パーティを抜け出し、二人でバルコニーに出て夜風を浴びた。涼しい風がほてった身体に心地良い。
バルコニーの手すりは幼いユーグの身長よりも高い。ユーグは一〇歳年上の兄に抱えられてようやく手すりの上に身を乗り出すことができた。石造りの手すりの上に腹を乗せ、上半身を宙に浮かせる。
眼下に広がっているのは城下町だ。町の人々の灯す明かりが蛍火のように揺らめいている。
「見ろ、これが僕達の町、僕達の国だ」
そう誇らしげに町の明かりを指し示すのは兄のフィリップだ。幼いユーグは町の明かりを、フィリップの顔を交互に見つめる。
「この国はもっと豊かになれるし、もっと強くなれる。僕がそうするんだ」
「じゃあ、僕は兄上を手伝います」
打てば響くようにユーグがそう言う。そうか、とフィリップは笑った。二人はそのまま城下町を眺める。二人の頭上には、遙か彼方には満天の星々が輝いていた。
――ユーグはこの夜のことを決して忘れたことはない。この夜から誓いを現実にするための戦いが始まったのだ。その戦いはユーグの足跡そのもの、ユーグの人生そのものだった。
教会での洗礼も、騎士の叙任も、決してこの夜の誓いには勝りはしない。それは聖なる誓約だった。
「黄金の帝国・幕間3 ~とある王弟の回想・前」
海暦二九九四年。その年、フランク国王アンリが死去。その跡を継いで長男のフィリップがフランク国王に即位した。それと同時にユーグもまた騎士の叙任を受ける。ユーグが一四歳の時である。
そして今、ユーグは一軍の指揮官として反乱軍を迎撃しようとしているところだった。
前代の王アンリは教皇インノケンティウスと同盟を結んで王権強化のためにありとあらゆる手段を尽くし、アンリの時代に諸侯は特権を次から次へと奪われ続けていた。アンリが死去して国王がフィリップに替わり、諸侯は息を吹き返そうとする。
「新王フィリップには我々が王室の藩屏としてどれだけ貢献してきたかを思い出していただかねば」
とフィリップからかつての特権を取り戻し、逆に王権に制限をかけることを考えていた。少なくともこれ以上の特権剥奪を進められるつもりは毛頭なかった。だがフィリップは、
「偉大なる前王の業績を受け継ぐ。王権強化こそが国王の責務であり自分の義務だ」
と意志を明確にしたのだ。これが結果的に最後通告となった。有力諸侯は反フィリップの連合を結成、フィリップを玉座から引きずり下ろすことを掲げて挙兵したのである。反乱軍の方が数が多く、フィリップは不利な戦いを強いられていた。配下の将軍は全て出陣しており、フィリップ自身も兵を率いて反乱軍討伐に向かっている。
そして叙任したばかりのユーグもまた総司令官として軍を率い、反乱軍討伐に出陣したのである。与えられた兵数は三千。もちろん総司令官とは言っても名目だけで、実質的な総司令官は別にいる。
ユーグはフィリップの指令通りに三千の将兵を率いてトロワ城塞へと陣取った。一方のユーグに相対する反乱軍はナンシー伯を中心とし、その兵数一万五千。トロワに向かって北上を続けている。敵軍の兵数が予想より遙かに多いことにユーグの将兵は動揺していた。
「幸いこのトロワ城塞は堅強である。五倍の敵であろうとそう簡単に落とせるものではない」
ユーグ軍の実質的な総司令官・アルトワ伯は籠城戦になることを一同に告げた。アルトワ伯の年齢は六〇近くで、引退間近の老将である。規則の権化と言われるような堅苦しい性格で多くの貴族に敬遠されていた。
「我等の任務は敵軍の注意を引きつけることである。敵軍が城塞攻略をするなら城塞に拠って敵軍に消耗を強い、敵軍がトロワ城塞を素通りしたなら出撃してその後背を脅かす」
アルトワ伯の言葉に集められた諸侯が頷く。兵数の差を考えれば他の戦法など考えられない。面白味はないが堅実であり確実であり、諸侯から異論は出なかった。
「――待ってくれ。僕は今から出撃すべきだと考えている」
異論を出したのは諸侯ではない、王弟のユーグである。一同の驚きの視線がユーグへと集まった。
「……しかし王弟殿下、五倍の敵に戦いを挑んでは勝ち目などありません。現実は吟遊詩人の物語とは違います故」
アルトワ伯は反論に侮蔑をにじませる。だがユーグはそれを気にする様子を見せなかった。
「正面から戦ったならそうだろうな。だが、これを見てくれ」
とユーグは卓上に地図を広げて一同を集めた。ユーグの指が街道の一部を示す。
