「黄金の帝国」・漂着篇
第九話「日常の終わり」
キスリムの月(第九月)の上旬。「マラルの珈琲店」にムハンマド・ルワータが訪ねてきたところである。竜也は彼を珈琲店内の個室へと招き入れた。
ラズワルドが運んできた冷水で軽く口を湿らせ、竜也は最初に断った。
「まず、わざわざ来ていただいたことにはお礼を言います。ですがそれと借金の件は別です」
「ああ、判っている」
とルワータは手を振った。
「君の暮らしぶりを見れば言いたいことは判る。だが私は何も君自身へと借金を申し込もうというのではないのだ。君がナーフィア商会令嬢のカフラマーンと交流があることは聞いている」
「ナーフィア商会への借金に口添えをしろ、ということですか?」
その通りだ、とルワータは力強く頷いた。竜也が何か言う前にルワータが続ける。
「私はもう一度エレブに行かなければならない。行ってこの目でエレブの状況を確かめなければならないのだ――手遅れになる前に」
ルワータの鋭い眼光が竜也を射貫く。竜也もまた真剣な眼差しをルワータへと向けた。
「……エレブ情勢は不確かな噂しか聞くことができず、詳しい話が判りません。情勢はそれほど切迫しているのですか?」
「ああ。聖杖教の教皇が今日、今、ネゲヴ侵攻を正式に宣言しても何の不思議もない。私はそう思っている」
ですが、と竜也は戸惑いを見せた。
「ネゲヴの人達には全然危機感がありません。隣国の最高権力者が戦争を公言しているというのに」
「何も判っていないのだ!」
ルワータは吐き捨てた。
「この平和なネゲヴにいてあの戦乱続きだったエレブの、何が判る! 数多の神々が崇められるこのネゲヴにいて、たった一つの神しか崇めることを許されないエレブの、何が判る! 彼の地を知るには彼の地に行くしかないのだ、彼の地に行った者の話を信じるしかないのだ。それを……」
ルワータは歯ぎしりをする。ルワータが自分の気持ちを静めるまで少し間が空いた。
「――失礼した」
いえ、と竜也が返す。竜也は用意しておいた地図を机の上に広げた。ハーキムの持っている地図を模写した、自作の地図である。
「基本的なところから確認させてください。エレブは戦乱が続いていると聞いています」
「ああ、しばらく前まではな。今は大きな戦争は起こっていない」
エレブには数多の王国があるが、主要なのは次の五つで五王国と呼ばれている。
フランク(フランスに相当)。
ディウティスク(ドイツとオーストリアに相当)。
イベルス(スペインとポルトガルに相当)。
レモリア(イタリアに相当)。
ブリトン(イギリスに相当)。
「このうち一番の大国はフランクだ。聖杖教の中心地、教皇庁もフランクのテ=デウムという町にある。ほんの三〇年ほど前まで、フランクは有力諸侯が好き勝手に勢力争いをくり返し、国王はそれを制御できないでいた。それは他の王国も同じだった。そんな小競り合いや戦乱は無法時代からずっと続いていることだったのだ」
だがその流れは先代のフランク国王アンリの時代から変わってくる。フランク王アンリは王権強化を打ち出し、その実現に邁進したのだ。彼は国内諸侯の自治権を制限しようとし、軍権を自分の元に一本化しようとし、税収を国庫に一元化しようとした。
「それは、猛反発を受けるんじゃないんですか?」
「当然そうだ。もちろんアンリは一足飛びにそれらの政策を実現しようとしたわけではない。何年も何十年もかけて少しずつ、一つずつ諸侯の特権を剥奪していったのだ」
この王権強化の動きはフランク王国だけではない。ディウティスク等他の四つの王国においても軌を一にして王権強化が進められた。
「この背後には教皇庁の、教皇インノケンティウスの意志があったと私は考えている。彼は教皇に就任する前からネゲヴ侵攻を主張し、エレブ中を遊説して回っていたのだ」
「教皇はエレブ中の全ての軍勢を率いてネゲヴに攻め入ろうとしていると」
その通りだ、とルワータが頷く。
「エレブ人同士で争っている限りそんなことは夢のまた夢だ。だからまずはエレブ人同士の争いをやめさせる必要があったのだ。そのためには争う諸侯の力を削ぐ必要があり、そのためには王権を強化する必要があった。これを見てくれ」
ルワータが何かの書面を取り出し、竜也はそれを受け取る。竜也は書面に目を落とした。
「七年か八年前になるが、私が聞いた枢機卿アンリ・ボケの演説を書き起こしたものだ」
「え、そんな機会があったんですか」
と驚く竜也。
