一隻の船が海を征く。その帆船は戦闘時には船の両舷から櫂を出して漕ぐが、巡航時はマストに帆を張って進むようにできていた。今はマストに白い帆を張っている。
船の後部には大きな旗を掲げており、黒地に描かれているのは白い髑髏だ。髑髏の図柄は単純というか、稚拙な印象のものである。絵が得意な竜也は「俺に描き直させてくれないかな」等と考えていた。
「黄金の帝国」・漂着篇
第二話「異世界での生活」
竜也とウサ耳の少女を乗せた髑髏の帆船は一旦東の港町に向かい、そこで奴隷商人等を別の船に引き渡した。どうやらもっと東の大きな町まで連行し、そこで裁判にかけるらしい。その上で船は西へと向かい、竜也も状況に流されるまま乗船していた。
竜也は船室のベッドに腰掛け、ぼけっとした様子で物思いに耽っている。その竜也の足の間には兎耳の少女がすっぽり収まり、横座りになっている。少女は竜也の胸に半身を預けていた。その光景は、少女の年齢がもっと上ならば「愛し合う恋人の図」となるだろうが、現状では「兄に甘える幼い妹の図」がせいぜいだった。
少女の身体からはわずかながら汗の臭い、そして蚊取り線香のような強い香りが漂っている。竜也の身体も同じ香りを放っていることだろう。最初に抱きつかれたときにその香りを嗅いで、
(何だろう、これ。この子の香水か? あ、俺の身体汗臭いんじゃないか)
等と思っていたら、竜也から離れた少女が何かの壺を持ってきて差し出したのだ。見ると、その壺に入っているのは油のようだった。
少女がその油を少し手に取り、首筋や手首足首に塗っていく。少女の視線で促されて竜也はその真似をし、自分の身体を蚊取り線香の香りで包んだ。
【香油か。臭いからして虫除けの効果もあるのかな?】
最初はその臭いに閉口していた竜也だがすぐに鼻が慣れた。マラリアのような悪質な感染症をこれで防げるのなら文句のあろうはずもない。
今、竜也の目の前では作り物のウサ耳がゆらゆらと揺れていて、竜也はそれを見るともなく見つめている。
(多分この子は良いところのお嬢様で、あの奴隷商人等に誘拐されたんだろうな。で、実家の依頼を受けてあのモヒカンが助けに来た。実家は西の方にあって、もうすぐそこに到着するところ、と)
竜也はラズワルドという名の少女についてそのように推定した。腕の中の彼女が微妙そうな表情をしていることに、竜也は気付いていない。
(で、何でかこの子に懐かれた俺もこの子の実家に向かっている、と。まあ行く当てがあるわけじゃないから助かってるけど。仕事とか生活のこととか、この子の実家で色々助けてもらえるかも知れないし。でも、行く当てのない奴隷一人を子供が勝手に拾って連れて帰るのって、問題にならないのか? それとも問題にならないくらいにこの子の立場が凄いのか?)