「この場所は街道が湖と森に挟まれていて大軍であろうと展開はできない。この場所で敵の出鼻を叩いておきたい」
「確かに、あそこなら待ち伏せには絶好の場所です」
この近辺の土地勘がある諸侯が賛意を示す。他にも血気にはやる若手がユーグに賛成した。一方、
「そんな博打で国王陛下より預かった軍を危険にさらすべきではない」
「王弟殿下の身に何かあったらどう責任を取るつもりだ」
とアルトワ伯を始めとする慎重派が反対する。だが結局、
「籠城するとしても、敵と一戦して意気を上げてからにするべきだ。五倍の敵と戦うのだ、そうでもしなければ士気が続くまい」
その主張が支持され、その日のうちにユーグ軍の全軍が城塞から出撃することとなった。
そして三日後、トロワ郊外の森でユーグ軍は反乱軍と最初の戦闘をする。そこでは街道が森と湖に挟まれるようにして、蛇行して続いている。ユーグ軍はまず森の出口に石材を積み上げて壁を作り、出口を塞いだ。出口までやってきたナンシー伯の軍は壁に行き当たり、進軍が止まる。だが即座に全軍が停止することなどできはしない。壁を撤去している間にも後続がどんどんやってくる。出口に近くなるほど兵が密集し、まともに身動きすらできないくらいの人混みとなった。
「突撃ぃー!」
森に隠れていたユーグ軍がそこに襲いかかってきたのだ。まともな戦闘になどなるはずもなく、反乱軍は一方的に蹴散らされた。それは戦闘と言うより虐殺だった。狭い場所で剣を振るおうとし、味方を斬る者。逃げようとして転倒し、味方に踏みつぶされて圧死する者。湖へと逃げて溺死する者。反乱軍一万五千のうち実に五千が死傷し戦闘不能となったとされている。その一方ユーグ軍は損害らしい損害を受けていない。ユーグ軍の士気は天を突くほどに上がっていた。
意気軒昂となった自軍にユーグが告げる。
「トロワ城塞には戻らない。このまま敵の後背を脅かし続けるのだ」
もちろんアルトワ伯を始めとする慎重派は反対するが、ユーグに賛意を示す若手がそれを説得する。
「そもそも籠城とは援軍があることを前提として戦法だ。だが今の兄上に援軍を出すだけの余裕があるとは思えない。敵が素通りしたものと考えればいい、城塞へのこだわりは捨てるべきだ」
結局ユーグのその主張が通り、ユーグ軍は野に放たれることとなったのだ。
ナンシー伯の率いる反乱軍は一万の兵で北上を続ける。一方ユーグ軍はその後方に回り、その後背を脅かし続けた。徹底的に逃げ回ってまともな会戦は一度もやらず、夜襲や奇襲、補給部隊への攻撃をくり返す。反乱軍は継続的な被害を強いられ、補給を寸断されて飢え、士気は地の底へと潜っていく。脱走する兵、適当な理由を付けて反乱軍から離脱する諸侯、密かにユーグと和睦しようとする諸侯が後を絶たず、日に日に兵数を落としていった。
結局、ナンシー伯が反乱軍本隊に合流するときには率いる兵は千に満たなくなっていた。いや、本隊に合流と言うよりは本隊へと逃げ込んだと言っていい。本体は総勢数万を超えており、さすがに十倍を越える敵が相手ではユーグ軍も手出ししようがなかった。
だが、この時点まででユーグ軍が敵味方に与えた影響は決して小さなものではない。たったの三千で五倍の敵を打ち破り、壊滅させる。多くの諸侯に反乱軍に見切りを付けさせ、国王軍へと味方させる。最終的に国王軍が勝利したのはユーグ軍のこの働きがあってのこそである。
「ユーグ軍だけで我々国王軍が勝ったわけではない。だがユーグ軍がなければ我々が勝てていたかどうか判らない」
フィリップはこのようにユーグの働きを評したと言われている。
フィリップは自分に敵対的な有力諸侯を撃破、政治的な敵対者を一掃した。フィリップは盤石の王位を確立した――多くの者にはそのように見えただろう。だがフィリップの玉座を脅かす者はまだ残っていたのである。
一方のユーグは火消しに躍起となっていた。
「いや、僕はただ思いつきを述べただけでそれを形にしてくれたのは部下達です。彼等がいなければ私は何もできなかったでしょう」
「僕など、戦歴を重ねた将軍達から見ればただの賢しらな小僧でしかないですよ」
戦勝祝いと称してやってきた貴族・諸侯に対し、ユーグはそんな言い訳をくり返した。ユーグの言い訳は事実の一面である。だが、
「いえ、それが当然です。王者たる者が指針を示し、臣下がそれを形と成す。それこそまさしく王国の有り様というものでしょう。殿下は王者のなんたるかを身体で理解しておられる、まさに生まれながらの王というものです」
