「黄金の帝国・幕間2 ~とある枢機卿の回想・後」
アンリ・ボケはようやく実年齢が二〇歳を越えたところである。だがその事実を知る者はピエール以外には一人もいないし、それを事実だと信じる者もピエールただ一人だろう。公式年齢の「二五歳」を教えられて驚かない者はいないし、一般の多くの者は三〇代だと思っている。
見上げるような巨体と老成した容貌。それに加えてくぐり抜けてきた戦場と修羅場の数々、それによって培われた経験と自信、さらに「旅人の守護者」という名声。それらが自然と相対する者を圧倒させ、アンリ・ボケの年齢計測を大幅に上方修正させているのだ。
旅人とともに移動し続けるのがアンリ・ボケの日常である。多くはフランク王国国内。まれにディウティスクやレモリア、イベルスへも足を伸ばすことがある。そして野営のたびに旅人が、近隣からやってきた民衆がアンリ・ボケを取り囲むのだ。
長い順番を待ち、乳児を抱いた若い母親がアンリ・ボケの前へと進み出る。
「今年生まれた子なのですが、どうにも病気がちで……どうか騎士様のご加護を」
アンリ・ボケは「うむ、よかろう」と鷹揚に頷き、愛用の鉄槌を両手に持った。T字に組まれた鋼鉄の柱に絡みつく蛇の姿――鉄槌と言うよりはどう見ても聖杖教の象徴たる聖杖だ。柱木部分の長さは一メートル以上。振り回しやすいよう柄が付けられており、全体の長さは一・三メートルを越えていた。儀式用に作られた鉄槌だが、実戦でも使わないわけではない。
アンリ・ボケがその親子から一歩離れ、手に聖杖を構え、振りかぶった。そして、
「悪しき病魔よ、退くがいい!」
その赤ん坊の頭へと聖杖が振り下ろされた。聖杖が赤ん坊の頭部を砕くかと思われたが、その寸前で聖杖が止まる。聖杖は赤ん坊の手前数センチの空気を叩き、下げられていった。
「ひとまず病魔は打ち祓った。お前達親子に神のご加護があらんことを」
と厳かに告げるアンリ・ボケ。若い母親は「ありがとうございます!」と最大限の感謝を捧げ、後ろへと下がっていく。次にアンリ・ボケの前に進み出てきたのはくたびれた中年男だ。その中年男はアンリ・ボケに懺悔をする。
「……あっしはどうにも酒を飲むのが止められなくて……それで仕事も続かず、女房にも逃げられちまいました。あっしの中に悪魔がいるのならそれを是非騎士様に祓っていただきたく」
「思い違いをするでない。悪魔は確かに常に我々を誘惑しているが、それに乗るか否かは自分自身の意志が決めることなのだ」
アンリ・ボケはその中年男を冷たく見据える。中年男は身震いをした。
「いくら私が悪魔を祓おうとしても、お前自身に悪魔に打ち勝つ意志がないならば、我が鉄槌はお前ごと悪魔を打ち砕くこととなるだろう。覚悟はいいか?」
アンリ・ボケは殊更に大きく鉄槌を振りかぶった。中年男は怖じけつつ慌てつつ、
「い、いえ、あの、お邪魔しました」
と逃げ出していく。アンリ・ボケは「ふん」と鼻を鳴らして鉄槌を下ろした。
アンリ・ボケの鉄槌に「邪悪を打ち祓う聖なる力がある」と言われるようになったのはいつの頃からだろうか。旅人の中から出た病気の子供に対し、気休めで「病魔を打ち祓う」と称して鉄槌で殴る素振りをしたのが最初だったのだ。それが病人が出るたびの恒例となり、やがては通過する村落でも病魔を打ち祓うよう求められるようになった。さらには拡大解釈され、「邪悪な性向・性格をも打ち祓える」と見なされるようになり、アンリ・ボケに懺悔をする者がやってくるに至っている。
もちろんアンリ・ボケの鉄槌があらゆる病人を救ってきたわけでは決してない。大半の病人は鉄槌の効果も空しく息を引き取っていった。鉄槌に頭を砕かれて絶命した病人もごくわずかだがいないわけではない。だが、病魔を克服した病人も二、三割だが存在した。どこかの異世界人がこの事実を知ったなら、
