黒井竜也、一七歳。二ヶ月前までは××県の高校二年生。現在は、奴隷である。
「黄金の帝国」・漂着篇
第一話「奴隷から始めよう」
太陽は黄金のように明るい光を放ち、雲は新雪のように白く輝いている。海はサファイアのように碧く燦めいていた。産業活動に一切汚染されていない美しい海と自然、それに夏の日差し。竜也はそれを全く他人事のように虚ろな表情で眺めていた――ガレー船の船体と櫂の間のわずかな隙間から。
板子一枚下は地獄、と昔の船乗りはよく言ったそうだが、竜也の乗るガレー船は板の上こそが本当の地獄である。天井が低く狭苦しい船倉に数十人の男が押し込められている。全員身にまとっているのはボロボロの腰布一枚だ。足を鎖でつながれ、逃げることもできない。眠るときも座ったままで、大小便は垂れ流し。この目も開けられないような悪臭の中で食事もせねばならず、一日一回出される食い物はカビまみれのパン切れや半ば腐った干し肉だ。
竜也の同僚等、つまり櫂の漕ぎ手だが、彼等のほとんどは白人で、ごく一部に中東系の白人や黒人の姿が見受けられた。彼等がしゃべっているのは竜也が今まで聞いたことのない言語だった。竜也は何度か英語による意志の疎通を試みたのだが、全くの徒労で終わっていた。それでも二ヶ月も彼等とともに櫂を漕いでいれば、必要最低限の単語は覚えるようになる。
「פדאל מהר!」
赤ら顔の鬼のような船員が船倉に降りてきて、「もっと早く漕げ」と怒鳴っている。
【ころすころすころすころす……】
竜也は小さく念仏を唱えるように悪態をつきながら、櫂を持つ手に力を込めた。
(くそっ……! 俺の中に眠る『黒き竜の血』が目覚めさえすれば! こんな船一撃で沈めて、あいつは八つ裂きにして、生まれてきてごめんなさいと言わせてやって……今目覚めないでいつ目覚めるんだよっ!)
竜也は「黒き竜の血」を目覚めさせようと懸命に精神を集中するが、それが目覚める気配の欠片すら感じられなかった――まあ、「竜の血」などただの脳内設定なのだから当然だが。
竜也が奴隷の身に落とされ、ガレー船の漕ぎ手となってすでに二ヶ月が経過している。
二ヶ月前まで竜也は普通の高校二年生だった(その性格はともかくとして)。日本に百万人はいそうな平々凡々な高校生に過ぎなかったが(その内面はともかくとして)、それでも奴隷扱いされるような理由は全くなかったのだ(……多分)。
二ヶ月前の夏休みのその日、竜也はクラスメイトと一緒に海水浴を楽しんでいた。
お調子者の悪友はナンパを試みてことごとく失敗し、別の友人はクラスの女子生徒と良い雰囲気を作っている。竜也は一人浮き輪に乗って波に揺られながら、
【……ここで溺れて生命の危機に陥ったら、俺の中に眠っているかもしんない『黒き竜の血』が目覚めたりしないかなー】
等と、たわけた妄想に浸っていた。もちろん竜也も「黒き竜の血」が自分の空想の産物でしかないことは百も承知だ。実際竜也はその空想を外部に示したり、他者に明かしたりしたことは一度たりとてない。両親や級友からの竜也の評価は「物静かで思慮深い読書少年」というものだった。
だが竜也は、こうして波に揺られつつのんびり哲学でも思索しているように見えながら、その実真剣に考えていたのは「死なない程度の溺れ方」だったりする。
そうやって、一七歳の夏休みという燦めくばかりの青春の一時をどぶに捨てるみたいな過ごし方をしていた竜也だが、浮き輪が潮に流されて思ったよりも沖合に出てしまったことに気が付いた。竜也は慌てて浜に戻ろうとする。
