「黄金の帝国」・戦雲篇
第一六話「メン=ネフェルの王女」
キスリムの月の下旬。スキラのソロモン館、その大広間。今そこでは聖槌軍対策会議、通称スキラ会議が開催されている。オエア会議が解消され、スキラ会議に合流しての初会合である。
ギーラは副特使の立場を最大限利用、議論の主導権を握ろうとした。聖槌軍と戦うためにネゲヴ連合軍を結成すること、その全軍の司令官にアミール・ダールを選出すること――ギーラはまずそれを提案。西ネゲヴ側は「副司令官をマグドとすること」を条件に賛成、満場一致でその案は可決された。また、それと同時にガイル=ラベクを海軍の総司令官とすることも提案され、可決されている。
次にギーラが提案したのは「独裁官職の設置」である。一同の視線の半分がギーラに集まり、もう半分が竜也へと向けられた。
「……それを設置するのはいいとして、その独裁官には誰を選ぶつもりなんだ?」
支持者の視線に背中を押されるようにして竜也が問い、
「私はケムト宰相プタハヘテプ閣下に副特使として任じられ、聖槌軍対策の全権を委ねられている! 私が独裁官職を兼務するのが筋というものだろう」
ギーラが当たり前のように堂々とそう答える。
「この押しの強さは到底真似できないな」
竜也は呆れるよりも先に感心してしまった。
「ではその独裁官殿はどうやってネゲヴを守るつもりなんだ?」
誰かの問いに、ギーラがナハル川を防衛線とする作戦案を提案。その途端議場が騒然となった。
「西にどうしろと言うのだ!」
「俺達を犠牲にして自分達だけ助かるつもりか!」
「ネゲヴ全体が征服されるよりはまだマシだろう」
「反対するなら代案を出せ!」
激しい罵り合いがくり返され、ときに掴み合いや取っ組み合いがくり広げられる。議論は紛糾し、全く前と進まなくなってしまった。
「副特使ギーラの案を採用して西ネゲヴを全て切り捨てた場合、西は全て聖槌軍の支配下になる。エレブからは入植者が次々と送り込まれ、元からの住民は殺されるか奴隷にさせられるかのどちらかだ。
そして東ネゲヴはそんな聖杖教の教団国家と川を挟んで対峙し続けることになる。ナハル川がいくら堅牢だろうと、数十万の軍勢相手に一体どれだけ間防ぎ切れる? 一年か二年の時間があれば突破されるんじゃないのか? 仮に突破されないとして、聖槌軍との対峙がいつまで続くことになる? 五年や一〇年の話じゃない、百年か二百年、あるいはそれ以上も奴等は西に居座り続けるかもしれないんだぞ? あなた達はそんな未来を望むのか?」
「ならばどうすればいいと言うのだ? マゴルのクロイ・タツヤ」
竜也は主にギーラと舌鋒を交わしている。
「我々は負けない方法を選ぶんじゃなくて、勝つ方法を選ばなきゃいけないんだ」
「だからそんな方法があるのなら言ってみろ!」
ギーラの追求に竜也は沈黙し、ギーラは嘲笑を浮かべた。
「私は宰相プタハヘテプ閣下より聖槌軍対策を一任されている! その私が、これが最善だと判断したのだ!」
ギーラはそれを前面に押し出して自案を推し通そうとする。だが、
「ケムトからの援軍はないのか? どうなんだ、副特使殿?」
そのもっともな指摘に今度はギーラが沈黙を余儀なくされた。竜也がホルエムヘブに確認する。
「ケムトは聖槌軍と戦うために出兵しないのですか?」
「儂ゃ宰相からは『何とか話し合いで解決を』と命じられとる。それで何ともならんかった場合に備えるために、将軍アミール・ダールとそこのギーラを派遣しておるんじゃろ」
その回答に失望が広がった。竜也が取りなすように提案する。
「……ともかく、ケムトに要請して一人でも多くの兵を出してもらうべきだ。その交渉を副特使ギーラにお願いしたい」
「判っている」
ギーラは平静を装って返答した。
「そこのクロイは自前で数千の兵士を擁しているぞ! お前もケムトから一万くらいは連れてこい!」
竜也を引き合いにした野次が飛び、嘲笑がさざめく。ギーラは敵意に燃える目で竜也をにらみ、竜也はうんざりしたため息をついた。
結局、その日の会議は議論が堂々巡りをしたまま閉会となった。
「総司令官が決まっただけ一歩前進か」
竜也はそう自分を慰めるしかない。
またもや数日の休会期間が設けられ、その間オエア側は派閥工作に動いている。それはスキラ側も同様である。スキラ各所で密談が行われ、説得工作が展開され、ときに賄賂が飛び交う。
