「黄金の帝国」・漂着篇
第八話「冒険家ルワータ」
エルルの月(第六月)の中旬のある日。いつものように劇場で雑用に従事していた竜也はヤスミンにある仕事を頼まれた。
「タツヤ、色落ちした看板の代わりを描いてくれない?」
「ああ、確かにもう代えないと駄目でしたね」
劇の看板はスキラの看板屋に依頼して作成したのだが、雨に濡れて絵の具が色落ちしてしまったのだ。
「やっぱり予算をケチっちゃ駄目ね」
とヤスミンは舌打ちしている。
「幸い客の入りは良いから今度は予算をかけてもっと上等の看板を頼むことにするわ。その間のつなぎに使えるのが必要なの」
看板に描かれていたのは海賊王グレゴレットの肖像画だが、竜也に言わせれば「小学生レベルの絵」でしかなかった。エレブでは写実的な絵画や肖像画が美術界で人気だそうだが、ネゲヴでは人物画の技法がまだそこまで発達していない。水準としてはヨーロッパの中世のせいぜい中期くらい。しかも描いたのは場末の看板屋である。
「俺に描かせてくれればいいのに」
とずっと考えていた竜也は「まあ、やってみます」と内心張り切って引き受けた。
そして劇が終わった後の舞台、竜也はそこに無地の看板を用意している。看板は二メートル四方の板に白い布を貼った物である。手にしているのは木炭鉛筆だ。絵の具も用意できるとヤスミンは言っていたのだが、竜也はそれしか使うつもりがなかった。
広い劇場内に竜也はただ一人、看板を前に佇んでいる。照明は安物の油ランプだけだ。深呼吸をくり返した竜也は、
(よし!)
木炭鉛筆を剣のように一閃させた。
……そして翌日、カフラがヤスミン一座の様子を見に劇場にやってくると。
「? 何かあったんでしょうか」
劇場の前に人だかりができていた。野次馬が集まって劇場に入らず、劇場の前で何やら騒いでいるような様子である。カフラはその野次馬の一団の中に身を投じた。
「なんかすげえな!」
「ああ、何と言ったらいいか判らんが、とにかくすごい」
人をかき分け、ようやくカフラは最前列へとやってきた。野次馬が囲んでいるのは看板である。白地に黒い線だけで人物が描かれている、ただそれだけの看板だ。だが、
「な――」
カフラは絶句するしかなかった。
一方竜也は劇場入口で入場料の受け取りをやっているところである。そこに、
「タツヤさん!」
とカフラが飛び込んできた。
「ああ、こんにちは」
という竜也の挨拶を無視し、カフラは竜也を劇場の片隅へと引っ張っていく。
「あの看板描いたのタツヤさんですよね!?」
「ああ、そうだけど何か?」
結構好評みたいなんだけど、ととぼけた様子で言う竜也にカフラは脱力するしかない。
「……好評にもなりますよ。あの看板だけでお金が取れるレベルです」
まさか、と笑う竜也にカフラはため息しか出てこなかった。
短い制作時間と限られた画材。白地に黒一色だけで絵を描いて最大限の効果を発揮する、竜也がそのために選んだ手段は日本の漫画絵の流用であった。
(幼稚園の頃からずっと漫画を読んでいた。一時期は漫画家を志して、落書きノートを何十冊も使い潰した。知識やテクニックも蓄積した。その全てを今ここで活用する――!)
そうやって、一筆入魂で描いたのは海賊王グルゴレットの肖像である。衣装は劇で見ているそれに加えてガイル=ラベクの格好を参考にし、できるだけ精密に。その一方顔は思い切ってシンプルに描写した。容貌の描写にも間近で見たガイル=ラベクの影響が多分に含まれている。絵柄としては小学生の頃によく模写した尾田栄一郎の「ONE PIECE」が基本だが、それをより写実的にしたものだ。リアルとデフォルメが絶妙の均衡を保った絵柄である。完成した肖像はモノトーンの落ち着いた描写でありながら迫力があり、グルゴレットのしたたかさがよく表現されたものとなった。
「うん。なかなか良い出来になった」
と自分でも満足していたし、
「こんな絵見たことない」
とヤスミンや一座の面々にも好評だったのだ。
だが、ヤスミン達や野次馬にはこの絵の本当の価値を到底理解できないだろう。美術に造詣の深いカフラだからこそ判るのだ、竜也のこの絵がネゲヴの美術界にどれほどの衝撃を与えるかを。浮世絵が一九世紀のヨーロッパ美術界に衝撃を与え、ジャポニズムという潮流を生み出したように、竜也のこの絵はネゲヴの美術界に新しい潮流を生み出す――可能性もなくはないのである。
「タツヤさんにあんな画才があるなんて聞いてないです!」
「絵は得意だ、とは言ったよな?」
「ともかく!」
とカフラは竜也の言い訳を打ち切らせ、
「あんな絵が描けるのなら肖像画も描いてもらいます。まずはわたしの絵を描いてもらいましょう」
こうして竜也はカフラの肖像を描くこととなった。準備を整えて竜也がカフラの元へと向かったのは翌日である。それにラズワルドが同行する。
カフラの家に到着し、その前で竜也は、
「……」
言葉をなくして立ち尽くしていた。竜也の前にあるのは町の一区画を丸ごと占有した巨大な邸宅である。門からは建物が見えない。
「クロイ・タツヤ様ですね。どうぞこちらへ」
「あ、はい」
武装した警備員に案内されてその敷地内へと足を踏み入れる。何分も歩いて、ようやく到着した建物の前で、