竜也が首をひねる一方、ラズワルドはふるふると首を振っていた。
(……それにしては船員の態度がいまいち変なんだけどな)
ラズワルドは船員等から露骨に避けられていた。潮風を浴びるため甲板に上がったときは、竜也達の周囲から人がいなくなった。船の通路を歩いていると、船員等は曲がれ右をして姿を隠す。やむを得ずすれ違うときは、巨漢の船員までもが息を潜めて身体を縮めるような有様だ。豪放磊落を絵に描いたような船長のガイル=ラベクすらが、彼女に対しては事務的な、隔意ある対応に徹していた。
(それが、こんな小さな女の子に接する大人の男の態度かよ)
と竜也は義憤を抱いた。ラズワルドは「うんうん」と頷いている。
(アルビノだから忌まれているって感じでもなさそうなんだけどな、よく判らん。こんなに綺麗で可愛いのに。成長したら物凄い美人になるだろうな)
竜也は一〇年後のラズワルドの想像図を脳裏に思い描いた。グラビアモデル並みにグラマーで、バニーガールの格好をしていて、扇情的にしなを作っているのは竜也の趣味である。ラズワルドは恥ずかしそうに赤面して竜也をにらんだ。
(多分、実家に戻っても周りの態度はあんなのなんだろうな)
周囲に忌避されるのは、彼女にとっては多分いつものことなのだろう。あるいは両親や肉親からも充分に愛されていないのではないかと思われた。
竜也は腕に力を込め、少女の身体を抱き寄せた。ラズワルドは仔猫のように頬を竜也の胸にすり寄せる。少女の表情は大して動いていないが、それでも嬉しそうな雰囲気は察することができた。
竜也の胸の内は温かく切ない思いでいっぱいになった。
(うん、これは父性愛だ。父性愛に違いあるまい。俺はロリコンじゃないしな)
竜也は自分の中に唐突に生まれた感情に戸惑いながらも、そう理屈づけた。
竜也達二人は初日の夜に一つの客室に案内され、小さなベッドで身を寄せ合って一夜を明かした。ラズワルドがもう何歳か年上なら竜也もそんな不作法な真似はしなかったろうが、彼女の印象は幼稚園に通っている親戚の女の子と大差ない。彼女も嫌がるような様子を見せなかったので、遠慮なく同衾したのだ。
以降、ラズワルドは竜也にべったりぺったりぴったりくっつき続けている。歩くときは手をつなぎ、座るときは膝の上。暇なときは背に乗り、眠るときは腕の中だ。正直ちょっと鬱陶しいときもあったが、愛情とスキンシップに飢えた子供にできるだけのことをしてあげようと思っていた。
その代わり、ラズワルドは竜也にこの世界の言葉を教えていた。この時点の竜也は一つでも多くの単語を覚えることに力を注いだ。彼女はあまり口数が多い方ではないが、教師としては優秀だった。部屋の中にある物の名詞から始まり、基本的な動詞をゲームやクイズのような形式で教わり、覚えていく。竜也はこの数日でかなりの数の単語を習得していた。
そうやって一日の大半を船室で過ごすこと数日。竜也は西の港町に到着しようとしていた。窓の外、水平線の彼方に陸地を見出した竜也は、「あー、うー」と何か言いたげに、しきりに陸地を指差した。
「זה העיירה……(あれはルサディルの町)」
「るさでろ?」
「ルサディル」
竜也の発音をラズワルドが訂正する。竜也は「ルサディル、ルサディル」と正しい発音をくり返した。その発音を覚えた竜也がまた何か言いたげにする。ラズワルドは先回りして、
「בהגיעם בקרוב(もうすぐ到着する)」
「べくぅれう゛?」
「בקרוב」
竜也は上を指差し、「れまあらあ」と片言で意志を伝える。ラズワルドは、
「סיפון……(甲板に上がるのね。行きましょう)」
と竜也の手を引き、部屋の外に出た。
連れ立って通路を歩きながら「それにしても」と竜也は思う。
(こんな片言で言いたいことのほとんどを、言ってないことまで理解してくれるんだもんな。恐ろしく察しが良いというか、まるで心が読めるみたいだ)
ラズワルドがかすかに身を震わせた。竜也はそれに気付くことなく内心で肩をすくめる。
(まさかね。いくら異世界でもそれはないか)
ラズワルドは同意するように「うんうん」と頷いた。
ルサディルはソウラ川と呼ばれる大河の河口西岸にある港町である。人口は約四万人。
竜也とラズワルドを乗せた船がルサディルの港に入港した。下船した二人は数人の男達に出迎えられる。
上等そうな衣服の、責任者と思しき初老の男。その護衛と見られる剣を持った男達。初老の男はラズワルドの家の執事か何かだろうと、竜也は推測した。
執事(仮)のラズワルドに接する態度は感情を押し殺したかのような、事務的なものに終始していた。隔意があり、それ以上の嫌悪感があるのが見え見えである。
