「黄金の帝国」・漂着篇
第七話「牙犬族の少女」
月はエルルの月(第六月)に変わった頃。竜也がこの世界にやってきてから一年以上が過ぎている。
「カリシロ城の花嫁」の上演が始まって半月が過ぎ、客足は順調に伸び続けていた。竜也は雑用の他、劇に端役で出演してヤスミンにぶった斬られたり、カフラと小説出版の打ち合わせを進めたりしている。一方のラズワルドは特にすることもなく専業主婦生活だ。
「よし、いただきます」
「いただきます」
竜也は日本風に手を合わせてラズワルドの作った食事を取る。ラズワルドもまた竜也の真似をして手を合わせるのが習慣になっていた。
夕食のメニューは黒パン、煮込み野菜、干し魚、林檎といったものである。煮込み野菜は材料費・燃料代節約のために一座の面々が協同で作った料理。他の食品も店で買ってきたものばかりで、ラズワルドの仕事はもらった料理・買ってきた料理を並べるだけだ。だが竜也はそれを非難するつもりはない。
「自炊するより買ってきた方が安上がりなんだもんな」
料理をするには薪が必要なのだが、最初に流れ着いた漁村のように森に行って薪を拾ってくるわけにはいかない。スキラのような大都会では薪も店で買うしかないのだ。元の世界のガスコンロのように火の調節も簡単ではなく、どうしても必要以上に薪を燃やしてしまう。その手間と薪代を考えると出来合いの料理を買ってくるか屋台に行った方が安上がりなのである。
食事が終わって後片付けの段となり、竜也達は協同炊事場に向かった。
「……?」
竜也はラズワルドとその周囲を眺めているうちにそれに気が付いた。長屋の主婦達の中でラズワルドの存在が浮いている。互いに話しかけようともせず、無視し合っている。主婦達はラズワルドと竜也を見て何やら陰口を叩いているようだった。
「いじめられてないか? 周りの人と仲良くできてるか?」
竜也は部屋に戻ってから確認する。ラズワルドは「大丈夫」と涼しい顔である。
「最初はうるさかったけどもう誰も寄ってこない。嫌がらせをしてくる人もいるけど、ちゃんとやり返してる」
ラズワルドは「静かになって良かった」と嬉しそうに言う。一方の竜也は頭を抱えた。ヤスミンから苦情が寄せられたのはその直後である。
「あの子、もうちょっとどうにかならない?」
「俺ももっと早く気付けばよかったんだけど」
と竜也はひたすら恐縮した。
ラズワルドの話とヤスミンから聞いた話には大きな差はなかった。長屋の住民は最初は幼い白兎族の少女をそれなりに好意的に迎えたのだ。それを拒絶したのはラズワルドの方である。住民が話しかけたり世話を焼こうとしたりしてもラズワルドは面倒そうな顔をして逃げてしまう。それが何度もくり返され、住民側には反感が募り、やがて軽い嫌がらせが行われる。それに対してラズワルドが恩寵を使って痛烈に反撃し、住民側の反感が一気に拡大しているのだ。
「できるだけかばってはいるけど物には限度があるのよね。それに、本人が態度を改めないといくらかばっても無意味だし」
竜也としてはとにかく頭を下げるしかない。
「判ってる。よく言って聞かせるから」
その夜は竜也による説教タイムである。
「いいか? 人は一人では生きていけない。人という字は人が支え合っている形なんだ。人間とは群れを作る社会的動物であり……」
竜也の説教はすぐに途切れた。その説教はどこかで聞いた言葉の寄せ集めであり、自分の胸の内から出た言葉ではない。「こんな心のこもらない言葉の羅列に意味なんかない」と気が付いたからだ。
「……ごめんなさい」
が、ラズワルドは殊勝な顔で謝った。
「タツヤを困らせるつもりはなかった」
「うん、それは判っているつもりだ」
竜也は「ああ、そうか」と腑に落ちる。ラズワルドが「悪いこと」をしたのなら反省させ行動を改めさせなければならない。だがラズワルドの行動が「悪いこと」、つまり倫理的・道義的な悪だとまでは思っていないのだ。ラズワルドの振る舞いには確かに困っているが、近所付き合いを面倒だからと切り捨てるラズワルドの感性にも共感できるところがないではない。