「ああ。教皇は民衆に直接語りかけることをくり返しているし、その部下達もそれになっている。枢機卿アンリ・ボケは教皇の腹心として有名な男だ。一回だけだが彼の演説を聞く機会があった」
あの熱狂は凄かったぞ、とルワータは引きつったような笑みを見せた。竜也はその演説を読み進めた。
『……神はアブラハムに「乳と蜜の流れる地」を与えると約束をし、モーゼに人々を約束の地へと導くよう命じた。そして神は我等に約束の地を取り戻すよう命じたのだ。約束の地とは、「大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て」。大海とは西の大洋のことであり、つまりカナンやエレブだけでなくネゲヴもまた約束の地なのだ』
『……神が我等に与えた約束の地は、今忌まわしき異教徒によって奪われ、汚されている。彼の地に巣くう異教徒と悪魔の民を排除し、神と我等の物を我等が手に取り戻さなければならない。異端に奪われた信仰の証を奪還しなければならない』
『……彼の地に巣くう異教徒を生かしてはならない。悪魔の技を使う、呪われた民を生かしてはならない。異教徒に阿り、真の信仰に背を向ける異端を生かしてはならない』
『……神の戦士よ、聖戦の騎士よ。立ち上がれ、そして南へと向かえ。汝等こそまさに神が振り上げる聖なる鉄槌。神の栄光は汝等のものである……』
そこに書き連ねられていたのは、文字の形をした狂信の結晶。「神の栄光」の美辞麗句の裏には、異教徒を人間として認めない狂気と妄信が。「約束の地を取り戻す」という宗教的情熱の裏には、豊穣なネゲヴの地を奪わんとする悪意と強欲が、隠しようもなく潜んでいた。
「十字軍……! 十字軍が、この世界で……!」
預言者フランシスの布教から七〇〇年。フランシスが持ち込んだ一神教の狂気と妄信は七〇〇年を経て十字軍の再現という形で結実しようとしているのだ。恐怖とも憤怒ともつかない激情が竜也の臓腑をかき回す。雨に濡れたような大量の汗が、竜也の額を流れた。
「タツヤ?」
「――ああ、すみません」
ルワータの怪訝そうな問いにタツヤは何とか返事をする。平静を装った竜也は不明な点を確認する。
「ここにある、『信仰の証を奪還しろ』とはどういうことですか?」
「聖杖教の伝説上の創始者、モーゼが使っていた杖のことだ。聖杖教の名の由来でもあり、象徴でもあるその杖がメン=ネフェルの聖モーゼ教会に所蔵されている」
今から四百年前のゲラ同盟時代のこと。布教のためケムトにやってきた宣教師がメン=ネフェルでモーゼの使っていた杖を発見。それを記念し、杖を守護するために建てられたのがメン=ネフェルの聖モーゼ教会である。
「テ=デウムの教皇庁は聖モーゼ教会に『モーゼの杖』を教皇庁に移管するようくり返し要求したが聖モーゼ教会はこれを拒否。最後には互いに破門し合って、両者は完全に関係を絶っている」
バール人の時代には多数の教会がネゲヴに建てられたが無法時代を挟んでそれらは全て自然消滅してしまい、現在生き残っているのは聖モーゼ教会とその周囲のいくつかの教会だけである。また、聖モーゼ教会は現在生き残っている唯一の聖杖教の分派でもあるのだ。
「『モーゼの杖』を奪還することは教皇庁にとって長年の悲願なのだ」
「まさか……彼等は杖一本のために戦争を起こそうと……?」
竜也は愕然としつつそれを問う。ルワータの答えは、
「それだけが目的なわけではない。だが大きな目的の一つになっていることは確かだ」
「馬鹿げてる!」
竜也は炎を噴くような剣幕で吐き捨てた。
「どう考えも偽物じゃないかそんな杖……! そんなもののために戦争をやろうだなんて……!」
仮にモーゼ、あるいはそれに相当する人物が実在だったとしても(おそらくは実在するのだろうが)、仮に彼の使っていた杖が三千年の時を経て現存していたとしても(限りなくあり得ない話だが)、それがあるとするなら元の世界であって、この世界にそんなものがあるはずがない。
「確かに君の言う通りだ、あまりに馬鹿げている。……だが、教皇庁にとってはそれは戦争する理由に足るのだ。聖杖教の信者にとっては生命を懸ける理由に足るのだ」
ルワータは深々と嘆息しつつ首を振った。そして気持ちを切り替えて説明を続ける。
「教皇に言わせればネゲヴ侵攻こそが神の意志、それに反対する者こそ不信心者であり、異端――教皇は自分に協力する王室にそんなお墨付きを与える一方、反対する諸侯に対しては破門をちらつかせて脅迫した。教皇と五王国の王室は互いに協力し合い、利用し合いながら王権強化を進めてきたのだ」
