「黄金の帝国」・戦雲篇
第一〇話「エレブ潜入」
ときは海暦三〇一五年ニサヌの月(第一月)の中旬、ムハンマド・ルワータがエレブに旅立って一ヶ月が経った頃。竜也の元にルワータからのエレブ情勢第一報が到着した。
「聖戦を発動……!」
教皇インノケンティウスが聖戦を発動し、ネゲヴ侵攻を正式に宣言。それが第一報の内容である。竜也は戦慄を禁じ得なかった。あるいはと恐れていたことが現実のものとなったのだ。
竜也はその第一報を握り締めてナーフィア商会の一支部、カフラの事務所に直行。カフラに面会を申し入れる。幸いカフラとはすぐに会うことができた。
「ああ、本当にこんなことを言い出しているんですか」
だが竜也の期待に反し、カフラの反応は暢気としか言いようがないものだった。
「でも良かったです、ルワータさんへの支援が無駄にならなくて。これでうちもジャリール商会も面目が立ちます」
「そんなこと言ってる場合か!」
たまらず怒鳴る竜也。カフラは竜也の剣幕に当惑するしかない。
「でもタツヤさん、『教皇はエレブ全ての王国と諸侯の軍勢に集結を命じた』『総数百万の軍勢を持ってネゲヴに侵攻する、と噂されている』……いくら何でもこれは」
とカフラは半笑いを頬に浮かべた。竜也も多少は気まずそうな顔をしたが、あくまで真剣である。
「確かに、百万ははったりが過ぎるだろうと俺も思う。でも、その十分の一でも十万の大軍勢なんだ。何か対策を考えないと」
カフラは「落ち着いてください」と竜也をたしなめた。
「確かにこれが実行されるなら大事ですけど、まだ第一報でしょう? 次の報告には『やっぱり中止になりました』って書いてあるかもしれないじゃないですか」
「そんなの……」
と竜也は唇を噛み締める。
「傭兵を雇うには腰が抜けるくらいのお金がかかるんです。連盟を動かすには事態をもっと明確にしないといけませんし、わたし達はそれをお仕事としてタツヤさんにお願いしているんです」
カフラの言葉に竜也は何も言い返せなかった。
カフラとの面会が不首尾に終わり、竜也は下宿に帰ってふて寝したい衝動を堪え、商会連盟の事務局に向かった。事務局でスキラ港の入出港記録を調べ、エレブとの交易を行っている商会や船をリストアップ。スキラに帰着している船を訪ねてエレブ情勢について聞き取り調査をするのである。
連盟傘下の各商会にはエレブ情勢の情報収集に協力するよう要請がされている。このため面会し、聞き取り調査を行うこと自体はそれほど難しくはなかった。ただ、エレブと交易を行っている船はそれほど多くない。聞き取り調査ができるのは数日に一回のペースである。集まる情報のあまりの少なさに、そしてあまりの遅さに竜也は呆然としてしまう。一番早くて半月前の情報なのだ。
「ここにグーグルでもあればいいのに」
と埒もない愚痴が出てしまう。二一世紀の高度情報化社会の真っ直中に生きてきた竜也にとっては信じられないくらいの迂遠さだった。
それでも何とか集めた情報を取捨選択し、ひとまとめにして報告書にする。
『……フランク王国・マッサリアを拠点とするムハンマド・ルワータからの報告。ニサヌの月一日、聖杖教教皇インノケンティウスは新年祭で発せられた勅書にて、ネゲヴ侵攻を正式に布告……』
『……その日、テ=デウムの教皇庁には五王国の大使や使節を始めとしてエレブ中の各国代表が参集しており、教皇は全員に対してネゲヴ侵攻軍に参加することを命じた。各国代表は全員一致で聖戦の戦列に加わることを宣誓した……』
『……教皇は百万の軍勢を集めることを命じた。集結地はイベルス王国のマラカ。集結日はアダルの月・一日……』
『全軍の総司令官にはフランク国王王弟・ヴェルマンドワ伯ユーグの就任が予定されている。遠征軍付き枢機卿としてアンリ・ボケの随行が決定している。また、アンリ・ボケは全ネゲヴの教区統括者となることが内定しているという……』
『……すでにバール人の商会には聖戦への喜捨が求められている……』
そうやってエレブ情勢速報を二回提出しているうちにニサヌの月は過ぎていく。ジブの月(第二月)に入ってすぐ、ルワータからのエレブ情勢第二報が到着した。竜也は港まで出向いてそれを受け取り、その場ですぐに開封して目を通す。
「だーーああっっ!! だめだーっ!」
奇声を上げて頭を抱える竜也が港の人々の注目を集めた。だが竜也にはそんなことを気にする余裕もない。
「半月待ってこの程度の情報しか集まらないなんて。一日でも早く動かなきゃ間に合わなくなるかもしれないのに……!」
ルワータが役割を果たしていないわけでは決してない。彼は現地のバール人商人と親交を結び、あるいは人を雇ってあちこちに派遣し、様々な噂話を収集している。ただ、そこに竜也が求める精度の高い情報が含まれていないだけである。だがそれをもってルワータを責めるのは酷だろう。竜也の要求が法外なだけなのだ。
「……やっぱりやるしかないか」
竜也は以前から考えていたことを決断する。竜也はその場でルワータ宛の手紙を書き、エレブ行きの船に託した。その後ナーフィア商会に向かった竜也はカフラと面会、
「エレブに行く」
その決断をカフラへと告げた。
「……ちょっと待ってください」
竜也の思い詰めた瞳がカフラに向けられている。カフラは竜也が本気で言っていることを理解するしかなかった。
「エレブにはもうルワータさんが言っているじゃないですか。タツヤさんがそこに行ってどうすると? 自分ならルワータさん以上のことができるって、そう言いたいんですか?」
