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No.19836の一覧
[0] 【異世界トリップ・建国】黄金の帝国【完結】[行](2020/12/25 19:28)
[72] 第一話「奴隷から始めよう」[行](2013/04/11 21:37)
[73] 第二話「異世界のでの生活」[行](2013/04/11 21:40)
[74] 幕間0・ラズワルドの日記[行](2013/03/01 21:07)
[75] 第三話「山賊退治」[行](2013/03/01 21:10)
[76] 第四話「カリシロ城の花嫁」[行](2013/03/08 21:33)
[77] 第五話「都会を目指して」[行](2013/03/24 19:55)
[78] 第六話「バール人の少女」[行](2013/03/24 19:56)
[79] 第七話「牙犬族の少女」[行](2013/03/29 21:05)
[80] 第八話「冒険家ルワータ」[行](2013/04/11 21:51)
[81] 第九話「日常の終わり」[行](2013/04/12 21:11)
[82] 第一〇話「エレブ潜入」[行](2013/04/19 21:07)
[83] 第一一話「エルルの月の嵐・前」[行](2013/04/26 21:02)
[84] 第一二話「エルルの月の嵐・後」[行](2013/05/06 19:37)
[85] 第一三話「ガフサ鉱山暴動」[行](2013/05/15 20:41)
[86] 第一四話「エジオン=ゲベルの少女」[行](2013/05/17 21:10)
[87] 第一五話「スキラ会議」[行](2013/05/24 21:05)
[88] 第一六話「メン=ネフェルの王女」[行](2013/05/31 21:03)
[89] 第一七話「エレブの少女」[行](2013/06/07 21:03)
[90] 第一八話「ルサディルの惨劇」[行](2013/06/14 21:02)
[91] 幕間1 ~とある枢機卿の回想・前[行](2013/06/21 21:05)
[92] 幕間2 ~とある枢機卿の回想・後[行](2013/06/28 21:03)
[93] 幕間3 ~とある王弟の回想・前[行](2013/07/05 21:39)
[94] 幕間4 ~とある王弟の回想・後[行](2013/07/12 21:03)
[95] 幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想[行](2013/07/26 21:25)
[96] 第一九話「ソロモンの盟約」[行](2013/07/19 21:03)
[97] 第二〇話「クロイの船」[行](2013/10/05 20:59)
[98] 第二一話「キャベツと乙女と・前」[行](2013/10/08 21:01)
[99] 第二二話「キャベツと乙女と・後」[行](2013/10/10 21:05)
[100] 第二三話「地獄はここに」[行](2013/10/12 21:05)
[101] 第二四話「サフィナ=クロイの暴動・前」[行](2013/10/15 21:03)
[102] 第二五話「サフィナ=クロイの暴動・後」[行](2013/10/17 21:02)
[103] 第二六話「皇帝クロイ」[行](2013/10/19 22:01)
[104] 第二七話「眼鏡と乙女と」[行](2013/10/22 21:04)
[105] 第二八話「黒竜の旗」[行](2013/10/24 21:04)
[106] 第二九話「皇帝の御座船」[行](2013/10/27 00:44)
[107] 第三〇話「トルケマダとの戦い」[行](2013/10/29 21:03)
[108] 第三一話「ディアとの契約」[行](2013/11/02 00:00)
[109] 第三二話「女の闘い」[行](2013/11/02 21:10)
[110] 第三三話「水面下の戦い・前」[行](2013/11/05 21:03)
[111] 第三四話「水面下の戦い・後」[行](2013/11/07 21:02)
[112] 第三五話「エルルの月の戦い」[行](2013/11/09 21:05)
[113] 第三六話「ザウガ島の戦い」[行](2013/11/12 21:03)
[114] 第三七話「トズルの戦い」[行](2013/11/14 21:03)
[115] 第三八話「長雨の戦い」[行](2013/11/16 21:02)
[116] 第三九話「第三の敵」[行](2013/11/19 21:03)
[117] 第四〇話「敵の味方は敵」[行](2014/03/21 13:39)
[118] 第四一話「敵の敵は味方・前」[行](2014/03/18 21:03)
[119] 第四二話「敵の敵は味方・後」[行](2014/03/21 18:22)
[120] 第四三話「聖槌軍対聖槌軍」[行](2014/03/25 21:02)
[121] 第四四話「モーゼの堰」[行](2014/03/25 21:02)
[122] 第四五話「寝間着で宴会」[行](2014/03/27 21:02)
[123] 第四六話「アナヴァー事件」[行](2014/03/29 21:02)
[124] 第四七話「瓦解」[行](2014/04/03 21:01)
[125] 第四八話「死の谷」[行](2014/04/03 21:01)
[126] 第四九話「勅令第一号」[行](2014/04/05 21:02)
[127] 第五〇話「宴の後」[行](2014/05/01 20:58)
[128] 第五一話「ケムト遠征」[行](2014/05/02 21:01)
[129] 第五二話「ギーラの帝国・前」[行](2014/05/03 21:02)
[130] 第五三話「ギーラの帝国・後」[行](2014/05/04 21:02)
[131] 第五四話「カデシの戦い」[行](2014/05/05 21:01)
[132] 第五五話「テルジエステの戦い」[行](2014/05/06 21:02)
[133] 第五六話「家族の肖像」[行](2014/05/07 21:01)
[134] 第五七話(最終話)「黄金の時代」[行](2014/05/08 21:02)
[135] 番外篇「とある白兎族女官の回想」[行](2014/10/04 21:04)
[136] 人名・地名・用語一覧[行](2014/05/01 20:58)
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[19836] 幕間1 ~とある枢機卿の回想・前
Name: 行◆7809557e ID:aef4ce8b 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/06/21 21:05