「……一体どこの王宮なんだよ」
ようやく出てきたのはそんな言葉だけだ。豪奢を極めた、三階建の石造りの宮殿、そんな建物がそこにはあった。
「ああ、よく来てくれました」
カフラ自身が宮殿から出てきて出迎えてくれる。竜也達はカフラに案内されてその建物の中へと足を踏み入れた。
「カフラの親御さんもいるのかな。ご挨拶しなくてもいいのかな」
と竜也は気を配る。ただしその方向性は明後日どころか二年先くらいに全くの見当違いだったが。
「気にしなくてもいいですよ。ここはわたしだけが使っている別邸で、家族は本邸の方ですから」
「……ああ、そう」
そうして竜也達は中庭へと案内される。四阿にはすでに絵の具等の画材やキャンバスが用意され、何人ものメイドがお茶会の用意も万全に整えていた。
メイドがお茶を入れて去っていき、その場には竜也達三人だけが残される。お茶を一飲みして軽く休憩した竜也は早速画材の検分に取りかかった。筆や絵の具を手にして眉を寄せ、結局手元に残したのは木炭鉛筆だけで後は全て片付けてしまう。
「ちゃんとした絵の具で描いてほしいんですけど」
と不満を言うカフラだが、
「これが一番慣れてて描きやすいんだ。他のじゃ上手く描けない」
と竜也が言うので容認するしかなかった。キャンバスに向かおうとする竜也だが、その袖をラズワルドが引く。
「わたしも描いてほしい」
「ん、判った」
竜也は軽く答え、用意されていたB5程のサイズの紙にさらさらと絵を描いて、
「ほら、完成」
とラズワルドに渡した。カフラが興味深げに横からのぞき込む。
そこに描かれていたのは二頭身までデフォルメされたラズワルドだ。絵柄はつくりものじ氏のそれで、氏の描くセイバーや間桐桜をほとんどそのままパクったものである。
「……すごいですね。こんな絵なのにラズワルドさんだって判ります」
とカフラが感心し、頬を膨らませたラズワルドがぽかぽかと竜也を叩いた。
「ラズワルドの絵は今度描いてやるから」
と竜也が宥める。気持ちを切り替えた竜也はカフラの肖像描画に取りかかった。
「……」
姿勢を正してすまし顔をするカフラ。だが竜也はそのカフラの方をほとんど見ていない。ただキャンバスだけに目を向け、筆を振るっている。
「……モデルを見てなくてもいいんですか?」
「カフラのことはずっと見てきたんだから今更見る必要なんかないよ」
そう答えながらも竜也の筆は止まらずに動き続けている。カフラは少し赤面しながら「そうですか」と答えて平静を装うべく努力し、ラズワルドはそのカフラをやや険しい目で見つめている。
カフラはそれでもモデルたるべく、なるべく身動きせずに同じ姿勢で座り続けた。だがそれも一時間もしないうちに終わってしまう。
「よし、完成」
「え、もうですか?」
竜也にしてみれば必要以上に時間をかけて丁寧に描いたつもりである。
「こんな感じになったけど、どうかな」
竜也はキャンバスの向きを変え、カフラへと見せる。カフラは自分の肖像画を目の当たりにし、
「――」
短くない時間言葉を失った。
絵柄はやはり日本の漫画絵を流用したものだが、より写実的な路線である。中学生の頃に散々模写をした小畑健や矢吹健太朗の絵柄を基本とし、今の竜也に描ける美少女の極致を描いたと言える。
「でもやっぱり本職の漫画家には遠く及ばないし、実物の魅力を充分描けたともとても言えないし」
と竜也としては不満の残る出来映えとなってしまった。だがカフラは、
「……どうした?」
長い間彫像のように硬直していたカフラだが、いきなり立ち上がって自分の肖像画を四阿の壁へと向けてしまう。そして竜也の視線から隠すように身体を両腕で抱いた。その顔はトマトのように真っ赤であり、まるでヌードを見られたかのような振る舞いだ。潤んだ瞳でにらまれ、竜也としては戸惑うしかない。
「……あの、カフラさん?」
「タツヤさんはわたしの許可がない限り肖像画を描くのは禁止です!」
一方的に言い渡され、さらには「今日はありがとうございました!」と屋敷から追い出されてしまった。閉ざされた門扉を前に、竜也はただ呆然とするばかりだ。
「カフラは一体何に怒っていたんだ? 判るか?」
「怒っていたわけじゃない」
竜也は重ねて「どういうことだ?」と訊ねる。だがラズワルドはそれに答えなかった。無言のまま竜也の尻をつねるだけだ。ラズワルドは竜也を無視するように歩いていく。竜也は首をひねりながらその後を追うしかなかった。
……その夜、就寝にはまだ少しだけ早い時間。カフラは自室のベッドでうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。部屋の中央には架台があり、そこには竜也の描いた肖像画が置かれている。
カフラはベッドの中からその肖像画を眺めた。自分と同じ顔の少女が柔らかく微笑んでいる絵――見るたびに自分でも整理の付かない様々な感情がこみ上げてくる。
「……タツヤさんにはわたしがこういう風に見えているんですね」
カフラの反応が「まるでヌードを見られたようだ」と感じていた竜也だが、その想像はある意味正しかったのだ。だが竜也が見透かしたのはカフラの素肌ではない。