「それは単なるプラシーボ効果だ」
とか、
「二重盲検査をしなければ本当に効果があるのかどうか確認できない」
とか言うだろうが、そんなことを言い出す人間はこの時代にはいない。
「騎士アンリ・ボケの鉄槌には病魔を始めとする邪悪なるものを打ち祓う聖なる力がある」
それを事実とするだけの実績を、アンリ・ボケの鉄槌は文字通りに叩き出しているのだ。
この日、アンリ・ボケの前に集まった民衆は五〇人を越えていただろう。アンリ・ボケはほぼその人数分の回数、鉄槌を振り下ろした。巨大な鋼鉄の固まりを何十回も振り回せば、いくらアンリ・ボケであろうと疲労し、消耗する。最後の方になると手元が狂わないよう細心の注意を払う必要があるくらいだ。
そしてようやく最後の一人がアンリ・ボケの前に進み出た。アンリ・ボケが怪訝そうに眉を動かす。その男の年齢はおそらく四〇代の手前。身にしているのは粗末な皮鎧だが、その態度は太々しい。身長は高くないが胸板が厚く腕も太く、戦士として高い実力を持っているように見受けられた。
「見たところ傭兵のようだが」
「ええ。傭兵のジャックと言えばこの辺じゃそれなりに知られた名前ですぜ」
「ほう」と感心してみせるアンリ・ボケ。
「その有名な傭兵が私にどんな用件が? 見たところ病魔に憑かれている様子はなさそうだ」
「ええ、その通りです。騎士様にはあたしの悪しき性根を打ち据えていただきたいと思いましてね」
「ふむ」とアンリ・ボケは頷き、
「聞かせてもらおう」
と続きを促した。ジャックは頷いて説明を開始する。
「あたしは二〇年以上傭兵一筋でやってきました。領主様のため、村のために戦ったともありましたが、悪いことも散々やってきました。盗み、殺し、強姦、やっていない悪事の方がないくらいです。
どこかの戦場で戦って死ぬんだろうと思ってましたが、何の因果かこの歳まで生き残ってしまった。そうなると神様が怖くなったんです。散々殺してきたんだから殺されるのは覚悟しているし別に構わないんだが、地獄に堕とされるのはちと勘弁してほしい。そこで、騎士様のお手を煩わせに来たわけです」
「どういうことだ」
確認するようなアンリ・ボケの問いにジャックは笑いながら答えた。
「騎士様の鉄槌であたしの悪しき魂を祓っていただければ、地獄に堕ちずにすむんじゃないかと思いまして。どうかその鉄槌で思いっきりやってまってください」
ジャックは全てを受け入れるように両手を広げた。アンリ・ボケは考え込むように沈黙する。周囲もまた沈黙し、息を呑んで事態を見守る中、アンリ・ボケは短くない時間沈黙し続けた。
「――良かろう。お前に我が鉄槌を下す」
やがてアンリ・ボケが結論を出し、鉄槌を構えた。ジャックは「はい」と目を瞑る。アンリ・ボケは鉄槌を大きく振りかぶり、
「ふんっっ!」
全力で振り下ろした。ジャックが反射的に肩をすくめる。鉄槌が空気を裂き、ジャックの頭部に命中――
「……あの、騎士様?」
ジャックの額が切れ、一筋の血を流した。だがそれだけだ。ジャックの頭部は未だ原形を留めている。アンリ・ボケは鉄槌を地面に下ろした。
「――お前の罪がこの程度で償われると思っているのか?」
アンリ・ボケがジャックを冷たく見据える。鉄槌を振り下ろされても平然としていたジャックが思わず身震いをした。
「神のご慈悲を覚えておくがいい。お前には罪を償う機会が与えられたのだ。お前のような奴にも神のために、弱き者のためにできることがある。これからはそれを成し、お前はお前の罪を償え」
「ははーーっ!」
ジャックは地面に這いつくばり、平伏した。