彼等の追従にユーグは言葉をなくすしかなかった。
そう、フィリップを排除して玉座を狙える者がいるとするなら、それはユーグしかあり得ない。ユーグがこの戦役で示した軍才・王器、それはフィリップに敵対的な諸侯にとっての希望の星となるものだった。さらに、ユーグはまだ一四歳の未熟な若造に過ぎない。臣下が意のままに操ることも簡単である。
「くそっ、僕が兄上にとっての邪魔者になるなんて。一体どうすれば……」
ユーグは頭を抱え込んだ。
戦後処理が一通り片付いた頃、ユーグはフィリップから呼び出される。ユーグは重い気を引きずるようにして兄の元へと向かった。ユーグが赴いた先はフィリップの私室である。
「よく来たな、まあ座れ」
フィリップは軽装に着替え、手酌で葡萄酒を飲んでいた。ユーグはテーブルを挟んでフィリップの向かいに着席する。
ユーグより一〇歳年上のフィリップはこのとき二四歳。容貌はそれなりに整っていて美青年と言ってもいい。が、細い目や痩せた頬、血色の悪さがそれを覆い隠している。多くの者がフィリップの外見から「酷薄な王だ」という印象を抱いているが、それは決して印象だけの話でもなかった。
まだまだ若輩と言われるような年代だが、早くから父王アンリを補佐して政治の世界に関わり、様々な難題に対処してきたのだ。即位から間もなくとも未熟なところは全く感じられず、すでに何十年も玉座に就いているかのようだった。
「ヴェルマンドワ伯が今回の戦争で戦没している」
フィリップは前置きもなしにいきなり本題へと入った。
「お前には伯の一人娘をめとってヴェルマンドワ伯を継いでもらう」
「……それはまた、急な話ですね」
ユーグは何とかそれだけを返答した。フィリップはユーグの戸惑いを意に介さない。
「ヴェルマンドワ伯は有力な味方だった。あの家が敵に回ることは認められない」
「僕はもちろん兄上と敵対するつもりなんて毛頭ありません。ですが、僕の周りには面倒な連中が群がってきています。あの連中とヴェルマンドワ伯爵家が結び付き、僕を利用しようとするのではありませんか? 兄上の邪魔をするために」
ユーグは不快そうに懸念を問う。フィリップは特別な反応を示さずに話を続けた。
「お前はしばらく韜晦していろ」
「韜晦?」
「馬鹿殿をやっていろ、ということだ。ヴェルマンドワ伯の娘アデライードは見目麗しいと聞く。女色に溺れ、政務を放擲していればいい」
「ああ、なるほど」と得心するユーグ。が、その顔に不安の色が浮かんだ。
「……僕に上手くできるでしょうか」
その問いにフィリップが笑う。
「お前みたいに真面目な奴ほど色事にはまったら抜け出せなくなると言う。ほどほどにしておけよ」
こうしてユーグはアデライードと結婚、ヴェルマンドワ伯爵家を継ぐこととなった。ユーグは部下を引き連れヴェルマンドワ伯領へと移動。初めて自分の妻となる少女と対面したのは結婚式の前日だった。
「わたしは殿下の伴侶なのですからどうかわたしを頼ってくださいね。この領内のことでしたらわたしも力になれますから」
と胸を張るアデライード。アデライードはユーグより二歳年上の一六歳。非常に華奢な体付きだが背は高く、比較的小柄なユーグとあまり変わらないくらいに見えた。目鼻立ちがはっきりしており、大人びた容貌の美女である。
「あなたも僕のことを頼ってください。僕はあなたの夫なのですから」
とユーグはアデライードに手を差し延ばす。彼女は頬を染めてその手を取った。ユーグは自分が恵まれた相手と結婚できることを神に、そして兄に感謝した。
結婚式当日。ヴェルマンドワ伯領には国内外から賓客がやってきている。ユーグと面会した国内諸侯の一部は、結婚祝いの言上と同時に玉座を狙うことをそれとなく吹き込んでいた。ユーグは愛想笑いでそれをいなし続ける。
教皇庁からは教皇インノケンティウスがやってきている。遊説の途中で立ち寄ったという教皇は自らが司式者となり、ユーグ達二人に秘跡を与え、二人の門出を祝福した。
そして披露宴を兼ねた晩餐会である。ユーグはホストとなって賓客をもてなす。ユーグ達にとって最大の賓客とはもちろん教皇インノケンティウスである。
インノケンティウスはこの頃すでに六〇近いが、同年代と比較すればまだまだ若々しい印象を与えている。穏やかな笑みをたたえながら、いつものようにエレブの平和を、ネゲヴへの遠征を説いていた。教皇の周囲に集まるユーグを始めとする何人かがそれに耳を傾けている。