そのとき何が起こったのか、竜也には今でもよく判らない。最初は不意に竜巻が現れ、それに巻き込まれたのかと思っていた。急に周囲が暗くなったかと思うと吸い上げられるように身体が宙に浮いて、巨大なミキサーにかき回されたかのようにもみくちゃにされたのだ。散々振り回された挙げ句に渦からはじき飛ばされ、長々と宙を飛んで、再び海に飛び込んだ。何が何だか訳が判らないまま這うようにしてどうにか海岸に上がってみると、そこは竜也の知る場所ではなくなっていたのである。
【……何? ここどこ?】
竜也は唖然として周囲を見回す。先ほどまでは砂浜にいたはずなのに、上陸した場所は見たこともない港になっていた。粗末な石造りの桟橋があり、多くの船が並んでいる。船は帆船やガレー船、渡し船のようなボートばかりで、エンジンの付いた船が一隻も見あたらない。道路は舗装されていない砂利道で、行き交う車は馬車か荷車ばかりで自動車は一台も見つけられない。周囲の建物は粗末な木造の平屋が多く、一部に石造りの建物が混じっている。竜也の姿を見て不思議そうに騒いでいるのは白人ばかりで、日本人は一人もいない。
【あの海の近くにこんなところあったっけ? タイムスリップでもしたって言うのか? そんな設定考えたことないぞ】
竜也が状況を理解できずに呆然としている間に、お城の衛士のような姿の官憲がやってきて竜也を拘束。特に抵抗せずに捕まった竜也は簡単な尋問の後(互いに言葉が全く通じないことが確認されただけで尋問は終了した)牢屋にぶち込まれた。そして次の日にはガレー船に乗せられ、以降櫂を漕ぐだけの日々が続いている。
ガレー船に乗せられる前に唯一身に付けていてた海水パンツを取り上げられそうになり、竜也は抵抗した。が、船員の一人に棍棒で歯が折れそうなほど殴られ、皮膚が裂けるほど鞭打たれて抵抗をやめた。現実を受け入れた。
自尊心とかヒューマニズムとかいう概念は綺麗な箱にしまって棚の上に片付けて、竜也の身体はただ生き長らえることだけを目的とした機械と化した。身体が現実を認めて苦痛に呻吟し、汚辱にまみれて櫂を漕ぐだけの日々を送り。その一方精神は身体から切り離され、身体の様子を全くの他人事として、俯瞰するように見つめている。
要するに現実逃避の一種なのだが、そうでもしなければ彼の精神は三日と持たなかっただろう。そして精神につられて身体の方もとっくの昔に死んでしまっていただろう。――ただ、現実から切り離された精神は中二病が重篤にまで進行しているのだが。
だが、精神的にはともかく身体の方は物理的な限界を迎えつつあった。必要最低限のカロリーも満足に補給できないまま劣悪を極めた環境で過酷な労働を強いられる状態が、すでに二ヶ月も続いている。竜也の隣に座っていた男が櫂を動かせなくなり、船員に引きずり出されて海に投げ捨てられたのは昨日の話である。竜也が同じ末路をたどるのも時間の問題――具体的には、早ければ残りあと数日の話だった。
【とにかく、早くここから逃げ出さないと】
妄想で現実に復讐して多少なりとも気晴らしをした竜也は、今は過酷な現実を見据えた思考を進めていた。足をつなぐ鎖の目の弱そうな場所を選び、垂れ流される小便をなすりつけ、櫂を漕ぐのに合わせて床に擦りつけ続けてきた。二ヶ月間のその地道な努力が実を結び、鎖はちょっと力を入れればすぐに千切れそうである。
後は逃げるタイミングだけなんだが、と竜也は船体の隙間から外を見、息をとめた。
(陸地――!)
