ときは海暦三〇一五年の年末、場所はスキラ市内。海にほど近いその丘には下層に近い庶民が寄り集まって住んでいた。一間か二間しかないような小さな家が密集して丘を埋め尽くしている様は、まるで巨大な蟻塚のようである。道は細く曲がりくねっていて、迷路そのものだ。大抵は舗装されていない砂利道だが部分的に石畳の階段が作られている。
その丘の中腹にある一軒家を一人の男が訪れていた。
「邪魔をする」
「……どちらさん?」
男を出迎えた家主の女は警戒を示した。男の身長は高く痩身。肌は白い、というよりは蒼白だ。中途半端に長い髪は不自然なくらいに黒く艶やかで、長い前髪に半分隠れた目は鈍い赤。表情は暗く、感情があるのかどうかを疑ってしまう。憲兵や徴税官といった規律に服する職務が何よりも似合いそうな、嫌な印象の男であった。
「俺の古い馴染みだ。入れてやってくれ」
部屋の奥から別の男の声がする。その女は無言のままその来客を家の中に招き入れた。
「怪我の具合はどうだ?」
「何、もうほとんど直っているさ」
部屋の奥で退屈そうにしていたのは、愛想のいい笑い顔を絶やさない陽気な男である。年齢は四〇前後で、やや長身でやや細身。特徴らしい特徴のない、外見の上では印象の残らない男だった。
これを、と来客は家主の女に手土産を渡す。女はそれを持って台所に向かった。
「酒か?」
「怪我人に酒はまずいだろう。バラタ産の茶だ」
気の利かん奴だな、と男はつまらなさそうに肩をすくめる。来客はその憎まれ口に何の反応も示さなかった。男の視線に促され、来客は椅子に腰掛けた。
少しの間、無言のまま時間が流れる。家主の女が茶を入れてやってきた。二人の男に茶を差し出し、女はまた台所へと下がっていった。
「……今の女とは長いのか?」
「一〇年は経っていないな。何のかんの言っても一番気楽に付き合える奴だ」
また無言のまま、二人は茶を味わった。窓の外から子供の声や物売りの声が聞こえている。二人はその声を観賞するかのように沈黙していた。時折思い出したように言葉が交わされるが、数えられるほどの回数だ。
そうやって小一時間を過ごし、その来客は立ち去っていった。それと入れ替わりに家主の女が部屋へと戻ってくる。
「随分変わった人だったわね。何なのあの人」
「古い馴染みさ」
男はそれだけを言い、過去を懐かしむかのような笑みを見せた。
「黄金の帝国・幕間5 ~とある牙犬族剣士の回想」
もう二〇年以上も昔のこととなる。その頃のツァイドは二十歳にもなっていない若造だった。
そのとき、牙犬族は海賊退治の仕事を請け負ってキュレネの町を訪れたところだった。ツァイドはその一員に加わっている。キュレネは地中海を挟んで対岸にヘラス(元の世界のギリシア)があり、交易の盛んな町である。
ツァイドは一人で港に近い賭場を訪れていた。半地下の大広間は二〇〇人を超える客で充満している。何十というテーブルが並び、あるテーブルではサイコロ博打が、あるテーブルではカードゲームが催されていた。各々のテーブルには十人に満たない人間が集まり、皆が賭け事に熱中している。ツァイドはサイコロ博打の席に加わった。酒を片手に小銭を賭けて、勝っては大喜びをし、負けては大いに悔しがる。胴親の警戒心を解いたところで、
「ところで近頃何とかっていう海賊が出ているそうだけど」
「ああ、メファゲル海賊団のことか。あの連中のせいでこの頃は景気が悪くなって仕方ない」
そこに横の客が口を挟んできた。
「長老会議が牙犬族の傭兵を雇ったそうだぜ。これであの連中もおしまいだろう」
「ああ、そりゃ心強いな!」
ツァイドはことさらに喜んで見せた。
「でも相手の海賊団だって手強いんじゃないのか?」
「ああ、人数は百人以上って話だ。この辺りじゃ一番大きな海賊団だ」
ツァイドはそうやって情報を引き出し、負けが込んだところで適当にサイコロ博打を切り上げた。ツァイドは賭場内をぶらぶらと歩いて回り、どこで情報を集めようかと検分している。そのツァイドの目に写ったのはある人集りだ。ツァイドはその人集りに加わった。見ると、胴親と客がカードゲームで一騎打ちをしているところである。
胴親はこの賭場では最も名前の売れた男だ。見栄えのする容姿と華麗なカードさばきからこの賭場の花形で通っている。その胴親が、常の余裕を失ってだらだらと脂汗を流している。相対しているのは背の高い若者だ。年齢はツァイドと変わらないくらい。深々とフードを被っているが、その隙間から灰色の髪が覗いていた。
胴親と若者が同時にカードを広げ、その場の一同がどよめいた。ツァイドが手札を確認し、若者の勝ちであることを理解する。積み上げられた金貨がごっそりと若者の方へと移動した。胴親は蒼白となっているが何とか笑顔を作り、肩をすくめて見せた。
「やれやれ、かないませんね。有り金が全部なくなってしまいました、残念ですがこれでおひらきとしましょう」
「判った」
ツァイドは胴親と、金貨を鞄にしまっている若者とを等分に見比べた。胴親は端正な顔を暗く歪め、嘲笑を浮かべている。ツァイドは胴親のその様子に不審を抱いたが若者の方はそれに気付いていないかのようだ。ふと、若者がツァイドに視線を止める。若者の赤い眼差しがツァイドを見つめた。
「――」
若者はフードの付いた外套を翻して立ち去っていく。ツァイドは少し距離を置いて若者に続き、その後を尾行した。
賭場を出、一スタディアも歩かないうちに若者は何人もの男に取り囲まれていた。
「ふん、勝ち逃げなんか許すと思っていたのか?」
その中心にいるのは有り金を全て奪われた胴親である。胴親が引き連れているのは賭場の用心棒で、その数五人。
「俺の面子をあれだけ潰して無傷で帰れると思っていたのか?」
胴親は若者を嘲笑し、用心棒が追従するように「馬鹿な奴だぜ」と笑う。だが若者は軽くため息をつくだけだ。
「お前達こそ、私が一人であの賭場に来ていたと思っていたのか?」
用心棒が慌てて背後を振り返るとちょうどそこにはツァイドの姿が。この状況ではツァイドがどう言い訳しようと無関係とは思われないだろうし、ツァイドもまた無関係を装うつもりもなかった。ツァイドは自分から用心棒の一団の中に飛び込んでいく。
「このガキ――!」
警棒を振り上げる用心棒の腹に、目にも止まらぬ速さで拳の一撃を食らわせる。背後から迫る用心棒の顎を足で蹴り上げ、もう一人の顔面に足の裏を叩き込んで鼻をへし折った。
