「黄金の帝国」・戦雲篇
第一八話「ルサディルの惨劇」
紺碧の海を五隻の船が征く。純白の帆が風にはためき、舳先に切り裂かれた水が潮騒となる。風と水のざわめきがまるで勇壮な行進曲のようだ。
聖槌軍対策軍総司令官アミール・ダールの要請を受け、ガイル=ラベクは麾下の船団の中から最も速力のある五隻の船を選び出した。その五隻に髑髏船団の船員とは別に二百人が分乗しており、その全員が恩寵の戦士である。半数は赤虎族が中心となっている遊撃部隊、もう半数は金獅子族が中心となっている殿軍部隊。両部隊とも危険極まりない任務に従事するため配属されている戦士も精鋭揃いだ。その両部隊を率いるのが、
「おい、タツヤ。あの二人を頼む」
ガイル・ラベクが指し示す先には、甲板の真ん中で対峙する金獅子族と赤虎族の戦士の姿があった。
「私の妻を侮辱するとは、生命が惜しくないと見えるな」
「誤解するな。俺が侮辱したとしたら、それはお前の嫁のことじゃない。お前の女の趣味だ」
両部隊の指揮官がにらみ合う光景に、ガイル=ラベクは頭痛を禁じ得ないようだ。
「お前の提案通りにあの二人を隣り合わせにはしたが、こうなるのは目に見えていただろう」
「衝突するなら早い方がいいと思いますよ。派閥を作って船団真っ二つにして対立するよりもマシでしょうし」
「ともかく、あの二人を何とかするのもお前の仕事だ」
「判っています」
本来男所帯だった偵察船団にラズワルドが強引に乗り込んできた結果(しかもサフィールを巻き込んで)竜也とガイル=ラベクは「紅二点」の二人の扱いに苦慮することとなった。
竜也はラズワルドとサフィールのために個室を用意したが、それも船長室をわざわざ譲らせたものである。このため竜也はガイル=ラベクに全く頭が上がらなくなっており、それをいいことにガイル=ラベクはあらゆる面倒事を竜也に押しつけていた。竜也はその処理に追われ船団中を走り回る羽目になる。
「成人を迎える直前の瑞々しさこそ美の至高……! それが理解できんとは、さすがに腐肉漁りと名高いだけのことはある」
と語る金獅子族の戦士の名はサドマと言う。生真面目な印象の、エリートという言葉がぴったり当てはまる伊達男である。
「熟れ切った大人の色気の良さも判らんとはな。悪趣味なのはお前の方だこの変態」
赤虎族の戦士はダーラクと言う。悪ガキがそのまま大人になったような印象の、愛嬌のある色男だ。両者とも将来を嘱望された、三〇代の精悍な戦士である。女の趣味のことでいがみ合う姿からはそんなことは想像もできないが。
互いの拳が互いに延ばされるその瞬間、竜也が二人の間に割って入った。サドマの拳が竜也の頬に、ダーラクの拳が竜也の腹にめり込んだ。
……しばらく時間をおいて、ようやく竜也が復活を果たす。サドマとダーラクは相変わらずにらみ合っており、野次馬が面白そうにそれを取り巻いていた。
「……それで、何が原因なんですか?」
「ダーラク殿の悪趣味が過ぎたものですので」
「何、こいつがあまりにも変態だったんでな」
竜也は先にダーラクから話を聞いた。
「こいつ、この間三人目の嫁を娶ったそうなんだが、嫁の歳がまだ一三歳なんだ。しかも、これまでの二人も一三歳になった時に娶っていると言うじゃないか。俺がこいつを変態呼ばわりして、何が悪い?」
竜也は内心サドマのその所行にドン引きしている。だが、その恥ずかしいはずの所行を暴露されたサドマは堂々としているし、周囲の野次馬にも竜也が思うほど強い拒絶反応がない。
サドマが反撃を開始する。
「ダーラク殿は一三歳の時に最初の妻を娶ったそうですが、その妻の年齢は当時のダーラク殿の倍近くあったそうです。二人目、三人目の妻もやはり三〇手前の女性を娶っているとか。だから私はこう言ったのです。『腐肉漁りの悪趣味野郎』と」
「小児性愛変質者には言われたくねーな」
「……」
「……」
火花を散らして睨み合う二人の姿に、竜也はいろんな意味で頭痛を覚えていた。
一三歳の少女を妻に娶る行為は、この世界ではそれほど非難に値することではないようだった。思えば近代以前の日本でも、そのくらいの歳での結婚は珍しくない。妻を三人も娶ることも、充分な経済力と社会的地位があれば問題とならないようだった。
「ともかく、このままでは二人とも納得できないでしょうから、ここは公平な勝負事で雌雄を決しましょう。いいですね?」
竜也はガス抜きに二人を直接対決させることにした。
「それはいいが、勝負は何を?」
「剣か? 拳か?」
「いえ、相撲です」
スモー?と二人と野次馬が疑問を浮かべる。竜也は長いロープを甲板において、簡単な土俵を作った。
「ルールは簡単、相手をこの円の外側に押し出したら勝ち。相手の足の裏以外を床につけたなら勝ち。それだけです。それと武器と恩寵の使用は禁止。あとは何をやっても構いません。いいですね?」
「まあいいでしょう」
「ふん、面白い」
土俵の中に両者が足を踏み込む。直径三メートル足らずの円の中で、サドマとダーラクがにらみ合った。
「はっけよい、のこった!」
竜也の奇妙なかけ声を合図にダーラクが動いた。その場で飛び上がり、流星のような連続蹴りを放つ。サドマは両腕でそれをガード。土俵際まで押されるサドマだが、ダーラクの着地と同時に突撃し右ストレートを撃つ。ダーラクは身体を屈めてそれを避ける。そのままサドマの懐に飛び込むダーラク、ダーラクに覆い被さるサドマ。そのまま両者が同時に倒れ、周囲から歓声が上がった。
