「黄金の帝国」・戦雲篇
第一四話「エジオン=ゲベルの少女」
時間は少し前後して、エルルの月(第六月)の中旬。ガイル=ラベクにガフサ鉱山暴動の解決を依頼されるより前のことである。
その日、竜也は穀物買い占めの件でカフラ達と打ち合わせするため外出しており、夕方になって「マラルの珈琲店」に戻ってきたところである。
「ああタツヤ、お客さんに待ってもらっているわ」
顔を見せるなりマラルがタツヤにそう声をかけてきた。
「判りました、すぐ行きます」
「あの子の知り合いだったみたい。今はあの子が応対しているわ」
「ラズワルドの?」
タツヤは一瞬首を傾げ、すぐにある可能性に思い当たった。タツヤは大急ぎで個室へと向かう。ノックと同時ぐらいにドアを開けると、
「タツヤ」
ラズワルドと一人の男が向かい合っているところだった。
座っている状態でも判る、かなりの長身と痩身。年齢は計りがたいが、四〇前後ではないだろうか。肌は病人のように青白く、長めの髪は黒。長い前髪に半分くらい隠れていて非常に判りにくいが、瞳の色は鈍い赤だ。目は細いが決してそれは笑い顔ではない。笑い顔が想像もできないような、酷薄な印象の男だった。
竜也の元に駆け寄ったラズワルドは竜也の背後に隠れるような位置に立ち、竜也の手を握った。ラズワルドの強い敵意がその手を通じて伝わってくる。
竜也はラズワルドを連れてその男と向かい合う位置に移動、席に座った。
「俺がクロイ・タツヤです。あなたは白兎族の――」
「私は白兎族の族長補佐をしているベラ=ラフマという者です」
やはり、と竜也は思いながらも同時に疑問も抱いた。竜也の視線を感じ取ったベラ=ラフマが説明する。
「この髪は染めたものです。地毛はラズワルドと同じ色です」
なるほど、と納得する竜也。だがまた別の疑問が湧いてくる。
「でも、何故髪を染める必要が?」
「白兎族と悟られないためです。知られれば何かと面倒ですので」
そう言えばウサ耳も付けていない、と竜也は今になって気が付いた。ラズワルドが侮蔑を口に浮かべる。
「一族の誇りはどうしたの」
「私の誇りの有り様はお前とは違う。それだけのことだ」
ラズワルドは反発を強めた。
「苛められるのを怖がって印を外すなんて、臆病者のすること」
ベラ=ラフマはかすかにため息をつく。
「少しは変わったかと期待していたが……お前は周囲をはばかることを覚えるべきだ。お前をアニード商会に売るのを、ホズン様が好きで認めたとでも思っているのか。お前がもっと自重していたなら私もそこまでやる必要はなかったのだ」
「あー……」
竜也は内心でベラ=ラフマに同意していた。以前住んでいた長屋での振る舞いから類推するに、売り飛ばされた理由のある程度はラズワルド自身に帰することだったのだろう。
何か言おうとして言葉を詰まらせるラズワルド。ベラ=ラフマは竜也へと水を向けた。
「クロイ・タツヤ、あなたなら理解できるのではありませんか? あなたは印を外した我々を動かそうとしているのでは?」
「エレブに潜入したときはラズワルドだってそのウサ耳外していただろ? それと同じだとは思えないか?」
竜也に諭され、ラズワルドは沈黙を余儀なくされた。その間に竜也とベラ=ラフマが話を進める。
「それで、あなたは我々に何をさせようというのですか?」
「エレブに潜入してムハンマド・ルワータさんの手助けをしてほしい。聖槌軍の情報が欲しいんだ。規模・作戦・補給・人事・指揮官の傾向・噂話、ありとあらゆる情報を集めてほしい」
ふむ、とベラ=ラフマは少し間を置いた。
「しかし、そのような情報が何故必要なのですか?」
ベラ=ラフマは試すように問う。