「アラエ=フィレノールムの代表を説得しました。条件次第でこちら側に付いてもいいと言っています」
カフラが精力的に動き回り、ベラ=ラフマがそれを補佐する。この二人を中心としたスキラ側の派閥工作はオエア側に対して優勢な戦いを展開していた。
が、竜也はその動きから距離を置いている。
「ギーラの案よりもマシな作戦案があるなら支持なんていくらでも集められるんだ。それがないのにいくら支持者を集めても仕方ない」
竜也はマグドやミカ、シャブタイやノガに作戦案を検討させ続けた。だが未だに代案、良案は見つかっていない。
「やはり、考えれば考えるほどこの案が必然だとしか思えなくなる」
「父上や兄貴達が散々考えたのに代案が出てきてないんだ。俺が考えたって判るわけがない」
シャブタイやノガが討議をし、ときに愚痴をこぼすのを竜也は黙って聞いていた。
「……」
実は竜也には代案がないわけではない。一人で何度も何度も検討を重ね、犠牲を最小限に減らすにはこの方法しかないと思っている。これが唯一最善の作戦案だと確信している。だが、それを披露することはできなかった。
ラズワルドとベラ=ラフマの二人だけが、竜也がそんな腹案を抱いていることを察している。だが二人とも竜也に対して何も言わなかった。
スキラとオエアが対立する一方でケムトもまた独自に動いている。
「特使ホルエムヘブが自分の部下をエレブへと送り出しました。聖槌軍との交渉を行うにあたり、準備を整えるのが目的とのことです」
ベラ=ラフマの報告に竜也は眉をひそめる。
「交渉と言っても……圧倒的に優位な敵を相手に何をどう交渉するつもりなんだ?」
竜也が疑問を独り言のように呟き、ベラ=ラフマが律儀にそれに答えた。
「ナハル川を境界線に、西ネゲヴをエレブに譲る代わりに東ネゲヴはケムトの勢力圏として認めさせる――そのための交渉だそうです」
「ちょっと待て」
竜也は愕然とした顔をベラ=ラフマに向けた。
「宰相プタハヘテプは最初からそのつもりで……? ギーラが西ネゲヴを盾にしようとしているのと同じように、東ネゲヴをケムトの盾にするつもりなのか」
おそらくはそうなのでしょう、とベラ=ラフマ。竜也は頭を抱えた。
「なんてこった……ケムトが進んでネゲヴを分断しようとするなんて。もしこの話が広まったら戦争どころじゃなくなるぞ」
と懊悩する竜也は、ベラ=ラフマが何か言いたげな顔をしていることに気が付いた。
「何か?」
「ホルエムヘブの部下には口の軽い者がいるようです。この話はすでにあちこちで語られています。遠からずスキラ中に広まるでしょう」
ベラ=ラフマの報告通り、ケムトの秘密交渉の内容は数日でスキラ会議の参加者の誰もが知る公然の秘密と化していた。竜也の苦悩はさらに深まる。
そんな中、キスリムの月(第九月)の月末。
「タツヤ、久しぶり」
その日、竜也を訪ねて「マラルの珈琲店」にやってきたのはヤスミンだった。二人は店先で立ち話をする。
「久しぶりです。景気はどうですか?」
「やっぱり戦争が近いせいか、段々悪くなってるわね。そろそろ新作劇の脚本がほしいところなんだけど」
竜也が「今はちょっと……」と苦笑し、ヤスミンも、
「ま、判ってるわよ」
と肩をすくめた。
「今日は珍しいお客さんを連れてきたの」
とヤスミンが悪戯っぽく笑い、後ろを振り向いて手招き。それを見て隣の建物の陰に隠れていたその人物が姿を現した。
「――ハーキムさん!」
竜也がその鹿角族の青年――ハーキムへと駆け寄る。ハーキムもまた前へと出、両者は両手で握手をした。
「久しぶりです、無事でよかった」
「タツヤの活躍はルサディルでも耳にしていましたよ」
二人はひとしきり再会を喜び合った。ヤスミンが立ち去り、竜也はハーキムを案内して珈琲店内のいつもの個室に移動する。カフラとベラ=ラフマがそれに同席した。
「ハーキムさんはどうしてスキラに?」
「もちろん逃げてきたんです。タツヤがスキラで出世したようでしたから厄介になろうと思いまして」
それは構いませんけど、と竜也は質問を続ける。
「今ルサディルはどうなっているんですか?」
「町を挙げてエレブに、聖槌軍に協力しています」
竜也とカフラは唖然とする。ハーキムの言っていることが一瞬言語として理解できず、次いでその意味を把握できなかった。