「ナーフィア商会令嬢のカフラマーンではなく、ただのカフラ。あなたにとってのわたしはそういう子なんですね」
カフラは誰と相対してもその相手との間には必ず壁が作られる。「ナーフィア商会令嬢」という名の壁である。その壁を作るのは大抵の場合相対する相手であるが、カフラ自身が作ることもある。一つ言えるのは、その壁を透して素のカフラへと目を向ける者はいたことがない、ということだ。
だが、竜也にとっては最初からそんな壁は存在していなかったのだ。カフラも何となく感じていたことだが、その事実を確固とした証拠付きで突きつけられてしまった。これまでも竜也に対しては好感を持っていたカフラだが、その質が変わりつつある。今はまだ小さな種のようなものだ。だがそれが育ってしまったなら、抑えきれないくらいに大きくなってしまったなら、
「――駄目です、こんな気持ち。現実には大団円なんてあり得ないのに」
カフラは肖像画を布に包んで衣装箪笥の奥へとしまい込んだ。それと一緒に自分の心も奥底へとしまい込む。宝石のように輝くその小さな種が、決してこれ以上大きくならないように――。
カフラが劇場にやってきたのはその翌日である。竜也は雑用の合間にカフラと面会した。
「昨日は失礼しました」
と平静を取り戻しているカフラが頭を下げる。竜也は「それはいいんだけど」と受け流し、
「そんなにいまいちだったかな。あの絵」
と落胆を隠せない口調で訊ねた。
「いえ、そんなことは!」
とカフラは慌てて否定する。
「とっても素晴らしい絵でした! あの絵は家宝として残します!」
竜也はその言葉を単なる誇張表現だと思い、聞き流した。
「……ただ、あまりに良すぎて。あの絵はしばらくは誰にも見せられません」
と曖昧に笑うカフラに竜也は「どういうことだ?」と訊ねる。
「お母様があの絵のことを知ったなら絶対にお見合いに使います。あんな絵が出回ったならお見合いの申し込みが殺到しかねません」
わたしはまだ当分自由でいたいんです、とカフラが話をまとめ、竜也はそれを理解した。
「それじゃ劇の看板を描くのも自重した方がいいのかな」
「そうですね、そうしてもらえれば助かります。ちゃんとした看板屋なら紹介しますから」
だが、竜也達のその判断は結果として少し遅かったようである。竜也の描いた看板の評判がスキラに広まっているのだ。噂を聞いた人が看板を見るためだけに集まり(看板を見るだけなら無料である)小銭のある者は「カリシロ城の花嫁」も見ていき、評判がさらに高まる。それがくり返され、エルルの月が終わる頃には「カリシロ城の花嫁」は満員御礼が連日続くようになっていた。
「タツヤ、新しい看板描いて!」
ヤスミンは当然竜也にそう依頼する。
「でも、カフラからはもう看板は描くなって」
と難色を示すが、
「そんなのいまさらでしょ! 『カリシロ城』の今の評判は劇の面白さとあの看板がひとまとめになってるんだから。タツヤの看板がなくなったらお客さんだって納得しないよ!」
ヤスミンの言うことももっともであり、竜也はそれに反論できない。竜也はカフラに一言断り、カフラもヤスミンの言い分の正しさを認めるしかなく、竜也は看板を新規制作することとなった。
そしてタシュリツの月(第七月)の初旬。新しい看板のお披露目である。
「おー、今回もすげぇー!」
「なんか荒っぽい絵だけど、迫力は前よりもあるな!」
朝一番から看板を見るためだけに大勢の見物人が集まっていた。見物人目当ての屋台が出て商売をしているくらいである。
今回制作された看板は高さは約二メートル、幅は約四メートル。前回の倍の大きさがある。前回はグルゴレット一人しか描かなかったが今回はグルゴレットに加えてカシャット・シノンも描いた。グルゴレットは剣を振り上げ、カシャットは矢を番え、シノンは腰だめに剣を構える。戦いに臨む三英雄の図である。
丁寧で精密な描写を今回は捨て、勢いと力に任せて描き殴った。このため非常に荒々しい描写となっているがその分迫力は段違いに増している。グルゴレット達が今にも動き出し、襲いかからんばかりだ。
「よしよし、今日も満員御礼になりそうだね」
看板に人集りができている様子にヤスミンは満足げな笑みを見せる。竜也も満更ではないという感じで、カフラはちょっと複雑そうな表情だった。
タシュリツの月(第七月)の中頃のその日、
「すみません、お世話になります」
「何だ、結局ここに来たのか」
ログズは憎まれ口っぽくそう言いながらも竜也とラズワルドを招き入れる。竜也とラズワルドはついに長屋から逃げ出す羽目になったのだ。二人の引越先はログズの元、「スキラの夜明け」本社上の屋根裏部屋だった。
「それで、何をやって追い出されたんだ?」
ログズの問いに竜也は気まずそうに沈黙する。ラズワルドは偉そうに胸を張って、
「わたしは悪くない」
と開き直っていた。
「……まあ、ラズワルドだけが悪いわけじゃないよな。巡り合わせというか小さなことの積み重ねというか、色々あって」
確かに全ての責任がラズワルド一人に帰するわけではない。だが最大の原因がラズワルドにあることは竜也にも否定できない事実だった。