「――聖槌軍の規模はどんなに少なくても総勢数十万。もしかしたら本当に百万の軍勢が攻めてくるかもしれない」
竜也が少しずれた返答をし、ベラ=ラフマはかすかに戸惑いを見せた。
「……しかしそれは」
「俺とラズワルドはシマヌの月にテ=デウムまで行って、枢機卿アンリ・ボケの姿をごく間近に、直接この目で見ている。ラズワルドがアンリ・ボケの心の中を直接探っている。それで判ったんだ、アンリ・ボケは本当に本気で百万の軍勢を揃えるつもりでいる。どれだけの犠牲を払っても、エレブがどんなことになっても」
ベラ=ラフマがラズワルドへと視線を送り、ラズワルドが無言のまま頷く。ベラ=ラフマの表情はほとんど動いていないが、どうやら衝撃を受けているようだった。
「……その情報は公表されていないようですが?」
「公表したって信じてもらえるわけがないでしょう? ラズワルドの恩寵がどれだけのものか、知っている人間しか信じられるわけがない」
竜也は雑な仕草で肩をすくめた。
「ラズワルドがいなければ何の備えもないまま百万の軍勢と戦う羽目になるところだった。ラズワルドがいるから百万と戦う準備ができるんだ。俺の元いた場所には『情報を制する者は世界を制する』という言葉がある。白兎族の恩寵にはそれだけの力があると思っている」
竜也の真摯な瞳がベラ=ラフマを見つめる。ベラ=ラフマの能面のような表情からは何の感情も読み取ることができない。ラズワルドがその恩寵を解放してもベラ=ラフマの分厚い精神防壁に阻まれ、その心中を読み取ることができなかった。
「……判りました。クロイ・タツヤ、あなたに力を貸すことを約束しましょう。白兎族はあなたの目となり、耳となりましょう」
「ありがとうございます」
竜也とベラ=ラフマが固く握手を交わした。こうして竜也は白兎族とベラ=ラフマの協力を得ることとなる。竜也にとっては万余の軍勢に匹敵する戦力である。
ベラ=ラフマは早速自分の部下をエレブへと送り込んだ。その一方自分は竜也の元に残り、情報収集分析に従事する。竜也を訪ねてやってくるエレブ帰りから話を聞き、あるいは竜也の元に集まってくる情報を整理し、取捨選択し、精度の高い情報をまとめる。エレブ情勢速報の作成や「ネゲヴの夜明け」編集はそのほとんどをベラ=ラフマが担うこととなった。
「それじゃ、後はよろしくお願いします」
「はい、お任せください」
竜也がスキラを離れてガフサ鉱山に行くことができたのもベラ=ラフマあってのことである。何日かに一回ずつはスキラに戻ってきたものの、タシュリツの月(第七月)の大半はガフサ鉱山で過ごしていた。その間もベラ=ラフマがエレブ情勢速報を発行し、
「前よりもずっと分析が鋭くなった」
と好評を得ている。
アルカサムの月(第八月)に入り、ガフサ鉱山暴動を解決して竜也はスキラに戻ってくる。
「この一月助かりました。それで――」
「はい。この仕事はこのままお任せください」
と、竜也は引き続き情報収集分析・エレブ情勢速報の発行をベラ=ラフマに任せることとなる。
「さて、手が空いたけどどうしよう」
場所は「マラルの珈琲店」の個室。その部屋はすでに竜也専用みたいな扱いとなっていて、今は会議室代わりである。室内にはラズワルド・カフラ・サフィール、それにベラ=ラフマが顔を揃えていて、それぞれ珈琲やお茶を飲んでいる。竜也が飲んでいるのは熱々のブラックコーヒーだ。
「やっていただくことならいくらでもありますよ?」
と告げるのはカフラである。カフラが飲んでいるのは埋め立てするような勢いで砂糖をぶち込んだ珈琲だった。
「タツヤさんがガフサ鉱山でやったことはバール人の間じゃ大評判になっているんです。『うちの鉱山も改善してほしい』ってお話があちこちから舞い込んでいます」