「いや、まさか」
竜也は即座に首を振った。
「人一人が見て集められる情報なんてごくわずかだ。ルワータさんは大勢の人から、エレブの各地から噂話を集めてその中から精度の高い情報を抜き出そうとしている。俺も同じことをここでやってるけど、ルワータさんのしていることと比べれば子供の遊びみたいなもんだ」
「タツヤさんがエレブに行っても意味がない、それは判っていると?」
カフラの問いに竜也は頷く。
「それじゃ一体何をしに?」
「散々考えたけど、一つしか方法を思いつかなかった。ラズワルドの恩寵を使う」
カフラの瞳が驚きに見開かれた。
「教皇なり将軍なりに面会できるのが一番なんだけど、さすがにそれは無理だろう。でも、野次馬として垣間見るだけならかなり地位の高い人間でも何とか見ることができると思うんだ。そんな状態でも、ラズワルドの恩寵ならきっと何かを掴めるはずだ」
カフラは難しい顔をして考え込んだ。最初考えていたのは「どうやって竜也を翻意させるか」だ。かなり長い時間考えて、結局それは無理だと思うしかなかった。
カフラは深々とため息をついた。
「……予算ならわたしが何とかしますから、しっかりした護衛を雇ってくださいね」
「ああ、判っている。ありがとう」
竜也は屈託のない笑顔で感謝を述べる。カフラはちょっと顔を赤らめ、そっぽをむいた。
竜也はその日のうちに護衛の手配へと向かった。危険極まりない異国への潜入と情報収集だ。まず目立たないことを最優先とすべきだし、予算の都合もあるし、多人数を護衛とするわけにはいかない。
「雇えるのは三人か、せいぜい四人。ラズワルドの護衛は女の人が望ましいし、それで最精鋭で信用できるとなると、やっぱり選択の余地はないよな」
竜也は傭兵の仲介業者に依頼、二日後にはその人物と会う段取りとなった。その日、「マラルの珈琲店」にやってきたのは、
「拙者、牙犬族のラサースと申す」
ラサースは泥鰌髭が特徴的な、貧相な中年男だった。女房に逃げられて幼い子供を抱えて途方に暮れながら傘貼りの内職をしている貧乏浪人みたいな風情の人物である。竜也はラサースと「珈琲店」の個室で対面する。
「牙犬族の剣士ではサフィールという子と知り合いになったんですが」
「ほう! サフィールと」
ラサースは嬉しそうに相好を崩した。ラサースの反応に竜也がちょっとびっくりする。
「サフィールは自慢の我が娘です」
とラサースは胸を張った。
(全然似てない……)
竜也はそう思わずにはいられない。ラサースの嫁はよほどの美人で、サフィールは母親似だったのだろう。
竜也とラサースはサフィールの話や劇の話、剣祖の話でひとしきり盛り上がった。結構長い時間そんな話をし、ふと会話が途切れたところで竜也は表情を切り替える。
「――今回依頼するのは非常に危険な仕事です。少数精鋭で、何よりも誰よりも信用できる、その条件に適うのが牙犬族の剣士以外にありませんでした」
竜也はそう前置きして仕事の内容を説明した。
「……そんなわけで、任務はエレブ潜入に当たっての護衛です。人数は三名ですが一人は女性をお願いします。まず第一に目立たず、次にできるだけ強い剣士を。それが護衛の条件です」
「ふむ、なるほど」
とラサースは頷いた。
「いや、タツヤ殿を我が一族も同然と思えという族長の言葉、拙者も聞き及んでおります。金獅子族や赤虎族でなく我が一族を選んだタツヤ殿の意、決して無碍にはしませんぞ」
ラサースはそう胸を叩いて竜也の依頼を引き受けた。
その後、竜也は自室へと戻り、
「本当にこれで良かったのかな」
といまさらながら思い悩んでいた。自分が危険な目に遭うだけなら何も問題はない。だがラズワルドを危険にさらすことには、
「他の方法はなかったのか」
と改めて後悔の念が湧いてくる。
「そんなこと、気にしなくていい」
ラズワルドはそう言ってベッドに座っている竜也の足の間へと腰を下ろした。そして竜也の腕を取って自分の身体を包むように回す。出会ってから一年半が経ち多少は成長しているラズワルドだが、それでも実年齢より二、三歳幼く見える発育の悪さには変わりなく、竜也にとっての印象も出会ったときそのままである。客観的に見ても今の二人の様子は未だ「兄に甘える妹の図」を抜け出していなかっただろう。
「わたしなら恩寵で危険を避けることもできる。恩寵もない上にろくに戦えないタツヤの方がよっとぽど危険」
竜也は「それもそうか」と苦笑する。実際誰が一番足手まといになるかと言えば、ラズワルドよりもむしろ竜也の方かもしれないのだ。
「危険な目に遭わせて悪い。でもラズワルドの力が頼りなんだ」
竜也はラズワルドの身体を抱く腕に力を、優しさを込める。抱き寄せられたラズワルドは「ん」と返事をしながら仔猫のように目を細め、竜也の胸へと頬をすり寄せた。
エレブ側に受け入れ準備を要請する一方、その返事を待たずに竜也もエレブへと旅立つ準備を始めている。路銀を用意し、船の手配をし、エレブに関する情報を集める。牙犬族の護衛が到着し、全ての準備が整ったのはジブの月の月末である。
「壮健そうで何よりです、タツヤ殿。まさかこんなに早くまたお会いすることになるとは」
まず護衛の一人、女剣士の枠を埋めたのはサフィールだ。嬉しそうに笑うサフィールに、
「君が来てくれたのか」
と驚く竜也。ラサースは、