あるときは長屋の住人の一人が外に干していた竜也の服を狙ってくり返し泥棒をした。ラズワルドは他の住人の面前で、
「その靴はそっちの人から盗んだお金で買った。その服はあっちの人から盗んだ置物を売って作ったお金で買った。今着ている下着はこっちの人から盗んだもの。今日食べたパンは一昨日そっちの人から盗んだもの」
その人物の盗み癖を徹底的に暴露したのである。元々手癖の悪さで白い目で見られていたこともあり、その人物は次の日には長屋を去っていった。
あるときは長屋の住人の子供がラズワルドに嫌がらせをくり返した。物を奪い取って壊す、殴る蹴るなどの暴力を振るう、「悪魔」と呼んで馬鹿にする、等だ。ラズワルドはその子供とその両親が揃っている場面で、
「その子の父親はあなたじゃない」
と突然暴露。その父親が血の気の多かったこともあり、かなり派手な刃傷沙汰に発展した。
あるときは年若い主婦がラズワルドのことを「あの子は淫売の娘で父親が誰だか判りやしない。あの子自身も淫売だ」などと事実無根の誹謗中傷をし、さらにそれを言い広めた。ラズワルドはその主婦に対し、
「……カルト=ハダシュトで身体を売っていた。店の名前は『人魚の館』。店の金を盗んでスキラに逃げてきた」
事実の指摘で対抗したのである。その女は憤怒と恐怖と屈辱に一度に襲われ、過呼吸を起こす寸前となった。
「あ、あ、悪魔……!」
喘ぐようにラズワルドを罵倒するその女。だが少女は、
「悪魔じゃない。『白い悪魔』」
と冷笑を浮かべるだけだ。結局その女は次の日には姿を消していた。
そんなことが何度もあればヤスミンだって庇いようがなくなる。
「ごめん、もう無理」
とヤスミンは両手を挙げた。これ以上ラズワルドを庇えばヤスミン一座全員に被害が及ぶと判断。ヤスミンは一座の面々の安全のために竜也とラズワルドを切り捨てたのである。
「すみません、迷惑かけて」
竜也としては今まで庇ってくれたことを感謝こそすれ、ヤスミンを逆恨みしたりはしない。ヤスミンの部屋を出た竜也は自分の部屋に向かうが、その竜也を長屋の住民達は無言のまま見つめている。その視線に込められた感情に竜也は悪寒を覚えた。ヤスミンが竜也達を見捨てたことはもう知られているとしか思えなかった。
暴力沙汰となればラズワルドは非力そのものだし竜也だって五十歩百歩だ。
「さすがにそろそろ危ないかも」
とラズワルドも警告するので竜也は次の日の朝には長屋を引き払ったのである。
「まあ、スネに傷を持つのはお互い様だ。歓迎するよ、お隣さん」
ログズはそう笑って竜也達を迎え入れた。
「スキラの夜明け」社が入っている建物の一階は「マラルの珈琲店」というカフェで、経営しているのはマラルという名の女性である。マラルは建物全部の所有者のようで、竜也はマラルと賃貸契約を結んで部屋裏部屋に住み着くこととなった。引越以降竜也達の生活のリズムも大分変わってくる。
屋根裏部屋は寝る以外に何もできない場所で、熱がたまりやすく日が沈んでも暑い状態が続く。このためそこで眠るのは深夜から午前のかなり遅い時間まで、となる。それ以外の時間、竜也は「スキラの夜明け」社で場所を借りて小説を書いたりしているし、ラズワルドはマラルの元でカフェの手伝いだ。接客をすることはほとんどなく、掃除や皿洗い等の裏方を担当している。
客のいない時間帯に竜也が店の様子を覗いてみると、マラルとラズワルドは横に並んで布巾を使ってカップを磨いているところだった。ラズワルドは普段とほとんど変わらない仏頂面だが、それなりに楽しそうである――もっともそれが判別できるのは竜也くらいだろうが。
マラルもまたラズワルドと同じような、退屈そうな無愛想な面相だ。だが、あの人付き合いが悪く人間嫌いでコミュ傷なラズワルドが結構懐いているのだ。マラルが悪人ではなく、またラズワルドのことを嫌ってもいないことだけは確かだった。
「マラルの珈琲店」は珈琲やお茶、簡単な軽食を提供する健全な喫茶店である。店内には「スキラの夜明け」を始めとする新聞・書籍が置いてあり、ある程度の小銭と教養を有する小市民が集まって新聞を読んで議論をする、一種のサロンだった。竜也はログズと一緒にときたま議論に加わっている。
長屋のように自炊できる設備はないがその代わり一日二食珈琲店のまかないを食べさせてくれ、それも賃貸契約の一部である。このため住環境が劣悪な割に家賃はかなり高額だった。家賃を払ったら手元に現金がほとんど残らないだろう。だが竜也達に大きな不満はない。
「毎日寝苦しいけど、そのうち慣れる。元の長屋よりもここの方がずっと居心地が良い」
「確かに」
ラズワルドの言葉に竜也は全面的に同意した。マラルは下宿人に対して無関心・不干渉という立場で、ラズワルドにはそのドライさ加減が心地良い。ログズやカフェの常連も教養があり、竜也にとっては馬が合う人達だった。
新居と新しい生活にも多少は慣れてきた頃、月はアルカサムの月(第八月)になっており、その月初め。スキラの書店には「小さな奇跡の物語」という小説が並んでいた。物見高い者達がさっそくその本を手に取っている。
「誰の小説だ、これ……『ニッポンノ・エンタメ』? 変な名前だな」
「ああ、それを書いたのは『カリシロ城の花嫁』と同じ人だって話ですよ」