「ナーフィア商会は?」
「うちはもう始めてます」
と胸を張るカフラ。
「父上から聞いた話ですが」
と次はサフィールが竜也に伝える。サフィールが飲んでいるのは普通のお茶(紅茶)だが、使っているのは日本風のマイ湯呑みだった。
「恩寵の部族が集まって聖槌軍と戦う義勇軍を作ろうという話が出ています。今はまだ近場にいる族長が集まって色々相談している段階ですが、タツヤ殿にもその相談に加わってもらえたら、と父上が言っておりました」
「いいのか? 俺なんかで」
と問う竜也に、
「タツヤさんがいなきゃどこでどう戦ったらいいかも判らないと思いますよ」
とカフラがちょっと呆れたように解説した。
ラズワルドは黙って話を聞いている。飲んでいるのは竜也に作り方を教えてもらいお気に入りになったカフェオレだが、竜也から見れば「珈琲風味の牛乳」と呼ぶべき代物になっていた。
最後にベラ=ラフマが話を切り出す。
「オエアが気になる動きをしています」
なおベラ=ラフマが飲んでいるのはただの水だった。
「オエアというと……あの場所か」
竜也は脳内でネゲヴの地図を広げる。オエアは元の世界ではトリポリに相当する町である。
「オエアの商会連盟が各地の商会連盟に呼びかけをしています。『聖槌軍に対抗するために海洋交易・軍事同盟を再建しよう』と。スキラの商会連盟にも話は行っているかと思いますが」
一同の視線がカフラへと集まる。カフラは侮蔑の表情を浮かべた。
「ゲラ同盟分裂から何年経ったと思っているんですか。時代錯誤もいいところです」
「確かに三百年前そのままの再建は考えられないだろう。でも、名前は同じでも中身は大幅に変えて、ならあり得る話じゃないのか?」
竜也の問いにカフラは少し考え、やはり首を振った。
「いえ、どう考えても現実的じゃありません。千年前のバール人なら自腹を切って、自分達が先頭に立って聖槌軍と戦いネゲヴの民を守ったことでしょう。でも、この時代にそんなことをするバール人が果たして何人いることか。傭兵を雇うのに自腹を切ることすら嫌がる人達が大半でしょう」
「少なくとも、恩寵の民は同盟には絶対に協力しないでしょう」
とベラ=ラフマが告げる。
「当時のバール人にどんな扱いを受けたのかを恩寵の民は決して忘れていません。同盟の復活を望む恩寵の民が一人でもいるとは思えません」
「そんなのバール人だって望んでいません」
とカフラ。
「普通に商売をしていた方がよっぽど儲かるじゃないですか。わざわざそんな負担を背負い込もうという人達の気が知れません」
「……バール人だって全員が全員商売繁盛で順風満帆、てわけじゃないんだろ? カフラの言う『普通の商売』ができない人だって多いんじゃないか? そういう人達が過去の栄光にすがり、思いを託し、一発逆転を狙っているんじゃないかな」
竜也の言葉にカフラが沈黙する。ベラ=ラフマが「おそらくはそうなのでしょう」と竜也の見方を肯定した。
「オエアで聖槌軍対策の議論を主導しているのはギーラという人物です。かれに与している者の多くが中小以下の経営が苦しいバール人商会のようです」
「ギーラ……聞いたことのない名前ですね」
とカフラが首を傾げる。
「私も簡単に調べたのですが何も判りませんでした。バール人であることは間違いないようですが」
「判りました、うちの商会で調べます」
とカフラ。竜也が「それでも」と話を戻した。
「動機やら名前やらあり方やらはともかくとして、聖槌軍と戦うのにネゲヴ全体が力を合わせる必要があることは間違いない。そのための話が今オエアで進んでいるのなら、それに積極的に加わることもありなんじゃないか?」