「ならば、この私を騎士様の旅にお供させてください! 騎士様の手助けをすることで民の手助けとし、それをもって私の罪の償いとしたいのです!」
「好きにするがいい」
そう言い残し、アンリ・ボケは背を向けて立ち去っていく。その背中に向けて、ジャックはずっと平伏し続けていた。
こうしてアンリ・ボケの配下に傭兵のジャックが加わることとなる。そのしばらく後、ジャックはテ=デウムで一人の男と会談を持っていた。
「……いや、あの鉄槌を振り下ろされたときはだまされたかとお恨みしてしまいしましたよ」
「とてもそうは思えないでしょうが、騎士アンリ・ボケはあれでなかなか演技が上手いんですよ」
ジャックと話をしているのは、すでに二〇代半ばだが未だ十代の少年のように若々しい、というよりは幼い容貌の男――ニコラ・レミその人だった。
「まあ、そうでもなければあの若さであれだけの名声を得られはしないでしょうな」
「今回の出来事が広まれば騎士アンリ・ボケの名声はますます高まることでしょう」
今回のジャックの懺悔と回心はちょっとしたお芝居だったのだが、その脚本を書いたのがニコラ・レミなのである。
「いくら実績があろうと名声を高めようと、アンリ・ボケが聖堂騎士団を掌握するのはかなりの困難だ。できなくはないだろうが、最低でも十年がかりの仕事となる。そんな時間と手間をかけるよりは、自由になる戦力を外部に持った方がずっといい」
アンリ・ボケの実績と名声は聖堂騎士団の中では随一だが、それだけに反発する人間も少なくない。最下級貴族という出自、年齢、ピエールという後ろ盾の政治力――アンリ・ボケが聖堂騎士団全てを掌握するにはまだまだ足りないものが多い。そう判断したニコラ・レミが芝居の脚本を書いたのだ。
ジャックは木槌を旗印とした傭兵団を結成、その任務は鉄槌騎士隊の補助である。戦時には歩兵・弓兵として騎士隊の騎士とともに戦い、平時には補給・情報収集その他諸々の仕事を請け負う。木槌傭兵団にはジャックの元々の部下の他、路頭に迷っている傭兵などが所属。その陣容を急速に拡大させた。数年を経て、アンリ・ボケは中規模の諸侯にも負けないくらいの戦力を保有するようになったのである。
一方のピエールである。ピエールと彼のネゲヴ征服構想はフランク王国・ディウティスク王国の王室に強い支持を受けている。ピエールはフランク王室と懇意となり、その支援を受けて教皇庁内でもその勢力を拡大させ、枢機卿にまで出世していた。
「ネゲヴ征服を実現し、ネゲヴを我々の手に取り戻すことこそ神の意志である」
「邪神を崇拝するネゲヴの蒙昧な民に聖杖の教えを広めるのだ」
多神教を滅ぼしたい、聖杖の教えを広めたい、より広く豊かな教区の責任者となりたい――ネゲヴ征服に賛同する聖職者の中では独善・野心・物欲が渾然一体となっている。
「ネゲヴ征服のために、諸侯は国王に軍権を返上すべきである。諸侯は国王の部下なのだと、身の程をわきまえるべきなのだ」
フランク国王アンリはネゲヴ征服構想を王権強化に利用しようとし、その態度を隠しもしていない。ピエール自身が国王アンリに何度も面会し、自身の思いを説明しているのだからそれも当然だが。
「豊かなネゲヴの農地をエレブの農民に分け与えるのだ。領地を持たない騎士も領地を持てるようになる」
貧しい騎士や農民もネゲヴ征服の実現に期待を寄せるようになっていた。
ネゲヴ征服構想はエレブの広い層に熱い支持を受けるようになっている。一方これに反対しているのは、まず王権の強化で割を食う諸侯。そして、
「もしあの男が教皇となったら、我々はどうなるのだ。少なくとも冷や飯を食う羽目になるのは間違いない」
「寄進を集めるのがどんどん難しくなっている。それもこれも清廉を気取るあの男のせいだ」