「確かにここの住人は下世話だし口うるさいしプライバシーなんて概念すら持ってなくて他人の領域に土足で入ってくるし話題と言えば噂話や悪口ばかりだし本を読むどころか文字も読めるかどうか怪しい人達ばかりだし、でも決して根っからの悪人てわけじゃ……」
「それは判る。でも、仲良くしたいとまでは思わない」
ラズワルドの言葉に竜也は何も反論できない。結局、竜也もまたラズワルドと同じなのだ。この長屋では余所者であり、どれだけ努力しても彼等の中に溶け込むことなどできはしない。ただ竜也には人並み程度のコミュニケーション能力があるので波風を立てないように表面的な近所付き合いくらいはできるだけだ。ラズワルドはこれまでの経験が経験だったのでコミュニケーション能力が決定的に欠落している。コミュニケーション障害なんてものではない、コミュニケーション傷害と言うべきレベルである。
「……ともかく、自分から喧嘩を売るのは厳禁。反撃も自衛の範囲の最低限」
「ん、判った」
とラズワルドは頷く。結局竜也にはラズワルドの振る舞いを改めさせることなどできはしなかった。ただ喧嘩の原因をできるだけ減らして問題を先送りしただけである。
「……引越も考えないといけないかも。でも、どこに」
そんな中、竜也はカフラからある人物を紹介される。
「こちらはログズさんです。タツヤさんの代わりに小説を書いてもらおうと思います」
現時点の竜也は一応文字は書けるくらいの水準で、小説など書けるわけがない。そのためカフラは竜也のためにゴーストライターを用意したのである。
竜也は「よろしくお願いします」と頭を下げる。ログズという男は軽い調子で、
「おう、こちらこそ」
と手を挙げた。
年齢は三十に入ったところだろう。長身とそれなりに整った顔立ちをしているが、無造作に括った長髪と無精髭がどこかだらしない印象を与えている。どう見ても自由業以外の仕事が勤まりそうにない人物だった。
「お前さん、マゴルだってな。元いた場所はどんなところだったんだ?」
物臭そうに見えて結構おしゃべりな男で人当たりもよく、気が付いたら竜也はいろんなことをしゃべっていた。面倒見もいいところもあり、
「住むところを探している? それならいいところを紹介してやる」
と早速竜也を連れて移動する。移動した先は町中、繁華街の少し外れにあるカフェだった。
「ここが?」
「いや、この上だ」
竜也はログズに案内されてそのカフェに入った。「いらっしゃい」と迎えたのは無愛想な女主人である。年齢は三十の少し手前。気怠そうにした、退廃的な雰囲気の美女だった。
その建物はかなり大きい石造りの二階建てで、その一階がカフェ。二階に上がると、そこにあるのは何かの事務所だった。充満しているのはインクの臭い。様々な本が並び、冊子の束が積み上げられている。
「ここは?」
「俺が刊行している『スキラの夜明け』本社だ」
竜也は「スキラの夜明け」の一部を見せてもらった。質の悪い紙にいくつものニュースが記されたその刊行物は新聞兼週刊誌というべき物である。竜也は興味深げにその新聞を読んだ。
「俺はこの上に住んでいる。まだ空き部屋はあるからお前さんとその連れくらいは住めるぞ」
竜也は屋根裏の空き部屋を見せてもらうが、
「うわ……」
まずその暑さに閉口した。窓はあるものの、熱がこもって非常に暑い。室温は間違いなく摂氏五十度を越えているだろう。
「何、日が沈めば気温も下がる。窓を開けておけば外と同じだ、眠れんことはない」
部屋の中は非常にほこりっぽく、梁がむき出しだ。天井は低く、竜也が立ち上がると頭がつかえた。人が住むことを前提とした部屋ではなく、元々は単なる物置なのだろう。
「……少し考えさせてください」
「ああ、急ぎやしないさ」
竜也はその場では判断を保留とした。その後、竜也は小説の打ち合わせもあってログズの元を頻繁に訪れるようになる。