その竜也の問いにカフラ達三人は否定的な様子を示した。
「タツヤさんを差し置いてそんな話をしている連中、相手にすべきじゃないと思います。少なくてもこちらから話をしに行くのは駄目です、タツヤさんの格が下がっちゃいます」
サフィールが「その通り」と言わんばかりに大きく頷く。
「俺の格なんて別にどうでも」
と言う竜也を無視するようにベラ=ラフマが話をまとめた。
「東ネゲヴのことはオエアに任せておくべきでは? 我々は近場の中央と西の町を集めましょう。中央と西で方針を一本化しておけば東と合同しても主導権を握れるでしょう」
「そうですね、それがいいでしょう」
とカフラが頷く。竜也の意向は置き去りにされたまま重要な話が進んでいく。
「『ネゲヴの夜明け』を使って各町の代表をスキラに集める呼びかけをします。『クロイ・タツヤ』の名を呼びかけ人の筆頭とし、その意志に賛同する者の名を連ねるのです」
とベラ=ラフマが企画し、カフラとサフィールが全面協力。カフラがナーフィア商会を始めとしてジャリール商会・ワーリス商会といった大豪商の名を、スキラ・スファチェ・レプティス=マグナの長老会議の名を集める。サフィールは恩寵の部族の族長名を集め、さらにはマグドや有名な傭兵団が賛同に加わった。
「ふふん、オエアごときがタツヤさんに対抗しようなんて、身の程知らずもいいところです」
豪華な名前を連ねた「スキラの夜明け」を手にし、カフラは満足げな笑みを見せる。「スキラの夜明け」はオエアを含むネゲヴ全土に配付され、クロイ・タツヤ名による聖槌軍対策会議への参加もまたネゲヴ中へと呼びかけられた。
アルカサムの月も中旬となり、竜也達は対策会議の準備を進めている。カフラの元に要請のあった「各地鉱山の経営改善」はカフラとマグドが協力して対応をしているところである。ナーフィア商会・ガフサ鉱山から人材を派遣し、指導をするのだ。さらには、
「にいちゃん、良い身体をしているな。奴隷軍団に入らんか?」
マグドとその部下の百人隊長は各地の鉱山の元戦争奴隷を片端から口説き、自らの軍団に組み込んでいく。マグド隷下の元戦争奴隷は「奴隷軍団」を名乗り、その陣容を二千から三千、三千から四千と急速に拡大させていった。もっとも「戦争が始まったらマグドの下で兵士になることを承諾している人間がそれだけいる」という意味であり、現時点で即座にそれだけの兵を動員できるわけではない。だが、今のネゲヴにそれだけの戦力を動員できる町も傭兵団も存在しない。竜也に匹敵する、あるいは超える戦力を有しているのは片手で数えられるほどの数のケムトの有力諸侯、およびケムト王国そのものくらいのものだった。
その一方、オエア側も戦力の充実を急いでいる。
「タツヤさん、やられました」
不意に現れたカフラが悔しげに竜也にそう報告する。場所はスキラ商会連盟本部、そこでの打ち合わせがちょうど終わったところである。
「誰に、何をだ?」
「オエアのギーラに、です。彼は聖槌軍と戦う傭兵の総指揮官として、エジオン=ゲベルからあのアミール・ダールを招聘したんです!」
「ああ、どこかで聞いたことのある名前だな」
カフラはまず脱力し、次いで何かを悟ったような顔をした。
「……そう言えばタツヤさんはそういう人でしたね。そうです、タツヤさんですら名前を知っているくらいの、アシューで一番有名な将軍なんです。戦争の名手と謳われている人なんです」
エジオン=ゲベル王国はエラト湾(元の世界のアカバ湾)一帯を領有する国だ。百の王国があると言われるアシューの中では比較的大きく有力な国である。アミール・ダールはそのエジオン=ゲベル王の弟であり、王国将軍である人物だ。