「両者、引き分け!」
審判の竜也がそう判定を下す。それに対し、
「ちょっと待て、こいつの方が先に」
と両者から物言いが入った。竜也は慌てず騒がず、
「じゃあもう一勝負」
と提案する。二人は再び土俵の中央に入った。
サドマとダーラクの勝負はくり返されるが、三勝三敗一引き分けで結局勝敗は決しなかった。疲れた二人に代わって他の面々が土俵で相撲に興じている。甲板の上は時ならぬ相撲大会で大いに盛り上がった。なお、その相撲大会を制したのはバカルという鉄牛族の戦士だった。
その日以降、サドマとダーラクは竜也を審判とし、竜也の提案する様々な勝負で対決をくり返すこととなる。
「それじゃ今日は、飲み比べです」
カルト=ハダシュトの港では酒場に入ってどちらがより飲めるかを競い合った。竜也が真っ先にぶっ倒れてしまったため、勝負は結局付かないまま終わってしまった。
「それじゃ今日は、カードゲームで」
この世界にはトランプによく似たカードゲームが存在していて、おそらく冒険者レミュエルが持ち込んだものと考えられた。この日のゲームを制したのはいつの間にか乱入していたラズワルドで、竜也達三人は身ぐるみ剥がれて丸裸にされた。
「ええと、それじゃ今日は」
やがて勝負の題材が尽きた竜也は、適当な勝負の方法をでっち上げるようになる。
「……『ぐっと来る部分デスマッチ』」
不思議そうな表情のサドマとダーラク、および観客に竜也がルールを説明する。
「足を止めて、一発ずつ殴り合います。相手の拳を避けてはいけません。相手を倒したなら勝ち」
久しぶりのガチンコ勝負に二人も周囲も大いに盛り上がる。だがルールには続きがあった。
「ただし! 殴るときには女体の中で自分が一番ぐっと来る部位の名前を叫ぶ! その言霊を拳に乗せ、言霊の重さで相手を打倒する! それがこの勝負です」
戸惑う二人を向かい合わせ、竜也は強引に勝負を開始させた。
「しりー!」
「おっぱーい!」
「しりー!」
「おっぱーい!」
「ちいさいしりー!!」
「でかいおっぱーい!!」
「ひらたいおっぱーい!!」
「ふといしりー!!」
サドマとダーラクは阿呆丸出しの台詞を叫びながら、互いの拳をぶつけ合った。
「太腿と太腿の隙間ー!!」
「太腿のたるみー!!」
「×××ー!!」
「×××ー!!」
到底表記できない部位が言霊として応酬され、伯仲した熱戦が続く。観客の熱気を巻き込み、勝負は大盛況となった。
この日以降、偵察船団では「ぐっと来る部分デスマッチ」が大流行する。イコシウムの港に停泊中にも一隻でデスマッチが行われ、卑猥な言葉が大声で叫ばれる。周囲の船からの苦情に、竜也とガイル=ラベクが頭を下げて回ることとなった。
――言うまでもないことかもしれないが、もちろん竜也やサドマ達はこんな阿呆みたいなことばかりして航海中ずっと遊び呆けていたわけではない。
「……キリスト教、じゃなくて聖杖教の最も大きな特徴の一つは、それが元々奴隷の宗教だったってことです」
偵察任務の一助になれば、との思いから竜也はサドマやダーラク達に聖杖教について知る限りのことを――元の世界の知識を大いに加味し――しゃべっていた。相手を変えてそんな話をくり返しているうちに、いつの間にか竜也は船団の全員に対して講義を開くようになっていた。
「聖杖教の聖典の中では契約者モーゼが奴隷を率いてケムトを脱出し、彼等がアシューの地で最初の聖杖教の信者となった、ということになっています。これは事実ではありませんが、ケムトとは別の場所でこれに類することが実際にあったものと考えられています」
正確には元の世界のエジプトやパレスチナの地で、となるのだがそこまでは説明しない。
「聖杖教の前身となったその宗教、その一神教は逃亡奴隷が崇めたものだ、ということです。ここにこの宗教の大きな特徴が現れます。奴隷にとっての絶対者とは主人であり、神とは人間にとっての主人となる――主人と奴隷との関係が、神と人間の関係に置き換えられる。その一神教において、神にとって人間は奴隷なんです」
講義を聴いていたサドマやダーラク達は判ったような判らないような顔をする。
「……何でわざわざそんな神様を崇めるんだ? もっと親身になってくれる普通の神様を崇めればいいのに」
「それしか知らないからです」
竜也はまず簡潔に結論を述べた。
「奴隷にとっては主人とのつながりが全てです。他のあり方、他のつながり方、他の関係の持ち方を知らないんです。他のつながり全てを捨てさせられ、鎖につながれたのが奴隷なんですから。そして問題は、彼等が上との関係だけでなく下との関係においてもこれをそのまま適用することです」
「下との関係?」
「はい。神は人間に対して地上の万物全てを支配することを認めています。人間は神の奴隷ですが、それと同じように人間以外の全ては人間の奴隷なんです。そして彼等の神が空想の産物である以上、結局人間が全てを支配する主人となる――ここで言う人間とは一神教の信徒であるということです。この宗教がエレブの地に伝えられ、聖杖教となりました」
正確にはその一神教――ユダヤ教と聖杖教の間にはキリスト教という経由地があるのだがそこは省略である。