「女剣士に限るならサフィールは一族でも一、二の使い手だ。授かっている恩寵も強い。エレブ人の有象無象くらいなら二十や三十は一人で相手できるだろう」
と誇らしげに胸を張る。その横でサフィールが同じように胸を反らしていて、竜也も、
「ああ、本当に親子なんだな」
とようやく実感を得ていた。
「そちらはバルゼル殿。一族の中で当代最強の剣士だ」
バルゼルは無言のまま竜也に会釈する。年齢はまだ三〇代に入ったばかりなのだが見た目の印象が渋く、四〇代でも通りそうな面立ちだ。背は竜也より少し低いが前後左右がかなり分厚い。全身を鋼のような筋肉で覆っている、巌のような体つきである。その容貌もまた同じく巌のようにごつごつとしていて、殴ったら竜也の拳の方が傷だらけになりそうだ。とは言っても決して醜悪ではない。
「こういう渋い大人になりたいよな」
と竜也に憧憬を抱かせるくらいには魅力があった。
「そちらはツァイド殿。剣の腕前は並みだが、敵陣に忍び込んだりするのが得意だ」
「よろしくお願いしますね」
とツァイドはニコニコしながら手を差し出す。竜也は彼と握手を交わした。
ツァイドは身長も体格も並であり、特徴がないのが特徴みたいな人物だ。犬耳も尻尾も付けておらず、服装も部族衣装ではなく普通の服である。常に笑顔を絶やさない様はバール人商人を思わせ、竜也がこれまで会った牙犬族の剣士達とは毛並みが全く異なっていた。
「船はもう出航準備ができている。あとは俺達が乗り込むだけだ」
竜也は早速護衛を引き連れて船へと向かおうとする。が、
「タツヤ殿、その前に」
とツァイドが何かの荷物を取り出した。そしてサフィールとバルゼルを連れてどこかへ移動する。待つこと十数分、ようやく牙犬族の三人が戻ってくる。だが、竜也は一瞬彼等が誰なのか判らなかった。
「サフィール、それ……」
サフィールとバルゼルは日本の侍みたいな部族衣装を脱ぎ、普通の服を身にしていたのだ。さらには犬耳も尻尾も外している。手にしている刀も似非アラビア風、ネゲヴ風の拵えだ。
「うう、守神様の恩寵が、一族の誇りが……」
とサフィールは半泣きになっている。バルゼルは沈黙を守っているが、内心ではサフィールと似たようなものだっただろう。ツァイドがサフィールをなだめた。
「敵地に乗り込もうというのですよ? あんな目立つ格好をしてどうするのです。剣を振るわずに事を終わらせるのが最上の勝利なのですから」
「え、ええ。確かに俺が求めているのはその通りです」
竜也は戸惑いながらも確認する。
「でも、犬耳も尻尾もなしで恩寵は」
その問いにツァイドが「ああ」と笑う。
「勘違いしている人も多いのですが、あの扮装と恩寵の使用は無関係です。要は気の持ちようです。どのような格好をしようと、守神様は常に我等と共にあるのですから」
「その通りだ」
バルゼルが初めて言葉を発した。
「守神様の恩寵はこの血の中に、剣祖の技はこの腕に、だ。それを忘れるな、サフィール」
サフィールは姿勢を正して「はい」と返答した。
竜也はラズワルドを連れ(当然ラズワルドもウサ耳を外している)、牙犬族の三人を伴い、船へと乗り込んだ。竜也達を乗せた帆船がスキラ港を出港する。帆船は帆に風を受け、北へと向けて海を進んでいった。
……竜也達を乗せた帆船はまずネゲヴの港町、ハドゥルメトゥムを経由してカルト=ハダシュトへとやってくる。カルト=ハダシュトは元の世界ならチュニスに相当する町である。かつてはバール人の海洋交易・軍事同盟の根拠地として一時代を築いたこともあり、町並みには歴史と伝統が満ちあふれていた。
竜也達はここで船を乗り換え、別の船へと乗船する。その船が港を離れ、次に陸地に着いたときにはそこはもうネゲヴではなくエレブである。
ネゲヴを離れて一昼夜、竜也達の船からはすでに陸地が肉眼で見えている。
「あれがエレブ……」
「ええ、トリナクリア島です」
トリナクリア島は元の世界ではシチリア島に相当する。竜也達が入港したのはトリナクリア島のセリヌスという港町だ。船は停泊するが、竜也達は船の中に留まっている。陸地に出るのも船荷の積み下ろしを手伝うときくらいである。セリヌスを出航した帆船はレモリア半島(元の世界のイタリア半島に相当)本土へと到着するが、そこでも竜也達はずっと船の中だ。レモリアのいくつかの港町を経由し、竜也達がフランク王国のマッサリアに到着したのはシマヌの月(第三月)の中旬。スキラを発ってからは一五日が経過していた。
マッサリアは元の世界ならフランスのマルセイユに相当する。バール人によって築かれた歴史と伝統ある港町である。町並みは中世ヨーロッパそのままで、できるものなら観光気分であちこち散策したいところだ。だが、そんなことは不可能だった。
「タツヤ殿、目立っていますよ」
ツァイドに小突かれて注意され、竜也は「すみません」と謝った。そして船荷の積み下ろしを続ける。今の竜也達はバール人商船の乗員であり人足といった風を装っているのだ。船荷の積み下ろしが終わると、竜也達はまた船へと戻っていった。
ムハンマド・ルワータがその船へとやってきたのは日が暮れてからである。
「ようこそエレブへ! 歓迎しよう」
「ありがとうございます。迷惑をかけますがよろしくお願いします」
竜也とルワータは握手を交わした。
竜也達はルワータの案内で移動する。港にほど近い、石造りの一軒家。それがエレブ諜報網の本拠地であり、ルワータの家だった。
「長旅で疲れただろう」
「いえ、それほどでも」