「……ネゲヴのさらに南にはアーシラトという森が地の果てまで広がっていると言います。エレブと民とネゲヴの民が力を合わせてその森を切り拓き、地の果てまでを麦畑としましょう。エレブの農民、ネゲヴの農民が等しく豊かな大地の恵みを享受できる。私が望んでいるのはそんな世界なのです」
「――ですが、それは現実的ではありませんね」
ユーグの放った一言に、一瞬大広間全体が静まりかえった。少し間を置き、人々が殊更に大声で談笑して場を取り繕おうとする。一方ユーグと教皇の周囲の何人かはそれすらできず凍り付いたままである。教皇は、
「……確かに、容易に実現できることではないと私も思います」
不快な様子を欠片も見せず、穏やかな微笑みを浮かべ続けていた。
「ですが、困難だからと言って何もしなければエレブの民には救いはありません。困難であるならそれを実現する方法を考えるべきではないでしょうか」
「はい、確かに。問題を明らかにしてそれにどう対処するかを考えていくべきかと思います」
「殿下にはネゲヴ征服にあたっての問題とその対処方法の存念があるように見えますが、それを聞かせていただけますか?」
もはや誰も談笑を取り繕おうとはしていない。会場の全員がユーグと教皇の会話に耳を傾けていた。
「――まずネゲヴの民には聖杖教徒はほとんどいません。自分達とは違う神をいただく我々を彼等は決して歓迎したりはしないでしょう。聖杖の教えを広めるとしても、布教がそんなに簡単に進むはずもありません。結局我々はネゲヴの民と国家と戦うことになる。ネゲヴには悪魔の技を使う戦士も多いと聞きます。この戦いは容易なものとはならず、我々は大きな損害を受けることになるでしょう」
ユーグの指摘に教皇は「ふむ」と顔を曇らせた。
「私はエレブの民や兵を死地に追いやりたいとは思いませんし、異教徒であろうとネゲヴの民を無為に死なせることも望みません。どうすればいいと考えますか?」
「……方法があるとするなら、ネゲヴを戦わずに屈服させることだと思います。そのためには『戦っても無駄だ』と思わせるだけの大軍を動員しなければなりません」
教皇は少し考え、
「十万くらいでしょうか?」
と問うた。ユーグは首を振る。
「その程度の兵数ならネゲヴとて用意できます。……そうですね、百万も動員すれば戦わずしてケムトまで制することもできるでしょう」
あちこちから笑い声が起こる。多くの者がユーグの言葉を冗談だと受け止め、教皇もまた笑みを見せた。
「いや、さすがに『戦争の天才』と名高いだけのことはあります。殿下の意見は心に留めておきましょう」
教皇のその言葉を区切りとしてユーグと教皇の歓談は終わり、その後は特に事件の起きることもなく晩餐会は終了した。
「『戦争の天才』などとおだてられて、調子に乗ったか小僧!」
事件が起こったのは晩餐会の後である。賓客が全員帰ってすぐ、フィリップがユーグに叱責を浴びせたのだ。
「貴様のような小僧が聖下にあのような意見をするなど、不遜も甚だしい。しばらく謹慎していろ!」
ユーグはヴェルマンドワ伯城の私室に閉じ込められる形となった。だが、その私室を早速訪れる者がいる。
「……あれでよかったのですか? 兄上」
「まあ上出来だろう」
フィリップはユーグと二人だけで密談をしているのだ。
「お前が教皇と不仲ということになれば、お前を担ごうとする者も減らせるだろう。ネゲヴ征服についても釘の一つは刺しておく必要はある」
満足げなフィリップに対し、ユーグは抱えていた疑問をぶつけた。
「……教皇のあの言葉は本当にただの建前だけなのですか? 教皇は本当にネゲヴを征服するつもりがないのですか?」
「確かに、お前が不安を抱くのも無理はないな」
とフィリップは苦笑を見せる。
「安心しろ、その点は父上も私も何度となく確認している。教皇が考えているのはネゲヴ征服を口実とした軍権の統一、それによる王権の強化だと。王権を強化し、エレブで戦争が起きないようにするのが目的だと」
「……果たして、そんなに上手くいくのだろうか」
ユーグの独り言はフィリップの耳には届かなかった。
(王権が強化され、諸侯の力が弱まれば確かに国内での戦乱は収まるだろう。だが王国間の戦争はどうなる? 諸侯間の戦争とは桁違いの大規模で悲惨な戦争になるのではないか? それに、本当に教皇インノケンティウスはネゲヴ征服をやらないのか? ……やらないで済ませることができるのか?)