ラズワルドが執事(仮)に竜也のことを何か説明している。執事(仮)は竜也のことを胡散臭げに見つめるが、何も言わなかった。竜也はラズワルドに連れられるまま移動する。
ラズワルドの家(多分)に馬車で向かう道中、竜也は車窓からルサディルの町並みや人々を眺めていた。
【うん、ここは異世界だ】
竜也は以前確信したことを再度確認した。
建物は素朴ながら石造りの物が多い。町の雰囲気はヨーロッパ系とはどこか違う、エキゾチックなものである。人々の様子、市場や物売りの様子から、町が豊かで繁栄している様子が察せられた。
町の住民の多くが黒人系。中東系、というかセム系っぽい白人の姿が次いで多い。一番多そうなのは両者の混血だ。そして、何パーセントかの住民に獣耳や尻尾が生えていた。
犬耳と長い尻尾を生やした男が物売りをしている。猫耳の老婆と、その孫と見られる猫耳の子供がひなたぼっこをしている。牛のような角の男の一団が通りの中央を物々しく歩いている。馬のような耳の夫婦とその子供達が露天商で買い物をしている。いくら何でも過去の地球にこんな光景があったはずがない。
やがて馬車は町の中心部に位置する大邸宅へと到着、竜也とラズワルドは馬車から降り立った。町の一区画を占有する広大な敷地に、贅を凝らした屋敷が建っている。ラズワルドは平然としたままその屋敷の中に入っていく。唖然と周囲を見回す竜也は引きずられるようにラズワルドに同行した。
屋敷の奥の、一際豪華な一室。竜也とラズワルドはそこでその屋敷の主人と対面した。
アニードという名のその主人は、日焼けしたセム系白人という色合いの、小太りの中年男だった。アニードは舌打ちでもしたげな表情で、酷薄そうな目を竜也達に向ける。竜也の心にアニードに対する強い嫌悪感が唐突に涌いて出た。
「בטיחות……(無事に戻ってきたか)」
「תודה……(おかげさまで)」
ラズワルドとアニードは礼儀を保っただけの冷たい言葉を交わし合った。アニードが胡散臭そうな視線で竜也を示し、説明を求める。ラズワルドはアニードに竜也を拾った経緯を、竜也を連れてきた理由を説明した。
「רציני……(本気で言っているのか?)」
「ספק……(間違いない。彼はあなたの利益になる)」
「……קנס……(……まあいい、好きにするがいい。しばらくは置いてやる)」
アニードへの事情説明を終え、承認を得られたのでラズワルドは速やかにその場を立ち去る。竜也も彼女の後に続いた。
雑用やら言葉の勉強やらに明け暮れているうちに、時間は一気に経する。竜也がラズワルドに拾われ、アニードの屋敷に住むようになって四ヶ月が経っている。この世界にやってきてからは半年以上が過ぎていた。
【で、今日はシャバツの月の二〇日と】
この世界の暦をまだ理解していない竜也は、今が何月なのかよく判っていない。この四ヶ月で多くの知識や常識を手に入れたが、知らないことの方がもっと多い。
アニードはルサディル随一の大商人であり、何十人もの召使いを雇っている。今の竜也の身分はその中の一人というものだ。正確には、ラズワルド専属の雑用係というところである。
アニード邸の一角に建っている小さいながらも豪華なコテージ。そこがラズワルドの住居だった。コテージには台所風呂トイレ等の生活に必要な設備は一式揃っていて、食事は老婆の召使いが用意してくれている。
【これで後はインターネット回線がありさえすれば、引きこもり生活を満喫できるんだけどな】
と竜也は埒もないことを考えた。今の竜也の主な仕事はコテージ内外の掃除や薪割りくらいで、それ以外の時間はラズワルドから言葉を教わり過ごしている。しゃべる方はまだ片言だが、聞き取る分にはほぼ不自由はなくなっていた。しばらく前から文字の勉強も開始している。
ラズワルドが自分の身の上について語りたがらないため、竜也は彼女の身分や立場についてよく判っていない。ラズワルドはアニードとは血縁関係もなく、家族でもない。アニードの仕事に何らかの形で力を貸しているようで、アニードに対しては対等に近い立ち位置を保っていた。
相変わらず飽きもせずに竜也にべったりのラズワルドだが、不定期にアニードに呼び出されて本邸に赴くことがある。竜也はそれに付き添うことを許されず、コテージに一人残される。
今日、竜也が一人コテージで暇を持て余していたのはそんな理由である。言葉の勉強をするにしても、一人では誰も間違いを指摘してくれないから非効率だし、第一やる気も起こらない。
今竜也にできるのは、ベッドに寝転がってとりとめのない思考を弄ぶことだけだ。
【あ゛ー、『今異世界にいるけど何か質問ある?』とかスレッド立ててやりてー】