「町の住民が総出で町の外を整地し、軍営地を用意しています。宿舎用の小屋を建てたり、倉庫と兵糧を用意したり、娼館を設置したりも」
ハーキムの言葉に、カフラは思わず「そんな……」と呟いていた。竜也が問う。
「どうしてそんな、聖槌軍の最初の目標はルサディルでしょう?」
「他に方法がありますか?」
ハーキムはほろ苦い笑みを見せた。
「聖槌軍に全面協力し、売れるだけの媚を売り、ルサディルへの攻撃を回避する。それが長老会議の決定です」
「『ネゲヴの夜明け』は? 届きませんでしたか?」
「届きましたし、私も読みました。あの本を使って長老方を説得しようとしたのですが……『こんなものただの世迷い言だ』とアニード氏にこき下ろされてしまいました」
あのおっさんが?と竜也は首を傾げた。
「アニード氏は以前からフランクと取引をしていて、フランク王国軍にも伝手があったそうです。
『聖槌軍とフランク軍に協力するならルサディルへの攻撃はしない』
アニード氏がフランクの将軍からそう言質を取ってエレブとの宥和策を強硬に主張し、それを押し通してしまったんです。今、ルサディルはアニード氏とフランクの将軍タンクレードの二人に統治されているような状態です」
「将軍タンクレード――ヴェルマンドワ伯ユーグの腹心じゃないか」
竜也はベラ=ラフマのまとめた聖槌軍指揮官の一覧を思い出す。タンクレードはヴェルマンドワ伯の直属の部下の一人であり、長年ヴェルマンドワ伯の元で軍歴を重ねてきた。軍指揮の面ではぱっとしないが謀略や交渉等の面で活躍し、ヴェルマンドワ伯に重宝されている。ヴェルマンドワ伯の懐刀と言うべき男――だそうである。
「ルサディルには聖杖教の教会が建てられ、派遣された神父が常駐し、町の住民が次々と洗礼を受けて聖杖教徒となっています。太陽神殿は破壊されて神官は追放されました。私達のような恩寵の民への迫害も始まっています」
「それでルサディルを捨てて」
竜也の相槌にハーキムが「ええ」と頷いた。
「逃げる場所がある人間は既に逃げ出し始めています。それでもまだ大半の住民が町に留まったままですが。私のようにか細くとも何らかの当てがある人間はともかく、そうでなければ逃げようが……恩寵の民にしても一部の戦士は戦うために東の町に向かいましたが、多くは印を外して市井に紛れ込み、迫害をやり過ごそうとしています」
「そんなの……」
竜也は唇を噛み締めた。
「今はそれで難を逃れたとして、先々にどうなるのか判っているのか?」
「そこまで考えられる状況ではないのでしょう。それに、恩寵の民を除いたルサディル市民の安全が真に保証されたわけでもありません」
ベラ=ラフマの言葉に竜也が「どういうことです」と問う。
「ルサディルを戦わずして、犠牲を出さずしてエレブ側に取り込もうとしているのはヴェルマンドワ伯です。ヴェルマンドワ伯なら町の住民が密かに太陽神殿を崇拝することも、恩寵の民が隠れ住むことも黙認するでしょう。エレブ側の主導で大規模な迫害を実施したところで誰の益にもなりません。軍事的・経済的利点を考えるならそれが当然の判断です。……が、それに枢機卿アンリ・ボケが同意するかどうかは判りません」
「太陽神殿や恩寵の民を迫害するためにルサディルを攻撃すると?」
「それと、ヴェルマンドワ伯の功績を無為にするために。あのアンリ・ボケならそれくらいのことをしても不思議はありません」
竜也も、他の誰もベラ=ラフマの言葉を否定できない。室内は重苦しい沈黙に満たされた。
「……面倒なことになるかもしれません」
沈黙を破ったのはベラ=ラフマである。「何がですか」と竜也が問う。
「ルサディルの動きが知られればそれに追随しようとする町が出てくるでしょう。今は西ネゲヴの各町はスキラ派としてまとまっていますが、その結束が危うくなるかもしれません」
ベラ=ラフマの危惧は次のスキラ会議で表面化する。月はティベツの月(第一〇月)となり、その月初。休会期間が終わって再開されたスキラ会議は冒頭から紛糾した。
「ルサディルがすでにエレブ人に臣従していることは知っているだろうか? 我々もエレブ人に降伏して町の安全を図ることを考えている」
そう表明したのはラクグーンの代表である。ラクグーンはルサディルの東隣の町であり、聖槌軍にとってはルサディルの次の攻撃目標だ。