竜也達は椅子に腰掛けて一息ついた。ルワータの用意したお茶をそれぞれに飲む。久々に人目を憚る必要がなくなり、サフィールやバルゼル達も少しだけ気を緩めているようだった。
「それにしても、たった半月でスキラからここまで来れるんですね。どうして教皇はマラカなんて地の果てを集結地に。レモリア半島を南下すればすぐネゲヴなのに」
そう首を傾げる竜也にルワータは苦笑する。
「理由はいくつかある。まず我々はスキラを中心に物事を考えがちだが、エレブ人にとってスキラなどネゲヴの中の数ある町の一つでしかないということだ。連中の目的はヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴの全てを征服すること。そうであるならばいきなりカルト=ハダシュトに上陸する方が理屈に合わないだろう?」
「あ、確かにそうですね」
「それにそもそも、敵軍が何十万になるのかまだ判らないが、それだけの兵を乗せる船を用意することなどどこの誰であろうと不可能だ。少ない船で何十往復とするしかないだろうが、それでは各個撃破のいい的になるだけだろう。それにエレブ人はまともな海軍を持っておらず、海軍はバール人の武装商船か海上傭兵団が中心だ。エレブ人はバール人を決して信用していない。バール人に生命を預けて船に乗るより、どれだけ遠かろうと陸路を歩いた方がエレブ人にとってはマシな選択なんだ。こんな言葉がある、曰く『真っ当なエレブ人なら海を恐れる』」
まるで古代ローマ人だな、と竜也は思いながら小さく笑った。
お茶を飲み終えて休憩も終わりとし、竜也達は打ち合わせへと突入する。
「これがこの国の地図だ。マッサリアはここ」
ルワータは卓上に地図を広げ、その一地点を指差した。
「フランク王国の首都のルテティアはここ、聖杖教の根拠地テ=デウムはここになる」
ルワータは地図上の二箇所を指差した。一箇所は元の世界ではパリに相当する場所、そこが王都ルテティアであり、もう一箇所が元の世界ではリヨンに相当する場所、聖都テ=デウムである。
「諜報対象として最も望ましいのは二人、王弟ヴェルマンドワ伯と枢機卿アンリ・ボケです」
「王弟への接触は現実的ではないだろう。ルテティアは遠く、我々がエレブ人に紛れてそこまで行くのは困難だ。それに王弟が庶民の前に顔を出す機会もほとんどない」
「それではアンリ・ボケの方を?」
ルワータは「その通りだ」と頷いてもう一度地図上のテ=デウムを指差した。そして指を下方へと滑らせる。
「ここにローヌ川という川がある。これを川船に乗って上っていく。五、六日もあればテ=デウムだ。教皇庁がここにあり、教皇や枢機卿もここにいる」
ルワータが確認するように視線を送る。竜也が、ツァイドが、バルゼルが無言で頷いた。
「我々は巡礼者の集団に加わる。巡礼者なら枢機卿や教皇に一目会おうと行動しても何の不思議もない。枢機卿は庶民や巡礼者の前に顔を出すことが多いと聞くが、実際に会えるかどうかは運次第だな。それに、巡礼者は大体こういう外套を着ている」
とルワータが取り出したのは、黒い外套だ。フードが付いていて、身にすれば頭から膝までを全て覆い隠すことができるだろう。外套の胸にはT字に絡みつく蛇の、聖杖教の紋章が描かれていた。
「ああ、身を隠すにはちょうどいいですね」
と竜也とツァイドは喜ぶ一方、サフィールは不思議そうな顔をしていた。
「ですが、剣はどこに持てばいいのですか?」
「巡礼者が武器など持つか」
とルワータは呆れ顔だ。
「外套の下に短刀を隠し持つのがせいぜいだろう。剣は別の者に運ばせるように手配している」
サフィールは「うぐ……」と呻いていたがそれ以上何も言わなかった。バルゼルも不満そうではあるが無言を貫いている。
「それと、念のためにこれを手と顔に塗っておく」
とルワータはドーランのような白粉を取り出した。
「マッサリアのような港町ならともかく、内陸に行けばエレブ人しかいないからな。顔立ちはどうしようもないが肌の色はそれで何とか誤魔化せるだろう」
サフィールが興味深げに白粉を手に取り、試しに手の甲に塗っている。ラズワルドがその真似をしようとし、竜也が「ラズワルドには必要ないから」と笑いながら止めた。実際、肌の色だけならラズワルドより白い者などエレブ人にもほとんどいない。
「あとは、我々が六人で固まって動くと目立つだろうから三人三人に分かれるべきだろうな」
ルワータの言葉にバルゼルとツァイドが「そうだな」と頷く。
「サフィール、お前がタツヤ殿達と一緒に動け」
「判りました」
サフィールが姿勢を正して返答する。こうして竜也達は女子供チームとおっさんチームに分かれることとなった。
「明日の朝には出発する。今日は早めに休んでくれ」
打ち合わせが終わり、竜也達は早々に就寝。そして翌朝夜明けと共にその家を出、テ=デウムへと向かって出発した。
マッサリアの港から船に乗ってローヌ川河口に移動。そこから川船に乗り換えて川上へと遡っていく。船には近隣から集まった巡礼者が何十人も乗っていて、竜也達はその中に紛れ込んでいた。巡礼者は善良そうな老若男女の白人だが、年寄りの数が多いように見受けられた。
「あらまあ、随分可愛らしい巡礼者さんねぇ。どこから来たの?」
ラズワルドは隣り合った老婆の目に止まり、しきりに話しかけられている。往生するラズワルドに代わって竜也が答えた。
「レモリアのポプロニアからです。おばあさんは?」