1 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
何でも答えるよー。
2 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
異世界wwww乙wwww
3 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
異世界ってハルケギニア? ムンドゥス=マギクス?
4 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
いや、多分オリ設定。もし商業だったらかなりなマイナー作品。
5 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
文明程度は?
6 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
江戸時代初期の日本と同レベルくらい? 全部人力、機械は存在せず。火縄銃は見かけた。
7 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
言葉は通じんの? 何やって生活してんの?
8 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
言葉が通じん! それでむっちゃ苦労した。今は少しは覚えたけど。
今はウサ耳幼女に拾われてヒモみたいな生活。
9 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
ちょ、おまwww
10 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
文字はどんな感じ? 読める?
11 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
こっちで使われているのは三〇くらいのアルファベットの表音文字。横書きで、英文とかとは逆で右から左へと文字を読んだり書いたりしてる。
アルファベットの形は全く見慣れないし、ぱっと見みんな同じに見える。それに、単語とか文章とかは母音を使わないで子音だけで表記しやがるんだこいつら。何考えてそんなわけの判らんことしてるんだか。
本当、無茶苦茶苦労させられたけど、それでも時間さえかければ何とかある程度は読めるくらいにはなりましたよ。努力しましたから。
12 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
トイレとかどうしてんの?
13 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
これもまた辛いんだよー!!
トイレは水洗とぼっとんの二種類。水洗は要するに側溝の上に便座を置いたような感じ。ぼっとんは、昔の田舎のトイレを想像してくれれば。回収したブツは結局海に捨ててるみたいだけど。トイレットぺーパーなんかないから、何かの葉っぱでケツ拭いてる。
14 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
古代ローマは風呂が発達していたけど、そっちはその辺どうよ?
15 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
今住んでるところは風呂付き。でも湯船はなくてサウナみたいな蒸し風呂形式。石鹸は存在しているけど贅沢品なんで、手ぬぐいで身体こすってる。
16 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
食い物はうまい?
17 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
作ってくれるお婆ちゃんには悪いんだけど、正直いまいち口に合わない。
ちなみに今日の昼飯のメニューは、スープと野菜の煮物。
スープはお湯で小麦粉を溶いて、千切ったパンを入れて山羊の乳のバターと塩で味付けしたもの。野菜の煮物はキャベツとかタマネギとか煮て塩とオリーブオイルで味付けしたもの。
まあ奴隷やってた頃を思えば極楽みたいな食生活だし、出された物は全部残さず食ってますよ。時々白いご飯が食いたくて泣きたくなるけど。
あ、食事は一日二食な。三食なんてありません。
18 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
服とかどんな感じ?