「預言者フランシスはエレブの地の奴隷や貧民を最初の布教対象としました。彼の宗教はその出自から下層民に対する親和性が高いんです。預言者フランシスが刑死して教団は一旦壊滅しましたがバルテルミが教団を復活させ、ここに聖杖教が成立しました。聖杖教はエレブにおいてもまず奴隷や貧民の宗教として広がります。つまり一神教の本質は今なお受け継がれているということです。自分達以外を奴隷と見なす、その本質が」
竜也は殊更に大きな声を出したわけではない。だがその声は聴衆の耳に、その心に響いていた。
「聖杖教徒はよく隣人愛を口にしますが、彼等にとって隣人とはあくまで同じ聖杖教徒のこと。他の宗教、多神教の信者は決して隣人にはなり得ない。我々は彼等にとっては奴隷とすべき対象でしかないんです。……その事実をどうか忘れないでください」
竜也の真摯な瞳がサドマやダーラク達を捉えて離さない。彼等は一様に頷くしかなかった。
シャバツの月の月末、ガイル=ラベク率いる偵察船団はラクグーンに到着した。ラクグーンはルサディルと同じくらいの大きさの港町である。竜也達は船を下り、町へと向かった。メンバーはガイル=ラベク、サドマ、ダーラクといった船団幹部とその護衛。それに竜也とその護衛のバルゼル、サフィール、牙犬族の剣士達である。
「……ひどく乞食が多いですね」
通りを見渡していてたサフィールが感想を漏らす。通りには一メートル置きくらいに汚れた格好の乞食と見られる者達が座り込んでいた。スキラの貧民窟でもここまで乞食は多くないだろう。
「乞食ではありません。難民です」
と答えるのはラクグーンの商会連盟の人間である。
「ルサディルから逃げてきた難民が町に入り込んでいるんです。居留地を作って支援もしているのですが、到底追いつきません」
竜也その光景に心を痛めながら町を進んだ。竜也達が町の中心地、商会連盟本館に到着する。その場所では商会連盟幹部だけでなく、ラクグーン長老会議のメンバー、ルサディルから逃げてきた恩寵の戦士達が集まっていた。
「スキラでの対策会議の結論は伝わっているだろう。我々は聖槌軍と正面から戦いはしない。町の住民は東か南に逃げてもらう」
「避難はすでに始まっている。だがまだ逃げるのをためらっている者が多い」
「恩寵の戦士は何人いる? そいつ等を遊撃部隊か殿軍部隊に組み込みたい」
打ち合わせは余裕のない状況下のため無駄なく進んでいき、偵察船団は三つに分かれることとなった。
まずラクグーンに残って遊撃部隊と殿軍部隊を編成するメンバー。それはサドマとダーラクが率いる。次にエレブのマラカに接近して聖槌軍の様子を偵察する部隊。これを率いるのはガイル=ラベクだ。最後が、
「それで俺達がルサディルに潜入して状況を伺う。可能なら町の住民を東に逃がす」
竜也は自分の部隊のメンバーを見渡した。竜也が率いるのはサフィール、バルゼル、ツァイドといった牙犬族の剣士達、それとおまけのラズワルド。ルサディル出身の恩寵の戦士が二人加わっているが、それでも竜也達の部隊が一番の少人数で総勢九名である。
「今のルサディルは敵地と大して変わらない、かなり危険な任務だ。付き合わせてすまないが」
「お気になさらず。タツヤ殿はわたし達の後ろで大人しくしていてください」
サフィールの言葉にバルゼル等剣士達が揃って頷いた。
「タツヤ殿はもう以前のような軽い身分ではないのですから」
バルゼルだけでなくラズワルドも一緒になって頷いている。
「……まあ、判っている」
竜也は曖昧に笑ってごまかした。
翌日、アダルの月(第一二月)の一日にはガイル=ラベク率いるマラカ偵察船団がラクグーンを出港、竜也達もそれに乗船する。翌々日の深夜、船団はルサディル近くの海岸に到着した。船は夜闇に紛れて接岸、竜也達が船を下りて上陸する。
「俺達はマラカまで往復してここに戻ってくる。マラカまで二日、偵察に一日、戻ってくるのに二日。この場所に戻るのは九日になるか。十日の夜明けまでは待ってやるが、それまでに戻ってこなかったら見捨ててスキラに帰るぞ」
「判りました」
偵察船団が岸を離れて沖合へと消えていくのを見送り、竜也達は町へと向かって歩き出した。竜也達がルサディルの町に潜入したのは四日の未明である。
「あれ、あいつはどこに行ったんだ?」
「さっき船を下りたのか? いや、まさか」
船団の一隻でそんな会話がされていたことを竜也が知る由もない。
町に入った竜也達は目立たないよう三、四人ごとに分かれて別々の道を進んだ。竜也は例によってラズワルド・サフィールと一緒である。当然ながらラズワルド達やバルゼル達は印を外している。竜也はすっかり変わってしまった町の様子に胸を痛めていた。露店や商店は全く開いておらず、道端で遊ぶ子供の姿もない。殺気立った男が気忙しく行き交い、不安そうな女が目を伏せていた。
竜也達の目的地は町中のとある民家であり、そこにはすでにバルゼル等が集まっていた。その家はラクグーンの商会連盟に用意してもらった拠点である。
「それで、これからどうするのですか?」
「紹介状を書いてもらっている。この町の長老の一人に接触して話をする」
ツァイドがこの町出身の戦士を連れて町へと出、竜也達は拠点で待機である。ツァイドは昼過ぎには戻ってきて、そのまま日が暮れる。その拠点に迎えが来たのは夜になってからである。竜也はバルゼルとツァイドだけを連れて拠点を出発した。