「こ、こいつ、恩寵持ち……!」
ツァイドは恩寵も剣の腕も、牙犬族の中では弱い方の部類に入る。だがそれも「恩寵持ちの中では」の話である。恩寵がなくても恩寵の一族の生まれであれば、大抵は優れた身体能力を持っている。そして恩寵持ちとそうでない者の間には決して越えられない壁がある。元々優れた身体能力を身体強化の恩寵で強化しているのだ。無手のため烈撃の恩寵を使えずとも、恩寵を持たない人間に負けるはずがなかった。
残った用心棒は完全に怯えており、もはや勝負にはならない。胴親もそれは理解できたのだろう。
「くそっ! 覚えていろ!」
陳腐な捨て台詞を残して胴親が逃げていき、用心棒もそれに続く。その場にはツァイドと若者が残された。
「助かった。礼を言う」
若者が淡々と告げる。ツァイドは「別に構わんが」と受け流し、気になっていた点を確認する。
「もしかしてあんたは白兎族か?」
若者がその問いに頷き、ツァイドは軽く驚いた。「幻の部族」と言われる白兎族をこの目で見るのは初めてである。
「私は白兎族のベラ=ラフマだ」
若者はそう名乗る。それがツァイドとベラ=ラフマとの出会いだった。
「あなたがいてくれなければこの金貨はもちろん私の生命があったかどうかも判らない。これくらいは当然だろう」
ベラ=ラフマは賭場で儲けた何百ドラクマもの金貨の半分をツァイドに譲ろうとした。が、ツァイドはそれを固辞。
「金の代わりにちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。あんたの恩寵を使って」
ツァイドがその仕事の内容を説明し、ベラ=ラフマが了解。次の日からツァイドはベラ=ラフマを連れてキュレネの町を歩き回った。
「獲物はメファゲル海賊団だ。規模が大きくてなかなか厄介な敵なんでな、色々と調べて回っているところだ」
「牙犬族の剣士と言えば、雇い主の命令があればその通りに敵陣に突っ込むものとばかり思っていたが」
「考えなしの馬鹿ばかりと言いたいんだろう? 確かにそんな連中ばっかりだ」
とツァイドは明るく笑った。
「だが、俺は他の連中に比べて剣も恩寵もいまいちなんでな。弱者は弱者なりに色々と工夫しているわけだ」
「お前を弱者と呼んだら白兎族の立場がないが」
とベラ=ラフマも薄く笑う。大抵の恩寵の部族は身体強化の恩寵を持っているが、白兎族だけはそれを持っていなかった。白兎族の者は総じて体力にも体格にも恵まれず、一般の人々と比べてもひ弱なくらいである。
「私も大して強い恩寵を持っているわけではない。工夫が必要だという話はよく判る」
「それこそ俺の立場のない話だな」
ベラ=ラフマの恩寵は情報収集に画期的な威力を発揮した。「昨日までの苦労は何だったのか」とツァイドが愚痴を言いたくなるくらいである。
「この男の話は半分は法螺でもう半分は町の噂話だ。もう切り上げよう」
「どうやら何かを隠しているようだ。それが何なのかまでは判らないが」
「概ねは事実を語っていたが、この点とこの点は嘘をついていた。では何故嘘が必要だったのか? そこから別の事実が判るのではないだろうか」
大して強くないと称する恩寵でも嘘をついているかどうかは簡単に判別できるのだ。さらにはベラ=ラフマは集まった情報を分析することにも長けていた。その分析結果から次の情報収集の方針が決まっていく。これまでが暗闇の迷宮を手探りで進んでいたようなものなら、今は夜目が利いてマッピングの得意な者が仲間に加わったようなものである。ツァイドは最短距離で迷宮を走破し、敵情報の核心へとたどり着いた。
「メファゲル海賊団の幹部会が開かれます。敵の幹部を一網打尽にする絶好の機会です」
ツァイドは幹部会の急襲をアラッドに提案した。アラッドは「何故そんなことが判ったのか」と不審がるが、ラサースの口添えもあってツァイドの提案が受け入れることとなる。
そしてその夜、キュレネ市内の高級娼館を牙犬族の一団が急襲した。メファゲル海賊団も選りすぐりの護衛を連れていたが、牙犬族も恩寵を持った腕の立つ剣士ばかりを揃えている(ツァイドとラサースは例外だが)。十人程度の牙犬族が数倍の敵を圧倒した。
特に目覚ましい活躍をしたのがバルゼルだ。バルゼルはこの日が初陣で人を斬るのも初めてだったのだが、斬られた海賊達はそんなことを想像もできなかっただろう。ツァイドが剣を一振りする間にバルゼルは三回くらい振っている。ツァイドが恩寵を出し惜しみしているのに対し、バルゼルにはそんな精神的余裕はなく常に全力全開だ。結果として、バルゼルの通った後には人間の部品が散乱することとなった。バルゼル一人で敵の半数を斬り伏せているが、その中には何人もの恩寵持ちも混じっている。
「無我夢中で剣を振るっていたらいつの間にか戦いが終わっていた」
本人は後日そう語っている。
「恩寵を無駄に使いすぎだ。少しはツァイドを見習え」
アラッドにもそう叱責され、バルゼル本人としてはなかったことにしたい部類の初陣となったようである。が、周囲はそうは受け止めなかった。
「一人で敵の半分を斬ったのか。初陣でこれなら先々どこまで延びるか判らんな」
「いやはや、末恐ろしいと言うべきか」
「次代の牙犬族も安泰だ」
今回の勲一等はバルゼル、と衆目は一致したのだが、バルゼルはそれを固辞した。
「ツァイド殿の働きの方がよほど大きいではないか。ツァイド殿がいなければ我々は敵を探してまだキュレネの町をうろうろしているところなんだぞ」
だがバルゼルの主張に賛同したのはラサースくらいのものだった。
「あの男が何人斬ったと言うんだ」
それがツァイドに対する同族の評価である。それを聞いたバルゼルが怒って褒美の受け取りをボイコットし、それを取りなすためにアラッドがツァイドの功績をバルゼルに次ぐものと認める。それでようやくバルゼルも納得することとなった。
一方当事者のはずのツァイドはこの経緯を他人事として眺めているだけである。
「バルゼルがどう言おうと、俺達の働きを認めているのはバルゼルとラサースの二人だけ。もう仕方がない、牙犬族とはそういう一族なのだ」
ツァイドはベラ=ラフマと二人でささやかに祝杯を挙げていた。
「ならば、一族を離れるか? お前の腕ならどこに行っても重宝されるだろう」