 教会が燃えていた。
 敵の襲撃は突然だった。誰もが寝静まった深夜、敵兵は夜闇に紛れてその教会へと接近。彼等は警告も降伏勧告も何一つすることなくその教会へ、教会に併設された孤児院へと突入したのだ。
 教会や孤児院の従僕、孤児院の孤児達、全て合わせれば五〇人を越えていただろう。だが逃げ延びることができたのは二人だけだ。その二人は丘の上から炎上する教会を、孤児院を見つめている。
 一人は教会の責任者の神父だ。その神父は力尽きたようにひざまづき、倒れ込みそうになって掌を地面に付けていても、顔だけは上へと向かせている。視線だけは、教会を焼き尽くす炎から決して離そうとしなかった。

「神父様……」

 神父の隣には小汚い格好の孤児の一人が立っている。神父のことを心配していても彼には何をどうする力もありはしない。今の彼にできるのはその神父に寄り添うことだけだ。





 教会が燃えていた。その神父が心血を注いで築いてきた彼の楽園が、焼き尽くされ、灰になろうとしている。彼の理想に賛同し、協力してくれた同志達が天に召されようとしていた。
 孤児院が燃えていた。その孤児が物心ついてから生まれ育った場所が消え去ろうとしている。一緒に育った仲間達が無惨な死体になろうとしていた。
 燃え広がる炎を、焼け落ちる教会の尖塔を、二人は見つめ続けている。その光景は二人の心に刻み付けられた。炎の輝きは二人の瞳に焼き付けられた。たとえ年老い、死の瞬間を迎えたとしても、この光景を忘れることはないだろう。
 ――この夜、全てを焼き尽くす炎は生き残った少年の過去をも滅却した。そして炎の中から一人の神の使徒が新生したのである。







「黄金の帝国・幕間1 ~とある枢機卿の回想・前」







 かつて呼ばれていた名前はもう思い出すことができない。それは濃霧の中よりも曖昧な遠い記憶の彼方である。一番古い記憶は、その教会の孤児院に拾われた日のことだ。町で浮浪児をしていた彼はそのとき行き倒れて死ぬ寸前だった。町の誰かが彼を拾い、その教会へと世話を押し付けたのだろう。

「やあ、初めまして。僕がここの責任者のピエールだ。君も今日から僕達の家族だ」

 目覚めた彼を出迎えたのはそう告げる神父ピエールの笑顔だった。ただの柔和な笑顔がそのときの彼にはまるで太陽のように光り輝いて見えた。

「まるで神様みたいな人だ」

 その時点の彼の貧困な語彙ではこの程度の喩えすら思い浮かべることはできなかったが、まさしく彼はそんな風に思っていた。後日、教会で神の存在を教えられた後になってもその思いはほとんど訂正されていない。

「神父様は神様のお手伝いをしているんだね?」

 彼の問いにピエールは笑って「そうだよ」と頷く。彼もまた得心して頷いた。

「つまり神父様は神様に一番近い人→神様の次に偉い→ほとんど神様」

 彼の中ではそんなものすごい三段論法が成立していた。彼にとっての信仰の対象は神父ピエールである。神に祈りを捧げるとき、彼が思い浮かべるのは天上のどこかにいる見たこともない神様ではなく、会ったこともない教皇庁の教皇でもなく、神父ピエールの笑顔なのだ。そして彼のこの信仰は今に至るまで揺るぎなく貫かれている。
 実際、この時点のピエールはまだ二〇代の若造でしかない。だがすでに高潔な聖職者として名声を得、一部では聖人とすら呼ばれていた。

「他の教会の神父なんてひどいもんだぞ? 貧乏人からむしり取った金で女を買うくらい当たり前にやっている」

 教会と孤児院には何人もの大人がいたが、彼等は皆ピエールに信服し、神父の理想に賛同した同志達である。

「僕達は聖杖教の真の理想を追求する。神父ピエールの元でならそれができると思うんだ」

 孤児院の運営もまた理想追求の一環なのである。
 孤児院での生活は貧しく苦しいものだったが、浮浪児をしていた頃を思えば天地の差があった。どんなに慎ましくとも一日二回欠かさず食事でき、雨風をしのげる建物の中に自分の寝床がある。差別や理不尽な暴力も非常に少ない。貧しい食生活の中でも彼はすくすくと、急速に成長した。推定で六歳になるくらいの頃にはすでに一〇歳児と変わらないくらいの体格を有するようになっていた。

「そこのうすらでかいの、お前を僕の従者にしてやる」

 彼がその貴族の子供と出会ったのはそんな頃である。

「僕はアンリ・ボケ。騎士の息子で、僕もいずれは騎士になる。お前も僕を守って戦うんだぞ」

 アンリ・ボケと名乗るその子供は貴族には到底見えないみすぼらしい格好で彼の前に立っていた。体格も貧弱で、顔には一面ひどいあばたがある。貴族らしい風格も子供らしい愛嬌も持たない一方、貴族らしい驕慢さと子供らしい憎々しさだけは充分に備えていた。
 その日以降、彼はアンリ・ボケというその子供の従者として生活することになる。とは言っても孤児院の外での騎士修業に付き合うわけでもない。今まで通り孤児院の中での雑用に追われる生活の中に、アンリ・ボケの世話係という仕事が一つ加わっただけである。体格は立派に育っても内面はまだまだ幼い彼は逃げるための上手い口実も手段も思いつかず、アンリ・ボケに従順する他なかった。

「あの子も早くここでの生活に馴染んでくれればいいのですが……困ったものです」

 ピエールが彼の前に立ち、やや苦い顔を見せている。ピエールはアンリ・ボケが不在の一時を見計らい、彼の前に現れたのだ。

「あの子が他の皆と仲良くできるよう、君も気を配ってくれませんか」

 それは……と彼は沈黙する。彼の表情を読み、ピエールは苦笑した。

「――確かに君がどんなに努力をしてもあの子自身に変わる気がなければどうしようもないことですね」

 アンリ・ボケと他の子供達の対立はすでに修復不能の水準に達していた。アンリ・ボケは「自分は貴族だ」という自負の元、傲慢な姿勢を崩そうとしなかった。一方の子供達は、

「何が貴族だ。病死した貧乏騎士の四男だか五男だかで、母親の再婚の邪魔だからここに放り込まれたんじゃないか」

 とアンリ・ボケに対する侮蔑を隠そうとしなかった。

「貴族だなんだ言ったところで、こんな平民用の孤児院に入れられる時点でたかが知れるだろ」

 子供達がアンリ・ボケに聞こえるようにそう言って嗤っているのを彼も聞いたことがある。そんな陰口を聞くたびに、鬱憤晴らしのためにアンリ・ボケは適当な口実を付けて彼を折檻するのだ。孤児院には数十人の子供がいて問題児も多いのだが、アンリ・ボケは入院早々に彼等を追い越して問題児の筆頭と見なされるようになっていた。子供だけでなく教会の大人達すら「平民」と見下し、誰にも従おうとしないからである。が、ピエールに対してだけは一応従う姿勢を見せた。