と抜け目ない書店の店員が宣伝をする。
「へぇ、期待できそうだな。じゃあ買うよ」
「はい、毎度ありがとうございます」
一方書店の片隅では竜也とカフラがいて、本の売れ行きを伺っている。目の前で何冊かが売れていくのを確認し、竜也達はその書店から立ち去った。
「売れ行きは順調そうですね。増刷の準備をしておきましょうか」
「その辺の判断はカフラに任せるよ」
「でもタツヤさん、名前を出さなくても本当に構わないんですか?」
「小さな奇跡の物語」刊行にあたって竜也が選んだペンネーム、それが「ニッポンノ・エンタメ」であった。
「名前を出したくないんだよ。あれは俺が考えた話じゃないんだから」
それが、他人のふんどしで相撲を取ることに対する最低限の節度だと竜也は思っている。カフラには竜也のこだわりはよく理解できなかったが、竜也の意志を軽んずることもしなかった。
「この分なら『小さな奇跡の物語』は売れるし、評判になるでしょう。もう何冊か出版して売れっ子になったら印税契約に切り替えますから、頑張ってくださいね」
こちらでは出版物の印税契約は売れっ子の特権らしく、普通は作者に支払われるのは原稿料だけだとか。その本がどれだけ売れても作者には一レプタも入らないが、その代わり本が全く売れずに在庫が山積みになったとしても損害を受けるのは出版社だけである。
「こっちの商慣習がそうなら仕方ないよな」
と竜也も納得している。
「家賃を払っても結構残るかな。何か美味しいものでも食べに行くか。いや、少しは貯金して、ラズワルドに新しい服も買ってやらないと」
等と計算をする竜也は完全にこの世界の小市民だった。
「小さな奇跡の物語」出版から間を置かず、謎の小説家ニッポンノ・エンタメ執筆の小説版「カリシロ城の花嫁」が書店で販売された。さらにその月の中旬にはヤスミン一座が海賊王冒険譚の新作劇「隠し砦の三海賊」の上演を始めている。前作の好評を引き継ぎ、「三海賊」は初日から満員御礼となった。
『馬鹿を言うな。グルゴレットって言や有名な大海賊じゃねぇか!』
『姫も一七、あの者も一七。同じ生命に違いがあろうか!』
『へっ、残念だったな。その娘は唖だ』
『裏切り御免!』
「隠し砦の三海賊」は黒澤明の「隠し砦の三悪人」を元ネタにした劇だが、かなりの改変を加えている。元ネタでは武将だった三悪人のリーダーにグルゴレットを配置。グルゴレットがとある小国の依頼を受けてお姫様を亡命させる、その逃亡劇を描いたものである。危機一髪が連続し、知恵と勇気で苦難をくぐり抜け、小悪党の二人が足を引っ張り、また笑わせる。
「三海賊」の面白さもまたスキラ中の評判となり、満員御礼が連日続いた。「三海賊」の好評に伴い脚本を執筆した竜也の評判も高まっている。そんな風に、竜也は順調にスキラでの地位を築いていった。
アルカサムの月の下旬、竜也を訪ねてカフラが「スキラの夜明け」社へとやってきた。竜也はカフラを「マラルの珈琲店」内の個室へと案内する。その個室はログズや店の常連が応接室代わりや密談等に使っており、重宝している部屋である。
「どうした? 浮かない顔をして」
「はい。どうしようかと思いまして」
とカフラはため息を一つついて説明を始めた。
「招待状? 俺に?」
「はい、今度催される内輪向けの展覧会です。タツヤさんの看板や小説の評判はかなり上にも届いているんです。招待状を送ってきたのはジャリールさんという方で、ナーフィア商会とも取引があってとても無碍にはできません」
ジャリールはスキラ有数の大豪商・ジャリール商会の当主である。また、美術品の熱心な収集家としても知られ、多数の芸術家をパトロンとして支援している人物だという。
「古典芸術だけじゃなくて新しいものにも目がない人ですから最初に動くとしたらこの人だと思っていましたけど、予想通りでしたね」
カフラはまたため息をつく。竜也もその様子を見て気後れがしてくる。
「こっちの礼儀作法とかは全く判らないから、堅苦しいところには行きたくないんだけど……」
カフラは少しためらっていたようだが、やがて「いえ」と強めに首を振った。
「やっぱり行かないわけにはいきません。タツヤさんの礼儀は確かになっていませんが、タツヤさんが思うように礼儀正しくしていればいいと思います」
大丈夫です、わたしも一緒に行きますから、とカフラは続けて竜也を安心させた。
そして何日かを経て、スキラの山裾の高級住宅地の一角。竜也はカフラに連れられてその場所を訪れた。三階建ての石造りの建物は元の世界の超高級ホテルのような印象を受けた。
「ここはどういう場所なんだ?」
「ジャリールさんの別邸です。こういう展覧会を開いたり賓客をもてなしたりするのに使われていますね」
竜也はカフラの後を付いていくようにその建物へと入っていった。
竜也達はその別邸のホールへと通される。ホールに着飾った大勢の人々が集まっていた。竜也もまた普段着ではなくカフラに用意してもらった見栄えのする衣装を身にしているが、それでもやはり気後れしてしまう。
――脈絡なく突然目覚める黒き竜の血! 人間の殻を破り捨て、黒真珠のような鱗の巨大な竜が天を飛翔する!