「冗談じゃない、俺が枢機卿になるまでどれだけ金を使ったと思っているのだ。教皇になって元を取らねばならぬのに」
他称は「腐敗した聖職者の集まり」であり、自称は「教皇庁主流派」。それが枢機卿ピエールにとっての最大の政敵だった。問題は彼等の自称が概ね事実であることだ。ピエールの支持者は教皇庁の外に多く、中に少ない。
「あの男だけは教皇にするな」
それが枢機卿ピエルレオニを筆頭とする主流派の合い言葉だった。主流派は諸侯と同盟を結び、手段を尽くしてネゲヴ征服構想に反対をしている。
「悩ましいですね」
ピエールは憂鬱そうにため息をついた。
「……の司教が食中りで死んだと」
「……の領主が異端として聖堂騎士団の討伐を受けたと」
「……の異教徒の村をアンリ・ボケが焼き払ったと」
そんな話がピエールの耳にも聞こえてくる。それを聞いたニコラ・レミはその美しい容貌で悪魔のように妖しく嗤っていた。アンリ・ボケは戦場から戻ってくるたびに血臭を漂わせ、その鉄槌は血と肉片で黒く汚れていた。
ピエールは確かにそれを見ている。その事実を耳にしている。
「お帰りなさい、アンリ。今回も無事に戻ってきてくれて嬉しいです」
だがピエールはアンリ・ボケのその姿から目を逸らし、その報告から耳を塞いだ。自分の政敵が時に失脚し、時に何の理由もなく引退し、時に血を吐き死んでいっても、そしてそのたびにニコラ・レミが妖しく嗤っていても、
「いつもありがとうございます、ニコラ。決して無理はしないでくださいね」
ピエールはその嗤いを見なかったことにし、その事実を聞かなかったことにした。
腐敗しきった教皇庁の中で出世し、地位を得るのに、どんな形であれ手を汚さずにすむはずがない。賄賂を送り、陰謀を仕掛けて政敵を失脚させ、時に脅迫、時に謀殺を駆使する。手を汚すのはニコラ・レミ、そしてアンリ・ボケの役目であり、ピエールはその成果を存分に享受していた。
彼等二人がいなければ、二人が手を汚すことがなければ自分が枢機卿になることもなく、今の地位や勢力を維持することもできない。自分の理想を実現することもできない。それはピエールにも判っている。だからピエールも二人の行為を黙認するしかない。それが自分の理想からどんなにかけ離れた行為であっても、自分の理想を貶める行為であっても、見なかった振りをするしかないのだ。
「こんなところで立ち止まってはいられない。私が踏みにじってきたもののためにも私はエレブに平和をもたらさなければならないのです」
良心の呵責を、理想と現実の板挟みを「見なかった振り」で何とかごまかし、やり過ごし。ピエールはこれまで通りに表でエレブの平和を、教皇庁の浄化を説いて回る一方、その裏でニコラ・レミが政敵の陰謀を防いだり陰謀を仕掛けたりしている。ピエールとその反対派の間で勢力が拮抗し、事態が停滞する中、
「――教皇が死んだ?」
それを契機に事態は堰を切られた激流のように急変する。
「だが聖下はまだ五〇を越えたばかりではなかったか」
「はい、たちの悪い風邪にやられたそうです。謀殺の可能性は低いかと」
ニコラ・レミは政敵の動きを見張るために教皇庁内に諜報網を張り巡らせている。その網に引っかかったこの重大情報は最優先でアンリ・ボケへと届けられていた。
ニコラ・レミの部下の報告にアンリ・ボケは「そうか」と考え込む。そして内心で舌打ちを連発させた。
「早い、早すぎる。あと十年……いや、あと五年も時間があるなら確実に神父様が教皇になれるのに。まだ準備が整わないうちにこんなことになるとは、とんだ計算違いだ」
教皇位は選挙によって選出されるが、投票権があるのは枢機卿を始めとする教皇庁の幹部達だ。現時点ではピエールが教皇になれるだけの票を獲得できる見込みがほとんどない。