「当然だろう。あの男は爵位を持つ貴族の家の出だからな」

 彼の疑問にアンリ・ボケはそう答える。初めて知った事実に彼は驚き、機会を見つめてピエールに確認した。

「確かに実家はそうですよ? ですが相続権も弟のものですし、実家は私とはもう関わりのない家です」

 ピエールの実家は爵位も領地もある裕福な貴族で、ピエールはそこの長男とした生まれた。幼い頃に母親を亡くし、父親と折り合いが悪くなったピエールはどうしようもないドラ息子として育ったと言う。

「町の愚連隊を率い、悪さは一通りやりました。今思い返すと恥ずかしいばかりです」

 そのピエールからすればアンリ・ボケの振る舞いなど子供らしく微笑ましいわがままに過ぎないようだった。彼からしてみればたまったものではないのだが。

「そのうち父は後妻を娶り、彼女が生んだ子供に爵位を継がせることを決めます。私は厄介払いに修道院に放り込まれたんです」

 当初はさらに荒れたピエールだが、やがて聖杖教の説く隣人愛に目覚め、聖職者として生きていくことを決意するようになる。

「運が良かったのですね。私は素晴らしい師とめぐり会えましたから。あの方と会っていなければ私は修道院を飛び出して傭兵となり、今頃どこかの戦場で生命を落としていたことでしょう」

 あの子にとっての私が私のとってのあの方となってくれればいいのですが――ピエールはそう語り、アンリ・ボケを導くべく尽力した。何度も面談を重ね、説教をするのだが、アンリ・ボケはかたくなになる一方である。

「神父はこのあたりじゃ聖人と呼ばれているそうだが、僕に言わせればただのペテン師だ」

 アンリ・ボケは彼の前ではピエールに対する敵意も露わにしていた。彼は内心でそれに反発するが表面上は大人しく頷いておく。

「この地上から戦争を根絶する」

 そう公言するピエールは、まずは教会のある領地の領主であるロレーヌ伯から説得を開始していた。

「戦いは何も生みません。生まれるのは悲しみと憎悪だけです。それは神の御心に沿う道ではないのです」

「まずは隣国のライニンヘン伯と友誼を結ぶところから始めましょう。信頼関係が深まれば早々戦争にはならないでしょう」

「少しずつ軍備を減らしましょう。ロレーヌ伯が平和を願っていることを行動で示すのです」

 ピエールに感化されたロレーヌ伯は騎士の数を、兵の数を減らしていく。浮いた予算は租税の軽減へと当てられ、ロレーヌ伯は領民から名君と呼ばれ、慕われるようになる。それとともに神父ピエールの名声も一層高まった。だが、

「ロレーヌ伯が年老いて気弱になったところによほど上手くつけ込んだんだろう。『汝の隣人を愛せよ』『右の頬を打たれたなら左の頬を差し出せ』……そんなのはただの空論だ。領主が実行していいことじゃない」

 アンリ・ボケはそう言ってその領主を嘲笑した。

「でも、税が軽くなったと皆が喜んでいますよ」

「その分敵に対する備えが疎かになっているんだ。ロレーヌ伯はいずれその報いを受けるだろうさ」

 このときアンリ・ボケは自分以外の全ての人間を軽蔑し、憎悪し、嘲笑していたのだろう。
 彼がアンリ・ボケの従者になったことはマイナス面しかなかったわけではない。彼がアンリ・ボケから学んだことも確かにあったのだ。
 ……それから一年もしないうちにアンリ・ボケの予言は的中することとなる。ロレーヌ伯領は隣国のライニンヘン伯から侵攻されたのだ。弱体化していたロレーヌ伯の軍は簡単に撃破され、領地はどんどん浸食されていく。ピエールも含めた教会の大人達が不安げに右往左往する中、アンリ・ボケだけが嗤いを浮かべている。すでにロレーヌ伯の滅亡は誰の目にも避けられないものと見られていた。ロレーヌ伯から多大な援助を受けているこの教会と孤児院もまたこの先の運営が行き詰まることになる――ピエールも教会の大人達も、皆そのことを心配していた。
 ライニンヘン伯の軍が近くまで来ているとの噂が聞こえていたが、教会も孤児院もいつもと変わらない日常を送っていた。その日の深夜、寝床から抜け出して厠へと向かった彼は、たまたまピエールと出会う。

「やあ、良い夜ですね」

 ピエールはいつものように柔和な笑みを浮かべた。二人で厠へと向かい、用を足したその帰り。

「……?」

 何気なく敷地に外へと視線を送ったピエールが眉をひそめた。

「神父様?」

 彼もまたピエールの視線の先を見つめようとする。そのとき、敷地の外が一斉に燃え上がったように見えた。何十本という松明が同時に火を灯されたのだ。その松明の明かりに照らされ、武器を手にした兵士の姿が闇の中に浮かんでいる。一本の松明の周囲に何人もの兵がいる。