「わたし達はセットの近くの村からよ。教皇様に寄進をする金貨を持ち寄って、わたし達は村の代表で」
へえ、と竜也は感心して見せた。
「僕達、テ=デウムへの巡礼は初めてなんです。おばあさんは?」
「わたしは今回で四回目かしら」
「へえ、ベテランですね」
その老婆は「ええ、そうね」と笑った。
「わたしが最初に巡礼をしたときはもう危なくてねぇ。道中何度も盗賊に襲われて、テ=デウムに着いたときには人数が村を出たときの半分になっていたものよ。わたしの姉も、あのときに盗賊にさらわれてそれっきり」
老婆は長い長いため息をつき、不意に顔を輝かせた。
「今みたいに安全に巡礼ができるなんて、あの頃を思えば本当に夢のようだわ」
「それはやっぱり、教皇様と枢機卿様のお力ですよね」
教皇インノケンティウス、そして枢機卿アンリ・ボケ――ネゲヴ侵攻を主導している二人である。竜也は散々予習をしてきたその二人のプロフィールを思い返していた。
「ええ、本当にその通りだわ! 枢機卿様は徳の高いお方でねぇ、わたし達のような下々にも分け隔てなく加護を授けてくださるのよ」
枢機卿アンリ・ボケは今年で五六歳になるという。教皇庁の中では傍流の聖堂騎士団に属しながら、巡礼者を盗賊から守る活動を通して名声を高めてきた。その活動でアンリ・ボケは「旅人の守護者」という異名で呼ばれるようになり、聖人に準ずる世評を得ている。
「二回目の巡礼は子供が生まれた後だったかねぇ。身体が弱くていつ天に召されてもおかしくなかったから、枢機卿様の鉄槌で病魔を祓っていただいたんだよ」
前代の教皇が死んで教皇選挙が行われた際、アンリ・ボケは聖堂騎士団の騎士を率いて対立候補を鉄槌で殴り殺し、インノケンティウスを教皇の座に就けた――という噂である。
その功績を持ってアンリ・ボケは枢機卿の座を手に入れている。聖堂騎士団の出身者で枢機卿まで出世したのはアンリ・ボケが最初である。枢機卿になってからもアンリ・ボケは騎士団を率いてエレブ中を転戦し続けた。異端・異教徒を殺し続け、屍の山を築いてきた。七〇〇年間の聖杖教の歴史の中で、アンリ・ボケほど人を殺した聖職者はいないと言われている。
「赤い枢機卿」
敵の血を全身に浴びて赤く染まった枢機卿――それがアンリ・ボケの異名の一つである。公然とその名で彼を呼ぶ者は一人もいないが。
「教皇様がこの間ネゲヴへの聖戦を宣言しましたけど」
「ああ、素晴らしいことだねぇ!」
老婆は聖杖の首飾りを手にし、それを天へと掲げた。
「ケムトの異端が持っている聖杖を奪い返すことができるんだよ。聖杖がテ=デウムに戻ってきたなら、巡礼のときに見せていただく機会もあるかもしれないよ」
聖杖とは契約者モーゼが使っていた――ということになっている――聖遺物「モーゼの杖」のことである。ケムトのメン=ネフェルにある聖モーゼ教会がそれを所蔵しており、聖杖の奪還は聖戦の大きな目的の一つだった。
「教皇様が聖杖を手にして導いていただいたなら、わたし達はきっとみんな天国に行けるんだよ」
老婆の瞳は夢見る乙女のように清らかだった。老婆の言葉に周りの誰かが賛同する。
「ネゲヴの連中は邪神を拝んで生け贄を捧げている。聖杖の教えでそんな邪教を一掃するんだ」
「ネゲヴに入植すればうちの次男坊三男坊も自分の畑を持って、嫁も取れるようになるに違いないよ」
「うちみたいな小さな農家でもネゲヴ人の奴隷を持てるようになるって話だ」
巡礼者は口々に聖戦への期待を、それがもたらす明るい未来を語っている。竜也は人々の無邪気さに目眩すら覚えた。竜也はそっとラズワルドの手を握る。
(……こいつら、本気か? 本気でそんなことを考えて戦争を……)
(間違いなく本気。心の底からそう思っている)
念のためにラズワルドに確認させたが、その答えは予想通りのものだった。だがだからと言って衝撃がないわけではない。
(ここにいるのは巡礼者、聖杖教信者の中でも信心深い人が集まっている。この人達だけでエレブの動きを判断するわけにはいかない)
竜也は自分をそう戒めた。もっとも半分以上は、
「戦争を望んでいるのは一部の信心深い人達だけで、他の一般の人達はそんなことを望んでいない」
そんな風に考えたかったためでもある。だが、竜也のその思いは数多のエレブ人によって裏切られた。
「ネゲヴに行けば俺も村持ちの領主様だ」
「なんの、俺は諸侯様だ」
川船に乗船した貧乏騎士達はそう言って笑い合っていた。
「ネゲヴは長い間戦争がなかったって話だ。やりたい放題できるぜ」
「二つか三つの町で略奪すれば一生遊んで暮らせるだろうさ」
街道ですれ違った傭兵達はそう言って欲望をたぎらせていた。
「良い鍬だねぇ。これをもらおうか」
「おや、鍬を新調するのかい?」
「ネゲヴに行って自分の畑をもらうんだ。もう部屋住みの厄介者なんて立場はごめんだからな!」
鍛冶屋の店先では農家の二男坊か三男坊と見られる者が期待に胸を膨らませていた。
「ネゲヴから何を仕入れれば一番儲かるんだ?」
「それはやっぱり奴隷だろう。ネゲヴ人はどれだけ奴隷にしてもいいと、枢機卿様からはお墨付きが出ているんだから」
宿屋ではバール人と見られる商人達が皮算用に勤しんでいた。
(……こいつら、本気で……一人残らず本気で……)
エレブで出会う者、その誰も彼もが聖戦を喜び、侵略に希望を託し、征服地に明るい未来を思い描いている――本気で、心底から。
(何て愚かな……!)