もちろん特権を奪われる諸侯側の反発も強かった。諸侯側は剣を取って決起し、王室側もそれを迎え撃つ。激しい戦火がエレブ中を舐め尽くした。
「このためこの三〇年はエレブ中で戦乱が絶えることはなかった。この戦乱の印象が強いからこそ、こちらの誰もが『ネゲヴ侵攻などあるわけがない』と思い込む理由になってしまっている」
ルワータは苦々しげな顔をした。そして「だが」と続ける。
「私の協力者からの連絡ではこの戦乱はもうほとんど収まっている状態なのだ。もちろん戦乱の火種はそこら中に残っている。だがそれぞれの国王に刃向かえるような勢力がもう全く残っていない。王権強化は達成されたと見るべきなのだ」
「――エレブの戦場では鉄砲や大砲は使われるんですか?」
不意の質問にルワータは若干戸惑いながらも、
「そうだな。以前はあまり使われなかったが、ここ三〇年間の戦乱で急速に広まっている。今では鉄砲や大砲なしの戦争など考えられないくらいだ」
竜也は「なるほど」と頷いた。
冒険者レミュエルがこの世界に銃器を伝えたのが四〇〇年前。だがアイディアや現物がいくら伝わってこようと、それを製造し利用するには社会的なバックボーンが必要だ。冶金技術の向上やネジの発明・製造。高価な銃器や火薬を大量生産できるだけの経済力。そういった社会の総合的体力があってこそ初めて銃器を戦場で活用できるようになる。エレブは鉄砲伝来から四〇〇年を経てようやくそれができるだけの背骨を、体力を持つようになったのだろう。
「銃器がなければ戦場で勝つことはできない。それも一丁や二丁じゃない、何百何千と揃えないと戦場では意味がない。でも鉄砲も火薬も非常に高価な代物です。中小の諸侯ではとても何百何千は揃えられない」
「ああ、確かに」
「それができるのは国王か大規模な諸侯に限られる。鉄砲を揃えないと戦場で勝てないのなら、勝てるのは国王と大諸侯だけ。そして教皇庁は国王に味方をした……諸侯が力をなくして特権を奪われていったのはそんな背景もあるんじゃないですか?」
竜也の指摘にルワータは瞠目した。
「ああ、言われてみればその通りだ。確かにそれは大きな理由だろう」
竜也の念頭にあったのは日本の戦国時代だ。一〇〇年続いた戦国時代が織田信長の登場により終息していった、その理由。織田信長に鉄砲の威力を認める先見性があったのは言うまでもないが、それを真に戦力とするには先述したようにそれだけの経済力が必要なのだ。雌雄を決するのが経済力となり、小規模諸侯の自主独立は消えていき、大規模諸侯とその連合だけが残っていった。
織田信長の跡を継いで一応の天下統一を果たしたのは豊臣秀吉だが、彼はその後何をしただろうか?
「……エレブでは長年戦乱が続いていたが今は収まっている、そう言ってましたね」
「ああ」
「これまでは騎士や兵士、傭兵が戦場で戦い続けてきた。でも戦乱は収まってしまった。彼等はどこに行くんでしょうか。故郷に戻って畑を耕す、そんなことができるんでしょうか」
ルワータは竜也が何を言いたいのかを理解した。
「中にはそういう者もいるだろう。だが大半の者には帰る場所などあるまい。もし何もなければ、奴等は山賊となって跳梁するだけだ」
「何かを考えないといけないですよね。失業した兵士や傭兵の行き先を」
「そうだな――考えるまでもないだろうが」
竜也とルワータは一つの未来を想像していた。暗澹たる思いを抱きながら。
その日の夕方。カフラが次の劇の打ち合わせのため竜也の元へとやってきた。だが竜也は演劇の話などそっちのけで、聖杖教の脅威について言葉を尽くしてしゃべり続けた。
しかし、カフラと同席したログズの反応は竜也の望むものとはかけ離れていた。
「だがタツヤ、バール人の時代からエレブの軍がヘラクレス地峡を越えたことは一度もないんだぞ?」
ログズさん、あなたもですか、と竜也は頭を抱えたくなった。
「名前は聞いたことがありますが、その人は本当に信用できるんですか? 詐欺を働こうとしていることは」
「いや、それはない。ラズワルドが確認している」
ムハンマド・ルワータが過去エレブに何年も滞在し、深い知識を持っていること。彼のエレブに対する危惧と恐怖が本物であること。二点ともラズワルドが恩寵を使って確認しており、疑う必要はなかった。