「一体何が……」

 呆然とするだけのピエールに対し、彼は迅速に最善の判断を下した。ピエールの手を引いて走り出したのだ。兵が教会敷地へと突入してきたのはその直後である。

「待ってください! あの軍を止めないと」

 そう言って足を止めようとするピエールの手を、彼は大人顔負けの力で引きずっていく。

「逃げるのなら他の皆も一緒に」

 そう言っている間にも兵は教会と孤児院に押し入っていく。数々の悲鳴が二人の耳にも届いた。さすがにピエールもこれ以上は立ち止まろうとしなかった。
 教会の敷地を脱し、森を駆け抜け、丘を駆け上がる。教会を眼下に見渡せる丘の上までやってきて、ようやく二人は足を止めた。二人は後ろを振り返る。

「教会が……」

 教会が、孤児院が燃えていた。神父ピエールの同志達が、彼の仲間の孤児達が、炎に包まれていた。何もかもが焼き尽くされようとしていた。二人は無言のまま立ち尽くし、その光景を心へと刻み付け。炎の輝きを瞳へと焼き付ける。
教会と孤児院が焼け落ち、全てが灰に還るまで、二人はその丘に立ち尽くしていた。







 ロレーヌ伯領の全域に戦渦が広がり、街道には難民が溢れていた。彼とピエールはその難民の一員となって街道を歩いている。
 彼の横で老婆が力尽きたようにひざまづくが、手を差し延ばすものは誰もいない。そこにピエールが手を差し出した。

「大丈夫ですか? さあ、立ちましょう」

 その老婆がピエールの手を取ろうとし、そこで気が付いた。

「あ、あなたは神父ピエール……」

 しばし呆然としていた老婆だが、形相が一変した。

「お前が! お前が余計なことをしたばかりに! 領主様は戦争に負けちまって、わたし達はこの有様だよ!」

 ピエールの正体が周囲の難民に知れ渡り、難民がざわめいた。

「わたしの家を帰しておくれ! 死んだ息子を帰しておくれ! さあ!」

 そして老婆の雄叫びが周囲へと響き、その思いが周囲へと伝わっていく。

「……そうだ、そうだ! お前が余計なことをしたばっかりに!」

「領主様が負けたのはお前のせいだ!」

「どうやって責任を取るつもりだ!」

 最初は言葉だけでピエールを糾弾していた難民達だが、手が出るまではそれほど時間はかからなかった。彼がピエールをかばって難民の前に立ちはだかるが、所詮は子供でしかない。彼にできるのはピエールの手を引いて逃げ出すことだけだ。彼とピエールは難民から石をぶつけられ、血を流しながらも何とか難民の目前から姿を隠した。
 それ以降、二人はあらゆる人間を避けて旅を続けなければならなかった。主要な街道は通らず、選ぶのは人気の少ない裏道や山道。農村で宿を求めることも避け、連日野宿である。乞食と変わらぬ姿となり、畑から食べ物を盗んだり残飯を恵んでもらったりして飢えをしのぎ、旅を続ける。
 普通に移動すれば半月かからず到着する目的地にようやく到着できたのは実に一ヶ月後だった。ピエールが彼を連れてやってきたのは聖杖教の総本山、教皇庁のあるテ=デウムである。
 ピエールは親しい友人の家を訪れた。教皇庁の一職員であるその友人はピエールの姿に驚きつつもその生存を喜び、彼を自宅へと招き入れた。

「ところでピエール、その子供は?」

「彼は孤児院で世話をしていた子だ。名前はアンリ・ボケ」

 友人の問いにピエールはそう答える。彼は驚いてピエールの顔を見つめるが、その表情からはどんな感情も考えも読み取ることができなかった。
 水浴びをくり返して一ヶ月分の垢をこすり落とし、真新しい服をもらい、人間らしいまともな食事を食べさせてもらい、ようやく人心地を付く。その夜、ピエールと彼は客室の一つを提供してもらった。
 ピエールと二人だけになり、彼はようやく疑問をぶつける機会を持った。だが、

「――アンリ、私はずっと考えていたんです。あの夜からずっと」

 ピエールの真剣な眼差しが彼の心を貫く。射止められたように彼は身動きできなくなっていた。

「私が間違っていたのだろうか、と。私が間違った理想を掲げ、ロレーヌ伯や皆を惑わせたのだろうかと。その結果があの夜だったのだろうかと。私はずっと考えていたんです。考えに考え、考え抜いて、ようやく結論に至りました」

 ピエールは一呼吸置き、不意にいつものような――一ヶ月前と同じような笑みを見せた。

「やり方に間違いがあったとしても、掲げた理想に間違いなどなかった。この地上から戦争を根絶したい――その思いが間違っているはずがないのです」

「はい、その通りです神父様」

 彼は脊椎反射の速さでそう答える。

「私はこの地上から戦争を根絶したい。あの夜のような悲劇を二度とくり返したくない。誰にもくり返してほしくない。あの夜を経て私は自分の理想にさらなる確信を得ることができました」

 ピエールはそう言って彼へと手を差し出す。

「アンリ・ボケ。私はあなたの力を必要としている。私の理想を実現するため、あなたの力を貸してほしいのです」

 答えるべき言葉を持たないまま、彼はピエールの手を取る。彼の瞳の輝きを見ればその答えは明確だった。言葉にする必要もない。
 この夜、神父ピエールは自らの理想に向けて再出発をした。その傍らには幼い騎士アンリ・ボケが立っている。この夜、名もなき浮浪児の一人が死んだ。その代わりに新たに生まれたのは、アンリ・ボケという名の神の騎士だった。







 神父ピエールがテ=デウムに逃げ戻ってきた一件は教皇庁の一部にニュースとして知れ渡った。ピエールは清貧を旨とし、聖職者の腐敗を強く批判し、聖人として名声を得た人物だ。そのピエールが自らの理想に足下をすくわれ、挫折した事実は、批判される種類の聖職者にとっては何よりも愉快なニュースだったことだろう。

