろしいくらいです。
お嬢様はファイルーズ様やルール様をお嫌いだったのは周知の事実ですが、だからと言ってあの方々の力量を認めなかったわけではありません。むしろ誰よりも高く評価していたと言えるでしょう。ファイルーズ様から見たお嬢様も似たようなものだったかと思います。常人には理解しがたい、あるいは友情に近い思いがお嬢様とファイルーズ様達の間にはあったのかも知れません。
その関係は今でも続いています。そしていつまでも続くことでしょう。こうしていると容易に思い浮かべられます。いつもの無愛想なお嬢様と、いつもの微笑み顔のファイルーズ様が向かい合ってお茶を飲んでいる姿が――。