「裏切るつもりか!」
「仲間に弓を向けるか!」
「この臆病者が、卑怯者が!」
非難と罵倒が渦を巻く。議場は騒然となって意味のある声が何も聞こえなくなった。
「静粛に! 静粛に!」
議長のラティーフがくり返し、長い時間をかけてようやく議場内が静まる。ラティーフがラクグーン代表に質問した。
「一体どういうつもりでそのような発言を?」
「どうもこうもないだろう、西ネゲヴを先に切り捨てようとしたのはケムトの方だ。我々は自分達で身の安全を図るべく努力するしかない」
ラクグーン代表は肩をすくめる。誰かが「誇りはないのか!」と野次を飛ばすが、
「誇りのために五万の市民を死なせるのか!」
と一喝され、誰もが沈黙するしかなかった。
「冗談じゃないぞ、ラクグーンの次は我々だ。メルサ=メダクに聖槌軍の攻勢を支えろと言うのか?」
「降伏して町を、市民を守れるのならそうするのが我々の義務ではないのか」
ラクグーンに近い町から将棋倒しのように降伏論が広がっている。その一方、
「敵と一緒になって恩寵の民を辱めるか」
「よかろう、まず裏切り者どもから血祭りにしてくれる!」
決して降伏が許されない恩寵の部族は徹底抗戦を唱えている。さらには、
「西の連中を仲間にしようとしたのが間違いではなかったか?」
「自分達の安全は自分達だけで守るべきか」
東ネゲヴの各町は西ネゲヴを切り捨てる意向を強めていた。
「やるならやるがいい、我々が聖槌軍の先鋒となってお前達を攻めてやる!」
「ナハル川を攻め落とせると思うのならやってみろ!」
そんな諍いが議場のあちこちでくり広げられており、一部では乱闘に発展している。ギーラはふて腐れたような顔で沈黙を守り、竜也は天を仰いだ。
「……もう駄目だ。ネゲヴを守るために色々やってきたけど、全部無駄だった」
竜也ですら絶望し、全てを投げ出しそうになっている。他の者はすでにスキラ会議に見切りを付けてしまっていた。
「もうここで話し合っても無意味だ」
「その通りだ。町に戻って準備をしよう」
ラクグーン等のヘラクレス地峡に近い町が席を立って去っていこうとする。竜也も他の誰もそれを止めようとしない。スキラ会議の分裂と崩壊はすでに必至――かに思われた。
「どちらに行かれるのですか?」
議場の出入口で女性の声がする。女性とラクグーン等の代表が何かを話している。竜也はその方向へと視線を向けるが見えるのは各町代表の背中だけだ。
「――立ち去る前にわたしに話をさせてはもらえませんか?」
その女性に願われ、各町代表は渋々引き返して自分の席に戻っていく。そして各町代表を先触れとするかのように、その女性が議場の中心へと進んでいった。竜也はあっけにとられてその女性を見つめている。
その女性には同じ服装の四人の女性が付き従っている。引きずるように裾が長く、手が隠れるくらいに袖の長いその白い服は太陽神殿の巫女服だ。金鎖の髪飾りには大きな金の円盤が、ちょうど眉間の位置に来るように下がっている。そして中心にいるその女性も同じ巫女服を身にしていた。ただ周囲の四人の巫女服は綿製なのに対し、その女性は絹の巫女服である。
年の頃は竜也と同じくらいか少し上。竜也より少し低いくらいの身長で、女性としては背が高い。肌はよく日焼けした日本人と同じくらいの小麦色で、黒く長い髪が艶やかで美しい。グラマラスな肢体を白い絹の巫女服で包んだ、圧倒的な美女だった。
「ファ、ファイルーズ様? どうしてこんなところに」
ギーラが動揺しながら問う。ファイルーズと呼ばれた女性は「お久しぶりですわね」と簡単に挨拶をした。議場の中心に進み出たファイルーズは優雅に一礼をする。
「皆様ご機嫌よう、わたしはケムト王国第一王女ファイルーズと申します」
「ケムトの第一王女!?」
竜也は驚きの声を上げていた。ラティーフを始めとするその場のほぼ全員が跳ねるように起立をする。竜也も慌てて席から立った。ファイルーズから「楽にしてください」と命が下り、竜也達は着席した。
「それで、ファイルーズ様が何でスキラにおられるんじゃろうなぁ。エレブの問題は儂等に任されとるはずじゃが」
ホルエムヘブの問いにファイルーズは微笑みながら答える。