「あの男がロレーヌ伯領から身体一つで逃げ出したそうだぞ」

「ああ、今はここテ=デウムに戻ってきている。一体どの面を下げて、というところだな」

「あの男のせいでロレーヌ伯爵家は滅亡したんだ。あの男の話に耳を傾ける者はもうどこにもいないだろうさ」

 多くの者が神父ピエールはこれでもう終わりだと思っていた。実際ピエールの活動を支援してきた聖職者も諸侯も、そのほとんどが彼の元から去っている。ピエールはわずかに残ったほんの一握りの支援者からの援助で糊口をしのぎつつ、教皇庁の図書館にこもっていた。友人の家に居候をして連日図書館に通い、聖典やその注釈書、歴代教皇の言行録を片端から読みあさる毎日である。
 一方のアンリ・ボケは教皇庁付属の神学校に入学した。

「……主に従う人は……揺らぐ? 彼は記憶された。彼は悪評を立てられた……? その心は固く信頼している。……えーと、彼は敵を支配する」

 四苦八苦しつつも聖典を読み上げようとするアンリ・ボケを、周囲の生徒達が笑っている。孤児院でも文字は習っていたがまだ一部の単語の読みを習った段階でしかなく、神学校の授業について行ける水準には到底届いていなかったのだ。アンリ・ボケは速やかに落ちこぼれた。
 そんな調子で数ヶ月が過ぎたある夜。

「神父様、今日導師ベネディクトから退学を勧告されました」

 自宅に戻ったアンリ・ボケはピエールにそう報告する。

(一生懸命勉強して立派な聖職者になって、神父様の手伝いをするつもりだったのに)

 アンリ・ボケの気高い目標は最初の一歩目で挫折してしまったのだ。恥ずかしさと自己嫌悪と劣等感で気持ちは地の底まで沈んでいた。

「導師は聖堂騎士団への転籍を斡旋してくれるそうです」

 聖堂騎士団は教皇庁に属する(この時点では)唯一の武装組織である。教皇庁とテ=デウムの治安維持や警備を一手に担っている。が、教皇庁の組織上では外部団体でしかなく、聖杖教の教義からすれば一種の鬼子だった。教皇庁の主流派から見れば手頃な左遷先であり、聖堂騎士団は落ちこぼれや不祥事を起こした聖職者、政争に敗れた反主流派等の吹きだまりとなっていた。
 アンリ・ボケの報告を受けたピエールは「ふむ」と少し考え、

「それもいいかもしれませんね」

 と軽く頷く。ピエールに見捨てられたように感じ、アンリ・ボケの落ち込みようはさらに深まった。その様子を見て取って、ピエールは笑いながら手を振る。

「アンリ、誤解しないでください。あなたが聖堂騎士団に属することは私達の今後にとって必要なことなのです」

 うつむかせていた顔を上へと向かせるアンリ・ボケ。ピエールは笑顔を引っ込め、真剣な表情を見せた。

「ちょうど私の考えもまとまったところです。あなたに今後の方針を示しましょう」

 ピエールの言葉にアンリ・ボケもまたこれ以上ないくらい真面目な顔をする。そのアンリ・ボケに、ピエールは机の上に地図を広げて示した。地図は地中海を中心とし、エレブ・アシュー、そしてネゲヴの三大陸を描いたものである。

「聖典の一節を覚えていますか? ケムトを脱出した契約者モーゼは荒野を放浪する中、神より約束の地を与えられました。その地とは『大河ユフテスから日の入る方の大海に達する全て』。大河ユフテスとはこです」

 とピエールは元の世界ではユーフラテス川と呼ばれている川を指し示す。

「では『日の入る方の大海』とはどこか? それはここなのです」

 とピエールが指し示したのは、元の世界では大西洋と呼ばれている海、この世界では「西の大洋」と呼ばれている海だった。

「……えーと」

 とアンリ・ボケが戸惑いをその瞳に浮かべる。ピエールは苦笑を示した。

「確かに従来の解釈では『日の入る方の大海』は地中海を意味するとされてきました。ですが、三〇〇年前の教皇ウルバヌスがこのような解釈を勅書で発しているのです。『神が我等聖杖教徒に与えた約束の地とはネゲヴのことなのだ』と」

 教皇ウルバヌスは無法時代の教皇だ。この時代、エレブ側とネゲヴ側のバール人都市が海洋交易の利権を巡って戦争を続けていた。この勅書はエレブ側の都市がネゲヴ側の都市を攻めるお墨付きを与えるために発せられたものに過ぎない。聖杖教徒をバール人の戦争に協力させるために発せられたものに過ぎないのだ。本気で主張されたものでもなく、同じ主張がくり返されることもなく、とっくに忘れられたものである。

「ですが、正式に撤回されたものでもありません。そうである以上、ネゲヴが聖杖教の土地であることは三〇〇年前から変わることのない教皇庁の正式な立場であると言えるのです」

 ピエールの説明を受けてもアンリ・ボケの戸惑いは深まるばかりである。そんなアンリ・ボケに構わずピエールは説明を続ける。

「神から与えられた私達の大地が今、異教徒や悪魔の民に奪われ、穢されています。さらには契約者モーゼの聖地ケムトもまた異教徒の支配下にあります。聖杖教徒であるならばこの事態を許せるはずがないのです」

 そしてピエールはアンリ・ボケに対して決定的な一言を放った。

「エレブ全ての軍勢を聖杖の旗の下に率い、ネゲヴを征服します。貧しき民にはネゲヴの農地を、騎士や諸侯にはネゲヴの領地を分け与えるのです」

 アンリ・ボケは呆然とした。短くない時間を経て、ようやく再起動を果たす。

「……そんなことをして、なおさら戦争がひどくなりはしませんか?」

「まず間違いなくひどくなるでしょうね。ですので、そう主張するだけで実際には征服などやりはません」

 と軽く笑うピエール。アンリ・ボケは安堵のため息をついた。

「……充分な時間さえあれば一人一人を説得していき全ての人間を教化し、戦争のない世界を実現するのも不可能ではないでしょう。ですが、それが成されるまで一体何百年の時間を必要とすることか。私は今まさに起こっている悲劇を、今この瞬間に流れる血を、涙を止めたいのです。そのためなら手段の是非を問うてはいられない。問うべきではない……私はあの夜、それを理解しました」