「今まで過去に一度も起こらなかったことがこれからも起こらないと、どうして言えるだよ。本当に侵攻が始まってからじゃ何をしようとしても遅いんだぞ? 動くなら今すぐ動くべきなんだ」
ログズはその言葉に早い理解を示すが、カフラは当惑したままだ。
「ですが、それならどうすればいいって言うんですか?」
「ムオードさん達町の有志程度じゃ本物の軍に対抗できるわけがない。傭兵を雇って対抗するしかないと思う。でも、エレブの軍勢は最低でも数万、場合によっては十万二十万が攻めてくる可能性だって考えられる。そんなの、ルサディル単独の力じゃどうにもならない。ネゲヴ全体の力を合わせるしかない。ネゲヴ全体の被害を最小限に留めるためにはルサディルで敵を撃退する必要がある。そのためにネゲヴ中の町が協力して、ネゲヴ中の町が傭兵を雇って、ルサディルに送り込むべきなんだ」
竜也の主張を吟味していたカフラは「んー」と首を傾げ、
「おそらくそれは難しいでしょうね」
と結論した。竜也は「どうして」と反発する。
「傭兵を雇うにはそれだけの費用がかかりますけど、それを誰が負担するのかという問題があります。わたし達中央の者は『当事者の西ネゲヴの町が負担するべきだ』と主張するでしょう。西ネゲヴの人達は『金を持っているバール人がより多く負担するべきだ』と言い出すかもしれませんし、東ネゲヴの人達は『我関せず』と負担を拒否するかもしれません。仮に敵に対抗して十万二十万の傭兵を集められたとして、それを誰が指揮するのかという問題もあります」
竜也が問題点を理解しているのを確認し、カフラが続ける。
「負担と指揮を巡ってネゲヴ中の町が対立し、話はまとまらないと思います。話がまとまるとしたらエレブの軍勢が目前まで迫って、どうにもならなくなってからじゃないでしょうか。本気になって動くのはルサディルが落とされてからになるかもしれませんね」
「そんなの……!」
問題の深刻さを理解させるために町一つを見捨てろ、と言うのか。竜也は無力感を、唇を噛み締める。
竜也の心の奥底で、黒い何かが身をうねらせた。
(――っ、待て、そんな場合じゃない)
竜也は首を振って意識を切り替えた。
「ログズさんはどうすべきだと思いますか?」
「タツヤ、俺は場末の新聞屋に過ぎないんだぜ? できることがあるとしたらルサディルの民会か長老会議に警告をするくらいだろう」
「そうですね。それで長老達が相談して、戦うなり逃げるなりの結論が出ればそれでいいんじゃないんですか? タツヤさんにできるのはその程度でしょう?」
その他人事のような物言いに竜也は反感を覚えてしまう。
「でも、あの町には知り合いがいるんだ」
「ですが、タツヤさんにはどうしようもないことでは? その知り合いに警告して、その方達が自分の判断で逃げて、無事でいてくれればそれで充分なんじゃないんでしょうか。一介の庶民に過ぎないタツヤさんがそれ以上何をする必要があるんですか?」
カフラは不思議そうに問いかける。竜也はそれに何も答えられなかった。
その夜、一人屋根裏から屋根の上へと出た竜也は星空を見上げていた。産業活動に一切犯されていない大気はどこまでも澄み、空は宝石箱のように星々が燦めいている。
(確かに、俺の力じゃラズワルド一人守ることだって満足にできない)
竜也は握りしめた拳を見つめる。大して筋肉のついていない、細い手を見つめた。
(でも、俺には『黒き竜の血』が――)
エレブの侵略軍が何万、何十万と押し寄せようと、それが目覚めさえすれば皆を助けられるのだ。
竜也は自分の内側を見つめるように目を瞑った。『黒き竜の血』を目覚めさせるべく精神を集中させた。
魂の奥底に眠る力を探すつもりで、記憶の奥底に眠る何かに光が当たっていく。
(……ぼくには、ほんとうはすごいちからが……)
そう言えば、どうしてこんなことを考え出したのだろうか。小学生の頃にはもう信じていた。
「今の親は僕の本当の親じゃない。僕は橋の下で拾われた子で、黒い竜が本当の親なんだ。いつか僕は竜の血に目覚めるんだ」
確か、最初に考え出したのはそんな設定だった。敖順とか何とか、親の名前や設定も図書館で調べて考えて。竜王族内部の確執があって、親は僕を育てられなくなって人間界に一時的に避難させるつもりで……とか。
中学生になる頃には、さすがに両親との血のつながりを否定できなくなったし、肉体的に竜の子供だという設定に無理を感じるようになった。だから、