そんな毎日の、エルルの月も中旬に入ろうとするある日のこと。
その日、竜也は劇場の仕事の手伝いをしていた。観客で混雑する入口で入場整理をし、入場料の受け取りをする。上演まで間もなくとなり入口の混雑もほぼ解消された頃、一人の少女の姿が竜也の目に止まった。少女としては平均的な身長で、スレンダーな体格である。
「……日本人?」
少女が身にしているのは裾の広い袴みたいなズボンと、肩衣みたいな上着。腰には日本刀みたいな拵えの刀を差し、やはり和風な編み笠を被っている。よく見れば色々と間違っているが、一見だけならその姿は日本の侍そのもののように思えた。
竜也はあっけにとられたまま不躾な視線を送り続けている。少女が編み笠を脱ぐと、その下からは凛々しく美しい少女が姿を現した。肌の色や顔立ちは日本人と言っても通用しそうだ。頭頂で結ったポニーテールは長く真っ直ぐな黒髪。その髪の中からは犬耳がひょっこりと突き出ている。
「――これを」
「あ、はい」
少女が竜也に小銭を突き出し、竜也はそれを受け取った。少女が会場の中へと消えていく最後まで、竜也はその後ろ姿を、袴の尻でゆらゆら揺れる犬の尻尾を見つめていた。
「こら、タツヤ!」
「うわっ」
一緒に受付をやっていた一座の者が竜也の首に腕を回した。
「なに女に見とれてんだよ。確かにきれいな子だったけど」
「いや、変わった格好だなと思って」
と竜也は言い訳しつつ腕の中から抜け出す。
「あの子、牙犬族ですよね」
「ああ、牙犬族の部族装束だな」
へえ、と竜也は感心する。剣祖シノンは剣術だけでなく様々な日本文化を牙犬族に伝えたようだった。
「ルサディルにも牙犬族はいたけどあんな格好はしてませんでしたね」
「そりゃ、ルサディルみたいな地の果てじゃあんな服は手に入らないだろ。ここは牙犬族の里にも近かったはずだしな」
なるほど、と竜也は納得した。
そして上演が終わり、ヤスミン達出演者が列を作って観客を送り出す段となる。その端に並んでいた竜也は帰っていく観客の中に牙犬族の少女の姿を見出した。
「ごめん、ちょっと離れる」
竜也は一言断って列を抜け出した。雑踏の中に紛れそうになっている少女を見つけ、その後を追う。牙犬族の部族装束が幸いし、少女を見失うおそれは少なかった。
「でも、追いかけてどうしようって言うんだ?」
反射的に追いかけ、ほぼ追いついた。声をかければ届く距離にいる。だが、竜也は無言のまま少女の後を尾行するだけだ。まるで不審者の振る舞いである。
「別に用事があるわけじゃない。剣祖や牙犬族の話が聞ければそれでいいんだ。でもどう話しかければいいのか……」
その欲求がホームシックの発露であることに竜也自身は気付いていなかった。おそらくは日本人の血が流れる少女の姿に、異国で見た日本文化に、竜也の望郷の想いが刺激されているのだ。だが竜也はその事実から目をそらしている。望郷の想いを抑圧し、故郷の地を思い出さないようにしている竜也は敢えて判ろうとしていない。
自分でも理解できない衝動に突き動かされ、竜也は少女を尾行する。少女は何か物思いにふけっているようで、竜也の下手くそな尾行にも気付いていなかった。少女が人気のない空き地へと足を踏み入れる。竜也はその後を追った。
空き地に足を踏み入れようとし、竜也の足は止まってしまう。まるで結界が張られたように空気の質が変わっている。
空き地の中心では一人の少女が佇んでいる。少女の前には同じくらいの背の高さの大きな岩があるだけだ。だが少女はまるで見えない敵と対峙しているかのようだった。少女から放射される殺気と緊迫感がその場の空気を支配している。それに呑まれた竜也は息苦しさすら覚えた。
「――ふっ!」
少女の剣が一閃。目にも止まらぬ速さで剣が振るわれ、首がはねられるように目の前の岩の上部が断ち斬られる。少女は鞘に剣を収めながら、
「ふっ……またつまらぬものを斬ってしまいました」
むなしげに呟いた。一方の竜也はずっこけそうになっている。