鬼のような船員がまた船倉に降りてきて、焦った様子でさらに怒鳴る。
「דרום ליד !בשורה משוטים מהר!」
細かいことは判らないが大体のニュアンスは判った。「敵国の近くまで風で流されてしまった、もっと早く櫂を漕げ」というところだ。
竜也達のガレー船は、東の中心地から西の国境沿いの町に食糧や物資を運ぶ仕事をしているようで、今は国境沿いから中心地への帰り道である。急いで中心地に戻るために夜も帆を張って航行していたのだが、方向を間違えたようで敵国のすぐ近くまで流されてきてしまったらしい。
(今しかない)
竜也は脱走を決意した。竜也達にとっては鬼にも等しい看守のような船員が、姿も見せない「敵」に怯えている。船員だけでなく、竜也の同僚の多くも同じように「敵」の影に怯えていた。皆いつになく協力的に櫂を漕いでいる。
(今しかない。『敵』のところへと脱走する奴がいるなんて、誰も考えてない)
竜也にとっては彼等が何をそんなに怯えているのか全然理解できなかった。あるいはそれはただの無知の産物なのかもしれない。だが「敵」がどれほど凶悪だろうと、逃げ込んだ先でまた奴隷にさせられようと、この糞そのものの船倉でこのまま息絶えるよりは何倍もいい。
竜也は櫂から手を離し、両足を持ち上げて鎖を櫂に引っかけた。そして両手両足の全ての力を、全体重を鎖へと集中させる。鉄鎖の砕ける澄み切った音が船倉に響いた。
船員も含めた一同が唖然としている間に竜也は走り出す。船員が慌てて竜也を捕まえようとするが、竜也は腰に巻いていたボロ布を使って船員の視界を塞いだ。船員の腕が空を切る。船員の横をすり抜けた竜也は足を振り上げ、踵を船員の側頭へと叩き込んだ。船員は崩れるように両手両膝を床につく。
たった数秒の行動で、竜也は体力の九九パーセントを使い果たしたかのようだった。船員が頭を押さえてうめいている間に、竜也は梯子を上がり甲板へと身を乗り出す。他の船員が事態を把握できないうちに、竜也はそのまま転がるように海へと飛び込んだ。数拍の間を置き、竜也は海面へと顔を出す。竜也の身体はあっという間に潮に流され、ガレー船から遠ざかっていく。ガレー船の甲板では船員が竜也を指さし、何やら騒いでいた。
【あははははは!】
この二ヶ月間のあらゆる汚辱や屈辱が、冷たい海水に洗い流されていくかのようだった。竜也は一七年間の中で最大級の歓喜を爆発させた。残された体力の全てを笑いの衝動につぎ込んでいく。
【あはははははははは! ざまーみやがれ! 思い知ったかー!】
潮に流されて見る見る陸地が近付いていく中、完全に体力を使い果たした竜也は急速に睡魔に捕らわれつつあった。眠るにしても上陸してからにしたかったのだが、到底それまで保ちそうにない。
【あ、まずい】
あるいはこのまま溺れ死ぬかもしれない、そう思いながらも、竜也はそのまま睡魔に身をゆだねる他なかった。竜也の意識は滑り落ちるように暗くなっていった。
竜也は小さな漁村に漂着し、そこの村民に拾われた。
スープを飲ませてもらい、餓死寸前の身体に栄養を補給。井戸端で何度も身体を洗って二ヶ月分の垢と汚れを削り落とし、粗末ながらも衣服をもらってようやく人心地ついた。貧しいながらも人情に厚い村人達の対応に、竜也は涙を流して感謝した。竜也は数日の間はゆっくり休み、体力の回復に努める。その後、身振り手振りで何とか意思の疎通を試み、薪割りや薪拾い、田畑の耕作等の雑用をするようになった。