「黒き竜が人間界に転生した姿で、竜の魂に目覚めれば黒き竜の力が使える」
そんな設定に変わっていったんだ。それで、竜の魂のことを象徴的に「黒き竜の血」と呼んでいて……。
竜の力を使って、自分が人間じゃないと信じてまで、俺は本当は何がしたかったのだろう。確かそう、小学生の頃、許せなかったものがあったのだ。
例えば九・一一の同時テロ。その報復としてのイラク戦争と、民間人の殺戮。グァンタナモ等の収容所。アメリカは民間人を殺戮すること、イスラム教徒を侮辱することが目的なのであって、テロとの戦いは単なる口実にしか思えなかった。
例えば、三・一一の東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故。それまでの生活が奪われ、困窮を余儀なくされる人達がいる一方、事故を引き起こした者達は責任逃れに終始し、何ら処罰もされず、負担や賠償の回避に汲々としている。
仮にも民主国家で何故こんな非道が認められるのか、どうしても理解できなかったし、許せなかった。悲しいニュースは見たくなかった。悪い奴等をぶん殴って成敗したかった。泣いている人達を助けたかったのだ。
だけど現実の自分は無力な子供でしかなく、「自分は竜の血を引いている」と信じ、空想の中で悪い奴等をやっつけるしかなかったのだ。
「無力な子供……今でもそうだ。何も変わらない」
悲惨な戦争が始まろうとしている。多くの人が死のうとしている。それなのに何もできない、何の力もない小さな手を、竜也は強く握り締めた。
竜也はカフラにムハンマド・ルワータに対する支援を依頼。カフラの回答は、
「エレブの問題はナーフィア商会だけで対応するべきことではないでしょうから、ルワータさんへの支援は商会連盟として行うのが筋だと思います」
カフラの言うことはもっともで、竜也はぐうの音も出ない。
「ナーフィア商会が支援実施を提案するよう働きかけてみますから」
とも言っていたが、カフラ自身も結果については自信がなさそうだった。商会連盟を運営しているのは評議会で、有力商会の当主またはその代理人が評議員となっている。ナーフィア商会から評議員になっている人間はカフラにとっては顔見知りだが、命令を下せるような立場にあるわけではない。何かの機会に進言をするのがせいぜいだ。
「……何かもっと確実な方法は」
竜也は思い悩み考え、やがてある方策にたどり着いた。
「これだってとても確実とは言えないけど、カフラに頼みっぱなしってわけにもいかないしな。俺がしっかり説得すればいいことだ」
竜也は早速行動を開始、向かう先はジャリール商会である。
「すみません、ジャリールさんにお会いしたいんですが」
「お約束のない方とお会いすることはできません」
正面突破を計った竜也は敢えなくはね飛ばされる。だがそれも想定内である。
「でしたらこれを」
竜也は用意していた書状を秘書らしき人物に手渡し、その日は素直に退散した。竜也がジャリールから招待されたのはその数日後である。竜也は意気揚々とジャリール商会へと向かった。
ジャリール商会本館の応接間で待つこと小一時間、ようやくジャリールが姿を表した。竜也は出迎えるように立ち上がった。
「クロイ・タツヤです。今日はお時間を作っていただきありがとうございます」
「面倒な挨拶は抜きだ、座れ」
ジャリールはどっかりとソファに腰を落とす。竜也もまたジャリールに向かい合って座った。
「なかなか良い絵を送ってくれたな。礼を言おう」
とジャリールはにやりと笑う。竜也はジャリールの興味を引くために書状に似顔絵を添付しておいたのだ。例によって木炭鉛筆で描かれたジャリールの素描である。写実的な描写で、好意を得るために三割増しで美化しておいたのが功を奏したようである。
「さて、あまり時間はない。用件は手短に頼む」
「は、はい。ムハンマド・ルワータという著名な冒険家がいます。彼のエレブ調査に支援をいただきたいのです」
竜也は現在のエレブ情勢について、ネゲヴ侵攻を公言する教皇について、調査の必要性について熱を込めて説いた。事前に資料とカンニングペーパーをまとめておいたこともあり、竜也の説明は簡潔ながら要点を突き、判りやすいものとなった。
「ふむ、なるほど」
一通り説明が終わり、ジャリールが頷く。
「エレブの状況については交易している船長からも不安の声を聞くことがある。本格的な調査が必要なのかもしれんな」