19 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
何というか、似非アラビア風?のワンピースとかズボンとかで、肌の露出を増やした感じ。みんな結構シンプル。この世界ももう冬だけど、冬っつっても気候は日本の秋くらいだから、いつもの服の上にマントっぽいの1枚羽織ってる。
20 名前:以下、名無しにかわりましてオリ主がお送りします:シャバツの月20日
魔法はないの?
21 名前:異世界の黒き竜:シャバツの月20日
俺はまだ見たことないけど――
【――見たことはないけど、魔法がないとは限らないんだ】
脳内でわずかばかりスレッドを延ばしたところで、竜也がその事実に気が付く。その途端、居ても立ってもいられなくなった。
【そうだ、魔法があれば元の世界に戻る手懸かりだって見つけられるかもしれない】
竜也はコテージを出、アニード邸を抜け出す。行き先に特に当てがあるわけではなく、町の中心部へと歩いて行った。
この四ヶ月間、竜也は数えるほどしかアニード邸の外に出たことがない。ラズワルドと共に町に出る度、彼女が町中のあらゆる人間に忌避されている事実を突きつけられるのだ。それに、また誘拐されるかも知れないという警備上の問題もある。そのためラズワルドはよほどのことがない限り町に出ようとせず、竜也もそれに付き合う他なかった。
だが竜也としてはこの世界の知識を得るためにも、もっと町を見て回りたかったのだ。だからラズワルドが仕事(?)で不在の今が絶好の機会であると言える。
【いー加減、雑用にも子守にも飽きたしな。魔法を習って『黒き竜の血』を目覚めさせればチートキャラになれるわけだし】
竜也はラズワルドに対し家族としての愛情を抱き、惜しみなく注いでいる。だがだからと言って、四六時中一緒にいて息が詰まらないわけではないのだ。そろそろ気晴らしが必要だったのだろう。竜也は観光客気分でぶらぶらと町を、市場を見て回っている。それだけで充分に気分転換になっていた。
露店で軽食でも食べたいところだが、懐具合が心細いために竜也はそれを我慢した。財布に入っているのはレプタ銅貨が十数枚。以前の外出の際にラズワルドからもらったお小遣い、それが今の竜也の全財産だ。
【……しかし、一体どういう異世界なんだろうか】
市場には、林檎・桃・葡萄・キャベツ・レタス等々の野菜や果物と共に、インディカ米っぽい米や大豆が並んでいる。さらにはトウモロコシ・トマト・ピーナツまでもが平然と売られていた。トウモロコシ等は中南米が起源で、大航海時代以前には旧大陸にはなかったはずの食物だ。
【まあ、火縄銃があるくらいだから新大陸への入植が始まっていてもおかしくないか。そもそもここがユーラシアかアフリカかも判ってるわけじゃないし】
竜也は食料品の並ぶ露天市場を抜け、安全そうな路地裏へと足を伸ばすことにした。
【おっ、何かそれっぽい店発見】
表通りからあまり離れていない場所にあるその店は、どうやら本屋のようである。元の世界では重度の活字中毒だった竜也は、飛んで火に入る夏の虫のごとくその書店に誘い込まれていった。
店の雰囲気は、元の世界の古いひなびた古本屋のそれに近い。ただ、大した数の本は置いていない。ざっと見たところ数十種類くらいか。元の世界と比べれば出版部数は何桁も違っているだろうから、これでもかなり充実した品揃えなのだろう。
店内には店主が一人と客が一人。店主は竜也を胡散臭げに見つめているが、竜也はその視線を気にする余裕もなく懸命に本の題名を読み取ろうとしていた。
「としのふしぎ……たびにおどろく……? むはんまど、るわー……?」
「しょこく、りょこーき……? れー……れー……みゅえ?」
「せかいの、ちず――地図!」