半時間ほど歩き、竜也達はその家に到着する。家の中で待っていたのはルサディル長老会議の一員・サイードで、竜也も何となくその顔に見覚えがあった。
「孫だけでもお前さん達の船でスキラに連れていってくれんか」
サイードは開口一番そう懇願する。竜也は声を上げそうになるのをぎりぎりで我慢した。見れば、バルゼルも竜也と似たような表情だしツァイドからもいつもの微笑みが消えている。
「……戦うことでもなく逃げることでもなく、恭順を選んだのはあなた達ではないのですか?」
竜也の指摘にサイードは気まずそうに目を伏せた。
「……敵は百万だ、勝てるわけがない」
「逃げると言っても、どこに逃げればいい。逃げた後どうすればいい」
「『協力していれば危害は加えない』、アニードの連れてきたエレブの将軍はそう言っている」
呟くように言い訳を連発させるサイード。竜也の内側では不快感や白けた思いが募る一方だ。竜也はまずサイードから最新の情報を引き出すことに専念した。
「そのエレブの将軍・タンクレードですが、ルサディルには彼の部下はどのくらいいるんですか」
「エレブから連れてきている者は二〇人もおらん。だがこの町の全員があの男の部下みたいなものだ。この町の若い衆を集めた兵を三、四百は持っている」
「タンクレードが町の住民に危害を加えることは?」
「今のところは何も。食糧や金品はかなり徴発されたが」
「聖槌軍の先鋒がこの町に入るのは?」
「今月の十日過ぎになると聞いている」
竜也が質問し、サイードが答える。そんな一方的な会話がかなりの時間続いた。訊きたいことを全て聞き出した竜也はようやく話を変える。
「町の住民を町の外に逃がすことはできませんか?」
「しかしそれは……そんなことをしたらあの将軍がどう思うか」
と難色を示した。
「もちろんタンクレードに断った上で、です」
竜也の提案にサイードは刮目した。
「タンクレードだってこの町で不測の事態が起きることを怖れているはずです。住民と聖槌軍の兵士との衝突を可能な限り避けようとしているはずです。町の住民が少ない方がそういう揉め事を少なくできる。聖槌軍が到着するその日だけ、一時的に町の住民が町の外に避難する。その許可を取るんですよ」
サイードはうなり声を上げて考え込んだ。
「……確かに……だが、あの将軍がそれを許すかどうか」
「評判通りの人なら許す可能性は充分にあります。だってその方が彼等にとって利益がありますから」
ベラ=ラフマが集めた情報と分析に基づき、竜也はタンクレードという男をそう評価している。彼の判断基準が私怨でも狂信でもなく、あくまで利害であるために竜也やベラ=ラフマにとって非常に判りやすいのだ。
「狂信とは無縁の、非常に冷静で合理的な人間だ」
竜也達はタンクレードのことをある意味高く評価していた。
サイードはかなりの時間迷っていたが、竜也の提案を実行する方向で動いてくれるようだった。空が白み始める頃竜也達はサイードの家を後にし、拠点へと戻っていった。
翌五日・六日は特に動きはなく、七日。サイードの要請を受けて竜也がサイードの家へと向かう。
そして竜也は戻ってこなかった。
「先日の提案の件で早急に、秘密裏に話し合いたいとのこと。同行していただけませんか」
七日の日中、竜也達の拠点にサイードの使者が訪れてそう告げる。竜也は護衛にツァイドを連れてサイードの家へと向かった。サイードの家に到着し、その門をくぐる竜也とツァイド。
「……?」
竜也は首を傾げた。家の中に人の気配を感じない。ドアをノックしても返事がない。
「留守か?」
竜也はツァイドの方へと顔を向け、言葉を詰まらせた。ツァイドはこれまで見たこともない厳しい顔をしている。
「……やられたかもしれませんな」
ツァイドがゆっくり、慎重に門の外へと進んでいき、竜也がそれに続いた。門から一歩踏み出し、竜也は息を呑む。サイードの家は数十人の兵士に包囲されていたからだ。しかも兵士はまだまだ増えていく。
「……どういうことです」
竜也はそう問わずにはいられない。だが兵士達は何も答えなかった。じりじりと包囲を狭めていくだけだ。
「私が奴等を引きつけます。家の中から裏口の方へ」
ツァイドの言葉に竜也が頷く。ツァイドが雄叫びを上げながら兵士の直中へと突っ込んでいき、それと同時に竜也はサイードの家へと逃げ込んだ。一拍遅れて兵士達も動いている。兵士の一団が怒濤のような勢いで家の中へとなだれ込んだ。
竜也は庭先を突っ切って裏手へ、塀を乗り越えて裏路地に降り立つ。だがそこにも兵士の一団が待ち構えており、竜也はあっと言う間に捕縛された。荒縄が何重にも巻かれ、身動きも困難だ。槍のように長い棍棒で何発か殴られ、あちこちが痛む。だが生命に別状はなかった。
「落ち着け、すぐに殺されはしない。いずれツァイドさんやバルゼルさんが助けに来てくれる」
竜也は自分にそう言い聞かせ、とにかく冷静になるよう努めた。竜也はそのまま兵士の一団に引っ立てられ、町の中心へと向かうこととなった。
一方かろうじて追っ手から逃れたツァイドは一直線に拠点に向かって走っていた。
「あの場で殺されはしないようだが、いつ処刑されるか判らん。一刻も早く助けに行かねば」
ツァイドはまずバルゼル達と合流することを優先した。だが、