それでようやく竜也の気配を感じ取ったようである。振り向いて竜也の姿を認めた少女は、
「いやあのそのこれは」
と何やら混乱しつつ赤面している。竜也は笑いを抑えながら、
「君は牙犬族の子だよね」
と話しかけた。
怪訝な様子の少女に竜也は正直に話をする。自分がヤスミン一座の一員であること、「カリシロ城の花嫁」の脚本を書いたこと、マゴルであり剣祖シノンと同郷であること、等々。
「……ああ、言われてみれば確かに。顔立ちや肌の色が一族の者と似通っています」
剣祖と同郷である点が少女の警戒心を解いたようだった。
「申し遅れました。わたしは牙犬族のサフィールです」
それから二人は長い時間様々なことを話し込んだ。劇のこと、剣祖のこと、牙犬族のこと。
「剣祖が劇に出ているという噂を耳にして見に来たのですが――素晴らしかったです! 劇も面白かったけど剣祖があのような方だったとは……! 剣祖の剣技や振る舞いをこの目で見る日が来ようとは想像もできませんでした」
と感無量のサフィールの様子に、竜也はちょっと引き気味である。
「……いや、あれはただのお芝居だから。剣祖とは別の剣士にシノンて名乗らせているだけで、剣祖の話なんて俺は知らないし、俺が聞きたいくらいだから」
サフィールは「それは判っています」と言うが、それが本当かどうかは竜也には疑わしく思えた。
「ですが、一族の中で当代最強と言われる剣士がちょうどあのような方なのです。だから実物の剣祖もあのような方なのに違いありません」
と拳を握って力説するサフィール。竜也もそれ以上はサフィールを白けさせるようなことを言わなかった。
「……まあ、元ネタの剣士の方もある意味サムライの理想像なわけだし、それが剣祖の実像と一致していてもそれほど不思議はないかも」
「その通りです」
とサフィールは力強く頷いた。
「それにしても凄いね。これが牙犬族の恩寵か」
竜也は断ち斬られた岩へと感嘆の目を向けた。斬り口はまるで磨いたかのように滑らかだ。
「確か『烈撃』だっけ」
「はい、剣に恩寵を流し込んで断ち斬る技です。劇の剣祖ほどではありませんが、似たようなことならわたしにもできます」
と誇らしげに胸を張るサフィール。竜也はあることに気が付いて、
「その剣、少し見せてもらっていいかな」
その頼みにサフィールは「はい、どうぞ」と剣を差し出す。竜也は剣を鞘から抜いて、
「え、何だこれ」
と驚きの声を上げた。
拵えこそ日本刀に似せてあるが刀身は全くの別物だ。刃はなまくらもいいところで、ホームセンターで売っている薄い鉄板と大差ない。その辺の包丁の方がよほど切れ味がいいだろう。鋭器と言うより鈍器である。ただ、美術品みたいな日本刀とは違って頑丈なのは間違いない。打ち合えば日本刀の方がへし折れるのは確実だ。殺傷力にしても、有段者が持てば木刀だって簡単に人が殺せるのだ。この剣が日本刀に劣っているとは思えなかった。ましてやこの剣を使うのは「烈撃」の恩寵を有する牙犬族である。
(真空の刃……じゃ説明がつかないな。恩寵っていう不可視の力で断ち斬っているのか)
「凄いな。こんな剣であんな岩を」
竜也は剣をサフィールに返した。サフィールはそれを受け取りながら、
「本当の剣祖ならあの劇くらいのことは軽くできるでしょう」
「……いや、マゴルは恩寵なんて持ってないから。恩寵抜きじゃ岩なんか斬れないから」
サフィールは「それは判っています」と言うが、それが本当かどうかは竜也にはかなり疑問だった。
「牙犬族の里はこの近くだと聞いたんだけど」
「大分離れていますよ。里に一番近い町はサブラタです」
サブラタは元の世界で言うならトリポリの西に位置する町であり、直線距離でもスキラとは三〇〇キロメートル程離れている。だがルサディルと比較するなら近いうちに入るかも知れなかった。
「わたし達は普段は里から出ることはほとんどありません。ですが戦士の方達は傭兵の仕事で町に出てくることがあります。わたしの父は実戦には出ないのですが、傭兵の仕事を探したり報酬交渉をしたりといった仕事をしていて、今回わたしは父の付き添いとして町に出ることが認められたのです」