……ユーグの形ばかりの謹慎は半年で解けたが、ユーグは政務にも軍務にも関わろうとしなかった。謹慎中に読みふけっていた古典書物にすっかりはまってしまったのだ。
「兄上にも馬鹿殿をやっていろと言われている。これは兄上に対する政治的援護なのだ」
格好の口実を手にしたユーグはヴェルマンドワ家の財力に任せて古典書物を買いあさった。古典書物はバール人時代に記された書物の総称だが、ユーグはその中でも娯楽物を好んで読んだ。戦記から英雄譚、恋愛物・悲劇・喜劇まで、バール人の時代には自由な発想で無数の書物が記された。だが無法時代には本を出版するだけの余裕がなくなり、それ以降のエレブでは聖杖教の禁欲主義により娯楽物の書物が焚書の憂き目にあっている。現在では規制が緩んで焚書などは滅多に起こらないが、それでも教会が良い顔をすることはあり得ない。
だが、ユーグは公然と教皇を批判したこともある人間だ。今更地元の教会ににらまれる程度、痛くも痒くもありはしない。さらに、そんなユーグの評判を聞きつけて旅芸人や劇団、芸術家・著述家がヴェルマンドワ伯領へと集まってきた。ユーグは優れた芸術家に対する支援を惜しまず、ヴェルマンドワ伯領にはルネサンスが華やかに花咲くこととなる。
そうやって教会ににらまれ、政治的には愚物・役立たずと見なされながら十年。この頃のユーグは「芸術殿下」と呼ばれていた。揶揄であり蔑称であるが、ユーグ自身はその呼ばれ方を結構気に入っている。芸術に耽溺する今の生活をユーグは心から愉しんでおり、そもそも韜晦が目的だったことなどすっかり忘れ去っていた。
アデライードとの間には何人もの子供を設けている。全員女子だが長女にはすでに婚約者がおり、その婿養子にヴェルマンドワ伯を継がせることも決定済みである。公私ともに何の憂いもない日々を送っている――傍から見ればそう思えたかもしれない。だが、
「万物は流転する、そう唱えたのは古代の哲学者だったか。日は沈む、夏は過ぎる、若き者は老いる、人は変わる……時の流れほど無情なものは、ない」
秋を迎えた庭園を眺め、ユーグはため息をついている。今のユーグは諸行無常を理屈ではなく心で理解していた。もう少し時間があったならユーグは悟りを開いて仏教を立ち上げていたかもしれない。
「こんなところにいたのですか、我が夫よ」
背後から声をかけられ、ユーグは陰鬱なため息をついた。次いで表情を作って、
「ああ、何かあったのかい? 我が妻よ」
「何かあったのか、ではありません。政務を投げ出してこんなところで何をしているのですか。そんなことで下の者に示しが付くと思っているのですか。大体あなたは……」
アデライードによる一方的な非難をユーグは反論せずに聞いていた。芸術に耽溺し政務を放擲しているユーグに代わり、ヴェルマンドワ伯領を実質的に統治しているのはアデライードである。このためユーグはアデライードに全く頭が上がらず、アデライードがひたすらこぼす愚痴も黙って受け入れている。アデライードが愚痴っぽく口うるさくユーグの一挙手一投足に文句を言うような性格になってしまっても、そんな妻でも愛するのが自分の義務だと心得ている。だが、
「彼女がこんな性格になってしまったのは僕のせいかもしれないが、こんな外見になってしまったのはそうじゃないだろう」
今ユーグの目の前にいるのは、ユーグの倍くらいの横幅を持つ女性だった。
……結婚当初は痩せすぎの体格をしていて「少しは肉を付けた方がいい」と誰もが口を揃えたのだが、今はそんなことを言う人間はいない。妊娠・出産を経て肉付きがよくなり、最初のうちはユーグも「抱き心地がよくなった」と喜んでいたのだが、妊娠・出産を経るたびに肉を付ける一方で減らすことがなかったのだ。さらには妊娠・出産とは無関係に肉を付けるようになり、今日に至っている。
結婚当初から見て体重は倍に、見た目の横幅は三倍くらいになった。ただ、顔にどれだけ肉が付いても目鼻立ちのはっきりした顔立ちに大きな変化はなく、その容貌の美しさは一〇年を経ても変わりはしなかった――顔の輪郭を無視すれば、の話だが。