「くそっ、やはりこうなっているか」
竜也達の拠点の前にはすでに大勢の兵士が集まっていた。遠くから様子をうかがい、状況の把握に努める。見たところ捕縛された者はいない。兵士に怪我人はいるが死者はいないようである。兵士が数人ごとに分散し、走り回っている。ツァイドは胸をなで下ろした。
「……どうやら無事に逃げられたようだな。だが」
バルゼル達と合流することは非常に望み薄となった。つまりは竜也を助け出すことも至難ということだ。
「おっと」
すぐ側を兵士が走り抜けていく。ツァイドは物陰に身を隠した。
ともかく、今は自分が捕まらないことが優先だ。ツァイドは物陰から物陰へ、風のように走っていった。
竜也が連行された先はアニード邸だった。竜也はかつての自分の勤め先を複雑な思いで見上げる。
竜也はアニード邸の庭先に放り出されるように連れてこられる。そこに姿を現したのはアニードだった。そしてその横に白人の男が立っている。おそらくその男こそタンクレードだろう。年齢は四十過ぎ。背が高く、洒落た口ひげを生やして伊達を気取っている男だが、美形と呼ぶには足りないものが色々と多かった。
「アニードよ、何事だ」
「何、小賢しい泥棒を捕まえただけだ」
アニードは警棒のように短い棍棒で竜也を打つ。竜也は悲鳴を上げた。
「アニードさん、一体何を」
「やかましい!」
アニードの棍棒が連続して竜也を打ち据える。頭部の皮膚が裂け、血が流れる。竜也は地面に倒れ伏した。
「この者は?」
「ええと、確かクロイ・タツヤと言ったかな」
アニードの答えにタンクレードは首を傾げる。
「それはスキラで巨万の富を築いて聖槌軍に抗しようとしている者の名前ではないのか?」
「そんなに上等な奴ではない。こいつはただの詐欺師で泥棒だ」
アニードの説明にタンクレードは、
「ただの同名か。ネゲヴの人名は判りにくいからな」
と納得していた。
「アニードさん、一体どうして……」
一方の竜也は納得などできる状況にはない。アニードは嘲笑に鼻を鳴らした。
「貴様がナーフィア商会と一緒になって適当な嘘をついて儂からあの悪魔を奪っていったこと、忘れたとは言わさんぞ。あの後儂がどれだけ苦労したと思っている……!」
アニードは再度棍棒を振り下ろす。だが竜也にとっては棍棒よりもアニードの言葉の方が身に応えていた。
「こいつを牢屋に放り込んでおけ!」
ようやく気の晴れたアニードは竜也を兵士へと引き渡した。竜也は兵士引きずられてアニード邸を退出していく。それを見送るアニードの横に、不意に現れた一人の男が並んだ。
「処刑はいつするのですか?」
男の言葉にアニードは動揺を見せる。
「いや、さすがにそこまでする理由は……それに殺してしまってはナーフィア商会と交渉をすることもできん」
アニードの認識不足に男は内心で呆れていた。竜也がスキラで最重要人物になっているという話はアニードも耳にしているが、その話と実物の竜也を結びつけて認識することができないのだろう。アニードにとって竜也はあくまで元奴隷の自分の使用人に過ぎない。ナーフィア商会がラズワルドを不当に奪っていったことに対する賠償交渉、そのための材料でしかないのだ。
「牙犬族の護衛は捕縛できましたか?」
「いや、まだだ。だが恩寵の戦士と戦える兵などおらん。無理に捕まえようとする必要はあるまい」
アニードの煮え切らない姿勢に男は軽侮の思いを強くしながらもそれを隠した。
「ですが、牙犬族が牢屋を襲撃して奪還しようとするかもしれません」
「牢屋にも兵はおる。そうそう無茶はできまい」
「兵を増やして、牢屋の警備に念を入れてください」
男はそう言い残してアニード邸を立ち去る。竜也が連行された方向を眺め、男が独り言ちた。
「……まあ、処刑はされなかったがひとまず目的は達成だ。これでよしとすべきか」
その男が偵察船団の一員だったことを知る者はこの町にはいなかった。
一方アニードはタンクレードと打ち合わせの最中だ。タンクレードはすでに竜也のことなど頭にはない。アニードもまた、竜也のことだけを考えるには抱えている問題が大きすぎた。
「それで、トルケマダは今どこに」
「どうやら私の部隊より一日分先行しているらしい。私の部隊にも先を急ぐよう命令はしているが」
そうか、と呟くように返答するアニード。
「一体何のつもりで……」
アニードは重苦しい不安に胸が潰れそうになっていた。トルケマダはエレブ中で最も悪名が高いとされる人物だ。一応はアンリ・ボケの部下だがあまりに悪評と黒い噂が絶えないためにアンリ・ボケも距離を置いているほどだ。聖堂騎士団から独立した独自の騎士隊を有しており、形式上はアンリ・ボケの協力者という位置付けである。一際強欲で残虐で、異端討伐では女子供を好んでその標的としている。特に若く美しい女性に目がなく、散々強姦した上に意味もなく拷問して苦しめた上で殺している――という噂が絶えず聞こえている。
「私の隊よりトルケマダ隊が先にこの町に入ったなら何が起こるか判らない。トルケマダ隊には私の隊の後ろに回るよう命令している」
タンクレードの説明を聞きながらアニードはサイードの提案について一人検討していた。
(やはり住民を一時的に町の外に逃すべきか……いや、それを発案したのはあの小僧だというではないか。私があんな小僧の言いなりになど……!)