「独立不遜で通っている各地の傭兵団だって、アミール・ダールが指揮を執るならその配下に収まることを納得するでしょう」
「良いことずくめじゃないか。何が問題なんだ?」
暢気な竜也に、カフラは吠えるように訴えた。
「タツヤさんが主導権を取れないことが、です! このままじゃオエアに、ギーラやアミール・ダールに主導権を取られてしまいます。タツヤさんは悔しくないんですか? 誰よりも早く聖槌軍の脅威を訴えてきたのに。笑われたり馬鹿にされたりしながらも戦う準備を進めてきたのに、そのタツヤさんを無視するなんて!」
カフラは悔しげに顔を俯かせた。竜也が「カフラ」と優しく呼びかけ、顔を上げたカフラに笑いかけた。
「他の誰かが俺より上手く戦ってくれるなら、それに越したことはないと思っている」
「でも」
竜也は黙って南を指差す。カフラの視線が南へと向いた。
「あそこには何がある? ナハル川の向こうだ」
「え、南岸にはタツヤさんの倉庫が……あ」
「そういうことだよ」
得心するカフラと、頷く竜也。
「カフラとミルヤムさんが買い集めてくれた食糧は兵糧にもなるんだ。俺達を無視して聖槌軍と戦争なんかできっこない。違うか?」
「確かにそうです」
とカフラは頷く。
「タツヤさんが協力しなければアミール・ダールの軍勢だろうと十日で干乾しになるだけです。アミール・ダールの存在に充分対抗できます」
「別に対抗する必要はないと思うんだけどね。スキラのみんなを無視して無茶をやろうっていうんじゃない限り」
と竜也は肩をすくめた。
「協力できるならそれが一番だ」
「そうですね。でもそれには向こうが礼節を持って挨拶に来るのが最低条件です」
カフラはそう話をまとめた。カフラの出した条件が満たされるのは数日後のことである。
その日、竜也は船に乗って地中海を東進していた。竜也に同行するのはカフラとマグド。護衛にはサフィール・バルゼル他牙犬族の剣士が幾人かと、マグド配下の元奴隷が同数。そしてラズワルドとベラ=ラフマが目立たないところで控えている。
「クロイ・タツヤとその一党勢揃い、というところか」
とガイル=ラベクは笑っていた。
「そう言うガイル=ラベクさんはタツヤさんに与してはくれないんですね」
とカフラは冷たい目をガイル=ラベクに向ける。
「ガフサ鉱山の一件では無理難題を引き受けて解決したのに」
「まあ、うちの船団でも色々あるんだ」
ガイル=ラベクは気まずそうに言い訳した。
「俺としちゃ、オエアに与するよりはお前達に与する方が面白いと思っている。だからこそ俺がお前達の出迎えをしているんだろうが」
それはそうですが、とカフラは口の中で小さく呟く。竜也はカフラをたしなめた。
「聖槌軍と戦うのに派閥争いなんかしている場合じゃないだろ。ネゲヴが一つとなって戦う、今日はそのための話し合いなんだから」
カフラはまだ不満そうだったがそれ以上何も言わなかった。一方マグドとガイル=ラベクは竜也のことを興味深げに眺めている。
ガイル=ラベク率いる髑髏船団はオエアにもスキラにも与せず、中立の立場を取っていた。その立場を生かしてガイル=ラベクはアミール・ダールと竜也との会談を仲介。そして竜也はアミール・ダールに会うために船に乗って東へと向かっている。
「そろそろだな」
海岸線を眺めていたガイル=ラベクが停船を命令。船は海岸から数百メートル沖合で碇を降ろした。場所は、元の世界であればチュニジアとリビアの国境近くである。
その場で待つこと数時間。日差しがかなり傾いてきた頃、水平線の向こうから船が姿を現した。髑髏の旗を掲げたその船が次第に接近、ついには竜也達の船に接舷する。