「はい。商会連盟として調査をするのであればその費用は連盟の運営費から支出されます。ジャリール商会が特別損をするわけではありません。ナーフィア商会のカフラマーンにも協力してもらっています」
「うちが提案し、ナーフィア商会が賛成するなら評議会で通らない議案はないだろうな」
ジャリールはそのまま沈黙する。竜也もまた口を閉ざし、ジャリールの発言を辛抱強く待った。
「……エレブ調査の件、うちが評議会に提案してやってもいい。だが条件がある」
「何でしょう」
竜也は身を乗り出した。竜也の必死な視線を受け、ジャリール人の悪い笑みを見せた。
「先日の展覧会で、時間があれば何か出展したかったと言っていたな。その作品を見せてもらおうじゃないか」
「絵画ですか」
と竜也は若干戸惑う。
「彫像でも構わんぞ。だが詩作や小説は駄目だ。その作品を私が所有し、人に見せびらかして自慢できるものでなければならん」
ジャリールのあまりにあけすけな物言いに竜也は少し呆れる。だがその裏表のないところはむしろ好ましく感じられた。
「最低限、あの展覧会に出展して恥ずかしい思いをしないもの。望ましいのは人目を引いて話題をさらうくらいの凄いもの……」
竜也のつぶやきにジャリールは「そういことだ」と頷いた。
「それでどうするのだ?」
「やります。少し時間をください」
ジャリールの問いに竜也は即答。ジャリールは「よかろう」と鷹揚な態度を取った。
「必要な費用は出してやろう。急ぐ話ではない。一年でも二年でも待ってやる」
ジャリールはそう言い残し立ち去っていく。竜也もまたジャリール商会を後にした。
「そんなに時間をかけられるか。エレブがいつどうなるのか判らないのに」
スキラの町中を早足で歩きながら、竜也は何を作るべきか懸命に考えを巡らせた。
「やっぱり絵が一番手っ取り早いよな。でも、以前書いた看板よりインパクトのある絵なんて描けるのか? そうなると彫像……でもヘラス彫刻に匹敵する彫刻なんて俺にはとても……いや、デザインだけやって実際に掘るのは人任せでも構わないか」
ぶつぶつ呟きながら通りを歩く竜也は前方不注意のため向かいから歩いてきた傭兵風の男とぶつかった。
「すみません、すみません」
とくり返し頭を下げる竜也。その傭兵は舌打ちをして去っていく。竜也は安堵しながらその鎧を着た男を見送った。
「ん? 鎧……そうか!!」
エウレカ、とばかりに叫ぶ竜也は周囲の注目を集めるが、竜也はそんなことには構わない。竜也は下宿先の珈琲店に向かって走り出した。
下宿に戻った竜也は「スキラの夜明け」社の一角を占拠し、制作に取りかかった。ラフデッサンを何枚も何枚も描いてデザインを決定し、それに基づいて完成予想図を何種類か描いて、さらにそれに基づいて設計図を作成する。二日徹夜し三日目にダウンし、その翌日には体調を整えて外出した。向かう先はスキラ港の造船所である。
「おお、タツヤではないか! 今日はどうしたのだ!」
ガリーブの元を訪れた竜也は経緯を説明した。
「――それで、彫像を作ることにしたんですけど絵と違って自分では作れないんで、良い職人がいたら紹介してもらおうと思いまして」
「ほう! それで、どんなものを作るつもりなのだ?」
これです、と竜也は机の上に完成予想図を広げる。ガリーブとザキィはそれをのぞき込み、しばし言葉を失った。
「……これは、何と言っていいのかも判らんな」
と首を振るガリーブ。
「これはもしかして鎧ですか?」
ザキィの問いに竜也は「ええと、一応」と答える。ガリーブは不思議そうな顔をした。
「こんなもの着れんぞ? 人間はこんな骨格をしておらん」
「ええ、まあ、見た目でジャリールさんを驚かせるためのもので、実際に着て動くことは考えなくていいと思うんです」
竜也はちょっとばつが悪そうにそう言う。
「それなら鉄じゃなくて木で作ったらどうですか? そっちの方が早いし安上がりですよ」
竜也は「早い」という言葉に強く心引かれたが、
「でも、木と鉄じゃ質感が全然違います。木じゃあまりに安っぽくなるでしょう?」
「その辺は塗装で何とかしたらいいのでは? こんな曲線の鎧を打ち出すのは腕の良い鍛冶屋でもかなり難しいと思いますよ?」
竜也も同じことを薄々と感じていたのでザキィの進言を受け入れ、結局それは木材で作られることとなった。
「ここで働いている職人を紹介しますよ」
と木工職人も同時に手配してしまう。
「造船の仕事はいいんですか?」