「……ともかく、こうしてはいられない。私はテ=デウムに戻る」
アンリ・ボケは旅人の護衛をジャックの傭兵団に任せ、鉄槌騎士隊を率いてテ=デウムへと急行した。
三日間、昼夜を問わずに馬を走らせた。アンリ・ボケ一人のために五頭の馬が用意され、馬が疲れたなら乗り換えることをくり返していたのだが、それでも五頭とも乗り潰してしまった。
「テ=デウムまではあと一日の旅程だ、走ってでも行く」
そう思っているところに教皇庁からの迎えがやってきた。アンリ・ボケの同僚の、聖堂騎士団の騎士である。
「騎士アンリ・ボケ、同行をお願いしたい」
騎士とその配下の兵がアンリ・ボケを包囲した。アンリ・ボケは詰まらなさそうにそれを見渡す。実力や実績や名声を比較すればアンリ・ボケにとっては木っ端に等しい相手だが、それでもその騎士はアンリ・ボケの同輩であって部下ではない。
「……それは誰の命令だ?」
「枢機卿ピエルレオニよりのご指示です」
ピエルレオニは次期教皇の座に最も近くなっている人物だ。アンリ・ボケは「ふん」と鼻を鳴らした。
「言われずとも行くわ。私の分の馬はどこだ」
アンリ・ボケはその騎士を部下のように引き連れ、教皇庁への道を急いだ。
テ・デウムの中心地、教皇庁の中心地、教皇の権威と権力の象徴――それが聖バルテルミ大聖堂だ。アンリ・ボケがその場所にやってきたのはその日の夕刻である。
大聖堂に入ろうとするアンリ・ボケを衛兵が咎めた。
「お待ちください。聖堂内は何人であろうと武器の携行を」
「判っている」
とアンリ・ボケは携えている二本の鉄槌を衛兵に押し付けた。衛兵は鉄槌の重さに尻餅をつきそうになっている。
「お待ちください、その背中の武器も――」
「これは聖具だ、我が信仰の証だ!」
アンリ・ボケは巨大な聖杖型の鉄槌を背負ったまま聖堂の中へと突き進んでいった。
大股で、早足で、突撃するように歩いていくアンリ・ボケ。それを監視しようと付き沿う衛兵はほとんど駆け足になっている。聖堂の中を真っ直ぐに突き進み、立ち塞がる扉を突き破るように押し開ける。扉の内側の大広間では枢機卿を始めとする教皇庁の幹部が集まっていた。扉が打ち破られたかのような轟音に、彼等が一斉に振り返る。
「――ふん」
そこに集まっている教皇庁幹部は三〇人余、その大半がピエールの反対派だった。好意的中立を保っているのが何人かいるくらいで、純粋な味方は一人もいないと言っていい。枢機卿であるにもかかわらずピエールはこの場にいない。
「……それで、枢機卿ピエールではなくこの私をこの場に呼んだ理由をお聞かせいただけますかな」
「枢機卿ピエールはレモリアに赴いていた。戻ってくるのは早くとも明日になるだろう。その前に君に聞きたいことがあるのだよ」
そう口火を切ったのは枢機卿ピエルレオニ。贅肉で膨れあがった顔と身体をしており、常に笑っているような顔立ちになっている。だがアンリ・ボケは知っている。その福々しい容貌に反し、この男は蛇のように狡猾なのだ。
「聞きたいこととは?」
「君達は枢機卿ピエールを次期教皇にするために各所に対して様々な運動を行っていた。それは間違いないか?」
「教皇の人選など、私ごときが口を差し挟んでいい事柄ではありません。ただ、私の知る限り枢機卿ピエールよりも気高く崇高な魂を持つ方はおられない。多くの方にそれを知っていただきたいと思っておりますし、これまでも折に触れてそれを伝えておりました」
大広間にアンリ・ボケとピエルレオニの声だけが響いていた。他の者は皆息を呑んでその尋問を見守っている。
「その、伝えた中にはフランクの王室の方もおられるのでしょうな」