ツァイドはその提案にわずかに目を見開く。
「そういうお前はどうなんだ。お前の恩寵はどこの誰にとっても垂涎の的だろうが」
ベラ=ラフマは酒をあおり「それもいいかもしれん」と呟く。だがベラ=ラフマが本当に一族を離れるとは、ツァイドには思えなかった。それが実現不可能な願望にすぎないことを二人は最初から判っているかのようだった。
ツァイドがベラ=ラフマと再会したのはそれから数年後のことである。
「一族の様子が落ち着いたのでな。見聞を広めるために旅をする。護衛として雇いたい」
ベラ=ラフマの申し出をツァイドは即座に引き受ける。ツァイドは限りなく出奔に近い形で里を出、旅路につくこととなった。
「結婚の話が進んでいたと聞くが……構わんのか?」
「気にするな。結婚してしまってはもうこんな旅はもうできなくなるだろうが」
この後ツァイドの結婚話は破談となり、ツァイドは独身のまま四〇となってしまう。ベラ=ラフマもこの先独身のままである。
「そういうお前には結婚の話は来ていないのか。族長の一族なんだろう」
「弟も妹もいる。私のように恩寵の弱い者が血を残しても仕方ない」
ツァイドは美男子というわけではないが愛嬌があって人当たりがよく、女にもよくもてた。訪れた町では必ず女を作ってその女の家に転がり込んでいる。一方のベラ=ラフマには女の影は全く見られない。ごくまれに一人で娼館に赴くくらいだった。
ベラ=ラフマが髪を黒く染めるようになったのもこの旅の中、二人がケムトの港町ジェフウトに立ち寄ったときのことである。
「白兎族と判ったら警戒されてしまう。これなら白兎族と判りはしないだろう」
と言うベラ=ラフマの向かう先は賭場である。その賭場を潰しかけるまで大儲けをしたベラ=ラフマはツァイドを引き連れて高級娼館へと向かった。その娼館を貸し切りにし、十数人もの女を侍らせて三日三晩にわたって酒池肉林の宴を謳歌する。タラント単位で儲けた金はその三日間で全て散財してしまい、手元に残っているのは数ドラクマだけだ。
「あー、腰が抜けるまでやりまくったぜ。当分女は見たくない」
ツァイドは黄色くなった太陽を見上げる。その横に立つベラ=ラフマは常と変わらぬ涼しげな様子だ。
「うむ。なかなか得難い体験だった」
その高級娼館はジェフウト随一と評判で、実際素晴らしい女が揃っていた。その十数人の美姫が王様もかくやと言うほどにかしづき、痴態の限りを尽くし、快楽の限りを極めてくるのだ。どれほど自らを律する心が強くとも、普通ならそんなものはどろどろに溶かされてしまうだろう。
「ベラ=ラフマさえいればいくらでも金が手に入る。もう一度――いや、何度だって、一生だってあの贅沢を味わえる。味わい続けることができる」
ツァイドにもそういう思いは存在する。ベラ=ラフマを説得しようという衝動が確かにある。が、ベラ=ラフマには何らの変化も見られなかった。ベラ=ラフマにとってはこの贅沢や散財は一種の実験のようで、二回も三回もやる必要はないと判断しているようだった。
ツァイドは「もう一度やろう」という言葉を辛うじて飲み込んだ。贅沢三昧を味わいたいという欲求よりもこの得難い友人に侮蔑されることの耐え難さの方がずっと大きかったのだ。ツァイドは代わりに問いを口にする。
「……何か判ったのか?」
「この恩寵の使い道だ。今回は、少なくとも金や贅沢のために使うべきではないと知ることができた」
ベラ=ラフマの言葉にツァイドは首を傾げる。
「恩寵は一族のために使うものだろう? その恩寵を使って一族のために金を稼いだりはしないのか?」
「その場合、目的はあくまで一族に貢献することだ。金を稼ぐのは手段に過ぎず、恩寵を使わずに稼げるのならその方がいいのだ。お前も知っているだろう、白兎族がどう見られているかを」
ツァイドは沈黙する。心を読む恩寵を持つ不気味な部族、忌まわしく呪われた部族――それが白兎族に対する一般的な見解である。
「一族のことを考えるならこんな恩寵は使わない方がいい。ない方がいいくらいなのだ。だが守神様は恩寵を授けてくださる。この恩寵が何のためにあるのか、私はそれが知りたい」
この旅はそれを探す旅なのだろう、とツァイドはようやく得心する。ベラ=ラフマに影響されたツァイドもまた恩寵の使い方を考えるようになった。とは言っても、烈撃の恩寵には人を斬ることしかできない。問題は誰のために、何のために斬るのか、だ。
ツァイドとベラ=ラフマの二人はナガル川を遡上し、ケムト王国の王都メン=ネフェルを訪れる。メン=ネフェルは元の世界ではメンフィスに相当する。四千年を超えるセルケト王朝が綿々と続く歴史と伝統の都、太陽神殿にとっての聖地である。
「ケムト王は太陽神殿の祭祀を担当していて政治の実権は全て手放している。ケムト王に仕えても剣を振るう機会はないだろう」
次に二人が訪れたのはハカー=アンク、元の世界ではカイロに相当する町である。宰相府を始めとするケムトの行政組織は全てこの町に揃っている。ケムトの政治と経済の中心地となっているのがこの町だ。
「宰相プタハヘテプはなかなかの名宰相だと聞いている。宰相に仕えるのは?」
「この国は平和が続いている。私達が腕を振るう機会はないのではないか?」
ベラ=ラフマの言葉にツァイドも「そうか」と頷く。二人はケムトを出、さらに東へと向かった。
……この頃のベラ=ラフマとツァイドは二十代前半。主観的には自分達の恩寵とそれを駆使する才覚に相応の自負を抱いている。が、客観的には何の実績もない、無名の若造に過ぎない。ケムト王やケムトの宰相が三顧の礼で迎えに来るような立場では決してないのだ。自分達から必死に売り込みに行って、運良く仕えることが許されたとしても相当の下っ端から始めなければならないだろう。
もちろん二人もその程度のことは理解している。だが、それと同時に夢を見てしまうのだ。もし自分達に相応しい主君に仕えることができるなら、その主君のために恩寵を最大限に使うことが許されるのなら――と。
「俺とお前が組めば一国だって傾けられるさ。違うか?」
ツァイドの壮語にベラ=ラフマは薄く笑う。だが否定はしなかった。
ツァイド達はアシューのうち地中海東岸を一巡りし、その後エラト湾まで足を伸ばした。エラト湾一帯を領有するのはエジオン=ゲベル王国で、その王弟アミール・ダールは猛将としてその名を近隣に轟かせていた。