「おお、あれは何だ!」
「雨雲か?」
「雷雲か?」
いや、黒き竜だ! 人々は天空の竜を畏怖の目で見上げている!
「タツヤ、すごい」
とラズワルド。
「きゃー! タツヤさん格好良い! ステキ、抱いて!」
とカフラが
「タツヤさん、どうかしましたか?」
と聞いてくる。心を読まれたならラズワルドにすら愛想を尽かされそうな妄想から現実に帰ってきた竜也は「何でもない」と誤魔化した。妄想で自分を奮い立たせた竜也はカフラよりも先に立ってそのホールの中央へと進んでいった。
ホールの中にはあちこちに彫像や絵画が展示されていて、数人程度が集まってそれぞれの話に花を咲かせている。
「これはアーテファ女史の新作か。是非とも手に入れねば」
「ヘラスの彫像はいつ見ても見事だな!」
「これは私のコレクションに加えたいのだが」
「いえいえ、これは到底売れませんよ。あちらなどはどうでしょう?」
芸術談義だけではなく商談も話されているようだった。売買されているのはバール人の時代に制作されたような古典芸術よりは、新作の美術品の方が多いようだ。それらの作品の作者もまたこの場にいて、コレクター等に熱い眼差しを送っている。
こんな場所は生まれて初めての竜也は、
「へー、ほー」
と感心するばかりである。
そのまま会場の一番奥へと進むカフラ、それに続く竜也。カフラはそこでこの展覧会の主催者と対面していた。
「ご無沙汰をして申し訳ありませんでした、ジャリールさん、イフラースさん。今日は楽しませていただきますね」
「ああ、よく来てくれたな」
「お久しぶりです! 相変わらずお美しい」
ジャリールの年齢は五〇の手前、恰幅が良くエネルギッシュな印象の男だった。その横のイフラースは二〇代半ばの育ちの良さそうな青年だ。容貌からして二人は親子のようだが、ジャリールと比較するとイフラースの線の細さが目に付いた。
「今度僕が後援をしている者の演奏会があるのですが……」
「そうですね。予定を確認してからでないと……」
イフラースの方は熱心にカフラに話しかけ、カフラも礼儀正しく応対している。だがカフラはちょっと辟易しているように見受けられた。カフラの後ろに佇む竜也だが、ジャリールからもイフラースからも一顧だにされていない。どうやら竜也のことはカフラを呼び出す口実でしかなかったようである。
「できれば助け船を出したいところだけど」
下手に動くとカフラの顔を潰すだけだと判断し、竜也はカフラから少しずつ距離を置いていく。手持ち無沙汰となった竜也は並んでいる展示品に目を落とした。
「うーむ。これなんかギリシア・ローマの彫像そのものだよな」
美術品には元の世界との共通点や違いなどが見出され、竜也は一つ一つを興味深く見て回っている。そんな竜也に、
「ああ、そこの君」
「はい?」
声をかけられた竜也が振り返ると、そこにいるのは軽薄そうな一人の男である。年齢は三〇前後。美女を脇に侍らせ、指輪や首飾りをむやみやたらと光らせているその姿に竜也が好感を抱くことは困難だった。
「君は作品を出展していないのかい?」
男の問いに竜也は「はい、してないです」と返答する。
「それじゃあこれまでどんな作品を?」
「ヤスミン一座の劇の看板制作を三、四点ほど」
途端に男は「はっはっは!」と殊更に大声で笑った。
「看板屋か! 確かに看板をここに出展するのは難しいかもしれないね!」
嘲笑がさざ波のように広がる。どうやら男は最初から竜也を笑い物にするつもりでいたようである。竜也は「ぐっ」と怒りを噛み締め、
――脈絡なく突然姿を現す巨大な黒き竜! 阿呆のように口を開けるしかない男に向かい、大きく顎門を開いてその上半身を一飲み! 男は足を残して全身を食いちぎられ……
妄想で気晴らしをした竜也は一呼吸置き、そのまま怒りを飲み込んだ。
「そうですね、大きな看板は腕の振るい甲斐がありますよ。時間があれば何か出展したところなんですが」
竜也はにっこり笑いながらしれっとそう答える。男には竜也の切り返しが不愉快だったようである。
「ふん。あんな殴り描きみたいな絵、大して時間はかからないだろう。今からでも描いたらどうだ?」
「そうですね。そうさせてもらいましょう」
竜也は念のために用意していた画板と木炭鉛筆を取り出し、
「しばらく動かないでください」
有無を言わせずそう告げると鉛筆を紙へと走らせた。
しばらく黙々と筆を動かす竜也だが、
「ほうなるほど! こうやって立体感を出すのか!」
いきなり大声で話しかけられ、びっくりした竜也が横を見るとそこには一人の男が立っていた。年齢は六〇の手前くらいで、かなり太った体格。頭部は半分禿げて、残っているのはぼさぼさの白髪。アインシュタインに体重とおおざっぱさを加えたような老人である。
「え、ええ。光が当たらない方向には陰ができますから、それをこうやって」
「うむ、素晴らしい技法だ!」
自分の技法を解説しながらも手を動かし、それほど時間はかからずに絵は完成する。絵はデフォルメなど一切行わず、余計な感情も入れず、ただ見たままを紙に写し出しただけのものだ。技術的にはそれなりに高度で写実的だが、ただそれだけの絵である。