「はい。お伝えしたこともあったでしょう」
アンリ・ボケは戦場で敵と相対しているような緊張を覚えていた。
(この男は私から神父様の落ち度を見つけ出し、それを持って教皇になることを断念させようとしているのだろう)
そうはさせるか、とアンリ・ボケは気合いを入れ直した。ピエルレオニによる尋問が続く。
「フランク国王と枢機卿ピエールは懇意にしていると聞く。フランク国王は彼を教皇にするために支援を惜しまない、と言っているそうだ」
「枢機卿ピエールを直接知っておられるのなら、そうお思いになるのも当然かと」
「……だが、そのために銀貨を送るとなると話は違ってこよう?」
思わずアンリ・ボケが眉をひそめた。それを嘲笑するように、ピエルレオニが司祭の一人に視線で合図を送る。その司祭は立ち上がり、一同へと告げた。
「……私はフランク国王の使いから依頼をされました。次の教皇には枢機卿ピエールを支持するようにと。その代価として銀貨三〇枚を受け取りました。これがその銀貨です」
その司祭は布袋を逆さにしてテーブルの上に銀貨をぶちまけた。
「見よ! このような収賄を行う者が教皇になる資格を持ち得るのか!」
「貴様がそれを言うのか……!」
アンリ・ボケは歯ぎしりをする。収賄と言えばピエルレオニ達腐敗聖職者の専売特許みたいなものだ。ピエルレオニがこれまで受け取った賄賂の額は銀貨三〇枚の何百倍になるのか判らないくらいである。
「下賤の者の分際で、口を慎むがいい! 貴様のような血の汚れた者を重用すること一つとってもあの男の里が知れるというものだ!」
ピエルレオニは嗜虐に口を歪めた。アンリ・ボケは必死に怒りを堪えている。
「そもそもあのような口先だけの男を枢機卿にまで登用したことが間違いだったのだ。賄賂は罪悪、とあの男は常々言っていた。ならば自分の言葉の責任を取って枢機卿の地位を返上させるべきだろう」
アンリ・ボケは一同に訴えるために前に進み出た。だが憤怒を堪えて食いしばる歯が言葉を詰まらせた。渦巻く激怒が冷静な計算の邪魔をした。ピエールの潔白を弁護しようとしてもそれが言葉にならない。その間にも足は前へと進んでいる。そのアンリ・ボケに対し、
「衛兵!」
ピエルレオニの命令を受け、駆け寄ってきた衛兵が儀仗で背後からアンリ・ボケを殴打。ひざまずくアンリ・ボケに衛兵はさらに儀仗を打ち据えた。
「弁護のしようがなかったからと、力に訴えようとするなど。これだから下賤の者は……!」
ピエルレオニは計画通りの展開となったことに、愉悦の笑みを浮かべている。元々こんな言いがかりでピエールを排除できるとは考えていないのだ。ピエルレオニの真の狙いはアンリ・ボケだ。尋問で挑発を重ね、わずかでも暴力を振るう気配を見せたなら――そう解釈できる振る舞いをしたなら衛兵に拘束させる。
「牢屋にぶち込んでおけ。あとは拷問をしてでもあの男の罪状を自白させればいい」
ピエルレオニは衛兵に命じた。何度も儀仗に打ち据えられ、血まみれとなったアンリ・ボケを衛兵が拘束した。
アンリ・ボケのその姿をピエルレオニの仲間達が嘲笑を浮かべて眺めている。
「しかし、枢機卿ピエルレオニにしては実にお粗末な田舎芝居だったな」
「やむを得んだろう。我々には時間がなかったのだ」
教皇の死があまりに突然だったのはピエルレオニ達にとっても同じことだった。ピエール達と同じように、ピエルレオニ達にとっても政敵を確実に排除するための準備ができていなかったのだ。
「確かにあまりに稚拙でお粗末な言いがかりだが、今は巧遅よりも拙速だ。我々は急がねばならなかったのだ。この男が決起する前に」
「この男が配下の兵を率いて教皇庁に突入したなら、我々には対抗する手段がない。神をも恐れぬ所行だが、この騎士とは名ばかりの蛮人ならそれくらいのことはやりかねんからな」