「最近は職人への日当も遅配ばっかりで、みんなろくに働いてないんです。彼等にとってもいい小遣い稼ぎになりますから」
とザキィは虚ろな目で説明する。竜也にできるのは同情だけだった。
翌日には木工職人を六、七人揃え、鎧の制作が開始される。竜也の指示に従い職人達が木材を切り、削り、それぞれの部品を作っていく。ザキィがそれを補佐した。さらに竜也はガリーブと一緒に塗料の研究を進める。
「一番綺麗な赤が出るのはどれですか?」
「うむ、やはりこれだろう!」
「下地にこっちを塗って、乾いたら本番の塗料を重ね塗りして、仕上げにヤニスを塗って――」
そうやって試行錯誤をくり返し、本体の作成でも失敗ややり直しを何度も重ね、ようやく満足の仕上がりを見た頃には暦はティベツの月(第一〇月)を通り過ぎ、シャバツの月(第一一月)となっていた。
シャバツの月の上旬、竜也はジャリールの屋敷を訪れていた。作品のお披露目と納品のためである。カフラがそれに同行した。
「一体何を作ったんですか?」
「ま、それは見てのお楽しみだ」
屋敷に招き入れられた竜也はジャリールに簡単に挨拶をし、隣室に移動して準備をする。その応接間にはジャリールとカフラが残された。
「一体何が出てくるんでしょうか。ジャリールさんはご存じですか?」
「知らんな。知ろうと思えば知ることはできたが、それでは楽しみがなくなるだろう?」
とジャリールは楽しげである。カフラは気を揉み、ため息をついた。
「お待たせしました」
そこに竜也が姿を現し、台車に乗せたそれを運んできた。高さ二メートルを超える彫像のようだが、白い布をかぶせてあり姿は見えない。同行した二人の職人が倒れないように支えている。
その彫像は部屋の真ん中に設置される。「それでは」と竜也が白い布を一気に引き、彫像がその姿を現した。全身が真紅のその彫像に、
「……こ、これは」
と言葉を失うジャリール。カフラもまた同じように驚きに見舞われているが、
「ああ、やっぱりタツヤさんですね」
と心のどこかで納得していた。
「……これは、一体何なのだ」
「一応鎧?です」
何で疑問符付きなんですか、とカフラは内心で突っ込んでいる。竜也が作成したその鎧?を元の世界の人間(日本人)が見たなら、
「ガンダムに出てくるモビルスーツみたいだな」
と感想を述べるだろう。もっと詳しい人なら、
「『逆襲のシャア』でシャアが乗っていたサザビーにそっくりだな」
と言うに違いない。身も蓋もない言い方をすれば十分の一スケールの木製ガンプラ、偽サザビーのウッドモデルである。
基本は逆シャアのサザビーだが記憶が曖昧な箇所は「天空のエスカフローネ」のガイメレフや「ファイブスター物語」のモーターヘッド等の要素を取り入れている。それに作成者の木工職人達がこの世界の鎧に意識を引きずられたため、サザビーを基本としながらも中世的要素が多く取り込まれた。結果として完成したのは、未来的先鋭的デザインと中世的懐古的デザインが融合した、ファンタジー的としか言いようのない鎧っぽい何かである。
「どうでしょう? 職人さん達も良くやってくれましたからなかなか満足のいく出来となったと思うんですが」
だが竜也の期待に反し、ジャリールの反応は芳しくなかった。ジャリールは深々とため息をついて首を振っている。
「……確かに出来自体は悪くない。だが我々の常識とはあまりにかけ離れていて、何と比較してどう評価していいのかも判らん」
「そうですね。二の腕や太腿がひどく小さいのがあまりに珍妙ですし、そこから先が随分膨らんでいるのもまた不細工のように思えます」
思いがけないカフラの酷評に竜也はためらいがちに反論する。
「いや、それが格好良いんだけど……」
「そう言われればそんなような気がしなくもないです。でも、それを理解できる人が果たして何人いることか」
タツヤさんは未来に生きすぎです、とカフラはため息をついた。
「……え、それじゃ約束は」
竜也は顔を青ざめさせる。だがジャリールは首を振った。
「いや、君は充分な仕事をしてくれた。エレブ調査の件、約束は守ろう」
「あ……ありがとうございます」
竜也は安堵で膝が崩れそうになりながらも踏み止まり、深々と頭を下げた。
「ところでこれは何なのだ。君の元いた場所では戦士がこんな鎧を着て戦うのか」
「いえ、これは人気のある絵物語に出てきた鎧で、実際に着て戦うことを考えてあるわけじゃないんです」
ジャリールとカフラは四方八方からしげしげとその彫像を眺めている。