 ピエールは拳を握りしめ、虚空を見つめた。そんなピエールをアンリ・ボケが見つめている。

「私は私の生きている間に戦争の起こらない、戦争の起こりにくい状況だけでも作っておきたい。そのために必要なのは、王権の強化です」

「王権?」

 アンリ・ボケの疑問にピエールが頷く。

「はい。国王と言えば一国の中で一番偉い人のように思えますが、実際のところはそうでもありません。国王は諸侯の中で特に有力な一人に過ぎず、国王は有力諸侯の協力がなければ戦争一つ満足にできません。例えば国王が『国内で戦争をするな』と命令としたとしても、諸侯の誰もそれを守りはしないでしょう。その命令を破ったところで、その領主を処罰するだけの力が国王にはないからです」

「つまり、王様に充分な力があればライニンヘン伯のような奴を抑えることができる……?」

 アンリ・ボケの理解にピエールの顔が輝いた。

「はい! まさしくその通りです。そのために、国王に充分な力を付けるためには国王に戦力を集中させる必要がある。そのためのネゲヴ征服、そのための聖地奪還です。『ネゲヴ征服のために軍を再編する』と称し、諸侯から軍権を奪っていく。逆らう諸侯は異端として討伐していけばいいのです」

 アンリ・ボケは呆然としたように「はあ」と頷いた。ピエールは優しい瞳で遠くを見つめる。

「私の主張が賛同者を集めて教会の主流になるまで十年か二十年、各国の国王にも協力を得て軍権を一本化するまで二十年か三十年……ネゲヴ征服の体制が整う頃には私は天に召されていることでしょう。そうなったら適当な口実を付けて遠征を中止すればいい。それでエレブの平和は実現できます」

 未だ十歳にもならない子供のアンリ・ボケにはそんな先のことは想像すらできない。今のアンリ・ボケに判るのはごく目先のことだけである。

「僕は聖堂騎士団に属して立派な騎士になればいいのですね?」

「その通りです。私には戦争を理解し、武力を有する協力者が必要です。それがあなたであるのならこれ以上の適任者はありません」

 ピエールの言葉にアンリ・ボケは「判りました」と頷く。アンリ・ボケは次の日には進学校を退学して聖堂騎士団に転籍する。こうしてアンリ・ボケは小さな騎士としての第一歩を踏み出したのである。







 それから数年はピエールもアンリ・ボケも足場を固めて力を蓄えることに専念した。ピエールは教皇庁で、エレブ諸国でネゲヴ征服を精力的に説いて回っている。教皇庁でネゲヴ征服構想を呈示した当初は嘲笑を浴びるだけだったが、数年を経て徐々に賛同者を増やしていた。特にフランク王国の王室周辺にはピエールの主張に興味を示している者が多い。ピエールの主張が王権の強化に利用できると気付いているのだろう。
 一方のアンリ・ボケは聖堂騎士団で騎士として頭角を現していた。アンリ・ボケはようやく一二歳になったばかりだが体格はすでに大人のそれであり、年齢を一七歳と偽っている。体格だけでなく体力と腕力にも恵まれ、アンリ・ボケの剣の一撃に耐えられる騎士は聖堂騎士団の中にはいないくらいだった。――もっとも、聖堂騎士団の騎士と言えば見かけ倒しの役立たずばかりと世間でも評判なのだが。
 聖堂騎士団の役目は教皇庁とテ=デウムの警備であり、一般の諸侯の騎士のように戦場に出る機会はほとんどない。アンリ・ボケにはそれが歯がゆくてたまらなかった。

「戦う機会が必要だ。私自身の出世のためにも、聖堂騎士団を精強にするためにも。戦場に出たことのない騎士など張り子にも劣る」

 ピエールに相談しつつ出動する理由を探していたアンリ・ボケだが、ようやくその機会が巡ってきた。アンリ・ボケはあるときテ=デウムを訪れた巡礼者の一団と出会ったのだ。

「お前達、その姿はどうしたのだ」

 アンリ・ボケは驚いて問う。その一団の多くの者が血に汚れ、傷を負っていたからだ。

「はい、道中に山賊に襲われ……村を出てここまで何とかたどり着いたのは半分だけでした」

「何と痛ましい……」

 アンリ・ボケの身体が打ち震えた。
 それから半月ばかりを経て。その巡礼者の一団がディウティスクの村に帰る日がやってきた。テ=デウムの城門の前で一団を待っていたのは、アンリ・ボケ率いる十名の騎士だった。アンリ・ボケは剣の代わりに鉄槌を携えているし、騎士の一団が掲げる旗には交差する二本の鉄槌が描かれている。

「騎士様、これは一体……」

「我々があなた達を故郷まで送ろう」

 巡礼者達は戸惑うしかない。

「で、ですが、私どもには到底騎士様の護衛をお雇いできるような蓄えは……」

「案ずるでない。今回の出動費用は神父ピエールが受けている寄進の中から出されている。お前達はただ神父ピエールに感謝を捧げればいいのだ」

 巡礼者達は這いつくばって礼を言うばかりである。

「おお、有り難いことです……」

「これで生きて故郷に帰れる……」

 ……こうして巡礼者の護衛という格好の口実を得たアンリ・ボケはくり返し自分の騎士隊を出動させた。ときには山賊や傭兵団と戦い、小さくない被害も負った。だが負けたことは一度もないし、アンリ・ボケ自身も必ず生き残っていた。

「何、騎士の補充などいくらでもできる。私に付いてこれない軟弱な騎士など不要だ」

 聖堂騎士団の騎士には貴族や大商人のどら息子等も多く属していたが、アンリ・ボケは自分の部隊からはそんな劣悪な騎士を排除。代わりに貧乏騎士の四男五男や出自の定かではない平民を登用した。貪欲に手柄を欲するそれらの騎士を過酷な実戦に投入し、さらに鍛え上げる。二年ほどで、アンリ・ボケは小さいながらも最精鋭の騎士隊を創り出すことに成功していた。鉄槌の旗を掲げるその部隊は鉄槌騎士隊の通称で知られるようになり、やがてアンリ・ボケ達もその名を自称するようになった。
 今日も今日とてアンリ・ボケは鉄槌騎士隊を率いて巡礼団を護衛中である。護衛対象の中には巡礼団だけでなく一般の旅人や商人の一団も混じっている。