だがそんな絵でも、エレブならともかくネゲヴにおいてはほとんど見られない。この場にいる者なら判らないはずがないのだ、それがどれだけ高度な技術の蓄積の上にある絵なのかが。
「はい、どうぞ」
男はそれを貶すこともできず、ただ受け取るだけだ。溜飲を下げた竜也はその男からの関心をなくし、男から背を向けた。その竜也に、
「あの『カリシロ城の花嫁』の看板を描いたのは君だそうだな! あれは途轍もない絵だったぞ!」
「あの劇の脚本や小説を書いたのも確かあなただと聞いたのだが」
「マゴルだっていうのは本当? 前にいたのはどんなところだったの?」
「次はわたしの絵を描いてくれないかしら」
大勢に囲まれた竜也は四方から話しかけられ、目を白黒させた。竜也はその中で一番話しやすい白髪の老人と話をする。色々話をしているうちにもう一度デッサンの技法を解説することとなり、
「それじゃ実際に描きながら説明しましょう。モデルはそうですね、あの方にお願いしましょうか」
竜也は未だカフラに食い下がっていたイフラースという青年をモデルに指名した。こうして竜也だけでなく、白髪の老人や何人かの腕自慢が加わって時ならぬ写生大会が催される。モデルとなったイフラースは、
「何でこんな目に」
と思いながらも笑顔を絶やさず、立派にモデルの役目を務めた。竜也はイフラースに対して特に悪意があるわけでもないので、しっかり真面目にその肖像を描いていく――数時間ほどかけて。
絵が仕上がる頃にはこの展示会は終わりを告げる時間となっていた。竜也はさすがに疲れた様子のイフラースに描いた絵を進呈する。そこでようやくジャリールが竜也へと声をかけてきた。
「今度は私の絵も描いてくれ。もう少し手早くな!」
ジャリールはそう言って笑う。竜也は恐縮するしかなかった。
展覧会がお開きとなり、竜也はカフラに連れられてそそくさと会場を後にした。
「――今日はありがとうございます。おかげで助かりました」
帰り道、馬車の中でそう言うカフラに竜也は、
「いや、俺の方こそ。どうなるかと思ったけど、結構楽しかったよ」
と笑う。カフラにしても、竜也が思ったよりずっと上手く立ち回ってくれたことに大いに安堵していた。
この展覧会参加は竜也にとっても大きな利益となった。ヤスミン一座ともナーフィア商会ともつながりのないところに人脈ができたのである。
何日かを経て、キスリムの月(第九月)に入った頃。竜也は一人でスキラ港を訪れていた。港のその一角は造船所が集まっている場所である。建設中の船がいくつも並んでおり、船大工が忙しく働いている。竜也は、
「おー」
と感心しながら通りを歩いていった。地図と周囲を見比べながら歩くことしばし、一隻の建設中の船が竜也の目に入った。
「え……なんだこれ」
竜也は言葉を詰まらせる。目測だが、その船の全長は一〇〇メートルを優に越えている。船底から甲板までの高さは約二〇メートル、甲板の上の構造物も一〇メートルくらいの高さがありそうだった。信じられないくらいの巨船である。
竜也はぽかんとしながらその巨船に沿うように歩いていき、そしてようやく目的地に到着した。巨船の横に建っているオンボロ小屋。竜也はその小屋の戸をノックする。戸が内側から開けられ、出てきたのは白髪の老人だった。
「おお、君か! よく来てくれたな、入ってくれ!」
「はい、お邪魔します。ガリーブさん」
竜也が今日訪問したのは展覧会で知り合いになったガリーブという老人である。カフラはこの老人についてこのように語っていた。
「元々建築家として有名になった人で、金持ちの要望に応えて奇抜な建物を数多く設計・施工していました。ナーフィア商会でも何度も仕事をしてもらったことがあります。画家としても優秀です」
ジャリール商会の展覧会に参加していたのも画家としての参加だったのだろう。
「――ただ、稼いだ金を奇妙な機械を作ることに費やして、すぐに散財することでも有名です。近年は船の設計建造にも手を出すようになったのですが、変な趣向を凝らしすぎて造る船がことごとくすぐ沈没するので『沈没王』の異名で呼ばれるようになっています」
要するにレオナルド・ダ・ヴィンチや平賀源内のようなマルチタレントなのだろう、と竜也は理解した。
「ところであの船、凄いですね。あれの建造もガリーブさんが?」
「おう、ハマーカ商会のゴリアテ号だ! 全長八〇パッスス・全幅三〇パッスス! こんな巨船は三大陸中に二隻とあるまい!」
元の世界の単位で言うと、全長が約一二〇メートル・全幅が約四五メートルとなる。排水量は四千トンから五千トンになるだろう。
「それにしても、あれだけの船を運用して採算が取れるんですか?」
竜也の疑問にガリーブは「さあな!」と笑顔できっぱり言い切った。
「ハマーカ商会はすでにもう倒産寸前だ! 何とか進水まで商会が持ってくれればいいんだがな!」
はっはっは!と豪快に笑うガリーブ。笑い事じゃないだろうと言うべきか、それとももう笑うしかないのか。判断に迷った竜也は曖昧に笑っておいた。
「ザキィ! 茶を頼む!」
ガリーブの弟子と見られる20代半ばの青年がお茶を出してきたので竜也は遠慮なくそれを飲んだ。お茶というよりはお茶風味の白湯と呼ぶべき代物だったが、竜也に特に不満はない。