「そのお話ってどんなのなんですか?」
「この鎧、本当は物語の中じゃこの十倍の大きさがあるんだ。騎士がこれに乗って戦うんだよ」
「そんなもの、どうやって動かすんですか?」
「核融合……じゃなくて、太陽の力で」
竜也達はその彫像を中心に、しばしの歓談を楽しんだ。
そしてシャバツの月の下旬、スキラ商会連盟本館にて定例の評議会が開催される日である。ジャリールは今回代理人に任さず当主自ら出席。ジャリールに伴われてムハンマド・ルワータが参考人として出席した。またカフラも発言権は持たないものの、傍聴人として同席している。
一方竜也は出席も同席もできず、会議場の外で待つことしかできない。議場に続く通路の片隅で背中を壁に預け、竜也は目を瞑って佇んでいた。気を許すと貧乏揺すりをしたりそこらを歩き回りたくなったりしてくる。竜也は心身の動揺を抑えるのに精神力と体力を費やした。
「……静かなること林の如く、動かざること山の如し」
明鏡止水の境地には程遠いものの、少なくとも身体は彫像のように微動だにせず。竜也はただ静かに会議が終わるのを待つ。
一体どのくらいの時間そうやって待っていたのだろうか。時刻はすでに夕方になっている。不意に議場の扉が開いて評議員の面々がぞろぞろと退出してきた。竜也はその中に見知った顔を探した。
「カフラ、どうなった? ルワータさん、支援は」
そんな竜也をジャリールが呼ぶ。
「ついてこい。部屋を取ってある」
返事を待たずにジャリールが本館の一角へと進んでいく。竜也は慌ててその背中を追い、それにカフラとルワータが続いた。
ジャリールが向かった先は応接室の一つだった。それなりに見栄えのする部屋の中には ソファとテーブルのセットが置かれている。ジャリールは中央のソファに座り「座るがいい」と促す。竜也達は空いている場所に着席した。
一呼吸置いてジャリールが話を始める。
「まず伝えておこう。スキラ商会連盟はムハンマド・ルワータに対し、エレブがネゲヴを侵攻する可能性についての調査を依頼。必要な支援を行うことを決定した」
竜也は目を見開き、思わず立ち上がっていた。竜也はジャリールとカフラに対して深々と頭を下げる。
「ありがとうございます! ジャリールさんも、カフラも」
「何、礼を言われるほどのことでもない」
とジャリール。次いでカフラが、
「エレブでの現地調査はルワータさんにお願いするとして、その報告や別口で入手した情報を報告書にして評議会に提出する、そういう役目をする人が必要です」
なるほど確かに、と竜也は頷く。カフラはちょっと呆れたように、
「その役割をタツヤさんにお願いしようと思っているんですけど」
「え、俺に?」
竜也は意表を突かれたような顔をした。
「それは構わないけど、いいのか、俺で?」
「どうせタツヤさんことだからルワータさんに任せきりじゃなくて自分でも動こうとするでしょう? それなら商会連盟のそういう仕事をしてもらった方がいいと思ったんです。安いですけど報酬も出ますし」
ああ、それは助かるな、と竜也は破顔する。
「ありがとう、カフラ」
「礼を言われるようなことじゃありません」
竜也は屈託なく澄んだ笑顔で礼を言い、カフラは素っ気なくそう答えてやや赤らめた顔を竜也から背けた。竜也はそれに気付かずにルワータの方へと顔を向ける。
「それで、ルワータさんはいつエレブに?」
「できるだけ早く。準備が整い次第すぐだ」
竜也の真剣な瞳に、ルワータもまた真摯な眼差しを返した。
「どうかお気を付けて」
「ああ、もちろんだ」
ルワータは両商会から支持を受け、商会連盟から充分な支援を受け、万全の準備を整えた。ルワータを乗せた船がエレブへと向けて出航したのはアダルの月(第一二月)の中旬。ルワータがエレブの拠点に到着したのはその月の終わり、間もなく三〇一四年が終わって三〇一五年になろうとする頃だった。
竜也が元の世界にいたならば高校を卒業して大学生になろうとしている頃だろう。だがこの世界にやってきてから一年半が過ぎ、そんな風に元の世界のことを考えることもほとんどなくなっていた。「このままこの世界に骨を埋めるのだ」と、覚悟も悲壮感もなく、ただ自然にそう思えるようになっている。
それと同時期――
年も新しくなり、海暦三〇一五年ニサヌの月(第一月)・一日。教皇インノケンティウスが聖戦を発動、ネゲヴ侵攻の宣戦を正式に布告した。竜也達がその事実を知るのは少し先のことである。