人間らしい生活を送るうちに、二一世紀の現代人らしい思考も回復するようになる。
【今はいつで、ここはどこなんだ?】
竜也はガレー船の漕ぎ手をしていたときに火縄銃らしき銃器を運んだことがある。それに教会の尖塔と思しき建物を見たこともあったから、ここは中世のヨーロッパなのだろうと漫然と考えていた。陸地が北にあり、南が海。温暖な気候から考えて、場所は地中海だと思っていた。
【そうなると、陸地が南で北に海のこの場所は北アフリカ、ってことになるんだけど……】
実際、漁村の住民は黒人系に属する人々だったし、住民の衣服や竜也がもらった衣服もヨーロッパのそれとはちょっと違うエキゾチックな物である。だが、中世の北アフリカであれば絶対にあるべきものがここには存在していない。
【これがこの村の宗教施設……なのかな】
竜也は自信なげに首を傾げた。薪拾いの道中、竜也が立っている前には石造りの小さな建物――と言うよりは祠がある。石造りではあるが、雰囲気には日本の神社を想起させる。大きさは二メートル四方ほど、窓はなく正面に両開きの扉があるだけだ。扉の上部には、真ん丸が両側に翼を広げている紋章が彫り込まれている。
その祠の前を通りかかったある村人はその祠へと会釈するように軽く頭を下げ、別の村人――肌も露わな若い女性は目にも留めない様子で通り過ぎた。乳児を抱えた老婆は長々と祈りを捧げ、その後同じように集まってきた村人達と世間話に興じている。
彼等の宗教が何なのかは竜也にはよく判らないが、原始的なアニミズム、またはそこから発達したもののように見受けられた。少なくとも村民がイスラム教徒でないことだけは間違いない。
竜也の頬に大粒の雨が当たる。竜也は空を見上げた。
【――夕立か】
竜也はその祠で雨宿りをすることにした。雨はただの通り雨のようで、勢いよく降ってすぐにやんだ。竜也の周囲には大地を埋め尽くすように草木が生い茂っていて、雨粒に濡れた緑の葉がエメラルドのようにきらきらと輝いている。
【暑さにしたって日本の夏とそれほど変わらないし、砂漠どころか砂なんて海岸に行かないと見られない。ここは本当に北アフリカか?】
村の様子は竜也の知識の中にあった北アフリカの姿とはあまりにかけ離れていた。だが竜也とて実際の北アフリカに行った経験はないし、地理の専門家でもない。
【単に俺が知らなかっただけで、北アフリカにもこんな場所があったってことか? それともここは地中海じゃなくて、インド洋とか大西洋とか? でも、北側の町はただの植民都市じゃなくてヨーロッパの町そのものとしか思えなかったし】
決定的に情報が足りない中で、悩んでいても結論は出ない。そのうちに思考は明後日の方向へと流れていく。
【もしかしたら過去の地球じゃなくて平行世界、異世界かも】
よくよく思い返してみれば、北側の陸地で見かけた教会の尖塔の上に立っていたのは、十字ではなくT字だったような気がする。見かけたのがガレー船の中から陸地を見たときで、遠かったので断言はできないが。
【今ならあの距離でも見えると思うんだけどな。すごいね人体】
日本にいた頃は近視のためずっとコンタクトレンズを使っていたのだが、気が付いたら視力が矯正されており裸眼でも不自由のない状態になっていたのだ。ガレー船ではずっと海を、遠くを見ていたのが功を奏したのだろう。
だが、満ち足りれば次がほしくなるのが人間というもので、