ピエルレオニがまずアンリ・ボケの身柄を拘束したのも、アンリ・ボケが言いがかりを付ける相手として与しやすかったからという理由もあるが、それだけではない。何よりもアンリ・ボケを、その配下の兵を怖れたからである。アンリ・ボケがピエールに絶対の忠誠を誓っていること、ピエールのためならどんな汚れ仕事も厭わないことは周知の事実だ。アンリ・ボケを自由にしたままなら武力を持って教皇の座を奪いかねない――それはピエルレオニ一派全員の共通認識だった。
アンリ・ボケは衛兵に拘束され、ピエルレオニの陰謀は九分九厘完成を見ていた。だが、
「がああーーっっ!!」
雄叫びを上げながらアンリ・ボケが跳ねるように立ち上がる。拘束していたはずの衛兵がその勢いだけで吹っ飛ばされた。ピエルレオニ達は唖然とするしかない。
「……おいたわしいことです、枢機卿ピエルレオニ。貴方ほどの方が悪魔に魅入られるとは」
血まみれになりながらも、笑みを浮かべてアンリ・ボケが歩み寄ってくる。ピエルレオニは足をすくませ、縫い止められたようにその場に立ち尽くした。
「そうでもなければこのような茶番で誰かを陥れようとするはずもない。ですが、ご安心めされよ」
アンリ・ボケは背に負っている巨大な聖杖を持ち上げた。黒い鋼鉄の固まりが不気味な光を放っている。
「我が鉄槌は悪しきもののみを粉砕する。我が鉄槌にて貴方に取り憑いた悪魔のみ打ち祓って見せましょう。枢機卿ピエルレオニ」
ピエルレオニは何か言おうとして、舌をもつれさせることしかできなかった。アンリ・ボケは渾身の力を込めて、
「悪霊よ、退くがいい!」
聖杖を横薙ぎに振り回す。聖杖はピエルレオニの顔面を粉砕、血しぶきは大広間全体へと飛び散った。アンリ・ボケはそのままの勢いで聖杖を振り、ピエルレオニの隣の二人をも殴り飛ばした。粉砕までは行かなかったが、一人は頭部が割れて脳漿が見えており、一人は目に見えて頭部が凹んでいる。両者とも致命傷を負ったのは間違いなかった。
血の惨劇にその場の全員が凍り付く中、アンリ・ボケだけが自由に動いていた。アンリ・ボケは若干後ろへと移動して大広間の入口前に立った。聖杖を床に、垂直に立てて身体を支え、門番のように入口前に立ち塞がる。
「――このままここでお待ちいただこう。真に教皇に相応しい方が到着されるのを」
アンリ・ボケは殺気を込めて一同を睥睨する。一同は席に着き、ただ身を縮ませることしかできなかった。
――さて、どうするべきか。
このときのアンリ・ボケには明確な展望があったわけではない。ピエルレオニを撲殺したのも冷徹な計算の上ではなく、九割以上衝動に基づいてである。だが、確固たる方針なら持っていた。
「こうなった以上、このまま力で押し切るまでだ。邪魔する者は粉砕する」
アンリ・ボケは聖杖を握る手に力を込めた。教皇庁の幹部を監禁したまま、アンリ・ボケはひたすら待つ。死体も飛び散った血も全く片付けられないままで、死臭と血臭が漂う中、待つこと一時間余り。
そのとき、いきなり大広間の扉が開かれる。救いの手がやってきたのか、と一同が期待を込めて視線を送る。だが大広間に入ってきたのは鉄槌の紋章を掲げた騎士の群れだった。一同に絶望が広がり、呻き声が上がる。一方のアンリ・ボケは自分が勝利を掴んだことに心底安堵していた。
「ニコラ・レミはよくやってくれた。あの男が決断しなければ私は身の破滅を迎えたところだった」
大広間で異常事態が起こっていることを察したニコラ・レミが鉄槌騎士隊と木槌傭兵団の動かせる全兵力を大聖堂へと投入したのである。教皇庁の主要幹部は今アンリ・ボケが監禁している。大聖堂の制圧は教皇庁の制圧とほぼ同義だった。乏しい情報の中で大聖堂を制圧するという決断はニコラ・レミとって一か八かの大博打だった。だがニコラ・レミはその賭に勝ったのだ。