アニードの内心の天秤は大きく揺れており、どちらに傾いてもおかしくはなかった。天秤の一方に乗っているのは現実に基づく不安であり、もう一方はタンクレードに対する信頼、「トルケマダ隊だってタンクレードの顔を潰すような無茶をするはずがない」という理性的判断、そして何より不安から目を逸らしたいという自己防衛の心理である。そして竜也に対する反感が天秤のもう一方への重りとなったのだ。アニードは町の住民を避難させず、何の警告も発しなかった。
「将軍タンクレードに従っている限りこの町は安全だ」
再度そう布告し、避難を思い止まらせもしたのである。
……また一方竜也は町役場に隣接する牢屋へと放り込まれ、そのまま牢屋で一晩を過ごした。その牢屋に収容されているのは竜也一人のようだった。牢屋は壁も床も石造りだ。床にむしろを一枚引いて、それが寝床である。散々打ち据えられて痛む身体を横たえ、眠って体力を回復させることしかやれることがない。
「あのときはあのやり方が最善だと思ったんだ。……今になってあれに足を取られるなんて」
確かにアニードを騙したあのやり方は詐欺まがい、あるいは詐欺そのものだった。だが竜也はあのやり方を倫理的な悪だったとは思っていなかった。むしろ「頭の悪い奴には思いつかない、冴えたやり方だ」とひそかに誇りさえした。だが、今になってその「冴えたやり方」が思いがけない障害となっている。竜也の自由を奪い、その身を、その生命を危険にさらしている。いや、竜也だけではない。ツァイドやサフィールやバルゼル、そして誰よりラズワルドに危機が及んでいる可能性が高いのだ。
「なのに、何もできない。助けに来てくれるのを待つしかない」
竜也は唇を、無力感を噛み締めた。
「『黒き竜の血』が目覚めさえすれば……」
竜也の心の奥底から、久々にそれが湧き上がってきた。だが竜也は首を振って、その妄想を心の底深くへと沈めていく。
「今はそんな場合じゃない。何とか逃げて皆と合流しないと。このとき、この場所からできることを見つけなきゃいけない」
竜也はむしろの上に横になったまま、頭脳を回転させ続けた。
「ほれ、これもお食べ」
ラズワルドは老婆の差し出した菓子を口にする。果物を干しただけの代物だが、素朴な甘さが口の中に広がった。
ん、と満足げに頷くラズワルドを老婆は相好を崩して眺めている。その様子をリモンは呆れたように見つめていた。
そこはリモンとばあや――以前ラズワルドの世話をしていた老婆の暮らす家である。逃げているうちにサフィール達とはぐれたラズワルドはその家に逃げ込んたのだ。
「それで、どうだったの?」
「確かにあそこにいた」
そう、とリモンが胸をなで下ろす。ラズワルドは竜也の行方を捜すのにリモンに協力を依頼。リモンがアニード邸で情報を集め、竜也が放り込まれていると思しき牢屋をピックアップ。ラズワルドがその恩寵で竜也の所在を確認したのである。
「あとは助けるだけ」
サフィールかバルゼルと合流できればそれも難しくはないだろう。牙犬族の恩寵の前では牢屋の戸板など障子ほどの意味もない。だが問題はどうやって彼等と合流するかだ。ラズワルドには良案など思いつかなかった。今は運に任せてあちこち動くしかない、と考えている。
「タツヤを助け出したらどうするの?」
「スキラに帰る」
リモンの問いにラズワルドは当たり前のように答えた。
「……あの、わたし達も連れていってくれない? おばあちゃんを置いて逃げるのは無理だったからこの町に残っていたけど、タツヤと一緒なら」
ラズワルドとしては断固拒否したいところだが、リモンはともかくばあやは嫌いではないし、窮状を救ってくれた恩人でもある。無碍にはできなかった。かと言って安易に承諾できることでもない。
「……タツヤに頼んでみる」
ラズワルドとしては最大級の誠意を持った回答である。リモンも一応それを理解し、
「お願いね」
と重ねて頭を下げた。
そして翌日、アダルの月の九日。
「……」
ラズワルドは家の外に出て空を見上げている。遠方からは遠雷のような唸りがかすかに聞こえていた。
「嫌な空だねぇ。何だろうねぇ」
ばあやはラズワルドの横に並んで空を見上げる。しばらくそうやっていたラズワルドだが、突然走り出した。
「どこ行くんだい!?」
ばあやの呼びかけも耳に届かない。ラズワルドの頭には竜也のことしか入っていなかった。
竜也は牢屋で一夜を過ごし、一日を過ごした。そしてアダルの月の九日。
その日は朝から空気が違っていた。生温かい空気が帯電しているかのように竜也の神経を逆撫でする。
「誰か! 誰かいないのか?」
牢屋の外に呼びかけても誰も返事を返さない。竜也は体当たりと蹴りで牢屋の扉を破ろうとした。が、思ったよりも頑丈で扉を破ることができない。
そうこうしているうちに、窓の外から今まで聞いたことのない音が聞こえてきた。遠すぎて判らないが、この雷鳴が唸るかのような音は人の声なのか。かすかに聞こえるあれは悲鳴ではないのか。町の外れに立ち上るあの煙は何なのか。