エレブ人全員を力の限り面罵したい衝動に、竜也は何とか耐えている。歯を食いしばり、背中を丸める竜也の姿を、ラズワルドやサフィールは気遣わしげに見つめるしかなかった。
テ=デウムへと遡上する道中の数日間、何百人のエレブ人とすれ違ったか判らない。その中で聖戦に反対する者・不安を抱いている者はごくわずか、せいぜい十数人。その十数人にしても表面上は聖戦を大いに喜んでおり、ラズワルドがその内心を読んで初めて聖戦に否定的だと判るのだ。
「戦争反対を口にできる空気じゃないんですね」
「庶民が聖戦に反対すれば周囲から袋叩きに遭うだろう。諸侯や聖職者が反対したなら異端として火あぶりになるかもしれない。我が身が可愛いなら内心はどうあれ聖戦に賛同するしかない状態なんだ」
ルワータの言葉に竜也は頷きながらも若干の訂正を入れていた。
(「内心はどうあれ」……心底から戦争に賛同している連中ばかりじゃないか)
暗澹たる思いが竜也の足取りまでも重くするが、それでも竜也は歩き続ける。マッサリアを出発して六日ほど、ようやく竜也達はテ=デウムに到着した。
「ああ、ここが聖地」
「神よ、我等を救いたまえ」
巡礼者は感激して地面に伏し、石畳の道路に接吻をしたりしている。ラズワルドとサフィールは物珍しげに周りを見回しており、竜也は注意深く周辺を観察した。
建ち並ぶ巨大な建物は教会ばかりである。天を突くような尖塔が数え切れないほどに連なる光景は壮観という他なかった。町の風景や建物の様式は、竜也がテレビで見たバチカン市国のそれとよく似ている。ただ大きく違っているのはこの町には十字架が一つもなく、その代わりにT字に蛇が絡みついた聖杖の紋章が無数にあることだ。
巡礼者達の移動に伴い竜也達も移動する。移動した先は町の中心地、そこには大きな広場があり、その先には一際巨大で豪奢な教会が建っていた。
「あれは?」
「聖バルテルミ大聖堂。聖杖教の総本山だ」
預言者フランシスの獄死から二〇年後、教団再建の中心となった人物がバルテルミであり、そのバルテルミが刑死した場所に建てられたのがこの聖バルテルミ大聖堂である。後の教皇庁はこのバルテルミを初代教皇と見なしている。竜也から見れば聖杖教というキリスト教系新興宗教の真の創始者だ。
一般の巡礼者には聖堂で礼拝することはもちろん、聖堂前の広場に入ることすら許されていなかった。広場につながる通りに長い行列を作り、広場前の入口から大聖堂を拝んですぐに移動するのだ。
(こんなの、教皇や枢機卿の顔を垣間見るどころじゃない)
竜也は内心で舌打ちを連発した。
「それにしても、教皇様や枢機卿様のお顔を拝見できないのは残念ですね。何とかは拝見する方法は……」
「枢機卿様はルテティアに行かれているそうだから、拝見するのは無理のようね」
巡礼者の一人の言葉に竜也は落胆する。だが、
「枢機卿様はもうすぐ戻ってくるらしいぞ。四日か五日くらい待てば町をお通りになる枢機卿様を拝見できるかもしれない」
誰かの言葉に、
「本当?」「本当ですか?」
と巡礼者達が色めき立った。それは竜也も同じである。
(ここまで来て手ぶらじゃ帰れない。何としてもこの機会を逃さない)
竜也は決意と共に拳を固く握りしめた。
それから数日間、竜也はラズワルドとサフィールを連れてテ=デウムの町をあちこち見て回って過ごした。アンリ・ボケ以外の教皇庁の高官を偶然でも見かけることを期待してのことである。だがさすがにそんな僥倖は転がっていなかった。
「仕方ないな。帰り道のアンリ・ボケを捕まえることに最善を尽くすしかないか」
竜也はさほど落胆することなくそう考えている。一方のラズワルドとサフィールは観光気分である。
「タツヤ殿のおかげで貴重な体験ができました。里に戻ったら一族の者に自慢できます」
と無邪気に喜ぶサフィールに竜也は苦笑する。
「別にいいけど、まだ油断しないでくれよ。明日こそ本番なんだから」
判っています、とサフィールは頷いた。
「――タツヤ殿」
「ん?」
不意にサフィールは真剣そのものの表情となる。
「タツヤ殿がご命令になるのであれば、わたしとバルゼル殿の二人で敵の隊列の中に突っ込んでアンリ・ボケの首級を挙げることも」
竜也は慌ててサフィールの口を手で塞いだ。
「滅多なことは言わないでくれ! どこに人の耳があるか判らない」
サフィールは赤面して何度も頷く。だが周囲を警戒している竜也はサフィールを抱きしめるように拘束したままだ。
「聞き耳を立てている人はない」
ラズワルドが竜也とサフィールの間に身体を強引に割り込ませる。サフィールはようやく竜也から解放され、大きくため息をついた。ラズワルドが竜也とサフィールの手を取り、その心をつないだ。
(そんな無計画な暗殺じゃ成功するかどうかも判らない。確実なのはサフィールもバルゼルさんも生命がないことだけじゃないか)
(おー、これが白兎族の恩寵ですか。すごいですね)
サフィールの能天気な感心に竜也はずっこけそうになる。だがサフィールの内心もすぐに真面目なものになった。
(――ですが、本当の戦争となったら無辜の民がどれだけ死ぬか判りませんよ? わたしとバルゼル殿の二人の犠牲で戦争が止められるのなら)
(サフィールだって道中にエレブ人の様子をずっと見てきただろう? 枢機卿だろうと教皇だろうと、人一人が死んだくらいで彼等が止まるとは到底思えない)