大広間の中の状況は、本質的にほとんど変更がなかった。ただ彼等幹部を監禁する者がアンリ・ボケ一人から鉄槌騎士隊の面々へと変更したくらいである。大広間の四方の壁に沿うように、ずらりと鉄槌の騎士達が並んでいる。騎士達は全員完全武装だ、もはや逆らうことなど望むべくもない。
……彼等はそのまま待たされた。一夜の間ひたすら待たされ、全員身も心も疲労困憊している。枢機卿達が考えているのは「ともかく無事に解放してほしい」、ただそれだけである。
そして夜が明け、空が白み始める頃、ようやく彼等が待っている者が到着した。扉が開かれ、その男が入ってくる。アンリ・ボケが恭しくその男にかしづいている。アンリ・ボケに先導されながら、その男は一同の上座へと着席した。
死体はすでに片付けられているが、飛び散った血しぶきはどうしようもない。その男は室内の惨状に、漂う血の臭いに顔をしかめていた。だがそれも長い時間ではなかったし、暗い屋内だったためにその表情をはっきり見て取った者は誰もいない。男はテーブルの上に両肘をつき、口元を隠すように手を組んだ。
「――皆様もお疲れのようです。速やかに次の教皇を決定いたしましょう」
その男、枢機卿ピエール――いや、次期教皇ピエールは穏やかな笑顔を見せつつ、一同へと告げた。
邸宅が燃えていた。
彼等の襲撃は突然だった。誰もが寝静まる夜半、彼等は夜闇に紛れてその邸宅へと接近。彼等は警告も降伏勧告も何一つすることなく、その邸宅へと突入したのだ。
邸宅の従僕、枢機卿ピエルレオニの家族、ピエルレオニの愛人、全て合わせれば人数は何人になっただろうか。だが逃げ延びることができたのは一人もいない。全員が鉄槌騎士隊の騎士に剣で斬られ、槍で突かれ、建物内に閉じ込められた。そして炎で焼かれている。
アンリ・ボケ達鉄槌騎士団が教皇庁を武力制圧したのが前日、ピエールの教皇就任が事実上決定したのが今日の早朝である。そしてその日のうちにテ=デウム郊外のピエルレオニの拠点たる邸宅を急襲したのだ。
枢機卿ピエルレオニの邸宅、それが今燃えていた。天高々と炎を上げ、何もかもを灰にしようとしている。アンリ・ボケは馬上からその光景を見つめていた。
(……美しい)
アンリ・ボケは炎の輝きに、その美しさに賛嘆の思いを抱いている。
(これほど美しい炎を見るのはあのとき以来か。……そう、あのときの炎も本当に美しかった。)
アンリ・ボケの脳裏に映し出されているのはロレーヌの教会が焼き尽くされる光景だった。
(あの炎が私の忌まわしい過去を、出自を焼き尽くした。あの炎の中から私は貴族として生まれ出た。神父様の剣として歩み始めたのだ)
神父ピエールにとっては忌まわしい地獄の業火だった炎は、アンリ・ボケにとっては神による祝福の光に等しかった。神父ピエールの「二度とあの光景をくり返さない」という誓いを。その思いを、その願いを、アンリ・ボケが真の意味で共有したことはただの一度もなかったのである。
(炎が上がるたびに邪魔者は焼き尽くされ、私は前へと進むことができる)
ピエールが教皇となることはもう確実だ。アンリ・ボケもまた階梯を上げ、より多く、より強大な戦力を有することができるだろう。
(私はどこまでも前へと進んでいく。私は何度でもこんな光景を生み出し続けるだろう。美しい炎で、くり返し全てを焼き払うだろう)
アンリ・ボケは己が未来をそう思い描いた。それは予想ではなく、予言でもない。それは誓いであり、確固たる意志。石版に刻まれたように確定している、未来の行動表だった。