「騎士様、いつもありがとうこざいます。これは神父ピエールへのほんの心ばかりの感謝の気持ちでございます」

 商人の差し出す袋をアンリ・ボケは恭しく受け取った。

「うむ。お前達の志は必ず神父ピエールまで届けよう」

 アンリ・ボケの活動が継続的になり広範囲になるにつれ、資金面でも継続的な収入を得るようになっていた。さらには、



「城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
栄光に輝く王とは誰か。
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主――」



 夜の野営地に朗々とした声が響き渡っている。聖典を読み上げているのはアンリ・ボケであり、巡礼者だけでなく旅人や商人、騎士までがその声に聞き入っていた。巡礼者の中には有り難さがあまって涙ぐんでいる者もいる。
 元々は誰かに聞かせるつもりだったわけでもなく、出来の悪い生徒だったアンリ・ボケが何とか暗記をしようと聖典を読誦していただけであり、長年の習慣を未だに続けているだけである。だが、周囲にはそんなことは判らない。

「騎士隊を率いる立派な聖職者が下々にも祝福を授けてくださっている」

 そう受け止められているのである。アンリ・ボケの人並み外れた巨体と、そこから発せられる大音声がその評判に拍車をかけていた。
 そして一旦戦闘となれば、アンリ・ボケは誰よりも先に前に出て誰よりも勇猛に戦った。

「ぬぅおおおっっーー!」

 傭兵崩れの山賊の一団へと、アンリ・ボケは真っ先に突撃する。他の騎士が遅れないよう後に続いた。
 必死の形相で走ってくるアンリ・ボケの有様は、その鈍重そうな見かけからまるで牛が二本足で立って走っているような、間抜けな印象を与えただろう。実際山賊の中には笑っている者もいる。だが十も数えないうちにその嘲笑は凍り付くのだ。

「神の裁きを受けよーっっ!」

 アンリ・ボケの振り回す巨大な鉄槌が山賊の一人の頭部に命中。その山賊は首から上を西瓜のように粉々に砕かれ、血と脳漿を撒き散らした。
 慌てて剣を振りかざす山賊だが、アンリ・ボケの鉄槌がその剣へと振り下ろされる。鉄槌は剣をへし折りつつ山賊の胸部に当たり、その山賊は胸を大きく凹ませて大地に倒れた。血と涙と小便と、あらゆる液体を垂れ流しつつ、見るも無惨な姿になってもまだ生きている。
 アンリ・ボケの得物は巨大な鉄槌だ。常人なら両手で持つのが精一杯のその鉄槌を、アンリ・ボケは二本の手にそれぞれ一本ずつ持ち、縦横に振り回している。鉄槌が振り回される度に血の花が咲き、死体が製造された。山賊は我先に逃げ出していくが、それを騎士隊の面々が追撃した。
 アンリ・ボケの名は山賊にとっては死神に等しいものとなり、その裏返しとして旅人や行商人にとっては神の使いとなっている。アンリ・ボケの鉄槌の欠片が旅のお守りとして珍重され、アンリ・ボケの髪の一房は病魔を打ち払う魔除けとなった。

「旅人の守護者」

 いつしかアンリ・ボケはそう呼ばれるようになっていた。アンリ・ボケは自分自身の力で聖人に準ずる存在という世評を得るようになったのである。







 アンリ・ボケが巡礼者の護衛任務から久々にテ=デウムに、ピエールの元に戻ってくると、そこには見慣れない人物の姿があった。

「女人禁制の教皇庁に何故女性がいるのだ?」

 最初はそう訝ってしまった。年齢は見たところ十代の前半。身長は低く華奢で、顔立ちはまるで女の子のようだ。それもすこぶる付きの美少女である。髪は金鎖のように輝き、肌は大理石のように白く、まるで絵画に描かれる天使のような姿をした少年であった。

「紹介しますよ。この子が今度私の秘書をしてくれることになったんです。名前はニコラ・レミ」

「ニコラ・レミだ。君とは同い年だと聞いている。よろしく頼むよ」

 ピエールの紹介を受けてニコラ・レミは如才なく笑みを示し、アンリ・ボケに手を差し出す。アンリ・ボケは硬い表情のままその手を力任せに握りしめた。ニコラ・レミは何とかその痛みに耐えて微笑み続けている。
 「アンリ・ボケ(の公式年齢)と同い年」ということは今年一九歳ということになる。とてもそんな風には見えない、幼い容貌をしていた。「アンリ・ボケ(の実年齢の一四歳)と同い年」と勘違いしそうになったくらいである。
 その日以降、ピエールとニコラ・レミが仲睦まじく仕事をしている姿をアンリ・ボケが物陰から見つめる――という状況がしばしば見受けられた。

「あの子は人見知りをしているだけですから、気を悪くしないでください」

「ええ、もちろん。同い年の同僚なんですから仲良くできればと思っています」

 と笑い合うピエールとニコラ・レミ。アンリ・ボケは柱の陰からその様子を見つめている。握りしめた石柱の角が砕けそうになっていた。
 ニコラ・レミはアンリ・ボケに話しかけるなどして、仲良くすべく努力はしているのだ。それを一方的に無視しているのはアンリ・ボケの方だった。しばらくはそんな状態が続いていたのだが、ある日。