また、アデライードは非常に嫉妬深い性格で、ユーグが愛娼を持つことも許していない。それでもユーグはこれまで何度か旅芸人をつまみ食いしたのだが、必ず浮気がばれてそのたびに手ひどい制裁を受けていた。
一人寝室で、結婚前にもらったアデライードの小さな肖像画を眺め、
「あの頃は可愛かったのに」
そうつくづくと慨嘆するのがユーグの日常であった。
ユーグがフィリップに呼び出されたのはそんな頃である。アデライードと離れる口実を得たユーグは意気揚々と王都ルテティアに向かった。
「もういいだろう。そろそろ仕事を手伝ってもらおう」
王宮で久々に対面したフィリップは喜びを垣間見せつつ告げる。
「これまでお前の名誉を回復させてやれなかったが、ようやく状況が整った。『芸術殿下』の汚名を返上し『戦争の天才』の異名を取り戻すときだ」
ユーグの本心としては「余計なお世話」と言いたいところだったが、もちろんそんなことを言えはしない。それに、この十年無駄飯を食うばかりで兄のために何もしてこなかったという負い目もある。ユーグはひざまずき、改めて兄王に忠誠を誓った。
「……この無能非才の身で兄上のお役に立てることがあるのであれば、これに勝る喜びはありません。王国と王朝の繁栄のために微力を尽くす所存です」
うむ、とフィリップはうなずいた。
「早速だが、私の名代で軍を率いてほしい。ディウティスクでは先年国王が崩御したが、現在王位継承を巡って二人の王子が争っている。教皇庁がその紛争を仲裁することになっているが、お前の役目はその支援をすることだ」
紹介しよう、とフィリップはある男を玉座の間へと招き入れた。
ユーグは全身の毛が逆立つ思いがした。男は見上げるような巨体であり、前後左右が等しく分厚い。まるで積み木で作った人形のように四角い身体と顔をしており、糸のように細い目とむやみやたらと大きな口は柔和な笑みを湛えていた。だがユーグは知っている、この男の手がどれほどの無辜の民の血で汚れているかを。
「お会いするのは初めてでしたな。アンリ・ボケという神の僕でございます」
アンリ・ボケは恭しく礼をした。ユーグもまた礼儀作法に則って挨拶をする。
「ヴェルマンドワ伯、王弟ユーグである。猊下の高名は私も聞き及んでいる」
「私も殿下の高名を良く耳にしております。陛下と殿下の力添えがあるのなら、この仲裁もなし得ないことはないでしょう」
こうしてユーグは十年ぶりに軍を率いて出陣することとなった。僚軍にはアンリ・ボケの率いる鉄槌騎士団がいて、その配下には銅槌騎士団・木槌傭兵団がいる。
鉄槌騎士団に属しているのはアンリ・ボケ自身が厳選した騎士で、少数ながら精鋭である。鋼鉄の規律と信仰心を誇り、エレブ最強の騎士団の一つと言われている。鉄槌騎士団の騎士は全員聖職者という扱いになっているが、銅槌騎士団は世俗の騎士の一団だ。聖職者にはなれなくとも聖杖教に貢献したいと考える騎士が結成したのが銅槌騎士団だ……ということになっている。歩兵中心の木槌傭兵団と同じく、戦場で鉄槌騎士団とともに戦うのがその役目だった。
アンリ・ボケの配下に五千、ユーグの率いる軍が二万。合計二万五千の軍勢がディウティスク王国へと侵入した。だが、それは少し遅かったのだ。
ディウティスクの二人の王子の戦いはすでに仲裁できる段階を通り越しており、アンリ・ボケとユーグは両方の王子を敵に回しての戦いを余儀なくされた。ディウティスクの戦乱は一年以上続き、ユーグとアンリ・ボケはディウティスク中を転戦した。
戦いの連続で勘を取り戻したユーグはその軍才を発揮し、最終的には二人の王子の両方を撃破することで戦いを終結させる。ディウティスクの玉座にはアンリ・ボケの推薦した幼い王族の一人が就くこととなった。
……ヴェルマンドワ伯となってから最初の十年は惰眠をむさぼるだけのユーグだったが、次の十年は戦場を駆け巡る歳月となった。ユーグはフィリップの名代として、教皇インノケンティウスの勅命を受けた騎士として、エレブ中を戦場から戦場へと渡り歩いた。本領に戻るのは一年のうち一月にも満たない期間だけだが、ユーグに不満があろうはずもない。
「いやあ、仕方ないなあ、兄上のご命令だからなあ」