竜也の正しさを認めてサフィールが沈黙する。
(それに、恩寵の戦士……悪魔の民が枢機卿を暗殺したとなったらエレブ人の聖戦意識が余計燃え上がるだけなんじゃないか? 報復っていう正当性をエレブ人に与えかねないし、そうなったら牙犬族が戦争の原因扱いされてネゲヴで肩身の狭い思いをするかもしれない)
竜也に説得され、サフィールの戦意は急速にしぼんでいった。
(何もできないのですか……悔しいですね)
(何もできないなんてことはない。万一の場合はサフィール達に退路を開いてもらわなきゃいけないんだから。危険な目に遭わせてすまないけど、もう少しだけ付き合ってくれ)
サフィールは無手のまま剣を抜くような仕草をし、
「お任せください! タツヤ殿とラズワルドの安全はこのわたしが守ります、この剣に誓って!」
(いや、剣ないから)
と竜也は内心で突っ込みつつも、
「頼りにしている」
と笑顔を見せた。
そして翌日、アンリ・ボケがルテティアから戻ってくるという日である。
その日、テ=デウムの中央通りには朝早くから行列ができていた。アンリ・ボケを一目見ようと集まった巡礼者達が通りの両側に列を作って並んでいるのだ。当然竜也達もその列の中に加わっている。教会の聖職者がパンやスープの配付をしており、竜也もまたそれを受け取って食べていた。
ひたすら待つこと丸一日。アンリ・ボケが戻ってきたのは夕方、日が暮れる直前の時間帯である。
最初に姿を見せたのは騎兵の一団だ。数十人の騎兵全員が全身鎧で完全武装しており、その鎧が夕陽を浴びて赤く輝いていた。その一団が掲げる旗には×印のように交差した二本の槌が描かれている。その騎士団の中心にいる、黒い法衣を身にした巨体の男。
「枢機卿様!」「枢機卿様!」
巡礼者が歓喜の声を上げ、祈りを捧げている。感涙にむせんでいる者もいる。竜也もまた熱狂を演じながら、細心の注意を払って枢機卿アンリ・ボケの姿を凝視した。
年齢を図りがたい面相だが五六歳という年齢より大分若々しい印象で、四〇代くらいに見受けられる。身長はおそらく一九〇センチメートルに届いている。顔も胴体も横幅が広いが太っているような印象は受けない。積み木で作った人形みたいに四角い顔と胴体である。眼は細く、線にしか見えない。口はやたらと大きく、まるで着ぐるみのようだ。柔和な笑みを絶やさず湛えており、堂々とした体格と相成って聖者としての風格を充分備えているように思われた。
自分の周囲の巡礼者を見回していたアンリ・ボケが静かに手を一振りする。
「全隊、止まれ!」
騎士隊長の号令がかかって騎士の一団が即座に静止。微動だにせず、しわぶき一つせずに次の号令を待っている。全員が指先から爪先まで同一の姿勢を保ち、眉の角度すら綺麗に揃っている。驚くべき水準の練度であった。
路上に立ち止まっているアンリ・ボケの周囲に巡礼者達が徐々に集まってくる。始めは躊躇いながらも、少しずつ大胆に。竜也とラズワルド、サフィールは周囲に押されるようにして否応もなくアンリ・ボケへと接近した。
(近い、近すぎる。とにかく怪しまれないように)
と焦る竜也。その竜也にラズワルドが、
(大丈夫、アンリ・ボケも他の誰もわたし達のことを怪しんでない)
ラズワルドの言葉を受けて竜也は落ち着きを取り戻した。
(ともかく、絶好の機会であることには間違いない。このままアンリ・ボケの心を――)
「お前達、何をしている」
腹の底に響くような低い声での静かな問い。竜也は心臓を鷲掴みにされたように冷や汗を流した。
「お前達はここで何をしているのか、と訊いている」
アンリ・ボケが再度問い、巡礼者達の間に戸惑いが広がった。互いに顔を見合わせる巡礼者達。その中の一人が意を決して、
「はい、私共はセットの村から巡礼に。枢機卿様のご尊顔を一目与りたいと」
「馬鹿者!!」
アンリ・ボケの叱責はまるで雷鳴のようだった。巡礼者は等しく身を縮めて頭を抱えている。
「教皇聖下が我等に聖戦を命じたことを知らぬ者はいるまい。お前達は赴くべきはテ=デウムではない、ネゲヴだ!」
アンリ・ボケは殊更に腕を大きく振って南を指差した。
「ネゲヴには全てがある。奪われし聖杖が、約束の地が、新たなる神の王国が、永遠の楽園が!」
おお、感嘆する巡礼者達。だがその中の一部の者がおそるおそる、
「ですが枢機卿様、わたしはもうこんな年寄りでとてもネゲヴまでは」
「私も、自分の畑を置いてネゲヴまで行くのは……」
その反論にアンリ・ボケは「判っている」と頷いた。
「教皇聖下は我等に百万の兵を集めるようご命じになった。お前達の村にも出征する兵が割り当てられる。村人百人につき四人の兵、まずはその割り当てを守る! それこそが聖下の御心に適うことなのだ。巡礼にかける費用などどこにある! その金は出征する兵の支援に遣え!」
「百人につき、四人……」
竜也は骨が折れるかと思うほど強くラズワルドの手を握りしめた。痛みに顔をしかめるラズワルドだが、文句一つ口にせず恩寵を使い続ける。生まれて初めて恩寵の全力を解放するラズワルドだが、アンリ・ボケの心をどれだけ探っても嘘偽りを何一つ見つけることはできなかった。
巡礼者達がざわめいている。「百人につき四人」という割り当てが何を引き起こすのか想像しているようである。アンリ・ボケとて、それがどれだけ途方もない負担なのかは百も承知である。だが、