【異世界トリップならデフォルトで言葉が通じるようにしてくれればいいのに。あと、この身に宿っているはずのチート能力もさっさと目覚めてくれ。具体的には『黒き竜の血』】
竜也は薪拾いをしながら愚にも付かない妄想を弄んだ。
【現代知識を生かして金儲けや内政をするにしても、とにかく言葉が通じないことにはどうしようもない!】
経過はともかく、出てきた結論はそれほど間違っていなかった。竜也は積極的に村民に話しかけて言葉を覚えることに注力した。
そんな調子で半月ほど経過し、村の生活にも大分慣れてきた頃。二人の男が竜也の前に現れた。
「האם הילד הזה?(この子に間違いないんですか?)」
「נמלט האיש הזה מ שלנו(ああ、俺達のところから逃げたのはこいつだ)」
竜也の肌が粟立った。村民の一人に案内されて竜也の前にやってきた男達は、嫌な雰囲気を漂わせていたのだ。竜也の身体はその感覚を覚えていた。暴力で他者を従わせること、踏みにじることに疑問を抱かず、むしろ悦びを抱く者――ガレー船の船員等と全く同じ気配である。
【――っ】
竜也はその場から遁走しようとする。だが男達の方が早かった。竜也の逃げようとする先に回り込んだ男は、剣を竜也へと突きつける。竜也は逃亡を断念する他なかった。
結局、竜也は腕を縄で縛られ、男達に引きずられて村を去っていくこととなった。村人達はそんな竜也を気の毒そうに見送る。一方の竜也は、
【あーる晴れたーひーる下がりー】
自棄になってドナドナを歌う竜也を、男達は不気味なものを見るかのような眼で眺めた。
竜也が連れられて移動した先には小さな帆船があった。竜也はその帆船の船倉の牢屋へと入れられる。牢屋には何人かの先客がいた。竜也が入れられたのは男だけの牢屋だったが、女だけの牢屋も別にあるようだった。女性や女の子のすすり泣く声が漏れ聞こえてきている。
【そーじゃないかと思っていたけど……】
竜也を拘束したのは、以前のガレー船とは全く無関係の連中のようだった。奴隷商人には違いないようだが。
おそらく、どこかで竜也のことを耳にして「この男は我々のところから逃げ出した奴隷だから返してもらう」等と適当なことを言って漁村の村民を騙したのだろう。村民に多少の謝礼を払っても、普通に成人男子の奴隷を手に入れるよりは安上がりなのだろう。
【状況は理解した、あとはとにかく逃げるだけだ】
ガレー船のときと比較すれば気力体力ともに充実しており、条件は遙かに良い。竜也は身体を休め、静かに機会を伺った。
その機会は意外と早くやってきた。
竜也は日中も座るか寝るかして体力の温存に勤めた。何日かは何事もなく過ぎ、また夜がやってくる。その夜、竜也達を乗せた帆船は港から若干離れた沖合に停泊。竜也は船員に連れられ、すぐ隣に同じように泊まっている別の帆船へと移動させられていた。
移動先の帆船はマストが二本、帆の数は四、五枚。大きさは二、三〇メートルはあるだろう。竜也だけではなく、幾人かの奴隷が同じようにその別の帆船の甲板に連れてこられているし、さらにまた違う帆船からも奴隷がやってきている。甲板には柄の悪い船員が充満しており、その中央にはボスと思しき男が偉そうに椅子に座っていた。
そのボスに対し、竜也を漁村で捕まえた男二人が竜也を見せ示しながら何かをアピールしている。どうやらこれは、「商品」の仕入れ具合を部下達がボスに報告する会のようだった。なお竜也は知らないことだったが、中性的な顔立ちで珍しい色の肌をした竜也は、かなり高い商品価値を認められていた――男娼として。