今日もユーグは自軍を率いてイベルスの戦場へと向かうところである。補給を担当するのは各地のバール人商会、また各地の王室に従順な諸侯である。
「殿下、今日はこちらの者を」
「うむ、ご苦労」
そしてユーグに女性を差し入れて接待するのもまた彼等の役目だった。禁欲を強いられてきた反動は大きく、ユーグは各地で貪欲に女をあさった。
「船乗りには港ごとに女がいる。ヴェルマンドワ伯には戦場ごとに女がいる」
そう揶揄されるくらいである。だが、これだけ派手なことをしていれば当然噂はアデライードの耳にも届く。
「我が夫よ、今回の出征からはこの者達を側仕えとして置いていただきます」
とアデライードが五人の男をユーグへと示した。そこにいるのは何代も前からヴェルマンドワ伯に仕える重臣、その子弟ばかりである。婿養子のユーグではなく、ヴェルマンドワ家そのものに絶対の忠誠を誓っている男達。ユーグから見ればアデライードの犬であり、監視役である。
こうしてユーグは戦場でも自由を失ってしまった。女遊びをしようにも監視役の面々がそれを妨害し、決してユーグに女を近づけさせない。ユーグは一人寝室で、
「……あの頃は可愛かったのに」
アデライードの肖像画を眺めて泣き寝入りし、夜を過ごすこととなった。
さらにはその話がアデライードの耳にも入り、
「……そうですか。我が夫が」
「はい。ヴェルマンドワ伯はアデライード様の肖像画を眺めて夜の無聊を慰めております」
そうですか、とアデライードは乙女のように頬を染めている。確かにその報告には嘘はないが、いくつかの重要な点が意図的に省略されていた。しばしの間幸福に浸っていたアデライードだが、
「わたしの絵姿が我が夫の心の慰めになるのならこれほどの喜びはありません。誰か、絵師をお呼びなさい」
そしてユーグが戻ってきた際、アデライードはユーグの前にあるものを用意した。
「これは?」
ユーグの前にあるのは高さ二メートル、幅一メートルほどの箱である。全体が黒檀で作られており、金細工の飾りで彩られている。正面が観音開きの扉になっていて、形としては衣装箪笥に近かった。もっと言うなら一番印象が近いのは仏壇だ。
アデライードは無言のままその箱の扉を開く。そこにはもう一人のアデライードがいて、
「っ……!」
ユーグは心臓が止まるかと思った。箱に入っているのはアデライードの肖像画だ。大きさは完全な等身大、実物と見間違うくらいに精密で正確な描写である。少しは美化すればいいものを、肥え太ったアデライードのそのままの姿を写真さながらに描き写してていた。
「次の出征にはあの者達にこれを持って行かせます」
アデライードの言葉にユーグは目の前が真っ暗になる。
「どうぞこれで夜の無聊を慰めてくださいますよう」
そう微笑むアデライードに、ユーグは引きつった笑みを返すので精一杯だった。
次回の出征から、ユーグの本陣に荷車に乗った黒檀の箱が同行する光景が見られるようになる。いつまでも少年のように若々しかったユーグが年相応の落ち着きを見せてきたのもこの頃からである。
それからしばらく後の、ある戦いでのこと。
その夜、ユーグの軍は戦場に近い山城で一夜を過ごしていた。ユーグには客間が割り当てられ、そこには例によって黒檀の箱も運び込まれている。ユーグは箱から目を逸らしながらやけ酒を飲んでいるところだった。そこに、
「殿下、枢機卿アンリ・ボケが殿下にお目にかかりたいと」
今回は異端と目された諸侯討伐のためアンリ・ボケが教皇庁の騎士団を率いて友軍として同行していた。ユーグはアンリ・ボケを自室に招き入れる。
「夜分に恐れ入ります。王弟殿下」
客間に入ってきたアンリ・ボケは黒檀の箱に目を留める。というか、部屋の真ん中に鎮座しているのだから何をどうしようと目に入るだろう。
「これが噂の……王弟殿下は愛妻家なのですな」
と笑うアンリ・ボケ。ユーグにはそれが嘲笑としか思えなかった。
「ご夫人の肖像を拝見させていただいてもよろしいですかな?」