――竜也は何か用事があってガリーブの元を訪れたわけではない。展覧会でガリーブに「いつでも遊びに来い」と言われた竜也は素直にそれを受け止め、ガリーブとの親交を深めにやってきたわけだ。それが目的の一つである。
「あれだけ大きな船だと櫂では動かせないでしょう」
「おう、もちろんだ! 帆を使って航行する!」
「俺の元いた場所には外輪船というのがあって――」
「それなら儂も作ったことがあるが、やはり櫂の方が――」
「構造を複雑にすると耐久性に――」
弟子のザキィも加わったお茶会は大いに盛り上がった。竜也が元の世界の知識をガリーブ達に伝え、二人がそれに鋭い指摘を入れる。ガリーブ達が竜也へとこの世界の技術を教え、竜也もまた疑問点を追求した。三人の知的好奇心は強く刺激され、三人は時間を忘れて語り合った。
「――ガリーブさんはヘラスに留学したことがあると聞きましたが」
「うむ! もう三〇年も前のことだが、実に有意義な経験であった!」
会話がそんな方向に流れていき、竜也は目を鋭く光らせた。ここを訪れたもう一つの目的をようやく果たせそうである。
「ヘラスのことを、エレブのことを是非教えてほしいんですが。エレブに住む者は全員が聖杖教という宗教の信徒で、そうでない者は殺されてしまうと聞きましたが」
「うむ、その通りだ! 多少の誇張はあっても決して嘘ではない! だがヘラスはその辺はかなり緩やかだったぞ!」
「聖杖教の教皇がネゲヴ侵攻を公言していると……」
「ああ、そう言えばそうだったな!」
とガリーブは能天気に笑う。
「儂がヘラスに行ったときは今の教皇が就任したばかりだったが、そのときからそれを言っていたし、その前からずっと言っているそうだ!」
「そんな……! それが実現する心配はないんですか?!」
焦ったような竜也の様子にガリーブは戸惑いを見せた。
「うむ、だが儂がいた頃のエレブは戦乱続きだったからな。よそに攻め込む余裕なんぞありはしなかったぞ」
「それじゃ、今は?」
うーむ、と腕を組んで考え込むガリーブ。
「彼の地を離れてもう三十年経つし、そもそもヘラスは今のエレブでは辺境みたいなものだからな」
そうですか、と竜也は失望を隠しつつ答える。そこにザキィが、
「今のエレブのことを知りたいのならあの方を紹介してあげれば」
と口を挟んだ。ガリーブも「おお、それが良かろう!」と膝を打った。
「今のネゲヴではあの男以上にエレブに詳しい者はいるまい! 紹介状を書いてやろう!」
「どなたのですか?」
竜也の問いにザキィが「ムハンマド・ルワータさんです」と微笑みながら答える。竜也は驚きに一瞬息を止めた。
「あの『旅行記』の著者の……まさかそんな方を。ありがとうございます!」
紹介状を手にした竜也は意気揚々とガリーブの元を後にした。竜也は翌日にはムハンマド・ルワータに面会すべく手続きを進める。
『聖杖教の教皇がネゲヴ侵攻を公言していることを聞き、私は危機感を持っています。ですがエレブは遠く、その情勢を知ることは困難です。昨今のエレブ情勢についてネゲヴで最も詳しいのはあなただとガリーブ氏からは聞いております。是非私にそれを教えてほしいのです』
竜也はログズに代筆を依頼して手紙を作成。ガリーブからもらった紹介状を添付してそれをムハンマド・ルワータへと送ったのだ。
「でも直接送れるわけじゃないんだよな。本当にこれで届くのかな」
ムハンマド・ルワータもまたバール人の血筋であり、スキラ商会連盟に所属しているという。連絡が取りたければ商会連盟を経由するのが一番確実だそうで、手紙も商会連盟に送付を依頼したのである。
「これで後は向こうから連絡が来るのを待つばかり」
果たして何日かかることか、そもそも無視されずにちゃんと返答してくれるだろうか、と竜也は心配していたのだが――。
商会連盟に手紙の送付を依頼して二日後。
時刻はすでに昼近くだが、竜也達はまだ起き出したばかりである。竜也は朝食兼昼食の前に珈琲店前の道路をほうきで掃いて掃除していた。
「今日は次の小説の推敲くらいしか予定が入っていないけど、どうしようか」
等と考えつつ機械的に手を動かして掃除が終わった頃、見慣れない人物が接近してくるのが目に止まった。立派な身なりで、年代は三〇代半ば。おそらくバール人商人だろう、海焼けした肌は浅黒い。背が高く、洒落た口ひげを蓄えた伊達男である。
その男は竜也の視線を受けながら真っ直ぐに竜也へと接近してくる。竜也は出迎えるようにその男へと向かって一歩進んだ。
男は竜也から数メートルの距離を置いて立ち止まった。男は笑みを見せながら、
「ここにクロイ・タツヤという者が住んでいると聞いたのだが、君がそうだな?」
「はい。あなたはもしかして」
ああ、と男は頷き、
「私がムハンマド・ルワータだ」
と誇らしげに名乗った。
やはり、と思いつつも竜也は驚きを禁じ得ない。
「……まさかわざわざ来ていただけるなんて。連絡してもらえればこちらから伺ったんですが」
「いや、ここは私が出向く方が筋というものだろう」
とルワータは不敵な笑みを見せる。そして聞き惚れるくらいのその渋い声で、
「すまんが金を貸してくれ」
いろんなものを台無しにする、それがムハンマド・ルワータという男との出会いであり、最初の会話だった。