「アシューでは戦いが続いている。新しい王国が建てられたり古い王国が潰れたりは日常茶飯事だ。俺達が成り上がる機会もあるんじゃないのか」
「だが、弱小な王国や惰弱な王に仕えても意味がないだろう。アミール・ダールくらいならば私達が仕えればアシューを制覇することも」
二人はエジオン=ゲベル王都のベレニケに長期間滞在し、アミール・ダールについて調べた。アミール・ダールに仕える意味があるかどうか、仕えるための糸口はあるか――これまで通過した町でもその国の王や実力者について同じことを調べていた。だがここまで本気で調査するのは初めてである。
「……駄目だ、この男には野心がない」
ベラ=ラフマは残念そうに首を振った。
「アミール・ダールは将軍という立場に満足していて王位には興味を持っていない。早かれ遅かれ、この男は国王に粛清されるだろう」
そうか、とツァイドも頷く。もっとも、もしアミール・ダールが野心に満ちた男であったとしても、もし仕官の糸口があったとしても、二人が本当に仕えていたかどうかはまた別問題だが。
「さて、次はどうする? 北の方に行ってみるか? それともいっそ、ミディアン半島からバラタの方に」
その提案にベラ=ラフマは首を振った。
「……里を出てもう二年だ。そろそろ戻るべきだろう」
それもそうだな、とツァイドは淡々と頷く。二人はネゲヴへの帰路に着くこととなった。
――ネゲヴには「青春」という年代区分も概念もないが、その三年足らずの旅こそが二人にとっての青春だったのだろう。隠れ里に戻ったベラ=ラフマはすっかり落ち着き、族長補佐としての役目を淡々と果たしている。
一方のツァイドは結婚話が流れたこともあり、大人になり損なったような気分を味わっていた。一族の中にツァイドの席はなく、はみ出し者扱いだ。見識の広さや情報収集能力・交渉能力等は重宝がられているがそれだけであり、一種の便利屋として一族の末端に加わることが認められている格好だ。そんなツァイドと積極的に関わろうとする者はほとんどいなかった。
「さて、今日も旅のことを聞かせてもらうぞ」
例外はラサースとバルゼルの二人くらいである。バルゼルは今日も酒瓶を片手にツァイドの元を訪れていた。
「しかしいいのか? 俺なんかと付き合っていたらお前まで白い目に」
「お主の価値も判らん連中に何を言われようと構いはせんだろう」
ツァイドは酒を飲みながら旅の出来事をおもしろおかしく語って聞かせた。バルゼルは羨望をにじませてそれを聞いている。
「やはり俺も付いていけばよかった」
「勘弁してくれ。お前を連れ出していたら追っ手がかかっている。それを振り切ったとしてももう一族に顔向けできなくなるだろう」
ツァイドの言うことはバルゼルも判っているが、それでもそう思わずにはいられないようだった。
「それだけの長旅なら、やはり強敵にも出会ったのだろうな」
「俺達はわざわざ強敵を斬りに行ったりはせんよ。そりゃもちろん死ぬかと思うような目には何度もあったが」
ツァイドは「やはりお主はそれが目的か」と笑う。ふと、バルゼルは真剣な表情をツァイドに向けた。
「なあ、ツァイドよ。俺達の恩寵は、剣祖の技は、何のためにあると思う?」
思いがけない問いにツァイドは言葉を失った。バルゼルは答えを期待していない様子で、自分で続ける。
「恩寵も剣祖の技も一族のため――そんなことは百も承知だ。だが、血反吐を吐くほどに鍛錬をし、岩をも断つほどの恩寵を授けられ……肝心の斬る相手は場末の海賊や山賊ばかりではないか。俺がこれまで積み重ねたものはこの程度の相手のためなのか?」
ツァイドはバルゼルの横顔を穴が空くほどに見つめている。ツァイドはバルゼルのことを一族の剣士の典型例であり理想像だと思っていた。斬ることが全て、そのために鍛えることが全て、そのことに何ら疑問を抱かない――だがそう見えたバルゼルは疑問も憂悶も抱いていたのだ。
「……生まれるのが三百年ほど遅かったかもな」
もし戦乱の無法時代に生まれていたなら――旅の中でベラ=ラフマとそんな与太話で盛り上がったことを思い出す。戦乱の最中なら自分達が活躍する機会も無数にあるだろう。海賊王と並ぶところまではいかずとも、歴史に名を残すくらいのことはできたかもしれない。
他者が聞けば「平和ボケの痴人の妄想だ」と笑うだろう。もちろんそれはツァイドにも判っている。二十代を過ぎ、三十代になり、自分の分際というものを否が応でも理解するようになる。バルゼルという当代最強、歴代でも最強かもしれない剣士がごく身近にいるのだからそれも当然だが。
「俺にできるのは闇討ちくらいか。どんな時代に生まれようと歴史に名を残すなど夢のまた夢だな」
バルゼルなら、戦乱の時代に生まれさえすればきっとその名を轟かせただろう。伝説の剣士としてその名を歴史書に刻み込んだかもしれない。ベラ=ラフマにしても、機会さえあれば陰謀家としての名を歴史に残す、それだけの力を持っているのだ。その二人に比べれば自分はただの凡人に過ぎない。
「ベラ=ラフマの部下として名前が残れば幸運な方か」
ツァイドは一人そんな自嘲を漏らしていた。
ツァイドとベラ=ラフマの付き合いは続いている。数年に一回、ベラ=ラフマが遠出をする際に護衛をするのはツァイドの役目だった。ツァイドが三十代半ばの頃、数年ぶりにベラ=ラフマの護衛となり共に旅をした。珍しく二人旅でなく、旅連れがいる。
「何だ、この子は?」
ベラ=ラフマは一人の幼子を連れていた。年齢は四、五歳。身体に合わない大きな外套を引きずるように身にまとい、フードの下には人形のように可愛らしい容貌を隠している。ただ、子供らしい感情を表すこともほとんどなく、その意味でもまるで人形のようだった。
「この子をルサディルまで連れていくのが今回の目的だ」
事情については道々教えてもらう。要するに、並外れた恩寵をあまりに自儘に使うために一族の中に居場所がなくなり、バール人商会に引き取ってもらうことになった、とのこと。
「子供が増長しているだけだろう? ぶん殴って矯正すればいいだけの話じゃないのか?」
ツァイドの言葉にベラ=ラフマは嘆息し、首を振った。
「もうそんな段階を通り過ぎている。このままこの者を里に置いておいても誰もが不幸になるだけなのだ」