二つの船の間には移動のための板が掛けられた。竜也達は出迎えのために甲板に並び、隣の船からアミール・ダールが渡っているのを待った。だが、
「え?」
「……どういうことだ?」
護衛を引き連れて竜也達の船に渡ってきたのは一人の少女だけ、後に続く者はいない。
服はアラブっぽい軽装で、セム系の白い肌。身長はサフィールより低く、体格はスレンダー。濃い焦茶色の長い髪を一本お下げにして編み込んでいる。年齢は竜也より一、二歳年下だろう。勝ち気そうな、凛々しい美少女だった。
「あの、あなたは?」
カフラの問いに少女は傲然と答える。
「エジオン=ゲベル王国王弟アミール・ダールが第七子、名前はミカ。今日は父アミール・ダールの名代としてここに来た」
ミカの口上に竜也達はまず沈黙した。最初に反応したのはカフラである。
「……アミール・ダールは七人の子を伴ってオエアに来ていると聞きます。その中でよりにもよって一番下の、それも女子を名代に選んだのですか」
カフラは口調に不愉快さをにじませている。竜也を軽んじている姿勢にはマグドも静かに怒っていたし、仲介の面子を潰されたガイル=ラベクもまた同様だ。
「せめて嫡男を送ってくるならまだともかく、女子供を――あいた」
突然竜也がカフラへと軽く拳骨を落とし、
「女だからって名代が務まらない、なんて考えはおかしいし、カフラが言うことじゃないだろ」
カフラとミカが同じように目を丸くした。
「カフラだってミルヤムさんの名代としてあちこち飛び回っているじゃないか。年齢にしたって見たところカフラと何歳も変わらない、つまりは俺ともそんなに違わないってことだ」
とカフラに諭した上で竜也はミカへと向き直った。
「ネゲヴを聖槌軍から守る――立場は違ってもその志には違いはない。そのためにスキラとオエアが、俺達と将軍アミール・ダールが協力しなきゃいけない。今日の会談はその第一歩にしたいと思っている」
と手を差し出す竜也。ミカは若干あたふたしつつも、
「え、あ、はい。その通りです」
とその手を握った。
握手をしつつ、ミカは内心で舌を巻いている。
(わたしを持ち上げることで自分の面子、ガイル=ラベクの面子、そしてわたしの面子、それを全部保つなんて……優れた政治感覚の持ち主のようですね)
一方カフラはミカの内心をほぼ正確に見抜いていた。
(「こやつ、できる」みたいなことを考えてるんでしょーねー。でもタツヤさんは計算じゃなく素でやってるだけなんですよねー)
カフラは内心で肩をすくめていた。
……竜也達は甲板中央に移動、用意をしておいた席に着く。
「提督ガイル=ラベクには仲介の労を執っていただいたことを感謝します。そして父がこの場に来ることができなくなったことをお詫びします」
ミカはまずガイル=ラベクに頭を下げた。
「ですが、ご理解いただきたいのです。今の父はギーラに雇われた傭兵に過ぎず、ギーラの意向を無視して自由に動くことができません。一番監視の緩かったわたしが抜け出すので精一杯だったのです」
「……いくつか確認したいことがあるんだけど、まずギーラというのはどういう人物なのか? こっちにはギーラの名前しか伝わってこないんだ。それと、ギーラやアミール・ダールはネゲヴをどうやって守ろうとしているのか? これも知らなきゃいけない」
竜也の問いにミカは少し考え、
「わたしも詳しいことを知っているわけではありません。ギーラについて判っているのは、オエア出身のバール人であること、ただそれだけです」
「うちの商会で調べてもほとんど何も判りませんでした。多分、真っ当なバール人じゃないんでしょう」
カフラの言う「真っ当なバール人」とは商売、特に交易に従事する者のことを指している。それ以外の、農家や職人や傭兵は「真っ当でないバール人」となる。ましてや日雇いでその日暮らしをしているような者は決してバール人とは認められない。