竜也に続いて数組の奴隷がボスへと紹介され、報告される。竜也は他の奴隷とともに甲板の片隅に押しやられた状態でそれを見つめていた。借金の形に売られたと思しき姉妹には船員から好色に満ちた視線が注がれ、姉妹はすすり泣く。竜也はその場で唾棄したかったが、何とか我慢した。
そうして報告会は順調に進んでいき、とりを飾るのはこの組織の幹部と見られる男、その男が横に連れている少女だった。体格から見て少女の年齢は六、七歳。身にしているのは長袖の白いワンピースだ。上等そうなワンピースにはフードが付いていて、少女はフードを深々と被って顔の上半分を隠していた。そして、
【……ウサ耳?】
フードの頭頂部には二つの穴が空いていて、そこから飛び出ているのは二本の兎の耳だ。竜也はあっけにとられてその少女を、そのウサ耳を見つめる。
幹部の男はもったいぶった態度でボスへと一礼し、鞘に入れたままの剣を使って少女のフードをめくり上げた。声にならない驚きが甲板を満たす。
幼いながらも美しい少女だったが、それだけではない。その少女は雪のような白い肌とルビーのような赤い瞳を持っていたのだ。作り物めいた、人形みたいに整った顔立ちに加え、その肌と瞳の色が少女の有り様をまるで幻想のように思わせていた。竜也は夢を見るかように少女を見つめ続けている。
髪の色合いも薄い灰色で、おかっぱに近いショートヘア。その髪の上に兎の耳を生やしている。とは言っても本当に獣耳が生えているわけではなく、アクセサリーの一種のようだった。ウサ耳を付けたカチューシャを髪の中に隠しているのだろう。
少女は柄の悪い船員に取り囲まれても動揺一つ示していない。まるで路傍の石を眺めるかのような冷たい目を周囲へと返すだけだ。大の大人ばかりの船員等が逆に気圧されたように沈黙した。
小さな少女は傲然とボスへと向き合う。少女の横には幹部の男が立ち、自慢げに少女をアピールした。ボスは感嘆のため息をついた。
「זהו……(これは、白兎族の娘か)」
「חטיפה……(はい、ルサディルの豪商が飼っている娘を誘拐してきたものです)」
「שמועה……(噂には聞いたことがある。『悪魔』と呼ばれているというあの娘か)」
「כן……(その通りです)」
これは高く売れそうだ、とボスと幹部は嫌らしく嗤い合った。
そのとき、いきなり少女が幹部の腕を掴む。反射的に少女に向いた幹部の視線と、少女の視線が空中でぶつかった。
「להרוג……(近いうちにボスを殺し、自分がボスに成り代わるつもりでいる)」
「אתה!(貴様!)」
幹部は力任せに少女の腕を振り払う。少女は甲板に倒れたが、倒れたまま幹部を嘲笑して見せた。
「רעל……(毒を使って殺すつもり。もう用意していて、梁の上に隠している)」
「אתה……(貴様! 適当な嘘を――!)」
幹部は剣を振り上げ、少女を斬ろうとした。だが竜也が幹部に体当たりし、諸共に倒れる。竜也は素早く立ち上がり、少女を背に庇う位置に移動した。
(うおお??! 何やってんだよ俺?! 殺されるじゃねーか!)
少女を助けるために身体が勝手に動き、結果として九割方殺されるだろう状況に陥ったことに、竜也は大いに混乱している。今まで何度か似たような真似をして痛い目に遭ってきたとは言え、今の危険の度合いはこれまでとは桁違いだ。
(うぉぉぉっっ! 目覚めよ『竜の血』! 速やかに目覚めてくださいお願いします!)