その説明に必ずしも納得したわけではないが部外者としてそれ以上口を挟むことも自重する。ツァイドとベラ=ラフマとその連れのラズワルドの三人は船でルサディルへと向かった。
道中、ツァイドはベラ=ラフマの嘆息を嫌と言うほど理解することになる。
「その人が財布をすろうとしている」
人が充満した狭い船倉で、ラズワルドは隣り合った船客を突然指差し、そんなことを言い出した。
「こ、このガキ! 何を言い出しやがる! 何か証拠でもあるってのか!」
内心大慌てのツァイドだがラズワルドはそんなことには構わない。
「そっちの人から盗んだ財布が懐に入っている」
とラズワルドはさらに別の人間を指差す。慌てて懐を押さえるスリだが、ツァイドはその手をねじり上げた。その手から財布がこぼれ落ちる。結局そのスリは船員に突き出されることとなった。
「運がよかった。本当に財布をすっていたなら指が切り落とされていた」
ラズワルドの言葉にまた周囲が「ぎょっ」と息を飲んだ。確かにツァイドにはそれができるし、実際にやったこともある。懐に忍ばせた短刀に恩寵を流し込んでいれば、不届き者が手を入れてきたなら自動的に指がこぼれ落ちるのだ。
この騒動の後、ツァイド達の周囲には人間がいなくなっていた。船倉は狭く船客でいっぱいでありながら、ツァイド達三人の周りだけ人間がいないのだ。だが心理的にはツァイドは肩身が狭くて仕方ない。船が港に到着すると同時にツァイド達は逃げるように船を後にし、西に向かう別の船を探す羽目になっていた。
「確かにとんでもない恩寵だな」
ツァイドもため息ができるばかりだ。場所は場末の宿屋の一室。ラズワルドは二つあるうちのベッドの一つを占領し、猫のように丸くなって眠っている。その寝顔だけ見ればまるで天使そのものだ。目が覚めたなら悪魔としか言いようがなくなるのだが。
「お前のところの守神様は何を考えてこの子にこれほどの恩寵を授けたんだろうな」
ツァイドの言葉は愚痴の一種である。だがそれに対するベラ=ラフマの答えはツァイドの予想を絶していた。
「守神などいない」
「――何?」
ベラ=ラフマの言葉が聞こえなかったわけではない。理解できなかったわけでもない。だがそれでもツァイドは問い返していた。問い返さずにはいられなかった。
「一族を守護する神などいない、と言っている。恩寵を授けてくれる神などいない、と言っている」
「何……を言っているのだ。守神様がいなければどうして恩寵などがあると言うんだ」
ツァイドはベラ=ラフマが酒に悪酔いしたのかと思ってしまった。だがベラ=ラフマは素面であり正気である。あくまで真剣にそれを主張している。
「恩寵とは血に宿る力だ。それ以上でもそれ以下でもない。私がどれほどに一族に貢献しようとこの恩寵は強くならない。逆にどれだけ一族に徒なそうとこの恩寵はなくなりはしないだろう。違うか?」
ツァイドは沈黙するしかない。牙犬族の歴史の中にも、恩寵を使って一族の名を貶めた者は少なからず存在する。だが彼等の恩寵はその生命の最後まで失われることはなかったのだ。
「それではお前は太陽神や他の神々も存在しないと言うのか」
「――お前もエレブの聖杖教のことは知っているだろう」
逆に問い返されたツァイドは頷く。
「あの者達の神が実在していると思うのか?」
ツァイドは無言のまま首を横に振った。以前聖杖教のことが話題になったとき、ツァイド達はこう言って笑ったものだった。――あんな馬鹿馬鹿しい神様を信じる連中の気が知れない、エレブ人はどうかしている――と。
「エレブ人の神が存在しないと断じるならネゲヴの神々が存在するとどうして考えられるのだ。そのどちらもがただの言い伝えに過ぎないと、それを虚飾で覆い隠したものに過ぎないと考える方がよほど理屈に合っているではないか」
ツァイドは何も言い返せなかった。ベラ=ラフマの主張には確かに筋が通っている。合理的で論理的である。だが、
「お前、それを他の奴には」
「口にしたのは今回が初めてだ」
「ならば黙っていろ。俺も忘れる」
ツァイドは固い口調でそう告げる。ベラ=ラフマもまた沈黙した。これ以降、この話題が二人の口に上ることは決してなかった。一ヶ月の船旅を経て、ラズワルドはルサディルのアニード商会に引き渡され、ツァイドの護衛任務は終了する。ツァイドがベラ=ラフマと再会するのは数年後のことである。
三〇一五年アブの月(第五月)、場所はキルタ(元の世界のコンスタンティーヌ)を南に下がった山奥。ツァイドは白兎族の隠れ里の近くでベラ=ラフマと再会していた。
「面白いことになっているぞ」
ツァイドは会って早々興奮気味にベラ=ラフマに告げる。「まずはこれを読んでくれ」とツァイドはある冊子を突きつけた。冊子に記されているのは「ネゲヴの夜明け」という題名だ。
ベラ=ラフマはまず「ネゲヴの夜明け」に目を通した。次にツァイドの差し出す書簡を読み、頭痛を堪えるような顔になる。その書簡はラズワルドの記した紹介状だった。
「あの者も相変わらずのようだな……」
「いや、以前よりは大分マシになっていると思うぞ。タツヤ殿の影響は大きい」
「クロイ・タツヤか。どういう人間なのだ?」
ツァイドは待ってましたとばかりに竜也に関するあらゆることをベラ=ラフマに伝えた。マゴルであること、小説や劇の脚本を書いていること、商会連盟でエレブ人の脅威を調査する仕事をしていること、その調査の一環でエレブまで潜入したこと、自分がそれに護衛として同行したこと、等。
なお、エレブ潜入に同行していたラズワルドはツァイドの顔も名前も完全に忘れていたが、前に会ったときの年齢を考えればやむを得ないことだろう。
「エレブ人が脅威だなんだと言ったところでたかが知れていると思っていたのだが……まさかエレブがあんなことになっているとは想像もできなかった。戦争になるぞ。戦乱になるぞ。無法時代にもなかったような空前の大戦争だ」
まるで歌うようにそう訴えるツァイドにベラ=ラフマは、
「……随分浮かれているようだな。戦争になるのがそんなに嬉しいか?」
ツァイドは悪びれもせずに「ああ」と頷いた。
「お前も覚えているだろう、ケムトやアシューを旅したときのことを。仕えるべき主君を探していたあの旅を。俺はタツヤ殿こそがその主君ではないかと思っている」
「だが、その者は庶民に過ぎないのだろう?」