アンリ・ボケのその頼みに頷いたのも自棄になっていたからであり、深い考えがあったわけではない。アンリ・ボケもまた単に話のきっかけにしようと思っただけである。箱の扉を開いてアンリ・ボケはその肖像画を目の当たりにし、
「……」
アンリ・ボケはかなりの長時間言葉を失った。
「枢機卿?」
「――え、ああ、失礼しました」
我に返ったアンリ・ボケが扉を閉じる。
「いや、大変見事な肖像でした。奥方もまた美しい、聖母とはあのような方を言うのでしょうな」
「ありがとうございます」
熱を込めたアンリ・ボケの追従にユーグは適当に頷く。アンリ・ボケはどうでもいいようなことを少し話をし、立ち去っていく。ユーグは「何をしに来たんだろう」と首をひねっていた。
それまでもアンリ・ボケと轡を並べて戦う機会はあったのだが、それが目に見えて増えたのはそれ以降である。時にアンリ・ボケの窮地を助け、時にアンリ・ボケの突撃により敗色を覆した。客観的には、ユーグにとってアンリ・ボケはもはや戦友と言っていい。
だが、それでもユーグはアンリ・ボケに気を許すことはなかった。アンリ・ボケが自分を見つめる目に、ユーグは不穏な何かを感じていたからである。
あるとき、ふとした雑談の中でユーグはその思いを腹心の一人に漏らした。
「枢機卿が僕を見る目に何かの思いを感じることがある。それが何なのか判らないが、何か不穏なものだ」
そう感じたことはないか?というユーグの問いに、その腹心・タンクレードはこともなげに答えた。
「ああ、それはおそらく『嫉妬』でしょう」
ユーグはほんの少しの間、唖然とした。
「……嫉妬? あの枢機卿がこの僕に? まさかそんなことはないだろう」
アンリ・ボケとの付き合いもう短い期間ではない。ユーグはアンリ・ボケのことをよく知っている。異教徒や異端、敵に対しては容赦の欠片もなく、悪魔の民(恩寵の民)の赤ん坊を自らの手で篝火の中へと放り込んでいるところも目撃している。その一方正統の聖杖教徒に対しては慈悲深く、飢えた貧民や貧農に軍の糧食を分け与えているところも何度も直接その目で見ているのだ。
「独りよがりではた迷惑な御仁だが、聖杖教の聖職者としてあれ以上の方と言えばそれこそ教皇くらいのものだ」
それがユーグによるアンリ・ボケの評価だった。
「それもまた枢機卿の一面でしょうが、別の、隠している一面があるのは間違いありません。殿下はそれを感じ取ったのだと思います」
タンクレードの言葉にユーグは腕を組んで考え込んだ。
「なるほど。では、その隠している面というのはどのようなものだろうか」
これはあくまで兵卒どもの無責任な噂話ですが、とタンクレードは前置きし、
「枢機卿は殿下の奥方に横恋慕をしている、と」
ユーグはかなりの長い時間二の句が継げなかった。
「……いや、まさかそんなことは」
反射的にそう言いつつも、ユーグにも全くの心当たりがないではなかった。アンリ・ボケが度々ユーグの元を訪れるのもアデライードの肖像画が見たいからではないのか? アンリ・ボケがヴェルマンドワ伯本領を訪れた際もアデライードのことを気にしていたのではなかったか? 会えたときに嬉しそうにしていたのも、あれは演技ではなく本心ではないのか?
「確かに体格的にはお似合いの二人だが」とか「欲しいのならリボンをかけてくれてやるが」とか、様々な思いがユーグの心をよぎった。
「……しかし、いくらアデライードに横恋慕しようと枢機卿にはどうしようもないだろう。例え僕が戦死しても、枢機卿が僕の後釜に座れるわけがない」
ユーグの感想にタンクレードは苦笑するしかない。ユーグは王族としてはかなり型破りであり下々とも気安く接しているが、それでも貴人は貴人である。他者の感情の機微に疎いところがあった。
「それは枢機卿も嫌と言うほど理解していることでしょう。ですが、恋心に限らず人の感情というのは不合理なものなのです。それが無意味だと理屈でどれだけ判っていても身も心も焦がされる、それが恋心であり、嫉妬という感情なのです。およそ男の妬心ほどたちの悪いものはありません。どうか殿下もご用心を」
覚えておこう、と頷くユーグ。元々タンクレードを腹心としていたユーグだが、その会話以降さらにタンクレードを重用することとなる。