竜也の手がその地図の本へと延ばされる。だがその手は店主のはたきによって撃ち落とされた。
「只読みは駄目だよ。読むんだったらちゃんと買いな」
嫌味な口調で店主がそう言う。竜也は慌てて懐から財布を取り出しそうとした。
「その本の値段は一〇ドラクマだ」
店主の言葉に、竜也の身体が硬直した。ちなみに三三六レプタで一ドラクマ、一ドラクマは普通の労働者が一日働いて得られる賃金に相当する。
竜也は散々迷いながらも、なけなしのレプタ銅貨を何枚か店主に示しつつ提案した。
「あー、見る、試し、これ、代わり」
店主は舌打ちしてその提案を却下する。
「冷やかしならさっさと出ていきな、貧乏人が」
店主は腕ずくで竜也を店内から追い出す。竜也の目の前で書店の戸が無慈悲に閉じられた。
「地図……」
竜也は恨めしげに書店の戸を見つめるが、結局諦めるしかない。竜也は肩を落として書店に背を向けた。竜也がその場から立ち去ろうとする、そのとき。
「待ってください」
何者かに声をかけられ、竜也は振り返った。そこに立っていたのは二〇代半ばの、鹿角を持った優男。店の中にいたもう一人の客である。
「地図なら私も持っています。よろしければお見せしますが?」
「本当?」
竜也の瞳が希望に輝く。優男は微笑みを見せながら竜也に語った。
「あの強欲店主には私も何度も苦い思いをさせられていますので。他人事とは思えなかったんですよ」
竜也はハーキムという名の、その鹿角の優男に誘われるままに付いていった。一〇分ほど歩いてハーキムの自宅に到着する。
町中の、木造の平屋の長屋。その一室がハーキムの家だった。八畳程度の部屋が二つ、ハーキムはそこに一人で暮らしているという。その部屋で特徴的なのは百冊以上の蔵書だった。この世界の一庶民としては破格の量と言えるだろう。
この世界に来てからずっと抱えていた疑問がようやく解消できると、竜也は期待に胸を膨らませた。
「地図、一番大きい、お願いします」
「判りました」
ハーキムが苦笑しながら本棚から何かを取り出してテーブルに広げる。広げた新聞紙ほどの大きさのそれは、一枚の絵地図だった。
「――」
竜也は息をするのも忘れるほどに、その地図を食い入るように見つめた。竜也の様子を怪訝に思いながらも、ハーキムは各地を指差して地名を教える。
「ここがこの町、ルサディルです。こちら側の大陸がネゲヴ。こちら側がエレブ、こちら側がアシューとなります」
竜也はここが異世界である事実を最終確認した。地図に描かれていたのは元の世界とよく似ていながら決定的なところが違う、それは地中海世界の地図だった。
「こちら側が南です」
とハーキムが指差す場所は北アフリカ全域である。ルサディルのある場所はジブラルタル海峡のすぐ東の北アフリカ側だ。
「こちら側がエレブ」
と示された場所はヨーロッパ全域。アシューとはアナトリア半島・シリア=パレスチナ・シナイ半島から東の全域。
「ここ、名前、何?」
竜也は元の世界のジブラルタル海峡がある場所を指差す。ハーキムの答えは、
「そこはヘラクレス地峡です」
というものだった。そう、この世界ではネゲヴとエレブが地続きなのだ。
「こちらはスアン海峡です」
と指し示された場所は、元の世界であればスエズ運河がある場所だ。ネゲヴとアシューは海峡によって隔てられていた。
「ここ、川?」
「西から、ソウラ川・ナハル川・チベスチ川・ナガル川です」
ナガル川は、おそらく元の世界のナイル川に相当するのだろう。だが他にこんな大河がアフリカにあったなどという話を竜也は知らない。北アフリカの大地が、おそらくはナイル川に匹敵するような何本もの大河とその支川によって縦横に引き裂かれている。
「ここ、何ある?」