「今はそうだな。だが、エレブ人とは絶対に戦うことになる。タツヤ殿にはあの先見がある、エレブ人と戦うときには重要な地位を占めることになるだろう。逆に言えば、タツヤ殿がそれだけの地位を占められるよう俺達が力になるべきなのだ」
ツァイドの傾倒ぶりにベラ=ラフマは内心の驚きを隠した。その一方クロイ・タツヤという人物に興味を抱かずにはいられない。
「情報を制する者は世界を制する」
紹介状に記されていた一節である。情報を使い、エレブ人の大軍勢と戦う――その想像がベラ=ラフマの血を熱くする。柄にもない感覚にベラ=ラフマはわずかに苦笑した。
「よかろう。クロイ・タツヤに会いに行こう」
ベラ=ラフマの決断にツァイドは「当然だ」とばかりに頷いた。
こうしてベラ=ラフマはクロイ・タツヤと出会い、彼にとっての股肱の忠臣となるのである。そしてツァイドもまた竜也のためにその剣を振るうこととなる。
――その年のアダルの月(第十二月)、ツァイドは竜也の護衛としてルサディルに潜入していた。ルサディルを訪れたのは、ラズワルドを送りにやってきたときが最初でこれで二回目だ。
が、今ツァイドは護衛対象の竜也とはぐれ、町中に潜伏しているところだった。バルゼルやサフィール達ともはぐれ、完全に一人である。竜也はルサディルの町の兵士に捕まり連行されていった。すぐにでも助け出したいところだが、今は自分が捕まらないようにするので精一杯だ。
「どうやらまだ処刑されないようだな」
ツァイドはアニード邸を遠くから伺い、胸をなで下ろした。ちょうど竜也がアニード邸から別の場所へと連行されていくところである。もし竜也が即座に処刑されるなら死を覚悟して突撃するところだが、そこまで切迫しているわけでもないようだ。
竜也が町役場に隣接する牢屋に放り込まれるのを確認したツァイドは、次に自分の身の安全を図るべく動いた。適当に引っかけた娼婦と昵懇になり、その女の家の転がり込む。
「さて、一応の拠点はできたことだし、あとはタツヤ殿を奪還するだけだが」
奪還自体はそれほど難しい話ではない。牢屋に突撃して敵兵をぶった斬り、戸板を斬り開ければいいだけなのだから。だが問題はその後だ。
「俺一人なら潜伏することも逃げ回ることも容易い。だがタツヤ殿を連れては……タツヤ殿には三日だけ我慢してもらおう。船団が戻ってくるのが九日、タツヤ殿を解放するのはその日だ」
その時点では決しておかしな判断をしたわけではない。だがツァイドは自分の判断を心底悔やむことになる。
ツァイドは数時間置きに竜也の様子を確認する一方、バルゼル達の姿を探して回った。
「一体どこに潜伏しているんだ。ハンジャルの伝手の誰かのところか、それとも町の外にでも逃げたのか」
ハンジャルはこの町出身の牙犬族剣士である。後で聞いた話ではバルゼル達の潜伏先はハンジャルの知り合いの元だったそうだ。ラズワルドがバルゼル達とはぐれているとはツァイドは予想だにしていない。
何の成果も得られないまま三日間が過ぎ、そしてアダルの月の九日。
その日もツァイドはバルゼル達の姿を探して町を歩き回っていた。特に当てや手がかりもない捜索なのでただ町をぶらぶら歩いているだけである。カムフラージュに娼婦の女を同行させているので、端から見れば単なる散歩にしか見えなかっただろう。
「……何だ? 何かあったのか?」
「行ってみましょうか」
町外れの方角から何かの騒ぎの声が聞こえてくる。ツァイドはその方向へと足を伸ばした。少し歩くとその方向から誰かが必死に走ってくるのが見える。大勢の人間がその方向から逃げてきている。ツァイドは逃げてきた男を強引に捕まえ、訊ねた。
「どうした? 何があった?」
「エレブ兵だ! エレブ兵が攻めてきた!」
どういうことだ?とツァイドは首をかしげた。
「聖槌軍の到着は明日だろう? 到着するのは将軍タンクレードの兵じゃないのか? それがどうして攻撃を」
「そんなこと知るか! エレブ兵が手当たり次第町の人間を殺しているのは間違いないんだ!」
男はツァイドの腕を振り払って逃げていく。ツァイドは少し考えていたが、エレブ兵がいると見られる方向へと向かって走り出した。娼婦の女が何故かツァイドについてくる。ツァイドは「逃げていろ」と命じたが女はそれを無視した。五スタディアも走った頃、ツァイドはそこにエレブ兵の姿を見出した。
エレブ兵が男を殺している。エレブ兵が女を強姦している。エレブ兵が商店を襲って金品を略奪している。エレブ兵は洪水のような勢いで増えており、町の四方へと入っていく。エレブ兵のいる場所からは悲鳴が、罵声が、断末魔が響いている。それが急速に広がっている。
「一体何が……」
想像を絶する事態にツァイドは呆然とするしかない。そのツァイドにもエレブ兵が接近していた。何人ものエレブ兵が剣を振りかざしてツァイドに襲いかかる。呆然としながらもツァイドは条件反射だけで彼等の首を斬り裂いていた。喉を、頸動脈を断ち切られ、血を吹き出しながらエレブ兵が崩れ落ちる。
「いやぁーっ!」
娼婦の女がエレブ兵に襲われる。女は太腿を剣で斬られた上で地面に押し倒され、エレブ兵にのしかかられていた。ツァイドはそのエレブ兵の心臓を背後から一突きし、足で蹴ってエレブ兵の身体を女の上からどかした。女は苦痛と恐怖に涙をあふれさせている。
「たすけて……たすけて」
必死に腕を伸ばす女にツァイドは優しく笑いかけた。
「判っている」
女が安堵したように頬を緩めたその瞬間――女の首は胴体から離れていた。首を断ち切られても女はまだ笑っている。女にはツァイドの剣が一閃したことを察知できなかっただろう。自分が死んだこともまだ理解していないかのようだった。
「すまんな。俺にできるのは楽に死なせてやることくらいだったんだ」
ツァイドが全力を費やせば、負傷した女を抱えて逃げることもあるいは不可能ではないかもしれなかった。だがツァイドには成すべきことがある。重荷を抱えているわけにはいかないのだ。ツァイドは自分の成すべきことを成すため、振り返りもせず走り出した。
ルサディルの町はすでにエレブ兵であふれかえっていた。その地区では住民の大半がすでに逃げているようで、エレブ兵の姿しか見あたらない。たまに逃げ遅れた人間が襲われているのが見られるくらいである。ツァイドはエレブ兵に見つからないことを最優先として町を進んだ。物陰に隠れ、植え込みに逃げ込み、屋根に上り、慎重に歩を進める。それでもエレブ兵に見つかることがあり、そんなときは、