「あなた方がエレブ人と何を交渉しようとわたしは関知しません。わたしはわたしの成すべき事を成しにここに来たのです」
「それは?」
「聖槌軍と戦うことです」
議場が一瞬で静まり返った。ある者は訝しげに、ある者は期待を込めて。全員の様々な視線を一身に集めながらも、ファイルーズは悠然と微笑んでいる。
「……聖槌軍への対応は私が宰相プタハヘテプから任させています。私も犠牲を減らすべく努力しているところなのです。ですからどうか安んじて」
ギーラが女を口説くときのような笑みを見せつつファイルーズを説得しようとするが、
「ええ、宰相には戦うつもりがないことはよく判っておりますわ。ですからわたしが戦いに来たのです」
ファイルーズは両手を胸の前で握り込み、祈るように目を瞑った。
「わたしはセルケトの末裔にして太陽神の巫女。異国の恐るべき狂信者がネゲヴの大地を穢そうというのに、ネゲヴの神々を貶めようというのに、黙って見ていることなどどうしてできるでしょうか? ましてやケムトが戦わずして敵に屈するなど、どうして認められるでしょうか?」
恩寵の部族等の徹底抗戦派はファイルーズの言葉に意を強くしている。が、西ネゲヴと東ネゲヴの各町代表は同じような当惑の表情を見せた。
「しかしファイルーズ様。聖槌軍は数十万とも噂され、その兵力は圧倒的です。そんな敵を相手にどうやって戦えば」
「それは殿方にお任せしますわ」
ファイルーズは笑顔で言い切った。
「わたしはわたしにできることをするまでです。わたしはたとえ一人でも、剣を取って聖槌軍と戦いますわ」
ファイルーズが堂々と宣言する。竜也は顔が、胸の内が熱くなるのを感じていた。それは羞恥なのかもしれないし、高揚なのかもしれない。あるいは感動なのかもしれなかった。
(……ああ、そうだ、その通りだ。彼女の言う通りだ。誰が相手であろうと、決して譲ってはならないことがある。どんなに勝ち目が乏しくても、生命を懸けて戦わなければならないときがある)
絶望に潰され、項垂れるだけだった竜也は今は顔を上げ、視線を前へと向け、先を見据えている。
(そうだ、たとえ俺一人でも戦うんだ。剣を振るえなくても戦いようはある。ましてや俺は決して一人じゃない。マグドさんがいる、奴隷軍団がいる、牙犬族の面々がいる、恩寵の戦士達がいる――何だ、いくらでも戦えるじゃないか)
竜也は議場を見渡した。マグドや恩寵の部族の族長達は竜也と同じように絶望から抜け出し、戦う意志を固めている。が、それ以外の面々には失望が広がっていた。
(確かに彼女は具体的な方策もケムトの兵力も持ってないけど……女性にここまで言わせて恥ずかしくないのか?)
竜也は舌打ちを一つし、次いで大きく深呼吸。
「――ここにはエジオン=ゲベルの名将アミール・ダールがいる!」
雄叫びを上げた竜也に全員の視線が集まった。竜也が口上を続ける。
「奴隷軍団を率いるマグドがいる! 髑髏船団のガイル=ラベクがいる! 牙犬族が、金獅子族が、赤虎族が、三大陸無敵の恩寵の戦士達が揃っている! 泣く子も黙る傭兵団が集っている! 決してファイルーズ様一人に戦わせはしない!」
恩寵の部族の族長達が真っ先に反応、声を揃えた。
「そうだ!」
「その通りだ!」
「クロイ・タツヤの言う通りだ!」
続いて傭兵団の代表が声を上げ、さらには西ネゲヴ・東ネゲヴの代表が抗戦を唱える。ファイルーズの宣言に胸を熱くさせたのは竜也一人ではなかったのだ。議場の空気は一瞬で沸騰し徹底抗戦一色となった。
「しかし、具体的にどうやって戦えば」
その場の空気に取り残されたギーラが流れを変えようとするが、
「そんなもの後から考えればいい!」
竜也はそれを勢いで押し流した。
「これだけの面子が揃っているんだ。何も良案が出てこないなんてこと、あり得ない!」
「そうだ!」
「その通りだ!」
と武闘派の面々が竜也に同調する。結局その日は一日そんな調子で「聖槌軍に対して徹底抗戦すること」を確認して終わってしまった。具体的な作戦案は何も検討されていない。
「まあ、分裂や崩壊が回避できただけでも上出来か。ファイルーズさまさまだな」
竜也はそんな感想を抱きつつソロモン館を後にした。竜也は今後の打ち合わせのためにマグドを伴い「マラルの珈琲店」へと移動する。「珈琲店」ではいつものようにカフラやミカやベラ=ラフマ、サフィールやラズワルドが竜也を待っていた。