「この辺から南は全て大樹海アーシラトです」
元の世界のサハラ砂漠などは全て緑化し、大樹海となっているそうである。
【どういう地殻変動があったんだよ……】
あまりの違いにもう笑うしかなかった。
ナハル川等の大河がサハラ砂漠に水を供給しているため、サハラが緑化。草木が水を保持し、草木から蒸発する水が雲となってサハラに降り注ぐため大河の水量が増え、ますます草木に水が供給され、草木が良く生い茂り、ますます水が保持されて……という好循環があったのだろう。その結果がサハラ砂漠の大樹海化だった。
「あー、凄い、力、ない?」
「は?」
地図の衝撃を何とか乗り越え、飲み込んだ竜也は、今日の元々の目的を果たすことにした。だが魔法に該当する言葉を知らないために、伝えたいことが伝わらない。ラズワルドなら簡単に理解してくれるのに、と思いながらも竜也は知っている単語を重ねて思いを伝えようとした。
「あー、神様、力くれる。ない?」
「もしかしたらプラスのことでしょうか……」
ハーキムも何とか竜也の言いたいことを理解しようとした。
「そうですね。あれに参加すれば直接目にすることができるでしょう。声をかけますよ」
ハーキムの提案を竜也は喜んで受け入れた。後で大いに後悔することになるのだが。
竜也はその後もしばらくハーキム宅で過ごしたが、夕方になったのでラズワルドの元に帰ることにした。
「それではまた今度」
「はい、さよなら」
ハーキムに別れを告げ、夕焼けに染まる町を歩いていく竜也。ふと竜也は立ち止まり、沈み行く夕陽に背を向けた。竜也は地平線の向こうを見つめる。
【日本はあの方向か】
日本の生活、日本の級友、日本の家族の思い出が不意に心の奥底から湧き上がってきた。今まで押さえ込んでいた蓋が外れてしまったかのようである。
【あれ、なんで……】
竜也はこぼれそうになっていた涙を堪えた。
父親は小さなスーパーマーケットの社長だが、経営状態は良いとは言えずいつも大変そうだった。母親は愚痴っぽい普通のおばさんだが、夫婦仲は悪くなかったし竜也に対しても決して悪い親ではなかった。
夏休みは父親のスーパーでアルバイトをする予定だった。父親は「自営業なんてやるもんじゃない。公務員か大企業のサラリーマンが一番だ」と常々竜也に説いていた。だが竜也が会社を継ぐ意志を見せるとかすかに嬉しそうな様子を見せていた。
心配をかけているだろう、諦めきれずに未だに捜索を続けているかも知れない。そう思うと居ても立ってもいられなくなった。このまま東に向かって歩いていきたい衝動に駆られた。だが何とか自制する。
竜也は未練を断ち切るように西に向けて歩き出した。今竜也が戻るべき場所はラズワルドのところだった。
アニード邸に到着する頃にはすっかり日が沈んでいた。
「ラズワルド? いない?」
竜也は明かりの灯されていないラズワルドのコテージへと入っていく。その途端、竜也は腹部に体当たりを受け、その場に尻餅をついた。
【な――】
竜也はそのまま言葉を失った。体当たりをしてきたのはラズワルドで、少女は泣き顔を竜也の胸に埋めていた。
身を切られるような強い不安、世界にたった一人ぼっちのような切なさ、そしてそれが覆った安堵と喜び。竜也の胸の内をそれらの感情が突風のように駆け抜けていく。
【ぐ――】
竜也は自分の感情の動きが理解できず、唇を噛み締めて感情を押し潰そうとした。激しい情動は嘘のように消え去り、残ったのは腕の中で涙を流す少女の暖かさだけだ。
竜也の胸の内は、ラズワルドに対する罪悪感と愛しさに満たされた。それは紛れもなく自分の感情であると断言できた。
【ごめん。もう二度と黙って出掛けたりしないから】
竜也はラズワルドの頭を優しく撫でる。ラズワルドは気が済むまで竜也の胸の中で泣き続けた。