(まさかそんな……本気で)
それでもアンリ・ボケは本気で百万の兵を集めるつもりでいた。エレブがどんなことになろうと、どれだけの血が流れようと、幾万の無辜の民が死のうと。それでも一人として欠けることなく、百万の兵を揃えることはアンリ・ボケにとっては変更不可能な決定事項だった――教皇インノケンティウスがそう命じたから、ただそれだけの理由で。
竜也の顔から血の気が失せている。顔だけでなく身体中の血がどこかに流れ去ったかのようだ。全身から体温がなくなり、自分が死体になったかのような寒気を覚えている。身も心も凍えさせながら、竜也はアンリ・ボケの言葉に耳を傾け続けた。
「――確かにお前達には苦難の道を歩ませることとなるだろう。ネゲヴに出征する者も、その行く道が平坦であるはずがない。だが、それこそが神の御元へと続く道なのだ! その道に楽な道があるものか!」
アンリ・ボケは握りしめた拳を振り上げた。
「兵を出征させればその一家が救われる! 割り当てを守ればその村が救われる! それがこの私が保証しよう! 神の栄光を前に、現世の金貨に何の意味がある? 永遠の楽園を前に、今のこの生命に何の意味がある?」
(嘘がない……この男には嘘がない)
ラズワルドがアンリ・ボケの心を奥へ奥へと進んでいく。だがその場所のどこにも嘘がなかった。神の栄光の前には金銀財宝も、生命すらも全くの無価値――アンリ・ボケは本当に心からそう思っている。自分の生命にすら神の栄光を、教皇インノケンティウスの理想を実現するための道具としての価値しかなく、他人の生命はそれ以上に無価値な消耗品だった。
ラズワルドはついにアンリ・ボケの心の最深部へとたどり着いた。ラズワルドはその扉に手をかけ、開く。
アンリ・ボケは背に負っていた巨大な鉄槌を片手で持ち上げ、高々と掲げた。
「お前達は神の先兵、神が今まさに振り下ろさんとする、聖なる鉄槌! 穢れに満ちたネゲヴの大地を浄化の炎で焼き尽くすのだ!」
心の扉を開けた瞬間、ラズワルドの全身が炎に包まれた。扉の奥から無限に沸き上がる炎が四方へと広がり、大地の全てを覆っていく。地獄のような業火が何もかもを焼き尽くす――
「神の栄光を!」
巡礼者の一人が感極まって叫ぶ。それに全ての巡礼者が続いた。
「栄光を!」「栄光を!」「栄光を!」
巡礼者の熱狂的な歓呼が続く。鉄をも溶かすような熱狂の直中にあり、竜也はただ一人心を凍てつかせていた。竜也の腕の中では気を失ったラズワルドが横たわっている。竜也は身体の震えを抑えるために、ただラズワルドの身体を抱きしめるしかなかった。
巡礼者の熱狂の宴はいつ終わるともなく続いていた。
情報収集に成功した竜也達は逃げるようにテ・デウムを後にする。ローヌ川を下り、船を乗り継いでマッサリアに到着する頃にはシマヌの月も下旬となっていた。
「やはり、直接見なければ判らないこともあるな。礼を言う、タツヤ」
「いえ、こちらこそ」
ネゲヴに戻るための船が用意され、竜也達はそれに乗り込むところである。その見送りにルワータが来ていた。
「私は引き続きこちらでの情報収集を行う」
「ネゲヴに戻ったら、俺はエレブで見たものをできるだけ多くの人に知ってもらおうと思います。それだけじゃ足りないけど、まずはそこから」
竜也とルワータは固く握手を交わす。それが別れの挨拶となった。竜也達を乗せた船がマッサリアを出港する。
復路も往路と同じく、トリナクリア島のセリヌスの港を経由する。セリヌスでエレブの船からネゲヴの船に乗り換えた竜也達はセリヌスを出港。竜也達はトリナクリア島を、エレブを離れていく。
竜也は船の最後尾に立ち、遠ざかるトリナクリア島を、エレブの大地を見つめていた。
「この船にはもうエレブ人はいないですよね」
視線をトリナクリア島に固定したまま竜也が問い、ツァイドが「ああ」と頷く。そうですか、と呟いた竜也は大きく息を吸い込んで、
「お前等は馬鹿だ!! 大馬鹿だ、どうしようもない愚か者だ!!」
エレブの大地に向かって力の限り叫んだ。
「戦争なんだぞ!? 人が死ぬんだぞ!? ネゲヴ人だけじゃない、エレブ人が、お前等の家族が、恋人が、お前等自身が! 何人も、何万人も死んでいくんだ! 何でそれが判らない! そんなに戦争がしたいのか! 殺したいのか、死にたいのか!」
竜也は甲板にひざまずき、拳を床に叩きつけた。
「畜生、畜生……!」
手が切れて血が流れるのも構わずに拳を床に叩き付ける。流れる涙が床を塗らした。そんな竜也をサフィールが制止する。
「タツヤ殿……」
サフィールはそれ以上何を言えばいいのか判らなかった。無言のまま竜也の手に手巾を巻いて血を止めようとする。竜也は乱暴に涙をぬぐいながら、
「ごめん」
と立ち上がった。
竜也が振り返ると、ラズワルドが、サフィールが、バルゼルが、ツァイドが竜也を囲むように立っている。竜也は真っ直ぐにバルゼルに向き合った。
「……エレブ人と戦わなきゃいけない。ネゲヴを守らないといけません。牙犬族の力を貸してもらえませんか?」
「判った」
バルゼルはそう即答した。
「用意はしておく。いつでも呼べ」
「ありがとうございます」
竜也は深々と一礼。そしてもう一度トリナクリア島を、エレブの大地を見つめる。トリナクリア島は水平線の向こうに隠れてすでに見えなくなっている。だが竜也はそこに敵の姿を、百万の敵影を見出していた。