……二人は随分長いこと話し込んで、気が付いたら日差しが傾き辺りが薄暗くなっていた。
「ああ、もうこんな時間ですね。そろそろ戻らないと」
「そうか、残念だな」
二人は空き地から道路に出て向かい合った。
「じゃあ良かったらまた劇を見てきてくれ」
「ええ、それはもちろん。今度は一族の者に声をかけてみんなで見に来ます」
そうしてくれると嬉しいな、と竜也は笑う。そうしてサフィールと別れ、その日は終わった。サフィールが再び劇場にやってきたのはその翌日である。
「タツヤ殿! みんなで見に来ました!」
とサフィールは朗らかに笑う。その言葉の通り、サフィールの後ろには十数人の牙犬族の剣士が並んでいた。男達の体格は総じて比較的小柄だった。竜也よりも背の高い者が一人もいない。だが、侍を絵に描いたような顔立ちの、武器を持った男が十数人もいて威圧されないわけがない。竜也は何とか笑顔を返すがその頬は引きつっていた。
「おぬしが剣祖と同郷というタツヤ殿か! 儂は族長のアラッド・ジューベイだ」
と名乗るのは右目を眼帯で覆った初老の男だ。肌の色はやや濃く、年齢は五〇過ぎ。身長はサフィールより少し高いくらいだが、身体の厚みは竜也の倍くらいある。灰色の長髪をちょんまげ風に後ろで結んでいるがさすがに月代は剃っていなかった。
「剣祖の活躍を見せてもらえるそうだな。楽しみにしておるぞ!」
と哄笑するアラッド・ジューベイ。
「え、ええ。どうぞ楽しんでいってください」
と竜也は冷や汗をかきながらアラッド達を場内へと案内した。
「ちょっとタツヤ! 大丈夫なの?」
案内を終えて戻ってきた竜也の元にヤスミンが駆け寄ってくる。
「わたしみたいのが剣祖を演じて、あの人達を怒らせたりしない?」
見れば不安そうにしているのはヤスミンだけではない。他の出演者も同じく不安げである。竜也は彼等を宥めた。
「サフィールには好評だったし、大丈夫だと想いますよ。いつも通り格好良く演じればいいんですよ」
ガイル=ラベクにも好評だったでしょ?と竜也は笑う。それでヤスミン達は落ち着きを取り戻した。
「そうね、わたし達はあのガイル=ラベクに本物だって認められたんだから。不安がることは何もないわね」
と頷き合うヤスミン達。そして定刻となり、ヤスミン達は舞台裏へと向かう。間もなく劇が始まろうとしていた。
……それから数刻が経ち。上演が終わって場内から観客がぞろぞろと出てくるところである。
「あ、サフィール」
竜也はサフィールの姿を見つけ、声をかけた。
「二回目ですが面白かったですね。ただ、ちょっと気になった点がいくつか。剣祖の刀の持ち方なのですが……」
「そこはやっぱりお芝居だから見栄えを優先させて……」
そんな話をしているうちにしばらく経って、
「あれ、そう言えばアラッドさん達は?」
牙犬族の他の面々の姿がないことに気が付いた。竜也とサフィールは劇場を出、通りを歩いていく。
「宿に向かったのならこっちでしょう」
とサフィールが示す方向へと向かう。そのまま道なりに進み、二人は昨日話し込んでいた空き地へとやってきた。竜也がその空き地をのぞき込むとそこには牙犬族の面々が。彼等はそれぞれが空き地のあちこちに散らばって、
「またつまらぬものを斬ってしまった……」
「我が剣に斬れぬものなし……」
「今宵の斬鉄剣はひと味違うぞ……」
等と芝居の台詞を呟きながら、ときたま剣を岩に、虚空に振るっている。竜也はその場に崩れ落ちるようにひざまずいた。
「おや、タツヤ殿か!」
竜也に気が付いたアラッドがそばにやってきた。竜也は「牙犬族って一体……」と疑問を抱きながらも何とか立ち上がる。
「サフィールがあまりに言うものだから見てやったが……素晴らしかったぞ! 剣祖があのような方だったとは。剣祖の剣技や振る舞いをこの目で見る日が来ようとは想像だにしておらなんだわ!」