「父親かその前の代で商会が潰れ、それ以降は日雇いか何かで暮らしてきたんじゃないでしょうか。急に表に出てきたのは、商会があった頃のつながりが辛うじて残っていたんだと思います」
ミカの話によると、ギーラの年齢は二〇代半ば。彼は聖槌軍の脅威が噂されるようになった頃オエアの使者としてまずケムトに向かったと言う。
「そこでまず、何故無名のギーラが使者に選ばれたのかが疑問になるんだけど……」
「その時点ではそれほど重視された仕事じゃなかったんじゃないでしょうね」
竜也の疑問にカフラがそんな回答を示した。ミカの説明が続く。
「ギーラはケムト王国の宰相プタハヘテプの知遇を得、聖槌軍問題に対処するケムト王国の役職を得ています。彼はその肩書きを名乗ってエジオン=ゲベルにやってきたのです」
エジオン=ゲベルでは国王ムンタキムと王弟アミール・ダールの対立が深刻になっていた。ミカは「エジオン=ゲベルでは子供でも知っている話ですから」と前置きして説明する。
「伯父上は決して無能でも暗愚でもないのですが、声望は父の方に集まっていました。父が華々しい戦果を挙げ続けたのに対し、伯父上は戦場にほとんど出なかったからです。軍でも宮廷でも父に王位を望む声が密かに広がっていました。このままの状態だったなら、伯父上が父を粛清するか、父が反乱を起こすか、どちらかになっていたかもしれません」
そこにやってきたのがギーラである。ギーラはアミール・ダールを「聖槌軍と戦うネゲヴの軍の総司令官に」と求めたのだ。
「渡りに船だったわけか、国王ムンタキムにとっては」
「はい。はっきり言えば、体のいい追放です」
こうしてアミール・ダールはオエアにやってくることとなった。「ケムト王国の役職」「アミール・ダールとのつながり」、ギーラはこの二点を持って他者より優位に立ち、オエアの議論を主導していると言う。
「……つまり、東ネゲヴの代表としてケムト王国の役職を得て、その役職でアミール・ダールを雇い、アミール・ダールの存在を持って東ネゲヴの代表になっている?」
「詐欺師の手口ですね」
カフラは呆れるが、竜也はむしろ感心した。
「父が他の誰かと独自につながりを持ってしまうと自分の優位が崩れてしまう。このためギーラは父を籠の鳥にしているのです」
ミカは口調に不快さをにじませた。竜也は少し話を変えようと、
「それで、ギーラはどうやって聖槌軍と戦うつもりなんだ?」
「あの男はナハル川南岸を要塞とし、ナハル川を防衛線として聖槌軍をそこで防ぐことを考えています」
竜也達はあっけにとられてしまった。ミカが何を言っているのか理解できない。理性が理解を拒絶している。
「ちょっ……ちょっと待ってくれ」
竜也は愛用の地図を用意、それをテーブルの上に広げた。ミカはかなりの近視のようで、顔をくっつけるようにして地図を見つめている。
ヘラクレス地峡からスアン海峡まで、ネゲヴ全域が描かれた地図である。ナハル川はネゲヴを東西に分かつように流れる川だ。水源は大樹海アーシラトの南の彼方、もしかしたらチャド湖までつながっているかもしれない。元の世界で言うならリビアとアルジェリアの国境を沿うように川が流れ、地中海へと注いでいる。河口近くにはスキラ湖があり、これは元の世界ならジェリド湖・ガルサ湖・メルリール湖を一つにつなげたものである。ナハル川の水は一旦スキラ湖に流れ込み、また川となって海へと流れていく。その、海まで流れる川の北岸にあるのがスキラの町である。
「こんなところに防衛線を……それじゃ、ナハル川より西の町はどうするつもりなんだ?」