「運が悪かったな」
とため息をついた。その間にエレブ兵は首の頸動脈を切られて死んでいる。そうやって、何人かのエレブ兵を始末しつつ一〇スタディア弱を進み、ツァイドはようやく町役場にやってきた。ツァイドは脇目もふらずに牢屋へと向かう。
「タツヤ殿!」
だが竜也の入っていた牢獄はすでに空っぽになっていた。ツァイドは焦り、逆上するが、必死になって「冷静になれ、冷静に」と自分に言い聞かせた。
「タツヤ殿の姿がない、もうここからは逃げ出しているということだ。鍵を使って開けられているということは、バルゼル達が助け出したわけではない、ということか」
ツァイドは牢屋を出、東へと向かった。牢屋を逃げ出した竜也がどこへ向かうか、町を出て髑髏船団の船と合流しようとするに決まっている。運が良ければ逃げる途中の竜也を見つけることもあるだろう。
ツァイドは今度は速度優先で町を突き進んだ。ツァイドの前にエレブ兵が立ちはだかるが、ツァイドは無造作に剣を振り回して彼等を切り裂いていく。
「こうやって俺が目立っていればその分タツヤ殿が目立たなくなる。タツヤ殿が助かる可能性が高くなる。それにタツヤ殿が俺を見つけてくれるかもしれない」
ツァイドの得意技はあくまで隠密行動だ。剣士としては二流でしかないツァイドにとってそれは死をも覚悟しての陽動だった。だが、それでもツァイドは笑っていた。
「邪魔だ!」
不用意に前に出てきたエレブ兵の横を駆け抜け、置き土産にその脇腹を切り裂く。エレブ兵は粗末な革の鎧を身にしていたが、烈撃の恩寵の前ではそんなものは絹の服と変わらない。そのエレブ兵の腹からは腸がはみ出て、エレブ兵は子供のように泣きわめいた。
その気になればツァイドはエレブ兵を大根のように横に真っ二つにできるが、体力と同じで恩寵には限りがある。ツァイドは恩寵の消耗を極力抑えるため最小限の斬撃で効率よく敵の無力化を図った。ツァイドが狙うのは敵兵の手首、喉、目である。手首や喉を斬られたエレブ兵が血を撒き散らし、目を斬られたエレブ兵が悲鳴を上げて転げ回り、その周囲のエレブ兵が動揺する。一人のエレブ兵を斬るたびに五人のエレブ兵が追跡の足を止め、五人のエレブ兵がツァイドの前から退いた。
だがどれだけエレブ兵を斬り、怯ませても、後から後から新たなエレブ兵が湧いてくる。エレブ兵の数には際限がないように思われた。
「くそ、さすがに疲れたな」
恩寵と体力を消耗したツァイドは民家の屋根へと上って敵をやり過ごした。屋根から屋根へと伝って二、三スタディア進んだところで、
「――」
ツァイドは部屋に伏せて身を隠し、様子をうかがった。ツァイドの視線の先にはバルゼルがいる。サフィールがいる。ハンジャル、ピギヨン、サキン、ハッドが、ルサディルに潜入した牙犬族の剣士がそろっていた。だが竜也とラズワルドの姿が見当たらない。
「二人を町の外に逃がして剣士だけが残っているのか」
最初はそう考えたツァイドだが、すぐにそれが間違いだと気がついた。もし竜也達が合流しているなら最低でもサフィールはその護衛についているはずだ。
だがサフィールは六人の先頭に立って剣を振るっている。六人のうち誰よりも怒りに満ち、冷静さを失っているように見えた。
「シッ!」
サフィールの剣閃はツァイドの目ですら追うのが困難だ。エレブ兵の目には到底見えはしなかっただろう。見えない剣撃が烈風のようにエレブ兵を、その目を、その喉を、その手首を切り裂いていく。両目を裂かれたエレブ兵は悲鳴を上げて地面を転げ回っている。喉を裂かれたエレブ兵はあえぐようにくり返し口を開き、ゆっくりと倒れた。手首を裂かれたエレブ兵は剣を取り落とし、左手で右手首を押さえている。だがあふれる血は止まろうとしなかった。
サフィールは威圧するようにゆっくりと前に進み、エレブ兵はそれに押されて後ろに下がった。意を決した五人のエレブ兵がサフィールを包囲し、同時に斬りかかる。中心にいたサフィールが切り刻まれ――いや、そこにいたのはサフィールではない。サフィールを包囲していたはずのエレブ兵の一人である。同士討ちに動揺するエレブ兵がようやくサフィールの姿を見出す。だが次の瞬間にはサフィールの身体が陽炎のように揺らめき、気がつけば身体のどこかを斬られているのだ。
サフィールから少し離れた場所ではバルゼルが同じようにゆっくりと歩いている。エレブ兵の目には無防備なまま歩いているようにしか見えなかっただろう。数人がかりなら殺せるように見えただろう。だが、そう思って行動したエレブ兵は一人残らず大地に伏していた。バルゼルの無造作にふるっているようにしか思えない剣が、エレブ兵の目を、喉を、手首を、腹を切り裂いていく。
サフィールはその恩寵を、そのほぼ全てを「速さ」に費やしていた。烈撃に使っている恩寵は申し訳程度、必要最小限だ。誰よりも恵まれた恩寵のほとんどを身体強化に使用し、剣閃の速度を、動きの速さを常人の数倍まで引き上げている。このためエレブ兵の目にはバルゼルよりもサフィールの方が化け物じみて見えただろう。
だがツァイドの目から見ればバルゼルの方がよほどの化け物だった。バルゼルに立ち向かった勇敢な、だが愚かなエレブ兵は「順番に一人ずつ」「自分から急所をさらして」「進んで斬られに向かっている」――ツァイドの目から見てもそんな風にしか見えないのだ。
「剣祖から三〇〇年、これほどの剣の使い手がいただろうか」
バルゼルのことを誰よりも高く評価しているつもりだったツァイドだが、その認識は改めなければならなかった。ツァイドはバルゼルの真の実力など判ってはいなかったのだから。
できればこのまま剣舞のような二人の戦いぶりを見ていたかったのだが、そういうわけにもいかなかった。エレブ兵の弓兵部隊と火縄銃部隊がバルゼル達の方へと急行している。それがツァイドのいる場所から見えていた。
「おっと、いかんな」
ツァイドは屋根を伝って移動した。
一方駆けつけた弓兵部隊と火縄銃部隊は弓と銃口をそろえ、バルゼル達に狙いを定めている。指揮官の騎士が手を振り上げ、一斉攻撃の命令を下さんとするまさにその瞬間、
「よう、邪魔をするぞ」