「お帰りなさい。今日はどうでしたか?」
「今日は報告することが多いな」
竜也達はいつもの個室に移動。それぞれのお茶や珈琲を用意し、珈琲を飲んで一息ついて、今日の報告をしようとしたところに、
「タツヤ、すぐ来て」
マラルがやってきて竜也を呼ぶ。マラルは返事を待たず竜也を引っ張っていった。
「どうしたんです? 一体何が」
「いいから早く」
マラルに引っ張られて個室から店内へとやってきた竜也は、
「ふむ。なかなか美味いな」
「ああ、俺も気に入っている」
「いい香りですわ」
店内で珈琲を嗜んでいるアミール・ダール、ガイル=ラベク、そしてファイルーズの姿に絶句した。
「……どうしてここに」
何とかそれを問う竜也にファイルーズは、
「急に美味しい珈琲が飲みたくなりまして、船長と将軍にスキラ案内をお願いしました」
涼しい顔でそう答える。竜也は渇いた笑いを浮かべるしかなかった。
……それから少しの間を置いて、「マラルの珈琲店」。店の前では牙犬族の剣士と奴隷軍団の兵士、それに髑髏船団の傭兵が歩哨に立っている。店内ではアミール・ダール、ガイル=ラベクが美味しそうに珈琲を飲んでおり、ファイルーズは、
「本当にこんなところに住んでいるのですね」
と興味深げに店内を見回していた。マグドやカフラ達も個室から移動してきて、ファイルーズ達と向かい合っている。マラルは平静を装ってカウンターで珈琲を入れているが、その手が微妙に震えていた。
「……しかし」
こうやって改めてファイルーズとごく間近に相対してみると、その存在感には圧倒されんばかりである(特に胸)。グラマーな女性が好みの竜也にとってはど真ん中への直球剛速球ストライクだ。
「全てがぎりぎりの線なのですよ……! これ以上色気が強かったら下品になる。これ以上脂が多かったら下卑たプロポーションになる」
「タツヤ?」
感動のあまりどこかのグルメ漫画じみたことを呟く竜也に、ミカが声をかける。それで竜也は「ああ、ごめん」とようやく現世に戻ってきた。心なしかミカとサフィールとラズワルドの視線が冷たいような気がしなくもない。
「それで、どうしてこんなところに」
ごまかすように竜也が再度それを問い、ファイルーズが答える。
「わたしはネゲヴを救うためならどこにでも行きますし、誰とでも会いますわ」
「それにしても、まさかファイルーズ様ご自身がスキラまで」
とミカが改めて驚きを示し、ファイルーズがそれに答え、
「宰相プタハヘテプが聖槌軍と手を結ぼうとしているのはご存じでしょう? わたしだけでなく多くの者がそれに反対したのですが、宰相は反対を押し切ってその方針を決定してしまいました。わたしはその方針が正しいとはどうしても思えなかったものですので、何とかしたいと思い、思わずメン=ネフェルを飛び出してきてしまったのです」
ファイルーズは方針を覆すべく運動したのだが、宰相に睨まれ謹慎処分を受けてしまった。王宮の奥で軟禁状態になったのだが、置き手紙を残して王宮を脱出してきたと言う。
「今頃は王位継承権を剥奪されているかもしれません」
とファイルーズは深刻さが欠片も伺えない調子で説明した。
「……えーっと、要するに」
と竜也は戸惑いながらファイルーズの説明をまとめようとする。
「家出娘?」
「まあ、まさしくその通りですわ」
竜也の端的すぎるまとめに、ファイルーズはおかしそうに笑った。ミカ達は「笑っている場合じゃないだろう」と言いたげな目をファイルーズと竜也に向けている。
「宰相の方針をおかしいと思う者はケムト内にも決して少なくありません。誰よりケムト王ご自身が内心では反対です。特使ホルエムヘブの部下の中にもいましたし、それに特使ご自身も聖槌軍に媚びへつらうことを望んでいるわけではありませんわ」
特使ホルエムヘブはケムトの有力貴族の出身で、若い頃には辣腕として知られ、大臣職も歴任したことがあるという。ただし十年前に引退し、少し前まで故郷の小さな荘園で悠々自適の隠居生活を送っていた人物だ。
「宰相としてはとっておきの切り札を切った、ってところなのかな。アシューの国との交渉ならそれで間違いはないんだろうけど……」
「確かに、エレブ人との交渉には少し的外れな人選のように思えますね」