竜也の問いにミカは目を伏せるだけだ。
「……いや、しかし理には適っている」
地図をとっくりと眺めていたマグドがそう呟き、ガイル=ラベクが「確かに」と同意した。
「どういうことです」
と竜也が詰問、マグドはなだめるように説明した。
「ここだ」
とマグドはスキラ湖から海までをつなぐナハル川を指差す。
「この間の距離はたったの一〇〇スタディア(約一八キロメール)。アミール・ダールはここだけ守っていればいい。聖槌軍はそれ以上東には行けん」
「それに、ナハル川の川幅は一番狭い場所でも一〇スタディア(約一・八キロメール)以上。水深だって外洋船がそのままスキラ湖に入れるくらいだ。守るにこれ以上の場所はない」
とガイル=ラベクが補足した。
「……でもそんな、それじゃスキラも含めて西ネゲヴを全部捨てることに! 他の方法はないんですか?」
「……父もそれで苦しんでいます」
ミカは絞り出すようにそう告げる。
「他の方法はないのか、と。敵を食い止めるのにより適した場所はないのか、と。ですが、見つかっていません」
「集められるだけの兵を集めて野戦を挑むのは?」
「馬鹿なことを言わないでください」
とミカは首を振った。
「敵が指揮系統を一本化しているのに対し、こちらはどう頑張っても烏合の衆にしかなりません。敵が長年の戦乱で戦い慣れているのに対し、こちらの主力は素人の兵。例えアミール・ダールが指揮を執ろうと、野戦では鎧袖一触にされるのが落ちです」
マグドが無言で頷き、ミカの見解を肯定した。
「ですが、ナハル川に陣取って敵を川に叩き落とすだけなら烏合の衆でも素人でも充分戦える、ギーラはそう考えています。確かにそれは間違ってはいません」
ガイル=ラベクが無言で頷き、ミカの意見に同意した。
「……でも、それじゃスキラはどうなる? 西ネゲヴの町や人はどうなるんだ?」
竜也が再度それを問う。甲板の上を沈黙が満たした。口を開いたのはカフラである。
「……多分、お金持ちは資産を持って東ネゲヴに移住するでしょう。お金のない人は西に残って、勝てないまでも戦いを挑んで……」
「聖槌軍をある程度苦しめ、消耗させる。ギーラはそれを期待しているのだと思います」
ミカがカフラにそう続ける。竜也は怒りで歯を軋ませるが、何度か深呼吸をして怒りを鎮め、気持ちを落ち着かせた。
「もっとマシな方法はないのか、もっと適切な防衛線はないのか。アミール・ダールはそれを探している――そう言ったよな」
竜也の問いにミカは「はい」と頷く。
「俺達もそれを探す、西ネゲヴの犠牲を少しでも減らす方法を。今のギーラとは到底協力できない。でも、アミール・ダールとは協力ができると思う」
竜也は立ち上がり、ミカに向かって再度手を差し出す。ミカもまた立ち上がり、その手を固く握った。
「はい。今の父は自由には動けません。ですが、いずれはクロイ・タツヤ、あなたと共に戦う日が来るでしょう。わたしもその日のために戦います」
……そして会談が終わり、時刻はすでに夜である。竜也達を乗せた船はスキラへの帰路に着いていた。ミカを乗せてオエアから来た船もオエアへと戻っていく。が、
「……それで、どうして君がここに?」
肝心のミカが竜也達の船に同乗していた。竜也の問いに、ミカは「何を訊いているのかこの馬鹿は」と言いたげな顔をする。
「オエアに戻っても再びギーラの籠の鳥となるだけ。それならあなたの元に留まって自由に動けた方が父上のためにもなります」
ミカは偉そうに胸を張った。そんなミカをカフラやラズワルドは白けたような目で眺めている。
「まあ、いいけど」
と竜也が受け入れ、エジオン=ゲベルの王女ミカが竜也の一党に加わることとなる。