「くそっ! 何が起こってる?!」
竜也は扉への体当たりと蹴りをくり返した。窓の方からの脱出にも挑戦してみたが石と石の隙間は狭く、片腕と片方の肩を外に出すので精一杯だ。扉を破ることに集中するしかない。
「くそっ! こんなところで」
体当たりをくり返したたため竜也の両肩はひどく痛むようになった。あるいは骨にひびでも入っているかもしれない。その甲斐あって、扉は大分建て付けが悪くなってきている。だが、まだ破れない。朝から何時間もかけているのに、昼を回って大分経っているのに、まだこんなところに閉じ込められたままである。
はっきり悲鳴と判る声が近くからも聞かれるようになってきた。悲鳴は女性の声が多いがそれだけではない。老若男女問わず、悲鳴が、断末魔の叫びが、泣き声が聞こえてくる。獣のような雄叫びも聞こえてくる。段々その声が近付いてくる。
「くそっ! くそっ!」
恐怖と焦燥のあまり、竜也は頭がおかしくなりそうになった。そのとき、
「タツヤ!」
扉の外から、竜也を呼ぶ少女の声。
「ラズワルドか?! こんなところに!」
こんな危険な場所にどうして、バルゼルさんやサフィール達は無事なのか、いくつもの思考が竜也の脳裏を横切った。だがそれも一瞬だ。
「ラズワルド! 鍵はないか?」
「探してくる!」
ラズワルドの気配が遠ざかる。竜也はラズワルドを待つことしかできない。その焦る様は、焼かれた鉄板の上で立っているかのようだ。
短くない時間を経て、ようやくラズワルドが戻ってきた。
「見つけてきた!」
鍵の束の中から竜也の牢屋の扉の鍵を見つけるのにまた時間がかかり、ようやく鍵を開けたと思ったら立て付けの悪くなった扉をこじ開けるのにまた時間を取られてしまった。竜也はラズワルドの手を引いて外へと飛び出した。
百メートルも走らないうちに敵に見つかってしまった。
「女だ!」「こっちに女がいる!」
粗末な革製の鎧を身につけた、白人の男達。鎧や髪は埃で汚れて白くなっていて、血に濡れた剣や槍を手にしていた。その眼だけが狂喜でぎらぎらと輝いている。
竜也はラズワルドの手を引いて走り出した。それを何人もの聖槌軍の兵士が追いかける。裏路地の、道が入り組み迷路みたいになっている区画に逃げ込む。適当な民家に入り込んで何とか敵兵を撒くことができた。
竜也達は、今度は敵兵に見つからないことを最優先にして、姿を隠して慎重に歩を進めた。
「この道の方が人が少なそう」
とラズワルドが先導する。ラズワルドは読心の恩寵を対人レーダーのように使うことで敵兵を回避し続けたのだ。
「とにかく今は町の外を目指すしかない。ソウラ川に出て、川を泳いで渡って東岸まで行ければ敵もいないだろう」
夜になるのを待った方がいいだろうか、とも考えたが、夜まで隠れていられる安全な場所が見当たらない。敵兵の姿は一分一秒ごとに増え続けていて、先へと進むのがますます難しくなっている。
「待って、向こうから来る」
ラズワルドの警告に従い元来た道を引き返すが、そちらからも敵兵が姿を現した。竜也は周囲を見回し、少しの間だけでも身を隠せる場所を探す。そして天佑のようにそれを見つけた。竜也の視線の先にあるのは、共同便所の肥溜めだった。
竜也の手を握ったままのラズワルドもその案を理解する。躊躇と嫌悪がラズワルドの心を詰め尽くすが、次の瞬間にはそれを全て投げ捨てた。ラズワルドは率先して便座を潜り、肥溜めへと身体を沈めた。それに竜也が続く。
あまりの悪臭に嘔吐しそうになるが、辛うじてそれを我慢した。肥溜めの中は思ったよりも狭く、竜也とラズワルドの二人で満員である。竜也は外からラズワルドを隠すようにしてその身体を抱いた。ラズワルドもその手を竜也の胴に回す。
悪臭は目が潰れるかと思うほど強烈だった。鼻はもちろん口でも呼吸が困難だが、しないわけにはいかない。唇をほんのわずかだけ開けて、か細く短い呼吸をくり返した。奴隷時代のことを思い出し、精神を現状から切り離し身体を機械とし、ただ生き残ることだけに専念する。ラズワルドは半分以上気絶しているようだったが、その方がいいだろうと考えた。
竜也達はそのまま肥溜めの中で夜を待った。地獄のような汚濁の中で、永劫とも思える苦悶の中で、ただ互いの温もりだけが価値あるものの全てだった。
日が沈み、外は夜の闇に包まれた。
周囲に敵兵がいないことを確認し、竜也とラズワルドは肥溜めから抜け出した。身体を洗うこともできないまま、再び町の外へと向かう。
町の各所から火の手が上がっているようだった。敵兵の姿があちこちに見られるが、夜の闇が竜也達の姿を隠してくれた。竜也達は敵兵に見つかることなく町の外を目指して歩いていく。
路地には数メートルごとに市民の死体が転がっていて、地面には血の絨毯が敷かれていた。剣で斬られ、槍で突かれた男の死体。女の死体は一人残らず下半身裸である。腰の曲がった老婆から五歳の子供まで、女という女は一人の例外もなく強姦された上に殺されていた。腹を割かれた妊婦の遺体もあった。