タツヤが首を傾げ、ミカがそれに同意した。ホルエムヘブは部下に交渉実務を任す一方自分はスキラに留まっており、特に何をするでもなく半隠居状態だ。年齢的・体力的に考えてそうなってしまうこともやむを得ない、それが竜也達の見解だった。
「ですが、内心はどうあれ特使が宰相に逆らうのは難しいのでは? それに聖槌軍とまともに戦っても勝ち目がほとんどない以上、宰相の方針が必ずしも間違っているとも言えません」
「確かに、普通に戦っても勝つのは難しいとわたしも思いますわ」
ファイルーズの思わせぶりな物言いにミカが色めき立った。
「何かあるのですか? 戦う方策が」
「いえ、わたしには」
ファイルーズは首を横に振り、視線を竜也へと固定する。一同の視線が竜也へと集中し、かなりの時間沈黙がその場を支配した。先に口を開いたのはファイルーズである。
「……クロイ・タツヤ。あなたには何か考えがあるのではありませんか? ギーラさんの案とは別の、ネゲヴを救うための方策が」
ミカとカフラの視線が竜也に突き刺さるが、竜也は無表情・無反応だ。
「どうしてそんなことを?」
「何となくそう感じたんです、今日のあなたの態度から」
ファイルーズはそう言って微笑む。少しの間微笑むファイルーズと無表情の竜也が無言のまま対峙。やがて竜也が根負けしたようにため息をついた。
「……ないわけじゃない。『結果的に犠牲を最小限にする』、そのための腹案なら持っている」
「何故それを言わないのです。出し惜しみをしている場合ですか」
と非難するのはミカである。竜也は目を逸らした。
「どう考えても実行できるとは思えなかったし、実行したくもなかったから。でも、言わないわけにはいかないか」
当然です、と憮然とするミカ。竜也は躊躇いながらも人差し指を立て、
「――一年だ。一年でこの戦争を終わらせる」
全員にそう宣言した。
太陽はすでに西に沈みかけ、時刻は逢魔が時。「珈琲店」内は薄暗がりである。夕闇の中で血のように赤く黒く染まった竜也を店内の一同が見つめている。竜也は口元をきつく結び、一同と相対していた。
「――百万の聖槌軍を皆殺しにして一日でも早くこの戦いを終わらせる。それが『結果的に犠牲を最小限にする』方法だ。焦土作戦をもって奴等を皆殺しにする」
「それはどんな作戦なんですか?」
とミカが問う。
「エレブ本国からの食糧の補給がない、というのがこの作戦の要諦だ。聖槌軍は食糧をネゲヴで現地調達するしかないけど、それを徹底的に妨害する。奴等を飢えに追い込むんだ」
「一体どうやって」
「聖槌軍の進軍上の街道から、町や村から食糧を全て撤去する。避難する人達に持てるだけの食糧を持たせ、船を使ってスキラより東に運べるだけの食糧を運んでいく。持っていけない食糧は全部焼き捨てるか海に捨てる。収穫前の畑も全部焼き払う」
それは……とだれが呟き、そのまま沈黙した。竜也の説明が続く。
「できるなら聖槌軍が宿泊に使いそうな建物も全部焼き払って破壊したいけど、そこまでは言わない。敵をスキラまで引きずり込んで、ナハル川を使ってそれ以上の進軍を阻止。本国に引き返すことも阻止、他の町への移動も阻止する。聖槌軍の全員が飢え死にするまで敵をスキラで立ち往生させるんだ。この場合百万という敵数が聖槌軍にとっての最大の弱点となる。我々はそこを徹底的に攻めるんだ」
「ちょっと待てください、それじゃ西ネゲヴの民はどうなるのですか? どうするつもりなんですか?」
「一人でも多く、生命を助ける。この一年を引き延びさせる。それだけを考える。食糧と一緒に人間も街道上からいなくなる。西ネゲブの人口が三〇〇万として、おおざっぱに言って半分くらいはアドラル山脈(元の世界のアトラス山脈に相当)や大樹海アーシラトとかの南に逃げて、残り半分がナハル川の東に逃げたらいいんじゃないかな」
何とも言い難い沈黙がその場を満たす。最初に口を開いたのはミカだった。
「……いくら何でも無茶苦茶です。そんなことできるわけがない」
「わたしにもそうとしか思えません……けど」
とカフラ。
「タツヤさんだって散々考えた上での提案だと思います。その考えを聞かせてほしいんです。ルサディルからスキラまでは陸路なら一万スタディアはありますよ? 一五〇万の民にそれだけの距離を歩けと?」
「カフラは勘違いしているよ」
竜也は慌てず騒がず反論した。