「……いえ、あれはお芝居でお話ですから。剣祖のお話なら俺が聞きたいくらいですから」
竜也は精神的に疲れながらも何とか言うべきことは言う。アラッドは「判っておるわ!」と笑うが、それが本当かどうかは竜也には極めて疑問に思われた。
「おぬしには剣祖の故郷のことを聞かねばと思っておったところだ。さあ、来い!」
竜也はアラッド達に捕まり、そのまま連行されてしまった。行き先はアラッド達の宿泊先の宿屋だ。アラッド達は帰ると早々に酒を持ち出し、宴会へと突入した。竜也もそれに付き合う羽目となってしまう。
「剣祖と同郷となればタツヤ殿は我等が同胞も同じ! さあ、飲むがいいぞ!」
と杯を渡される。竜也は辟易しながらも「ありがとうございます」とそれを受け取り、舐めるように酒を飲んだ。
「サフィールには剣祖の血が入っているんですか?」
「剣祖は当時の族長の娘と夫婦になったからな。族長の血筋には剣祖の血が流れておる。さあ飲め!」
なおサフィールは前代族長の孫娘に当たるとのこと。
「剣祖が流れ着いたときに持っていたものは……」
「素晴らしい刀を持っておってな、今では一族の至宝だ。儂でも数えるほどしか見たことがない。あれの銘が斬鉄剣だったのだな」
「いやそれは」
「さあもっと飲め!」
アラッドが好意で勧めてくれていることは判るので竜也も無碍にはできず、だが酒もよっぱらいも苦手な竜也は往生するしかなかった。竜也はその場を誤魔化すために、
「剣祖と同時代の剣士の話にはこんなのがありまして」
と、とある剣術試合の話を語り出した。
「――狂気に犯されたその領主が開いた、真剣による御前試合。隻腕の剣士が剣をこう、肩に担いで剣を抜いて」
気が付けばアラッドだけでなくその場の全員が竜也の語りに耳を傾けている。血生臭い、陰惨な話だが、酒の肴には向いているようだった。
「対する盲目の剣士が取った構えは、誰も見たことも聞いたこともない奇っ怪な構えでした」
因縁の両剣士の、一瞬の決着。そして意外な結末。
「出場した剣士、一一組・二二名。敗北による死者八名、相打ちによる死者六名、射殺二名。生還者は六名、うち二人重傷――領主は乱行の責を負い、腹を切って自刃。多くの犠牲を払い、何物も得られなかった御前試合はこうして幕を閉じたのです」
竜也の語りが終わり、一同が「ほーっ」とため息をついた。異国の剣士達の凄惨な末路に、言葉も出ないようだ。
「……なるほど、剣祖はそのような地で剣を学んだのか。いや、よく語ってくれたタツヤ殿」
とアラッドは満足げな様子だった。後日、牙犬族の面々が虎眼流奥義「流れ」を会得し披露してみせ竜也は頭を抱えるのだが、それはまた別の話である。
こうして竜也は牙犬族の面々と親交を深めることとなった。翌日以降も牙犬族の剣士達は入れ替わり立ち替わり「カリシロ城の花嫁」を見に来ている。数日後、アラッドやサフィールが里に帰る前には挨拶に立ち寄ってくれた。
「おぬしはすでに一族も同然。何か困ったことがあれば力になってやろう」
「ありがとうございます」
と言いつつも竜也はアラッドの姿に何か違和感を覚えた。内心首をひねり、何がそう感じさせるのか考え込む。その様子にアラッドの方が気が付いたようで、
「タツヤ殿、いかがなされた?」
「いえ、前と何か違っている感じがして。気のせいです」
ああ、とアラッドが自分の左目の眼帯を指差した。
「多分これのせいだろう」
説明されてようやく竜也も気が付いた。
「……この間は確か右目にしてませんでしたっけ」
「その通り。今日は左目の日なのだ」
竜也は引きつったようになりながらも「そ、そうなんですか」と頷いてみせる。
「それではさらばです」
「族長も、サフィールもお元気で」
サフィールやアラッド達は竜也に背を向けて歩き出した。後ろ姿が豆粒よりも小さくなるまで見送った竜也は、
「……左目の日って何なんだよ!」
虚空に向かって一人突っ込みを入れていた。
こうして牙犬族の剣士達は去っていった。竜也が彼等と再会するのはしばらく先のことである。