心を凍らせた竜也とラズワルドはその惨状に目を奪われることなく、前へと進み続ける。視界の端に捉えた二人の死体。全身を無残に斬られた老婆と、裸にされた若い女性の死体が寄り添うように倒れている。竜也にはそれがばあやとリモンのように思えたが、戻って確認したりはしなかった。今はただ先へ先へと進み続ける。ソウラ川のほとりは目前に迫っていた。
だが竜也達の行く先を阻むように、その道に一人の男が佇んでいた。背の高い、黒い騎士服の男――タンクレードである。
タンクレードは剣を腰に差しているが、同行者はいないようだった。ソウラ川は目前だ、この男を殴り殺してでも先に進む。竜也はそう決意し、路傍の石を拾い上げてタンクレードに接近した。タンクレードの方も竜也達の姿に気付いたようである。誰か呼ぶかと思っていたが、タンクレードは何もしない。惚けたように立ち尽くしているだけだ。
訝しく思いながらも竜也はタンクレードに接近する。だが彼は何もしないままだ。タンクレードは悄然としており、わずか二日ほどの間に十歳も老け込んだかのようだった。
「――行くがいい」
タンクレードは竜也達にそう言い、背を向ける。竜也はその横を通り過ぎ、そのまま走り抜けていった。
竜也達は川岸からゆっくりとソウラ川の水に浸かり、岸から離れた。流れに身を任せるようにして川の中央へと泳いでいく。ラズワルドは竜也の首に捕まり、竜也は少女を背負うような格好だ。ソウラ川には、二人が見かけた範囲だけでも何百という死体が流れていた。生きて泳いでいる人間もいたが、その数は圧倒的に少ない。
川に流され、川ではなくソウラ湾に出た頃、竜也達はようやく東岸に辿り着いた。竜也とラズワルドは最後の力を振り絞って岸に這い上がる。陸地に上がったところで力尽き、そのまま寝転んだ。しばらくの間体力の回復に努める。
泳いでいる間に汚物の大半は流れ落ちたようだが、悪臭は身体に染み込んでいるかのようだった。ちゃんと身体と服を洗おうと思い、竜也は起き上がる。竜也の視界に向こう岸のルサディルの町が入った。
ルサディルの町の各地が炎上しているようだった。町は不気味な赤色に染まり、何本もの煙が立ち上っている。竜也が周囲を見回すと、町から何とか逃れてきた人々が虚ろな瞳を町へと向けていた。
これまで堪えてきたものが込み上げてくる。竜也はその場でひざまづいた。力任せに地面の砂を握り締める。竜也の瞳からこぼれた涙が、その砂を濡らした。食いしばる歯が砕ける寸前の軋みを上げた。
「……な、何で」
憤怒が、激情が竜也の身体を震わせる。
――何故ここまで残虐なことができる? 一体何の恨みがあって? 一体どういう権利があって?
もちろん竜也も知識としては判っている。ルサディルで暴虐の限りを尽くしたのは、エレブの普通の市民・農民なのだ。領主からの重税に苦しみ、聖杖教のプロパガンダに踊らされているだけの、無知蒙昧なただの庶民。領主から苛政を受け、教会から抑圧を受け、その苦しみの転嫁先を探してネゲヴまでやってきて、ルサディルがその最初の捌け口となってしまった。ただそれだけなのだ。
竜也は力強く立ち上がり、炎上するルサディルの町を見つめた。黒い両眼に宿った確固たる決意が、艶やかに星明かりを照り返す。その瞳はまるで鋼鉄そのものだった。
――だが判っているのか? 欲望で他人を殺すのなら、自分も他人の欲望のために殺されても文句が言えないのだということを。
――ああ、判っていやしないだろう。判っているのならこんな真似ができるわけがない。だから俺が判らせてやる。
――『神の命令に従っただけ』? 『それを神が望んでいる』? 巫山戯るな。そんな淫祠邪教、俺が神と認めない。そう、俺は「黒き竜」。キリストに仇なす悪魔の獣だ。
――やっと判った、俺がここにいる理由。俺がこの世界のこの時代にやってきたのは決して偶然なんかじゃない。奴等と戦うためだ。聖杖教と戦い、聖槌軍を滅ぼし、犯され殺されたリモンやばあややルサディルの人々の仇を討ち、ネゲヴをネゲヴの民の手に取り戻す。そのために俺は今ここにいる。
――それができるのは俺だけ。俺には「黒き竜の血」が流れている。俺は「黒き竜」なのだから。
ルサディルの町を見つめる竜也は、ラズワルドがいつの間にか起き出して自分を見つめていることに全く気付いていなかった。少女の内面が今大きく変貌しようとしていることも。
無意識のうちに竜也の内心を覗いたラズワルドの心に、竜也の激情が流れ込んでくる。少女にはそれに抵抗できるほどの力はなかったし、そもそも抵抗するつもりもなかった。竜也の憤怒に共感し、竜也の覚悟に感化され、竜也の意志を共有する。言わば、少女は自分で自分を洗脳したような状態だった。少年が自分を人間ではなく「黒き竜」だと信じるなら、少女にとってもそれが真実なのだ。
今ここに黒き竜の少年と、その白き巫女が目覚める。二人がこの世界に何をもたらすのか、知る者はまだ誰もいなかった。