不意に彼等の眼前にツァイドが現れた。騎士の手が固まった次の瞬間にはツァイドは敵兵の真っ直中へと飛び込んでいた。両手に長剣を持ったツァイドが舞うように剣を振り回す。嵐のような剣閃がエレブ兵を襲い、血の雨が降った。
「撃て! 撃て!」
騎士が必死に命じ、兵がそれに応じるがそのときにはすでにツァイドはその場にはいない。また別の場所で血煙が上がり、血飛沫が舞っているのだ。パニックに陥ったエレブ兵がでたらめに火縄銃を撃ち、矢を放つ。そのほとんどが同じエレブ兵を穿ち、あるいはその生命を奪っていた。ツァイドが斬った兵よりも同士討ちで負傷した兵の方がずっと多いくらいである。だがツァイドもまた無傷とはいかなかった。太腿には矢が刺さり、腕には銃弾がめり込んでいる。
「ツァイド殿!」
だがその頃にはサフィールやバルゼルが接近していて、残っていた敵を掃討するのだ。運良く生き残ったエレブ兵は銃や弓を放り捨てて逃げていった。
「タツヤ殿は一緒じゃないのですか?」
サフィールの問いにツァイドは首を横に振った。
「囚われていた牢屋に行ったのだが、そこからはすでに逃げ出していた」
サフィールは絶望に膝を屈しそうになる。が、何とか踏みとどまった。
「待て、どこへ行く」
ツァイドの横を通り抜けて町中へと、敵の方へと向かおうとするサフィールと、そのサフィールの腕をつかむツァイド。サフィールは煩わしげにツァイドの腕を振り払った。
「タツヤ殿を……タツヤ殿を見つけなければ」
「落ち着け。多分タツヤ殿はどこかに隠れている。夜になるのを待っている。闇雲に探し回ったところで見つかりはしない」
サフィールは牙をむいてツァイドをにらみつけた。
「そんなこと、どうして判るのです」
「俺がタツヤ殿ならそうするからだ。これ以上戦うのは難しいだろう、一旦町の外に逃げるべきだ」
ツァイドは剣士達を見回した。ハンジャル達四人は手傷を負っている。サフィールとバルゼルは無傷だが疲労の様子が色濃かった。ハンジャル達はツァイドと同意見のようで、バルゼルの考えは読めない。サフィールは、
「どうぞご随意に。わたしは一人でもタツヤ殿を探します」
背を向けるサフィールの腕をツァイドは再度掴む。それを振り払おうとするサフィールだが、今度は振り払われはしなかった。
「落ち着け! タツヤ殿を信じろ!」
「何を信じろというのですか! あの方はわたし達がいなければ……!」
「タツヤ殿がここで死ぬならそれまでの人だったということだ」
サフィールはエレブ兵が即座に逃げ出すほどの殺気をあふれさせ、今にも剣を抜きそうになった。そのサフィールにツァイドが「だが」と続ける。
「もしタツヤ殿が、我等一族が忠義を尽くすに値する方なら――こんなところで死にはせん。俺はそう信じている」
ツァイドの力強い言葉にサフィールは毒気を抜かれたような顔をした。ツァイドがバルゼルに視線を向け、バルゼルが頷く。
「――一旦町の外に逃げる」
バルゼルがそう決断を下し、一同が頷く。サフィールは少し遅れてだが、無言のまま頷いた。
……バルゼル達にとっては敵に正面から立ち向かうよりも逃げる方がより困難な戦いとなった。恩寵はほとんど使い果たし、体力もろくに残っていない。あるときは逃げ遅れた者を見捨て、あるときは味方を逃すために一人が犠牲になった。かろうじて生き残った一人も、
「エレブ兵を一人でも多く地獄に送ってやる」
とソウラ川を渡ることを是とせず、その場にとどまった。ソウラ川を渡って落ち延びたのはツァイド・バルゼル・サフィールの三人だけである。ツァイド達が生き延びた竜也とラズワルドと再会するのは翌一〇日のことだった。
――この日、ルサディル攻撃に参加したエレブ兵の総数は二万と三万とも言われているが、そのうち七人の牙犬族剣士が斬った数はどんなに多くても五百人ほど。しかも七人のうち四人が犠牲になっている。このためバルゼルやツァイドはこの戦闘を、
「敵に一矢報いた」
くらいにしか考えていなかった。実際、聖槌軍全体から見ればこの戦闘による物理的被害は無視していい範囲のものである。だがその心理的被害と影響はツァイド達の想像を超えて広がった。
……時刻は夕刻、ツァイドはスキラの町並みを丘の上から、丘の上にある家の窓から眺めていた。丘の上からはスキラの町が一望できた。夕日の赤に染まった町は美しかった。だが見ようによっては血の海に沈んでいるかのようであり、あるいは炎の海に包まれているかのようでもある。
今はまだ平和と平穏が続くスキラの町だが、ここがルサディルのように惨劇の舞台となる日はそう遠くはなかった。長くても三ヶ月もあれば聖槌軍がこの町に到着するのだ。
「戦争だ、戦乱だ、百万の敵と戦う空前の大戦争だ」
ツァイドは血が沸き立つのを、胸の高鳴りを静かに抑えていた。敵の先鋒と遭遇し、手傷を負わされてもツァイドの戦意は失われはしなかった。が、それと同時にルサディルの惨劇を目の当たりにしてもツァイドにとってそれは他人事に過ぎなかった。ツァイドにとってこの戦争は自分の才覚を世に示す舞台に過ぎないのだから。
「ベラ=ラフマよ、我が友よ。俺を使え、俺に命じるがいい。エレブ人だろうとネゲヴ人だろうと、お前の命じるままに俺が斬る。お前の陰謀に俺が形を与えてやる。お前が画家なら俺は絵筆だ。俺はそれでいい」
画家の名前が歴史に残っても絵筆の名前が残ることはないだろう。それはツァイドも理解している。その上でツァイドは絵筆であることを是としたのだ。
「お前はどんな絵を歴史に残すのだ? その絵を最初に俺に見せてくれ、我が友よ」
ベラ=ラフマはこの戦乱をキャンバスとし、陰謀という素晴らしい絵を描いてくれることだろう。自分という絵筆を縦横に使ってくれることだろう。ツァイドはそれを確信していた。
《お知らせ》
投稿が追いついてストックが乏しくなってきたため、しばらくの間更新を休止します。
週一ペースでは間隔が空き過ぎだったとか、改訂版というのがそもそも評価されないものだったとか、幕間を連投しすぎたとか、色々と判断ミスもありまして、読者からの評価が乏しくなる一方です。モチベーションを維持するのも難しくなっています。
ですが、一旦始めた以上は最後まで改訂したいと思います。そこで、最後まで改訂が終わってから一気に投稿することにしました。年内の更新再開を目標に努力しますので、それまでお待ちください。