「西ネゲヴの人口三〇〇万という数字は、スキラ・スファチェ・ハドゥルメトゥム・カルト=ハダシュト等のナハル川に近い大都市も全部含めての話なんだ。西ネゲヴの町は西に行くほど小さくなる、人口も西に行くほど少なくなっている。それに、元々街道から外れた場所に住んでいて逃げる必要がない人達も少なくはないだろう」
カフラとミカは盲点を突かれたような表情をした。
「だからナハル川の近くに住む人達が東に逃げて、西の人達はアドラル山脈か大樹海アーシラトに逃げる。イギルギリあたりから全市民が東に逃げてもらえば」
「ですけど、持って移動できる食糧なんてたかが知れています。南や東に逃げた人達は一体どうやって生活をすれば?」
「もちろん東の人達が全力で支援をするんだ。『東に逃げれば何とかなる』――その保証があるのなら避難を促すことができる」
なるほど、得心したのはミカである。
「勝つために西の人間にそれだけの苦難を背負わせるのなら、東の人間にも相応の負担をしてもらうわけですね」
その通りだ、と竜也が頷く。
「西の人間にも東の人間にも滅茶苦茶な苦難と負担を背負わせることになる。でも、それも一年だけだ。一年だけ故郷を捨てれば、一年だけ税金を我慢すれば……一年だけなら、耐えられないことはないと思う」
だがカフラ達は苦い表情を見せた。
「ですけど、たとえ一年だけの話でも東の人達がそれだけの負担をしようとするでしょうか?」
無理だろうな、と竜也は肩をすくめた。
「それ以前に、たとえ一年だけの話でも西の人間がそんな避難をしようとするとは思えません。それくらいなら聖槌軍に降伏することを選ぶのではないですか」
そうなるだろうな、と竜也はさらに肩をすくめた。その上で、
「今のままなら、な」
と付け加えた。
「どういう意味でしょうか?」
沈黙を守っていたファイルーズが初めて質問をする。だが竜也はそれに答えなかった。
「近いうちにまた風向きが変わると思う」
と言うだけだ。
ファイルーズ達とのそれで会談はお開きとなり、ファイルーズは物足りなさそうな表情で帰っていった。ファイルーズはスキラ市内の太陽神殿を宿舎とするとのことである。
アミール・ダールもギーラの元に戻っていくがその前にベラ=ラフマが、
「今日ここで語ったことはそのままギーラに報告してもらって構いません」
と告げる。アミール・ダールはわずかに目を見開き、無言で会釈して立ち去っていった。
そして次のスキラ会議が開催され、
「――一年だ! 一年で聖槌軍を全滅させる!」
ギーラは開口一番堂々と宣言。そして焦土作戦を自案として説明した。竜也は呆然ととしたままそれを聞いている。
「馬鹿なことを言うな!」
「我々に死ねと言うのか!」
「聖槌軍に降伏した方がまだマシだ!」
案の定ギーラは西の各町代表から袋叩きになっていた。さすがのギーラも怯んでいる。
「確かにその案なら戦争を一年で終わらせることができる。結果的に犠牲や負担を最小限にする方法だと思う」
竜也は助け船を出し、
「それで、オエアがそれを提案するということは、オエアは西の避難民を全力で受け入れると理解していいだろうか?」
その上でギーラの弱点を突いた。ギーラは沈黙するしかない。結局ギーラの提案は一蹴されてその日の会議は終わることとなった。会議の後、竜也はベラ=ラフマに報告する。
「まさかギーラが本当に提案するなんて」
「はい、思った以上に考えなしな男のようです」
竜也はギーラという男をそれなりに高く買っている。
「徒手空拳から弁舌だけで東ネゲヴを動かし、ケムトを動かし、エジオン=ゲベルを動かし、今や事実上の東ネゲヴ代表だ。現代知識という下駄を抜きにしたなら、単なる能力だけを比較したなら俺なんかギーラの足元にも及ばない」
というのが竜也によるギーラの評価であり、自己評価だった。だがそれと同時に、
「能力以前のところで、人間として何か大事なものが根本的に抜け落ちているんじゃないか」
そう思わずにはいられなかった。
「しかし、これで焦土作戦案に対する各町の反応を知ることができました」
竜也はため息をついた。
「想像以上に厳しい。検討の余地もなかった」
「はい。ですが、いずれ風向きは変わります。変わらざるを得ないでしょう」
ベラ=ラフマは竜也に報告書を手渡す。それはエレブ情勢速報の最新号だった。