「ニコラ・レミ」

 場所はピエールが預かる教会の一角。一人回廊を歩くニコラ・レミの名を何者かが呼ぶ。振り返るとそこに立っているのはアンリ・ボケで――彼は鉄槌を振りかぶっている。

「な――」

 振り下ろされる鉄槌を間五髪くらいで避けるニコラ・レミ。鉄槌は石の壁を砕き、飛び散った破片がニコラ・レミの頬をかすめ、わずかに血が流れた。

「な、な、何を一体」

 うろたえるニコラ・レミに対し、アンリ・ボケは悠然と微笑んでいる。それは獲物を目の前にした肉食獣の笑みだった。

「身に覚えがないとでも?」

 アンリ・ボケの問いにニコラ・レミは壊れた人形のように首を縦に振り続ける。アンリ・ボケは再度鉄槌を振りかぶり、ニコラ・レミは腕で頭をかばいながら叫んだ。

「ぼくが枢機卿ピエルレオニと関わりがあることを言っているのか?!」

「何だ、判っているではないか」

 枢機卿ピエルレオニはピエールの政敵、その筆頭と言うべき人物である。教皇庁の主流派を束ね、次期教皇の最有力候補と目されている。が、女好きで金に目がなく、腐敗聖職者の代表格として悪名も高かった。

「そのことなら司教ピエールはご存じだ! 最初に僕から説明した!」

 アンリ・ボケはわずかに眉をひそめた。だがその鉄槌は振り上げられたままで、いつでもニコラ・レミの頭へと振り下ろせる姿勢のまま微動だにしていない。

「確かに僕は枢機卿ピエルレオニの甥の一人だ。だが母親の身分が低く、甥として公認されていない」

 この場合「甥」とは「息子」を意味する教皇庁内の隠語である。

「司教ピエールの内側に入り込み、情報を探り、工作をして失脚させる。そのために伯父上は僕をここへと送り込んだ。それは一番最初に司教ピエールに説明している」

 アンリ・ボケはようやく鉄槌を地面へと下ろす。ニコラ・レミは大きく安堵のため息をついた。

「貴様は自分の伯父を裏切るのか?」

「一度しか会ったことがなく、僕にこんな汚れ仕事をやらせて捨て駒にしようとする。そんな奴にどうして忠誠を誓わなきゃいけない? 僕が僕のことを考えて行動して、何が悪い?」

 ニコラ・レミは怒りの炎を瞳に燃やし、まるでピエルレオニと対峙するかのようにアンリ・ボケを睨んだ。一方のアンリ・ボケは氷のように冷たくニコラ・レミを見据えている。

「――そのくらいにしてあげてください」

 不意に声が発せられ、二人がその方へと目を向ける。そこには静かに佇むピエールの姿があった。ピエールはため息をつき、

「アンリ。心配してくれたことは判りますが、乱暴な真似は感心しませんね」

 アンリ・ボケは恥じ入り、身を縮める。その豹変ぶりにニコラ・レミは目を丸くした。

「私を枢機卿に、そして教皇にするために力を尽くす――彼はそう約束してくれています。彼は私達の同志です」

「何が目的だ? 伯父に対する当てつけか?」

 アンリ・ボケの問いにニコラ・レミは不遜な笑みを見せた。

「司教ピエールが教皇になれば僕は枢機卿だ。――王宮に入っていたなら僕は将軍にだって宰相にだってなれたんだ! せめて枢機卿くらいにならなきゃ割に合わない」

 成人前の子供のような外見で大言壮語をする姿は普通なら滑稽に見えただろう。だがニコラ・レミはあくまで真剣である。それは自己の能力に対する絶対的な確信、圧倒的な過信だった。

「そ、そうか」

 アンリ・ボケは狂気じみたその姿に威圧されてしまい、引き下がる。こうしてニコラ・レミはアンリ・ボケの信用を得、ピエールの腹心として行動するようになった。だがあくまで「信用」であって「信頼」ではない。

「確かにあいつは神父様を裏切りはしないでしょう。でも」

 ピエールが司教に出世しようと、アンリ・ボケにとって彼はいつまでも最初に出会ったときのままの「神父様」だった。

「はい、彼は私の理想を共有しているわけではありません。彼にとっては理想も手段の一つに過ぎないのです」

 ニコラ・レミにとっての目的は立身出世、自己の能力を世に示し、歴史に残すこと。ピエルレオニのように財貨や贅沢を目的としているわけではないが、聖杖教の理想が手段に過ぎない点では同類の存在だった。

「ですが、彼は口先だけではありません。その高言に見合うだけの能力も持っているのです。彼の力は私にとって不可欠となっています」

 アンリ・ボケは「そうですか」と肩を落とす。そんなアンリ・ボケにピエールが笑いかけた。

「もちろんあなたの力も私にとっては欠かせないものですよ、アンリ。それに何より、私達は理想を共有している。違いますか?」

「いえ、その通りです神父様」

 アンリ・ボケは掌を返したように明るさを取り戻した。

「私が教皇になったならあなただって枢機卿ですよ。私には理想を等しくする後継者が必要なのですから」

「……そのお言葉だけで充分です」

 聖堂騎士団に所属するアンリ・ボケが教皇に選ばれることはどう考えてもあり得ないだろう。枢機卿になることだって現状では夢のような話なのだから。だがアンリ・ボケにとってはそれも些細な話である。

「肝心なのは神父様の理想を実現すること、それに貢献することだ。私の地位や立場や役職など、それこそそのための手段に過ぎない」

 現実にはピエールの力になるにはより高い役職が、より強い権限が必要だ。だからアンリ・ボケも人並みに猟官運動に勤しむのである。

「鼻薬を効かせておきました。次の叙勲では昇進できるでしょう」

 ニコラ・レミが来てからは以前に比べて昇進が非常にスムーズになっている。確かにニコラ・レミはその能力をピエールのために存分に使っており、ピエールの勢力拡大に大いに貢献しているようだった。
 だがだからと言って、彼の存在が気に食わないことには変わりはしない。アンリ・ボケが泥と血にまみれて各地で転戦している間、ニコラ・レミはピエールと共に仕事をし、ピエールの寵愛を一身に受けているのだから。

「……あの、彼は一体」

「焼きもちを焼いているだけです。気にしないでください」

 ピエールはそう言って笑うが、ニコラ・レミには到底笑えない。冷や汗が流れるばかりである。ニコラ・レミの目の端には、物陰に隠れて自分達を見つめながらハンカチを噛み締めるアンリ・ボケの姿が写っていた。






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