惑乱し妄想へと現実逃避する竜也だがそんな内心はおくびにも出さず、毅然と幹部の前に立ちはだかっていた。少女はそんな竜也の背中を驚きとともに見つめている。
幹部は竜也と少女をひとまとめに斬り伏せようとした。だが、
「חכה(待て)」
ボスが幹部を止める。ボスは冷たい殺意に満ちた視線を幹部へと向けた。
「שקר……(ボス、こんな子供の嘘を信じないでください)」
幹部は笑って誤魔化そうとするが、失敗した。嫌な沈黙と緊張がその場を満たす。脆くも絶妙のバランスの上に成立した、静止状態。それは外部からの衝撃によって崩された。
「אויב――!!」
見張りの船員が何かを叫ぶ。見張りが指し示す方向には、髑髏の旗を掲げた一隻のガレー船が。そのガレー船はこの船の目と鼻の先まで迫っており、この船の横腹に衝角を向けて猛然と突進してきている。
驚きのあまり全員が硬直している中、竜也だけが動き出していた。小柄な船員の一人に目をつけ、跳び蹴りを食らわせる。倒れた船員の持っていた短刀を拾い上げ、それを兎耳の少女に手渡した。少女は手早く竜也の腕を縛っていた縄を切る。
竜也は右手に短刀、左手に少女の手を掴み、甲板の端へと走っていく。短刀を出鱈目に振り回して周囲の船員を避けさせ、ガレー船がこの船に激突するのとタイミングを合わせ、甲板を蹴って海に飛び込んだ。
短刀は惜しかったが、邪魔だったので捨てた。少女を背負うように首に捕まらせ、夜の海を泳ぐ。途中、衝突で船から転がり落ちた見られる木の樽を発見。それを浮き輪代わりにできたため泳ぐのが大分楽になった。
そのガレー船の正体は判らないが、髑髏の旗を掲げている以上穏やかな相手ではないだろう。そう判断した竜也は陸地まで泳ぐつもりでいた。だが、
【え、何?】
首に捕まっている少女がしきりに陸地の反対側を、ガレー船の方を指差した。
【あの船に行けって言うのか?】
少女は大きく頷く。竜也は多少迷ったものの、
【方向を間違えるかもしれないし、潮に流されるかもしれないし、陸地まで体力が持たないかもしれないし】
いくつか不安があったこともあり、結局少女の言葉を容れてガレー船へと接近した。それほど近付かないうちにガレー船の船員が竜也達を発見、二人の身柄は髑髏のガレー船に確保されることとなった。
甲板に上げられた二人には、海水をぬぐうためのタオルらしき布切れが渡された。竜也も少女も乱暴に扱われることなく、拘束されることなく、船長と思しき人物の前へと引き出された。
【うん、ここは過去の地球じゃない。異世界だ】
船長と思しき人物の姿に、竜也はそう確信した。この船の船長は、中東系白人と黒人の中間くらいの肌の色の大男。半裸の身体は無駄のない鋼のような筋肉に覆われていた。頭部は真ん中を残してきれいに剃り上げられた、モヒカン刈りと言われる髪型。ただしモヒカンにはサメか何かの背鰭を模した冠り物をかぶせている。しかも背鰭の向きが前後逆なのでウルトラマンエースみたいになっていた。
周囲を見れば、この船の船員の三割くらいは船長と同じ髪型だ。この、世紀末には救世主に指先一つでダウンされられそうな船員達が一方的に奴隷商人の帆船を蹂躙し制圧し、この時点で既にボスや幹部や船員の身柄を拘束し終えていた。
「נסיכה……(お嬢がルサディルのラズワルド、で間違いないですな)」
船長の問いに、少女が無言で頷く。
「בקשה……(アニード商会の依頼でお嬢を助けに参りました。青鯱族のガイル=ラベクです)」
ラズワルドと呼ばれた少女が少しだけ目を見張った。彼女が抱いた驚きと疑問を察し、ガイル=ラベクが説明する。
「זה הם……(あの連中にはあちこちから懸賞金が懸けられていて、あの連中の後を追ってルサディルを訪れたんです。そこでアニード氏から仕事を依頼されたんですよ)」
「באמת(そう)」
「בכל אופן……(とりあえず今日のところは客室で休んでください。数日中にはルサディルに返せるでしょう)」
「נמצאו החוצה(判った)」
ラズワルドは船員の一人に案内され、船倉へと向かう。彼女は当然のように竜也の手を引き、一緒に移動した。竜也は戸惑い周囲を見回すが、助け船を出してくれる者はどこにもいない。竜也は彼女の手を振り払うこともできず、そのまま彼女と一つ部屋で一夜を明かし、さらに数日を共に過ごすこととなった。
そのまま一生のほとんどを一緒に過ごすことになるとは、この時点では当然ながら想像もしていない。